つ け る 薬 も な い




ベルゼブブはそれを、夏風邪だと思ったのだ。

身だしなみは最低限の礼儀と心得ている。人前はおろか自宅ですらだらしない格好は貴人としてすべきでない。その意思は、手入れの行き届いた燕尾服にもよくあらわれていた。
だからこそ、装飾の肝であるボウタイの歪みは、ベルゼブブにしては珍しい抜かりと言えよう。
アザゼルは男のなりなど見向きもしないし、アクタベはそもそも悪魔をただの道具とみなしている。気がついたのは佐隈だけだった。
ああベルゼブブさん、ちょっと。
言うが早いか、佐隈はベルゼブブの首元に手を伸ばして、その蝶の傾きを難なく整えた。さながら犬の首輪でも直すにも似た気安さで。単なる親切。掃いて捨てる程度の善意。ベルゼブブはそれに対して、おや、とでも首をすくめて礼を告げれば十分だった。
けれど、彼の五感が示したのは奇異なる反応。
さっと凍てつくように体温を無くしたと思えば、次の瞬間火で炙られたように熱くなり、呼吸の仕方を忘れてしまった。更に宙に浮いたような感覚にさえ襲われたものの、それは錯覚ではなく実際羽で浮遊していたからだと途中で気付き、何がなんだかよくわからなくなったところで、佐隈が不思議そうに首を傾げているのが目に入った。明らかに、どうしたこの球体は、という不審げな顔で見ている。
これはこれは失礼。私としたことが。
ベルゼブブは取り繕うべく羽毛を艷めかせ、なるべく優雅に映るよう会釈をしてみせた。
本当に、私としたことが。
顔から消した困惑の色を内心でぶちまける。困惑の中身は、らしくない自分への失望ではない。そのらしくなさが、一度や二度ではないという事実に対してだ。このところ、どうも本調子ではない。
安眠とは呼べない夜が続き、時折頭の芯がぼうっとし、どことなく気分が落ち着かず、常時体に熱がこもっているような感覚に苛まれ、薄い唇からは無意識にため息がもれる。
とりわけ眠りの浅さは深刻で、一応は枕に頭を預けてみるものの、暗く濁った魔界の空が更なる闇に沈みゆくにつれ、夜に揺すられるように、現へと引きずり出された。
固い床の上でも雨に濡れた路上でも、一度眠れば朝まで起きない図太く能天気な淫奔風情とは異なり、もとより寝つきが良い方ではない。理由もなく、ふと深夜に目覚めてしまうことなどこれまで幾度もあった。
ただ、毎夜といっても差し支えないほど続けざまその身に起こるのは実に稀で、彼の長く積み重なった記憶を探っても見当たらなかった。

その夜も漏れず、ベルゼブブは静かに眠りから覚めた。
まだ朝の気配は遠く、ヘドロのように重く垂れ下がる宵が窓の外を覆っていた。
目覚めるとはいっても、うなされて飛び起きるのではない。至極おとなしく、穏便に、すうっと眠りから抜け出すのだ。ベルゼブブはいつも瞼をおろしたまま、夢から手を離したことを知る。
そして、またかと失望を覚えることも腹立たしく思うことにも飽き、無感動に寝返りを打つ。再び眠りに導かれることを期待してもう一度打つ。更に打つ。往生際悪く、打つ。
由緒あるベルゼブブ家当主の寝台は広い。少しくらいなら一定方向に寝返りを打ち続けても、落ちることはない。だからといって、眠りの淵に落ちることも、残念だがない。
じっくり時間をかけて、綺麗に整えられたシーツの端から端まで転がる動作を二周ほど繰り返してから、ベルゼブブは諦めたように体を起こした。今夜は比較的、諦めが早い。長い時は、寝返りをえんえん繰り返す。最低五周は繰り返す。
その後の過ごし方は、色々だ。
大抵は読みかけの本を手にしたり、グラスにワインを注いで寝酒を嗜む。夜を持て余した紳士の振る舞いとしては及第点だろうが、あまり功を奏したためしがなかった。なぜか寝ぼけ眼でもないのに活字の連なりは上滑りして、上等な酒は水ほども味がしない。ぽかりと出来た空洞を退屈がひたすら素通りするばかり。
せっかくだから、古くから親交のある友に手紙でも認めてはどうか。そのように時間の有効活用を前向きに考えたこともあったけれど、よく考えると友達などいなかった。深夜、虚しい発見。
結局、この宙ぶらりんとした歯がゆい時間は、クロスワードや枝毛探しなど、無為であるからこそ没頭できる単純な行為に費やすのが一番であるとベルゼブブが思い至ったのは、つい最近のこと。
ベッドの端に腰掛けて、おもむろにナイトテーブルの引き出しに手を伸ばす。今宵お相手を務めるのは、事務所からくすねてきたビニール製のクッション材。暇を持て余した佐隈が、ぷちぷちとした感触に夢中になっているのを見て、半分馬鹿にしつつも半分なるほどと思い、失敬してきた。
ベルゼブブは背を丸めて、生真面目に膨れ上がった粒の列を指の腹で丁寧に潰し始めた。小気味良い音を立てて弾けるたびに、くすぶる破壊衝動がなだめられていく心地がする。
ぷちぷち。ぷちぷち。
時刻の針のごとく、広い寝室に規則正しく響いた。

いつからこんな夜が続いていたものか。
ある日突然、天災に見舞われたわけではない。肉や魚が時を経て発酵するように、不調は人知れず侵食していった。初めは意識の隅にも引っかからない、変化というにはあまりにささいなもの。例えば、あれほど研ぎ澄まされていた糞尿への嗅覚と興味がかすかに鈍り始めたことだとか。ふいに動悸が不規則に脈打つことだとか。それらがかさを増し存在を露わにし、いつしかベルゼブブに自覚を促した。
けれど悪魔は弱々しく儚い生にしがみつく人間のように、睡眠や栄養だけが命綱ではない。一ヶ月やそこら、睡眠が足らなかろうが食事を怠ろうが、その寿命にはなんら影響はなく、不調とはいえ生ぬるい異変に過ぎない。ただ、気分を掻き回されるような不快さがあるだけ。
ぷちん。魔性の指の下で、最後のひとつが厳かに圧死を遂げた。膨大な数の円が等しく荒れ尽くされた図は、ベルゼブブに不思議な達成感を与えた。やってやった。やってやったぞ。何をと問われても困るが。
そういえば、ぷちぷちと同じ音を立てていた佐隈は、潰し始めてからほどなく雑巾を絞るように両手で捻り上げ、いっぺんに蹂躙し尽くしていた。その際、奏でられた荒々しい破裂音(断末魔)が印象に残っている。
まったくこらえ性のない。こうして地道に時間をかけることに趣があるというのに。がさつな女だ。風情のない女だ。
クッションとしては役を失ったビニールの束を持ったまま、しばしの間ぼうっとしていた自分にベルゼブブは気がついた。はっとして、卓上にそれを放り投げる。じわじわと熱が体に宿り始めたのだ。ほら、今も頭の奥がしびれている。
なんと夏風邪は厄介なものだろう。

「事前に連絡しろとあれほど口酸っぱく言っているのに」
「すいません急に依頼が。でもメールしたと思いますよ?」
「思いますよ? じゃねーんだよ来てねえよ」
「魔界の電波悪いんじゃないんですかねアハハ」
嘴の奥が奏でた舌打ちも意に介した様子はなく、佐隈は颯爽とベルゼブブを置き去りにして台所へと消えた。今まさに煮込まれているのだろう、ふわりと生贄の香りが機嫌を取るようにして鼻をくすぐる。パブロフの犬のように、それだけでベルゼブブの口内は涎で溢れかえった。
つきまとう不調に引きずられ、常食としていた美味なる黄金への執着はじわりじわりと落ち始めているのに、不思議とカレーに対する食欲は反比例するように日に日に旺盛になってゆく。香りをかぐだけでもういけない。隠居しかけていた暴食が途端に目を覚ます。
こんな風に食欲に異常をきたすのも、やはり夏風邪ゆえなのだろう。
ベルゼブブはテーブルに用意されたカレー煎餅をかじった。

ベルゼブブが夏風邪夏風邪と盲目的に信じるに至ったかは、遠い昔の顔見知りに由来していた。

――どうも夏風邪をもらっちまったらしい。
その悪魔はベルゼブブよりもずっと年嵩だった。そこそこ強い魔力を誇り、若い女と契約を交わしたばかりだったと聞く。
魔界をろくに出たことのねェお前にはまだ早い話かも知らねェが、向こうの世界に入り浸るようになると、ごく稀に人と同じ病を患うことがあるのよ。なに大したことはねえ。ちっとばかし調子が狂うだけだ。噂には聞いてたが、まさか俺がそうなろうとはな。魔族の名折れだ、参った参った。

悪魔はそう一方的に喋り倒して、さして困った風でもなく頭をかいた。
特に親しい間柄でも、家同士の付き合いが盛んだったわけでもない、本当に只の知り合いに過ぎなかったから、彼がその後どうなったのかは、ベルゼブブの知るところではない。
魔界に生まれ落ちた者の多くは病をばらまくばかりで、自ら蝕まれることはない。風疹にもかからないし、癌におかされることもない。悪魔を苦しめ脅かしその命を奪うのは、神と神の御名においてその力を行使する者のみと決まっている。ゆえに、本来魔界の血族にとってそれは未知なるものだ。

人が疎ましそうに呼ぶ「夏風邪」の症状をベルゼブブは知らない。

かつての悪魔がまんざらでもなく語った「夏風邪」の正体も、ベルゼブブは知らない。

だから、次々と押し寄せて手こずらせる異変は、なにもかも夏風邪の仕業とベルゼブブは信じて疑わない。
纏う香水の量が少しずつ多くなっていることも、喚ばれない日が続くと苛々と頭痛がするのも、触れられると発火しそうになることも全て。
「カレーお待たせしました。……あ、」
だから。
「またネクタイ曲がってますよ。最近多いですねえ」
これも夏風邪のせいだ。召喚前に、ボウタイを歪ませてしまうのも。伸びてくる腕を心待ちにするのも。
「あ、ああ失敬」
咳払いをしようとしたら、さっき噛み砕いたカレーせんべいが喉に引っかかって、本格的な咳が勃発した。身を折り畳むようにして猛々しい咳をし始めたベルゼブブの肩、というかペンギンの背を、佐隈は気遣わしげに撫でた。
「大丈夫ですか? 風邪ですか?」
背が熱い。くらくらする。
手を添えたまま、佐隈は呟いた。
「今年の夏風邪はどうも長引くみたいですよ」

……ええまったく本当に。そのようですね。

ベルゼブブは深く深く、頷いた。