垂井町中町曳やま「紫雲閣」解説

本文は次の調査発表内容を一部引用しております
岐阜工業高等専門学校紀要 第26号 別冊
垂井町中町曳やま「紫雲閣」について 水野耕嗣著

<はじめに>


  正面から見る上部の破風と亭

 現在全国各地で祭礼に引き出され、その華麗な容姿を見せてくれる山車のほとんどは、江戸時代の後期に各地で急速に盛んになり作られたものである。

 その多くは東海から北陸にかけての中部でみられ、岐阜県下には全国的に著名な飛騨「高山」の屋台を始め、県指定の文化財になっているものも少なくない。

 一方近江「長浜」の曳山もその華麗さは有名であるが、そのほとんどは江戸後半、特に幕末に多くの曳山を建造・改造した藤岡和泉一門の作品である。

 さてこの垂井町中町所有の「紫雲閣」は、明治初期にその藤岡和泉によって作製された曳やまで、複雑な亭を有する独特の構造は「動く聚楽第」といっても差し支えなく、その優雅さは美しくもうつる。


<「紫雲閣」の構造と特徴>

四輪内輪と独立車軸

舟木と車輪、その上の囃子

 「紫雲閣」は曳山の型、様式で分類すると、四輪内輪、舞台形式、亭付であるいわゆる長浜型である。

長浜型は土台に相当する「舟木」と呼ぶ一対の材の内側に四輪があり、その舟木に柱が立っている。

 ・四輪内輪
 ・舟木
 ・舞台形式
 ・亭付

全体側面

 紫雲閣の一層部分の前方には「舞台」があり、その後方にはふすまを挟んで舞台裏部屋を持つ。ここは歌舞伎の三役の太夫、三味線方と、出番を待つ芸児の空間である。

一層部分と舟木の間には「囃子」といわれる空間がある。ここはかつては囃方が乗り組んでいた所でもあり、笛,太鼓の祭り囃子が演奏されていたところである。

この囃子部分は垂井の曳やま独特の構造であり、長浜の曳山ではまったくみられない空間である。

また舞台は長浜の舞台よりも300mmほど高く、その分曳やま全体が高く、大きく感じられる要素にもなっている。

 舞台の屋根部分の上を「見返し」といい、中央及び背面に「二階」、その上に「三階」をもち、その二階三階をあわせて「亭」と呼ぶ。(最高部の装飾を「亭」と呼ぶ方がいるが正しくは二階三階部分全体を指す)

また背面二階の屋根も「見返し」という。亭は中央部から背面にかけて位置し中央部の二階三階と背面部の二階三階が交互に入り組むような構造をしている。

この入り組んだ構造が複雑な亭を表現し紫雲閣の最大の特徴にもなっている。

  各部までの高さ(車輪下端から)

剣先端まで 8,805mm
3層目屋根上まで 6,954mm
3層目床まで(中央部) 5,893mm
2層目床まで(中央部) 4,407mm
1層目床まで 1,726mm
台輪上端まで 1,638mm



  各部の構造と特徴

 屋根はすべて柿葺(こけらぶき)形式であり、とくに漆を塗って仕上げられており装飾性が強い

斜め後方より
1層目屋根    
   舞台上部正面 唐破風(からはふ)  
   舞台上部側面 千鳥破風 二軒平行垂木
2層目屋根    
   中央部正面側面 宝形(ほうぎょう)屋根、 一軒平行垂木
  軒(のき)唐破風  
   後部背面 妻入り入母屋屋根、唐破風 一軒平行垂木
   後部側面 入母屋屋根、軒唐破風 一軒平行垂木
3層目屋根    
   中央部正面側面 宝形屋根 一軒扇垂木
   後部 唐破風 一軒平行垂木

曳やまの重量

躯体のみ 4,400kg(平成二年九月計量)
幕、金具等含む 4,500kg程度

<「紫雲閣」の建造年代と制作技術者>

八重垣神社の祭礼の垂井祭りに曳やまが出たのは、文和二年(1352)のことであった。しかしこの時代の曳やまは「花車」と呼ばれるものであり現在の曳やまとは根本的に相違するもので、簡単で初源的な山車であったろう。なおこの花車が舞台を持つようになったのは約400年後の安永年間のことという。

さて中町の「紫雲閣」の歴史は詳びらかではないが、少なくとも安永四年には子供歌舞伎を演じていることからして曳やまの存在は確認できる。事実現在の曳やまに先行する曳やまは、文政九年に美濃不破郡の室原に売却されているので、垂井にはそのころまで存在していたといえよう。

しかし、この曳やまの建造年次や、大工については不詳であるが、垂井中町ではこの曳やまは長浜より購入したという伝承があるので長浜の曳山大工藤岡一門の作品である可能性が高い。

この売却により垂井中町は新たに曳やまを建造したと伝えるが製作年次は判然としないもののおおよそ文政年間という。しかし製作大工は不明である。

しかし後の明治三年(1870)になって近江長浜の曳山大工・藤岡和泉の大改造によって現在の容姿となったという。なお先ず下部の「舞台」を建造し、暫く後に「亭」を建造するのが長浜の常道であるようなので、ここ垂井でも同様にした可能性がある。若しそうだとすればこの文政時建造曳やまは藤岡和泉の作品といえよう。

なおさらに想像たくましくすれば、先の曳やまが藤岡の作品であった可能性が高い。とするとその代替のものを望まれたとすれば、この文政時建造の関与大工も釈然とするし、のちの亭増築の経緯も頷けるのである。

なお文化九年に地元の山蔵を建造した(約三尺程柱を高めた)伝承は先の曳やまより背高になったことを物語る。

<曳やま大工>

 「紫雲閣」は地元の伝承によると安永〜文化年間建造の曳やまを室原(養老町)に売却し、新造したのが現在の曳やまであり、おそらく文政年間にはじめて大きな舞台付の曳やまに改造されたものと思われる。それを「明治三年九月に、米にして160俵のお金で藤岡和泉が大改造した」のである。

 さて改造を手掛けた藤岡家は、初代市松が元和三年(1617)8月1日の誕生で、甚兵衛を名乗り、後に和泉と称している。以後2〜4代は不詳で以下年次に従って各地で多くの曳山等を手掛けている。

   藤岡家関与曳山等一覧

製作年次 曳山等名称 本体  亭 他  所在 担当者
宝暦 5年(1755) 「青梅山」     長浜 和泉長好
宝暦10年(1760) 「旭山」   米原 重兵衛
明和 2年(1765) 「翁山」   長浜 和泉一富
安永 3年(1774) 「練鼓山」     長浜 和泉一富
安永 3年(1774) 「猖々丸」     長浜 和泉一富
安永10年(1781) 日吉神社本殿     長浜 和泉利盈
天明 2年(1782) 「寿山」     長浜 和泉利盈
天明 2年(1782) 「風々舘」     宮川 和泉利盈
天明 5年(1785) 日枝神社神輿     長浜 和泉利盈
享和 2年(1802) 「万歳楼」   長浜 重兵衛安道、市松安則
文化 元年(1804) 「練鼓山」     長浜 重兵衛安則
文化 2年(1805) 「青梅山」     長浜 重兵衛安則
文化12年(1815) 「孔雀山」     長浜 重兵衛安則
文化13年(1816) 「高砂山」     長浜 重兵衛安則
文政 元年(1818) 「高砂山」     長浜 重兵衛安則
文政 元年(1818) 「常盤山」     長浜 重兵衛安則
文政12年(1829) 「鳳凰山」   長浜 和泉一富
嘉永 3年(1850) 「月宮殿」     長浜 重兵衛光隆
明治 3年(1870) 「紫雲閣」     垂井 和泉
明治 4年(1871) 「寿山」   長浜 重兵衛

第1図

 さて、その藤岡家にはかなりの史料が残るが、垂井の曳やまに関しては図面が2種類現存する。

 第1の図は「濃洲垂井駅 紫雲閣」の墨書があり、左下には「長浜住・藤岡和泉」と記されている巻物仕立ての図面である。

 図面の内容は曳山の側面図で縮尺の記載はないが1/10と推定される。しかし現存の紫雲閣の亭の部分では、中央の下層屋根はともかく、上部が神輿の屋根のような宝形造であるが、この絵図では、入母屋造妻入の側面側の千鳥破風を据え、四方入母屋の形であり、また後部の屋根も唐破風が一段付くのみで比較的簡単で、現在の紫雲閣のような複雑な屋根構成ではない。

 なお最後部を除いて一層部分まではほとんど一致するのは、改造以前から存在する曳山を描いたとすれば納得できる。

 よってこの図面として想定できることは次の2通りである。

 想定1)図面は藤岡和泉の「明治期亭改造提案図」である
    改造案を地元に提示するために描いたもので、実施されず幻の計画案として残った

 想定2)図面は「文化文政時建造の曳山の様子を示す図」である
    改造当時の現存した山の様子を丹念に描いたものである

第2図

 第2の図は同じく巻物仕立ての図面で、この図面の裏面には「垂井山 箱ナシ」の記載があるのみで図面内容から垂井の紫雲閣であることは間違いない。図面は墨書きであり縮尺も1/10と推定される。亭は現存の曳やまとほとんど同じであり、異なる点は次の通りである。

 ・見返し側面千鳥破風屋根棟端が鳥衾付鬼板である
 ・二階前方軒唐破風を支える柱らしきものがある
 ・二階側面高欄の地覆平桁間が欄間である
 ・二階側面軒唐破風屋根の鬼板が鬼面である
 ・二階側面後部軒唐破風屋根が鳥衾付鬼板である
 ・三階屋根頂部が雲台と剣でない
 ・亭が全体に前方に位置している
 ・舞台正面柱に唐獅子らしい木鼻がある
 ・舞台側面に大虹梁が掛かる
 ・高欄親柱(側面)が四本である
 ・最後部の柱を支える舟木上の柱がない
 ・囃子の窓が5つでない
 ・舟木が最後部柱を支える部分までなく短い

 現在の曳やまは舟木の部分が背面に1間分延長して、屋根からの荷重を支える柱を一本追加している。

 結局これらの2枚の図面から文化年間製作の曳やまは現在の最後部と上部の亭を取り去った、一回り小さいものであったことを説明できる

以上、これまでの記録・推測をまとめ時間軸順にならべまとめると次のようになる。

 −安永〜文化年間    前代紫雲閣を長浜より購入(伝承より)
 −文政9年(1826)   前代紫雲閣を室原へ売却
 −文化年間        現在の紫雲閣の最後部と亭部以外の部分を製作(推測:藤岡家作) 図面1
 −明治3年(1870)   藤岡和泉によって最後部と上部の亭を中心に大改造    図面2

<彫刻大工>

舞台後方欄間(松と鷹)

 彫刻は数多くあるが、そのほとんどは作者が不明で、現在までに判明したのは、昭和52〜57年の修理時であり、

 ・正面唐破風兎毛通(鳳凰)の裏面に 幸三郎作
 ・舞台後方欄間(松と鷹) 守重作 山口小三郎作
   明治五年申八月吉日 江州坂田郡枝折村

とある。

坂田郡枝折村とは今の醒ヶ井のことで、この地方は古くから仏壇を中心とした彫刻の盛んなところである。

<絵師>

 絵画は舞台の後と側面に合計三面描かれ、その題材は「菊」で優美な作風を呈している。

 この絵師は腰板絵の左端に記載された円山応挙の第一の弟子といわれた「山口素絢(けそん)」である。彼は通称武次郎、字を伯陵、山斉と称した京都の人で、円山派の色彩豊かな絵師である。文政元年(1818)10月に60歳で没しているので、少なくともこの舞台の製作は文化年間には出来ていた証となる。

<金具師>

曳山には大量の飾金具が装着されながら作者についての記録・伝承がない。

<塗師>

 塗については
 「江洲坂田郡高橋村 塗工 森喜兵衛」
の記録がある。これは明治の大改造の折の塗を指すものと思われる。

<幕仕立>

 明治15年(1882)に名古屋の伊藤呉服店(現・松坂屋)が請負い、仕立ては大垣俵町の川合平七であった。

<まとめ>

 垂井町中町「紫雲閣」は明治3年に長浜の曳山大工・藤岡和泉により亭部を増改築された四輪内輪で、舞台形式を持つ典型的な長浜型の曳やまである。その重畳する亭様式は複雑・華麗で、新旧絵図面の出現とともに近江の匠、藤岡家の最晩年期作品としても大変貴重である。

<参考文献>

 垂井町中町曳やま「紫雲閣」について 水野耕嗣 岐阜工業高等専門学校紀要 第26号 別冊



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