ス テ ッ プ ス キ ッ プ 






 そろそろレベルアップしませんか。
 丁寧に口を拭き取り、貴族然とした面立ちでベルゼブブは言った。佐隈はテーブルの正面に腰をおろして、食後のほうじ茶に口を付けているところだった。ゆっくりと飲みほしてから、たん、と小気味よい音を立てて、湯呑が卓に戻される。 
「インド人じゃないんですからあんまり辛くすると体によくありませんよ」
「カレーの話じゃねえよ!」
 えっ違うんですか、と心底意外そうにレンズの奥の目が丸くなる。
「ベルゼブブさんがカレー以外の話題を振るなんてことがあるんですね」
「お前腹立つな」
 薄ら額に浮かせた青筋をいけないいけないという風に早々に引っ込め、ベルゼブブはひとつコホンと咳を出した。
「私達がお付き合いしてからどれくらい経ったと思います?」
 そう問われ、佐隈は頭を捻りながら、ゆっくり指を折り始めた。その動きが緩慢で、更にええと、確か、だったような、などの曖昧さを示すワードがいくつも挟みこまれていたので、ベルゼブブの顔面にまた筋が浮き上がりそうになった。
 即答を 期待していて 馬鹿みたい (ベルゼブブ優一・心の俳句)
 ベルゼブブの憂いにも気付かず、何度も指を折り数えるのに忙しかった佐隈は、やがて自信に満ちた顔で指を三本立てた。
「三ヶ月です!」
「半年です」
 ベルゼブブが若干被せ気味に佐隈の回答を断罪すると、彼女はアッレエーおかしいなーと首を何度も傾げてみせた。悪気とデリカシーの欠片もない言動に、ベルゼブブは足首掴んでジャイアントスイングでもお見舞いしてやりたくなったが、すっかり冷めたほうじ茶と一緒に飲み下すことに成功した。これしきのことで挫けていては佐隈という生き物とは共に歩けない。
「ともかくですね、半年経ったんですよ」
 ベルゼブブが真面目な顔を作ると、佐隈も居住まいを正して向き直った。ベルゼブブは佐隈のそういうずれた律儀さを気に入っていた。
 彼らがこうしてくつろいでいる場所が佐隈の住むアパートである為、ベルゼブブは本人いわくプリチーなペンギンではなく、人の身と同じ姿を装っている。女が簡単にのぼせあがるであろうその美貌に一層の艶を乗せて、テーブルの上に置かれた佐隈の手を取った。
「私はね、さくまさん。私達のこの関係を一歩踏み込んだものにしたいと申し上げているんです」
 虫を吸い寄せる食虫花にも似た甘い声。
 手を人質に取られた佐隈は、束の間きょとんとベルゼブブを見つめていたが、すぐに意味を解したのか頬を赤らめた。その反応に気を良くしたベルゼブブは貴婦人に施すごとく、掌へ唇を落とす。ますます佐隈はゆで上がった。
「ふふふふ踏み込むって、関係を、踏み込むっていったい、」
 充分理解していらっしゃるようですがね。
 ひどく意地悪な、悪魔らしい笑みが薄い唇に浮かんだ。蠱惑的な魔性の笑みだ。美しいがゆえに底なしに恐ろしい。
 本能に従ってつい引き離そうとした佐隈の手をがっちりと絡め取ったベルゼブブはテーブルを乗り越えてにじり寄った。
「そう怯えなくても大丈夫ですよ。私が紳士であることをお忘れなく。性急にことを進める気はありません」
 今ならば佐隈が不安を感じても逃げないと知っているベルゼブブは至極優しい手つきで髪を、頬を、首筋を撫で、唇の端に触れるだけのキスをした。かつては、これすらも許されなかった。人との距離をとりたがる佐隈はスキンシップを過剰に避ける傾向があり、ソロモンリングの呪力を受けない姿では、なかなかベルゼブブを受け入れてはくれなかった。
 けれど他の男たちに向けられるのと同列の嫌悪ではなく、恥じらいや未知への畏れがそうさせるのだと彼は知っていたので、我慢強く、気の長い犬のように待つことが出来た。安易に餌に飛びついてグリモアで四肢を裂かれるよりはマシだった、とも言える。
「さくまさんはこういった事には不慣れですからね。しかし順序立てて乗り越えれば怖くないでしょう?」
 だから。
「これより先を許してもらえませんか」
「さ、先って……」
 耳元に吐息がかかるほどの距離で囁かれ、震える唇を噛みしめた佐隈を、ベルゼブブは天使もかくやという微笑みで包みこんだ。
 

接吻→実食→性交→結婚→出産


 ですからさあさあ次のステップに、と言いながら佐隈の下腹部(たぶん膀胱付近)を押し始めたベルゼブブの額に脳が揺れんばかりの衝撃が走った。佐隈による身をていした頭突きだった。
「痛えな!」
「私も痛いですよ!ああ痛い!そしておかしい!この順序はおかしい!二番目が他をぶっちぎっておかしいなあ!」
 体中を怒気で埋め尽くした佐隈は、おかしいおかしいと空になった湯のみでベルゼブブの額をリズミカルに殴打した。この姿でペンギン時に装着可のバリアを顔面に張るは難しく、交差させた腕で防御してはみたが九割防げなかった。
「落ち着きなさいさくまさん、どこかおかしいんですか」
「どこがも何も実食ってなんなんですか実食て! それが手順として入ってることもどうかと思いますけど、二番手て! 柔道でいったら次鋒ですよ! 次鋒の器ですかあれが!」
 ついさっきまでベルゼブブに迫られ、耳まで染めていた初心と同じ女とは認識しがたい。額をモーゼのように割られてはたまらないので、ベルゼブブは姑息にも目の前で手を打つ猫だましで佐隈の気を逸らし、湯呑を取り上げた。蝿の王は最強を名乗る割にはやることが小さかった。
「何が気に食わないんですかまったく。妥当な順番でしょう」
「妥当の意味を辞書で調べて百八回書き取りしてから言って下さい」
 ベルゼブブが額をさすりあげながら息をつくと、奥ゆかしくも凶暴な彼の恋人は大袈裟なまでに首を振って否定の意を唱えた。酒も飲んでいないのに完全に目が据わっている事がベルゼブブは少しばかり怖い。
 とはいえ佐隈が強く拒むのも無理からぬ話ではある。恋愛における初歩も初歩、キスにようやく慣れてきた若葉マークも初々しい段階で、世間一般から変態行為(ベルゼブブは断固否定するが)と烙印を押されているプレイを強要されては思わず人相も変わるというものだ。飛び級にもほどがある。レベルが違う。ヤムチャにフリーザは倒せない。
 佐隈は司令官のごとき厳しさを持って拳をテーブルに叩きつけた。
「とにかく無理です」
 常にない低音を吐きだした佐隈の異様な迫力に、ベルゼブブは一瞬身を縮めそうになってしまった。嫌なところだけあの悪魔より無慈悲な上司に似てきている。女としての成熟は望むところだが、そういう成長は歓迎できない。
 これまではここで尻尾を巻いて逃げだしてきたが、今日のベルゼブブは違う。屋敷の周りを十周ほどして気合いを入れてきたのである。羽で飛ぶだけだったので、汗一つかかなかったが。
 契約の悪魔としてではなく、真っ当なお付き合いをしている男としてベルゼブブには言うべきことがあった。
「さくまさん、私があれからずっと好物を禁じている理由、おわかりですよね」
 急に強い調子を取り戻したことに面食らったか、佐隈は戸惑いを滲ませたまま頷いた。
 ソフトに言えば佐隈が快く思わない、正確に言うなら、顔面を歪ませて嫌がったので、ベルゼブブは至高とも思える趣味をずっと中断していた。会う度、挨拶代りに消臭剤を噴きかけられるのは御免だった。地味ながらも精神的に傷付くし、目に入ると天罰を受けたように痛い。
 それでも悪魔と人が手を取り合って生きましょうと誓ったのだ。犠牲は避けられない。譲歩もしよう。けれど。
「私ばかり辛抱するのでは割に合いません」
 ベルゼブブはくるりと振り返り、戸棚の上に鎮座していた豚の貯金箱を手に取った。ずしり、と小銭が詰まった重量感がベルゼブブの両手を支配する。思った以上に貯めこんでいるらしい。途端、ああっと悲痛な声が上がった。
「これを窓の外に放り投げたらどうします」
「やめ、ベルゼブブさん馬鹿な真似はやめて下さい」
 縋りつく佐隈を振り払うべく、供物をささげる神官のようにベルゼブブは貯金箱を両手で掲げた。天井が低いせいでベルゼブブの指はがつがつと当たったが、今更下ろせないのでがつがつ当たらせておいた。佐隈は親兄弟の死に目でも見せるか見せないかの悲しげな瞳でベルゼブブの胸を叩いている。
「お願いだから返して下さい、私の36841円」
 一円単位で把握している執念に寒気を感じないでもないが、どれだけ必死であるかは充分伝わっては来る。弱々しく胸を叩く力が徐々に強さを増し、和太鼓を叩くにも似た激しさに胸板が砕かれそうになって来た頃、ベルゼブブは、掲げていた貯金箱をそっと佐隈に返した。
「さくまさんどうです、自分の大切なものを奪われる気持ちは」
 寂しげな流し目でベルゼブブがそう告げると、佐隈はハッとした顔で貯金箱を抱きしめた。
 佐隈の目が段々と遠ざかる。
 お茶を買ったつもりで投じた120円、バス停で拾った50円、自販機に残された10円玉、アクタベさんのお遣いのお釣り280円、これまで貯金箱へしまいこんできた思い出という名の小銭達が走馬灯のように過ぎて行った。やがて瞼を伏せた佐隈は、胸の中の貯金箱をベルゼブブに押し返した。こぼれる声が小枝のようにか細い。
「ごめんなさいベルゼブブさん、辛い思いさせてしまって……でもやっぱり今はどうしても無理です」
 お別れしましょう、と続けられるのではないかと、ベルゼブブは青くなった。が、佐隈は眼光強くベルゼブブを見上げた。
「ベルゼブブさんにばかり我慢させるのは不公平なので、これ、好きにして下さい」
 貯金箱を胸にぐいぐいと押しつけられながら、ベルゼブブは思い出した。恋をして、ひねくれて、焦れて、切なくて、半泣きで打ち明けて、受け入れてもらった日のことを。神に感謝など殺されてもするはずもないが、一粒の奇跡をもたらしてくれた彼女には身がよじれるほど感謝して、悪魔の本分を忘れた。選んでくれたのだから、何も望むまいと決めたのだった。そして半年で忘れた。悪魔だから仕方ない。
「さくまさん、悪魔に貨幣は不要なものです。そう言ってくれたあなたの気持ちだけ対価として頂きます」
 小銭を差し押さえられて涙目だった守銭奴は親愛と幸福の眼差しでベルゼブブを見た。ベルゼブブから返還されたそれを形だけでも遠慮しないのはさすが佐隈と言えよう。いっそ清々しささえ感じる。
 この調子ではしばらく黄金を口にするのはお預けだろうが、ベルゼブブの表情に影は落ちていなかった。かぐわしいスイーツが遠ざかった代わりに、彼が手に入れるもの。ああまで追いつめてもグリモアを持ち出さなかった佐隈の真心がひとつ。それともうひとつ。
「当分、順序はあなたに合わせましょうか」
 恋人の優しい声色に佐隈はほっと息を吐いて、
 ―――それから気がついたように、おそるおそるベルゼブブの方を伺った。
 見下ろす青い瞳と目が合う。悪魔は艶然とした微笑みをたたえて頷いた。

「そう。順序にならうなら、キスの次は」

色味の異なる期待にらんらんと輝くベルゼブブの瞳に、佐隈は声もなく押し倒された。