人外の柳と少女のおはなし





 早く大きくなりたいと私が言うと、「柳」はいつもほんの少し寂しそうな顔をした。風のない空に薄い雲がかかるような、ほんとうにかすかに。きっと私しか気づかないし、少し前の私なら気づいていなかった。

 「柳」は、神社の境内でしか会えない私の友達だ。
 初めて彼を見たのは小学生に上がる前。近所に年の近い子供はなく、いつも一人で遊んでいた。家の裏手の森を辛抱強く歩いて抜ければたどり着く小さな神社も、私の遊び場所のひとつだった。
 ある日鳥居の下で靴を飛ばして遊んでいたら、力いっぱい蹴り上げてしまって、私のお気に入りの赤い靴は行方をくらましてしまった。
 いいかい、鳥居の奥、神殿より先は行ってはいけないよ。
 祖母のいいつけを破ってしまった後ろめたさと静まり返った厳かな雰囲気に半べそをかきながら、靴を探し回っていた時、恐ろしく大きな木の裏から若い男が現れた。「これはお前のものか?」神官のような着物をまとった、そよ風にも似た低い声の。その手には、私の探していた靴があった。青年は「柳」と名乗った。
 靴を履いて、ようやくまともに立てるようになった私に、いつも一人なのかと柳は尋ねた。私はその通りだったのでこくりと頷いた。
 友達、いないの。
 友達はおろか、この近辺には民家すらない。家族以外で、私の相手をしてくれる子供も大人もいなかった。柳は、私の目をじっと見下ろしてから、「お前が寂しく思ったら、そのときは来るといい」とほろりと言葉を落とした。ただし、日が落ちる前であれば、だか、と付け加えて。
 人見知りをする私が、柳に対しては不思議と警戒心も居心地の悪さも、ちっとも湧かなかった。見知らぬ男の人に対する生々しさや本能的な怖さもなかった。
 それより友達が出来たことが嬉しかった。思い描いていた友達よりずっと大きくて、集めているおもちゃの指輪もお人形もぜんぜん似合いそうもなかったけれど、彼は私の初めての、唯一の友達だった。
 それからずっと、家族が留守で、好きなテレビがやっていなくて、絵本も全部読んでしまって、雨も雷も空を覆っていないときは、柳に会いに行った。
 柳はいつも私が鳥居の下で呼べば、どこからともなく現れた。彼には足音がない。風が木々を揺らしたかと思えば、いつの間にか私の後ろや横に微笑みを浮かべて立っていた。
 柳はいつも何をしているの?と聞いたことがある。この神社や町を守っているのだと彼は答えた。だから、きっと神主さんのようなお仕事をしているのだろうと幼い頭で納得した。
 柳は木や花について学者のように詳しくて、私にひとつひとつ丁寧に教えてくれた。時々難しくてわからない話もあったけれど、柳は私を馬鹿にしたりはしなかった。むしろ物覚えがいい、お前は賢いと、嘘なんか微塵もないような真面目な風情でもって私をたたえた。
 春になればシロツメクサで冠を作り、夏は境内で一番涼しい場所で昼寝をして、秋は柿が熟すのを楽しみに待ち、冬は霜柱を踏んで音楽を奏でた。
 季節を繰り返すその間、私はピカピカのランドセルを見せに行った。発表会のために下手くそなリコーダーを聞かせた。同じ年格好の、女の子の友達ができたことを報告した。中学校の制服をお披露目しに行った。
 年を経てゆく節目節目、必ず私は柳の元を訪れて様々な出来事や喜怒哀楽を静かに、時に大げさに伝えた。境内から出たことがないしこれからも出られないといつか語っていた友達に、自分の日常の一端でも届けたかった。柳はいつも声を荒げることなく揺らぐことなく、嵐や大雨にびくとしない神社の御神木のように、それを優しく受け止めた。私を慰めて励まして柔らかにたしなめる。柳はいつも、どんな時でも、変わらず。
 そう、柳は変わらなかった。
 若く見えるという次元を超えて、変化がない。
 人であれば抗えない、肌や顔かたちに重なってゆく年月が柳にはひとつも見られなかった。
 私にとっては過去になりつつある、靴を拾ってくれたあの日が、柳には昨日であったかのように。
 家の裏手から続く森は、すこし前に物騒だからと封鎖されてしまった。だから神社に来るときは、正面から、神様の入口みたいな石段をのぼらねばならない。昔はあんなに遠く果てしないと思っていた階段も、今の私の足なら難なく上がれる。子供の目線でなく、真正面から見る神殿はとても小さくて、宮司さんなんてこの神社にいないこと、私は多分とうに知っていた。
 スカートの裾が膝を撫でる。
 人生の節目を、私は神社のこの不思議な友達に報告してきた。今日は、春から進学する高校の制服を、見せるために訪れた。大きめに作ったせいで体には合わず袖は長い。不格好なのが不満で、つい言ってしまった。
 早く大きくなりたい。
 制服を見せたとき、柳はよく似合ってると笑った。でもその目が、少しだけ雨が降る空のように。
 その言葉を聞いた柳はまた、それと同じさみしい色をほのかに灯した。
 もう手のひらに収まらない私の靴を見下ろして、柳はいつもと同じ台詞を口にする。
「そう急がなくてもすぐだ」
 子供の頃、それは周囲の大人が言う言葉と同じ響きしか持っていなかった。
 ラブレターをもらったと明かした時。ばっさりと切った髪で会いに行った時。誕生日がやってきて、またひとつ年をとった時。柳の静かな眼差しには、口元には、声音には、塵ほどの怯えが潜んでいて。
 無言で手を伸ばした柳は、私の少し曲がったネクタイを手際よく整えた。写真におさめるように少し離れたところで私の姿を確認し、すうっと目を細める。もう隠そうともしない雨の気配が柳のまぶたの上に浮かぶ。
「……願わずとも時はあっという間にお前を攫う」
この世のものとは思えない美しい微笑みに、今度は私が泣きたくなった。