むせ返るほどの血の匂いを、覚えている。
























  

買出しに行った隣の村から、ようやく帰ってきたのはもう日暮れ近い頃だった。  
隣とは言っても、子供の足で行き来するにはずいぶんと遠い。
どんなに急いでも片道で半日はかかる。
今までもが用事で出かけることはあったにはあったが、1日丸々家を空けることはこれが初めてだった。
  
今頃、母が弟をあやしながら夕食の準備をしている頃だろう。
帰りが遅いので心配しているかも知れない。
何とか日が落ちる前に村へ帰ろう、とは悪路に苦戦しながら家路を急いだ。


  

だが、帰る村などは、もうどこにもなかった。
    



記憶にある故郷の姿とまるで違う光景にしばし言葉を失い、ただ立ち尽くす。
あちこちで火の手が上がり、耳を塞ぎたくなるような悲鳴があたり一面に響き渡っていた。
今朝と同じ集落とは思えぬこの荒廃ぶりはどうだろう。      

は手にしていた遣いの品を全て放り出し、家族が待っている家へと転がるように走り出した。

足が、もつれる。

大きな道を通ることに危険を感じ、地元の者しか使わない細い近道をよろけながら突っ切った。
流れる汗をそのままに、裏口の扉を力いっぱい叩き開く。


  
「母上!」


  
返事はなく、放った声だけがむなしく家の中でこだまするばかり。  
紙面が散乱し、椅子が倒れ、卓は転がっている。
形あるものは全て粉々に砕かれ、何もかもが荒れ果てていた。
  
ただ呆然と家の中を彷徨っていると、何かが煮え立っているような音に引かれ、はすぐさま台所へ向かった。
放置された鍋が火の上でグラグラと沸騰している。
炎を消そうと、一歩前に踏み出したはそのまま凍りついた。



母は変わり果てた姿で、静かに横たわっていた。  
冷たい床の上を這うように、血が広がっている。
  
  
  
(これは誰の血だろう)



はよろよろと母へ近付き、震える指先で頬に触れた。
  
冷たい。
ひどく冷たい。
  
人形のように。

  

(死んでいるのだ)



  
なぜ、

どうして、


今朝見送ってくれた時は、手を振りながら笑っていたではないか。
  

無意識に息が荒くなった。  
呼吸をするのも、ひどく苦しい。 
  
  
うつ伏せになった母の体の下からそっと覗く、白い影


――― それは  弟の腕  だった


母は背中から袈裟懸けに斬られている。 
おそらく弟を抱えて逃げるところを、背後から襲われたのだろう。   
すがるように弟の白い腕を握り締めたが、すでにこときれていた。

  
小さな弟。

小さな 小さな 言葉を覚えたばかりの弟。


自分より後に生まれ、すくすくと成長することを約束されていたであろう弟がこんな風に逝ってしまうなんて、には信じられなかった。
祈っているのか呪っているのか、頭の中で「かみさま、かみさま」と不確かな言葉がグルグルとめまぐるしく回り続ける。
夕暮れの空の下、少しずつ光を失った家の中はだんだんと影が差し始め、同時にの意識も薄暗くなっていった。
力の入らない足をどうにか動かし、のろのろと表の玄関へ向かった。体が鉛のように重い。

掃除好きな母がいつも綺麗に整えていた玄関は見るも無残なものだった。    
花瓶が、飾られていた花もろとも砕け散り、大きな正面の扉は蹴破られたような跡があった。

崩れかけた扉の向こうには、



「        
ち ち う え 、  」



返事が返って来ることはないと分かってはいたが、思わず口から漏れていた。
  
何度も斬りつけられた刀傷。
体を貫く弓矢。    
父は、家を守るように膝をついたまま死んでいた。
  
命が尽きてもなお手には剣が握られており、周りを幾つもの死体が転がっている。
死するその直前まで、抗い続けていたのだろう。


女の子でも強くなくては、と剣の道を教えてくれたのは父だった。
指導は厳しく甘いものではなかったが、それでも嬉しかった。
父に怒られることも褒められることも、すべて嬉しかった。

自分と同じ黒い瞳で、まっすぐに生きることを教えてくれた父。



もう、その目の色を見ることも叶わない。



「なんだ?まだガキが生きてたのか」

呆然と立ち尽くしていると、3人の盗賊らしき男がの周りを取り囲んでいた。
    
「あとあと面倒だからよ、殺っちまった方がいいな」

虫ケラを潰すような慈悲のかけらもない目がを見下ろしている。
どの目玉もひどく濁っていた。
こんな汚いものは見たことがないと思った。  

「恨むなよ、今家族と同じところに送ってや・・・」

はじける様に飛び散る鮮血と、ボタリと足元に転がる男の首。
気付けば、父の手にあった剣を握り締めていた。


「おい!ちょっ・・・」
「こいつ・・!」


残された男2人何か言っていたようだが、もう耳には届かない。
躊躇なく、そのまま斬りつけた。ただ無我夢中で。
ためらいも、恐怖も、人を斬る感触も、何も存在せず、何も感じなかった。
  
ただ自分の心臓の音だけが、耳の奥の奥まで貫くように響く。

男達の息の根をすべて止め、立っているのが自分だけになると急に剣がズシリと重くなった。
父の剣は長く、小さな体では扱いにくい。
先ほどまでは感じなかった武器の重みが、今頃になっての手を支配した。
ふと感じたヌルリとした感触に肩で呼吸をしながら頬を拭うと、鮮やかなまでの赤。
自分のものではない。返り血を浴びたのだ。
  
  

生暖かくて、吐き気がした。


  
ああ 遠くから聞こえるのは 風の音でもなく 子供たちの声でもなく

盗賊の下卑た笑いと怒号だけ


は体に血を纏ったまま、村から飛び出した。
唯一の遺品である刀を抱え、狂ったように必死で逃げた。
    
どこを目指しているわけでもない。
逃げ場など、どこにもあるはずがない。
それでもは目に焼きつくほどの夕暮れの中、どこまでも走った。


母が笑う姿はもう見られない。
父の優しい声はもう聞こえない。
弟の小さな手は、もう、自分の手を握ることはない。

小さかったのに。

あんなに幼かったのに。

あの手のひらは、小さいままで止まってしまった。



(もう、昨日の続きはやって来ない)
  
  


  
溢れた涙はすべて、強い風に流されていった。