第7章 誕生から成人まで

     
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1.誕生  1.Birth.pdf へのリンク 
2.小学校時代 2.The elementy school age.pdf へのリンク
3.中学校時代  3.The Junior high school age.pdf へのリンク 
4.高等学校時代  4.The High School age.pdf へのリンク 
5.大学時代   5.Collge Days.pdf へのリンク


 6.家系について
 
父の家系
 
ここで、我が家の家系について軽くふれておきたい。父方の祖父は小菅兼治郎、祖母はサイと言う。小菅兼治郎は秩父郡小鹿野町泉田の広大な土地を保有した名主。小菅家への入り婿であった。梅鉢屋という旅籠兼料理屋も営んでいたが、当時秩父線が開通した。小鹿野町泉田に宿をとって三峯神社に向かう旅人がいなくなり梅鉢屋は廃業したのだと聞く。農地は取られ、小菅家は没落して、父の代には借金しか残らなかったようだ。それでも父は苦学して埼玉師範学校を卒業して、埼玉女子師範学校卒業の母と結婚。両親は小菅家に残された借金を全て返した。
 私が住む春日部から秩父郡小鹿野町泉田には、羽生を経由して秩父線の秩父駅で下りる。そこからバスに乗り換えて峠を一つ越えてバス停「泉田」で下車する。春日部から3時間程度の距離だ。バス停「泉田」は三叉路の交差点にあり、今でも交通の要であった面影が残っている。近くに小菅家先祖代々の墓があり、寺は七福神の毘沙門天が祀られた鳳林寺だ。バス停を降りても、今となっては小菅家がどこにあっのか私には判らない。父からも父の姉妹からも家の所在地を話してもらえなかった。小鹿野町泉田の三路に立って、四方を見渡す限りの広大な土地を有し、名主・旅籠兼料理屋を経営する程の小菅家が、何で兼治郎一代にして全ての財産をなくし没落したのか。小菅家は代々女系家族で、兼治郎は子供達にその辺りの詳細な事情は語らなかった。私は近年、小鹿野高校に所用で年に何回か足を運んだ関係でバス「泉田」を通る。でも父の生家が判らないし、小さい頃から年に何度か墓参りに来る程度だから感慨はわいてこない。父は自分にも私たち子供にも「しっかりとした学業をつけたい」という熱意があった。「我が家は財産はない。だからしっかり勉強して身を立てるより仕方がないのだ」と父はよく言った。
1901年(明治34年)10月7日上武鉄道が熊谷 - 寄居間開業し、1930年(昭和5年)3月15日影森 - 三峰口間が開業した。 父の子供の頃は、良家のお坊ちゃまだったようだ。
世の進歩・発展には抗いようはない。例え小鹿野町泉田の小菅家が続いていたとしても、1947年(昭和22年)日本政府によって行われた農地改革で土地は没収されたであろう。小菅兼治郎の代で没落したのであるが、なんとか名主でいられたとしても、農地改革による父の代での没落は、逃れられなかったであろう。早晩、小菅家は名主でなくなるさだめだった。
 
母方の家系
 母方の祖父は高橋周作。祖母は伊古田クニという。祖父の周作は、秩父坂本家は秩父郡上吉田村の名主であり、現在も家系が続いている。坂本家については、私は多くを知らない。
 
   伊古田純道という人
 
祖母である伊古田クニの祖父が秩父郡伊古田村の名主の長男、伊古田純道である。伊古田純道は長男だから名主を継ぐ身の上だったが、家督を次男に譲り、医学を身につけて秩父大宮郷の地方医となった。嘉永5(1852)年日本初の帝王切開手術を行って成功させている。
  伊古田純道(享和2年1802~1886)医師。秩父郡伊古田村に生まれ、幼名を富次郎、名は寧、字致遠、忌み名を重満、通称を純道、楢陵または白茅樵舎主人と号した。伊古田村の名主の長男として生まれた。若くして医を志し、23歳の時、武州比企郡番匠村(現比企郡ときがわ町)の産婦人科医小室元長につきオランダ医術を学んだ。家は代々名主であり、父は純道に家業を継がせようとしが、純道の意は固く、祖父の理解もあり、次男に家督を譲って、江戸・長崎などで蘭方医学及び和漢医学を究め、30歳後半(天保の頃)秩父大宮郷に帰郷し開業した。当時秩父郡の医学は漢方医を主としており、洋医は流行らなかたが、嘉永5年オランダ医術による帝王切開術決行の会が訪れた。
 嘉永5年(1852年)甥で純道と同じ門下生でもあった武州秩父郡南川村(現飯能市)の蘭方医岡部均平の医師により、坂元村に住む本橋常七の妻(本橋みと)が逆子の難産に苦しみ、一命を救うために、我が 国最初の帝王切開術が決行された。
既に胎児は死亡していたが、産婦みとは手術によくたえ胎児を取り出すことができた。彼女は2ヵ月ほどで回復し、89歳の天寿を全うした。この時の様子を純道は「子宮截開(せっかい)術実記」に記している。「よく子宮を裁開して、これを出すの捷径術(帝王切開)を行うべし。此乃ち西医の経験する所なり。空して手を束ねいて、以て其の死を待つより、むしろ此の術を行って以て僥倖の生を祈らんに如かす」純道の追い込まれた心境察することができよう。「衆議一決して其の術を施さんことを乞う心に於いて、すなわち刀を取り左方の傍を縦裁すること5寸余」手術は無事に終わった。
 
 伊古田純道
「その夜岡部に宿し、翌26日これを診するに脈沉静して力あり、神気漸く穏なるを覚える」ほどの成功であった。「予も此に刻苦すること30年、未だ此の如き難産を見ざる…嗚呼実に西医の賜なり」。手術は見事に成功し、産婦の一命を取り留めている。純道の帝王切開は、開腹手術としても日本初とされている。
 著書・作品(出版社・収蔵館)『子宮截開術実記』、『撒羅満氏産論抄書』、【漢詩集】『楢陵遺稿』【手稿】『賊民略記』、『新政或問』、『志学大意』、『甲申詠草』。参考文献(著者・出版社)『帝王切事始』(高木明)。
ゆかりの場所・名称「本邦帝王切開術発祥の地」記念碑飯能市坂元1298本橋家敷地内。
上記の伊古田純道の記述は、昭和58年3月31日埼玉新聞社発行埼玉近代史研究会編「埼玉人物小科」。www.pref.saitama.lg.jp/A02/BP00/ijindatabase/syosai-14.htm (埼玉県総合政策部文化振興課)。なびに、伊古田純道 - goo Wikipedia記事検索に寄っている。
母の手紙―私の家系について―
ご無沙汰しております。今日(10月2日)は上町の敬老会で、行ってまゐりました。そして2時頃終わっので帰ってきて、此の手紙を書いております。最近は涼しくなって凌ぎよくなりました。今年の夏は大変ものでした。その暑さの名残が残って(あせものより)痒くて困っております。この前泰雄に頼まれた返事をまだしなかったので、之から書きます。上吉田村の坂本家へたのんで教えて貰いました。
次は今月の22日に防衛医大病院に入院して25日に左の目を手術することになりました。右は11月1日にするそうです。幸子さん(弟久雄の嫁)が色々面倒をみてくれるので助かります。
手術をした人の話では、今は簡單で、とても心配はないといふので安心して居ります。
では又後程、寒くなりますので御大事に。
静華ちゃんは頑張ってますか?おばあちゃんも水墨画を今ならっております。ボケの予防です。82歳で頑張っております。いつか秩父へ来たら作品を見せますからね。
では又10月2日夜。泰雄様 ご家族様
私が若い時、多三郞さんは家によく来ました。私が知っているのは多三郞さんから下の人達です
  
 
 先程はいろいろすみませんでした。静華ちゃんじゃないけれど、私のものを全部返して貰って、フッと寂しさを感じました。
私の先祖伊古田純道のこと(記録)を姉(伊古田トク)が持っていたので、久雄にコピーして貰いましたので送ります。
よく読むと大体のことが解ります。また疑問の点があったら話してみて下さい。せいぜい調べてみます。
純道の曾祖父位までは名主だったのが之で解りました。現在は秩父市太田の家にひろむが居るそうです。
度々火災に遭って貧乏暮らしをしているらしいです。太田小学校の正門の所に純道の碑が建っていて先日暮れに升八君が来た時、いっしょに行ってみて来ました。機会をみて久雄とでも見てきたらと思います。久雄も御先祖に興味を持ち始めています。では又、
正月ももう少し落ち着いたら折笠さんと静華ちゃんにでも何か送りたいと思っています。昭和55年1月5日