日本万国博覧会EXPO70写真集
せっかく古い写真をスキャナーで取り込んでアルバムを作ったので、ついでにそれを使って簡単なホームページを作ってみました。
仙太郎が1970年に通い詰めた、日本万国博覧会の想い出写真集です。
1970年の3月15日から半年間、大阪の千里丘陵で日本万国博覧会が開催されました。
当時、千里丘陵のすぐ近くに住んでいた仙太郎は学生だった事もあって、過去の人生の中で最も自由時間がとれる時代でしたから、会期中はおやじの1300cc3段コラムシフトの青いブルーバード510を借り出して、免許取得1年の初心者運転で10回くらい会場に通ったものでした。
当時は今ほどビジネスホテルなんてのも普及していない時代でしたから宿の確保が簡単ではなく、この期間だけ、普段は行き来のない親類縁者が宿を求めて会場近くの親戚を訪問し、そこを根城に会場巡りをするなんて事が流行ったものでしたが、仙太郎もその線であちこちのご親類友人の案内を4回ほどやったかな。
姫路に住んでいたおやじの両親にあたるおじいさんやおばあさんを車椅子で案内したこともありましたが(この会場は当時既に殆どの段差にはスロープが付けてあって、いわゆるバリアフリーになっていました)、お二人ともその翌年、黄泉の国に旅立たれましたから、良い思い出になったのではないかと思っています。
この時におばあさんがくれたお小遣いは聖徳太子の千円札で、これは当時でも既に珍しくなりかかっていたお札でしたから、今でも万博記念として大切に保管してあります。
仙太郎にとってはこの会場で初めて目にしたものは数え切れないほどありました。
動く歩道、原子時計、ピロシキ、ボルシチ、ドリップ式のコーヒー、ケンタッキーフライドチキンなどなど。
外国人を初めて見たというおじいさんやおばあさんもいっぱいいて、外国人が一緒に入口ゲートに並んでいると、それを珍しそうに横目で眺めているおじいさんたちが目についたものです。中には素人の外国人なのにサインを求めている姿までありましたが、あれは今思えば変な光景だったなあ。
会期中の入場者数は6000万人を超えました。
2005年に開催された愛知博覧会の入場者数が2200万人だったそうですから、如何にすごい人数が詰めかけたかが分かると思います。
ここでは仙太郎が撮影した会場の写真の中から、スキャナーで取り込んだものを掲載してみました。
写真をクリックすると、大きい写真が見られます。
仙太郎が壁紙にしている写真については、このページでもそのまま載せてありますので、お気に召しましたら取り込んで使っていただいて構いません。
(1024×768)の文字をクリックしてください。
ただし個人で使う以外の目的の場合は一応、仙太郎宛にメールで断りを入れて下さい(リンク元の「趣味のサボテン」にメールの連絡先があります)。
これらの写真のうちの12枚が東宝映画「二十世紀少年・第1章<終わりの始まり>の巻頭タイトルで登場する写真の中で使われていますので、もし興味がありましたらどの写真が使われているのか探してみてはどうでしょう。
写真1.会場の出発地点付近
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3月19日の寒い日、開幕して4日目に仙太郎は初めて万国博の会場に出かけました。
この年は3月中は雪が降るような寒い日が続き、この日も午前中は日が差すこともありましたが、午後からは雪が降って来ました。
アフリカの外国パビリオンの前で、楯と槍を持って肌丸出しの民族衣装で震えていた可哀想な黒人のおじさんの姿が今でも目に焼き付いています。
天候のせいかどうか、この日も会場はとにかく空いていて、お目当てのアメリカ館やソ連館も難なく見て回ることが出来ました。
この写真はその出発点、万博に合わせて建設された新しい地下鉄(北大阪急行って言ったかな?)の万博会場駅前あたりのスナップです。
写真2.会場の出発地点付近 2
万博駅前にあったセイコー社が作ったセシウム原子時計のスナップ。
今や10万年に1秒以下の狂いと言われる電波時計が当たり前の世の中ですが、当時はこの時計塔を見てついにこんな時代になったのかと感無量だったものでした。
実は仙太郎のその後の人生に大きな影響を与えた時計塔でした。
写真3.お祭り広場に向かう通路
万博駅前から万博お祭り広場方面に向かってぞろぞろと歩いている図です。
少し下がった位置にあるので写真では見えませんが、この先あたりには世界のおみやげ店が並んでいて、仙太郎がドリップ式のコロンビアコーヒーなんてのに初めて出会ったのもこの辺りでした。
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写真4.太陽の塔 1
万博広場にたどり着くと、見上げるような巨大な太陽の塔が立っていました。
万博会場の建設中も時々行って遠目に見ていたし(会場の建設中も展望所からその様子を見ることが出来るようになっていたのです)、案内写真で何度も見ていたけれど、実物の大きさは想像以上でした。
うへえ・・・てな顔して、誰もがこのアングルで記念撮影をしていました。
階段の上り詰めの更にかなり先にありますから、この写真ではさほど大きくは見えないですけどね。
写真5.太陽の塔 2
これは少し日が差して来たときの写真です。
この後、早速広場の地下に降りて太陽の塔に関連したアトラクションの中に入りましたが、非常に凝った色々な展示が並んでいて、万国博の展示の中でも出来は白眉で、大変面白いアトラクションでした。
これらの地底の国の最後がジグザグのエスカレータで上に上がる太陽の塔の中のアトラクションになっていて、黛俊郎氏作曲の、上に昇るに従って次第に盛り上がる音楽が流れて、なかなかの雰囲気を醸し出していました。
ここは面白くて3〜4回は入っていると思いますが、太陽の塔がせっかく残されているのだから、もう一度あの時のアトラクションを再現出来ないものだろうかと思います。
写真6.アメリカ館の中 1
アメリカ館の中の月着陸船の実物大模型の前のスナップ。
思ったよりも大きい物だったので驚いた記憶があります。
アメリカ館は前の年に初めて人類が月に行き、持ち帰った月の石が展示してあるというので人気があり、いつも長い行列が出来ていたのですが、3月中はまださほどでもありませんでした。
それでも30分程は並んだかな。
写真7.アメリカ館の中 2
こちらは地球に戻って来た司令船の実物展示です。
宇宙船の底はお焦げ状態だし、あちこちに断熱タイルが剥がれたような穴が開いていて、これでよく帰ってきたものだと思いました。
実はこの写真だけ、ピンぼけで撮影に失敗したために、後日また撮って来たときのものです。
月の石の写真はこのときも再び撮影に失敗しました。
だって、照明が石にあまりに近過ぎて、ぎんぎらぎんにハレーションしているんだもの。
写真8.ソ連館の中
ソ連館の中の様子です。
非常に大きな建物で、まず最初にエスカレータで最上階に上ったら、あとは歩いて下りながら巨大ダムのプロジェクトの模型など、色々な展示物を見るようになっていて、最後に建物の1階にある宇宙関係の展示を見るようになっていました。
当時は米ソは冷戦のまっただ中。ソ連はそれこそあらゆるものが秘密主義の時代に、よくぞこれだけの展示をやったものと驚いたものです。
ソユーズ宇宙船が思いの外小さかったことや、反面、巨大な緑色のプロトン衛星はどうやって宇宙まで運ぶのだろうと思いました。
写真9.エキスポランド
エキスポランドの中にはこんなのも走っていました。
サンフランシスコ館に関連した乗り物とか言っていたかなあ。
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写真10.万博広場の北側 1
ここからは夏休み期間中の平日の写真ですが、夏ともなると会場はいつも人でごった返していました。
会場は日を追う毎に人が増えて行くという状況で、夏には学校の夏休みも絡んで来ますから、平日でもこれくらいの人出になってしまいました。
協会が前売り券の払い戻しはしないと言っていたせいだそうですが、夏休みが終わった筈の9月には更に人出が増え、あとあと話題になった9月5日の週末は周りの大阪周辺の交通がマヒしてしまって、地元市民は外出が出来ないと言う異常事態にまで発展しました。
当日はとうとう午前2時を過ぎてもまだ会場から出られなく、野宿する人まで出たと新聞に書かれていました。
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写真11.万博広場の北側 2
古河館の七重の塔最上階の展望台からの撮影です。
スイス館や繊維館方面の写真ですが、夏の間はスイス館の下はいつも涼をとる場所として人気でした。
スイス館の後ろに見える動く歩道は当時始めて見るものでしたから、珍しくて何度も乗ったものでした。
ただし歩道よりも手すりの方が早く動いてしまうと言う変な癖があって、手すりにつかまったままだと、そのうちに体が前に倒れてしまうんです。
この数年後に阪急電車の梅田駅に動く歩道が登場し、動く歩道の上は歩くものだと言うことはその時初めて知ることになるのでした。
写真12.万博広場の西側
同じく古河館の七重の塔最上階の展望台からの撮影です。
奥は太陽の塔の広場、茶色のとんがり屋根がニュージーランド館、手前の三角屋根がインターナショナルブースの中央アフリカ館(燈色屋根)とアフガニスタン館(緑屋根)
この辺りはファーストフード系の小さな売店が沢山並んでいました。
日本に初めてお目見えしたというケンタッキー・フライドチキンもこの付近にありました。
写真13.会場の南東方面
これも古河館の七重の塔からの撮影。
手前の白いドームがフランス館、その手前のガラス張りがカナダ館の上端、木材はブリティッシュ・コロンビア館の一部、白い煙突はケベック州館の一部。
奥はエキスポランドで、その手前あたりが万博中央駅からのブリッジと国際バザールあたり。
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写真14.電力館と東芝IHI館
同じく古河館の七重の塔からの撮影。
手前が電力館で、総鏡張りだったので、周りの景色を反射してカラフルでした。
鏡のドームを取り巻いて上に上がっている回廊の中をワゴンに座って昇っていく観客が見えるかな。
左奥に見える黒いテトラポットの集団みたいなのは東芝IHI館。
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写真15.会場の南方面
奥左から右へ住友童話館、自動車館、富士グループ館(ゴム風船みたいなの)、象牙海岸館(白い建物)。
手前がみどり館アストロラマ、その右のUFOみたいなのが日立館。
写真16.会場の北西方面
なんと言ってもこの方面の会場で目立っていたのはソ連館ですね。
国威昂揚のためというか、とにかく背が高くて、会場のどこからも見える土派手な建物でした。
中は広すぎて展示をもてあましていましたから、入場までは長蛇の列でも、入ってしまえばどんどん人の流れが動いていくパビリオンでした。
パビリオンの裏にあったガラス張りのレストランで生まれて初めて食べたボルシチとピロシキのおいしさと、ウエイトレスの無愛想さが印象に残っています。
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写真17.国内パビリオン 1
太陽の塔の屋根からの撮影です。
左から電力館、ブリティッシュ・コロンビア館、富士グループ館、ビルマ館(五重の塔みたいなの)、みどり館、日立館、古河グループ館(七重の塔)、その手前の白いドームがアブダビ館、赤い三角屋根がタイ館。
EXPO70の代表的な景色。
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写真18.国内パビリオン方面 2
古河グループの七重の塔を中心とする別アングルの写真。
お祭り広場の池からの撮影です。
東大寺七重の塔を再現したというこのパビリオンは万博終了後、その屋根に付いていた相輪を取り外し、オリジナルの七重の塔が建っていた東大寺七重の塔跡に現在もそのまま保存されています。
写真19.西口方面
青い三角屋根はブルガリア館、その手前の丸い建物はチリ、その隣の四角いチョコレートケーキのような建物はコロンビア、右隅の大きな白い建物はソビエト連邦、左の白いつのはイタリア館の各建物。
遠くに見えるのは西口駐車場ですが、まだマイカー時代のはしりの時代で、当時の日本の車保有台数が現在より遙かに少ない時代にあって、奥の奥まで殆ど満車です。
写真20.レインボーロープウェイ
太陽の塔の広場と西口間を結んでいました。
会場が一目で見渡せる大人気のアトラクションで、
いつも乗り場には長い行列が出来ていましたから、何度か乗りたかったのに実際に乗ったは一回だけでした。
写真21.古河館の北東方面の写真。
通路を歩く人々のファッションが今とは違うのが分かるかなあ。
写真22.パビリオンの前の行列
当時写真小僧の仙太郎は生意気にも200ミリ望遠レンズなんてのまで持っていましたから(日本カメラの日本の風景写真コンテストで特選頂いたこともあるんです)、こんなアングルの撮影も可能でした。
当時のファッションが分かって面白いかな。
今よりは地味な服装に麦わら帽子と日傘、男はプラスチックの太い黒ぶち眼鏡。
写真23.エクアドル館前の通り
夏の暑い季節のカンカン照りの会場通路は歩くのが辛かったですね。
少し歩いては冷たい飲み物を買いに売店に駆け込んだりして。
青シャツのおじさんの左手には厚手の手ぬぐいと右手には扇子。当時はまあよく見られた光景です。
エクアドル館と同じ建物を青く塗ったウルグアイ館はその後、閉幕後に兵庫県に移築されてラーメン屋さんになったことがどこかで報道されていましたっけ。
写真24.ソ連館の前を流れる小川
真夏の暑い季節はこんな光景もよく見られました。
今だったら「高濃度塩素含有につき立入禁止」なんて来るところかも知れませんが、当時はそんなの誰も知らんもんね。
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写真25.夕暮れのパビリオン
これは初夏の頃に夜間の割引入場券で行ったときのスナップです。
会場では世界の色々な食事巡りを楽しむことが出来ましたから、夕食を兼ねて夏の間はよく行ったものでした。
但しどこのレストランもあまり美味しいものはなかった気がするなあ。
学生の夜間入場料金は\300だったと思います。
写真26.夜のスナップその1
夜の万博会場も電飾できれいに飾られ、歩き回るのが楽しい会場でした。
ツアーで来ている人以外は最終時刻まで滞在する人が多かったのも頷けますね。
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写真27.夜のスナップその2
電力館の手前に見えている妙な形のテントは初代引田天功のマジック館で、デンキウナギを使ったりして色々なマジックを披露してくれました。
上演中は池の真ん中に移動し、お客の入れ替えの時だけ岸に来るという仕掛けになっていました。
面白くて3回位入ったような記憶があります。
写真28.夜のスナップその3
左からみどり館、古河館、電力館、三井グループ館。
古河館と電力館の向こうにひときわ明るく見えているのはスイス館の光の木です。
三井グループ館の手前に見える細長い観覧車みたいなのはレストランなんだそうで、携帯食みたいなものを中で食べるものだったようですが、どう見ても美味しそうには思えなかったので、ここだけは一度も行きませんでした。
でも、今となってはどのようなものだったのだろうかと気になります。
住友童話館の上からの撮影です。
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写真29.エキスポタワーから見た夜の景色
中央の赤い照明に照らされているのが日本館(照明の色は次第に変化していて、赤い光に変わった時に撮影したような記憶があります)、その奥が電気通信館、手前右が虹の塔、左が今でも残っている鉄鋼館。
この時間でも日本館の下にはいっぱい人が並んでいるのが見えますね。
虹の塔の右の大スクリーンではなにわの漫才かなにかが上映されているようで。
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写真30.エキスポタワーから見た夜のエキスポランド。
ここはだいぶ中身が寂しくなったとはいえ、現在に至るまでずっと営業が続けられていますね。
5本ほどあったダイダラザウルスと名付けられたジェットコースターも数が減らされたようですが。
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写真31.エキスポタワーから見た夜のお祭り広場。
太陽の塔のサーチライトが撮影場所になっているエキスポタワーを照らしていました。
今ほど照明が発達していなくて街が明るくなかった時代なのに、会場はいっぱいの照明で昼間のように明るく、なかなか帰りたくならなくて、家に帰るのはいつも閉場ギリギリの時間だったりしたものです。
写真32.エキスポタワーから見たパビリオン方面。
室内照明が写り込んで少し見辛いです。
エキスポタワーの中が少し明るかったので、窓から離れて撮影すると、このようにタワー展望台の室内照明が写り込んでしまいます。
写真33.中央駅階段上から見た夜の太陽の塔
明るいサーチライトは正面のエキスポタワーを照らしていました。
先頃、34年ぶりにこのサーチライトが点灯されたそうですが、代用品だったので、単に明るく光っていただけだったとか。
当時のようにサーチライトを点灯したのでは、今はその先にマンションなどの高層の建物もありますし、エキスポタワーもないので遮る物もなく、照明が当たる辺りの住民から苦情が出てしまうと思ったんでしょうかね。
そして万国博の閉幕から1年が経過しました。
その間、会場の外からパビリオンの解体風景がよく見えたものですが、当然ながら工事中で危険ですから、しばらく会場内に入る事は出来ませんでした。
そして1年後の夏の日、久しぶりに会場内に入ってみると、そこには開幕中とはうってかわった光景が展開していました。
写真34.閉幕1年後の太陽の塔付近
閉幕から1年後の夏、久しぶりに訪れる万博会場はひっそりとしていました。
パビリオンは殆ど撤去され、沢山並んでいたお店も全て消えていました。
エキスポタワーの麓に立って振り返ると、遠くに太陽の塔と大屋根だけが佇んでいるのが見えました。
階段や通路も隅には雑草や苔が生え、手入れされなくなった会場は汚れ放題。
開幕当時とはうってかわって寂しい光景が広がっていました。
写真35.閉幕1年後の太陽の塔
太陽の塔に近づいてみると、ここもやはり放置されて汚れ放題でした。
大屋根は錆びだらけ、太陽の塔も雨の滴が垂れた汚れ跡がいっぱい付いて、なんだか寂しそうです。
この頃はまだ大屋根は残っていて、広場の中に入ると開幕当時のにぎわいが思い浮べられる雰囲気は残っていました。
エキスポタワーもこの後しばらく、入場料を払って昇ることが出来ました。
この後、更に大屋根や広場が撤去され、しばらく残っていたエキスポタワーも錆びて危険な状態になったとかで撤去されて、太陽の塔だけが地面にぽつんと残されることになりました。
しばらくは汚れ放題だった太陽の塔も、当時を忍ぶ記念碑として次第に大切にされるようになったのか、時々化粧直しもされるようになって、今では一頃よりずっと綺麗な姿を保っていてくれるのは、当時を良く知るものにとっては大変に喜ばしいことです。