ベルゼブブ優一は諦めない |
暗がりにランプを一つ灯して、肘かけに右腕を預ける。音も気配も飲み込む古びた書斎は考えごとには格好の場所だ。どうしたものかと思いつつ、ベルゼブブは華奢なカップを持ちあげて紅茶を口に運んだ。 由緒正しき家柄に生まれ、最強を自負する誇り高き彼の思考を占めているのは、とある契約者についてである。ベルゼブブは彼女との、一番新しい記憶を反芻した。 あの日うまく事を運んで押し倒したまでは良かったけれど、結局ふたつめのステップを駆け上がることは叶わなかった。佐隈が怖気づいたのだ。 出来る限り気を遣い、甘い言葉をかけ、柔軟剤のような優しさで緊張をほぐしたつもりだったが、出撃態勢整ったベルゼブブの下半身を目の当たりにして彼女は引きつけを起こした。無理です無理です無理無理無理入りません鍵穴にズッキーニは入りません物理的に無理です。ほとんど悲鳴。 慌てたのはベルゼブブである。ここまで来て、常にない盛り上がりを見せている息子ともどもはハイそうですかと簡単に引けるわけもなく、問題ありませんよ入ります入るように出来ています、案外、その、そちらは伸縮性に富んでいるはずですので! と必死すぎる形で丸めこもうとしたはいいが、嘘ですそんなの伸ばしたことないですもん、と半狂乱で返されてしまい、大丈夫ほらヘビは自分より大きな獲物を丸飲みするでしょうと、だからどうしたと言うべき謎の持論を展開した。 脈絡もなく爬虫類を引き合いに出されても、当然組み敷かれた方は納得するわけがない。逆に、もっとコンパクトにならないかと無理難題をつきつけられる始末。フーセンガムでもあるまいし、自由自在にサイズ調節出来たら老いも若きも苦労しない。原則的にオンかオフ、デッドオアアライブだ。 アザゼルあたりなら可能かも知れないが、管轄外の職能を持つベルゼブブではどうする事も出来ず、大は小を兼ねるんだよピギィ! とこれまた破綻した主張を述べながら強引に突っ込もうとした。しかし処女の鉄壁すさまじく、両足で蹴り飛ばされたベルゼブブはそのまま壁に激突し、狭い1DKの片隅に沈んだ。 少しばかり急ぎすぎてしまったと自身の城へ戻ってから、ベルゼブブはさすがに反省した。がっついたという自覚は一応ある。自分でも思った以上に余裕というものが欠けていた。 思えば初物相手に魔界そのままの姿で致そうとしたのは、なかなか無謀だったかも知れない。男自体受け入れたことがないのに、押し入ろうとするのは魔性の化身だ。佐隈の身になれば、さぞやハードルが高い初体験だろう。せめて人の身に転じてやるべきだったかなとつらつらと考える。 服を一枚剥ぐ度に体を痙攣させる異常な怯えようと、触れれば触れるほど泣き笑いを招く神がかったくすぐったがり。佐隈らしいといえばらしいし、それでもベルゼブブは興奮したが(我ながらすごいと感心した)、今すぐどうこうするのは明らかに無理だった。時間をかけてじっくり慣らしていかないと、とてもフィニッシュまで持って行けない。それは別に構わない。じれったい反面、男として育て開いていく楽しみもある。ベルゼブブが思ったのはもっと別のことだ。 処女を守り通してきたさくまさんには、キスの次に体を重ねるという順序は不向きなのではないか。やはり、性の恐怖から遠のいた、神聖なる儀式(と書いて食事と読む)の方がどう考えてもふさわしい。うんうん、そうだそうだな。 悪魔が懲りない性なのか、単にベルゼブブが無駄に粘っこいのかは定かではないが、とにかく彼は大海原へ打ち捨てたはずの欲求を、いそいそと泳いで拾いに行ってしまった。案外近くに投げたものである。 自宅についたら喚んで欲しい、とメールが届いたのはアパートにて入る入らないと下世話な攻防を繰り広げた数日後のことだった。 ベルゼブブから申し出るのは珍しい。いささか違和感を覚えたものの、断る理由も特にないので、佐隈はカレーを温めてから、ベルゼブブを召喚した。 魔法陣から現れた悪魔は、こんばんはさくまさん、といつものように紳士の振舞いでそつなく挨拶をしたあと満面の笑みでこう言った。 「やっぱり実食からいきませんか?」 佐隈は強制帰還の呪文を唱え始めた。 「ちょ、ちょっとお待ちなさい! 話を聞いて下さいさくまさん!」 後頭部を押さえこまれるような強烈な圧力にベルゼブブは死に物狂いでもがいた。壁もドアも薄っぺらい安アパートである。こんな夜更けにさくまさんさくまさんと大騒ぎされ、住人らからひんしゅくを買うことを恐れた佐隈はしぶしぶグリモアを閉じた。 蟻地獄から這いあがって来たベルゼブブはやれやれと息を吐き、燕尾服の襟を整えた。こうして見ると本当に凛とした背筋も美しい洗練された麗人だ。しみったれた折りたたみテーブルが恐ろしく似合わない。 しかし麗人はその魅惑的な唇を動かして、排泄物について語るのである。 「なんですか前回と全く同じ話だったらカレーごと火にかけますよ」 台所のコンロにはぐつぐつと魔女の鍋のごとく煮えたぎるカレー鍋。ヒッと息をのみつつ、ベルゼブブは首を振った。 「いえ先日あなたに無理を強いたこと、私としても反省しまして」 殊勝な様子に、佐隈はおやと顔のこわばりを解いた。 「つい抑えられず急いてしまいましたが、さくまさんは初めてですから、男と違って恐ろしさが勝るでしょう。一足飛びに進めて怖がらせてしまうのは私としても本意ではありません」 声のトーンは深く低く、眼差しは実に真摯。とても悪だくみをしているようには見えない。仁王立ちで睨みをきかせていた佐隈もいつしか絨毯に腰を下ろし、話に耳を傾けていた。 「ですから、そちらについてはゆっくりさくまさんが慣れるのを待つとして」 ぴくりと佐隈のアンテナが反応する。 『そちらについては』??? 正面にある顔が次第に曇り始めたことも知らず、ベルゼブブは続けた。 「並行して、もうひとつの方も慣れて頂ければと」 人はこうして詐欺や訪問販売にひっかかってしまうのだと佐隈は思った。心をくすぐるような語り口には裏がある。裏がなくてもどうしようもないオチがついてくる。 この話前回終わったんじゃなかったのかよ、という思いを無言の内に顔面に貼り付けている佐隈に、ベルゼブブは手を取って訴えた。 「ご安心をさくまさん。液体の方だけで結構です」 「いやです」 間髪入れずに拒絶されたがベルゼブブは退かなかった。 「直で飲ませろとはいいませんから」 「当たり前です」 「あなたのものだけを生涯口にすると誓います」 「人を巻き込む勝手な誓いをさらっと立てないで下さい」 気が昂っているのか、ベルゼブブの頬はやや紅潮している。色白な肌はチークを乗せたように染まりやすく、彼の内を満たす熱気を雄弁に佐隈へと伝えた。息遣いまでが荒くなっていく。 「以前、何故私に黄金水を提供するのが嫌なのか、色々と述べていましたねさくまさん。人としての尊厳とか、あれは飲み物ではないとか、恥ずかしいとか」 怪訝そうに佐隈が頷くと悪魔はわずか口元を上げ、その隙間から、甘いマスクの奥に隠されてるとは想像しがたい獰猛な牙が覗いた。 「これならばその背徳感を軽減できます」 言いながら懐から取り出したものを、佐隈の目の前につきつけた。 高さ10センチほどの白い筒状の代物。 尿検査のコップに似ていた。否、そのものだった。 「どうです、ただの健康診断という体でこれに注げばそう抵抗も覚えエエエエ」 佐隈は眉間にフォークを突き立てた。 意地の悪さや口汚さが目につくものの意外と誠実に接してくれるこの悪魔を佐隈は勿論好いているのだが、時折なんで私この人と付き合ってるんだろうと冷静な自分が舞い降りる瞬間が訪れる。それが今である。 「結局それ目の前でグイッと飲まれたら抵抗覚えまくりなんですけど」 テーブルの上に立てた両手に頭を乗せ、佐隈は憤怒と虚しさが混ぜこぜになった声を力づくで絞りだした。その頭上に暗雲がたちこめ、狭い六畳の一角に発達性低気圧が生まれようとしている。今夜も雷雨となるでしょう。 今にも槍が降りそうな不穏な気配にようやく気がついたベルゼブブは金色の睫毛を上下させて、痛みでのけぞった体を起こした。刺さったままのフォークがまるでユニコーンの角。 「見た目が気になるというのではあれば、ス●バやド●ールのパッケージも用意しました。これならば街中を練り歩く時も持ち歩けてお洒落、」 「二本目のフォーク欲しいですか?」 さすがにベルゼブブも黙った。逆光のせいか天井に垂れこめた雨雲のせいか眼鏡の奥が覆い隠され、えもいわれぬ迫力を感じる。 時刻は夜の12時半。深夜に恋人と顔を合わせておきながら、なぜシモ方面の話に終始せねばならぬのかと佐隈は悲しいやら腹立たしいやら。額に手をやって憂いの溜め息を吐くと、上目遣いの悪魔と目が合った。 「どうかさくまさんの黄金水を、お小水を……おSHOW水を下さい」 「そんなスタイリッシュに言われても心動きませんから」 氷の一瞥をくれると、ベルゼブブは欲しい欲しいさくまさんの体液欲しいとそれなりに大きな図体を丸めて転がり始めた。ペンギンバージョンであれば多少なりとも可愛らしさが漂ったであろうがこの姿では、厳しいの一言である。モデルも裸足という美麗な顔立ちに加え、未だ突き立ったフォークが放置されているのも見るに堪えない。 ご近所迷惑だからやめて下さいよ、と佐隈が布団で抑え込むと、駄々をこねていたベルゼブブは急に大人しくなり、蚊の鳴くような声がした。 「……なんだったら許してもらえるんですか」 あれもこれも駄目では自分を拒絶されてるようで傷付きます。 布団をかぶせた態勢のまま、佐隈はぐっと言葉に詰まった。 先日は押し問答の末、ベルゼブブの趣味を遠ざける代わりに佐隈が体を開く流れになったわけだが、最終的に開かずに終わった。いざ本番というところで、佐隈が強引にシャッターを下ろしたせいである。初めて目にした男性の、しかも人の肌ではなく魔界にマッチングしていた色合いのそれに衝撃を受け、仮にも恋人のみぞおちにドロップキックを食らわせてしまった。取り乱していたとはいえ酷い仕打ちには違いない。佐隈もさすがにあれはなかったといささか自己嫌悪に陥っていた。 かと言って、今すぐにどうぞと差し出すのは怖い。ベルゼブブは魔に属する者とは思えぬくらいずいぶんと優しくしてくれたが、想像以上の存在感で瞼の裏に焼きついた彼自身を受け止める覚悟がまだ出来ていない。 考えてあぐねた佐隈が丸く膨らんだ布団に目をやれば、小刻みに震えている。 どうしよう。佐隈は頭を抱えた。この悪魔、泣いてるかも知れない。 ぐらぐらと心の天秤が突風を受けて揺れる。 人間の尊厳を捨てるか。愛の為に大人になるべきか。本当に大人はこんな選択をするのか。この際おSHOW水くらいなら。いや全然くらいじゃないよ落ち着けよ。でも黄金なんて持ってほかだし、血液なんて命に関わるものはあげられない。涙や唾液じゃ全然量が足りないだろう。体液。口にしても抵抗のない体液。 カッと佐隈は閃きとともに目を開いた。 「母乳!!」 はっきりとした発音で放たれた単語は部屋の端から端まで行き渡り、息を止めるような静寂を連れてきた。 空気が組織ごと凍りついて動けない。 布団から顔を出したベルゼブも同様に、そのままの姿勢で固まっていた。ただ茫然として佐隈を見ている。が、その口がゆっくり動いて、恐る恐る「ぼ」の形を作ろうとした瞬間、彼は魔法陣に消えた。 蛍光灯がひたりと照らすリビングには、高速詠唱で悪魔を還した悪魔使いがただ一人。頭のてっぺんからつま先まで真っ赤にして、ふるふると震えていた。隣の部屋から抗議めいた罵声とともに壁を叩く音が幾度も響いていたが、すでにその耳には入らない。 やがてへなへなとその場にへたりこんで布団を被った佐隈が、焦げ付いているカレー鍋の存在に気付くのはおよそ30分後のことである。 |