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2014年7月のイサーン、ペブリ、ホア・ヒン地区探訪記

7月9日に日本をたち今回はいまだ見ていない東北部(イサーン)の南部とマレー半島の付け根部分に位置するペチャブリ(ペブリ)、ホア・ヒン地区に出かけた。途中でかねて扶南の陸路の商品輸送中継基地のシー・テェプ(スリ・デヴァ)の歴史公園を見学した。

7月11日の夕方からブリラムの近くに奥さんの実家がある友人の鈴木力氏の運転で初めての東北(イサーン)入りを果たす。途中で豚足で有名な村に入り、夕食を済ませ夜10時すぎに現地に到着した。鈴木氏の一家も奥様の運転で少し遅れ到着する。泊まりは鈴木氏の自宅である。

7月12日はスリン方面に出かける。タイとカンボジアの国境地帯3か所の見学もさせてもらう。国境には検問所がつきものであるが数名のタイ陸軍兵士が警備しているだけでカンボジア人の出入りは事実上自由な感じを受けた。逆にタイ人もカンボジア領には比較的簡単に入れそうだ。2010年5月の赤シャツ騒乱の後に少なからぬ赤シャツ幹部がカンボジアに亡命したといわれるが、こういうルートを使って出国したのかもしれない。

国境線の定かでない場所ではタイ軍とカンボジア軍の兵士が同数で警備にあたっていた。彼らは日常親しくつきあっているという。途中でジャヤヴァルマン7世が建設したとされる商人・旅人の宿泊設備や地元民の施療院等の遺跡が随所に見られた。




途中でいったんブリラムに帰り、蝋人形の祭り(行列)を見物した。気温が高いので溶けやすく、主催者は大変苦労しているとい。




スリンの仏足跡は余り事例が報告されてはいないが、Phanom Sawai 森林公園ないにあるパノン・クロット(Phanom Kroj)の仏足跡を鈴木力氏が探し当ててくれた。これは端部が破損しているがお堂の中に大切に保管されていた。参拝客も少なくない様子である。周辺は静かな木立に覆われている。




夕方ブリラムに戻り市内のWat Kao Kradonの仏足跡を見学した。ここはブリラムのサッカー場の近くにあり、参拝者が多く、仏足跡のまわりを子供たちが囲んでいた。3番目の写真は1番目の写真の穴からカメラを差し入れて撮影したもので、1番目の仏足跡の下部に古い仏足跡が置かれているのである。むしろ古い仏足跡を保護する目的で1番目の仏足跡がカバーとして掛けられた感じさえする。子供のいない一瞬のすきを見計らって4番目の写真を撮影した。



ブリラムにはプロサッカー・チームがあって、J1級の強さを誇っているとは鈴木力氏の説明であった。日本人選手も増えつつあり、スパンブリ・チームは横浜マリノスと提携しているという。

7月13日はブリラムといえばパノン・ルン(Panom Rung)といわれるほどの名所中の名所のクメール遺跡を見に行った。ここにも仏足跡があるはずなのだが、目下はお堂の建設中で残念ながらみられなかった。パノン・ルンの遺跡そのものは噂にたがわぬ大規模のものであり、アンコール・トムなどのモデルとなったといわれている。

先ず最初に訪れたのはパノム・ルンから5キロ・メートルほど離れたところにあるプラサート・ムアン・タム(Prasart Muang Tam)である。大変綺麗に整備された広い遺跡である。手入れの良さはタイでもトップ・クラスであろう。ただし、人影はまばらであった。



次がパノン・ルンである。ここは見物客で大賑わいであった。



午前中で鈴木力氏と別れ、これからは独り旅である。まずピーマイ遺跡に向かう。ところがこれはとんでもないお粗末な遺跡と化していた。やたらに見物客は多いが中はガタガタである。駐車場もロクになく、私は東京からわざわざ見学にやってきたのだといって入り口に近い駐車場にようやく止めさせてもらった。これは午前中のパノン・ルンのほうがよっぽどましである。

日本人と思しき観光客は皆無であった。おまけに、博物館は無期閉鎖中で全くの期待外れで、全体のマネージメントのお粗末さがうかがい知れる。あるはずの仏足跡は事務所に行って聞くと「ここには無いし、パノム・ワンにもない」と太った偉そうなお姉さんのセリフであった。不親切と無愛想を絵にかいたような女性職員であった。こういうタイプの女性職員にはバンコク博物館ではついぞお目にかかったことはない。実際にパノム・ワン遺跡に行ったらちゃんと仏足跡は実在したのである。何たることであろうか。





その日のうちにパノム・ワンまで行こうと思ったが、道に迷い、おまけに大雨となり、コラートの町に入るのがやっとで予約していたホテルを探すのに一苦労。予約見つけたV-One Hotel (Agodaで予約)が全くお粗末な代物で、部屋の中は薄暗い照明で文字も読めず。こんなホテルがAランク扱いされているのだから全くげんなりする。後は自分で適当な宿を探すことに決めた。

7月14日、朝から気を取り直してパノン・ワン遺跡に出かける。ところがここなピーマイと異なり極めて整然と整備されていた。ピーマイのキュレーター(学芸員?)のお姉さんから仏足跡はないといわれていたが、なんと実在するではないか。いったいどうなっているのだろうか。アヤフヤな知識で外国から来た観光客を幻惑する担当者の責任は大きい。





実は私も最初からここには仏足跡はないものと決めてかかっていたのでそのまま帰ろうとしたら、隣に大きな寺院があった。もしかするとそこに行けば何かわかると思い、車で寺院に乗り込んだ。そこの住職(アジャーン)聞いてみると「ああありますよ」という返事でそばにいた若い僧侶にその場所まで案内するように言ってくれた。それは本堂から少し離れた別の小さなお堂に安置されていた。私は夢かとばかり喜んだことは言うまでもまい。確かに岩本千綱が『三国探検実記』に記した仏足跡がそこにはあったのである。私は住職にお礼を言うと、道中の安全を祈って短いお経を上げてくれた。お経の内容は私にはわからないが心のこもったものであることは凡夫の私にも感じられた。私もささやかなタンブンをささげて次の目的地のコン・ブリに向かった。

ナコン・ラチャシマ市から30キロメートル以上南に位置するコン・ブリ(Kon/Buri)はその地名からもわかるようにモン族の居住地(xxBuri)であり、そこで知る人ぞ知る「赤牛洞窟」(Wat Tham Wua Deang)に向かった。寺院の正式な名前はWat Suwan Bonphotである。そこは古い寺院であったが僧侶の数は比較的多く5~6名はいた。皆でセメントをかきまぜたり、材木を切ったりして何やら建設作業を行っていた。寺院にいた英語のできる30代と思しき信徒風の男の人が案内してくれた。そこで見たのは赤い砂岩(一見土に見える)の岩盤に1.8メートルの仏足跡が刻み込まれていた。これは南タイやカンチャナブリの「虎の洞窟」(Wat Tham Suea)で見たものと同じ様式の岩盤に直接彫りこむタイプの仏足跡である。時代はもちろんアユタヤ以前のものと思われる。



この仏足跡からやや下の道路に面したところに岩と岩との間に小さな空間があり、そこにはヒンドゥーの神々が祀られていた。後から仏像も加えられたらしい。



参拝が終わって住職にお礼を言いたいというと、若い僧侶に交じって建設作業をしていたやや年長のインテリ風の僧侶が私が住職だといって現れた。日本から仏足跡を見に来たというと大変喜んでくれた。まことに感じのいい住職でありスタッフであった。みんなで協力して寺院を盛り立てて行こうという様子がうかがえまことに気分が良かった。コン・ブリも仏足跡が多くあることは知られているが、私の持参した地図で見つけられず、あきらめてシー・キオ(Si Khio)の近くにホテルを探しに北上した。ところがまたも道を間違えて、シー・キオから20キロも近い場所で学生用のアパートで旅行客も泊まることができる場所を見つけた。1泊500バーツで格安だが、朝飯はつかないが清潔でエアコンもシャワーもついた宿に転がり込んだ。まだ陽は高かったが長距離の運転で疲れたので近くのレストランで夕食をとり、早めに寝た。学生は英語ができる人が多く、助かった。


7月15日、朝起きぬけにシー・キオに向かう。宿から40キロ以上も離れているが交差点のすぐ近くにあるNIDAのコラート支部(現在では工科大学といった名前になっている)の近くに仏足跡が2-3基あることになっているので、まずそこに駆けつける。Wat Sema Khiri Wanaramという古い寺院が小高い山の上にあった。後で一緒に来てくれたPhra Sutinというお坊さんの説明では前は元古いものが置かれていたはずだとのことである。



この付近にまだあるはずだと思って近くのWat Ang Sappradu という小さな寺院に乗り込んでいって住職のPhra Sutin という方に伺ったら、この近くにはあれしかないという。少し自動車で行けばほかにもあるはずだというので弟子のChanon Nunbhakdiさん(20歳、大学生で東南アジア史専攻)をともなって仏足跡探しにお坊さんと出かけることになってしまった。道に迷いながらも片道30キロは優に走ったと思う。そこには寂れた寺があり、さらに古典的な仏足跡があった。かなり初期的な岩盤彫りぬきタイプの物であった。ただし足指だけはついていた。モン族仏教徒の作品であろう。





はなはだ申し訳ないが「このモン族の古い寺院の名前を聞き漏らしてしまった。住職に聞いたら彼の答えは自分の寺の名前だった。おそらくWat Wang Rueang KhanaramもしくはWat Khao Klang Nokだったと思う。後日Chanonさんに確かめてみる。この学生僧はかなり勉強しており、私の「シュリヴィジャヤの歴史」論点をよく理解してくれた。記念に”The History of Srivijaya"を進呈してきた。彼によれば、大学の先生はセデス主義者なので困るとこぼしていた。タイの歴史学の大学教授は100%セデスの説を教えられてきたのでそれもやむを得ない。既存の理論を打ち破っていくのは若い学徒による他ないのであろう。Ang Sappradu寺は小さい寺ながら、あちこちに書物がみられるタイでは珍しい寺であった。

この日は午前中に大きな収穫があったので、ほかの探索はあきらめて、いよいよシー・テェップに向かうことにした。初めての道なので時間的に先が読めないので早めに探索を切り上げた。シー・キオにはまだまだ多くの仏足跡がある。コン・ブリにもある。もう少し見たいが先を急がねばならぬ。ともかくその昔モン族仏教徒が作った仏足跡はアユタヤ以降の「絢爛・豪華版」とは著しく趣を異にするものであることがここでも立証された。今の段階ではそれがわかればよしとしなければならない。

15日は朝飯も昼飯も何を食べたか全く記憶がない。「五穀入りビスケット」と水だけだったかもしれない。空腹など感じている暇がなかったのかもしれない。ともかくシー・テェプに急いだ。途中道が悪くて行きつけないことを内心危惧していたのである。しかし、それは杞憂であった。201号線と2256号線をつなぐバイパスの3059線も実に見事に舗装され、かつ車も少ない快適なドライブであった。ただ心配は行けども行けどもガソリン・スタンドがないことであった。2238号線にはいりチャイ・バダン(Chai Badan)の近くの集落で1件の小さなガソリン・スタンドを見つけ胸をなでおろした。

Chai Badanの踏切を越え国道21号線にはいってしばらくしてからシー・テェプのポンダン氏にこれからそちらに行くと電話した。彼には16日の午後到着の予定だと事前に連絡しておいたのだ。ポンダン氏は42歳という若年ながら美術局(Fine Arts Department)の若手のホープであり、シー・テープ歴史公園の園長に就任していた。彼は私の早い到着を喜んでくれ、ともかく歴史公園に直行してくれという。歴史公園は国道21号線を右折してから8キロ・メートルも先にある。3時半ごろ到着し、一通りのあいさつを済ませ、ホテルにチェックインした。Thong Yang Hotelというのはシー・テェプの代表的な新しいホテルだったがエアコンもシャワーもついた快適なホテルで1泊500バーツであった(朝食はない)。

6時少し過ぎから公園のスタッフとポンダン氏と総勢6人ほどで歓迎の夕食会を開いてくれた。ポンダン夫人のお手製の料理だったがとても心のこもった美味い料理であった。それぞれが専門家なので話題は大いに弾んだ。クオリッジ・ウェールズが”Towards Chaiya"の中で’Sri Deva'にきて発掘調査を行ったのが、まさにこのシー・テェプであり、当時(80年ほど前)はテント前まで虎が現れたという話をした。この地から発見された数々のヒンドゥー神はほとんどが盗まれたりして、残っているものはバンコクの国立博物館で展示されている。これがポンダン氏にとっては癪の種のようであった。

ポンダン氏と私の対話の結論は「我々には解決すべき多くの問題が残されている」という当たり前のようなことに終わったが、今回私はホーム・ページにも書いているとおり「扶南の陸の通商路の需要拠点」がシー・テェプであり、「真臘王国」の出発点となったというのが、私の仮説である。事実シー・テェープは広々とした水田・田園に囲まれ、シー・テェープの市の周囲は土塁がめぐらされており、周囲は水濠で囲われている。バライと呼ばれる灌漑池まで掘られていた。後のアンコールの原型がここに求められるといってもよいかもしれない。要するに農業経営が「統治の哲学」の中に最初から織り込まれていたと考えられるのである。そういう考え方は海洋貿易国家としての扶南にはもともと希薄もしくはなかったのである。







上の写真の1番目が全体図である。最初は左の囲いのみであったが、後世右の翁囲いが継ぎ足された。中にはかなり大型のストーパが何基かあったことが窺われる。6番目の傾いた斜塔は11世紀の作だといい、ヒンドゥー教徒のものである。アンコール朝でヒンドゥー教に熱心な王が作ったものであろうが、ピサの斜塔のように傾いていた。7番目の池は特別に「バライ」と呼ばれる灌漑池である。8番目は市の城壁を取り囲む水濠である。乾季になると農民が水の補給を願い出てくるという。9番目の小さな像は旧都にある中央のピラミッド(卒塔婆)の腰の部分に刻まれた神々の像である。

私にはシー・テェプ歴史公園の全体像を語る能力はない。当事者もいつ作られたかは正確にはわからないという。バンコク国立国立博物館にはシー・テェープから発見されてヒンドゥーの神々の像が1か所にまとめられて展示されている。ここではヴィシュヌ像のみを例示しておくが、詳しくは『扶南と真臘の歴史』をご参照ください。このヴィシュヌ像は扶南の首都アンコール・ボレイ(プノム・ダ)で発見されたものに似ているし、シュリヴィジャヤの首都のあったチャイヤー周辺で発見されたものとも似ている。




7月16日は朝飯も取らずに8時から歴史公園に出かけ、係の人のお世話で公園の主要箇所を見せてもらう。その後ポンダン所長とお話をして、11時に公園を後にする。向かった先はロップリ経由サラブリである。ポンダン所長は先ごろタイを訪れた石澤ミッションの案内役としてタイの遺跡を巡ってきたばかりである。石澤ミッションは京都大学の一行とタイの発掘現場をコンピューターで結んで歴史的にどのような通商的なつながりを持っていたかを解明するようである。もちろん膨大な日本国民の税金を使っての大作業である。私も同じ目的でタイの地方を回っているが、全てなけなしの自分のたくわえを使って、レンタカーを借りて田舎道を道に迷いながらウロウロしている。どちらが「先に行きつくか」ウサギとカメの競争のようなものである。でも私が負けるとは思っていない。

16日の午後にロップリに入る。車の数がやたらに多くなる。ロップリには美術局のJaruk理事が最近赴任してこられ、ロップリ遺跡の大規模な修復を計画しているらしい。携帯電話がつながらないのでホテルからFBを使って連絡を取る。17日の朝に市のはずれにある城壁に来ませんかという連絡があったが、行けば仕事の邪魔になるので、今回は遠慮した。Jarukさんは行く先々で仏足跡を見つけると写真を送ってくださる。

私はその日はサラブリの仏足跡の大聖堂に出かけ、写真を撮ってくる。そこには数年前にいって拝観したことがある。当たり前だが以前と少しも変わらない。参拝客も依然として多い。仏足跡の底は見えないが、近くの壁にその模様の写真が掲載されている。きれいな升目に108個の吉祥紋が彫りこまれている。



サラブリの近くに以前から泊まろうと思っていたホテルがあったので探したが、例によって見つからない。ロップリから15キロほどサラブリ方面に下ったところにハモニカ長屋のような車庫付の’Apple Inn'という簡易ホテルがあったのでそこに乗りつけた。1泊500バーツ(なぜかここもこの価格である)で部屋もきれいだし、エアコン、シャワーがついている。朝飯はつかないがインスタントの冷凍食品が2-3種類受付に置いてある。Wifiは無料である。ここに2泊することにした。

7月17日朝からサラブリ方面に向かう。大聖堂を通り越して第1のお目当てWat Praphutthachaiに行く。途中で兵士に道を聞きながら到着する。山上まで徒歩で登っていくと大祠堂には鍵がかかっていて中はまるで見えない。近くにいたほかの団体の観光ガイドに聞いてみても鍵はあけてもらえないという。仕方がなしに、しばらくしてさらに上の小さな祠堂まで行ってみる。そこには先ほどのガイドがいて、仏足跡はここにあると教えてくれる。彼も最初は知らなかったのだという。



お堂に入ると何かほかの仏足跡とは違っていて、2面並べられていた。奥の仏像に近いほうには砂岩に刻まれた文様も薄れかかった古い仏足跡が置いてあり、手前の方には新しい仏足跡が置いてあった。普通は古い仏足石の上に新しい仏足跡を被せてしまうところが大部分であるが、ここは新旧2面の仏足跡を前後に並べて置いてある珍しいものであった。こういうのを見るのは私は初めてである。お堂の前には瓦を寄進する小屋があり、そこには番人がいて管理している。私は100バーツさしだし、瓦一枚を寄進して署名をしてこの場所を後にした。やたらに猿が多く、途中で50バーツ奮発して、サル用のトウモロコシを売っているおば様から買い求め猿の群れに与えた。猿がズボンのすそに飛びつき餌をせがむのには参った。

この近くにも仏足跡があるというので探したが、見つからなかった。仕方がなしに、ロップリの方向に戻り、Wat Khao Kaeo Worrawihanという山にある寺に向かった。すでに午後になっていたが昼食は食べた記憶がない。このもっともらしい名前の付いた寺には頂上まで車で向かったが、階段の途中で掃除をしている老僧にあったが、頂上には誰もいない。いたのは5-6匹の犬であった。そのうちの1匹が何と私の左のふくらはぎに2度も噛みついた。相当な痛みを感じ、ズボンをたくし上げてみると歯形がついていて軽く出血していた。住職らしい老僧に仏足跡は無いかと聞くと前はあったが今はないという。見事な空振りである。犬に噛まれた傷跡をみせ近くに病院はないかと聞いたが、ソッポを向いていて答えない。幸いズボンは破れていなかったので大したことはないと思い、ホテルに帰ってオロナインを刷り込んで応急の手当てをした。有名な割には寂れた山寺であった。

7月18日は仏足跡探索はあきらめてバンコクに向かった。ドンムアン空港に車を返したら11時になっていた。そのままロイヤル・プレジデント・ホテルにチェックインし、昼食を済ませホテルにある洗濯機で大洗濯をした。洗濯機1時間70バーツ、乾燥機30分30バー合計100バーツである。時間は1時間半かかる。ついでにソイ11にあるクリニックに出かけ犬にかみつかれた傷の手当てをしてもらいに行く。医者はキズの様子をみて「ストリート・ドッグに噛まれたのか?」ときくから、「ヤマ寺の犬だ」と答える。次に医師は「あなたは私に何をしてほしいのか」という予想もしなかった質問をした。「あなたにそれは決めてもらおうと思ってきた」というのが私の返事である。医者はキズの消毒と抗生物質2種類1週間分を処方する。破傷風などの注射はなし。本来キズの消毒だけでもよかったような雰囲気だった。薬代も合わせて1260バーツ、約4000円とられた。19日は休養。

[ペチャブリ、ホア・ヒン方面]

7月20日は朝5時に起きて南タイ方面行の公共バス停(サイ・タイ・マイ)にタクシーで行く。133バーツ。行くとホア・ヒン行きのバスが1分後に来るという。大型バスかと思いきやミニ・バンの小型バスである。これには当てが外れた。これに乗るのならBTSのヴィクトリー・モニュメントから出ている民間バスのほうがましであった。料金はどちらも180バーツ。6時に出発して9時にホア・ヒン到着。レンタ・カー会社に電話して早めに車を出してくれと交渉した。結局10時半から4日間借りることにした。Thai Rent A Carという会社であった。4日間で1万5千円(保険料込)であった。車はトヨタのViosよりやや大きめのものであった。

先ずはペチャブリの国立博物館に行かなければならない。美術局のマディオ(Madio)さんはホア・ヒンから20分で来られるというが、時速100キロ近くで飛ばしてもなかなかペチャブリには行きつかない。何回も途中で連絡を取るが12時なっても行きつけないことが判明したので1時にいくから先に昼食を済ませてもらうように頼み、こちらも途中で車を止めて持参のおにぎりで昼食を済ます。ペチャブリの博物館などといっても地元の人はほとんど知らないのである。カオ・ワン(Khao Wang)と呼ばれるプラ・ナコーン・キリ歴史公園の一角が博物館と称しているにすぎないのである。そこに行くにはかなり急な坂を車で途中まで登って行かなくてはならない。それは初めての外国人旅行者には到底無理な話である。途中で道を聞いたが親切な市民が、まるで逆の方向を教えてくれ、それで到着が一層遅れてしまった。仕方がないので町中の白亜の仏塔の聳えるワット・マハタート寺院の前で待つことにして迎えに来てもらった。こんなことになるなら、山に登るケーブル・カーの前のサン・ホテルで待ち合わせればよかったというのは後知恵である。

最初についたのがWat Khao Wangという山の中腹にある名刹である。そこには仏足跡あはったが、もっと驚くべきものがあった。それは本堂の壁画である。その壁画というのはアユタヤ時代にサラブリの大祠堂に全国から「お伊勢参り」よろしく参拝に来る人たちの様子を描いた有名な壁画がそこにあったのである。普段は本堂には鍵が悪化っていて見せてはもらえない。住職がブツブツ言いながら鍵を開けてくれた。美術局のマディオサンやセン・ダオ(Saengdao)さんがいたからあけてもらえたからあけてもらえたのである。もっともその壁画の価値を知る人はタイ人といえども決して多くはない。日本人は皆無に近いであろう。





これらの壁画はタイの美術史を飾る大傑作なのである。女性のセンダオさんは住職の前にペタっと座り込み、何かお説教を聞いていた。私はそれが終わるまで待ってささやかなタンブンを封筒に入れた住職に渡した。住職の顔が一瞬ほころんだことは言うまでもない。

次に本堂の下にある仏足跡の安置されているお堂に向かった。これは弟子の若い僧がカギを開けてくれた。長さ1.8メートルのありふれた仏足石であった。



次に有名なカオ・ルアン(Khao Luang)洞窟に行こうということになった。ミニバンに乗せてもらい5キロほど離れた洞窟寺院に向かった。このミニバンの運転手は何とセンダオさんのご主人でシラパコーン大学の同期生で現在お隣のラチャブリで仕事をしておられるとのことであった。ここは参拝客も多く大変にぎわっていた。洞窟の入り口に差し掛かり私は思わず息をのんだ。洞窟は地上から100段以上もの階段を下った地下に広々した平面があり、壁際には仏像などがビッシリとならんでいるのである。その広さは100畳どころか千畳もあるいはもっと広いかもしれない。その一角に仏足跡が安置されているのである。配置としてはパンガー(南タイ)のタム・スエイ(虎の洞窟)に似ている。



最後の写真はマディオさんと真ん中がセンダオさんと私である。実に活発な知識欲旺盛な人たちであった。このほか山上の博物館で見学客のお世話をしているヌー(Nuna Inter)という女性職員がいる。彼女は私のためにペチャブリ市に点在する仏足跡の地図を描いてくれた。3人とも私のFBの友達である。

その日は山上に上るケーブル・カーの真ん前にあるサン・ホテル(Sun Hoel)に泊まる。朝飯付700バーツであった。部屋はやや古いがエアコン、シャワーともに完璧であった。Wifiはもちろん無料である。ペチャブリは古くから栄えた港町であることは間違いない。

7月21日は前日ヌーさんにもらった市街地図で3か所回った。

①Wat Mahathat Worawihanという白い仏塔が目立つ町中の大きな寺院である。仏足跡は本堂の大仏の背後に置かれていた。1.8メートルの平凡な作りである。寺院の規模からみてもっと大型のものがあるのではと思ていたが期待外れであった。



②次に行ったのは止まったホテルの近くのWat Kamphang Luangという比較的新しい寺院であった。ここの仏足跡は本堂の入り口のところに飾られていた。ごく平凡な作りであった。






③次に行ったのはこの地では歴史と格式の高いWat Yai Suvannaram であった。町の中心部からはやや離れた感じではあるが、その付近の町の人なら誰でも知っている名刹である。寺院の建物が全体的に木造であるのも珍しい。誰もいない本堂に勝手に上がりこんで見回すと古ぼけた仏足跡が片隅に置かれていた。なぜか中頃が一部盛り上がっていた。長さは1.6メートル、つま先部分の幅は62センチ・メートルでアユタヤ朝ボロッマコート(Borommakot=1733-1758 在位)王時代に製作されたものである。良く見えないが升目と108の吉祥紋が付けられている。寺の前は門前町となっていて小さなレストランがにぎわいを見せていた。伝統のある寺なのである。




④ここまで自力で(?)で参拝すると美術局のセンダオさんから電話がかかってきた。会議が終わたのでまだ見てないところを案内するからホテルに戻って待っていろという。やがて博物館の車でマディオさんとセンダオさんがやってきてWat Phra Phuttha Sai Yatという涅槃仏で有名な寺にまず行こうという。



⑤ Wat Khao Banda-it (この寺院の構内にあるものでPhra Phutthabat Tham Chang Phakという別名もある)

ペチャブリから国道を横切って少し行った山(高台)にある尼僧院である。
大理石に刻まれた升目と108の吉祥紋が見える。寸法はやや小ぶりで長さ1.528メートル、幅0.37メートルである。1809~1824年の間に作られたものである。この時代の代表的な作品である。





マディオさんとセンダオさんが④と⑤を案内してくれた。みなさんとはWat Yai Suvannaramの前にあるウドン屋さんで昼食を済ませ。ここで別れ、私は南に向かいホア・ヒンの町を通り越し、プラ・チョウブ・キリ・カンのプラン・ブリ(Pran Buri)にあるリゾート・ホテルの’Golden Pine Resort & Spa'に投宿した。1泊目は1750バーツ、2泊目は1600バーツ(朝食付き)で2階の部屋からは海が見える。ただし海岸は砂浜ではなく石であった。付近の住民が釣りをしていた。まことに居心地のいいこじんまりとしたホテルである。

7月22日、プラ・チョウブ・キリ・カン(Phrachaup Kiri Khan)の中央部の仏足跡探査に出かける。この地域はビルマ側のテナセリム・メルグイに直線距離では最も近い場所であり、西方(インド方面)からの物流もかなりあった場所であることは間違いないが、実態はあまりよくわかっていない。スリー・パゴダ峠からカンチャナブリに抜ける道路のほうが良く知られている。

しかし、3世紀には扶南の范師蔓将軍が「頓遜」(テナセリム)を制圧したと『梁書』に書かれており、頓遜はビルマ側からタイ湾に抜ける地域(5か国)を支配していたとみられるので陸の交易通路もしっかりしたものがあったはずである。この地域は後に頭和とか堕和羅鉢底(ドヴァラヴァティ)とか羅越(唐時代)に余あbれていたものと考えられる。しかし、歴史家のあいだでは羅越は今のジョホールにあったなどという奇説が横行しているレベルを考えるとこの地域の研究はこれからだということにもなる。

仏足跡の分布から見ると今のホア・ヒンに近い港、ノン・カエ村のタ・キアプ(Ta Kiap)の地域(半島状)が古来最もよくつかわれた港ではなかったかと思われるが、なお詳細は調査を要する。今回はタ・キアプの部分には行きつけなかったが、周辺の仏足跡は見ることができた。

①クイ・ブリの近くのWat Nong Chokというやや内陸部に位置する比較的大きな寺院に立ち寄ったところ偶然発見したものである。長さが約1.8メートルといういわば「定形」サイズのものであった。本堂とは別の小さなお堂に安置されていた。






②次に道なりに北上するときれいな寺院に遭遇した。Wat Khao Deangである。華麗な本堂とは別に、一般信者が出入りする平屋のやや大きな建物にこの仏足跡は置かれていた。建物の前で土産物などを商っているあばさんに聞いたら、「ここには仏足跡などない」ということだったが、建物の中をのぞいて見ると金色に輝く仏足跡が安置されていた。地元の人も知らないのである。これが仏足跡だと説明すると彼女はばつの悪そう顔をしていた。ただし、普段あまり参拝された様子の無い仏足跡で金ぴかのまま放置されている感じであった。寺の境内には白人の2家族が見物に来ており、近くの川には観光客のボートが走っていた。寺院の脇にはカオ・デーン運河が走っているのだ。海とつながる運河に相違ないが,時間がもったいないので実見しなかった。もちろん見ておけばよかったと後悔した。





③この日遭遇した中でこの大理石の新品同然の仏足跡が最もツマラナかった。だいたい寺の名前がわからない。仏足跡のある建物でお賽銭を新聞に広げて勘定している老婆にきいたらWat Phttha Koatだという。しかし、Wat Hup Ta Tonが正解らしい。場所はサム・ロイ・ヨット(Sam Roi Yot)のど真ん中であり、この寺しか考えられない。大きな仏像はあったが、別のお堂では「安産祈願」みたいなことをやっていた。建物の上には老僧と寺のスポンサーの大型の人形が2体も飾ってあった。祈祷でもやって霊験あらたかな御利益をもたらしたお方かもしれない。アムレット(護符)を売ったりなかなか商売上手の寺と見受けた。





④これはこの日最後に参拝したWat Ban Phu Noiという古いお寺に飾ってあった仏足石である。寺男に聞くとワット・プーだと教えてくれたが村の名前がBan Phu Noiなので之が正式な名称であろう。寺の境内の一角に小さな仏像の後ろに野ざらしで置かれていた石造り(砂岩)の仏足跡であり、端のほうがボロボロに欠け始めていた。案内してくれた身なりのみすぼらしい寺男の説明では裏の山にあったものをここに運んできたものだという。わざわざ移設したものなら、もう少し鄭重に扱っても決して罰は当たらないだろうと、情けなくなった。




以上の4点の仏足跡はどこにも紹介されていないし、私が作成したリストにも載っていない。全ていわば「飛び込み」取材で発見したものである。この地域は昔のモン族の居住地域であり、いち早く仏教を取り入れた彼らはインド人の仏僧の指導で仏足石を各地に作り崇拝してきたものの名残であろう。この仏足跡も古いとはいえ升目模様も吉祥紋もついている、いわばアユタヤ以降の作品である。古代の原型を見たいがそれは今となっては発見することは不可能であろう。さらに個別に悉皆調査をやれば何か見つかるかもしれないが。


7月23日、今回の探査旅行の最終日である。プラン・ブリの宿で朝飯を済ませ8時に出発し、ホア・ヒン方面に向かう。国道4号線の海岸よりに入り、右折してWat Khao Kairatを目指す。

①最初にであったのがWat Khao Lang Tom という小型の尼寺であった。仏足跡は小高いお堂に安置されていた。長さ1メートルほどの小ぶりの美しいものであった。




②次いで、すぐその近くにあったWat Khao Krai Latに行った。ここはまず150段ほどの石段を上がっていかなければならない。一番上に本堂があり、カギがかかっていてどうにもならない。さらにその上に小さなお堂があり、そこまで上がていくと年配の尼僧と其の孫娘のような若い娘さんがホウキで掃除をしていた。仏足石はどこかというと、娘さんがすぐそこだといって小さなお堂に案内してくれた。それが下の写真であり、長さは1.8メートルほどのものであった。







さらに、そこから見える高い岩山のうえにあるWat Khao Takiapを目指した。自動車で本堂の真下まで行けた。そこ先の本堂までがこれまた150段の石段である。それを登り切ったところには仏足跡は無くて仏像のみが置いてあった。隣に太った若い僧が番人をしていたので、聞くと、はるか遠方にもう一つの高い岩山(Khao Ta Kiap)があり、仏足跡はそこにあるという。また来た道を降りて、その離れ島のようなところに行く道を探したが。深く切れ込んだ湾の先端に行く道がわからず、遂に諦めてしまった。最後の最後で諦めてしまったのは残念至極であるが、体力の限界まで来ていたのと、見に行っても標準的なアユタヤ以降の1.8メートルの升目付の仏足跡であろうと勝手に判断してしまった。その周辺には4段仏足跡が2基あることになっているが、それも新し物に決まっているので、余計にいく意欲が失われてしまった。しかし、百聞は一見にしかずであり、また近い将来に現地に行ってみる必要がある。やはり心残りである。

以上が7月20日から始まったペチャブリ、プラチョウブ・キリカンの4日間の探査旅行であったが、ペチャブリの美術局のスタッフの協力もあり、大変効率よく19基の仏足跡を観察できた。日本から持参したリストは余り役に立たなかったが、もっと詳細な地図作成し、タイ語の能力を増せば、より効果が上がることは確かである。この地域の仏足跡はアユタヤ以降に作られた新し物が多く、モン族が作成した古典的なものがほとんど残っていないことが危惧される。しかし、その位置が海岸に近く、港に隣接する山に近いことを考えると、海からのランド・マークの位置に仏足跡が置かれていたことも推測される。(以上)

追加

7月27日、バンコク国立博物館に行ったついでに「暁の寺=Wat Arun」にも仏足跡があるということを思い起こし、20数年ぶりにワット・アルンに行ってみた。行き方はデンダオさんから教わった。

まず、タマサート大学の裏手に出てチャオ・プラヤ川を渡るボート(Wang Lang行き)に乗って(3バーツ)、そこからタクシーに(45バーツ)で行けばよいということで行ってみた。帰りのボートはなぜか10バーツであった。
ワット・アルンは昔通りの華麗な美しさで、観光客でごった返していた。仏足跡はワット・アルンの塔の外側にそびえる高いお堂の中に鎮座していた。
お堂に登る階段が急なので参拝客は私以外にはカメラを持ったお兄さんただ一人であった。バンコク市内にはほかにも著名な仏足跡がいくつもあるのでこれからは暇を見て写真を撮ってこようと思う。しかし、どれももが18世紀以降の物なので今まであまり興味はわかなかった。実際に見てみると、やはり多くの人の崇拝を集めた作品だけに味わいがある。