招かれた先の扉を開くと、そこには花園が広がっていた。
右も左も上も下も、あたり一面が桜色に染まっている。
盛りとばかりに咲き誇る花がところ狭しと飾られ、花びらは床全てを覆いつくし、春の香りが立ち上る。吸い込むだけで心が躍るようだ。
並んだ酒瓶から何らかの宴の準備であろうことは見て取れるが、卓を占領しているのが肴でなく色とりどりの菓子であることがいつもの酒宴とは明らかに違っていた。
ふわふわ柔らかな甘さが無骨な男達をかき消し、女の子の為にここだけ世界を切り取ったようだった。

「どうだ驚いたかー!」

景気よく扉を開け放ち、ばあ!と気安いテンションで現れたのは他でもない魏国の君主、曹孟徳その人である。
驚き戸惑うを目掛けて、彼は高笑いを飛ばしながら上機嫌で歩いて来た。
床を踏みしめるたび花びらが舞い踊り、花園に地上げ屋が舞い降りたような違和感を存分に振りまいている。

「曹操様これ、一体」

仁王立ちの主は体中にまとわりついた花びらを払い落とそうともしない。

「お主の世界に倣うならば、今日は桃の節句とやらであろう?」
「え?あ、」
「おなごの為の催しと聞いたからな、出来うる限りそれらしくあつらえた」

は時々、暇をもてあました女官達にせがまれて元の世界の暮らしぶりを話して聞かせることがある。
熱心に耳を傾ける大半は年若い乙女であるせいか興味の中心はほとんど色恋沙汰だったが、習慣や風習などの話題で盛り上がる場合も少なくなく、桃の節句
――いわゆる雛祭りについても触れたことがあった。
とはいっても、話のついでに話題に出した程度で、お茶菓子代わりのたわいないお喋りである。
それがどこでどう伝わったかは知れぬが、話した本人ですら忘れていた会話の一片を、政務に追われ多忙を極める曹操が気に留め、部屋をひとつ花園にした。それはの胸をじんと熱くさせるに十分過ぎる褒美だった。
この人は時折こういうことをするのである。
軍議だと唐突に召集をかけておきながらスッポかしたり、徐晃の頭巾を夏候淵に矢で貫かせたり、ドッキリ!とか言いながら甄姫の寝起き襲撃したり、まんまと怒りに触れて縄でしばられた挙句窓から吊るされたり、それを武将みんなでよいしょよいしょと助けるのに半日かかったりなど、日々お騒がせ君主として皆の体力を消耗させる一方で、こういうほろりと揺らすようなことをするのである。
さすがは乱世の奸雄曹孟徳、人の心を掴むのが滅法上手い、上手すぎる。
この野郎と握った拳がわなわな震える瞬間が多々あっても、ハートの芯までがっちりキャッチされた臣下らは決して彼から離れられない。

「ただ肝心かなめの雛人形とやらが間に合わなくてな。人形あっての行事だろうに」
「いえそんな、そのお気持ちだけで充分嬉し、」

感動に打ち震えたの声を曹操は会心の笑みで遮った。

「安心しろ、代用品を用意した」

代用品?と聞き返す暇もなく、おおーい出番だ!と声が上がり曹操の両手は打ち鳴らされた。
すると、奥の間の扉がおごそかに開いた。中から煌びやかに着飾った男女が音も立てずにこちらへ歩いてくる。
見るからに重そうな装飾、雪のように白いかんばせ。
は何かに似ていると感じ、すぐそれが雛人形であることに気付いた。
人である、人間である、言ってしまえば雛人間である。
曹操はそれを代用品としてこの場に披露する気なのである。
代用というかある意味飛び超えてしまったような気がするのだが、異文化を正しく伝え、互いに理解し合うのは困難を極める。ましてや曹操が耳にしたのはほんのわずか、しかも伝わってゆく経路でどのように歪んだかわからぬ情報で見知らぬ文化を再現しようとしているのだから、ズレが生じるのも当たり前であろう。この違和感を感じ得るのは生粋の日本人である己だけなのだ、主の思いに応えろ、些細な誤差は飲み込め飲み込めとは心を閉ざした。
しかし、心を閉ざしきるのはそう容易いことではなかった。
近付くにつれてあらわとなる雛人形一行の姿形から、正体をなんとなく察してしまったがゆえである。

「ほれ、あれがお内裏様とお雛様」

得意気に行列の先頭を指さす曹操。
遠い目でただ頷くしかない
白粉も負けそうに青白い顔をしたお内裏様は司馬懿で、女性と見紛うばかりの美しいお雛様は張コウだった。
紅を引いた口元に微笑みを湛えたお雛様とは対照的に、お内裏様は半分死んでいる。普段からあまり生きている気がしないが、今日は更に輪をかけて死んでいる。ここまで辛気くさいお内裏様を見たのは初めてであるが、彼の心情を思うとそうならざる得ないと深く同情の念が湧いた。
その後ろに連なるは五人囃子の列だが、何の異存もなさそうのは許チョひとりだけで、あとに続く張遼、徐晃、夏候淵、曹仁らはほとんど4つのデスマスクと化していた。五人囃子の笛太鼓、静まり返った笛太鼓。
この五人囃子に景気の良い演奏を望むのは到底無理であろう。見た目はほぼチンドン屋なのに、雰囲気は葬列である。吹けども叩けども、枯れた音しか鳴りそうにない。
せめて甄姫でも居てくれれば、ええい湿っぽい!とお得意の耳をつんざく笛の音で場をかき回してくれただろうが、あいにく夫婦揃って湯治へと(主に曹丕の心身を癒すためであろうと推測)旅立った直後。
対抗手段が失われたことを残念に思うには思うが、それより何より狂い咲きの雛祭りから逃げおおせた曹丕のさりげない強運に驚きである。曹操の嫡男であろうが何であろうが、城に残っていれば確実に白塗りの曹子恒が葬列に加わっていたことであったろう。ここぞという場面で命拾いするのは英傑の血か。

ひたりひたりと押し黙った雛人形が目の前を過ぎてゆく。
心の距離を感じさせるお内裏様とお雛様、縁起の悪そうな五人囃子。
どうすることもできずはただ胸を痛めながらしばしそれを見送っていたが、途中で気が付いてしまった。
このままでは。この流れでは。

三人官女が大変なことに。

悪い予感は的中するものと昔から相場が決まっている。
背後に伝わる、ただならぬ気配。
自ら目を向けたい種類の気配ではないが、じわじわ全貌が露になるまで待つのもまた根性である。
は死なばもろとも、と肝を潰す覚悟で潔く振り向いた。
いた。
やはりいた。
三人官女というより三人漢女と呼ぶにふさわしい強面が三つ、白く塗られてそこに居た。
出来る限り声を上げないよう努めたが、飲み込みきれずに「ひい…」と喉からわずかに息が漏れた。
不細工だとか醜いだとかそういう次元を通り越して、ただ純粋に肝が冷えた。
なぜ、この三名が。
よりによってなぜ、夏侯惇とホウ徳と典韋が。
猛者がひしめくこの軍内においても彼らは、隻眼、体毛、スキンヘッドとそれぞれ別の持ち味で男の世界を築いている屈指の漢である。本来、桃の節句に加わってはいけない。
許チョや夏侯淵のように丸みを帯びていれば少しは愛嬌もあったろうが、いかんせん三人全てが見事なまでにいかつく、巨大すぎる。三人官女の腕がこんなに逞しくて良いものだろうか。
生唾をごくりと飲みながら隣を伺うと、視線に気付いた曹操が振り向いた。

「すまんが左大臣と右大臣は人数の関係上省かせてもらった」

そんなこと心からどうでもいいのである。
というか、この面子からいってまず省くべきは三人官女ではないのか。怖すぎるよ。
しかし曹操はこれらの仕上がりに特別疑問は感じてないようでで、しきりににネオ雛人形(曹操プレゼンツ)への感想を求めてくる。
どう答えたものか目が泳いだ。
泳いだ先で再び三人官女をとらえてしまい、はとっさに瞼を下ろした。一秒でできる現実逃避。
平常心を取り戻すためかつて生家で行われていた正しき雛祭りの思い出を振り返ってみたが、今見たばかりの奇抜すぎる人形が横から雪崩れ込んでくるので、安らかな心持ちに至るには遥か及ばず、心はざわつくばかりである。

「こんな雛祭りは……う、生まれて初めてで……とても新鮮です」

言葉に虚偽はないはずなのに、ざわつきは止まらない。
満足したのか、曹操は実に晴々とした表情でそうかそうかとの背を何度も叩いた。背中も痛いがそれ以上に心が痛い。更に言えばこの状況が何より痛々しい。
ひとり元気な曹操に促されるまま、用意された席へ着いた。
座った途端、杯になみなみと白酒が注がれる。こぼさぬように苦心しながら口を付けたが、味わう余裕も無くただ舌の上を通過した。
雛人形がこちらを見ている。
10体分の視線が360度突き刺さる。
完全に取り囲まれた形、輪になった雛人形の中心という全く逃げ場のない位置には据えられていた。
半ば力技で雛人形を作り上げたものの、それを飾る作法、すなわち雛壇という概念が曹操にはなかった。横一列に並べるには少々数が多いし、縦に配置すると後ろが見えない、それならば囲んでしまえホトトギスというシンプル発想から生まれた悲劇である。
右も左も正面も後ろも余すことなく、四方八方雛人形地獄。
酒の味などわかるはずもない。
見ないよう見ないよう懸命に努めても、全方向それなのだからどうしたって視界に入ってしまうのである。この瞬間だけ0.00003くらいの視力に落ちて欲しい。しかしそんな奇跡は願うだけ虚しく、やりきれぬほど健常な両目はくっきりと雛人形を映し出すのだった。

並んだ彼らは徹底して人形役に徹しているのか、はたまた喉を張る元気もないのか、さきほどから一言も発しない。響き渡るのは酔い始めた曹操の豪快な笑い声ばかりである。
独り言のような昔話(中身:どうでもいい初恋の思い出)の途中、おぬしもそう思わぬか?と突然話を振られ、顔を上げた拍子に真正面の夏侯惇と目が合った。一瞬、残った右まで喪失するかという勢いで開かれた眼はすぐ憂いを含んだ色に染まり、見なかったことにしてくれと静かに訴えていた。
戦場での活躍を思うと今の姿は果てしなく物悲しい。
しかし決して顔を伏せぬその潔さには武人の誇りを見た。男である。いかなる姿でも俯かない、いかなる場でも上を向いて歩こう涙がこぼれないように。まさに男の中の男である。
その男っぷりの良さは夏侯惇に限ったことではなく、ほぼ全員が何やってんだ俺はと疑問と恥を感じているに違いない中、誰もが凛と胸を張り、多少目が死んでいても顔はしっかりと前を向いていた。男である。そして羞恥に耐えながらも務めを果たさんとする忠臣である。
彼らの健気な姿を見ているうちに段々と胸に熱いものがこみあげ、酒の高揚感も手伝っての涙腺は突如爆発した。

「魏に、仕える将は、三国一の忠臣です……」
「なんだ急に……うわっ何で泣いとるんだ!」
「曹操様は本当にっ、果報者ですよ、くっ」
「よ、酔ってるのか?」
「酔ってなどいません」
「なんなんだ一体……って、え、そっちも?!

漏れ出した数々の嗚咽の声(野太い)
忠誠心の限りを尽くす傷だらけの戦士達はいま相当ナイーブになっているのだろう。の暴発をきっかけに涙腺爆発は瞬く間に連鎖し、男達は熱き眼を心の汗で濡らし始めた。ただでさえ怖い白塗りが涙で崩れ落ち、更なる迫力を生むこととなった。呪いの雛人形、怨念の咆哮といった壮絶な有様である。もはや誰がどう贔屓目に見ても雛祭りではなくなっていた。
なんでお前ら泣いてんの?
場内の不気味な一体感から一人だけ取り残された曹操はとりあえず飲むしかなかった。
手酌で空け続けた酒瓶が卓にずらりと並ぶ頃、BGMが人形と娘のすすり泣きという霊山のような宴もようやく幕を閉じた。
ようやく苦痛から解放されたことに皆が安堵の息を漏す中、今頃テンションが上がりつつあるほろ酔いの曹操は、

「よし、雛祭りの仕上げといくか」

と、撤収しようとしていた全員の首根っこを掴み、城のすぐ裏手の川原へ千鳥足で向かった(途中通りかがった若い兵士がその場に凍り付いていた)(百鬼夜行に行き会ったとでも思っただろう)
もういいよマジ帰りてえ、と誰もが思っていても口には出せない。平均1メートル80超えの雛人形は太陽の下で見るとまた室内とは違った迫力が醸し出され、まあ怖いっちゃ怖いのだが、それを見慣つつある自分の感覚の方がは恐ろしい気がした。
曹操は一列に並べられた家臣を満足そうに眺めながら行ったり来たりしている。これから何が始まるのかと固唾を呑んで見守っていたら、曹操の足がぴたりと止まった。

ドンッ

「エー!!?」

なにを思ったか曹操は次々に強張った顔の武将、否、雛人形を川に突き落とした。
当然だが、なすすべなく「うおお」と断末魔の叫びを残して皆落下していった。

「ちょッ…!なに?!一体なにして…!」
「ん?なにって」

流し雛に決まってるではないか。
振向いた主は少しの迷いもない自信に溢れた口調で言いきった。

「こうして川に雛人形を流す風習があるのだろう?お前の世界には」


知っていて欲しいことは知らないが知らなくていいことは知っている


曹操、破顔一笑。
、顔面蒼白。
そもそも流し雛っていうのは紙細工の人形で、雛壇に飾る人形を流すのはちょっと、いやだいぶ違うというか、流しちゃったら来年も使えないっていうか、全家庭が毎年そんなことになってたら川もせきとめられるというか、とにかく流し雛はそういうことじゃない!
さすがに黙っておられず、曹操の胸倉をつかまんばかりの勢いでストップ・ザ・流し雛を訴えたが、度量が違うというか器がでかいというか人の話を聞かないというか、そんなものは川に落ちる轟音にすべてかき消された。
昨日の大雨で増水していた川の流れは息を呑むほど荒々しく、あっという間に雛人形が下流へと消えてゆく。その際、波に飲まれながらも彼らが放った「雛祭りおめでとうぅぅぅー」という台詞がまたを泣かせた。
ありがとうみんな。
でもこれだいぶ違う。
桃の節句とは、こんなに危険を伴うイベントだっただろうか。

、なかなか雛祭りは面白い行事だな。次の年はもっと派手にやろう」

落とされた際最も激しくもがいていた司馬懿はその後カナヅチだったという事実が判明し、全軍上げて川底をさらうなど城内は一時騒然となったが、翌日仕掛け網にかかっているところを漁師に助けられたという。
来年の話をすると鬼が笑うというが今回ばかりは鬼も沈黙するのではないかと、今から一年後を憂うであった。