ずいぶんとまあ風通しのいいこと。

事務仕事で凝り固まった肩を回しながら、凌統は広々とした鍛錬場を物珍しそうに眺めた。
普段であれば、休憩がてらやってきた将が暑苦しいほど密集して空気を薄めている時間帯だというのに、今日はやけに閑散としている。
空間を貸し切り、ど真ん中で刃を合わせているのは寡黙な長身の男と、同じく寡黙で小柄な少女。それを木に寄りかかったまま見守る武将が一人。

「静かなもんですね、気味が悪いくらいだ」

隣に腰を下ろすと、呂蒙は前を向いたまま相槌を打った。

「まあな……俺が来た時はそこそこ騒がしかったんだが、さっき突然大殿が現れてこうなった」
「孫堅様が?どうしたんです」
「狩りだ、狩り。暇を持て余してた奴はみんなお供に引っ張られていった」

またか。凌統は小さく溜息を吐いた。
ついこの間も未開の地へ踏み込んで巨大アナコンダに噛まれてきたばかりではないか。
国のためにも付き合わされる家臣の為にも、少しくらい臆病になってもらいたい。あの勇敢さは長所でもあり、また国家を揺るがすほどのマイナスでもある。
実際、この孫呉は彼のおかげで何度も揺れている。

「今度は獲物はなんです」
「……ツチノコだそうだ」

旅立った孫堅ご一行の帰還は、相当先の話になりそうである。
再び死亡説が流れてしまう前に戻ってきて欲しいと切に願った。

「呂蒙殿は連行されなかったんで」
「午後から周瑜殿と打ち合わせが控えてるんでな」

丁重にお断りしたと呟き、彼は疲れきった重そうな瞼を下ろした。
常日頃から疲労感をにじませている呂蒙ではあるが、特にここ最近は夜もろくに眠れぬほどの慌しさに追われているようで、どす黒いクマが彼の目を囲んでいる。
ならばこんな場所でぼんやりしてないで少し寝てはどうかと言ったのだが、下手な仮眠をとると起きられんと呂蒙は首を振った。

「それに言うほど疲れてはいない。むしろ体が軽い」

ふ、と短く笑った彼の表情は確かに明るい。
2日前に賊の討伐へ出向いた陸遜は「留守中、私の雑務は全て呂蒙殿に」という呪文で更に呂蒙を仕事地獄に落としていったが、同時に解放感という最上の安らぎをもたらしたようだった。
不在というだけで、過労死まであと一歩といった肉体的疲労をチャラするだけの力を与えるのだから、つくづく陸遜という男は恐ろしい存在である。

途切れ途切れに聞こえていた金属音はいつの間にか止んでおり、大きいのと小さいのが向き合いながら得物を鞘へ納めていた。
それぞれ額にうっすらと汗がにじんでいる。
増えた見物人の存在に気付いたようで、小さな方がこちらにむかって軽く一礼をした。

「珍しいねえ、あのお方があいつを連れて行かないなんて」

あの騒動以来、ずいぶんと孫堅はを可愛がっている。
何を言ってもあの小さな頭でこくりこくりと頷く素直さがよほどお気に召したらしい。
ことあるごとに呼び寄せては赤子のように抱き上げたり、珍しい菓子を与えたりしている。四人目の子供ができたつもりでいるのかも知れない。
倍以上の身の丈の剣士に力強く汗を拭われ、ふらふらと揺れている君主のお気に入りを見つめながら呂蒙は「いや、」と頭をかいた。

「最初は当然とばかりに狩りの一団に加えられてたんだが、どう考えても危険な旅だからな。大殿には諦めて戴いた」
「どうやって」
「甘寧がどうしてもお供をしたいと申しております、と」
「あれもたまには役立つもんですね」

城に戻った時の姿がそこになければ、陸遜はそれこそ烈火のごとく怒り狂うだろう。そしてその怒りの矛先は大抵手近な者たち(要するに城内の武将)に向けられるのだから堪らない。
孫堅が陸遜に報告もなく釣りがてらの海賊退治に連れ出したおかげで、城の一部が焼け落ちるまでの騒ぎになったのはつい先日のことである。どうして貴方たちがいながら防げなかったんですかこの役立たずがという罵倒とともに飛んできたおびただしい数の火矢の恐怖は忘れがたい。
江東の虎と火の鳥、本気でやったらどっちが強いんですかね。焼け跡を修復していた兵士がぼそりと呟いていたが、冗談でも考えたくないことだ。
を救うべく捧げられた人身御供は結果として国全体をも守り抜いたことになり、奴にしては上出来だと凌統は珍しく仇敵の働きを讃えたい気分になった。

「さてと、そろそろ行かんとな」

わずかに傾いた太陽を見上げた呂蒙は立ち上がり、腰の土を払い落とした。
みしみしがたがたばきり。
大きく伸ばした体から奏でられる音は人体が発するものとは思えぬほど凄まじい。
じゃあなと笑った顔は元気そうに見えたが、槍を杖代わりにして歩いてゆく後姿はあまりに痛々しかった。凌統は今夜こそ眠った方がいいですよ、と背中へ声を放ったが、もう彼の耳には届いていないようで振り向くことなくズルズルと体を引きずりながらゆっくり城の中へ消えていった。

過労の戦士が去ると、木陰には静けさが舞い降りた。
呂蒙がとりたてておしゃべりというわけではないのだが、同じく木陰で休んでいる呉きっての無言組に比べれば遥かに賑やかな存在だ。少なくとも会話のキャッチボールが出来る。向こうから投げてくれる場合もあるし、こちらから投げれば確実に返って来る。
しかし隣の2人ではキャッチボールを続けるのは難しいだろう。自分の頑張り次第では少しくらい続けられるかも知れないが、壁打ちのような寂しさに挫けるような気がしてしまう。そもそも向こうからボールが飛んでくることが滅多にない。投げっぱなしである。それではいつか必ず肩が悲鳴を上げる。
広がり続ける静寂の中、足を組み直しながら横目で見ると、木に寄りかかりながらが何かしきりに頷いていた。それに応える様に周泰もゆっくりと大きく頷き返している。
言葉を交わしている様子はない。耳をそばだてても聞こえてくるのは時折流れる風の音くらいで、それにはどちらの声も混じっていなかった。だが確実に意思の疎通は成立している。なんなんだ。テレパスか。目で会話ができるのか。お前たちには言葉は要らないのか。
発達した未知の力への驚異とほのかな疎外感。その両方を肌で感じつつなんとも言えない気分に陥っていたその時、一人の兵士がこちらを目指して駆けてきた。

「ご休息のところ失礼致します。孫権様が城下に出向かれるとのことです」

主が外出となれば、お付の護衛としてお供しないわけにはいかない。
返答代わりにすぐさま立ち上がった周泰は、木の影でちんまりと座っているの頭を撫でる様に叩いた。
慈しむような触れ方だった。
彼流の別れの挨拶に、座ったまま見上げたは小さく頷いた。
それは絆の強さを思わせる親密なやり取りだったが、お互いがやけに無表情な為、恋人同士の甘やかな繋がりというより宇宙生物同士の交信という印象だった。なんだかわからないが、深い。

黒いマントを翻し寡黙な男が寡黙なまま立ち去って、木陰はますます静かになった。
凌統もも、口を開くこともなくその場を去るでもなくぼんやりと座り込んでいた。
状況としてはさっきと変わらないはずなのに、感じる沈黙は今の方が断然重い。落ち着かない。
心身ともにリラックスしようと必死で務めるが、その必死さがリラックスを遠のかせ、抜ける場所を失った緊張が体の中を這い回っていた。
何故こうもそわそわするのかと考えてすぐに気がついた。
こうしてと2人きりになるのは、これが初めてだったからだ。

うっかりすれば踏み潰してしまいそうな小さな体が庇護欲をそそるのか、それとも静かながら爛々と輝く生命力に満ちた眼に引き寄せられるのか。
社交的とは口が裂けても言えぬ性質でありながら、なぜかの側にはいつも誰かしらの姿があった。
保護者とも言える立場の陸遜が護衛のごとき厳重さで寄り添っているのが常だったが、時にはそれにシスコン気味の兄のような眼差しで見守る呂蒙と甘寧が加わっていたり、二喬などのおなご連中に囲まれ尚香に力一杯抱き潰されている場合も少なくない。とにかく賑やかだ。とはいっても勝手に集まって騒いでいるのはいつも周りの方で、当の本人はほとんど黙ったまま、それでも心地良さそうに喧騒の中に佇んでいた。
もちろんその輪の中に時たま凌統も加わっている。
決して多くはないけれど、と言葉を交わすことだってあった。会話ともよべないささいなやり取りばかりだが、どんなにたわいない問いなれど、彼女は聞き流したりせずに誠実に答える。それが彼女の魅力なのだろうが、本音を遠ざけて生きている凌統には少しばかり眩しすぎた。
一体、この磨かれた黒い目に自分はどう映っているのだろう。

風が凪いでいるせいで、横たわる雲の流れは遅い。
瞳を閉じても開けても変わらぬ空の景色は大らかだが、見上げる凌統を突き放しているかにも見える。
求めているつもりはもとよりなかったが、天からの救いは得られないという当然の事実を改めて悟る。
苦しいわけでもないし、不快に感じているわけでもない。
ただ、2人で同じ空間を共有するという青臭い難しさにぶつかっているだけだ。
面倒だと思うなら、いつものようにさっさと立ち去ればよい。
さて、そろそろ俺も行くかな。
そう言って鼻歌でも奏でながら、腰を上げれば済む話だ。
だが、どうしてかその選択肢はいつまでたっても降って来ない。いや降って来ても、すぐさま自ら叩き落してしまうのだ。
形にならない緊張感から逃れようと、乾いた手の平で強張った頬をパチンと叩いた。痛みとも痒みともいえない刺激がゆっくりと脳へと昇ってゆく。

なにを焦ってるんだか。
凌統は情けない笑みを浮かべ、組んでいた足を投げ出した。
視界の隅では、座ったままのが難しい顔。
両腕を後ろへと伸ばし、零れ落ちる黒髪相手に格闘していた。
ここへ来た当時、不ぞろいさを見かねた女官に切りそろえられた髪はもうずいぶんと伸びていた。
世間一般の女性としてはまだまだ足りず少年のような風貌であることには変わりはないが、それでも白い首筋が覆われてしまう程度には長くなった。
本人の性格どおり真っ直ぐと伸びた黒髪は、葉の間から落ちる日の光を受けて艶やかに輝いている。
しかし、その中途半端な長さゆえか、はたまた本人が不慣れなせいか、一向に髪の束はまとまる気配を見せない。
もがく、といった表現がぴったりな指の動きに合わせ、無情にも髪はどんどんと滑り落ちてゆく。
針仕事は上手いというから不器用というわけではないようだが、どうも自分の髪の扱いは苦手らしい。

「……結ってやろうか」

驚いた。
自分の言動にではなく、の反応の方に、だ。
ぱちくりと目を瞬かせたり静かに頷くのは予想の範囲だったが、ホッとしたような表情が来るとは思わなかった。もちろん困っていたようだったから、解決することに対しての安心なのだということはわかっているのだが、それでもそういう風に信頼を見せてもらえるとは考えてなかったので、ちょっと吃驚した。櫛を渡された手が少し震えた。

初めて触れるの髪はしんなりと柔らかで、細かった。
なにがどう記憶に呼応するのはわからないが、櫛が通るたびに懐かしいような気持ちがこみ上げた。
髪をすくい上げると、当たり前だが白いうなじが現れて、思わず動揺する。
が、すぐに着物の襟から伸びている傷の存在へ目が行った。
背中に続いているであろうそれは、古いものだが相当深い。傷が塞がるまで幾日も寝込み、高熱にうかされたことだろう。
逃げる途中で斬られたか、それとも突然背後を襲われたか。いずれにせよ、刀傷であることに違いはない。
これまで辿ってきた道が決してなだらかなものではなかったのだと、今更ながら思い知る。
同時にまだこの背中は子供なのだということに気付いて、指がしびれるように痛んだ。

「しばらく陸遜に会えなくて寂しいかい」

会話の糸口を拾おうと、出した名前はあまり愉快なものではなかった。
しかし他に話題が思いつかないこの状況では、頼らざる得ない。

「………少し」

小さな頭はかすかに動いた。

「ま、あっという間に帰ってくるさ」

あまり早く戻ってこられては困るのだが、垂れている頭がしゅんとしているように見えて、ついそんなことを口走ってしまった。
はい、とはしっかり答えた。
その声には疑いの色など微塵も含まれておらず、鈴がなるように綺麗な音色で胸へと響いた。
くるくると紐をねじまわし、固く結びつける。華やかな簪も髪飾りもない簡素さを寂しく思い、せめて結び目だけでもと蝶々に結んだ。
後ろまでたどり着けなかった幾本かの髪が耳の辺りまでこぼれてしまったが、どうにか一つにまとめる事が出来た。

「ほら完成だ」

さすがに鏡は持ち合わせていなかったので、近くの池を2人で覗き込んだ。
もともとの長さが長さなので、束ねても大した量にはならない。
後頭部の真ん中に、ちょこんと尻尾が生えたようにみえる。
ありがとうございます、と馬鹿丁寧に頭を下げたは、再び水鏡に視線を落とした。
しばらくはそのまま水面を見つめていたが、やがて何か気付いたように背後の凌統を振り返った。

「おそろい、ですね」

咄嗟にうまく返事ができなくて、凌統はかすれた声でああと短く答えた。
甘いような柔らかいような何かが、発した喉にじんわりと宿るのがわかった。それは奥をゆっくりと通って落ちてゆき、そのまま体中に広がった。
2人で横に並び、お互いの結び目の位置を確かめてみる。意識して結ったつもりはなかったが、はかったように同じ位置だった。
は池に映る凌統と自分の姿を見比べて、ほのかに微笑んだ。
兄弟みたいだなと言うと、ますます嬉しそうに目を細めた。
ちっとも似てやしない兄弟だが、そんなことはどうでもいい。
下手すれば孫策や呂蒙とも兄弟みたいというご遠慮願いたいお揃いにもなってしまうわけだが、それも(嫌だけど)構うもんかと凌統は思った。

「髪、伸ばすの」
「あまり考えたこと…ないです」

ほんの少し困ったようにの眉根が下がった。
まだ身を飾ることを覚えていないには、髪を伸ばすも切るも特に興味のない事柄なのだろう。
伸びれば結ぶ、邪魔になれば切る。その程度にしか考えていないのかも知れない。
広げた手の平をの頭にぽんと乗せた。日に当たっているせいか、とても温かかった。

「せっかくだから伸ばしたらいい。短いのも悪くないけど」

彼女の手を取るのはいつも別の人間で、自分の出る幕ではないのだと思っていた。
兄のように姉のように父のように。
あの小さな腕が伸ばされるべき役はすでに割り振りされていて、己の立ち位置は遠く外れたどこかなのだと。
でも本当はこうやって他の連中のように無防備なままに近付いてみたかった。
役割や居場所なんて考えないで、ぎこちない笑顔につられて一緒に笑ってみたかった。
ただ、あの白い手に頼られてみたかった。
そうして、ぎゅうと握り返してみたかったのだ。

「髪は、俺が結ってやるしさ」

手のひらと小さな蝶々を頭に乗せたまま、はいつものような素直さでこくりと頷いた。

枝から離れた葉が回転しながら池へと落ち、生まれた波紋が水面の上を滑りながら広がってゆく。控えめすぎる水音は、はばたいた鳥達がかき消した。
再び落ち着きを取り戻した水が2人の姿を映しはじめた時、思い出したようにああそうだと呟いた。

「それさ、結ってもらったってこと陸遜には内緒で」

俺もまだ死にたくないんでね。
片目を閉じてそう囁くと、首を傾げたの尻尾が微笑むように跳ね上がった。