恋 に も 満 た な い 






順番をつけられるのは嫌いだ。
誰しもそうだろうが気分の良いものではない。値踏みされる煩わしさそのものより、自分の存在が頂点でない事実、それを思い知らされるのが実に不快だ。
たとえはっきりと明言されなくとも、間接的に伝わるなら同じことだろう。我慢ならない。己の価値が他者より下位に位置づけられることを許せるはずがない。
誰かに跪くのではない。跪かせるのだ。君臨し、見下ろし、蹂躙する。その立場を与えられてしかるべきだ。自分には見合うだけの力も、地位も有り余るほどにこの手に携えているのだから。
ごろりと寝がえりを打つ。ベッドに入ってからどれくらいが経過したことか。
どうも生まれつき寝つきが悪い。枕に頭を預けると、意思に反して思念が目覚めるせいだ。


ベルゼブブは己のどの姿にも誇りを抱いている。蠅の王として全て解放した身には魔族もひれ伏す圧倒的な魔力と畏怖が溢れ、ソロモンリングの呪力を受けた時さえ愛らしさと気品を兼ね備えている。魔界において正式な、今のこの姿についても言うに及ばずだ。
美しい、禍々しい、恐ろしい、おぞましい。
ベルゼブブに浴びせられる賞賛の声。そのどれもがベルゼブブの魔性を称え恐れ敬い、彼の矜持を快く保った。
引け目を感じる要素などひとつもない。全てがベルゼブブの為にあつらえられた完璧な器。この手には全て約束されている。
ベルゼブブは魔界を掌握するどす黒い菖蒲色の掌を見つめた。
―――もうひと働きお願いしますねえ。
ぶにぶにとあつかましく羽毛を撫でつける細い指が、なんの前置きもなく脳裏に現れる。あの女は遠慮と言うものを知らない。

今日は久方ぶりに、人に変じて事務仕事を処理を助けた。アクタベは不在。アザゼルは戦力外。
徹夜明けのさくまは半分目が閉じていて、あまりに役に立たなかった。
仕事は代行できても生贄は本人に用意して貰わねばならない。フラフラのさくまがフラフラのまま包丁を持って台所に立った数分後、色気のない悲鳴でベルゼブブの作業は中断された。
血を流しても覚醒しないとは、よほど寝不足と見える。手当てをされている間もさくまの瞼は重そうに垂れさがっていた。ドジ馬鹿アホ仕事増やすなクソの説教も聞いているのかいないのか。傷付いた一本に寄り添う四本の指が大人しくベルゼブブに預けられていた。
ベルゼブブは人の姿。悪魔使いのさくまは人間。
治療を介して触れあう五本の指と五本の指はしっくりとなじんで、見た目にも感触にもまるで違和感がなかった。
くるくるとベルゼブブの偽物の指が動く内に、怪我をしていないはずの隣の指まで包帯で巻き込んでいた。巻き終わる頃には、人差し指と中指はいっしょくたにまとめられ、さくまの指は四本に。
なんでこっちの指まで巻いちゃったんですか、と眠たげで力のない抗議に、ベルゼブブが返せたのは、さてなんででしょうかね、と茫洋とした返答と瞬きひとつ。嘘のようだが手が勝手にそう動いた。
身動きしくそうに包帯でくくられた部分を曲げ伸ばししたあと、でもありがとうございます、と五本指でなくなったさくまは目を細めた。

使い魔は主人の都合によって喚び出され、用が済んだら帰される。
こちらから命令など出来るはずもない。言うには言えるが強制力は無に等しい。
敵を八つ裂き、はらわたを震わせて地獄を見せ、奥底の闇をもつぶさに暴く、暴食の魔も正当な取引を交わした契約者の前には無力だ。従者その一に成り下がるばかり。従者は従者らしく主の意のままに働き、働き、働き、多少の理不尽や労働環境への不満を飲み込み、時に吐き捨て、相応のお仕置きを食らい、飢えを満たす生贄をほどこされて所有される。
従者は掟を違えない限り主のもの。
悪魔がどこで何をしてどのような思いを抱え、いかな夢を見ようが、主のもの。主の命の上を行く優先事項はない。ベルゼブブが構築するヒエラルキーの頂点にはさくまだけが立つ。


更けゆく夜に宥められ、とろとろとベルゼブブの瞼が温まってくる。
いつも三時になるとさくまはコーヒーを淹れた。その日事務所に居る人数分のマグカップを用意して。
なみなみと注いだそれらを、ベルゼブブと二人の時は、ベルゼブブに先に寄越した。アザゼルと三人の時は両手にカップを持って、アザゼルとベルゼブブ同時に渡す。アクタベが居る時だけは違った。淹れたばかりのコーヒーは一番にアクタベの机に置かれた。必ず。
他意はないのかも知れない。上司に対する単なる礼儀にも見える。彼との接触で彼女の頬は赤らむことはないし、名を呼ばれたところで声も上擦らない。残業を頼まれればあからさまに不服を漏らす。先の事は知れぬが、今のところ二人の気配に色はない。恋には至らない。
それでも、彼女が危機に瀕して真っ先に頼るはアクタベだろう。その力ゆえ、その信頼ゆえ。第一にさくまがその唇を動かして発するのはベルゼブブの名ではない。
外での交友関係は把握していないので省くしかないが、事務所内だけで言えば、さくまの優先順位は明らかだ。悪魔より悪魔めいたあの男が誰よりも先を行く。冷血極まる背中は未熟な弟子を守る術を心得ている。弟子もまた、それを知っている。だから万が一の場合には迷わず縋る。
コーヒーの湯気はそれが道理というように、高いところ高いところへ目指してのぼっていく。

さくまのヒエラルキーの頂点に、ベルゼブブはいない。

白くて温かい五本の指が、眠りに落ちそうな思考を撫でる。
己が身に纏う爪ひとつにさえ、疑問も不満も寄せ付けたことはなかった。掌に生える四本の指。充分だ。思い描く全てを握り締め、好きな時に潰すことができる。取りこぼす恐れなどあるはずはない。
包帯の巻かれた不格好な四本の指が、ベルゼブブの瞼をおろしていく。
他種族の体の構造に、関心を抱いたことなどなかった。違うからどうした。指の多い少ないにどんな価値がある。人の手に余分な指が一本が生えているだけだ。自分が欠けているわけじゃない。優劣の差は足りない指の部分にあるわけじゃない。
同じ形、同じ指の数であれば、もっと上手く捕まえられるなんて、何故思う。まったくの無意味。
このベルゼブブという強大な悪魔と契約しておきながら二の次にあしらう契約者の傲慢が面白くないだけだ。献身的な働きが正当に評価されない現状に歯がゆさを覚えているだけだ。
嘘を食い破る牙も、深淵を知る双眸も、闇夜を駆ける翅も、欲をひとつかみにする掌も、すべてが彼女のもの。
彼女は、ベルゼブブのものではない。

けれど。

眠気が柔らかくベルゼブブを抱き込んだ。
伏せた睫毛に意識を溶かして祈る。

あの男のものでもない。誰のものでない。
まだ、彼女は誰の手にも落ちていない。誰の恋にも捕まっていない。

悪魔の薄い唇から、ようやく寝息が洩れ始めた。

自分もまだ、恋になんか捕まっていない。