今回の東南アジアへの旅はシンガポールとタイとマレーシアであった。シンガポールは4年目の訪問であり、旧友にお目にかかるのが目的てきであった。東南アジア研究所にいって最近の本も10冊のど仕入れてきた。
シンガポールの印象は「行くたびにがっかりする」というここ20年ばかりの繰り返しであった。町は古いチャイナ・タウンが大方姿を消し、やたらに立派そうなビルやコンドミニアム(マンション)が増えていくだけで、このさきどうなるのかさっぱり先が見えないような気がする。なにかというと「アップ・グレード」という掛け声で街づくりをおこなっているようだが、住民にとってはなんともやりきれない思いでいっぱいだろう。何もかもが「人工的」になってしまっては生活の潤いというものが消滅してしまう。
マネーと地位だげが価値の基準みたいな社会は私などには耐えられない。物価は高いし、屋台の食べ物も味が落ちた。これでは観光客は減るであろう。駐在員時代に週に1度は顔を出して世間話をしていたワニ皮屋さんもいなくなってしまったし、行きつけの床屋もどこかに消えてしまった。皆どこへ行ってしまったのだろうか?ともかく東京以上に潤いがなくなったこの都市国家には私の居場所は最早なくなってしまったようだ。
シンガポールからバンコクに事務所を移す企業も最近増えてきていると聞く。一方で、村上ファンドのオーナーは日本から本拠をシンガポールに移したらしい。人さまざまである。
私は旅人なのでシンガポールについてはこれ以上とやかく言う資格はない。シンガポールには2泊しただけで、タイに移動した。バンコクは半年振りだがドンムアン空港の雑然とした雰囲気がなんとも懐かしい。
昔から定宿にしているプロンチット通りに近いこじんまりとした某ホテルにチェック・インする。前回の1,500バーツに対し、今回は石油価格が上昇したかただと称し、1,800バーツである。朝飯つきで6,000円以下であり、格安だが行くたびに値段が上がっている。しかし、セントラル・デパートに徒歩でいけるし、高架鉄道の駅にも近く、隣のビルにはインターネット・カフェがあり、ともかく便利だ。私はセントラル・デパートが駐在員時代から大好きで、バンコクに着くと真っ先に駆け込むのがこのデパートと日本料理店の「日本亭」である。どちらも、値段がリーゾナブルで従業員の接客態度もよく落ち着けるのである。最近、サイアム・スクエアにできたパラゴン・デパートに行ったが、だだっ広いだけで何か買おうというきは起こらない。バンコクに限らず、東南アジアにはこういう大型ショッピング・モールが増えてきた。採算が合うのかどうかはわからない。人出は多いが、実際にものを買っている人はそう多くはない。ただし、地下のレストラン街では大勢の人が食事をしていた。こんな人だかりは日本ではみられない。
タイ訪問の目的のひとつはアユタヤの隣町のロップリ(Lop Buri=ロップ・ブリ)の史跡を見に行くことにあった。高架鉄道のモー・チットという終点で降りて、そこから北行きのバス・ステーションにタクシー(65バーツ)で行く。ともかく多くのバスが発着しており、切符の販売窓口がやたらに多い。3人ぐらいに聞きながら、ビルの内部のロップリ行きの切符売り場で乗車券(110バーツ)を買い、バスに乗り込む。30分に1本ぐらい出ているようである。はじめは5〜6人しか乗っていなかったが、途中で乗客が増え、1時間も走るころにはほぼ満席になる。ロップリまでは約3時間かかった。旅行案内書には2時間10分などと書いてあるが、それはノン・ストップで乗用車などで行った場合であろう。
ロップリのバス・ターミナルに着いたら早くも12時になってしまったので、オープン・レストラン(屋根つき屋台)でバーミー・ナム(汁ソバ)を食べる(20バーツ)。
そこからモーター・サイ(オートバイ・タクシー)に乗って、旧市街のロップリの遺跡まで行く(30バーツ)。ロップリの旧市街(商店街など立派にそろっている)にはいると、いきなり、クメール風の寺院遺跡が目に飛び込んでくる。線路にそって少し行くと、ワット・マハタートという大寺院の遺跡が駅のまん前にある。駅前には小さな蒸気機関車が置いてある。ここに鉄道が敷かれた当時、動いていたものであろう。ワット・マハタートの遺跡に入ろうとすると、入場料30バーツ(外国人に対して)を支払うブーツがある。中央の大寺院の遺跡はかなりなものだ。裏手に回ると、10人近い若者が発掘作業をしている。指導者の中年の男がいて、バンコクの資源局のJ博士といい、大学生を連れて、発掘作業の実習教育をやっているのだという。学生は考古学の研究をしているという。
私が、東京からロップリの遺跡を見学に来たといったら、一同大いに喜んでくれた。私の関心事は室利仏逝の所在地がどこかということで、とにかくスマトラのパレンバンだとする「定説」には反対の立場だといったら、彼らもパレンバンにこれだけの遺跡があるかといって、私の「チャイヤー」説には賛成してくれた。
ロップリはドヴァラヴァティ(堕和羅鉢底)というモン族の作った国の有力都市であり、古くからの交易の中心地であった。ドヴァラヴァティについては別に論じることにしたいが、タイのチャオプラヤ川流域を中心とする領域を支配しており、先住民であるモン族が広範囲に居住して農業や交易を営んでいたことは確かだが、統一国家を形成していたことは間違いないであろうが、必ずしもはっきりしない。いえることは、ビルマのピュー王国と扶南のオケオという東西貿易の中継域を占有しており、経済的にかなり繁栄していたということである。
ナコン・パトム、ウ・トンなどという比較的大きな都市国家のひとつがこのロップリであった。これらの都市国家の支配者はインドからの移住者であった。彼らはバラモン教(後のヒンドゥー教)や仏教をこの地にもたらした。それらの遺跡、遺品が実に数多く存在する。仏像やシヴァ神像などの主なものはバンコクの国立博物館にいけば見ることができる。
なぜ、ロップリが栄えたのかという私の質問に対し、リーダーのJ博士は、「この付近で金が採れたのだ」という説明をしてくれた。物の本によるとロップリは古くから「銅と鉄」の産地であったという。金も採れたのかもしれない。もちろん、水田稲作がかなり古くから行われ、水利の便もよく、チャオプラヤ川に近く、交易の要衝として栄えたことは言うまでもない。古代のインド人は金を求めて、東南アジアを探索してあるいたから、ここに定住するものもいたはずである。付近には石灰石の山が多く、ここから流れる清流は、住民に清潔な飲料水を大昔から供給してきたに相違ない。
また、アユタヤ時代には17世紀にナライ王がアユタヤとは別に、この街に居城(夏の離宮といわれる)を構えていた。街の真ん中にこのナライ王の居城の壁が完全な形で残っている。その高さは4〜5メートルは優にあり、1周するのに30分位はかかった。まるで、刑務所といった雰囲気の塀である。中に入ろうとしたが、あいにく月曜日は「博物館」は休みである。ここは博物館になっていたのだ。わざわざ、日本から見に来たのだといったら、守衛がこっそり門をあけてくれた。
塀の中はだだっ広い庭園といった趣であり、少し建造物がある。おそらく、そこが博物館になっているのであろう。ロップリのヒンドゥー・仏教遺品(像)は数多く、バンコクの国立博物館に陳列されている。タイはどこに行っても博物館は月曜日が休館なので注意を要する。鉄道を利用してバンコクへ帰ろうと思ったが(切符代は40バーツ)が1時間近くも待ち時間があり、2等の切符は売り切れで、3等の自由席しかなく、バンコクまでは3時間かかるというのでやめにして、帰りもバス(エアコン)で帰った。
タイでの次の目的地は南タイのソンクラである。ここは大東亜戦争中、日本軍が上陸し、ハジャイ−アロール・スター−バターワース(ペナン)−クアラ・ルンプールと自転車(銀輪部隊)を使ったりして進軍したルートの出発点に当たる。
私は別に日本軍の侵攻ルートには関心はない。しかし、日本帝国陸軍の進路ははからずも、古代からの東西貿易のマレー半島横断の主要ルートの一つだったのである。
私は義浄のいう「羯茶(ケダ)」をブジャン渓谷(スンゲイ・ペタニの近く)に限定して考えていたが、ケダーの州都アロール・スターの近くのケダー港にもインド船が立ち寄った可能性は大いにある。いずれにせよ、今回この街道をミニ・バスで走ってみて、ケダーからパタニ以外にソンクラ通じる道もかなり使われていたに違いないと思った。この街道は山というより丘はあるが、古代の通行にはさほど困難な場所はなく、平地は殆どが水田地帯なのである。
(ハジャイ=Hat Yaiからソンクラ=Songkraへ)
バンコクのホテルの一角にあるトラベル・エージェントで翌日のハジャイ(Hat Yai=ここをハート・ヤイなどと発音する人にはお目にかかったことはない))行きの切符を買った。プロモーション価格で3,300バーツ強(約1万円)であった。ソンクラに行くのが目的である。ソンクラ行きの直行便はないので、ハジャイ経由で行かざるを得ない。現地のホテルの予約は例によってしない。
ノック・エアーという格安の航空券もあったらしいが、ホテルの代理店ではタイ航空しか取り扱ってないという。14時30分発の飛行機に乗ったら、こちらは割高航空会社の飛行機らしく、乗客の身なりも気のせいか、整っている。
早めにチェックインしたら係りの女性が右側の窓際の席をあてがってくれた。おかげで、マレー半島の東岸の景色を空から堪能できた。マレー半島東岸にはタレ・ルアン(Thale Luang)またはソンクラ湖という大きな内海があり、ソンクラの近くで海に接していた。この内海(大きな湾でもあり、湖でもある)はさぞかし、漁業や物流面で古来、周辺の住民の生活を潤してきたことであろう。
パッタルン(Phattalung)という街はこの内海に接しており、西はトラン(Trang)につながっており、これもマレー半島横断ルートのひとつであった。ただし、タランの港町ともいうべきバン・カタン(Ban Katang)あたりからは、さほど多くの歴史的遺物は出ていないようである。パッタルンからは仏像などが出ている。
ハジャイ空港は昨年、イスラム・ゲリラによる爆弾事件があったとかいうことで警戒がやけに厳重である。空港からタクシーでソンクラにいこうとしたら、前金540バーツを取られてタクシーはなかなかこない。30分近く待たされた。普通はハジャイの町まで空港のバスで行ってからソンクラまでまたバスで行くらしい。タイやマレーシアは交通費はやたらに安いので、タクシーがあればついそちらを優先してしまう。
タクシーでソンクラまで30分くらいはかかった。海辺のリゾート・ホテルであるBPサミラ・ビーチ・ホテルに向かう。ホテルに近づくと、途中、長い砂浜が続く。これは日本軍が上陸するにはもってこいの場所だ。砂浜にはほとんど人がいない。古代の海賊もソンクラはさぞ攻撃しやすかったことであろうなどと余計なことを考える。
ホテルに着くと、予約なしでも普通はとめてくれる。満員だなどといって断られたことはめったにない。1泊、税・サ・朝食込みで1200バーツくらいであった。キレイなホテルでここでのんびり数日過ごしてみたい気持ちにさせられる。値段がめちゃくちゃに安い。日本円で4000円以下である。ただし、町に出て行くには、例のモーター・サイに乗っていく必要がある。料金は20バーツだが、めんどくさいのでホテルで夕食を取る。カオ・パット・クン(海老入りチャーハン)とヤム・ウーセン(春雨サラダ)を注文する。ここのホテルのヤム・ウーセンは大変出来が良かった。ホテルのベランダからの眺めも最高であった。近くに有名な人魚の像があったが、人がたかっていたので写真はとらなかった。(下の写真)
ソンクラの市内は清潔な感じである。プレム元首相(現枢密院議長)の出身地がここだという。私がここに来たのはマレー半島西岸のケダー州「ブジャン渓谷」を基点とするマレー半島横断ルートの東海岸側の終点をこの目で見ることである。
北から、ソンクラ、パタニ(以上がタイ領)、マレーシア領のコタバルの3都市である。通説によるとパタニが中国の文献にしばしば現れる「ランカスカ=狼牙須加」だということになっている。パタニにいきたいが現在パタニは「イスラム教徒による騒乱(端緒はタクシン政権に大いに責任があると私は考えているが)」のテロが頻発しており日本人が呑気面をして近づく場所ではないらしい。
やむなく、ソンクラにいくだけで今回はあきらめた。ソンクラの博物館はその規模と内容から見てもナコン・シ・タマラートに準じるくらいの立派な内容である。パタニにはこれほどの規模のものがあるという話は聞いていない。もしかするとランカスカの本拠はソンクラであったかもしれない。
実際に行ってみると博物館の職員がいかにこの博物館のマネージメントに熱意を持っているかが良く分かる。公式の会館時間は午前9時であるが、私が8時半に行くと、「掃除がすんでいないがよろしければどうぞご覧ください」という。日本ではおよそ考えられない「柔軟性」である。
左上の写真はソンクラの城壁の跡といわれる石の塀であり、博物館の角のあたりから撮影した。右上は博物館の玄関である。したの欄は展示品のごく一部である。これ以外に陶磁器やビーズなどの多数のものが展示されていた。
ソンクラにはゆっくり滞在したかったが、独りで海を眺めて暮らすなどという心境になれず、せかされるように次の目的地に向かう。それは昨年行った「マレーシア、ケダー州の「ブジャン渓谷」である。ソンクラからはバスで国境を越えマレーシアに入るしかない。ケダーとソンクラが陸路でどうつながっていたかを実際にこの目で確かめたかったのである。
とりあえず、乗り合いバスでハジャイの町まで行って、そこから国境を越えるミニ・バスを捕まえることにした。大型の特急エアコン・バスもあるらしいが、停留所がどこかわからないので、ミニ・バスにした。
アロール・スターが国境から一番近い町なので、そこまで切符を買った。460バーツであった。途中からいろんな人が乗ってきた。イギリス人の学生カップルやビジネスマンなどである。
国境では自分で通関を済まし、マレーシア側にでると、ミニバスの運転手はアロール・スターは通過して、スンゲイ・ペタニまでいってしまうという。料金はおなじでよいというので、スンゲイ・ペタニにいくことにした。これが一人旅の気安さである。結果はオーライであった。
スンゲイ・ペタニというのは「ブジャン渓谷」に最も近い町であり、日系企業もかなり進出しており、シャープや松下やXX紡績などの工場がある。スンゲイ・ペタニは「オールド・タウン」ではなく、高速道路の出入り口に近い「ニュー・タウン」で降ろされてしまった。
これからホテルを探さねばとキョロキョロタクシーを捜していると,交差点の筋向いにエメラルド・ホテル(Emerald Putri Hotel ,
Taman Sejati Indah))という立派なホテルがあった。そこに乗り込んでいくと「今日はカンファレンスがあり、シングル・ルームは満室だ」という。それでは、次のホテルに行こうとしたら、フロントが1室だけチェックアウトしたばかりの部屋があるから、10分ほど待てという。結局このホテルに2泊した。料金は1泊朝食つきで140リンギ(4,500円)であった。新しい、清潔なホテルである。
翌日はスンゲイ・ペタニの旧市街(オールド・タウン)にいく。タクシーで6リンギ(200円)である。町は活気があり、ショッピング・センター的なものもある。近くにはゴルフ場も3ヶ所はり、日本人の駐在員にはそこそこの生活がエンジョイできそうであるが田舎町であることには変わりない。しかし、ペナンまでは自動車で1時間足らずのところでる。私は、スンゲイ・ペタニがすっかり気に入ってしまった。何しろブジャン渓谷が近いのが良い。
スンゲイ・ペタニの町のタクシーの溜まり場でエアコンが効いていそうなきれいなタクシーを捕まえて、ブジャン渓谷を再訪した。待ち時間1時間をいれて往復40リンギであった。
この運転手は40歳ぐらいのマレー人で、英語はあまり上手ではなかったが、私の英語交じりのマレー語をよく理解してくれて無事現地にたどりつくことができた。たあdし、彼がレンバ・ブジャンに行ったのは初めてということで、私が途中から私が道を教えながらいくということになった。
昨年行ったときとくらべ、現地の博物館は人が少なく、受付には誰もいなかった。もっと多くの人が訪問してほしいと願わずにはいられない。ここは優に「世界遺産」クラスの内容をもった史跡である。
こういう史跡を観光ルートに乗せるとすばらしいツアーが組めると思うのだが、日本とマレーシアの観光業者がこの史跡を全く無視しているのは残念でならない。せめて現地の日本の駐在員がレンバ・ブジャンについてもっと日本に紹介してほしいものだ。
西暦1400年少し前に、マラッカが東西貿易の中心地として登場するまでは、このレンバ・ブジャンこそが貿易ターミナルであった。11世紀以降はスマトラのパレンバンやジャンビが貿易項として大きくなったが、インドから来る船の多くははまずこのレンバ・ブジャンを目指してやってきたのである。ここはコメと水の補給に最適な場所であると同時に、マレー半島横断ルートの起点としても便利なところである。
隋や唐時代の東西貿易を考えるときに、インド商人はレンバ・ブジャン(ケダ)から、どういうルートでもってきた商品をシャム湾側に陸路運んだかというと、北からソンクラ、ペタニ(以上は今はタイ領)、ケランタンと3つの港に向かう道路があったものと考えられる。隋の時代に「赤土国」という王国が朝貢し、隋王朝も使節を派遣したが、この3港の1つがそれだったのではないかと思われる。
私はケランタンのコタバル市の内陸にあるタナ・メラ(マレー語で赤い土という意味)が「赤土国」かも知れないと素朴に考えていたが、「ソンクラーケダ」のルートをバスで走って見ると、道中起伏はあまりないし、道路にそって水田が比較的多く存在している点を考えれば、ケダからシャム湾に向かう陸の通商路のメインはソンクラ行きの道ではなかったと考えるようになった。
(スンゲイ・ペタニからバターワースへ)
4月28日朝、昨日のタクシーの運転手にきてもらってペナン島の対岸の交通の要衝であるバターワース(Butterworth)に向かう。ここには日系企業も多く進出していてなかなか大きな都市である。バス・ターミナルからフェリーでペナン島に渡るのが最も経済的だが、今は橋で結ばれている。橋を建設したのは韓国のゼネ・コンである。
下はバターワースの駅構内の写真である。列車は一日に数本しか止まらない。駅舎の中には植民地時代の鉄道会社のイースタン・アンド・オリエンタル急行という文字が残されている。
ペナン島内には「E & O ホテル」というコロニー風の古き良き時代(英国人のとっては)を偲ばせる良いホテルがある。ペナンに泊るときは私はここに泊ることにしている。値段もそう高くはない。シンガポールのラッフルズ・ホテルなどよりこちらのほうがオススメである。
ただし、今回はペナンをスキップして次の目的地タイピン(Taipin)に向かう。バスが1時間おきに出ている。料金は極めて安く、いくらだったか忘れてしまった。しかし、バスはタイピン郊外のバス・ターミナルまでしか行かず、タイピンの町に入るにはそこからタクシーに乗り換えていく必要がある。これは6リンギ(200円)であった。
タイピンというのは錫の採掘のために華僑が集まって作った町ということでチャイナ・タウンそのもののような町並みであるが、もともとはマレー人の集落であった。この辺にも古代からインド商人が出入りしていて、あるものは現地化して暮らしていた事は間違いない。イギリス植民地時代にこの周辺の発掘調査がおこなわれ、クアラ・セリン(Kuala
Seling)として名前が残っている。
タイピンにはペラク州立博物館というものがあると地図に記されているので行って見た。ところが、内容は全く取るに足らないものであった。マレーシア政府はもっと歴史の重要性に関心を持ってもらいたいが、日本人の私がとやかく言う資格はない。日本人も「歴史音痴」という意味ではマレーシア人に決しひけをとらない。
後に、クアラルンプールの歴史博物館にいっても日本人にお目にかかることはまれである。多いのは中国人の観光客である。3組も4組ものツアー客にガイドが大声で説明をしている。
日本の旅行会社もこういう点では不勉強なのか関心がないのか、現地の良い博物館にツアー客を連れて行かない。私がイタリー旅行に行ったときも、やたらにキリスト教会の「聖人の絵」などの説明ばかりで、隣接する「歴史博物館」などには見向きもしない。
ツアー・プランナーの教養の程度が知れるとしか言いようがない。プロならもっと勉強しろよとオシム監督だったら言いそうである。日本人は最近、プロがプロの仕事をしていないのではないかと思われる。サギ師同然の男を「勝ち組」だなどといって持上げるものだから、やたらに世の中が混乱してきているように思えてならない。「美しい日本」などという中学生の下手な作文の題みたいなものが政治スローガンとして通用するようなお粗末な国になってしまったのだろうか。
(タイピン=Taipin)
タイピンでは町で一番のホテルといわれるレジェンド・イン(Legend Inn)に泊った。宿泊代は120リンギであるが朝飯はつかない。博物館は金曜日で休み。町を歩いて見たが、絵に描いたようなチャイナ・タウンである。インターネット・カフェがあり、久しぶりにメールをチェックする。屋台で遅い昼食にヤキソバを食べてみたがさっぱり美味くない。ホテルのレストランで夕食をとったが、私以外に1人だけ客がいたが、それが日本人であった。普通のビジネスマンという感じではなかった。タクシーの運転手の話ではタイピンに来る日本人は結構多いという。目的は「蝶の採集」と「ギャンブル」ではないかと話していた。
翌朝、博物館に行ってみたがナニが陳列してあったか覚えていないほどマトマリのない博物館であった。来るだけ全く時間のムダであったことが判明した。次の目的地は昔シンガポールの駐在員時代に何回か訪れたイポーである。途中に、クアラ・カンサーというサルタンが住んでいる町がある。
(クアラ・カンサー=Kuala Kangsar)
ここはサルタンが住むペラク州の州都である。マレーシアにもこんな町があったかと思われるようなきれいな町である。タイピンからここまでタクシーで20リンギであった。あと20リンギ出すからといって町の観光案内を頼んだ。王宮博物館を見学した。下がその写真である。建物も美しい。サルタンは英国に留学していた様子で、そのときの写真だとか宝物がたくさん陳列してあった。愛用のゴルフ・クラブも陳列されていたが、何と日本の「ホンマ」製のものであった。
クアラ・カンサーの次はイポー(Ipoh)である。イポーまではタクシーでいった。イポーのタクシー・ステーションまでは35リンギ、ホテルまでは40リンギということだった。20年前のイポーとは大変な様変わりで、町並みは数倍大きくなっていた。
大きくなったが「活気」は失われた。人口50万人というが一体何を生業として人々は暮らしているのだろうかという疑問が沸いてくる。その昔は錫の町として栄えていた。いまは町全体がガランとした印象である。
しかし、最初にいったエクセルシオール・ホテルは満員だといって断られた。次に一番大きいシュエン・ホテル(Syuen)にいったら、ここはさすがに空いていた。値段は200リンギ(朝食付き)だった。できて12年の新しいホテルらしいが、中は薄暗かった。ただし、部屋はきれいで、窓からの景色も良かった。
早速州立博物館にいくがこれまた期待はずれ。昼食はホテルの近くの屋根付き屋台にいって焼きそばなどを食べた。オヤジと娘は片言の日本語を話した。大分日本人が出入りしているらしいが、当日は私だけだった。夕食はホテルに隣接する今風の洋食レストラン。これはひどい代物だった。マレーシアのレストランは昔と比べ質が悪くなっている。そうは言ってもイポーが静かないい町であることには変わりないが、大きくなりつつ衰退しているような変な感じの町であった。
(クアラルンプールへ)
翌日(4月0日)はバスでKLに行くことにした。飛行場に言っても、切符が取れるかどうか分からないし、高速デラックス・バスというのがあるというので、タクシーでターミナルにいく。
しかし、バスは満員で2時間ぐらい待たされた。暑くて、ろくな待合室がなく、仕方がないので近くの川べりで読書などして時間をすごすことにした。しばらくすると、薄汚いポロ・シャツを着た中年の男がやってきた。この人物はイポーで魚のネリもの(フィッシュ・ボール)を製造しており、その前は遠洋漁業の船長をしていたという。
下関の水産学校に「留学」した経験もあるという。華人系であると思われたが、名前は明らかにマレーであった。私はこの男からマレー経済について1時間ほどレクチャーを聴かされる羽目になった。彼の言うには食品加工業は毎年売り上げが減っているというのだ。要するにイポー周辺は不況が長いこと続いているというのだ。なるほどそうかと合点したしだいである。
イポー周辺にはたいしたビジネスが育っていないのである。KLやジョホールやケダ(マハティールの出身地)は比較的良いようだが、マレーシア全体で見ると発展しているところとそうでないところと2極分解しつつあるのではないかと思う。その決め手は「外資」の進出如何である。
また、見逃せないのは大きなショッピング・モールの出現も地場の小売業やレストランを圧迫していることである。そうなると収入の道を閉ざされる人が増えて、かえって経済全体としてはマイナスになる。これは日本にもよくある現象である。日本の地方都市も衰退しつつあるところが多いが、普通の人々が生活基盤を奪われているというケースが少なくない。
KLまでの高速バスは何と15リンギ’500円)であった。エアコンの効いたきれいなバス1列が3人がけというゆったりしたものであった。50リンギといわれても何の不思議もないような立派なバスであった。
14時にパンパシフィック・ホテルにチェックインし2泊することにした。朝食つきで1泊220リンギだったが、これは特別価格ですよとマネージャーにいわれた。そうかもしれない。シンガポールではこのクラスのホテルは1万5千円以上はとる。
翌日は市内の歴史博物館にいってみた。高架鉄道でほとんどのところまで行けるのでKLも便利になった。KLからケランタン州にも行きたかったが、時間切れで次回にいくことにする。KLの歴史博物館は立派な内容のものであった。残念なことに日本人はほとんどおらず、観客のほとんどが中国からの観光客であった。
下の写真は左が歴史博物館(ムルデカ広場付近)と展示物のブンガ・ウマス(金の花)である。ブンガ・ウマスはマレーのスルタンが定期的に服属のしるしとして、タイのアユタヤ王朝や今のラタナコシン王朝におさめていたものである。
(完)