魔 リ ッ ジ リ ン グ 





ベルゼブブは説教が長い。
人の重箱の隅をつつくのが好きだ。本当に好きだ。一度火がつくともう止まらず、身についた高貴かつ嫌味な口ぶりに棘をふりかけては小姑のように小言を並べ、過去の話までほじくり出しては駄目だしのパレード。よくこれだけ湯水のごとく人を罵る単語が出てくるものだと感嘆するほど。
付き合い出した当初は佐隈もいちいち腹を立てたり反論して見せたりと、ベルゼブブの垂れ流す声高な演説に律儀に反応していたものだが、今ではああ趣味なんだなと割り切れるくらいには寛容になってきていた。
あくまで慣れであって、快いかと問われればノーである。
佐隈は高飛車な物言いや高圧的に詰られることに快感を覚える性癖には縁がない。そういった柔軟ささえ備わっていれば、この一方的なベルゼブブラジオも楽しめていたかも知れないが、あいにくそちらの世界に招かれる予定はない為、この時間はハイハイと大人しく聞いている振りをして、クリーニング取りに行かなきゃ、明日雨だなあ、ヒールの折れたパンプス修理出そうかな、面倒だから自分で直そうかな、木工用ボンドじゃだめかな、あー間違って油田手に入らないかな、などと意識を違うチャンネルに合わせて過ごすのが常だ。

今日も今日とて佐隈のアパートで食事を済ませたあと、寝癖をつけたまま出社したことをネタに始まったベルゼブブのねちねちとした飛礫の数々を、佐隈はいつものようにおかきなんかつまみながら聞き流していたが、普段に比べてどうも長い。
同じ頃スタートを切ったドラマでは冒頭で起きた殺人事件の真相がついに突き止められ、犯人が涙ながらの自供を始めたというのに、ベルゼブブの方は未だエンディングロールが流れる気配がしない。何がそんなに気に食わないのかと耳を傾けてみれば、年寄りの昔話みたいに同じ話を五回くらい繰り返していて、目新しい話題などひとつもなかった。
彼のしつこさに慣れているとはいえ、流石に佐隈もつい眉をひそめてしまう。
そもそも今日は喚び出した時点で、様子に違和感があった。妙に落ち着きがなく、気もそぞろ。佐隈がどうしたんですかそわそわして、と何気なく言うと、だっ誰がそわそわなぞ!してるかァ!ドブスがぁ!と全くスイッチの位置がわからない沸騰の仕方をして、佐隈を困惑させた。
うわーなにこのひと、いつもより輪をかけて扱いづらい。生理か。
アザゼル並みの下世話な勘繰りがよぎってしまったのはひとえに情緒不安定な悪魔のせいである。
「要するに、伴侶としてもっと自覚をして頂きたい」
望んでもいないロングラン小言は佐隈の神経を少なからず逆なでしていた。だから、普段ならまともに取り合わず、耳に入れても右から左に通過させるばかりのちょっとした誤りにも突っかかりたくなる。
「別に伴侶じゃありませんし」
「はい?」
「自覚も何も、私はベルゼブブさんの伴侶じゃないって言ってるんですよ」
苛立ちを伝えるべく、佐隈が舌打ちさえも添えてそう言い放つと、ベルゼブブは呆けたように口を開けたあと、宝の持ち腐れと揶揄される麗しいかんばせを張り裂けんばかりに歪ませた。その牙を剥く口から出るは言葉にならない奇声。獣の襲撃を受けた鶏小屋のごとくピギィィピギィィとやかましいことこの上ない。佐隈は思わず耳を塞いだ。あまり騒がれて変な噂が立つのは困る。この賃貸はペット厳禁。
「うるさ……っ、せめて人に通じる言葉で喋って下さい!」
ちらついたグリモアに怯んだか、意味を成さないヒステリックな鳴き声に言語らしい発音が戻り始める。
「は、ははは伴侶じゃないとはどういう了見だこのアマ!あなた私をこけにしているんですか!」
「えっ……ちょ、きったな!」
口を開くたびに飛びかかる弾丸にも似た唾を避けるのに佐隈は忙しい。全く貴族が聞いてあきれる。
「遊び?単なる遊びだったんですか!あなたにとって!私ただの通りすがり?ちょっと振り向いてみただけの異邦人でしたか!?」
「ベルゼブブさんけっこう日本の文化詳しいですよね」
そぉんなことはどうでもいいんだよ!とベルゼブブは頭を抱えて背骨の限界まで反り返る。
「なんという尻軽!なんという軽薄!悪魔と一晩のアバンチュールとは未だクソッタレ処女の癖に大したタマだよてめえは!」
「だからそうじゃなくて、まだ伴侶ではないっていう、現状では正しくない表現っていう意味で、ともかく少し落ち着きません?」
自分で吐いた「一晩のアバンチュール」と「処女」の矛盾に気が付いていないないあたり、悪魔の混乱は深いと思われる。ささやかな佐隈の宥めも焼け石に水で、ベルゼブブの荒ぶりはおさまらない。
「許さん、許さんぞ!このベルゼブブを弄んでただで済むと思うなよ!」
野犬のように険しく唸り、大きく振った手は燕尾服の懐へ。
「目にもの見せてくれる!」
妙な真似をしたら体に風穴を開けてやろうとグリモアを胸に構えていた佐隈は、吠えた悪魔に手を取られた。ずいぶん獰猛な気配で飛びかかって来た割に、触れる指はやけにおっかなびっくりで、逆に抵抗できなかった。
「………なんですかこれは……」
「見ればわかるでしょう」
左手の薬指を圧迫する感触。紛れもなくこれは指輪。
男が女に贈り、贈られた女が頬を染める愛の証。けれど佐隈の頬は一向に変化しない。
指に巻きつくそれは、金でも銀でもプラチナでもなかった。黒かった。大層黒かった。黒いだけならまだしも、巨峰一粒はあろうかという禍々しい髑髏が並々ならぬ存在感で飾られていた。
「なんなんですか……」
佐隈は顔に茫然を貼り付けて、もう一度問うしかなかった。その冷え冷えとした肌とは対照的に、頬を薔薇色に染め上げているベルゼブブがそっぽを向いている。まさか照れているのか。この温度差で。
「三千年契約ですざまあみろ」
はあああ!?と佐隈は素っ頓狂な声を上げた。
「要するに一生私とは切れないということですよ、グリモアの契約とは別件で。私から離れようなんて甘いんだよクソビッチが」
慌てて抜こうとしたが、絡みついた髑髏はぴくりとも動かない。
「うわあああ抜けない!」
さっきまでみっともなく騒いでいたのはベルゼブブの方だったと言うのに、立場がそっくり入れ替わってしまった。今やその顔に浮かぶのはしてやったりという得意気な笑み。
「そう簡単に抜けるものですか。ベルゼブブ家931代分の威信を軽んじないで頂きたい。子供だましの石ころのような代物とはわけが違うのです。その指にはめた意味、おわかりですよね?」
頭上の悪魔の言葉に、歯を食いしばってまで指輪をむしり取ろうとしていた手が止まる。眉間に皺という皺を寄せて顔を上げ、佐隈は重々しく口を開いた。
「もしかして、結婚……指輪……?」
ベルゼブブは、癪に障るくらい恭しく頭を垂れて「ええ」と頷いて見せた。
佐隈は黙した。呆気に取られていたと言ってもいい。瞬きを忘れて数秒後、開いたまま放置されていた唇が叩き起こされたごとく動いた。

「やだ―――――――!!」

佐隈の迷いなき悲鳴は快活に響いた。
「やです、やですよ、なんで結婚指輪が!しゃれこうべ!全然幸せの予感しない!」
「さくまさん、魔界では髑髏はオーソドックスな意匠ですよ」
「魔界のオーソドックス知りませんよ!しかも髑髏がリアルすぎて怖い!デフォルメとか一切ないじゃないですか、本気の髑髏じゃないですか。なんかもう今にも喋り出しそ」

『汝、健ヤカナル時モ、病メル時モ、喜ビノ時モ』

しゃべったアアアアア

カクカクと動きだした骸骨の下顎を、佐隈は半狂乱で抑え込んだ。
「喋ったんですけど!!喋ったんですけどこれ!!」
自分の下顎もカクカクとシンクロさせた佐隈の肩に手を添え、ベルゼブブは空々しいほど碧い目で見つめる。
「証人でもありますので」
ただ夫婦を結び付けるだけに留まらず、婚姻を司り、誓いを見届ける責務を担っているのだと、至極真面目な顔と声色で悪魔は告げた。常識ですよ、というテンションで語られても、なんと返答して良いやら、もはや佐隈にはわからない。殴ったらいいのか、それとも更なる説明を求めるべきなのか。いや説明が説明になっていない。説明の更なる説明が必要だ。ややこしい。魔界ややこしい。
抑え込んでいる手の中で、今も指輪がぼそぼそと何かを喋り続けている。誓うまで黙らないのかと佐隈が視線で伺うと、ベルゼブブはそうですと目で応じた。おそるおそる、佐隈は指輪から手をどけた。

『……ナル時モ、病メル時モ、喜ビノ時モ、以下略、四肢ヲ裂カレル仕置キを食ラウ時モ、嫁ガ悪酔イスル時モ、蠅ガスカトロノ誘惑ニ負ケル時モ、』

具体的。
佐隈は再び、そっとドクロの口を封じた。
「いや……これは……ちょっと……」
「どうしてですかさくまさん、何を躊躇することがあるんです?私は、私なら、いくらでも誓うことが出来ます、例えあなたが再びアホ丸出しのとちおとめの道を進んだとしてもホゴオ」
苺戦士の話を出されると拳が火を噴くのはもはや癖である。勢いよく後方に吹き飛んだ悪魔に向って、佐隈はきっと目を吊り上げた。
「躊躇しますよしまくりですよ!喋る指輪つけてこれからどう過ごせって言うんですか!」
クレーター並みにへこんだ頬をさすりながら体を起こしたベルゼブブは、ああそんなことかと目を細める。
「その点についてはご心配なく。こちらの髑髏は比較的寡黙な性分で、たまにしか喋りません」
「たまにでもしゃべる可能性秘めてる時点で充分指輪としてアウトですよね!?」
強く主張したところで魔の住人。人の理屈が通じないのか、首なんか傾げている。あまりの歯がゆさに声が裏返った。
「こんなのずっとつけてたら私のあだ名デスメタル間違いなしです!面と向かって言われなくても、影で絶対言われてる!携帯の登録とかデスメタルで登録されてる!どうしてくれるんですか冠婚葬祭とか!!ほんとのデスメタルの人でも葬式の時くらい外すんじゃないですか!」
それに就活なんか一発レッドカードですよ!と勢いに任せて口走った瞬間、それまで気圧されていたベルゼブブの眉が跳ね上がった。
「就活ゥ!?この期に及んで悪魔使いがなにほざいてんだ!就職なんかさせるわけねーだろアクタベが!何よりこの私が!」
背に黙って張り付いていた翅が、魔性を思い知らせるごとく大きく広がってゆく。
「どうあがこうと嫁に来るんだよテメエは!泣こうが喚こうが、引きずってでも連れて行く!残念だったなァ、ほどよく遊んで適当に別れるつもりだったんだろうがそう上手い話があるものか。甘いんだよ、その考えは角砂糖より甘いんだよ!どれほど拒もうが厭おうが無駄な抵抗だ、蠅の王に侍って一生を暮す誉れと絶望に打ちのめされるがいい!」
目は赤黒く染まり、闇を食む牙が口元を裂く。佐隈は飛んでくる蠅を叩き落とすにも似た仕草で、うるさそうに言った。
「だから結婚するのは構いませんけど、この指輪が嫌だっていってんですよ」
「今更何をいおうが、……っ!?」
噛みつきそうな格好のまま、はたと動きが止まる。
閃光のようにカッと一瞬、体中に朱が走ったかと思えばくるりと背を向けて、そうですか、なるほど、指輪がねえ、ええ、結婚は、いいと、ほう、ほう、あーそうでしたかあ、結婚するのはいいのかあ、とベルゼブブは腕を組みながらごにょごにょと呟いた。相手は壁。
たとえ悪魔が知略を巡らそうとも、契約の身。佐隈が婚姻自体を受け入れるつもりがなければ、グリモアの裁きによってベルゼブブの体躯は最低6つに角切りにされているであろうし、そもそも指輪をはめるまで至るまい。
「わかってもらえました?」
佐隈がそう声を投げかけると、壁に向かって独り言を流し続けていた背中がおずおずと振りかえる。人差し指同士を絡めて、恥じらう素振りが若干腹立たしい。
「しかしあの、この指輪は代々受け継がれている由緒あるものですし、何より私の執ね……愛が込められているのです」
「いま執念って言いましたね」
ベルゼブブは綺麗に無視して続けた。
「まず、三日三晩注がれた私の魔力とベルゼブブ代々の力により、あなたの身を守ることができます」
「はあ」
「簡単な意思の疎通も可能で、離れていても危機をすぐに察知することも」
「そうなんですか」
「道しるべとしての役割も果たしますので、魔界で迷子になることもありませんし、勿論コンパスとしても使えます。そうだタイマーもついてますし、音楽も200曲までなら取り込めます」
ベルゼブブ家当主による過剰な売り込みはしばらく続き、金属探知機、熊よけの鈴、800を越えるレシピブック、万歩計など数々の機能が搭載されていることが次々と明らかになったがどうでもいいので詳細は省こう。
受け取って欲しいとの熱意は確かに伝わった。
しかしこんなにお得、こんなに便利と力説されればされるほど、佐隈にもたらされるのは冷静である。指輪に、指輪以上の意味はいらない。
「すごいのはわかりましたけど、色々気が散るんでフツーの指輪にしてもらえませんか。ダイヤとかそういう」
じろり、と垂れ気味のまなこが佐隈をねめつける。
「あなた換金するでしょう」
「しっ、しませんよ……!」
人を金の亡者みたいに、口をとがらすと、そのものではないですかとベルゼブブの掌が佐隈の頬をむにっとつかんだ。
「質にでも入れられたらかないませんからね」
いくらなんでもそんなことは、と言いかけて自分を包んでいる魔族の指が目に入った。
「そういえばベルゼブブさんはしないんですか?」
夫婦ともに身につけるのが一般的だろう。指の数が違う為、どこが薬指にあたるのかは不明だが。ベルゼブブは意外そうに目を丸くした。
「あなたと同じものをですか?」
「はい」
「やだよダッセエ」
悪魔はさきほどより2m後方に飛んだ。
「人にくれておいてダッセエってなんなんですかー!」
「個人的にあまり好ましいデザインじゃないんですよ、ごつくて品がありませんし」
「それこっちの台詞!全面的に私の台詞!ふざけんな蠅このやろう!」
「いってえやめろバカ指輪で殴んな!余計いてえ!」
馬乗りになった佐隈の拳が乱れ打つ。
一方的な暴力が繰り広げられ、目を覆いたくなる惨状が部屋を満たし始めた頃、朗々と誓いの言葉を述べていた髑髏がまばゆく光り、すぐに沈黙した。
面食らった佐隈は複眼を握りつぶしていた手を止め、ベルゼブブもひっくり返された亀のような構えを解く。ふいに訪れた水を打ったような静けさに二人もまた口を閉ざし、固唾を呑んで動向を見守った。
やがて髑髏の口が滑らかに動き出した。

『玉葱ヲ飴色ニナルマデ炒メマシテ、一口大ニ切ッタ牛肉ヲ加エマス。軽ク火ガ通ッタラ水ヲ』

バグッていた。
振っても叩いても、甲高い声でのおいしいカレーの作り方のレシピが止まらない。長時間佐隈に下顎をがっちり抑えつけられていた為か、はたまたナックルよろしく凶器として使用された為か、原因ははっきりしないものの、とにかく盛大なエラーであることは間違いなかった。
佐隈の指ごと掲げて眺め、散々指輪をいじくり回したベルゼブブはやれやれと息を吐きだした。
「ふむう、どうも欠陥があるようですね。メーカーの方に出さねばいけないようです」
あ、メーカーとかあるんだ、とごくごく微量な驚きがよぎったが、今更取り合う気にもならなかった。
「修理とメンテナンスが必要ですね、仕方ありません仕切り直しです」
惜しむベルゼブブをよそに、佐隈は心中で歓喜の声を上げた。心だけに留めることができずあふれ出る安堵感がわずかガッツポーズとして現れてしまうほどに。
一生喋るしゃれこうべがつきまとう危機からひとまず逃れたと、ほっとしたのも束の間。
「指輪、おくるんですよねメーカーに」
「ええ」
「じゃあ外さないと」
「そうですね」
「どうやって外すんですか?」
「……………さあ」
もうベルゼブブは数m後方に吹っ飛ぶだけでは済まなかった。


「ためしに誓いの言葉、言ってみましょうか?」
「そんな成り行き上で誓うのはいやです」
「ならば誓いのキスではどうですか」
「いよいよいやです」
「もしや夫婦として肉体関係を持つことにより指輪が抜けるということもあるかも知れませんねどう思いますさくまさ」
「新郎がもう一度骨も残らないくらい木端微塵になったら指輪も抜けるんじゃないですかどう思いますベルゼブブさん」
「いやです」


数時間後、件の指輪は石鹸で洗ったら抜けた。