天文史など

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国立国会図書館デジタルコレクション
国会図書館のコンテンツには申請不要で使えるものもあるのでとてもありがたいです。
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東北大学デジタルコレクション
和算、測量、天文暦学関係の資料がたくさんあって、楽しいです。

古典籍総合データベース
こんな資料やあんな資料がどこかにないかなと探すときにとても助かります。

国書総目録(pdf)
国書総目録をpdfファイルで見ることができます。
pdfファイルは文字検索できるのでとても便利です。
この本書いたの誰?とか、この人どんな人?とか、わかります。

東京大学史料編纂所電子くずし字字典データベース
平仮名や片仮名の合字(古文書なび)
僕は古文書がほぼ読めないのですが、こういうので調べて見たりします。
それでも読めませんが…。

和暦西暦対照表(近世)@静岡県立図書館
元号もわからないので、こういうので調べます。
このページが割と見やすくて好きです。
暦のはなし
暦のはなしを僕なりにまとめたものです。
最近、講座で使ってます。
間違いなどあれば教えて下されば嬉しいです。
暦のはなし(pdf)
二十四節気
1年365日を24分割。だいたい2週間に1度来る。以下の国立天文台のサイトに解説あり。
こよみ用語解説
江戸時代の暦(太陽太陰暦)
〇1ヶ月×12月と1太陽年はずれる!
1ヶ月の初めを新月(朔)とする
1ヶ月(29.53日)×12月=354.36日
1太陽年=365.24日

〇19年に7回閏月を入れれば、ずれを調整できる
235朔望月≒19太陽年
235-(19×12)=7
1年の長さが年によって大きく変わる
現在の暦(太陽暦)
1太陽年=365.24日
ちょっと(0.24日)端数が出る
4年に1回閏日を入れる(例:2004年)
ただし、100で割り切れる年は平年(例:2100年)
ただし、400で割り切れる年は閏年(例:2000年)
中国星座
〇江戸時代までは、日本では中国星座が使われていた。人間社会の組織に対応している。北極星が最も位が高く、遠ざかるにつれて地位が下がる。そのため、星図は、基本的に、北極星を中心とした円図。

〇黄道(白道?)近くを通る二十八宿が重要視された。二十八宿は、東西南北で七宿ごとに分けられる
初めて中国星座を設定したのは、商の坐咸、魏の石申、齊の甘徳とされる。三家といわれ、星図上で色分けして描かれることが多い。

〇星座は、三垣二十八宿に分けられる。三垣は、紫微垣、太微垣、天市垣で、それぞれ以下の意味がある。
紫微垣:天帝の居所。北極星付近。
太微垣:朝廷。天子の政をとる所。しし座、おとめ座付近。
天市垣:王都。ヘルクレス座、へびつかい座付近。

〇大阪市立科学館のサイトに詳しい解説あり。
中国星座への招待
中国星座の座標系
〇地上の座標:北極南極が基準
緯度:北(南)緯○○度
経度:東(西)径○○度

〇現在の星図:天の北極南極が基準
赤緯:北極が赤緯90度
赤経:春分点が赤経0時

〇中国星座:北極星と二十八宿が基準
去極度:北極星からの角距離(経度方向)
入宿度:二十八宿の中の角距離(緯度方向)

二十八宿の距星の位置。
28syuku
日本星図史
天経或問
 天経或問は、江戸中期、中国から輸入された天文学、地理・気象が書かれた書物。西川正休 (1693-1756) により訓点がつけられ、一般天文学書として江戸中期から後期まで広く読まれた。著者の游子六(游藝)は中国明末から清初頃の閩中 (今の福建省) の人。中国古来の天文に、イエズス会宣教師のもたらした西洋天文学の知識が加えられている。キリスト教に関する書物の輸入を制限する禁書令が緩められるまでは、宣教師とつながりのあるものは『天経或問』のような天文学書でも禁書対象であった。日本の星図は天経或問を引用するものが多い。
 星図について:経線が28宿の距星を通っておらず、29本ある(本来は28本)。参宿觜宿の順の星図と、觜宿参宿の順の星図の両方がある。往古においては、觜宿参宿の順だったが、歳差で順序が逆転した事実がある。この両者が混入している。星座の形、星の数が他の星図と異なる。王良の近くに客星が記載されている。これはチコの新星。

天文成象
 渋川春海(1639-1715)が嗣子昔尹の名で刊行した星図。春海は寛文10年(1670)に『天象列次之図』を、延宝5年(1677)に『天文分野之図』を、朝鮮の『天象列次分野之図』(1395)を参考にして刊行した。前者は日本で刊行された最初の星図である。貞享元年(1684)に貞享の改暦を達成した後しばらくして、春海は再び星図へ関心を向けた。改良した渾天儀と呼ぶ観測装置を用いて、約4年間、全天の恒星の位置観測を行った。その結果を『貞享星座』1巻にまとめた。『貞享星座』は残念ながら失われて現存しないが、その内容を星図に仕立てた物がこの『天文成象』である。北極を中心とした円星図と、赤道線を中央に置いたメルカトール図法のような長方形の星図から成る。中国の星座は西洋の星座に比較して数が数倍多く、そのため個々の星座を構成する星の数は一般に少ない。中国の古代星座は石申、甘徳、巫咸の3種があり(三家星座という)、星図上では伝統的に色を変えて区別した。春海は三家星図に属さない星の位置も多数観測して、61星座308星を新たに設けて描いた結果、『天文成象』には合計361星座1773星が図示されている。文化年間以降になると、中国のヨーロッパ宣教師が西洋天文学に基づいた精密な星図を製作してそれが日本にも伝わったため、我が国の天文学者の関心もそちらに移る。しかし一般には、春海による『天文成象』図を元にした星図も幕末まで繰り返し製作・刊行された。
 星図について
天文成象は春海の観測に基づく星図である。その観測値は天文瓊統巻八に記されている。渡辺(1987)は、この値から、天文成象の星(中国星座)と現行星座の星の照合を行った。
二十八宿の距星は、誤差が小さい(去極度で0.56度、宿広度0.29度)。距星は明るく基準となる星なので、誤差が小さいとも思われる。しかし、他の星では、誤差が1度を超えるものも少なくない。また、系統的誤差もあり、これは、観測装置の問題であると考えられる。

天文図解
 日本で初めて刊行された天文書。井口常範が編述して元禄2年(1689)に刊行。星図は天象列次之図と同じ。

初学天文指南
 馬場信武著。 宝永三年(1706)刊行。距星の去極度や入宿度などは管窺輯要(中国舶載書)からとった。

平天儀図解
 岩橋善兵衛著。享和二年(1802)刊行。星図は天文成象(一部天経或問)を採用。

星図歩天歌
 土御門一派の天文家が作った。文政7年(1824)刊行。

方円星図
 石坂常堅著。文政9年(1826)刊行。歳差を計算に入れた精密な星表「欽定儀象考成」(中国に来たドイツ人宣教師ケーグラー著)をもとにしている。麻田剛立一派もこの星表を利用している。

和蘭天説
 日本銅版創始者司馬江漢作。寛政8年(1796)作。西洋星座と中国星座の両方が描かれる。西洋星座はW. J. Blaeuの天球図を参考にしている。

 以下、近世日本天文学史(下)(12章日本星図史)と国立天文台の貴重資料展示室を参考にした。
江戸時代の改暦
〇貞享暦:約800年ぶりの改暦
渋川春海:初代幕府天文方。
日本人初の実測による星図の作成など

〇宝暦暦:失敗
禁書令の緩和(1720)により、西洋の科学技術がたくさん流入
吉宗が西洋天文学をもとにした改暦を目指す
天文方と陰陽頭の対立など…

〇寛政暦:成功
地方の暦算家が力をつけてくる
中でも麻田一派は優秀な弟子を輩出
高橋至時と間重富が改暦を成功させる
太陽と月は楕円軌道

〇天保暦:史上最高精度の太陰太陽暦
惑星も楕円軌道
明治に入ると太陽暦に。
国立国会図書館に暦に関する解説があります。
日本の暦
宇宙観など 龍谷大学大宮図書館に田中久重作の須弥山儀がある。動くみたい。
シリーズ龍谷の至宝

国立科学博物館には渋川春海作の天球儀と地球儀があります。
天球儀
地球儀
仙台市天文台には、仙台藩の渾天儀があります。
渾天儀
測天量地
〇天文好きだった伊能忠敬
50歳で高橋至時に弟子入り
地球の大きさを測ることに興味を持つ
⇒全国測量へ!

〇各地で星の高度を測定
⇒緯度がわかる
⇒緯度と距離から地球の大きさがわかる
⇒緯度1度=28里2分(100.7km)誤差1%以下

〇以下のサイトで伊能忠敬の様々な資料を見ることができます。
伊能忠敬e史料館

以下、川村博忠著「近世絵図と測量術」や安城市歴史博物館「江戸時代の測量術」などを参考にしています。

〇江戸時代の測量術について
江戸時代、測量術の事を量地術、町見術、規矩術などといいました。
なので、これらで資料検索すると、測量関連資料が結構出てきます。

〇清水流測量術について
江戸時代の測量術における最大の流派。
規矩術は樋口権右衛門がオランダ人カスハルから伝授されたという。
そこから樋口権右衛門―金沢刑部左衛門―金沢清左衛門−金沢勘右衛門―清水太右衛門貞徳の系譜をたどっている。
清水太右衛門貞徳は、金沢勘右衛門とともに江戸で津軽藩に召しかかえられていた関係で金沢兄弟と親交を結び、規矩術の伝えを受けるところとなった。元禄元年(1688)に津軽藩を辞して江戸で塾を開き、樋口にはじまる規矩術の伝書を整備した。
この流派の測量術は、「規矩元法」、「規矩元法町見」と称し、その技術はすべて秘伝書と免許状の形で伝えられるのみで、一般に公開されなかった。
しかし、元禄期に清水貞徳は、「規矩元法」を「本伝」「別伝」「町見絵目録」および「国図枢要」など数冊に整理してまとめ、門弟に授けたようである。
清水の弟子、河原貞頼は享保12年(1727)に国絵図作成の要領をさらに詳しくまとめた「国図要録」を書いている。

資料には絵が多く載っていて、見てておもしろいです。
以下のサイトで少し見ることができます。
4実学・測量関係(江戸の数学)
国絵図について 信濃国絵図(正保、元禄、天保)が高解像で以下のサイトで見ることができます。
上田古地図・地図デジタルアーカイブ

元禄国絵図の作成に関わった大日方家資料が長野市立博物館に寄託されていて、以下のサイトでその一部を見ることができます。
長野市立博物館収蔵品管理システム
資料群の中には、隣国との境を決めるための縁絵図が多く残されています。 信濃国は10の国と境を接しているので、その調整は大変だったと思います。
本草学など 江戸時代になると、本草学が発展します。
本草学とは、中国の薬物学で、薬用とする植物・動物・鉱物の、形態・産地・効能などを研究する学問で、広く自然物を実用の観点から調べています。
本草学の詳細は以下のサイトをどうぞ。
江戸の花だより
8代将軍吉宗の進めた物産政策がきっかけとなり、全国的に動植物への関心が高まります。
吉宗の政策については以下のサイトをどうぞ。
江戸時代の博物誌
本草学の資料はきれいなものが多いので、見てるだけで楽しいですね。




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