SSS

■赤い眼鏡(べーさく)
■怯えるのは神の罰より(べーさく)
■さがさないでください(べーさく)
■あらしのよるに(べーさく)
■呑まれて眠れ(べーさく)


















赤い眼鏡


ベルゼブブさんが眼鏡を買ったと小耳にはさんだので、悪魔でも視力落ちるのかなと不思議に思っていたが、落ちるわけないやんと淫奔はアホをみるような目で言った。
ならば伊達眼鏡ということになる。
仕事の時も自宅に招いても燕尾服以外身につけているところは見たことがない。あまり必要性を感じず、カレーを食べながら本人にどんな眼鏡を買ったのかと聞くと、彼は赤い眼鏡だと言葉少なに答えた。もっとクラシックなものを選びそうなものなのに意外なチョイスだ。
純粋な好奇心から、今度かけてきて下さいよと言ったが、自分でする為に買ったのではないと呟いた後、ベルゼブブさんは赤くなって俯いてしまった。私に会えない夜、枕元に置いて眠る為に買ったのだそうだ。今度は私が赤くなる番だった。寂しくなったら電話して良いですよ、と言おうとして、やめた。
「寂しくなったら電話しますね」
ベルゼブブさんも、多分私もこの眼鏡よりずっと真っ赤な顔をしていた。



▲ モドル 






怯えるのは神の罰より



たとえば、靴音だけで知れるとか。たとえば、千の声の中でも聞き分けられるだとか。
そんなことは何の意味もないのだと夜が明ける度繰り返した。
主人とそうでないものを区別する為に特化した能力であって、飼われた悪魔の悲しい性に過ぎない。
契約の鎖が、信の重さとは無関係に悪魔と主を繋げる。頭を垂れるのはグリモアの掟を尊重し、恐れているせい。
あなたに、この胸の内を全て人質にとられているわけではない。
もしこの書が人手に渡り、他の才有る何者かが呼びだしたなら、私はそれに従い躊躇なく膝を折るだろう。
そして眩暈がするほどの人の群れから、我が主を造作なく見つける。
私が彼女を、星屑からでも砂粒からでも探し当てることが容易なように。
グリモアを手離す。たかがたとえ話の切れ端は、ざわざわと苦く鳩尾を刺激した。
これが従属? ただの習い性?
いや、疑うな。裏側を覗くな。
主従は組み合わせの数だけその有り様も変わる。
彼女が私を手にしてからほんの数ヶ月、極めて日が浅い。我々から見ればほんの瞬き。
まだお互い計りかねているに違いない、その距離も扱いも腹の割り方も。
ふさわしいあるべき関係を築き上げていくのはこれからだ。
いずれわきまえ、割り切った立ち位置を知るだろう。
そうでなくては困る。
だから。
だから、そうやすやすと呼んでくれるな。
そうやすやすと手の内を晒してくれるな。
そうやすやすと懐に忍び込んでくれるな。
これ以上、長い夜にあなたを想う時がかさを増したら、悪魔とてつまらない夢を見てしまうから。
悪魔とて、本当はこれが何かを知っているから。



▲ モドル


 





さがさないでください


さがさないでください。
そう書かれた置き手紙があったので、それをどけて布巾でテーブルを拭き、夕食の片付けを済ませ、コーヒーを飲みながらテレビを見ていたら、二時間後ベルゼブブがトイレから飛び出してきた。
「なぜ!さがさない!!」
「えっ」
さがすなって書いてあったから、と噴きそうになったコーヒーを飲みこんで答えると、ベルゼブブは歯を剥き出しにして睨んだ後、渾身の舌打ちで抗議の意を示した。
「こういう時は慌ててさがしまわると相場が決まっているでしょう!相手の意思を裏読みするんですよ、大人しく従うなんてありえないんですよ!なんです必殺仕事人なんか見て」
「別に仕事人はいいじゃないですか……」
そもそもこの狭い1LDKのアパートで探すも探さないもない。隠れるとしたら風呂かトイレか押入れか天井裏くらいのものだ。あ、結構あるなと数え上げながら佐隈は冷静に考えた。話を聞いていないように見えたのか、苛立たしげにリモコンを取り上げたベルゼブブによってテレビがぷつんと音を立てて消された。別に中村主水に夢中になっていたわけではないのだが。
「以前私が死んだと思って、半泣きでさがしてくれたそうですね」
「ああ……ベルゼブブさんが犬の糞をむさぼってい」
そこはいいですお黙りなさい、と自分で話題を振っておいてピシャリと蠅は佐隈の返事を断つ。
「あいにく、私はその姿を目にしていない」
「そりゃそうですよ、その頃ベルゼブブさんは人の心配をよそに路地裏で犬の」
黙れよ!と先ほどより本気の威嚇。気高き蠅の感情はわかりにくいようでわかりやすい仕組みがある。苦虫をかき集めて佃煮にしたような横顔に、佐隈はなんとなく思い至った。
「もしかしてさがして欲しかったんですか」
ベルゼブブは無言でそっぽを向いた。
「あれ、違いました?」
明後日の方を向いたベルゼブブの顔を覗きこもうとすると、テーブルに再び紙切れが叩きつけられる。
真っ白な四角い用紙の上に文字はない。
それに気を取られている内に、目の前にいたはずのベルゼブブの姿が煙のように消えた。
「ベルゼブブさーん?」
返事はかえらない。佐隈は小さく溜め息を吐いて、テーブルの中央を陣取る白紙を裏返す。
『さがさないでください。』
おや、これ見覚えがあるなあ、デジャヴかなあ。
佐隈が寝起きの血圧くらい低いテンションで置き手紙リバイバルを見ていると、風呂場からかたりと物音がして、閉まりきっていない扉からは燕尾服の裾が。
少しだけ頭を抱えた佐隈は、冷めかけたコーヒーに口をつけた後、テレビのリモコンに伸ばしかけた手を思い悩んだ末に引っ込め、やけくそ気味に立ち上がった。

ああ!!ベルゼブブさんがいなくなってしまった!私を置き去りにするなんて!どこに行ってしまったの……!ああベルゼブブさんベルゼブブさん!どうしてあなたはベルゼブブさんなの……!

数分後、「下手すぎる!」とおかんむりのベルゼブブが風呂場から飛び出してきた。




▲ モドル









あらしのよるに



「……よく降りますね」
「……そうですね」
もはや屋根を叩いているのは滝だ。雨粒など可愛いものではなく、水の塊が屋根を押しつぶそうとしている。建物といわず地面と言わずありとあらゆるものを殴りまわっている凶暴な雨音を前に、どちらの声も頼りなく響いた。
気象庁は正しかった。
台風は線路を引かれたように予想された進路を正しくなぞり、寸分のズレもなく見事に列島に直撃して、都市の機能を麻痺させた。
横殴りの雨と木々をへし折る風に、電車は止まり駅は浸るほど雨水に溢れ、もはや事務所を出ることもかなわない。
たかだか科学を覚えた程度の人間風情が太刀打ちできるわけもなく暴君が過ぎるのを待つばかりだ。
嵐の晩は心細くなる。
薄暗い仕事場で時を過ごす相手に恵まれたことは、果たして双方にとって幸だったのか不幸だったのか。悪魔使いとその悪魔。それも今日に限って、悪魔は人と同じ姿で。
目を合わすの事に抵抗を覚えたのがいつごろだったか、もう思い出せない。わかるのは、それまで自然に行えていたことが、ひどく難しいものになったという違和感とくすぐったさのみだ。
いくらぬいぐるみにも似た形状だったとはいえ、どうしてあんな風に密着して座ることが出来たのだろう。手を繋いで買い物に出るなど、今ではもう信じられない。ましてや隔たりのない同じ姿ならば、尚更。
気持ちの揺れと幅を表わすように、クッション一つ分あけてソファに腰掛けた佐隈とベルゼブブはひたすらに壁を凝視する。
間を持たせる為だけの会話はやはり長続きせず、どちらかが口ごもるたび、喉も乾いてないのにコーヒーに口を付けた。
仕事も生贄も済ませたベルゼブブは魔界に戻ることも出来たろう。けれどこのような日に女性一人置いて去るほど落ちぶれてはいない。若干の躊躇を覚えながらも、彼は残った。
同じく佐隈にもベルゼブブを返す選択肢はあった。空は暗く、雨風は吠え、蛍光灯は孤独を冷たく照らす。予想される気まずさを飲みこんで、彼女は彼と過ごす事を選んだ。
暴れる空の渦は、臆病を閉じこめる。
悪魔も人も、等しく臆病であった。無論、怯えているのは嵐に対してではない。
どちらの言葉も聞こえず続かず、潰さんばかりの長い沈黙が下りて、それに抗うように紅茶でも淹れましょうかと佐隈が席を立とうとした。
彼女が台所に向おうとしたはこれで三度目。
一度目はお茶、二度目はコーヒー。どちらも並々と器にたっぷりと注がれて、これ以上の水分は腹が受け付けない。
いえもう飲み物は結構ですよ、と慌ててベルゼブブが佐隈の腕をとる。瞬時にベルゼブブは我に返って、触れてしまった手を大袈裟に離した。
途端、閃光が走り、空が叩き割られたかのごとき轟音が耳をつんざいた。
二人は目を瞬かせて、思わず外へと目線を遣った。暗闇に塗りつぶされた窓の額の中を、幾度も稲光が走る。
恐ろしく美しい、絵画のような情景を眺めていた佐隈がぽつりと言った。
「雷がなったらおへそを隠さないといけないんですよ」
「は?へそ?」
「雷様におへそ取られるんですって」
「へそをどうやって」
「え?さ、さあ」
「ねじり取るんですかね」
「やめてくださいよグロいな」
「だって他にやりようがないでしょう」
「もっとファンタジックな取り方があるんじゃないですか」
「大体へそなんか集めてどうするんです」
「知りませんよ雷様に聞いて下さい」
「連絡先は」
「それこそ知りませんよ」
がたがたと大男が粗末なビルを揺するように壁と窓枠が震える。
やがて雨音が控え目になり静けさが顔をのぞかせると佐隈はふっと息を吐き、馬鹿ですねえベルゼブブさんは、と目を細めた。
がちがちに縛られた縄がほどけるにも似た、微笑みだった。
ああそうだったな。
彼女はこうやって笑うんだったな、と胸元を撫でられるようにベルゼブブは思い出した。
稲妻はようよう遠くなる。
「台風、過ぎますかね」
「どうでしょうね」
ソファに体を預けた二人の隙間はこぶし一つ分。
しばらく留まってくれればいいと口には出さず、悪魔と人は同時に考えた。




▲ モドル








呑まれて眠れ



「ウオオオオオオ」
「ウワアアアアア」
夕食の片付けをしている間にうたた寝をしていたはずのベルゼブブが、突然雄たけびを上げて飛び起きたあげく、四足歩行で台所まで這いつくばって来たので、思わず佐隈は拭いていたカレー鍋で殴った。
クリーンヒット。それはそれは力いっぱい叩きつけた銅鑼のように良い音で響いた。
大層痛かっただろうに、オームの突進さながら何者も蠅の爆走を止めることは出来ず、猛然とそれは佐隈の足元に縋りついた。
泣きわめく彼の言い分は、さくまさんは酷いひどい人だ、私の気持ちを散々もてあそんで傷付けた、夢の中で。
さすが寝ぼけているだけあって筋が通っていない。あずかり知らぬところで見た夢の責任まで負えと言われても。ふと見れば水のペットボトルの横に置いてあった調味料の蓋が開いてるのに佐隈は気が付いた。水とみりんを間違えるとはなんたる雑なミステイク。ドジっ子アピールでかわいいつもりか。
「酔ってるんですね?」
「よっへまへん」
人の事をどうこう言える立場ではないが、酔っ払った蠅は大変に面倒臭いのだ。夢や空想と現実の区別がつかないし、悲観的だし、妙に翅が忙しくなく動く。飛ぶの?今飛び立つの?ヘリなの?っていうくらい動く。こういう時はハイハイと優しく最後まで聞いてやるしか対処法はない。ブブブと音を立てる翅をよけて背中を叩きながら、で、どうしたんですかと尋ねると「さくまさんがハーレムを作った」などと非難がましく言いだした。
「さくまさんが私の城に君臨して、私を沢山かきあつめて、一番気に入った私と結婚するっていうんです」
ひどい。ベルゼブブが呻いた。
ひどい。佐隈も思った。
夢とは言えこの蠅は人の事をどんな女だと思っているんだ。
「最終的に妖艶な私と可憐な私が勝ち抜いて、いざ最後の選択となった時に佐隈さんが飽きて、じゃんけんで決めろって丸投げしだして」
本当にこの蠅は人の事をどんな。
宥める掌を拳に形につくりかけ、思いなおす。相手は酔っ払い、まともに取り合うと馬鹿を見る。
さくまさんは、さくまさんは、と繰り返すベルゼブブの呂律はまわらない。
「シェクシーなのとキュートなの、どっちが好きなんれすか」
「そうですねえ迷いますねえ」
喉元まで出かかった、どっちでもいいっす、を佐隈はかろうじて飲み込んだ。
「わたしはシェクシーでもキュートでもポップでもメタルでもさくまさんならいいれす」
後半の意味がわかりかねるが、はいはいありがとうございます、と騒がしい翅を撫でてやると腹にぐりぐりとベルゼブブは頭を押し付けてくる。照れているのかじゃれているのかは顔が見えないのでわからない。
私を選り好みするなんて、と押しつけられた胃のあたりから恨みがましい声が聞こえる。だからしてないっつうのと心でぼやきつつも極力優しい声を出し、うんうんごめんなさい、とでかい子供をあやしてやった。
さくまさんのバカ、人でなし、クソタレ、眼鏡、近眼、カレーシェフ。
再び眠気に飲まれ始めたか、八つ当たり気味で投げつけられていた悪態と悪態かどうか怪しい文言がだんだんと弱まっていく。それにつれて小さく旋風を巻き起こしていた翅も次第に落ち着き、やがてすっかりと大人しく背中に張り付いた。
やれやれと佐隈が巻きつく腕を解こうとすると、眠りについた口元が重たげに動く。
「……さくまさんが、さくまさんが望むなら、私は、」

思いつめたように眉間にしわを寄せた寝顔がほろりと告げた。

「アイドルをやめて普通の男の子になります……」

むにゃむにゃ。
そっと体を離した佐隈は小さな寝息に毛布をかけて、みりんを口に突っ込んで本格的に寝かしつけた。



▲ モドル