臆 病 風 は 止 ま な い






コモドオオトカゲの狩りを知っているか。
奴らは一撃で敵を仕留めたりしない。目を付けた獲物に背後から忍び寄り、ひと噛みで傷を残す。傷は毒の入り口だ。たちまち死に至る即効性にこそ欠けるが、その威力は無慈悲で強烈。一度触れた毒からは逃れる術を持たず、時間をかけて体内を這いまわり、健やかさを壊していく。少しずつ力を失い、隅々まで蝕まれ、一人で立てないほど衰弱したなら、獲物はいずれ倒れ伏す。そこでようやく狩りは達成だ。あとは、のっそりと近付いて、骨まで舐め尽せばいい。

これ見よがしにばら撒かれていた品のない悪意が、散り散りになって逃げ出していく。みっともなく狼狽し、足をもつれさせて。
たんたん、と卓の上を踏みならす指と、広げられた書類、それから大量の写真。それを挟んで座る二人の男の表情は対照的だ。
暴力は用いず、声も荒げない、並べられるのはお客様への敬いを崩さない丁寧語だけだというのに、片方が呼吸をする度に、足元に氷河期が滑り込んできたごとく応接スペースは凍りついていった。
依頼された愛人の浮気調査は見事にクロ。
安くない金をかけて囲っていた女の救えない結果に腹を立てた末の八つ当たりか、はたまた端から踏み倒す気だったのか、男は口汚く佐隈やアクタベを罵り、ドスのきいた声で薄っぺらい脅しをかけ、お前らの調査に落ち度があった、こんな仕事じゃビタ一文出せないと喚き散らした。が、威勢が良かったのはそこまで。
応対していたさくまを早々に引っ込めて、アクタベが向いのソファに腰を沈めると、力関係はまたたく間に逆転した。身の程知らずなドブネズミを黙らせるには、毒をちらつかせたオオトカゲがひと睨みするだけでいい。
「こちらもビジネスとして請け負っている以上、はいそうですか、で片付けるわけにはいかないんですよ。ましてや調査も報告も全てつつがなく終えたとなると、キャンセルも不可能。当然経費も発生している。見積もりをお渡しした時点で、慈善事業じゃないことは、ご理解頂いてますよねえ……?」
形ばかりは笑っている。笑えば笑うほど怖い。場を和やかにするために生み出された表情ではない。
外では肩で風を切って闊歩しているであろうヤクザ崩れが、今や粘土細工ほどの存在感もなかった。粘土を塵に返すべく、アクタベは一層笑みを深くした。
お支払い、頂けますね?
提示額とそっくり同じ数字の領収書を手土産に、男は転がるように事務所をあとにした。


「久しぶりにやかましい人でしたねえ」
香ばしさに満たされたカップがアクタベの机に置かれる。万が一にも暴力に訴えられたら困ると奥へ下がらせた佐隈は、給湯室から一部始終を覗き見ていた。困惑はしているものの心底怯えた風でもない。
客商売をしていれば、自然と色んな種類の人間を見る。比較的善人もいれば、どうしようもないカスもいる。佐隈もそのことをよく理解し、このところでは慣れさえ感じさせるようになってきた。雇い入れた当初から見れば、ずいぶん逞しくなったものだ。
「あの程度なら聞きわけのいい方。ま、こっちにとっちゃ金さえ払ってくれりゃお客様だ。二度と来てくれなくて結構だがな」
振り込みでも構わなかったが、どこぞで借金の取り立てでもしてきた帰りだったのか、不審なほど金の持ち合わせがあった。現金払いなら、面倒事も今日限りで片付く。実に好都合。
札を数えたあと、アクタベは封筒ごと無造作に金庫に放りこんだ。書類とファイルの後始末は佐隈の手に。彼女の背には悪魔が一匹。アクタベの仕事の都合で借り受けたグシオンは、光太郎の代わりに佐隈にひっついている。
「アクタベさんは怖いものなしですね」
「……そう見える?」
「見えますよ無敵です」
横暴なくらいに。
雇い主にちくりと暴言を吐いて、佐隈は無邪気にも破顔した。無意識にアクタベが眉間に皺を寄せたのを、機嫌を損ねたと取ったか、彼女は自分の分のカップといくつかのファイル、そしてグシオンを背負ったまま、慌ててPCへ向った。昨日までレポートを三つほど抱えていたという佐隈の目元にはうっすらと寝不足の残骸が残っている。予想を裏切ることなく、席についてしばらく彼女の横顔はゆっくりと縦に引っ張られ、あくびの形を作った。
それを視界の隅にとらえながら、アクタベは白く磨かれた取っ手を握って湯気から味わう。苦い。佐隈は時々、地獄の底もかくやという濃いコーヒーを淹れる。
アクタベさんの嗜好に合わせたんですよ、とかつて恩着せがましく主張されたことがあったけれど、眠気に見舞われた自分の為であることは、誰の目にも明らかだった。
怖いものなし。それは君のことじゃないか? 
陶器の中でとぐろを巻くカフェインを喉に流し込む。

俺くらい慎重で腰ぬけな男も、そういないと思うがね。


オオトカゲが骨を砕く強靭な顎も背を追う俊敏さも持っていながら、長期戦に持ち込むのは確実に手に入れる為だ。一度のチャンスに功を焦ってしくじり、永遠に失うくらいなら、いつまででも待機し、伺い、機が熟すのを気長に待つ方を選ぶ。
だから傷を負わせた。最初で最後、弱くて愚かな獲物の親指に刃という毒牙を突き立てて。
魔の誘惑と生まれ持った自らの才に脅かされ、生と死の脆さを嘆き、世の狡猾さと貪欲さに疲弊して、よろよろと足場を失いつつ、自分の胸に倒れ込んでくるように。人は生まれながらに弱い。賢くしたたかに生き残るには支えが必要だ。神に見放された暗い先行きを照らしてくれる存在はそう多くあるまい。君が望むなら喜んでこの手を差し出そうじゃないか。
ところがところが。

「さくまさん、これ数字一桁違う」
「……」
「さくまさん?」
「ぐう」
アクタベは椅子から下り、丸めた書類を船をこぐ事務員の後頭部に打ちおろした。
「……ハッ」
「ハッ、じゃねえ。仕事中に熟睡しない。あと寝言で返事するのも控えて」
「し、してません」
「……そもそも君は野郎と二人の時にぐっすり眠るってのはどういうことだかわか」
「ぎゃっよだれ!! レポート一枚だめになってる!」
「さくまさん仕事して」

どうもカモシカのすねを噛んだつもりが、アフリカゾウの足首だったらしい。

獲物は一向に崩れ落ちる気配がない。
最初こそ初々しく、戸惑い驚き沈痛な面持ちでグリモアに向き合っていたものの、アクタベが見抜いた才能は裏切らない。本人が豪語するだけあって飲み込みは早かった。適応力も優れていた。ここまではよしとしよう。しかし。考えていた以上に情緒の欠如が著しかった。
手荒にこき使っていい悪魔ではない、浅慮で丈夫な野郎でもない、それだけの理由以上にアクタベは佐隈に気を配ったつもりだった。どう見ても贔屓に映るよう優遇し、危険な仕事からは遠ざけ、柄にもなく甘やかしもした。わざと仕向けている内に、いつの間にかそうした振舞いが板についてしまった。
それもこれも全て、毒の回りを早めるため。男として、強く意識させるため。尊敬、頼りがい、不安、そのほか全ての感情を攫うには恋情は不可欠。彼女が恋をして、追いかけて追いかけて、自分なしではいられないと飛び込んできたところで振り向き捕まえてしまうつもりだった。
現状、追いかけてくるのは磯くさい魚一匹。
色事に疎い処女と侮っていた事実は認めよう。だが、こちらの地道な努力も汲み取ってくれてもいいだろう、とは浅はかな考え。
彼女の仕草ひとつ眼差しひとつ、雌の匂いを含まない。魅力を持たないのではない、男を、要するにアクタベの気を引こうとする意思がそっぽを向いているのだ。いつまで女の本能まで居眠りさせておく気だ。いっそ喉元を食い破ってやろうか。出来もしないことを、頭の中でだけやってのける。
怖いものなし。
君は知らない。

「お疲れ様です」
「お疲れ」
後片付けを綺麗に終えた佐隈は身支度を整えてアクタベのデスクまでやってきた。たまった事務仕事をただ片付けるだけの今日、還す悪魔はいない。明日の予定を手帳とホワイトボードで互いに確認し、バッグを肩にかけた佐隈が軽く頭を下げて踵を返す。
「さくまさん」
「はい?」
後ろ姿になりかけた体が半分戻る。定時での帰宅を許されたせいか、どことなく機嫌が上向いているのが見て取れた。

「そろそろ俺のこと好きになった?」

振りかえった姿勢で佐隈は固まった。瞬きも呼吸もご丁寧に全部運休させて、アクタベの言葉にほとんどの思考を投じているのがわかる。蛍光灯を浴びた彼女の産毛までが震えるほど。
穴があくほど観察する視線を、アクタベは頬づえをついて誤魔化した。
何でもないような顔をして、息継ぎした方がいいよ、と口の端を上げると、一瞬にして赤面した佐隈が湯気を上げた。

「なんっですか! びっくりしたもう!! からかわないで下さいよいい大人が! アザゼルさんでもあるまいし!!」

失礼します! と触れれば刺さりそうな尖った背が遠ざかり、当たり散らされた事務所のドアは激しく軋んで閉じられた。
カツカツカツと怒りにまかせて階段を下りる音を耳にして、意地の悪い喜色がこぼれ落ちる。背もたれに体を預け、アクタベは天井を仰いだ。痺れを切らしたようにデスクの下から抜けだした小さな影がスーツの裾を引く。
「食っていいか?」
「ああ、追え」
目を光らせたのを合図にグシオンが窓の外へ飛び去って消える。あの悪魔は無駄口叩かず仕事も早い。佐隈が駅に着く頃には、何に肩をいからせて憤慨していたのかも忘れるだろう。

さくまさんは知らないだろうけど、これで三度目なんだよ。

一度目は「はあ?」とけんもほろろに突っ返した。

二度目は「アクタベさんでも冗談言うんですね」と笑い飛ばした。

そして今日、落っことしそうに目をまん丸にひんむいて。

ああ、三度目にしてようやく、それらしい兆候が見えた。色事には程遠い、ガサツで幼稚な反応。だがそれで充分。感情の芯に手が届くほどの距離にあることを知れただけで今は。

世間も悪魔どもも、姑息なことだ、ざまあないと笑うだろう。
視界を奪って盲目的に追わせるはずが、危うい足取りで考えなしに進む無鉄砲な獲物を逆にこちらが追う羽目になった。
師として頼るしかない絶対的な存在としても、行く手に用意された倦むほどに長い時も、アクタベに味方している。それでも道すがら、臆病風が吹く。
時折こうして甘噛みで確かめずにはいられない。背後から不意を突いて。首筋に鼻を寄せて。
本質がカモシカであろうがアフリカゾウであろうが、手つかずの蕾であることに変わりはない。いくら加減して牙をあてがったつもりでも、彼女の心にどう作用するか知れたものではない。
万が一にも一目散に逃げられて見失うのは願い下げだ。そうなるくらいなら、とまた臆病風に吹かれる。卑怯と罵られようとも綺麗に記憶から消し去ろう。何度でも。君が恋をしてくれるまで。
オオトカゲは執念深いのが本分。いつまでもいつまでもつけ狙う。途中で諦める選択肢はない。
いつか忘れた頃に毒が効果を発揮して、道にぐらりと倒れた時には、そっと後ろから待ちわびた思いを込めて噛みついてあげよう。
光を厭う眼は、夜道を見張るに向いている。アクタベは熱を失ったコーヒーを傾け、底にたまるのを待った。


さくまさん、君はいつ俺の噛み痕に気がついてくれるんだろうね。