ビ ッ ク フ ッ ト の 足 跡 







 日本古来から粛々と続けられてきた正座という文化がいかに足腰へ甚大なダメージを及ぼすか、佐隈は静かに思い知らされていた。感覚はある。痺れもまだ浅い。けれどこれがもう何時間も続くのであれば、生まれたての小鹿が頼もしく思えるほど、このつま先は体を支える役割は果たせまい。
 早く終わらないかな。場に腰を下ろしてから十数回は思い浮かべたであろう文言を、飽きずにまた胸の内で繰り返した。
 畳の香り清々しく、鶴が舞い飛ぶめでたい屏風がしつらえられ、開け放たれた障子の向こうには趣のあるしっとりとした庭園。高級と名のつく店には縁遠い佐隈も名前くらいは聞いた覚えのある老舗だった。室内は外観以上に格式高く、調度品のひとつひとつが壊したらマグロ漁船に乗れと言わんばかりの存在感で、要するに上品ながらも金の匂いがぷんぷんとしている。お金は好きだが他人の金は好きではない。むしろ負債の種になりそうで不用意に近付きたくないのが本音。
 ただ、一生足を踏み入れる機会がなさそうな敷居をこうしてまたぐことが出来たのだからある意味幸運と前向きに考えるべきか。じりじりと時は流れ、溜め息を吐きたくなった。
 目の前の男が緊張した面持ちで尋ねる。
「あの、ご趣味は」
 絵にかいたような料亭では、絵にかいたようなお見合いがよく似合う。


 やはり断る場面でははっきりと答えを叩きつけておくべきだ。「今のところはまだ」とか「忙しいですし」とかまろやかな和の心でくるんだノーの意思は、相手によっては都合よく書きかえられてしまう。そう、電話口で辞退申し上げたはずが、次の週、決定事項として日時と場所を告げられてしまった佐隈のように。保険のセールスでは常に社内トップ3を維持している大叔母の、手練手管の一端を垣間見た気がした。
 会うだけ会ってみて。もちろんお断りしたって構わないから。
 当たり前だ。もとより受けるつもりなどない。お見合いと言えば一般的に結婚を目指して進んでいくものだろう。まだ立場は学生だし、男性とお付き合いをした事もない自分にとっては結婚なんてとても考えられない。雪山に残るビックフットの足跡くらい我が身からかけ離れた遥か彼方の事象だ。
 自然と会話も上の空になる。相手の人は三十代前半くらいだろうか、誠実そうな男性だった。あまり自信はないのだが自分の審美眼を信じるならば、顔立ちもそう悪くない。数字に細かい大叔母が勧めるくらいだ、収入もそれなりだろう。そこで少しグラリと揺らぎかけた心を大慌てで引き戻す。浅ましすぎて、我ながら引いた。
「どうかなさいましたか」
 いえ、と佐隈は苦笑いでお茶に口を付けた。
「恥ずかしながら着なれていないもので、少し苦しくて」
 居心地の悪さを感じる要因は、気位と値段の高そうな座敷ばかりではなく、成人式以来箪笥の奥に眠っていた深緑の振袖にもある。とにかく窮屈なのだ。これは衣服ではなく一種の拷問器具に違いない。時間に追われたせいか、着付けの際、親の仇のように帯を締めあげられ、内臓が東西に分けられるかと思った。
「お若い方ですものね。無理もありません」
 男性の隣に陣取っている、世話焼きに関しては百戦錬磨ですといったオーラをまとった白髪の女性が口に手を添えてコロコロと笑った。鏡に映る分身のように、佐隈の大叔母もホとフの中間くらいの発音で笑い声を立てる。
「ええ、それでも一張羅を着て、精一杯きれいに見せようと張り切って来たんですのよ」
 うわあなに勝手なこと言ってんの!?
 見えない位置で大叔母を肘で突けば、倍の威力で打ち返された。
「んまあ可愛らしい。そうは思いませんこと?」
 向いの百戦錬磨が大仰なリアクションで、隣の男性に水を向けた。ちら、と佐隈へと投げられた視線に一瞬身構えた。
「ええ。とても綺麗です」
 彼は少し照れ臭そうに頷いて見せた。
 一斉に、オホホうふふと仲人のデュエットがけたたましく座敷に響き渡る。互いに大粒の宝石が巻き付いた指を見せながら、初々しくてらっしゃる、ええ微笑ましい限りですわね、と彼女達はひたすらほがらかに、達人同士が刃を打ちあうにも似た応酬を繰り広げた。佐隈がその流れになんとなく嫌な予感を感じた直後、打ち合わせをしていたとしか思えない絶妙なタイミングで、仲人は揃って腰を上げた。
 お約束の台詞を置きみやげにして。
「あとは若い二人におまかせして」

 佐隈はいよいよ帰りたくなった。
 相手が尋ねてきたことにただただ答える。向こうも会話を楽しんでいるというより、お見合いの形式に乗っ取った質問を並べているだけといった淡泊さで、面接を受けている気分になった。愛想笑いはそう苦手ではないけれど、時給が発生する仕事でもなく単位の為の講義でもなく、ただ慣れない状況に留め置かれるのはこれでなかなか苦痛なものだ。 疲れが顔に出てしまったのだろう、お喋りの口を止めて男性はふっと目を細めた。
「あなたも強引に連れてこられたと見える」
 弾かれるように顔を上げると、先ほどのかしこまった雰囲気が抜けて、少し砕けた表情をしていた。
「僕も会うだけでいいからと引っ張られて来たんです」
「そ、そうだったんですか」
「ええ、まだそういう気はないからとお断りするつもりで」
 向こうも受ける気はないと知って、急に肩から力が抜けた。失礼なくらいほっとした佐隈を見て、男性はいよいよおかしそうに口元をゆるめた。
「す、すいません。つい安心して。どう言って断ろうって考えてたので……」
 いえこちらこそ、と大人らしい余裕を見せるこの人には、佐隈はほんの子供にみえるのだろう。すっかり気が楽になって、さっきよりずっと口が滑らかに動くようになった。
「せっかくの休日を潰して申し訳ない。予定あったんじゃないですか?」
「予定というほどでもないです。いつもバイトばかりなので」
 前科(苺戦士)があるせいか、急に日曜に休みを入れたいと願い出た佐隈に、芥辺はなかなか首を縦に降らなかった。欠勤を拒んでいるわけではない。
 休むのは構わないけど、現に彼はそう言った。ただ。
「なんの用事」
 芥辺はじっとその暗い目で佐隈を尋問していた。いつもはレポートの提出期限とか、試験が近くてだとか、明確な理由を先に出していたものだから、今回に限り何も言わずに休みを取ろうとした佐隈を不審に感じたのかも知れない。
 しかし正直にお見合いしますんで、と伝えるのはいささか抵抗がある。アザゼルあたりに知られたらたまらないではないか。それはもう犬に豚足を投げてやるようなもので、こちらの苛立ちが破裂するまでからかわれるだろう。たとえ悪魔たちに伝わらずに済んだとしても、月曜日芥辺から「お見合いどうだった?」などと悪気ゼロ余計なお世話率100%のボールが飛んでくる可能性を考えると、秘密裏に事を運ぶのが最も安全と思えた。
 だからいくらしつこく聞かれても、佐隈は「親戚の用事」としか答えなかったし、それ以上の事は決して口を割らなかった。ただでさえ気が重いと言うのに、更に心労を増やしたくない。
 男は仲人が舞い戻ってくるまで無駄なお喋りを楽しむことにしたのか、先ほどとは異なる柔らかい口調で佐隈にあれこれと話題を投げかけてきた。
「佐隈さんはどんなお仕事を?」
 悪魔使いとは言えるわけがないので探偵助手と答えようとしたが、下手に興味をもたれるのも面倒臭い気がして、ええと、と考えた末に、
「カレーとか作ってますね……」
 と佐隈は答えた。
「カレー屋さんですか」
「いえ違うんですけどね……」
 佐隈は普通に経理とか言えば良かったと若干悔いた。男は不思議そうな顔をした後、優しさか天然か、さくまさんは家庭的なんですねえとよくわからない着地点に降りた。
「僕カレー大好きなんですよ。でも一人暮らしが長いせいで何年も家庭のカレーは口にしてませんね」
 佐隈がそういえばおいくつですか、と尋ねる前に、彼は自分の年齢を告げた。佐隈の一回り年上だった。
「さくまさんから見たらおじさんでしょう」
 いいえそんなこと。首を振りながら、年齢不詳の上司を思い出した。外見だけで言えばこの人くらいの年格好だろうか。引きずる迫力が全てを凌駕しすぎて、若いだとか老けているだとか、人に対して当たり前に抱く感想が、彼にはあまり湧いてこない。何事か感じるより先に「怖っ」で占められてしまうせいか。眉毛ないし。
 ただほんの少しだけ、しょうもない写真で脅かすような子供っぽい要素もあったりする。そのわずかな一滴が、闇を纏った恐ろしげな印象と混じり合うから、ますます芥辺という男が読み切れなくなるのだった。
「彼氏は怒りませんか、こんなお見合いの席にいて」
「えっ?」
 手にした湯呑を茶卓に戻した佐隈は、掌を大きく振って否定した。袖が重かった。
 おや、と男は眉を上げた。
「僕はてっきりそれで気乗りしないものだと」
「そういうのでは、全然ないんです」
 あははと意味のない笑いで誤魔化して、肘まで下がってしまった袖を直した。そうか、次はそう言って断ればいいのかと、次があるかどうかもわからないのに、佐隈はしっかりと心に刻んだ。
「もったいないですね。さくまさんのような女性お一人とは」
「またまた。それはこちらの台詞ですよ。もったいないです」
 社交辞令には社交辞令というわけではないが、深く考えずにっこりと笑ってそう返した。実際、結婚相手として多くの女性が望む条件を持ち合わせているであろう目の前の男性が、自分に時間を使っている事実を佐隈は純粋にもったいないと感じた。もっと意欲のある女性とこういった場を設ければ、良い方向に転がるのではないかと思う。当の本人にその気がなければなんの意味もないことだが。
「さくまさん」
 気付けば男はにこやかな表情を奥へとしまって、代わりに真摯な眼差しを佐隈に捧げていた。カポーン。静けさを際立たせる澄み切った竹の音が鳴り響き、頼んでもいないのに場を盛り上げる。
「お受けする気はありませんでしたが、もしさくまさんさえ良かったら、」
 彼のここ一番の台詞は、半分も佐隈の頭に入らなかった。注意力のほとんどを視覚に持っていかれたせいだ。
 いる。庭に何かいる。黒いものがいる。
 それは風情のある日本庭園の向こうからどんどんと近付いてきて、ついにはのんきにカポーンと鳴いていたししおどしの付近までやって来た。鯉が死に物狂いで泳ぎ始めたのか池が異様に騒がしくなった。
「あ」
 佐隈の上げた声に男が振り向くのと、それが座敷に足を踏み入れるのはほぼ同時だった。
 あくたべさん。
 びっくりしすぎて、佐隈は声を呑みこんでしまった。
 呆気に取られている間に芥辺はずかずかと上がり込み、男のすぐ横で足を止めた。誰も口をきけない中、空気を読まずにししおどしが鳴った。カポーン。
 見慣れている猫背の黒スーツも、場所と状況が異なれば凄味が増すとでも言うのか、新鮮に怖い。しかも全て時価で押し通しかねない高級料亭に土足である。もちろん靴の裏など拭いているわけがない。
 無言で座敷に上がり込んだ芥辺は、両ポケットに手を突っこんだままこの世の全てを見下ろすように畳の上に君臨した。座敷が魔王のダンジョンにみえた。それを見合い相手の男はやや腰を抜かして見つめるばかり。恐らくは、ヤのつく人かな、と感じていたことだろう。無理もないが、ヤクザのほうが平和だ。
 畏怖が絡んだ視線を身に受けながらも、芥辺は男の存在など初めからないもののように、佐隈しか見ていなかった。金箔の屏風も高値がつきそうな壷も一瞥もしない。
 芥辺は革靴で畳を踏みしめて、口をぱくぱくとさせている佐隈に一歩二歩と歩み寄る。目前までやって来たところで、芥辺のポケットから右手が引き抜かれた。
「さくまさん」

 いこう。

 当然のように差し出された手を、どういうわけだか佐隈も当然のようにして取った。芥辺は、うん、と頷いた後、座布団の上でへたりこんでいる佐隈を引っ張り起こし、手を離さないまま庭へすたすたと歩き出した。
 いやちょっと。あくたべさん。あの。待って下さい。
 背中にいくつかの声を投げてみたが、ことごとく無視だった。でも預けた手の扱いが土足で上がり込んだ人とは思えない、嘘みたいに優しいものだったので、振りほどくこともできず、足の痺れも忘れて後をついていった。庭へ下りようとする段階でハッとして部屋を振り返ったら、見合いの相手と目が合った。慌てて謝ろうとすると、彼は笑って手を振ってくれた。畳の上には、存在を焼きつけるかようなべったりとした足跡が残っていた。



「さくまさん眼鏡どうしたの」
「え?あ、コンタクトです」
「ふうん」
「芥辺さん」
「なに」
「なんで来たんですか」
「たまたま通りかかった」
「たまたま!?すごい場所闊歩してましたね!?」
「そういうさくまさんは何してたの」
「え……ほほほほ法事です」
「振袖きて?」
「ええ……まあ……」
「さくまさん」
「はい」
「着物似合うね」


和装もいいなと前を行く背中が言った。