「見合いしない?」


 コンビニ行かない? くらいのノリで持ちかけられたものだから「あ、はい」と危うくあっさり頷くところだった。が、すぐに口調ほどライトな話題ではないことに気づき、応じる前に我に返ったおかげで承諾は未遂に終わった。出し抜けにの目を剥かせた当人はというと、安穏に皮のまま桃をかじっている。
「見合い?」
「そう」
「殿と?」
 一瞬目を丸くした曹操は愉快そうに「ははっ」と笑い、人妻口説きモード特有のいやらしい流し目をしてみせた。
「そうだと言ったら?」
「い、いやです」
 思わず、という迂闊さで口を滑らせると、曹操はいささか傷ついた顔になった。は慌てて、すいませんつい、と取り繕おうとして全く取り繕えてないフォローとともに寂しげに丸くなった背中を撫でてみたが、いいもんね別に、女には不自由してないしぃ……とかなんとか、いじけた台詞がぼそぼそと聞こえてくるばかりであまり功を奏してはいなかった。長引きそうだったので、機嫌を取るべく肩を揉んでみる。ジジイ扱いすんなとかえってへそを曲げた。面倒くさい。
「ふん、まあいいわい。どうせ相手はわしではない」
 つんと拗ねた横顔を上げた曹操は果汁で汚れた指を舐めとり、それから自分の袖口で適当に拭った。
「先方にはすでに話は通してある。それなりの身支度をしておくようにな」
 寝耳に水なのはばかりで、水面下ではしっかりと進められていたようだ。そもそも受けるなんて一言も言っていない。疑問形で切り出してきた割には、端からの意思を尊重する気などなかったのである。じゃあ聞くなよとまでは言わないが思う。
「もう決定事項なんですね……」
「どうしても嫌だというなら考えんでもないぞ」
 にたり、と人の悪い笑み。よほどでない限り強固に拒むことのない弱腰を知り尽くした上での誘導だ。曹操の思惑通り、は力なく諦めの溜息を吐いた。
「嫌ですけど、嫌ですけど……おかしな人じゃないでしょうね」
「案ずるな。もよく知っている男よ」
「よく知ってる相手とお見合いってあんまり意味ない気が……」
 いいじゃん形から形から! と過ぎるほどの快活さで背を叩いて不満と不安を強引に封じた曹操は、ついでのように付け加えた。
「段階を踏まず、いきなり婚姻を結ぶというのではお主も腰が引けるだろう」
「こっ?」
 絶句するをよそに、やおら立ち上がった曹操は、ごろりと皿に残った桃の種を「強い桃の木が生えてくるように」と縁の下に投げた。曹操様、投げるのは普通乳歯の場合です。
未だ困惑の色が拭えない娘を振り返った乱世の奸雄はにっと笑い、犬猫にするような仕草で招き寄せた。それに素直に応じた褒美として与えられたのは耳打ち。
 特別に教えてやろう。
「お主の見合い相手はな、」


◆◇◆


 いつもより幾分か長い裾がやんわりと、急ぐ足運びを妨げる。思い切り裾を持ち上げて駆け出したいところだが、走るな焦るなと目配せで語るお付きの手前、そうもいくまい。とはいえしずしずと姫君のように悠然と歩く気にはとてもならず、巻き付く衣に抵抗しながら出来る限りの早歩きで進んだ。
 殿方は少し待たせるくらいがよろしいんですの、という侍女による艶めいた囁きを真に受けたわけでもないが、予定より支度が遅れた。君主のお達しとはいえ忙しい身にある御仁を職務から引き離してまで設けた一席だ。ラブテクニックとしては有効でも、礼を欠く行為には違いないだろう。部屋に通されたは息を整える間もなく、挨拶をすっとばして詫びから入った。
「申し訳ありません、お待たせしてしまって……っ」
 案の定、席にはすでに待ちかねた後ろ姿が見えた。鎧こそ纏っていないが武人らしい逞しい背中には見覚えがある。男は手にした杯を置こうともせず、無言でへと振り返った。が、目があった途端にその顔色を変えて、酒もこぼさんばかりに腰を上げた。眼帯で隠されていない右目は、剥くように見開かれている。
「な、おまえ、、どうし……」
 つっかえつっかえ口に出している内に夏侯惇はこぼさんばかり、を通り越して、酒を完全にこぼした。なみなみに満たされていたらしきそれは、逆さに近い形で傾けられた杯から残らず流れ落ちて、指や卓を豪快に濡らしている。だが当人は気づきもしていないようで、しきりに瞬きを繰り返すばかりだった。
 夏侯元譲。この席においての主役の一人、の見合い相手である。これについては前もって曹操から(かなり勿体ぶった感じで)告知があったため、相手も同様だろうとは思い込んでいたが、このうろたえた様子から察するに、夏侯惇側はそうではないらしい。恐らく、誰が来るか今の今まで知らされていなかったのだろう。さすが曹操、性格の悪いサプライズを用意した。
 ただでさえ顔見知りも顔見知り、普段から年の離れた兄妹のような叔父と姪のような親しさを培ってきた二人である。双方ともに心の準備が出来ているわけではないとなると、だいぶ話が変わってくる。この日までに気持ちを整え、一度飲み下したはずの妙な気恥かしさが喉に張り付いて、うまく言葉が出てこない。
「いやあの、なんというか、曹操様が」
「孟徳だと!?」
 にわかに隻眼が鋭くなる。
「くそ……あいつ」
 片手で顔を覆って武人は天を仰いだ。頭痛をこらえるにも似たその所作は、夏侯惇が主に出し抜かれた際によく見られるお決まりのものだ。戦装束にラメのだっさい孔雀の刺繍をほどこされた時も、執務室に置かれたしゃべるモートク人形で裏をかかれた時も、彼は同じように頭を抱えていた。
「いらぬ世話を焼いてくれるな」
 舌打ちでも聞こえそうな気配に、自然とは身をすくませる。明らかに夏侯惇はこの事態を歓迎していない。愕然としていると言ってもいい。恐らく現れた相手が自分で期待はずれだったのだろうとは思った。それはそうだ、合コンに 来たのはいいが 顔見知り(川柳)なんて状況、盛り上がらないわ気まずいわで失望するしかない。呆れて出て行ってしまうかとは無意識に身構えたものの、次に発せられた低音に疎ましさは含まれていなかった。
「悪かったな
「え?」
「こんな場に引っ張り込んで」
 夏侯惇は決まり悪げにがりがりと乱暴に頭をかいた。
「あいつが無理言ってお前を寄越したんだろう」
「はい、まあ、いや……無理というほどでは」
 ほとんどあって無かったような意思確認だったが、もしこれ辞するつもりなら斬首ね、と権力を盾に脅されたわけでもないのだ。しかし、この同病相憐れむといった口ぶり。彼は主から受けたに違いない、最上級パワハラを。
 どすん、と重厚な音がして、見れば突っ立っていた夏侯惇は腰を下ろしたところだった。納得はしていないだろうが、今更取りやめる意思もないことを見てとって、はほっと胸を撫で下ろした。ようやっと落ち着けるとばかりに向かいの席に腰を下ろすと、夏侯惇は目を丸くした。
「おい、」 
 と何かを言いかけたものの、すぐに「……まあいいか」とひとりごちて、無骨な手は再び杯を取った。その反応に引っかかりながらも、喉の渇きを覚えたも目の前の器に口をつけた。中身は酒気の欠片もない、健全極まりない白湯である。一滴も飲めないわけでもないが、将の喉を満足させる酒はにとって舐める程度でも刺激が強く、すすんで口に入れたい代物ではなかった。
「俺はよほど信用がないらしいな」
 苦笑いは正面から届いた。顔を上げて見やれば、水のごとく酒を煽る唇が忌々しげに語る。
「まさか監視を送り込まれるとは」
 ? 
「なるほどだ。いくら俺が見合いを厭うても、お前に見張られたら逃げ出すわけにはいかん」
 !
 首をかしげて聞いていたは、落ち着けたばかりの腰を浮かした。
 事前に知らされなかった夏侯惇は、と見合いをするなど思っていなかった。そして当人が現れた今も、そう思っていない。渋々駆り出された男を場に縛り付けるお目付け役か何かだと勘違いしている。どうしたらそんな斬新な発想が!
「かっ、夏侯惇様! 違うんですこれは曹操様から、私に、」
「いやいい。わかっている。気にするな、お前のせいではない」
 わかってない。全然わかっていないのだが、夏侯惇はもう言うなとばかりに大きな手を振ってみせたので、それ以上は続けられなかった。
 を目にした時、夏侯惇はひどく驚いていた。が考えるよりずっと、の登場は意外だったのだろう、意外すぎたのだろう。と夏侯惇の見合い、いうシンプルな構図が思い浮かばないほどに。
 これは言い出しづらい。
 は泳ぐ目を隠すように俯いた。ここまで自分を対象から排除している御仁に、やあやあ我こそが、と名乗りを上げるのは今更勇気がいる。もしかして、今度こそ本当に彼に逃げられてしまうかも知れない。
 結局何の手立ても打たず、のろのろとその場に腰を下ろし……かけて、ははたと気がついた。ここはいわば主役のための席だ。夏侯惇が先ほど戸惑いをにじませたのも合点がいく。真実はどうあれ、監視役が我が物顔で真正面に陣取るのは不自然だろう。そう思ったがそろりそろりと卓の端の方へと移動し始めると、それに気がついた夏侯惇は薄く笑った。
「遠慮はいらん。そこにいろ」
「でも」
「敵が来るまでの間、気晴らしに俺の相手をしてくれ」
 敵、とはまた、ずいぶんな。わずか眉を寄せて、だがは夏侯惇の言うがままにじわじわ元の位置に戻った。本来、誰に遠慮するでもなく己の席である。何が悲しくてさっきから行ったり戻ったりを繰り返さねばならないのか……
 複雑な胸中を隠して、山と盛られた果物の皿に手を伸ばして葡萄を食んだ。
「このところ孟徳の機嫌はすこぶるいい」
 夏侯惇もみずみずしい粒をもぎとって口に含んだ。皮ごと飲み込む粗野な仕草はとても優雅とは言い難いが、彼にはよく似合う。は少し前に対峙した主の様子を思い出し、素直に頷き応えた。確かに腹立たしさを覚えるほど無駄にテンションが高かった。夏侯惇はさらりとその理由を口にした。
「近いうち側室を迎えるそうだ」
「えっまたですか」
「ああ、確か十人」
「じゅうにん!」 
 若いのと豊満なのと育ちがいいのと……あとは忘れた。
 指折り数えるのをあっさり放棄し、それこそ犬の子でも比べるような平坦な声が告げる。曹操の色好みは今に始まったことではないし、よくよく理解しているつもりだったが、しょせん小娘の浅い認識、改めてその旺盛さを突きつけられは唖然とした。すでに後宮にはリスの頬袋のごとくに、ぎっしり美姫がおしこめられているというのに。
「部屋……足りるんですかね」
「足らんな。秋口あたりから、離れの方で人の出入りが多かったろう」
「ああそういえば」
「後宮の建て増しだ。今の倍の広さにするんだと」
「えええ」
 この上まだ増やす気なのか。その飽くなき情熱には舌を巻くが、体一つでどう相手するんだという気もする。
「自ら設計や構想に乗り出して、一時期なんぞ朝から晩までああだこうだと技師とこもりっきりだ。そんなもん後回しにしろと怒鳴りすぎて声が出なくなるかと思ったわ」
 拳を握り締めた夏侯惇の眉間には皺が寄っている。宥めるように瓶を傾けて酒を勧めると凶相はわずか引っ込み、素直に杯で受けた。
「いつか曹操様の襟首を持って引きずり回してたことがありましたね」
「そうでもしないと仕事にとりかからんからな」
 遠い目をして夏侯惇は言った。
「それの意趣返しだろう」
 何が? とが見返す瞳だけで問えば、隻眼が「今のこれだ」と現状を示すべく目配せをする。
「あれの色狂いは治らん。もう諦めてる。が、政務ほっぽりだしてうつつをぬかす馬鹿を大人しく見守れるほどあいにく心は広くない」
 曹操さぼる、夏侯惇キレる。曹操いなくなる、夏侯惇つかまえる。曹操女あさりに出かける、夏侯惇ふんじばって連れてくる。の繰り返しである。当然捜索の際には多数の官吏が動員されるが、毎度先頭を切って奔走する夏侯惇の疲労の色は濃い。
「そしたらあいつめ、お前に女っ気がないからそう頭が堅い、妻の一人でも娶ればわかるだのとほざきおって。何が見合いだ」
 要するに、夏侯惇に女をあてがって黙らせようというわけだ。もちろん嫌がらせでもあるだろう。
 一気に煽った夏侯惇の喉へ、怒気と一緒に酒が喉に滑り込んでいく。元々かなりの酒飲みではあるだろうが、今日はまたやけに杯を空けるのが早い。うまい酒に酔う風ではなく、飲まなきゃやってられるか、という苦い類の飲み方だ。
「夏侯惇様は乗り気ではないんですね」
 顔色を見ればおのずと知れることをあえて口に出してみれば、当たり前だと言わんばかりに顔が厳しく動く。
「時間の無駄だ」
 隙のないぴしゃりとした物言いだった。
「まったく、なんべん繰り返しても同じことだというのにわからんのか」
「こういうの初めてじゃないんですか?」
「……まあな」
 目を丸くして見つめたとは対照的に、夏侯惇の目は逸れる。
「一度目は顔が怖いと泣かれて、二度目は顔が怖いと逃げられた」
 なんと答えていいかわからず、は笑顔と困惑をまぜこぜにしたような表情を浮かべた。
 ぱっと見は、まあ怖いかも知れない。この顔をつかまえて優男と評するにはかなり無理があるというか、視力検査に行くことをおすすめする強面であることは間違いない。が、泣いたり逃げたり腰を抜かしたり、とは余りに過剰な反応ではないかとは思う。優美さこそ欠けるものの、その分育ちの良い貴族あたりにはない野性味が叩き上げの武人には備わっている。雰囲気のみならず、肌の傷さえも色気に変じる精悍な造作は男として十分な魅力だろう。何より、接してみてわかることだが彼は意外なほど律儀で世話焼きだ。これまでは手荒に扱われることはおろか、八つ当たりのひとつも受けた試しはない。過去、標的である曹操が避けたせいで夏侯惇のなげつけたクルミがの顔面にクリティカルヒットした時など、戦場での勇姿が裸足で逃げ出すほど慌てふためいて詫びてくれたものだ。腫れてしまうか痣が残るかと頬や額をその大きな手がおろおろと撫でて。剣を握る掌は固く、けれど触れ方は優しいとは知っている。
「もったいない……」
「そうか? 少しも惜しいと思わんがな」
 ついこぼれたの呟きを夏侯惇は逆の意味にとったようだが不正解だ。惜しむべきは姫君たちの方である。言葉に行き違いに気づかず、夏侯惇は憮然と息を吐いた。
「それにしても……遅いな」
 苛立っている風ではないけれど、一向に現れない見合い相手を訝しんでいる。
 大変申し訳ないことだが待ち人は永遠に来ないであろう。
 後ろめたく思いながらも、目をそらしながら適当に話を合わせることしかできなかった。
「女性の支度は時間がかかりますしね」
 夏侯惇は少し嫌そうな顔をした。
「女はめんどくさいな。やれ袖丈がどうの色合いがどうの顔映りがどうのと服一枚着るにも大騒ぎだ。更に髪やら飾りやら……よくまあ平気なもんだと尊敬すら覚える。男から見たら理解不能だ。正直、そう着飾られても違いがわからん」
「確かに重労働に感じることもありますけど……男の人には女の子のおしゃれが通じないんですね」
「少なくとも俺はな。得物の刃こぼれや装飾の出来ならひと目でわかるが、紅を薄くしたとか結い方を変えたとか、女の装いにはてんで目が働かん。気の引かれんものに関心は持てんだろう。例え目の前で服の色が変わったとしても気づかんだろうな。だというのに飾り立てた女に限って、褒めなきゃへそを曲げるし言えば言ったで的外れだと腹を立てる。俺にどうしろと言うんだ」
 よほど鬱憤がたまっているのか、夏侯惇の愚痴は続く。
「だいたいそばに寄るだけでむせかえるようなきつい香りをまとう女は好かん。公害だ。嗅覚から殺す気か。酒や肴の味が死ぬだろうが」
 ぶちぶちと語られるそれに苦笑いしながらも、はわずかに安堵していた。夏侯惇はあまり煌びやかな装いというものをあまり好ましく思ってはいないようだ。彼自身、身を飾ることに無頓着で、いつも機動性に重きを置いた格好をしている。見目の良さなどもののついでくらいに考えているのかも知れない。花が蜜で誘うように、上辺だけを着飾ったところで彼の気を引くことは難しいだろう。
 せっかくだからうんと華やかにいたしましょう、と紅白歌手みたいな衣装と化粧を施そうとしていた女官たちに抵抗しておいて正解だった。彼女たちをなんとか押しとどめて整えたのは普段の身支度よりほんの少し贅沢な衣、ほんの少し落ち着いた香り、ほんの少しだけ大人っぽい化粧。髪は宴のように大げさに結わず、小さな花飾りをいくつも散らすだけに留めた。この、ささやかにも思える「ほんの少し」の程度が、がの落ち着かない心持ちには丁度良かった。見てくれだけとはいえあんまりにも自分と遠く離れてしまうのは心細かったし、なにより今となっては「主役でもないのに異様にめかしこんできたアホ」にならずに済む。いや夏侯惇の目にはその違いすら映らないだろうから意味はないかも知れないが。
「もう見合いなんぞたくさんだ」
「そうですね、どうぞ」
 クダを巻く上司をとりなすにも似た間合いで、はそつなく酌をした。言うだけ言って心が軽くなったのか、夏侯惇はどこか満足げに注がれる酒を見つめる。そのまま飲み干すかと思えば、ぐっと視線を上げた。愚痴をこぼしていた時の目の色とは違う。
、お前も気をつけろ」
「え?」
「見合いだ」
 ぎくりとしすぎて、たちどころに背筋がびよんと伸びた。このとおり、は嘘がつけない類の人間だが、戦況を瞬時に見極める鬼の隻眼も今や空洞もかくやという節穴と化しているので気取られることはなかった。
「面白がって俺に押し付けてきたように、お前にもくだらん縁談を持ち込むかも知れん。用心しろ」
「……は、はい」
 繰り返すが、は積極的に嘘をつく才に乏しいのである。どうにか返事をしました、という苦し紛れのひきつる笑顔。流石に今度は、節穴も素通りを許さなかった。
「……まさか、もうそういう話が来てるのか?」
 来てるっていうかまさに今ここでそれが。
 が逡巡しながら頷くと、噛み締めた夏侯惇の口から歯軋りの音が聞こえた。
「あんの髭……っ」
 曹操のことを詰ったのだろうが、己もそれなりに髭である。それをわかっているのかいないのか、不機嫌をあらわに、がっしりとした拳が卓を打った。がぎょっと身を引くのも構わずに、正面の男は睨み据えた。
「どんな相手だ。孟徳が持ち込むくらいだ、立場はそれなりなんだろうが、身分は高くても下衆はいくらでもいる。真面目でまともな奴ならいいが、ろくでなしかも知れん。いや、きっとろくでなしに違いない」
「ろ、ろくでなしではないと思います」
 知らないとはいえ己をざくざくとこき下ろす夏侯惇の姿はいたたまれないものがあった。つい庇いたくもなる。それが面白くなかったのか、夏侯惇は目尻を釣り上げた。
「ふん、どうだかな」
 じろり、と視線を持ち上げ、身を乗り出してくる。
「聞け、敵は強引かつ狡猾だ。対して、お前は押しに弱いし断るのも不得手だし孟徳に甘いところがある。要するにちょろい。口車にほいほい乗せられて、相手を見極めもせずに諾とするなよ」
 厳しさの伴う息は、どこか必死で熱意すら込められていた。
「いいか、嫌なら断れ。拒め。きっぱりと毅然とした態度で否と首を横に振れ。甘い顔を見せるな、つけ込まれる。それでも孟徳がしつこいようなら俺に言え。ふんじばってでも止めてやる」
 鋭いばかりの目もとが薄らと赤い。珍しく彼は酔っているのかもしれなかった。知らぬ者が見れば脅しにしか思えない面構えと物騒なまでに低い声。すでに知る身となったが、そこに脅しとは正反対の何かを見出すのは難しいことではない。
 わかったか? と片目で確認され、は大きく頷いた。
「はい。嫌なら、断ります」
 夏侯惇が一瞬怪訝そうに眉をしならせたのは、がはにかむように微笑んでしまったせいだろう。
 その時、ガサリ、と葉が擦れるような物音がした。
 咄嗟に目を庭に向けると、同じく夏侯惇も眼光鋭く見据えていた。とても心穏やかに過ごせる瞬間が訪れなかったせいで一度も眺める機会がなく、今の今まで気づかなかったが、大きく開かれた窓から風光明媚な庭園が広がっていた。整えられた桃の木が連なり、手前には生垣のように背の高い草木がぐるり四方を囲っている。美しい。美しいが、異様なほど葉が揺れている。風もないのに。
「……猫ですかね」

 ニャー
 ニャア
 にゃおん
 ミャー
 ふぎゃー

 そうだと答えんばかりに、統一性のない猫の鳴き声らしきものが五つほど庭から飛んできた。続いて耳に届くのは、こそこそとした、しかし揉めるような複数の雑音である。

 バッカ全員で鳴くことねーだろ何匹いんだよ猫!
 ふぎゃあと鳴いたのはどなたですか美しくありませんよ
 うちの猫はそう鳴くのだ。どうでもいいから声を落とせ馬鹿め、気取られるではないか!
 落ち着かれよ。いささか本陣に近づきすぎたのではありませぬか
 んなこと言ったってよ、遠くちゃ見えねえ。どうよ? お二人さんの様子は? 

 ゆっくり二人で席から立ち上がる。音もなく窓に近づき目を凝らした先には、全身こそ伺えないが、つるりとした頭頂部や高く結われたポニーテール、特徴のある兜など、見覚えのありすぎる頭部の数々が茂みで押し合いながら蠢いていた。思わず額に手を当てた。どこから聞きつけたものか、名将と誉れ高き男達が這いつくばって草にまみれて覗きに心血を注いでいる。暇なのだろうか。
 おそらくと夏侯惇という組み合わせになんらかの興味と面白みを見出して乗り込んできたのだろうが、残念ながら彼らの期待する「見合い」は始まってもいない。そこにあるのは監視役に降格の小娘と飲んだくれて愚痴る男の図のみだ。体を張ってまで見るべきほどの色めいた展開はひと欠片もない。そして、飲んだくれていた男はこれまで意にそまぬ見合いの席でいらだちを相当に募らせ、今は窓辺で青筋を浮かせている。アーメン、とは心で十字を切った。

 爆風が駆け抜けたのは一瞬だった。
 目を開いた時には、チーム出歯亀の姿はそこになく、小規模な天災に見舞われた程度の惨状が庭に残されていた。桃の木が三本ほど砕け、パワーシャベルがひと仕事終えたように生垣のあった部分がえぐれている。明日から庭師の仕事が増えそうだ。窓枠に背を預けている夏侯惇は、たった今かめはめ波的なものを放ったとは思えない静けさでそれを眺めていた。すっきりした、みたいな顔で一息つくと、気づいたように目線を下に落とす。つられても視線で追うと、小さな花――髪飾りがひとつ床に落ちていた。反射的に両手で髪に触れる。吹き抜けた暴力的なまでの風に煽られたせいか、整えられていたはずの髪はいささか乱れていた。が手を伸ばす前に、夏侯惇が花を摘むようにして身をかがめて拾い上げる。
「髪、崩してしまったな。すまん」
「いえ大丈夫です」
 渡された花飾りをそのまま握っていると、夏侯惇が不思議そうにそれとを見比べた。
「つけないのか」
「あー、どこから落ちたのかわからないので」
 は力なく笑った。全体に散らすように飾ってもらったので、髪のどこの部分が抜け落ちたのか見当もつかない。夏侯惇はじっとに視線を預けたあと、手を伸ばしてきた。
「貸せ」
 節くれだった指が手の中から花を奪い、迷いもなくのこめかみへと差し入れる。酒気の香りが鼻腔をくすぐった。
「さっきまでここに花があったはずだと思ってな」
 耳の上あたりをとんとんと指で叩いて示す。右目の端はやはり赤いが、とろんと酔いに溶かされている風でもない。
「あ、りがとう、ございます」
 跳ね上がった胸の内が発声がぎくしゃくとさせる。確か目の前の男は、女の装いはわからぬと。気の引かれないものに関心を持てないと。
「その、普段と違う結い方なので、ちょっと勝手がわからなくて……」
 何かの熱をごまかすようにぺたぺたと髪に手を当てながら、は徐々に俯いた。視線が完全に下がり切って床板を拝むその直前、真面目くさった声が耳朶を打つ。
「ああ、今日は大人びて見えると思っていた。いつものお前とは姿が少し違うな」
 よく似合っている、と夏侯惇はもののついでのように止めを刺した。  


◆◇◆


「よう元譲」 
 背後から無遠慮に肩を叩かれ、憮然とした顔で振り返った。並の兵士なら震え上がる迫力のご面相も、呼び止めた男にはなんの威力もない。肩を手を預けたまま、人を食ったような笑みを唇に乗せた。
「見合いはどうだった」
 いかにも面倒そうに夏侯惇は顔を背けた。
「どうもこうも、相手が来なかったら話にならんだろうが」
 途端、笑顔を引っ込めた曹操が目を剥いた。
「なに? お主すっぽかされたのか!?」
「そうらしいな。笑うなら笑え」
 ふんと眼帯の男は鼻を鳴らした。対して、威厳に満ちた曹魏の頂点は笑うどころか不可解そうにその顔をしかめる。
「はて、妙だな。は無事送り届けたと従者から報告を受けたが」
「あ? いやは来たぞ」
「なんだ? 意味がわからんな。来とるではないか見合い相手は」
「え?」
「は?」
 しばしの沈黙を両者が呼吸として吸い込んだあと、隻眼が破裂しそうにくわっと開いた。
「……まさか!」
「うわっびっくりした」
「ああくそ、そういうことか」
「何を一人で納得しとるんだお前」
「今しがた火急の用ができた。貴様のツラを拝んでる暇などないわ!」
 夏侯惇は言うが早いが慌ただしく踵を返し、飛ぶがごとくに大股で駆け出した。どすどすどすと豪奢なしつらえには似つかわしくない野蛮な足音が急速に遠ざかってゆく。彼のゆく先々で書簡を抱えた哀れな文官が勢いに吹き飛ばされて犠牲になることだろう。
「おうおう。年甲斐もなく躍起になって」
 とうに見えなくなった背中を見送るように曹操は首を伸ばした。
「……この縁談でまとまらねば後がないぞ元譲」
 呼びかけた男の姿は既にない。髭をさすりながらにやにやと唇の端を持ち上げた。
「あれだけ難色を示していた娘が、お主の名前を出した途端大人しくなったんだからな」
 次は婚礼の支度かと独りごちて、城主は磨かれた廊下を歩き出した。