ここでは、第二次世界大戦中に活躍した兵器など、少しばかりミリタリー色の強い趣味まるだし のページだが、ヒマがあればどうぞ。

ナチスドイツの軍備事情についてまとめたメモです。まだ未整理。⇒ ドイツ軍メモ

天空の騎士

50年以上時を経た今でもなお多くの人の記憶に残る名機たち。悲しくも戦争の道具として生まれた彼 らは、だからこそ人々の忘れ得ることのない、当時の技術と歴史が邂逅されるのである。

スーパーマリン スピットファイア


イギリス人にとっては非常に思い入れの深い機体。勝利国ゆえに日本人に対する零戦以上であろう。 英国空軍(Royal Air Force)を代表する傑作機で、ナチスドイツからイギリスの空を救った英雄で ある。シュナイダー・トロフィーで優勝したレーサー機、S.6Bの経験を生かして開発された。
これよりもわずかに先行して開発されたハリケーンよりも50km/h以上速い速度を記録し、全金属製 、引き込み式の主脚など、当時のイギリス機としては革新的な存在であった。バトル・オブ・ブリテン (英国上空の戦い)では、新兵器であるレーダーを用いて、効率的にドイツ機を迎撃しドイツの英国 本土上陸を諦めさせた。
1941年9月、ドイツ軍が新鋭のFw190を投入すると、スピットファイアも 一蹴されるようになってしまった。これに対し、急遽開発されたのがMk9で、Mk5の機体に高高度性能 を強化したエンジンを搭載、ようやくドイツ機と対等に渡りあえた。さらに新式のグリフォン・エンジン を搭載したのがMk14(写真)で、本来開発されるはずであったMk21までの暫定的な機体で、ベースはMk8と 同じである。Mk14はしかしドイツからのV1ミサイルの迎撃に従事し、多大な成果をあげている。



フォッケウルフFw190


もともとは当時既に主力戦闘機として活躍していたメッサーシュミットBf109の補助戦闘機として 採用されたもので、開発は1938年からスタートしたと言われる。 ヨーロッパ方面では、イギリスやイタリアをはじめ、高速戦闘機には液冷エンジンを採用するケース がほとんどであったが、Bf109の生産を阻害しないために、ダイムラーベンツDB601系の使用を 禁じられたこともあり、開発主任のクルト・タンク博士はあえて空冷エンジンの採用、実用化に踏み 出した。一般的に空冷エンジンは液冷のそれとくらべると、直径が大きく、空気抵抗が増大する欠点 があったが、反面、排気量は空冷に比べ大出力のものが多く、信頼性や整備性の点で優れていた。 エンジンは当初BMW139が採用されたが、後に採用されるBMW801の完成までの繋ぎとしての意味 合いが強い。実戦配備は1941年、ドイツ軍がロシアに侵攻をかけている時期である。
Fw190は開発者の思惑通りBf109とは対照的に、頑丈で、整備性に 優れた戦闘機として仕上がった。また、高高度での運動性に難があったものの中高度では圧倒的な 戦闘力を誇り、実戦投入直後、優位に立っていた英国のライバル機スピットファイアを圧倒 し、一時は大西洋側の制空権を奪取することに成功した。さらに、その機体の余裕のある設計は多くの バリエーションを生み出した。初期型であり、主力となったA型や、偵察型であるE型、対地支援型のF型 、長距離戦闘爆撃機型としてのG型、高高度戦闘型のD型などで、総生産数は2万機に及ぶ。



メッサーシュミット Bf109


1934年、世界情勢が次第に不穏な空気を纏う中、ドイツは来るべき日に備え着々と兵力の整備を 始めるとともに、主力戦闘機の開発も進めていた。軍の開発要求を受けたドイツの航空会社からBFW(バイエリッシュ航空会社 、後のメッサーシュミット社)の試作機が評価され、制式採用を受けることとなった。 これがBf109で、当時の水準を大きく上回る全金属製単葉機で、多くの新機軸を盛り込んでいた。 初期のA、B型は航続距離の短い戦闘機で、主にスペイン内戦で実戦を経験し、それをフィードバックに 本格的な生産型であるE型へと発展する。艦載機としてT型も開発、生産されたが、肝心の航空母艦が 完成しなかったので陸上機として運用されている。続くF型は、エンジンの出力の向上と機体の洗練が 成され、E型より格段に優れた機体に仕上がり、シリーズ中最もバランスの取れた機体との評価を受け ている。G型は防弾板などによる防御力や火力のアップが図られたが、全体的な性能ではF型には及ばない とされる。それでも時期が時期であったせいもあり、G型はシリーズの中での最多生産数を誇り、2万3千機が生産された。最終生産型であるK型は高高度性能を向上させた制空戦闘機で、ドイツ末期、主に 連合軍の爆撃機の迎撃に用いられた。
登場時から長きに渡って主力戦闘機として活躍し、スピットファイアのライバル機として互いにその性能 を伸ばしあった長寿の戦闘機である。その長さは約10年に及び、この数字は当時世界最強とされた傑作機で ある零戦が実質3年ほどで連合軍に対抗できなくなったことを考えると、その点でも希有な戦闘機を言えるだろう。



リパブリック P47サンダーボルト


開発は1940年6月12日、リパブリック社の2000馬力級のエンジンを搭載する重戦闘機 の提案から始まる。しかし大型のエンジンの搭載によるバランスなどにより、機体の設計に難航 し、胴体下の排気タービン、各種ダクトなど、予定以上に巨大な戦闘機となった。重量は8tに 及び、ドイツのBf109の実に3倍の重量があった。種々の問題が発生したものの、それほど致命的 ではなく1943年春に生産が始まっている。
初め、この怪物じみた巨体にイギリス空軍には 躊躇されたが、サンダーボルトが実戦で使われるに従って、敬意の念を集めるようになっていった。
というのもサンダーボルトは恐ろしく頑丈な戦闘機で、穴だらけにされても平然と飛行することが できたし、胴体着陸するはめになっても滅多に機体が分解することはなかったし、火を吹くことも 無かった。頑丈な機体の多いアメリカ軍機でも、特に「落ちない戦闘機」と評されている。



三菱 零式艦上戦闘機


もはや説明は不要なくらい有名な戦闘機。太平洋戦争勃発時から日本の主力戦闘機として「ゼロ・ ファイター伝説」を創りあげた。堀越二郎開発技師と日本の技術の結晶とも言える1000馬力 級戦闘機の具現形であった。軽快な運動性、長大な航続力、強力な武装と事実上、大戦を通じて使 用された主力機だったが、それらを可能にした究極の軽量化は、防弾性を犠牲にしたものであった。
開戦当初、零戦はまさに無敵の存在で、アメリカ太平洋方面軍の恐怖の的であったが、戦争中期以降 欧米で続々と就役する2000馬力級の戦闘機の登場や、ミッドウェー海戦などの歴戦における熟練 パイロットの喪失は次第に零戦、ひいては日本軍を劣勢に追いやることとなる。優秀すぎた戦闘機は、 次代の戦闘機の開発を遅れさせ、末期において500km/h台半ばの速度では、欧米の700km/hの最 高速度を誇る戦闘機群には太刀打ちが出来なかった。
特にアメリカ軍機に対して最も不利だったのが その防弾性で、零戦の強力な20mm機関砲を持ってしても敵機に穴をあけるのが困難であったのに 対して、アメリカ軍機は、12.7mm機銃で容易に零戦の装甲を貫通することが出来たのである。 このことは、零戦のライバル機で、1万機以上生産されたアメリカ海軍機グラマンF6Fヘルキャット が日本軍に対して撃墜された機がわずか270機だという事実が如実に語っている。



Y号戦車ティーガーT(PanzerkampfwargenE"tiger@”)

アメリカなどではタイガー戦車として呼ばれ、第二次世界大戦中、最も有名な戦車。対ソ連戦が始まる前から陣地突破用の重戦車の開発を試作していた。もともと戦車とは、第一次世界大戦中、敵の塹壕や兵陣地を突破する目的で作られた。しかし、いざソ連と戦端を開くと、T34を初めとする新型戦車に 対して現存のドイツの戦車では撃破が困難であった。開発はヘンシェル社とポルシェ社によって進められ、先に車体が完成していた。当初、75mm砲を搭載する予定であったが、優勢なソ連戦車に対抗 するため、定評のある88mm高射砲を戦車用に改造したものを採用している。こうしてティーガー戦車は1942年8月に実戦に投入されている。これまで相対的に連合軍よりも火力、装甲で劣っていた ドイツ軍にとってティーガーはまさに救世主で、100mmに及ぶ正面装甲は至近距離でも貫通は困難 であったのに対して、ティーガーは敵戦車の射程外から撃破することができた。この戦車はアメリカの 主力戦車であるシャーマン戦車5台を相手に対等に戦うことができたという。ただ55tに及ぶ重量に よる機動力の欠如、渡れる橋の制限などの弱点を抱えてはいたが、1943年以降、ドイツ軍は防衛戦が主体であったので、それほど致命的ではなかったようだ。



歴史に名を刻んだ騎士たち

エース(撃墜王)とは、もともと第一次世界大戦、フランスで採用された称号で優れた戦果を残した パイロットに対して送られたものである。第二次世界大戦においても敵機を多く撃墜したものに送られる 称号として各国が採用しているが、その条件となる撃墜数は5機であったり10機であったり国に よって異なっていた。ちなみにドイツの戦闘機エースには100機以上撃墜したパイロットが100人 以上いて、ドイツ以外に100機以上撃墜したパイロットは存在しなかったというから驚きだ。




エーリヒ・ハルトマン

最終階級:大尉

航空戦史上、空前絶後の352機を撃墜した世界のエースの頂点に君臨する男。300機以上のエース はゲルハルト・バルクホルン(301機)と彼の2人だけである。
少年時代から女流パイロットであった母親の影響でグライダーの操縦に慣れ親しんでいたハルトマン だが、1942年10月に配属、半年で7機撃墜と初めは決して目立つ存在ではなかった。 しかし対ソ連、クルスクの戦いを参加した後は7,8月で73機撃墜と脅威的なペースでスコアを 伸ばしていく。その後記録はとどまる所をしらず、1944年3月には200機、同年8月には 前人未踏の300機を達成しソ連からは「ウクライナの黒い悪魔」と呼ばれ、その愛機Bf109G−6 はそのカラーリング(塗装)から「黒いチューリップ」とも呼ばれ脅威の対象であった。
意外にもハルトマンは生きて還ることを信条にしており、彼の部下を含め無傷で戦い続けたことは 非常に興味深いことだと言えるかもしれない。ハルトマンは旋回による空戦術(ドックファイト) よりも彼の超人的な視力と高度を活かした編隊による一撃離脱戦を得意とした。彼(ら)の攻撃を 受けた敵機はほとんどの場合、一撃で爆発か空中分解したと言う。
ハルトマンは戦後、10年の抑 留生活ののち西ドイツ空軍の航空団司令を勤め、東西ドイツの統一を見届けた後、1993年、7 1歳でこの世を去った。


ハンス・ヨアヒム・マルセイユ

最終階級:大尉

戦後、アフリカの星というドイツ映画の主人公となり、世界に名をしらしめた伝説的なエース。 一般的な知名度では、恐らく彼の右にでるドイツエースはいないであろう。その脅威的な 戦歴は、短期間で精強な英・米機を相手に158機撃墜したことからもうかがえる(多くの 場合、ドイツエースは、性能、練度で劣るソ連機を相手にしていたパイロットであった)。
マルセイユの最大の特徴はその空戦術にある。通常、Gがかかって精度のおぼつかない旋回中 での見越し射撃を得意としていた。これは誰にも真似の出来ない超高等技術で、卓越した射撃、 操縦技術を備えたマルセイユならではの戦法であった。記録では1日に17機撃墜とも記されて いる。彼の愛機にはケルブ14といわれる黄色の14が描かれていた。本来1個中隊が12機 編成であるため、14はあり得ない数字だが、それはエースゆえに許された番号であった。
また彼は美男子であることでも知られ、ドイツ国民、とりわけ女性の間で絶大な人気を誇った。 しかしこの希代の天才にも運命の日が訪れる。1942年9月30日、出撃から戻る途中、乗機 のエンジントラブルによりパラシュートでの脱出を試みたが、脱出の際に尾翼に接触、失神した 彼はそのまま還らぬ人となった。