ひ と つ 私 に く だ さ い な





時刻は世で言う三時のおやつ。
気取った貴族のリクエストにお応えして、珍しく時間をかけて紅茶を淹れた。しかもお手軽なティーパックは使わず、お歳暮で頂いた上等な箱入りのブランドの茶葉。
特別な意味はない。今日は朝から客の姿もなく、溜まった報告書も依頼もなく、時ばかりは豊富で、有り体に言うと暇だった。普段なら面倒くさい、の一言で省略間違いなしのティーカップを温める手順すら忠実に踏むほどに。
雇用主が好んで飲む為、お茶と言えばコーヒーという習慣が身についていたが、たまには華奢な器でゆっくり味わう紅茶も悪くない。
用意した二人分をテーブルに置き、ソファに腰掛けながら、カップから溢れる香りを胸に吸い込もうとした、その時。
「茶色い物が食したいですね」
佐隈の上機嫌は急降下した。
もしそれが違う誰かならば、なんら引っかかりのない、気にも留めない一言だが、発したのはすまし顔で紅茶に口を付けているベルゼブブである。世は広い。茶色くておいしいものは数えきれないほどあろう。が、しかし彼という存在から導かれるものはひとつだ。
今まで散々繰り返してきた事であるし、この優雅なひと時に、嗜好の差でもめる不毛なやりとりは正直避けたい。
ぐっと堪える佐隈をよそに、茶請けのクッキーをかじりながら隣の鳥は尚も続けた。
「茶色くて甘いものが」
耐えた分、いらない情報が追加された。
具体的にどんな味わいなのか聞いてないし、聞きたくないし、分かち合えないし、胸にしまっておいて欲しい。
紅茶が冷めるよりもずっと早い速度で、佐隈の目がひんやりとした色を帯びてゆく。
「そういう発言、飲食中は控えてもらえます?」
お経のごとき感情のない声に、込められた静かな怒りを察したか、ベルゼブブは慌ててクッキーを皿に戻した。
「何か誤解されているようですが、その想像は正しくありませんよ!?」
信用なるものか。佐隈が訝しげに目を眇めると、ベルゼブブはやや俯き加減で蝶ネクタイを直した。
「私が申し上げているのは、三文字で最後にコがつくものです」
よくもまあカップの持ち手を砕かずに済んだなと佐隈は自分を称えた。佐隈の想像になんら間違いはない。三文字で最後にコがつくのである。
ああ、そうだろそうだろ、最初からそんなことはお見通しだよ。ついでに言うなら真ん中は「ん」だよ。真実は予想を裏切りませんよ。
「更に言うなら、最初の一文字はチです」

!!?

まさかの頭文字。早々に裏切って来た真実に思わず佐隈の顔色も変わる。虚をつかれた分、頬を素直に赤らめてしまった。
その初心な反応を、恥じらいと取ったベルゼブブは得たりとばかりに頷いて見せた。
「おわかりになりましたか。そう、それです」
念を押されて佐隈は言葉を失う。
「佐隈さんもお好きでしょう」
「な……っ、別に好きじゃないですよ!」
佐隈が猛然と飛ばした紅茶と唾の滴りを拭きながら、そ、そうですか?とベルゼブブがたじろいだ。
職能・淫奔のみならず、この蠅まで、と佐隈は肩をいからせる。趣味は頂けないにしてもそれなりに紳士だったはずが、所詮は悪魔。可愛いのはその羽毛だけ。
もうなんなのこの職場、セクハラしなきゃならない規則でもあるのか、業務上の義務か。それとも日々の挨拶か。そんな挨拶、東京湾にでも沈めてやろうか。
出るとこ出て訴えてやってもいいんですよ労働基準監督署に! 悪魔見えないけど!
と、怒りに震えたところで、ふと思い返す。
最初にベルゼブブは、それを食したいと言った。あれをどう解釈して良いものか判断がつかず、佐隈は怒気を引っ込めておそるおそるベルゼブブを伺った。
「えーと、あの、ベルゼブブさんもお持ちなんじゃないですか……」
セクハラ慣れしているとは言え、肩書きは立派な処女。はっきりと口に出すのも憚られ、極限までぼかして伝える事しか佐隈にはできない。
ベルゼブブは意味深にも見える寂しげな微笑みを嘴に乗せ、視線をわずかずらした。
「自分のものでは意味がないでしょう」
しばしその言葉を噛み砕き、噛み砕き、飲み込む頃には佐隈の頭のてっぺんから、かいたことのない種類の汗が噴き出していた。
自分以外のそれが欲しい?

え、もしかして、そういう、方面の、おはなし、ですか……?

だらだらと流れる汗が背中をウォータースライダー状態で滑って行く。季節は冬、節電の為に暖房も抑え気味だというのに炎天下のごときに止まらない。
恋愛に垣根はないし、例えそれが同性同士であっても、当人さえ良ければ構わないと思う。強い嫌悪感も偏見も、佐隈にはない。
が、何故このタイミングでのカミングアウトを。
そして何故に打ち明ける対象がこの私。
もしや、その苦しい境遇や報われない思いに対してアドバイスを求めているのだろうか。もしそうなら、残念ながら期待に応える事は難しい。
友人達による彼氏との悩みやノロケでさえお腹一杯で持て余しているくらい、相談役としては不向きな人種であるのに、ドーム三つ分くらい違う重さの話題にどう立ち向かえと。かつてない緊迫感の中、もはや味のしない紅茶で喉を潤す。不自然ではない対応を、と必死に心がけた結果、電子音みたいな棒読みになった。
「ウンソウデスネ、ソウイウモンデスカネ……」
どうか、相手がアザゼルさんやアクタベさんではありませんように。
惚れた腫れたは自由ですけど、これからも通勤せねばならない職場で生々しい想像はさせないでください。出来ればそっと知らないところでお願いします。
頭の中でぐるぐると回る言葉は現実には口から出る事はなく、佐隈はどこか虚ろな目で、テレビから垂れ流されるワイドショーを眺めるしかなかった。
気まずさを覚える程度の沈黙が下りた後、膝のあたりに気配が蠢いた。ベルゼブブが距離を詰めたのだと、視線を落としてから気付く。ヒレがちょこんと縋るように触れていた。
ベルゼブブは眠たそうな眼を精一杯開いて、佐隈を見た。
「佐隈さんのを頂きたいのですが」
一度は命拾いをしたカップの取っ手は、今度こそか細い悲鳴を上げてその生涯を閉じた。
怒りのあまり粉砕したのではない。許容の範囲を越える混乱の衝撃によるものだ。
意味がよくわからない。いや、よくわからないなんて柔らかい表現で甘やかしてどうする。徹底的にわからない。一から十まで、隅々わからない。
佐隈さんの、と求められても。
「あの……私、ももも、持ってません、が」
つっかえつっかえ、しどろもどろに息を吐く。
ここで大真面目に答える佐隈も佐隈だが、あまりにも欠けた余裕が頭の回転を鈍らせた。
「今すぐにとは申しません」
「えっ……そ、そう言われても」
勝手に将来に可能性を見出されても困る。
思春期のヒゲでもあるまいし、待っていればいずれ生えてくるものでもなかろう。
それとも、童貞を守り続れば魔法使いになるとネット上などでまことしやかに囁かれているように、悪魔使いは処女をこじらせると、両性具有になってしまうのか? 
恐ろしい、知らず唇が渇くほど恐ろしい。そんなこと最初からわかっていれば血を吐いてでも契約を解除して夜逃げしていた。といっても、クーリングオフは効かないけれど。ええいよくも、と元凶でもある雇い主に、何度目かわからぬ恨み節。
それでも佐隈が知る限りアクタベは悪魔でさえ尻尾を巻いて逃げだす最強の男だ。今この瞬間、事務所の扉が彼の手によって開かれれば、きっとこの出口の見えない会話を強制的に終わらせてくれるだろう、恐怖政治の名のもとに。
しかしその頼みの綱は今頃リオデジャネイロで新たなグリモアの情報収集に明け暮れている。ついでとばかりに観光がてらカーニバルでも楽しんでいるかも知れない。こちらも負けず劣らず冷や汗と脂汗のカーニバルが始まっているというのに、ああなんと、なんとのんきなものか。おのれアクタベ、と勢い余ってつい呼び捨て。
「さくまさん」
胸中とはいえ無礼を働いていただけに、少しの刺激にびくりと体が跳ねた。
触れるばかりだったヒレは今や堂々と佐隈の膝を捕まえている。ちまちまとしたその見た目はまるで子供だましで、何の拘束力も感じないのに、佐隈はそれ以上動けなくなった。
「ベルゼブブさん、もしふざけてるんなら、」
「私は本気です」
ベルゼブブはその羽毛を震わせて真摯な思いを伝えてきた。
悪ふざけではない。尚悪い。
じりじりと小さな体が熱をはらんで追いつめてくる。気迫に押されてうっかりと首を縦に振りそうになるが、その度にほだされてたまるかと防弾ガラスが幾重にも。
いくらなんでも無茶な要求だ。ないものねだりも甚だしい。彼が極めてマイノリティであることは承知していたものの、食以外でもそれが発揮されるとは、夢にも思わなかった。
常時発情のアザゼルに虐げられたいサラマンダー、そして特殊嗜好の塊ベルゼブブ。手持ちの悪魔が揃いも揃って、カテゴリ:変態、という事実に震えが止まらない。無論、喜びではない事は明示しておく。
佐隈は世の同性に比べ、いささか淡泊であるし夢見がちな部分も欠けているが、女として生きていく人生を放棄するつもりはない。病でも患わない限り、体にメスを入れるつもりもない。取ることはもちろん、付けるつもりもない。ない。ないです本当に。
ただ、あしらう隙もないほど相手が熱心かつ真剣であるだけに、普段のように暴力に訴えるのは気が引けた。佐隈が出来ることと言えば、目の前でぐつぐつと煮える湯を、少しでも冷まそうと慎重に息を吹きかけるくらい。
「あの、私ではなくてですね、他の誰かに」
「それでは意味がありません」
「お、男の人ではだめなんですか?」
「は? 男? 何言ってるんですか」
「あ、やっぱり駄目なんですね……やっぱり女の子がいいのか……」
「さくまさんのだからこそ、私にとって価値があるのです」
意味、おわかりですよね? と尋ねられ、曖昧にも頷いた。正直佐隈はおわかりになりたくなかったのだが、いいえと答えて良い空気ではなかった。
大破しかかっている思考回路を引っ張り起こして、うっすら理解している現実を並べる。
この人はどうしても私にあれをつけたいのだ。他の誰でもなく、私の下半身に生えてて欲しいのだ。つまり私は選ばれた。選ばれた存在です。おめでとうございます。
個々の性的趣味は海より深く広い。世界は広い。世界はひとつ。世界にひとつだけの嗜好。瞼に果てのない青空を描き、佐隈は思う。ああ渡り鳥になりたい。
だんだんと目頭が熱くなってきた。ぐっと拳に力を込め、佐隈は持ち手のないカップを皿に音を立てて戻す。
「ベルゼブブさんは……っ一体私の股になんの……っ」
不満があるんですか、と言いかけたその時、天気予報を流していたテレビの映像が、中継に切り替わった。どこと知れぬ特設会場のような場所と共に映るレポーターが、後方の人だかりを指さして叫ぶ。
‘年に一度、愛とチョコレートの祭典です!’
咄嗟に見上げたカレンダーで、佐隈は今日の日付に気が付いた。

2月14日。



「チ……コ……、チョ、チョコですよねーチョコしかないですよね。おいしいですよねチョコ、あの、ベルゼブブさん、あとで買いに行きましょうか! あげます! チョコあげますよ! 頭文字がチの!! チョコ!!」
「……まことですか、下さるんですか…!?」
「はいあげます、あげますよ。ベルゼブブさんにはいくらでもあげますよ! チョコね!!」
「さくまさん…! あなたが想いに応えて下さるなんて、夢を見ているようです」
「え? ん……?」

感極まった様子で腕に飛びついて来たペンギンを抱きかかえ、佐隈は今更ながら、これまでの会話と自分の言動の意味、それから今日がどういった日であるかを反芻し、じわじわと汗をかいた。
聖なるバレンタインデー。こうして、めでたくこの世にまたカップルが一組生まれた。