は ん ぶ ん 





さくこれ買うてや。お願いお願い一生のお願いやんかあ。ん? 一生が何回あるんかって? そうやのう、まあ悪魔やし煩悩の数くらいはいくんちゃうか、ってどこ行くん。ええやんたかだかアイスの一個くらいケチくさ。だいたいお前最近イケニエ手ェ抜いとるやないか。べーやんと同じカレー食わしときゃええと思ってると違うか。図星やろ。舌打ちすんなや!……ふん、なんや甘くみられたもんやの。しゃあない今日のところはそれで我慢したるわ。

バニラとチョコが作る白と黒の断面図にかぶりつく。湿気をほどよく吸い込んだ最中がしんなりと歯を受け止めて冷やかな甘さがアザゼルの口内を満たした。とめどなく吹きだしていた不平不満が霧と消える。
「たまにはチョコモナカもええなあ」
すっかりとご機嫌な声色に、もう半分のモナカにかじりついていた佐隈が、みんなには内緒ですからねと手を繋いだ先の悪魔を見下ろして云った。
夏も盛りで、街行く女は時代が時代なら娼婦と揶揄されかねない露出と刺激と開放的な装いばかり。白い首筋に太ももまで露わな脚、肩はおろか常に包み隠されているはずの背中に至るまで惜しげもなく若い肌が炎天下の大義名分のもと晒されている。
良識派を気取っている輩は、はしたないと大袈裟に眉をしかめて見せるだろうが、淫奔の悪魔から見れば実に結構。金も払わずしてこんな目の保養はない。多くの動物は雌の発情につられる形で生殖活動に勤しむ。人もまた然り。子を成すことが男の仕事であるのなら、男の本能を刺激するのもまた女の仕事だ。
隣で信号待ちしている佐隈も例外ではなく、実に夏らしい、要するに布地をあまり必要としない衣服を身に着けていた。高い位置に結いあげられた髪がうなじの色香を際立たせ、デニムのショートパンツからむっちりと健康的な脚が伸び、細い肩ひもだけが支えのキャミソールは二枚重ねたところでなんの守りにもならない。相変わらず肩書きは処女のままで、セクハラにも寛容になる気配はないが、匂いは充分に女。
彼女は今日この後、大学の友人に頼みこまれ、合コンの頭数として出動を要請されている。引き受けた時、いかにも渋々という顔を隠そうとしなかったあたり佐隈らしいが、ジャージやよれたTシャツを選ばなかっただけ成長したと言えよう。
飲み会の誘いがあるなしに関わらず、このところの佐隈は身なりが小奇麗になった。
化粧っ気も飾り気もなく、性別上は女と分類される程度の垢ぬけなさだった契約当初とは比べ物にならない。もともと悪くない素材の活かし方を心得てきたのか、過剰に塗りたくっているわけでもないのに、纏う雰囲気がずいぶんと磨かれたものになった。
女を魅力的に見せるのもアザゼルの職能の一つだ。直接手を加えたことはないものの、こう長く傍にいるのであれば少なからず影響は与えているだろう。仕える女が美しく育っていく様は自分の手柄のようで誇らしくある。綺麗になったなんて、絶対に、口が裂けても、裂かれても、言ってやるものかと心に決めているけれど。


憂鬱そうに佐隈が合コンに赴いた翌日から、彼女の携帯は落ち着きがなくなった。
メール、電話、メールメールメール。佐隈は仕事柄、着信音は常にオフにしている。彼女の鞄の中で、デスクの上で、上着のポケットの中で、手の中で、無言の震えがその度重なる着信を知らせていた。作業や尾行の合間に返信をする佐隈の顔は無表情。キャベツの千切りをこなすにも似た事務的かつ迅速な手際でボタンを連打し、パタリと閉じる。アザゼルが覗きこもうとすると容赦なく殴られた。
「なんや男かいな」
いつもと同じ調子で下世話にニヤついた声を出すと、佐隈はほんの一瞬だけ目を泳がせて「アザゼルさんには関係ないでしょう」と背を向けた。
なるほど、錠前つき箱入りの処女がようやく色気づいたということか。
少しの意外さと多量の納得がなだれ込んで、何故だか妙にハイになったアザゼルは、その後佐隈にしつこく絡んでからかい突きまわして、骨の髄までえぐられた。

アザゼルは未来を予知する能力には縁がない。賢さにも見放されているから精度の高い推測によって結論を導き出すことも難しい。
ただ、ごくごく限られた選択肢を数え上げることくらいは出来る。
契約者、佐隈りん子がこの先どのような道をたどるか。
悪魔使いとして?最悪な魔王の弟子として?
知ったことではない。それらはその道に引きこんだアクタベが考える事で三下の淫奔風情が介入できる次元ではない。
アザゼルは己が職能に見合ったレベルで物事を図るのみだ。

予想ひとつめ、さくまは一生処女のまま生涯を終える。
笑える。隙が多い癖に頑ななあのメスは悪魔相手に奔走して、鬼が気を悪くするくらい鬼畜な上司にこき使われて、女の悦びを知らぬまま本当の魔女になっていくのだ。どれだけの魔力を得ようと、魔族にも同業者にも恐れ敬われようと、自分だけは処女だ行き遅れだと散々軽口を叩いておちょくってやろう。お仕置きは想像を絶する破壊力でやって来るだろうが、片時も離れず笑ってやる。その頃、強大な地位にのぼり詰めているであろう彼女が自分のような下級悪魔を傍に置くかどうかは知れぬけれど。

ふたつめ、さくまはアザゼルに処女を差し出す。
最高だ。豚足、ザクの足、ついでのようなカレー、ラードとこれまでの屈辱の日々を思えば、この上ない生け贄。中身の色気は枯渇しているが、体の方は申し分ない。むしゃぶりつきたくなる肌の張りと柔らかさ、肝心な部分にほどよく弾む肉付きもいい。何より簡単に股を開かない気の強さがご馳走になる。散々見下しパシらせ断裂してきた子飼いの悪魔に組み敷かれたら、あの女はどんなにか悔しそうに顔を歪めるだろう。泣くだろうか、最後まで健気に抵抗するだろうか。とはいえ性欲は旺盛でもサディスティックな趣味はない。痛いのも血が流れるのも嫌だ。猛るどころか興奮がそがれる。だから、大人しく抱かれるというならテクニックと職能の限りを尽くして優しくしてやってもいい。アザゼルさんと甘い声で首筋に噛みつけば傷一つ付けずに悦楽の淵に導くことを約束しよう。
ただしグリモアが、彼女が、それを害と見なさなければの話。

みっつめ、さくまはアザゼル以外の男に処女を捧げる。
最も可能性が高く現実的な未来。見た目が地味でガードが固く色恋に興味がない、その三つのラッピングで厳重に守られていたが、今や「地味」の包装紙はほとんど剥がれかかっている。野暮ったさを脱ぎ捨てた無垢な女の香りをすぐに嗅ぎつけた野犬どもによって「色恋への無頓着」もべりべと乱暴に破られてしまうだろう。残るガードの固さなんて酒を入れてしまえば塵同然。食い散らされるのは時間の問題だ。
いや、佐隈は迂闊に見える一方、保身に関しては恐ろしく慎重なところがある。自分にとって不利益と判断したなら掌を返す冷徹さも。その過剰な安定志向が働いて、下半身を振って飛びついてくるようなバカは寄せ付けもしないかも知れない。就職先を探すように、物件を見比べるように、条件や待遇を見定めて相手を選ぶ可能性もある。平凡な女としての幸せな将来を得る為に。
悪魔に関わる人間は幸せになれないと不吉な顔で悪魔使いは言った。幸せなんてそもそも人が作った不安定で身勝手な言葉だ。何を持って幸せの、不幸せの定義とするか、人間として生を受けてもいない悪魔には知る由もない。
幸せな恋愛幸せな結婚幸せな家庭。
男女の醜さに疎い処女は夢見がちな傾向がある。アザゼルにしてみれば下らない幻想の塊だが、佐隈が望めば案外手に入るかも知れない。
何しろ初めて見る悪魔に驚いたかと思えば数日後には当たり前みたいな顔で挨拶してきて、無理矢理悪魔使いにされた癖にまんざらでもなく働き続け、悪魔と抵抗なく手繋いで出かけるような、おかしな女だ。それを気に入って嫁に迎えたがる男がいたなら、そいつも相当な変わり者に違いない。
せいぜい歪でろくでもない愛でも分かち合えばいい。


佐隈の携帯は日を増すごとに忙しなく震えて彼女を呼び出す。確かめる術はないが、恐らく同じ相手からの受信であることは、佐隈の反応から伺い知れた。最近では携帯への連絡だけに留まらず、時々誘われるまま食事に行くこともあるらしい。花嫁のような純白のレースがあしらわれたチュニックに華奢な鎖のネックレス。薄く引かれた口紅は瑞々しく。
顔も知らぬ男の影を感じ取る度、アザゼルは欠かさずそれは熱心に茶化した。目一杯卑しい目つきで、これでもかとえげつない言葉を舌にのせて。
度重なるセクハラに佐隈は目を吊り上げて憤慨したり、眉をしかめて不快を露にしたり、屑を見るような一瞥をくれたりした。面倒そうに無視することも少なくなかったが、そんな時は佐隈がなんらかの反応を示すまでねちっこくもつきまとった。最終的に手痛い罰を食らうことをわかっていながら、アザゼルは決してやめようとしなかった。


どこか荒んだ気持ちを抱えていると、狭い四畳半は居心地が良くも悪くもあった。事務所に居る内はへらへらと薄っぺらい笑いで誤魔化せるが、家に帰ると不可解な淀みが流れ出る。
もともと自堕落でだらしない毎日だ。雑念が行き場を失ってアザゼルの部屋は薄汚れて行った。
アンタ最近ますますだらけよってからに、部屋くらいちゃんと掃除しい、とついに見かねた母親に口やかましく咎められ、アザゼルは舌打ちしながらも室内に転がったゴミ同然のインテリアや古びたAVや雑誌をひとまとめにした。
手つかずで放っておけばまた耳元で狂った九官鳥のようにキイキイとやかましく騒ぎ立てるに違いない。ほとぼりが冷めたら引っ張り出せばいいと、ひとまず押し入れに放り投げた。反動でころりと何かがアザゼルの足元に転がり落ちる。拾い上げると、赤い縁の眼鏡だった。
いつかの、迷い込んだ人間の女をイメージプレイに使っていた恥ずかしい記憶の一端。
当時、佐隈から向けられた、氷水が生易しく思える軽蔑の視線は凄まじかった。死ぬかと思ったし、実際一騎くらいは失った。くそドブスが悪魔のプライベートまで干渉しくさって。
肝の冷える寒さと腹立たしさが同時に頭をもたげる。感情に押されるまま眼鏡を叩きつけようとして、すぐアザゼルの手はしおしおと力を失った。
あの時、取り巻きの悪魔の一人が心底不思議そうに、あっちゃん何が楽しいの、とおずおずとアザゼルに尋ねた。年端もいかない黒髪のガキに眼鏡をかけさせて妙な本を振り回させて。

何が楽しいの。

アザゼルはその時、うまく答える事が出来なかった。
今も、明確な答えは見つからない。


人と悪魔は光でも闇でもない。水と油でもない。正義と悪でもない。
けれど綺麗に混じり合う同質の生き物でもない。
悪魔は人としてかけがえのないものを掠め取る。淫奔は肉体に底のない快楽をもたらす。人は契約の名のもとに人に悪魔の自由を縛る。代償として生贄を支払う。
与える一方で抜け目なく奪う。
両者の間に存在しているのはいつだってその行為だ。悪魔は貪り尽くすチャンスをしたたかに狙う。悪魔使いは獰猛な牙を操りながらその隙を見せない。ひとつのものを譲り合いながら仲良く分けあうなんて、童貞が描く理想の女よりまだおめでたい絵空事。
佐隈は生まれながらにして魔を従える才を持つ。魔より禍々しいアクタベが認めるほどに秀でている。飲み込みの早い彼女は、非道で正しい悪魔使いが推奨する「悪魔との付き合い方」をきっとすぐに理解する。


あれほど休む間もなく喚き立てていた佐隈の携帯は、ある日ぱったりと静かになった。
着信の合図ごとに画面を確認していた佐隈も、大人しくなった携帯に見向きもせずパソコンの液晶だけを見つめ、指は一心不乱にキーの上を走っている。佐隈は何も言わない。溜め息もつかない。悲壮な目の色でもない。意識から携帯の存在も男の存在も追い出してしまったように、平坦な顔でひたすらに仕事に打ち込んでいた。
喚び出されてから二時間、与えられた豚足を舐めながらグッとこらえていた。しかし四時間が経過し、アクタベが事務所の扉を閉めて出て行った途端、アザゼルはパチンコ玉と化して佐隈の肩口に飛びついた。
「さく、なしたん!相手の男、死んだん!?」
「はあ!?」
突然激突を食らった佐隈は、若干苛立ちを滲ませながら大声を返した。
「いきなり何すんですか!死んだって誰の話です!?」
「誰の話やあらへんがな!クッソうるさく電話してきよった奴どしたんや!」
アザゼルの威勢にのけぞりながらも目を丸くした佐隈は、話がようやく見えたように、ああ、と小さく頷いた。眼鏡の奥の瞳が困惑した苦笑いに変わる。
「あの人のことですか……よく覚えてますねえ」
あれだけしつこく、みっともないくらいに佐隈に言い寄っていたくせに。こんなにあからさまに連絡を断つとはどういうことだ。もう別れ話が出たのか。佐隈から切り出したのか男からか。まさか、いいように遊ばれて捨てられたのか。
男との接触は察知したが、貞操を奪われたとは感じ取れなかった。いつ。どんな形で。アンテナは常に張り巡らせていたつもりだったのに。契約主相手ではやはり職能も完全に生かせない。はらわたが煮えているのに体温が下がってゆく。
「弄ばれたんか、つまらん男の手管にまんまとほだされて騙されたんか! 色気と同じくらい警戒心が足らん言うてたやろ! 処女がいい気になってるからじゃボケ!そいつ今どこにおんねん! 一生ナニが役に立たん種なしの腑抜けにしたるわ!」
「ちょっ……違いますって!」
今にも噛み砕きそうな形相で吠えるアザゼルを佐隈はスパンと払い落した。無慈悲に打ちつけられたアザゼルはゴムマリのように跳ねて床に転がったのち、勢いよく顔を上げた。
「違うってなんやねんな!」
「言葉どおりです。違うんですよ。誤解です。あの人は私とどうこうなりたかったわけじゃなくてですね」
佐隈の学友の中になかなか美人で気立ての良い女子がいて、彼はその子に長らく片思いをしていたのだが、最近彼氏と別れたようなのでどうにかお近づきになりたい、と佐隈に申し入れてきたらしい。しかし友達の為だからとほいほい恋のキューピッドを引き受けるほど佐隈はお人好しでも暇でもない。
頭を下げて借りて回っているノートや資料と引き換えに、相談に乗ったり彼女を交えての食事会など取り行っていたと言う。
「それで水面下の作戦というか、打ち合わせにしばらく忙しくて。でもなんとか上手くいったらしいので、もうお役御免です」
佐隈は晴々しい表情を見せた後、年寄りにも似た仕草で肩を叩きながら、ハアしんどかったと力なくもらした。人の仲をとりもつなんて慣れない事やるもんじゃないですよねえ。
サイドに髪をまとめた淡い黄色のシュシュが笑うように揺れている。ほんのりと唇の上を滑って色づかせるピンクベージュ。誰の為でもないただの身だしなみ。
「なんやねんそれ紛らわしい…………」
様々な意味を含んだ台詞を追いかけて脱力が襲う。
「だいたい女なびかせるだけならワシの分野やっちゅうねん」
アザゼルが弱々しく呟いてそのまま床に倒れ伏すと、だめですよアザゼルさんすぐ暴走してやり過ぎちゃうから、と佐隈の呆れた声がした。
「でも、うん、ありがとうございました」
身に覚えのないお礼の言葉に床から顔を離すと、くすぐったそうな笑顔が悪魔を出迎えた。
「私の為に怒ってくれたんですもんね?」


悪魔と人は奪い合う。
報酬に見合わない事はしない。
見返りもないのに、悪魔は動かない悪魔使いは与えない。
どちらかの大事な何かを仲良く分けあうなんて、わかち合うなんて。
ほんの気まぐれの、傾けられる心のほんの欠片でも、差し出して欲しいなんて。


さくこれ買うてや。後生やから一生のお願いやからあ。えっ、ええの?買うてくれるん?マジっすか!?なんで?どういう風の吹きまわし?夜逃げか?イッテすぐ殴んなやあ、脳みそ減ってしまうやろが。どうせビー玉ほどもないとか言わんといて傷付くわ。あ?ああ前回の依頼で?特別手当?うっわなんや自分そんだけもろうといてワシにアイス一個か!守銭奴!……あっすいませんえろうすいません調子こきました。はい買って頂けてマジ僥倖っス。………あ、やっぱりエエわ。うん、いらん。おい誰が手遅れの病気やアホ。別に食欲ないんとちゃうわ。だからこれ買わんでエエから、さくのアイス食わせてや。ちゃうねんそうじゃないねん。もう一個同じの買わんでええねん。半分してな。そう、それがええの。
ワシな、それが欲しいん。
それが一番欲しいんや。