色づいてゆく紅葉を眺めながら、司馬懿は庭園を散歩していた。
 次の戦においての落石の策などを考えつつ。

 カサカサ

 自分とは別の場所から、忙しなく落ち葉を踏むような乾いた音がする。
 司馬懿はその場に立ち止まり、誘われるように首だけを向けてみた。
 紅く染まった葉がヒラヒラと降る視界の向こう側で、二つの影が動いている。
 司馬懿の主人である曹操と、朱雀のだった。
 2人とも頭やら肩やらに紅葉の葉をかぶりながら、しゃごみ込んでいる。
 膝の上には大小さまざまのドングリが抱えられていた。

 「おお!これはデカい!これでワシは18個目だぞ!」
 「えっ…って、それマツボックリじゃないですか!ズルは駄目ですよ、ダメダメ」

 ドングリ拾い。
 新しい癒し系の遊びらしい。
 色々気疲れの多い曹操には、こういう息抜きが大切である。
 遊びの割には2人とも大層真剣であるが。
 曹操との存在に気付いた司馬懿は、大きく顔を歪ませた。

 また勝手に2人で遊び呆けおって…!

 この場合、彼の怒りに触れるのは「2人」の部分である。
 いつもであればこのような状況を見つけ次第、事故に見せかけて遠巻きから
毒色放射線をぶちかましていた。
 今日もそのつもりで曹操に照準を合わせ、司馬懿は不吉な色の羽扇を構える。
  
 「…司馬懿様って…」

 
!!
 予想外のタイミングで、の口から自分の名前が飛び出し、ビーム発射寸前で司馬懿は硬直した。
  放射線攻撃をしている場合ではない。
 「司馬懿様って…」
 その後に続く言葉が猛烈に気になる。
 司馬懿は慌てて近くのイチョウの木陰に身を隠し、様子を窺った。
 暑苦しいほどの眼差しを向けられているとも気付かず、は言葉を続けた。

 「…私の事、嫌いなんでしょうか」
 「んん?何故そう思う?」

 曹操は手を休めることなく、葉を掻き分けながら返事を返した。

 「司馬懿様だけ、私のこと一度も名前で呼んでくれないんです」

 はしゅんとしたような表情で、小さく溜息を吐いた。
 過去の状況を色々と思い出しながら、そういえばそうだなと曹操も頷いた。

 「…やっぱり嫌われてるんでしょうか」
  
 (そ、そうではない!!)

 彼女に見えないにも関わらず、司馬懿は樹の影でブンブンと激しく首を振っていた。 
 そんなに対して曹操は、今しがた拾った小粒のドングリを眺めながら適当な感じで呟く。

 「あー…そうなのかもな」

 
無責任に相槌を打つなぁーーーー!
 そこは「そんなことはないだろう」とフォローすべき点ではないか!
 殿自ら、配下間の和を乱してどうする!

 司馬懿は今にもここから飛び出して、いい加減な賛同をした君主の後頭部に頭突きをかましてやりたい思いにかられたが、立ち聞きしている身ではそれも叶わない。
 当然、の発言に対して弁解することも出来ないのである。
 曹操にも同意され、ますます落ち込んだ様子のは肩を落し気味に再びドングリを探し始めた。
 その後姿は、いかにも「しょんぼりしています」というオーラが立ち込めている。
 どうすることも出来ず、司馬懿は元々健康的とは言い難い顔を更に青くして突っ立っていた。

 彼女が嘆く通り、確かに司馬懿はを名で呼んだことはない。
 いつも「おい」「お前」「朱雀」「馬鹿め」ぐらいである。
 けれど、それは決してを疎ましく思っているからとか名前を覚えていないからとか、そんな理由ではない。
 断じて違う。
 名前で呼ばないのではない、呼べないのだ。

 …は、恥ずかしいではないか…!!
  
 誰に言っているか定かではないが、司馬懿は1人そう心の中で呟き、赤面した。
 アホである。
 圧倒的にアホ。
 死ぬほど照れ屋な軍師には、呼び捨ては超難問であるらしい。
 しかしこのままでは、に誤解をされたままだ。
 司馬懿は策のことなどスッカリ忘れ、少女の名を呼ぶという課題に真剣に取り組むことにした。

 翌日。
 戦の件で曹操に呼び出された司馬懿は、期せずしてにバッタリ廊下で会った。
  
 「あ、司馬懿様。おはようございます」
  
 昨日の会話を聞かれていた事を全く知らないは、いつものようにニッコリと司馬懿に頭を下げた。

 「あ、ああ」

 彼女を名前で呼ぼう、と誓った司馬懿であったが…突然すぎる。
 心の準備がまだ整っていない状態でのとの遭遇に、彼は目が泳いだ。
 ただ「いい天気だな、」と言えばいいだけだ…!
 視線すら合わせてくれない司馬懿に、は不安そうな声を洩らした。

 「あの、司馬懿様?」
 「いや…その、いい天気だな…
 「?」

 モゴモゴと語尾に詰まる司馬懿を見て、は小首をかしげた。

 「…ッ」

 目の前で本人に聞き返され、司馬懿はもう耐え切れなかった。

 「べべ、別に何でもない!私はもう行く!」

 逆ギレである。
 長い裾を翻し、司馬懿は逃げるようにその場から走り去った。
 いきなり置いていかれたは、呆気に取られてただその後姿を見送るしか術が無く。
 第一戦は、見事に敵前逃亡に終わった。

 その日から、と顔を合わせる度に司馬懿は果敢に挑戦するが、結果は惨敗。
 言葉に詰まっては、ことごく猛ダッシュで逃げ去る司馬懿。
 日に何度も全力疾走をする軍師の姿は嫌が上にも目立ち、一部でちょっとした噂になったとかならないとか。
 こうした空振りが連日続き、最も愛しい者の名前は、最も司馬懿を苦しめる言霊へと姿をかえてゆく。
  

 「
 「殿」
 「私の!」

 自分以外の将たちは、いとも簡単にその名を呼ぶ。
 彼女も至極自然にその声に応える。
 腹立たしい。
 何の努力もなく、名前を呼ぶことの出来る連中が。
 その彼らに呼ばれて、素直に返事をするが。  
 そして、名前一つ口に出せない自分が。  

 こんなにも短い言葉だというのに、何故すんなり言うことが出来ないのか。
 考えるまでもなく、ガッチガチに意識しているが故である。
 「嫌われている疑惑」を晴らすどころか、ますますドツボに嵌っていく。
 一度言い逃すと、タイミングというものがなかなか掴めない。
 戦が控えているというのに全く身が入らない軍師様は、城から離れた殺風景な訓練場で風に当たっていた。
 頭を冷やすつもりである。
 と、そこへ遠くを歩いているの後姿が目に入った。
 しばらく彼女とは、まともに話もしていない。
 いうまでもなく会話が成立する前に司馬懿が逃げてしまうからだ。
 「」、とその一言を呼べないために。
 情けない男である。

 なんだか懐かしい気持ちでしばらくを目で追っていたが、彼女が訓練場の奥へと進んでいくのに気付き
 司馬懿は突然立ち上がった。
  
 「待て!行くな…!」

 その奥は、次の戦で使う地雷を試験的に埋めた危険地帯だ。
 声が聞こえないのか、は歩みを止めようとしない。  
 司馬懿はなりふり構わず、人生で初めて大気が震えるほどの大声で叫んだ。

 
――――――!!!!」

 さすがにもその絶叫に驚いたらしく、振り向きながらも地雷地帯へと足を一歩踏み入れてしまった。
 いかん爆ぜる!!!
 ここ数日の行動とは真逆に、司馬懿はの元へと無我夢中で走り出していた。

 「…司馬懿様?」
 
 息を切らし、駆け寄ってきた司馬懿をは目を丸くして見上げている。
 爆発どころか、彼女の足元の地面は何の反応も無い。
 ただ、枯れ葉が2人の間で舞い踊っているだけである。

 「じ、地雷は…」
 「え?ああ、それなら昨日撤去してましたよ。危ないからって。確か、司馬懿様からのご命令で…って言ってましたけど」

 違いました?とは言葉を続けた。

 「……」

 そんなこと、完璧に忘れていた。
 毎日お前のことばかり考えていたので仕事に集中してなかった、とまさか言えるはずもない。
 この上なく気まずい状況である。
 1人で盛り上がって絶叫までしてしまった。
 が無事で何よりなのだが、誤魔化しようのないこの格好悪さはどうしたものか。
 もはや自分ごと爆ぜてしまいたい司馬懿であった。

 「…初めて、名前呼んでくれましたね」
  
 流れる雲などを仰ぎ見ながら、司馬懿が身の置き場に困っているとの声が静かに響いた。
 瞬間、火が付いたように司馬懿の耳は紅く染まった。
 ドサクサにまぎれて発したその言葉を、は聞き逃さなかったのだ。
 そっぽを向きっぱなしの彼の衣服を、は遠慮がちにクイクイと引っ張っていた。
 照れくささのあまり表情が固まってしまった顔を、司馬懿は勇気を振り絞って正面に向けた。
 
 「もう一度言ってくれませんか」
  
 その台詞に、すぐさま羽扇で自分の顔を覆い隠してしまいたくなった司馬懿だったが、震える声の彼女からは、もう目を逸らすことは出来なかった。
 覚悟を、決めるしかない。
  
 「……

 大国・魏軍の軍師もこれでは形無しだ。
 何度も言葉に詰まり、声も情けないくらい上ずっている。
 例の天敵・白羽扇が見たら爆笑ものだろう。

  
 「

  
 それでもようやく、彼は自分の口から言えなかった言葉をつむぐことが出来た。
 ここまでなんと長い道のりだったのか。
 は司馬懿の精一杯の想いを受け、ゆっくりと微笑んだ。
 目の前のその笑顔が、今にも溶けていきそうなほどに柔らかだったので。

 冷たい秋風にさらされているにも関わらず
 司馬懿は、たまらなくあたたかいものに満たされていった。
  


 「おい、あ…いや…

 あれからしばらくの月日が流れ、訪れた冬が終わりを告げる頃になっても、相変わらず司馬懿はコチコチに緊張していた。
 当然、顔の赤さもそのまま。
 未だ、どもることなく自然に言えたためしがない。
 「いい加減、マトモに呼べないのかよ」
 同僚達は慣れる事を知らない子供軍師に、さすがにホトホト呆れ返っている。
 だが、そんな司馬懿の傍らには、名前を呼ばれるたびニコニコとこの上なく嬉しそうな笑顔で応えるが姿があった。
  
 「……明日の軍議、遅れぬようにな」
 「はい司馬懿様!」


 馬鹿馬鹿しくても、不器用でも。
 結局は、幸せ者の勝ち。




 白石様に捧ぐ、88888キリリクでございました。