(チャンパ小史)→トップ・ページに戻る

目下作業中につき引用はお断りいたします。

チャンパは国名が3段階に分かれる。最初は林邑(192~758年、朝貢は750年が最後)、次が環王(唐時代~838年)、最後が占城(877年~1471年)である。ただし、チャンパ(Champa)という国名が使われ始めたのは7世紀の初めのチャンブヴァルマン(Chambhuvarman)の碑文以降とされる。唐の玄装三蔵は『西域記』で「摩訶瞻婆」=Maha Champaと記している。また、義浄も『南海寄帰内法伝』において「占波(Champa)」という言葉を使い、これは「臨(林)邑」と同じだといっている。各々の首都がどこでどう変遷したかというのも特定は難しい。またチャンパ(Champa)という国名はインダス川河畔にあり、インド商人あるいはブラーマンの故国であったであったものと思われる。

最初の林邑の建国は『後漢書』南蛮伝に、「日南象林県外蛮夷区憐等数千人。攻象林県。焼城寺。殺長吏。」とあり、これは後漢永和年(137年)の事件であり、また『晋書』林邑国伝に「県功曹(役職)姓区。有子曰連。殺令。自立為王」ということで、この辺が林邑の建国の時期と考えられる。しかし、『水経注』巻36には「建国記自漢末。初平之乱」とあり、初平の乱はやや時代が下って192年前後となる。どちらが正解かは断定できないが杉本博士は後者が正しいという説である。その後呉の黄武・黄龍時代(226-231年の間)に朝貢を開始している。

『後漢書』南蛮西南夷列伝によると「永和二年、日南、象林徼外蠻夷区憐等数千人攻象林県、焼城寺、殺長吏。交阯李刺史樊演発交阯、九真二郡兵萬余人救之。兵士憚遠役、遂反、攻其府。二郡雖撃破反者、而賊執転盛。・・・」とあり、永和2年(137年)に「区隣(区連)」を頭目に数千人が反乱を起こした。寺院を焼き地元の首長を殺した。交阯長官は平定にひとまず成功したが、討伐に向かった兵士があまりに遠い場所だったので厭戦ムードになり反乱を起こしたのである。この政府軍叛徒は後に降伏したが、区憐の勢力は生き延び王国を作ってしまった。これが「林邑」国の始まりである。象林県について桑田六郎博士はフエ川の上流の「左澤源」あたりではないかとされる。象林県は金の産地であった。(桑田、p159)。

また、『太平御覧・巻811』に《林邑記》曰:「從林邑往金山,三十日至。遠望金山,嵯峨如赤城,照耀似天光。澗壑谷中亦有生金,形如蟲豸,細者似蒼蠅,大者若蜂蟬,夜行耀熠,光如瑩火。」とあり大粒の砂金の産地があった様子がうかがわれる。『南斉書・巻39』にも「林邑有金山,金汁流出於浦」とあり、しきりに金や銀を使って人の像を作ったとある。『梁書・巻54』にも同様の記述がある。

しかし、どう考えても象林は内陸部であり、それも山地に近いところのようである。それが貿易国家として生まれ変わるには海岸部に拠点を設けなければならない。それは「西図、西屠」(Xitu)とか記録されている人口2000人ほどの小国家であったとみられる。林邑は最初はユエ(Hue)北方10KmのほどのVan-Xaにあったという説もある。両者が一致しているかどうか明らかではない。後に南のクアン・ナム省のチャ・キュー(Tra Kieu=典冲)に移動して、そこが長期間にわたり林邑の本格的な首都になった。(杉本、p206)ここはアマラヴァティ(Amaravati)とも呼ばれる地区である。しかし、林邑はインドシナ半島の南部にまで支配圏は広がっておらず貿易国家としてダナンやホイアンのあたりに長い間小さくまとまっていた。領土的には北の日南郡の安定的確保を狙い何度も侵攻したが目的は果たせず、劉氏宋(南宋)や隋王朝に圧迫され、首都チャ・キュウ(Tra Kieu)を終われ南への「後退」を余儀なくされた。しかし、平和が訪れるとしきりに朝貢を重ね貿易国家としての反映は遂げた。
『太平御覧』巻790、《交州以南外國傳》曰:「有銅柱表,為漢之南極界,左右十餘小國,悉屬西屠。有夷民,所在二千餘家」とあり、これが貿易国家林邑の事実上の出発点であったと考えられる。

(地図挿入)

また、日南郡はかなり早くから外部との交易関係があり、中国の中央政権と接触していたことが分かる。『冊府元亀』によれば「後漢時代」建武13年9月(西暦37年)に「日南徼(きょう)外蛮夷献白雉兎」とあり日南郡の周辺部の住民(小国家)が中央に朝貢していたことが分かる。また、章帝元和元年(84年)には「日南徼外」から、延光元年(122年)12月は「九真徼外」から貢献、永建6年(131年)12月、桓帝延嘉2年(159年)、熹平2年(173年)12月、光和6年(183年)正月には「日南徼外」から朝貢があったことが記録されている。当時としてはかなり回数が多かった。また『晋書』には「初、徼外諸国嘗齎宝物自海路来貿貨」とあり船で中国本土と交易したとあり、それに対し日南太守が干渉し、暴利をむさぼり、住民の反感を買っていたとも記されている。「貢献品」の内容は不明だが、「舶来品」も含まれていたことは間違いなく、インド商人もこの頃から関与していたことであろう。

林邑の初期段階の発展は『晋書』四夷伝・南蛮・林邑国にみられる。すなわち「林邑国本象林県、則馬援鋳柱之処也、去南海三千里。後漢末、県功曹姓区、有子連、殺令自立為王、子孫相承。其後王無嗣、外孫范熊代立。熊死、子立。・・・自孫権以来、不朝中国。至武帝太康中、始来貢献。咸康二年范逸死、奴文簒位。」とあり、区連の王統は絶えたので外孫の范熊が王位(270-280年)に就いた。范熊(Fan Xiong/Pham Hung)は最初に「范」のタイトルが付けられた王であった。彼の死後はその子の范逸(280-336年)が後を継いだ。呉の孫権の時代(黄武・黄龍年間226-231年)に一度朝貢に赴いて以来絶えていたが、西晋の武帝の太康年間に朝貢を再開した(記録では泰始4年・268年、太康5年・284年)。東晋の咸康2年(336年)に范逸が死ぬと范逸に跡継ぎの王子を謀殺し、奴婢出身の「文」という男が策を弄して王位ついてしまった。「文」(336-49年)は揚州出身の中国人で売られて交州で奴婢となり、林邑に逃れてきて范椎の奴婢となったという。その後商人にしたがって中国を行き来し、様々な知識を得て王室に近づき王范逸のブレーンになったという。

この「文」はすこぶるやり手で前王范逸の王子2人を殺害し、重臣や将軍も殺し、自ら王となり、「取前王妻妾置高楼上、有従己者。取而納之、不従己者、絶其飲食而死」(『水経注』巻36)ということで范逸の妻妾を悉く手に入れた。いうことを聞かないもの飲食を与えないで殺したという。周辺の徐狼、屈都などの小国を支配下に置き、儒民は3~4万人に達した。軍事的にも果敢な行動に出て、344年(東晋・康帝・建元2年)に大軍を組織して日南を攻め、太守の夏侯覧以下5-6千人殺害した。余勢をかって北境横山(ガン峠=Ngang Pass,ドン・ホイとハー・ティエンの中間地点)を国境にすることを交州刺史朱蕃に求めた。日南(フエからやや西にかけての地域)は貿易の要衝であり、その地を確保することは大きな利益が上がった。『晋書』は林邑の民は「人性凶悍、果於戦闘」と性格が荒っぽく、戦闘にいて勇敢であると形容している。林邑の南の地は水田が少なく、農業地帯を擁する日南は是非とも確保したい地域であった。しかし交州刺史の朱藩はこれを認めず、范文は日南太守夏侯覧を殺害し、3年間日南に踏みとどまった。小競り合いを繰り返したが結局ものにならず、林邑の本拠地
(典冲=Tra Kieuに引き返した。その後も日南郡を望んだが聞き入れられず「征西督護滕畯」の率いる交州・広州軍に敗れ、占領していた九真からも撤退し、永和5年(349年)に范文は没した。「范文」の在位は336~349年の13年間であった。

息子の「范佛(Fan Fo、349-380年))」が後を継いで日南に城(典冲城?)を構え頑張ったが、九真の太守灌邃が討伐し、范佛は降伏した。このころの林邑の本拠地はミソン(My Son)の聖地の近くのチャ・キュー(典冲=Tra Kieu)というところで、ダナン(Da Nang)やホイ・アン(Hoi An)といった良港にも恵まれていた。チャ・キューから聖地ミソンまでは10kmほどである。ミソンにはシヴァ神を祀る堂(Srisanabhadresvara)が建てられ、建設者にバドラヴァルマン1世(Bhadravarman)の名前がみえる。バドラヴァルマンは范佛の息子の「范胡達」王(380~413年)とみられている。このころから林邑のインド化が始まったと桑田博士はみている(桑田、p349)。ミソン聖地には14世紀ごろまで諸王の霊廟などが作られたという。その多くはヴェトナム戦争時に米軍の空爆によって損傷を受けた。1999年にはUNESCO世界遺産に指定された。
ミソンの堂宇は木造であったため7世紀に火災に遭って焼失したが「梵士王」(577~629年)によって再建された。再建したのはサンブ・バラドレスバラ神(Sambhu-Bhadresvara)であると碑文に刻まれている。サンブヴァルマン(Sambhuvarman)とは「梵士」王その人である。

范佛は連敗の後、372年、373-375年、377年と朝貢を重ねた。しかし、その後も毎年のように日南、九真、九徳郡等に出撃を繰り返し、双方に多くの犠牲者が出た。范佛の死後、その子の「胡達(須達)」(380~413年)が後を継いで直ちに侵攻を開始した。胡達(Fan Ho-da)が、東晋・安帝隆安3年(399年)再び日南・九徳郡に攻撃を仕掛けたが撃退された。これに懲りず胡達は義熙3年(407年)に北上し日南の北の九真郡に侵入する。しかし不成功に終わる。双方に多数の死傷者が出て、交州も同時に衰えた。胡達は義熙9年(413年)に交州刺史杜慧度に敗れ斬首された。

『梁書』は「胡達」の直後に「敵真」(Di Zhen)が跡を継ぐという記述をしている。Michael Vickeryはこの説を採用し、「陽邁達/楊邁」が即位するのは421年で425年からは息子の「陽邁2世」(425-46年)の治世になると解釈している(M.ヴィッカリー、p50)。部分的に『梁書』の記述を取り入れたM.ヴィッカリーの説が正しいように思える。

東晋(317~420年)の末期には林邑は何とか日南に留まっていたとみられる。東晋時代の林邑の入貢をみると
咸康6年・340年、范文、献馴象
簡文帝咸安2年・372年:遣使朝献(范佛)(本紀)
孝武帝寧康年間・373-375年。遣使朝献(范佛)(列伝)
太元2年・377年6月、貢方物(范佛)(本紀)
太元7年・382年、遣使遣使献方物(范胡達)(本紀)
義熙年間・、405-418年、林邑遣使(列伝)とあるが具体的には
義熙10年・414年と同17年。417年に遣使とある(列伝)。国王名は不明。

劉氏南宋(、420~479年)に入り、高祖永初2年(421年)に「范楊(陽)邁」が遣使貢献する。ところが太祖元嘉元年(424年)に日南・九徳郡に侵攻する。元嘉8年(431年)にまたもや九徳郡に船100隻余りで侵攻する。南宋は交州刺史阮彌之は3000人の軍勢で区粟(くす)城を攻めたが陥落せず引き返した。林邑はさらに交州侵攻を狙い扶南に援軍を頼むが扶南はこれを断る。このころ林邑と扶南は近い関係にあったことが窺われる。
林邑は侵入を繰り返しながらも朝貢を続け、元嘉7年、(430年)~18年(441年)の元嘉年間に6度の朝貢を繰り返すが貢献品もすくなく、一方度重なる侵攻にさすがの文帝も怒り、元嘉23年(446年)に「龍驤将軍」を派遣し、交州刺史檀和之に命じて、本格的に討伐を開始した。楊邁は補償金(金1万斤、銀10万斤)をもらえば引き上げると厚かましい要求を出したが一蹴され、南宋軍に蹂躙され区粟城は陥落し、林邑の司令官の范扶龍も討ち取られ楊邁は逃亡してその後は消息不明となる。南宋軍は数十万斤の黄金など莫大な戦利品を獲得した。この南宋軍の侵攻は林邑に壊滅的な打撃を与えた。

その後、林邑は政権が「神成」(Fan Sheng Cheng、454-80年)代わり悔い改めて和睦した。孝建2年(455年)から朝貢を認めら、その時の使節長の「范龍跋」は「揚武将軍」に叙せられた。この時の林邑国王は王位についたばかりの神成である。楊邁の子孫が王位を継いでいるはずだが「神成」とのつながりは不明である。「未有位号」で王号は決まっていないと『南斉書』は述べている。劉氏南宋時代には朝貢は458年、472年と続いた。

(劉氏南宋時代の林邑の朝貢)
永初2年(421年、范陽邁遣使貢献)、元嘉7年(430年)、元嘉10年(433年)、元嘉12年(435年)、元嘉15年(438年)、元嘉16年(439年)、元嘉18年(441年)としばしば朝貢したが貢献品は「陋薄」であったと『宋書』は記述している。この後林邑の度重なる侵攻に立腹した文帝は元嘉23年(446年)に「龍驤将軍」を派遣し、交州刺史檀和之に命じて、本格的に討伐を行った。区粟城は陥落し、陽邁親子は逃亡し、以後行方不明となった。その後林邑王范神成は改めて
、孝武孝建2年(455年)と、大明2年(458年)に貢獻し、泰予元年(472年)で南宋への朝貢は終わる。『宋書」は次のように記述する。「世祖孝建二年,林邑又遣長史范龍跋奉使貢獻,除龍跋揚武將軍。大明二年,林邑王范神成又遣長史范流奉表獻金銀器及香布諸物。太宗泰豫元年,又遣使獻方物。」

南斉(479~502年)時代に、扶南の王子「范当根純」が林邑を攻略し王位に就く。南斉の永明9年(491年)に入貢し、安南将軍、林邑王」に叙せられるが、范楊邁の子孫の「范諸農」によって殺害される。范諸農王は永泰元年(498年)自ら朝貢に出かけるが嵐に遭い溺死してしまう。その息子の「文欵」が後を継ぎ「安南将軍、林邑王」に叙せられる。扶南まで3000里(1200km)とあり北部(日南)に位置していたことがわかる。以上が『南斉書』の記述であるが、次の『梁書』の前半部分に林邑の歴史を回顧した難解な記述が現れる。『南斉書』と記述の内容が著しく異なるのである。

一方、王位継承に関する『梁書』の記述はこのようになっている。「須達(胡達)死,子敵眞(Di Zhen)立,其弟敵鐙擕母出奔。敵眞追恨不能容其母弟,捨國而之天竺,禪位於其甥,國相藏麟固諫不從。其甥旣立而殺藏麟,藏麟子又攻殺之,而立敵鐙同母異父之弟曰文敵(Wen Di)。文敵後為扶南王子當根純所殺,大臣范諸農(Fan Zhou-non)平其亂,而自立為王。諸農死,陽邁立。宋永初二年,遣使貢獻,以陽邁為林邑王。陽邁死,子咄立,慕其父,復曰陽邁。」と胡達直後の王位の異動を詳しく書いている。
結論的に言って、『梁書』の記述は「陽邁立…以下・・。復曰陽邁」は時代を間違っており、削除して読むべきである。それより前の文章は『南斉書』には記載がなく、事実かも知れない。「文賛」については同書に記載がなく「文款」が登場する。両者は同一人物の可能性がある。

「須達」とは「胡達」のことであり義熙9年(413年)に交州刺史杜慧度に敗れ斬首された。その子の「敵真」が王となると、弟の「敵鎧」は母を連れて逃亡し、インドに行ってしまう。敵真も王位をその甥に位を譲ってインドに行こうとすると大臣の「藏麟」が止める。甥は怒って藏麟を殺す。藏麟の息子は親の仇を討つ。結局「敵鎧」の同母異父弟の「文敵」が王位に就く。その「文敵」は扶南の王子「当根純(Fan Tan -ken-ch'eng、480-491年)」に殺され王位を奪われる。林邑の大臣であり、「陽邁」の子孫でもある「諸農」が「当根純」を殺害し、その混乱を平定する。「諸農」はその後王位に就く。「諸農」が死ぬとその子「揚(陽)邁」が王位に就く。永初2年(421年)には南宋王朝に遣使貢貢献し、「揚邁」が死ぬと、その息子が王位を継ぎ、父を慕ってまた「揚邁」王と名乗る。(下線部分は明らかな間違い)。「諸農」の後継者は息子の「范文欵」または「文賛」である。

これを見ると扶南の王子「当根純」や大臣「諸農」の登場が年代的にも大きく食い違い、読者を混乱させる。駒井義明博士は『南斉書』が正しいとされながらも「胡達」から「揚邁」に移行する間に大きな混乱があったのではないかと述べられる。(駒井義明、p 66-67)この辺のところをM.ヴィッカリーは『梁書』の「敵真」から「諸農」までを「史実」として組み入れうまく説明している。これが正解であろうと思われる。

また、『南斉書』には扶南の「僑陳如闍耶跋摩(カウンディニヤ・ジャヤヴァルマン)王」の使節として派遣した「那伽仙(ナーガセーナ)」が「上表文」で「臣有奴名鳩酬羅,委臣(免)〔逸〕走,別在餘處,構結兇逆,遂破林邑,仍自立為王」と陳述している。すなわち。ナガセーナの奴婢の「鳩酬羅(サンスクリット名=Kusula)」という者が出奔し、林邑に赴き悪者と組んで王位を奪ったと陳述している。これが「扶南王子當根純」に相当すると考えられる。『梁書』の梁より前の記事は信用できないというのが桑田説である。(桑田、p171、p174) 事実「那伽仙(ナーガセーナ)」が扶南王僑陳如闍邪跋摩の使節となったのは永明2年(484年)8月のことであった。

梁(502~557年)林邑の朝貢9回、扶南の朝貢10回、盤盤の朝貢7回。
梁時代に入ると范諸農491-498年)の息子の「范文欵」(498~)、「范文賛」、「范文凱」と続く。ただし、駒井博士は「文欵」と「文賛」は同一人物であるとする。「文賛」⇒「文凱(Devavarman)」(~514年)⇒「弼毳跋摩(Vijayavarman)」(514年~)⇒「高式勝鎧」(526年以降とあるが前者と同一人物という見方がある)⇒「高式律陀羅跋摩(Rudravarman1世)」(530年以降)。桑田博士はこの高式律陀羅跋摩(Rudravarman1世からは従来とは別系列のガンガラジャ)Gangaraja)王朝という見方をしている。(桑田、p170~)



(南斉への朝貢)
(南朝斉479~502年)の朝貢は永明9年(491年)、永泰元年(498年)の2回のみ入貢であった。『南斉書』の記述は次の通りである。〔明帝泰豫元年(南宋),又遣使獻方物。齊永明中,范文贊累遣使貢獻。永明九年,遣使貢獻金簟等物。詔曰:「林邑介在遐外,世服王化。當根純乃誠款到,率其僚職,遠績克宣,良有可嘉。宜沾爵號,以弘休澤。可持節、都督緣海諸軍事、安南將軍、林邑王。」范楊邁子孫范諸農率種人攻當根純,復得本國。十年(492年),以諸農為持節、都督緣海諸軍事、安南將軍、林邑王。建武二年(495年),進號鎮南將軍。永泰元年(498年),諸農入朝,海中遭風溺死,以其子文款為假節、都督緣海軍事、安南將軍、林邑王。 〕とある。

「范神成(454~480年)」の後、扶南からの「王子(実は流れ者)の当根純」が王位についてしまう。南斉王朝としても「当根純」には特に落ち度がなく、「安南将軍・林邑王」の位を授与していたが、経緯を聞いていた(扶南の使節ナーガセーナの密告)ので事態の成り行きには困惑したが、幸い陽邁の孫と称する「諸農」のクーデターがあり、それを認めた形になった。「諸農王」が入貢の途上嵐にあって水死してしまい、息子の「文款」が入貢した際「安南将軍、林邑王」に叙した。

(梁への朝貢)
梁(502~557年)には天監元年(502年)天監9年(510年),天監11年(512年)、天監13年(514年)、普通7年(526年)、大通元年(527年)、中大通元年(529年)、中大通6年534年)、大同8年(542年)と9回入貢した。『冊府元亀』による。
天監9年について「文贊子天凱奉獻白猴,詔曰:「林邑王范天凱介在海表,乃心款至,遠脩職貢,良有可嘉。宜班爵號,被以榮澤。可持節、督緣海諸軍事、威南將軍、林邑王。」と「天凱」王に「威南将軍、林邑王」の位を授けている。天監11年、天監13年)と続けて天凱王は「累遣使獻方物」の後に病死し、息子の「弼毳跋摩(ヴィジャヤヴァルマン)」が後継者となり、朝貢を続けたとある。次の入貢は普通7年(526年)であり、その時の国王名は「王高式勝鐙遣使獻方物」となっている。『梁書』には「詔以為持節、督緣海諸軍事、綏南將軍、林邑王」とある。翌年の「大通元年,又遣使貢獻。」とある。
中大通2年(530年)は「林邑王高式律陁羅跋摩遣使貢獻,詔以為持節、督緣海諸軍事、綏南將軍、林邑王。」とあり、国王が変わったように記載されている。同6年の入貢も「遣使獻方物。」と記録されているが大同8年については記載がない。

(陳への朝貢)
陳(557~589年)林邑の朝貢2回。『冊府元亀府』は光大2年、568年9月「林邑国、狼牙修国国並遣使献方物」および光大4年(572年)3月、「扶南林邑国並遣使献方物。」の朝貢を記録している。このころ扶南は真臘にメコン・デルタから追い出されていた。もしかすると扶南と林邑が共同で入貢した可能性がある。林邑と狼牙修国も共同入貢であったかもしれない。

南斉、梁、陳の3王朝時代は林邑との紛争は記録されていない。南宋・元嘉23年(446年)の文帝の攻撃で林邑は大打撃を受け、もっぱら「朝貢・平和外交」に精を出していた様子がうかがえる。しかし、次の隋時代にはさらに一方的な大攻撃にさらされる。

(隋への朝貢)
隋(581~618年)林邑の朝貢は開皇15年(595年)の1回に留まった。隋の強硬な林邑排除政策によって林邑は南下を余儀なくされた。仁壽末(604年)から大業元年(605年)4月にかけ、大将軍劉方に林邑攻撃を命じた。これによってチャ・キュー(Tra Kieu)が奪われたとM. ヴィッカリー(Vickery)はみている。大業は煬帝の年号であり、林邑遠征は煬帝の作戦であった。范梵志王は巨象に乗って応戦し。劉方軍は苦戦を強いられた。最後は劉方が勝利し、都を陥れた。「方入其都、獲其廟主十八枚、皆鋳金為之、蓋其国有十八葉矣」とあり18代の国王の霊廟をあばき、歴代国王の黄金の鋳像18体を金塊に鋳潰してしまったという。また数千におよぶ仏教典も持ち去られた。梵志王は中南部のクイ・ニョン(Qui Nhon, 帰仁)まで逃れた国名を「環王」としたが、隋軍が引き上げると、その後梵志王も故地を回復し、煬帝に詫びを入れ、朝貢を再開したとされるが『隋書』には記録は見えない。梵士王は別名サンブヴァルマン(Sambhuvarman)と称し、火災や隋軍に破壊されていたミソンの聖地を再建するなど国内の充実に力を注いだ。

(唐時代の林邑国と朝貢)
唐(618~907年)に入って林邑は623年から750年まで合計35回のの入貢が記録されているが、なぜか750年で終わりになる。一方中南部に遷都していた「環王」は武徳年間(618~626年)、貞観年間(629~649年)に各一度入貢たが、これは実質的に林邑と変わらず、王都をパンドゥルンガ(Pandurunga)に移していたために「環王」と称していたに過ぎない。

隋軍と戦い抜いた范梵志は唐時代、貞観中に死亡、後継は「頭黎(Kandarpadharma)」次いで「鎮龍(Zhen Long=Prabhasadharma)」と続くが貞観19年(645年)に家臣の「摩訶慢多伽獨」によって暗殺されてしまう。これで「范」氏は滅亡し、その後縁者が「鉢迦含波摩」(Prakasadharma、653~687年?)として『唐会要』に記録されている。『新唐書』では「諸葛地」と呼ばれている。彼はヴィクラタヴァルマン(Vikratavarnan)と自称し、シヴァ神とヴィシュヌ神を同時に信仰していたといわれる。ミソン(My Son)碑文(658年、C95)には祖先にカウンディニヤとソーマの名前のほか真臘のイシャーナヴァルマン1世の名前も出てくる。
イシャーナヴァルマンにはスリ・サルヴァニ(Sri Sarvani)という娘がいてチャムの王子ジャガダルマ(Jagaddharma)と結婚した、しかし、彼は何か事件を起こし、クメールのバヴァプラ(Bhavapura)に移り住んでいた。彼らにはプラカサダルマ(Prakasadharma)という王子がいて、彼は後にチャンパに戻りヴィクランタヴァルマン(Vikrantavarman)として635年に王位に就いた(Briggs, p52)両国の関係もこのころは良好であったとみられる。真臘は林邑と一緒に628年に入貢しているが、それはイシャーナヴァルマンの治世(611~635年?)のときであった。その時の夫妻の息子が「諸葛地」であると解釈すべきであろう。ただし漢籍では彼の祖母が「頭黎」の「姑」であったということしかわからない。

『新唐書』環王の条に「(貞観)。十九年,摩訶慢多伽獨弑鎭龍,滅其宗,范姓絶,國人立頭黎壻婆羅門為王,大臣共廢之,更立頭黎女為王。諸葛地者,頭黎之姑子,父得罪,奔眞臘。女之王不能定國,大臣共迎諸葛地為王,妻以女。永徽至天寶,凡三入獻。至德後,更號環王。元和初不朝獻,安南都護張舟執其偽驩、愛州都統,斬三萬級,虜王子五十九,獲戰象、刀(舟偏)、鎧。」

貞観19年645年のこと頭黎の後継者であった鎮龍(Prabhasadharma)が殺害され范姓は消滅した。下手人は家臣の「摩訶慢多伽獨」(Mahamantrakrit=大顧問官を意味する)であった。その後に「頭黎」の女婿の婆羅門を国王に立てたが、大臣は納得せずこれを廃し、頭黎の娘を女王に据える。頭黎の后の兄弟(?姑子)諸葛地(Prakasadharma)は最初は父親(ジャガダルマ=Jagaddharma)の罪への報復を恐れて真臘に亡命してしまう。しかし「女王」では国が治まらないために大臣たちは改めて諸葛地を呼び戻し国王に据え、女王を彼の妻にする。諸葛地の母親は真臘イシャナヴァルマン1世の娘(Sharvani)であったという説である。王位に就いてからはヴィクランタヴァルマン(Vikrantavarman)1世と称していたとされる。この一連の政変劇には不確かな点もある。

至徳年間(756-768年)以降、国号を「環王」に改めた。また、元和年間(860年以降)の初めの事件として環王がさっぱり朝貢にこないのに腹を立て、安南都護の「張舟」が環王に攻め入り3万以上の住民を殺害し、王子59人を捕虜にしたという記述が残されているが真偽は不明である。

唐代に入ってからの林邑の入貢は極めて活発で7世紀には18回(環王2回を含め)記録されている。8世紀に入ってからも750年まで18回に及ぶ。しかし、750年を最後に林邑の朝貢は突如途絶し、林邑という国名そのものも758年を最後に漢籍から消えてしまう。その理由は明らかでないが、シャイレンドラ(シュリヴィジャヤ)海軍に襲撃され、海上輸送能力が壊滅されたこととも関連があるであろう。

(唐への入貢)
武德6年623年,范梵志王が「遣使來朝」した。ついで武徳8年625年にも「遣使獻方物」とある。高祖(618~626年)は上機嫌で使節を「九部樂以宴,及賜其王錦綵。」と歓待した。
2代目太宗(626~649年)の代に入り、貞觀2年(628年)10月に入貢して「馴犀」(飼いならした犀?)を献上した。次いで貞観4年(630年)に国王范頭黎が使節を派遣して「火珠,大如雞卵,圓白皎潔,光照數尺,狀如水精,正午向日,以艾承之,卽火燃。」というレンズの機能を持った「水晶玉」のようなものを献上した。この年には「羅利国、婆利国遣使随林邑使献方物」とあり「婆利国」と「羅利国」が林邑に随行して朝貢に赴いたという注目すべき記事がある。なお「婆利」はボルネオ島にあり「羅利」は不明だがボルネオ島かその近くの国であろう。両国とも普段から林邑との交易関係があったものと考えられる。

翌5年(631年)には「五色鸚鵡と白色鸚鵡」を献上した。太宗はこれを大変珍しがり特に白鸚鵡は「人の言葉をよく覚えて良く応答したので、太宗はこれを憐み、森に帰してやれと指示した」という。この時から林邑の受けは非常によくなり、その後も朝貢を繰り返した。貞観14年(640年)、貞観16年(642年)と貞観年間の朝貢は続いた。
頭黎が死ぬと、息子の「范鎮龍」が跡を継いだ。しかし、上に見たように貞観19年(645年)に彼は殺害されてしまう。太宗が崩じると、その陵の入り口に「范頭黎王」の肖像を刻ませて置いたといわれる。それほど頭黎王は太宗の信任を得ていたといえよう。

高宗(649~683年)の代になって、林邑は永徽4年(653年、林邑國諸葛地自立為王遣使貢方物馴象)、同5年(654年、献馴象)、顕慶2年(657年)、総章2年(669年林邑王鉢伽舎跋摩遣使献方物)、同3年(670年)と5回入貢する。653年~657年は「諸葛地」(Jagaddharma)の入貢である。貢物は馴象や方物(箱もの)といったもので特に目立った品目は記録されていない。669年と670年は「鉢伽舎跋摩」王の入貢と記録されており、「諸葛地」は687年ごろまで王位にあったとされるので、「鉢伽舎跋摩」(Prakashadharma-Vikrantvarman)は「諸葛地」であると思われるが、杉本博士は別人の可能性ありとされる(杉本、p176)。特記すべき貢献品はない。

則天武后・垂拱2年(686年、遣使献馴象)、天授2年(691年)、證聖元年(695年)、長安2年(702年)、長安3年(703年)正月・10月と則天武后の時代に7回入貢する。貢献物の中には最初の3回は「馴象」が入っているが、後の4回は特記はない。次に息子の中宗(705~710年)の時代は神龍2年(706年)、同年(707年、遣使献馴象)、景龍3年(709年)と3回入港する。最後の709年には「白象」が献上された。白象は王様用の乗り物として現在でもタイでは珍重されている。同じく則天武后の息子睿宗(710~712年)が皇后(韋)によって毒殺された中宗の後を継いだ。景雲2年(711年)と太極元年(713年)の2度入貢があったが特記事項はない。睿宗は712年に玄宗に禅譲して退位する。没年は716年であった。睿宗の3男の玄宗が跡を継ぐ。このころの献上品は専ら「象」である。

玄宗皇帝(715~756年)の治世は「開元の治」と称される唐王朝の絶頂期であったが755年から763年まで「安禄山の乱」により唐王朝は衰退期に向かう。林邑の朝貢は開元元年(713年)、同3年(715年)、同19年(731年)、同22年(734年)、同23年(735年x2回)、天宝3年(744年、『文献通考』)、同7年(748年)、同8年(749年)、同9年(750年)と10回記録されている。
開元元年(713年)12月には林邑国王「建多達摩」が「遣使献象5頭帝降書謂之曰卿国在海南遠通朝貢所献方物深達欵誠今賜馬両匹宜知朕意。」なるお言葉を賜っている。象5頭に対し返礼が馬2頭という書き方であるが、実際は返礼の方が多かったものと思われる。第2回が715年の後第3回は16年後の731年である。731年には象4頭を献上、734年には沉香を献上、735年8月は馴象、12月には白象を献上した。748年には「献象牙、花氎」とあり、749年には城主「盧陀遣使来朝献珍味100條、黒沉香30斤、鮮白氎20一雙。」が献上された。盧陀とはルドラヴァルマン(Rudravarman)2世であると考えられる。これ以外に『冊府元亀』には天宝9年(750年)3月に「北邑国献象牙、真珠、白花氎」の記事があり、「北邑」は「林邑」の誤記と考えられる。これが林邑最後の朝貢となった。その理由は不明である。なお、「建多達摩」はVikrantavarman2世と考えられている。

それは「室利仏逝」の入貢が741年が最後であり、シャイレンドラ(後期訶陵)が768年に入貢を開始したことと関係があるものと推測される。私は『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年、めこん社)で論じたが、745年頃室利仏逝が真臘(多分水真臘)の急襲を受け、本部(首都)のチャイヤーが占領され、760年前後にシュリヴィジャヤ・グループの大国のジャワ島のシャイレンドラ王国の海軍が逆襲に出て、一気にチャイヤーを奪還しただけでなく、メコン川にも侵入し、主要な港湾都市を占領し、かつインドシナ半島の南部の主要都市(パンドゥランガなど)も攻略し、林邑の海上輸送能力が奪われたのではないかと推測せざるを得ない。
シャイレンドラ軍(シュリヴィジャヤ海軍)はポ・ナガール(Po Nagar)を破壊したのち「撃退」されたと780年頃の碑文には書かれているというが、それ以前にも攻撃を受け港湾機能をマヒさせた上に「撤退」したものと考えられる。林邑は隋の侵攻を受けて以来北部のチャ・キューの拠点から南部に主力を移したため、シュリヴィジャヤの攻撃にさらされたという見方もできるであろう。
その後、「環王国」を名乗り793年に「環王国」が一度だけ入貢する。南部のファン・ラン(Phan Rang)のポ・ナガール寺院の774年の碑文に「ジャワ」(シュリヴィジャヤ)に襲撃され、撃退したとあるが、事実上この事件で林邑(チャンパ)の朝貢国としての息の根は止められたとみてよいであろう。

(まとめ)
最初は華人国家として出発した林邑はやがて日南郡の先行國と同じく中国貿易によって発展を目指した。林邑にとっての理想の貿易の根拠地は日南郡、現在のベトナムのHue(ユエまたはフエ)のあたりであったがその地を確保する試みは何度も失敗した。ここからはメコン川流域のサヴァンナケット(Savannakhet)につながる道路があった。ムン川で運ばれてきた林邑向けの貨物はメコンをやや遡上したサヴァンナケットで陸揚げされ、ユエのあたりまで陸送されていたものと考えられる。古代の林邑の首都(本拠地)はフエからやや南のクアンナム省ののアマラヴァティ(Amaravati=南インドの仏教の聖地と同じ地名)地区のミソン遺跡の近くのチャ・キュー(Tra Kieu)周辺であったものと思われる。此処はダナン港やホイアン港が近くにあり、海運には支障はないが、メコン川のサヴァンナケットからの陸送を考えた場合はどうしてもフエの辺りを安定的に確保する必要性があった。歴代の林邑の王が執拗に日南郡北部に侵攻した理由もその辺にあったと考えられる。

しかし、林邑の日南郡確保の試みは何度も挫折した。林邑の貿易国家としての機能はインド人商人の利用するところとなり、徐々にインド商人の影響力が強まっていった。また、4-5世紀ごろの政治的混乱の中でインドからブラーマンが政治に介入し、政治的な影響力を増していったものとみられる。むしろ、実際は自分で手に負えなくなってインドの知識階級のブラーマンやクシャトリアに助けを求めたたということであろう。ミソン遺跡からはサンスクリット語の碑文が現れる。

扶南も林邑も漢籍では国王の姓に「范」が長期にわたって使われていた。両国に何らかの共通性が古代から存在していた可能性を示唆する。当初から来たインド系の商人や婆羅門(ブラーマン)が頻繁に出入りしていたことが影響を与えたことは確かであろう。また、三国時代「陸のシルクロード」から疎外されていた呉は海上を使っての東西貿易に期待を寄せ、孫権の時代に交州剌史「呂岱」は康泰と朱応の2人の特使を赤烏6年(243年)ごろ扶南に派遣している。このような中国側の積極姿勢に応じたのは当初は北インド系の商人であった。彼らは扶南と林邑を足場にして朝貢を中心とする東西貿易を大いに拡大した。

それは中国(劉氏南宋、隋)の圧力にによって首都を中部のヴィジャヤ(Binh Dinh)からさらには南のパンドゥルンガ(Phan Rang)へと南に移動させながらも林邑の貿易国家のヴァイタリティは失われることはなかった。しかし、750年以降はそれまで活発に行ってきた朝貢が途絶するに至った。その背景にはシュリヴィジャヤの圧力を感じないわけにはいかないが歴史的にその謎は解かれてはいない。しかし、宋王朝の発足とともに960年代以降チャンパは「占城」として再び勢いを盛り返す。

(占城の成立)


「環王」国が朝貢国としてはほとんど活躍しないうちに唐の末期の877年「占城」が新たに登場する。ただし、朝貢が記録されているのは北宋の始まる直前の「後周」の「劉徳5年」958年からである。北宋の建国2年目の「建龍2年」961年には、「釈利因陀盤、使節莆訶散」すなわちシュリ・インドラヴァルマン王がアラブ人のアブ・ハッサン「Abu Hasan」を使節として派遣している。以下のリストは『宋史』の記事からとったものであるが『宋会要』で補足したものに若干のコメントを加えたものである。『宋会要輯稿』などもっと詳しい文献もあある。

しかし、この「占城国」なるものはインドシナ半島の北から南まで統一的に支配する政体ではなく、主にカムラン湾から南のパンドゥルンガを中心とする勢力であった。宋への朝貢の実績を見てみると、最初は単一の政体のようにも見えるが次々と異なる王国や国王が登場してくるように見える。そのすべてを解き明かすことは容易ではない。ここで私が描きうるのは既に先賢によって解明された部分がほとんど全てである。それだけ「占城史」の解明は難しい。

(占城の国王と貢献など)
顕徳5年、958年、釈利因徳漫、使節莆訶散。この王はシュリ・インドラヴァルマン(Sri Indravarman)2世であり、971年まで続いている。
建龍
2年、961年、釈利因陀盤、使節莆訶散
建龍3年、962年、遣使、貢象牙、乳香。
乾徳4年3月、966年、悉利因陀盤、使節因陀玢李帝婆羅、貢犀象白氎、(宋会要)3月悉利盤陀印茶、遣使貢方物。6月にも遣使貢物
開宝元年、968年、遣使貢物(宋会要)

開宝3年、970年、遣使、貢象(開宝9年までに凡そ7回来貢)(宋会要)

開宝4年、971年、悉利多盤、副国王李耨、王妻郭氏、子蒲路鶏波羅等。並遣使来貢。
開宝5年、972年、波美税褐印茶使節莆訶散、来貢方物。

ここで「波美税褐印茶」なる新たな王が登場する。それまでの「悉利因陀盤」の後継者であろう。使節は「莆訶散」アブ・ハッサンであり以前の国王の使節と同一の名前である。この「波美税褐印茶」はパラメシュヴァラヴァルマン(Paramesvaravaruman)である。開宝6年973年には再び「悉利盤陀印茶」シュリ・インドラヴァルマン(Sri Indravarman)が登場するが、翌年の開宝7年974年と次の太平興国2年、977年には「波美税褐印茶」なる国王が登場する。こういうことは普通はありえない。理由は不明である。

開宝6年、973年4月21日、、占城国王悉利盤陀印茶遣使貢方物。(宋会要)。6月にも占城、遣使貢物。
開宝7年、974年正月11日、占城国王波利税羯茶遣使貢方物。孔雀傘2、西天烽鉄40斤。(宋会要)
開宝9年、976年、使節朱陀利、陳陀野等来貢。

太平興国元年、976年2月、占城来貢方物。
太平興国2年、977年、波美税陽布印茶遣使李牌来貢。

太平興国3年、978年5月、其王及男達智遣使来貢。

太平興国4年、979年12月、遣使李木吨哆。
太平興国7年、982年12月、占城、遣使乗象貢:詔留象広州畜養之(貢献の象は広州にとどめ置き、飼育せよ)。
太平興国8年、983年9月22日、占城:献馴象。能拝伏。詔畜於京畿寧陵県。
この辺になると象の貢物は都の開封にまで持ってこないで地方で飼育する様にとの指示が出てしまう。

雍熙(寧)2年、985年、施利陀盤呉日歓、使節婆羅門金歌麻、貢龍脳、玳瑁、象牙。

雍熙(寧)3年、986年、国王劉継宗、使節李朝仙来貢、通犀象、龍脳、丁香、箋香、沉香

占城は最初はインドラプラ(Indrapura)と称しドン・ヅゥオン(Dong Duong=Buddha city)にあったが、安南の黎桓によって占領され、劉継宗がおそらく988年に殺され占城はさらに南方のヴィジャヤ(Vijaya)に都を移し、最初の王がこの「新王楊陀排自称新佛逝国」に出てくる「楊陀排」王(988?-998年)である。ヴィジャヤはビン・ディン(Bihn Dihn)省のチャ・バン(Cha-ban)にあった。これとシュリヴィジャヤとは無関係であるというのが通説である(後述。15世紀の後半に安南に滅ぼされるまでこの都は存続した。 この「楊陀排」はインドラヴァルマン(Indravarman)5世とマスペロ(Maspero)は考えていたがヴィジャヤ・シュリ・ハリヴァルマン(Vijaya Sri Harivarman)2世と考える学者の意見に合理性がみられ、ハリヴァルマン2世が正しいと考えて良い。991年の占城の碑文(Yan Po)に’Ku Sri Harivarmadeva'とある。
 
淳化元年、990年、新王楊陀排自称新佛逝国、使節李臻、副使蒲河散、来貢馴犀、螺犀、象牙、蝋、沉香、竜脳、山得雞、没薬、胡盧巴、白豆蔲(カルダモン)、薔薇水。
こここで注目すべきは「新佛逝国」という国名である。これは室利仏逝(スリヴィジャヤ)とは何の関係もないと通常考えられているが、果たしてそうであろうか。8世紀後半にシャイレンドラの海軍が林邑国の主要港を荒らしまわり、750年以降林邑は朝貢ができなくなった、それから100年以上を経過し、シュリヴィジャヤとチャンパの間には新たな関係が成立してもおかしくない。事実シンハヴァルマン王の時代に910年頃チャンパDong Duong朝)はYavadvipaに使節を送っている。Yavadvipaとはマレー半島、すなわちシュリヴィジャヤ(三仏斉)のことである。使節は国王の親族であるPo Klun Pilih Rajadvarahである。彼はシュリヴィジャヤから歓待をうけ、それ以降両国の関係は続いていたようである。三仏斉は中国への中継地としてBinh Dihn (Vijaya)を中継地として使っていたかもしれない。他に関連する資料がないのでにわかには断定しがたいが、「新佛逝」が突如現れたとは思えない。

淳化3年、992年、遣使李良莆、本国僧浄戒献龍脳、金鈴、銅香鑪.
この時の国王は『宋会要稿』によれば「(楊陀排)「。遣使李良甫、副使亜麻羅婆低。来貢螺犀・薬犀10株・象牙20株・煎香36斤、白竜脳1斤4両、紋布6段、檳榔13斤、山得雞64斤、椰子50顆。其副使。又献象、犀、螺犀、玳瑁、煎香等。賜其主白馬2疋、兵器等。占城喜白馬。故以賜之。本国僧浄戒。又献金、竜脳、金鈴、銅香炉、如意等。各優賜之。」となっている。国王は当時は「楊陀排」であり、「李陀排」は同一人物であろう。竜脳以外は全て「国産品」であるとみてよい。「竜脳」は「ボルネオール」とも呼ばれ、スマトラ、マレーで産出する樟脳の一種であり、樟脳を還元して作ることもできる。香料や薬品として珍重された。注目すべきは貢献品の中には「乳香」などの「西方の物産」が含まれていないことである。
楊陀排はハリヴァルマン(Harivarman)2世である。

至道元年、995年、占城王楊波占(古?)遣使来貢、また占城遣使李波殊来貢方物(宋会要)とあるが『宋会要稿』にはやや詳しい内容が書かれている。(杉本、p236)その一部を引用すると「其王楊波占、・・・今得遣専使李波珠、副使李訶散、判官李磨勿等。進奉犀角10株、象牙30株、玳瑁10斤、竜脳2斤、沈香100斤、夾箋黄熱香90斤、檀香60斤、山得鶏1万4千3百隻、胡椒200斤、箪蓆5。固非珍奇。惟表誠懇。・・・」と表白している。杉本博士は王命は「楊波占」ではなく「楊波古」であろうという。

至道3年、997年、占城入貢。(宋会要)。杉本博士は『永楽大典』(巻8116)所引用の宋の『国朝会要』占城国の条に「至道3年3月2日。遣使朝貢。5月。其王楊甫恭毘施離、遣使李甫良押陀羅潘思来貢。其使[言]国主盈卜皮紫訶哩援焉。」という文章を引用している。この時の占城王は「楊甫恭毘施離」である。楊甫恭毘施離は'Yan Pu Ku Vijaya Sri'でありハリヴァルマン2世と同一人物であるというのが杉本博士の説である。また、「盈卜皮紫訶哩援焉」の「援焉」は「抜馬」(varman)であると杉本博士は指摘する。盈卜は’Yan Pu Ku’, 皮紫は’Vijaya'訶哩は’Hari’であり’Yan Pu Ku Vijaya Harivarman'と読めるという。(杉本、p240-241)

咸平2年、999年、楊普倶毘茶逸施離、遣使朱陳堯、副使蒲薩陀婆、判官黎姑倫。以犀、象、玳瑁、香薬来貢。賜堯等冠帯衣褥。有差。この王も上と同じハリヴァルヴァルマン2世である。
 同年、占城国王、楊甫毘茶逸施離遣太使陳堯副使蒲薩陀婆。判官黎姑倫来貢犀牙、玳瑁、香薬。(宋会要)王名が若干異なる。

景徳元年、1004年9月28日、占城国王楊甫毘茶逸施離、遣使来貢。(宋会要)
景徳2年、1005年、占城入貢、瓜沙曺宗壽貢良玉、名馬。(宋会要)
景徳4年、1007年、遣使布禄爹地迦、占城王楊普倶毘茶室離表。 (宋会要)に大食占城国遣使来貢、瓜沙貢玉印名馬とあり、大食と共同入貢か?
大中祥符元年、1008年、大食占城国遣使貢方物。

ここで注目すべきはアラブ国家の「大食」が占城と共同で入貢し始めたことである。大食は宋王朝が求める「乳香」の産出国であり、占城が乳香を大食から「仕入れ」られるとなると朝貢国としての地位が強化され、「三仏斉」にも引けをとらなくなる。後に占城の単独入貢の場合にも「貢献品」にアラブ地方からもたらされる「乳香」が見られるようになる。

大中祥符2年、1009年4月、占城遣使来貢。(宋会要)、

大中祥符3年,1010年、國主施離霞離鼻麻底遣使朱渤禮來貢。(宋会要)は「占城国主毘茶室離遣使来貢」と記録。施離はSri, 霞離はHari、鼻麻底はvarmadevaであるというのが杉本博士の解釈である。(杉本、p243)

大中祥符4年、1011年、遣使貢師子,詔畜于苑中。使者留二蠻人以給豢養,上憐其懷土,厚給資粮遣還。(宋会要)は11月5日、占城国主楊普俱毘茶室離遣使貢獅子、象牙、螺犀、玳瑁、沉香、煎香、帯枚、丁香、荳蔲(カルダモン)、没薬、紫嚝」と記録する。国王は Yan Po Ku Sri Harivarmanである。

大中祥符7年。1014年、占城入貢。(宋会要)
大中祥符8年、1015年、遣使波輪訶羅帝來貢。訶羅帝因上言有弟陶珠頃自交州押馴象赴闕,今幸得見,欲攜以還。許之,仍賜陶珠衣幣裝錢。 (宋会要)には「2月15日、占城国遣使来貢」についで「5月6日、占城国王遣使劉公佐貢犀牙、玳瑁、乳況(香?)、煎香、荳蔲、檳榔」と記録されている。

天禧2年,1018年、其王尸嘿排摩惵遣使羅皮帝加以象牙七十二株、犀角八十六株、玳瑁千片、乳香五十斤、丁香花八十斤、荳蔻六十五斤、沉香百斤、箋香二百斤、別箋一劑六十八斤、茴香百斤、檳榔千五百斤來貢。(宋会要には記録なし。)
尸嘿排摩惵は前後の関係者もいないことから謎とされてきた。杉本直治郎博士は尸嘿は尸哩の誤記であり、Sriであろうとされる。排摩惵はHarivarman2世ではなかろうかとされる。たしかにそうとしか考えられない。(杉本、P250-251)

天禧3年,1019年9月、占城入貢。(宋会要)
天聖7年,1029年5月、占城奉表進鳳衣為鳳表王者之瑞応慶聖人之運。(宋会要)
天聖8年,1030年10月、占城王陽補孤施離皮蘭德加拔麻疊遣使李蒲薩麻瑕陁琶來貢木香、玳瑁、乳香、犀角、象牙。(宋会要に同文) 陽補孤施離皮蘭德加拔麻疊は Yan Pu Ko Sri Vikantavarmdevaと読むのが妥当であろうというのが杉本博士の説である。 (杉本、P253)

慶曆元年,1041年9月、廣東商人邵保見軍賊鄂鄰百餘人在占城,轉運司選使臣二人賫詔書器幣賜占城,購鄰致闕下,餘黨令就戮之。
慶暦2年、1042年11月,占城国王刑卜施離値星霞弗遣使獻馴象三。(宋会要、「奉表貢象牙、犀角、馴象、煎香、象兜、錦褥。」)
刑卜施離値星霞弗についてはYan Pu Sri Jaya Sinhavarman(2世)と読めるというのが杉本説である。刑をYanとは読めないが、それ以外の意味は考えられないという。(杉本、p256)

1044年1月にはヴェトナム軍が南に向かって侵略している。戦闘はフエ(Hue)の北方とダナン(Da Nang)で行われたチャンパは各地で敗北した。7か月後にはドン・ヅオン(Dong Duong)に入城した。旧林邑の後継と目されていた「ドン・ヅオン王朝」がヴェトナムの手に落ちた。しかし、占城の本拠地であるパン・ラン(Phan Rang)には何の影響もなかった。

皇祐2年、1050年正月18日、又使倶舍唎波微收羅婆麻提楊卜貢象牙二百一、犀角七十九。表二通,一以本國書,一以中國書。(宋会要「占城国倶舎利波微收羅婆 麻提搨盈卜遣使奉蕃書表2通来貢表云・・・」)
皇祐5年4月,1054年4月、其使蒲思馬應來貢方物。 (宋会要、他に11月21日、占城貢到沉香956斤、附子沉香150斤、箋香4,258斤、速香4,890斤、象牙168株、3,526斤、澳香300斤、犀角20株、玳瑁60斤、暫香120斤、細割香180斤、翆毛160隻、番油10埕、烏里香55、020斤とある。)
至和2年、1055年11月4日、占城国遣使満息沙陀琶来貢生象犀牛。(宋会要)

嘉祐元年閏3月,1056年3月17日、其使蒲息陁琶貢方物,還至太平州,江岸崩,沉失行橐。(宋会要には「占城国進奉使蒲息陀琶銀1000両、以舟行至太平州江岸崩沉其行李特賜之。」とある)
嘉祐2年正月,1057年、詔廣州賜銀千兩。
嘉祐6年,1061年9月21日、占城国獻馴象。
嘉祐7年,1062年5月22日、其使頓琶尼來貢方物。6月,賜其王施里律茶盤麻常楊溥白馬一,從其求也。

熙寧元年,1068年6月4日、其王楊卜尸利律陀般摩提婆遣使貢方物,乞市驛馬。詔賜白馬一,令於廣州買騾以歸。(宋会要には方物の後に「蒲麻勿乞市買騾馬帰本土詔賜白馬1疋銀鞍轡1副騾令就広州收買而還。」とある。蒲麻勿は1073年の大食国陀婆離国の使節と同名。)
熙寧5年,1072年4月6日、貢瑠璃珊瑚酒器、龍腦、乳香、丁香、蓽澄茄、紫礦。7年,交州李乾德言其王領兵三千人幷妻子來貢,以正月至本道。 (宋会要には「占城国遣使奉表貢龍脳、乳香、丁香、紫嚝、蓽澄茄、胡椒、回香。」とある。)

熙寧9年,1076年8月12日、復遣使來言:其國自海道抵眞臘一月程,西北抵交州四十日,皆山路。所治聚落一百五,大略如州縣。王年三十六歲,著大食錦或川法錦大衫、七條金瓔珞,戴七寶裝成金冠,躡紅皮履。出則從者五百人,十婦人執金柈合貯檳榔,導以樂。   王師討交阯,以其素仇,詔使乘機協力除蕩。行營戰棹都監楊從先遣小校樊寔論旨。寔還,言其國選兵七千扼賊要路,其王以木葉書回牒,詔使上之。然亦不能成功。後兩國同入貢,占城使者乞避交人。詔遇朔日朝文德殿,分東西立;望日則交人入垂拱殿,而占賊趨紫宸;大宴則東西坐。(宋会要には「占城国遣使霊保麻避欽囉底亜尼律来貢方物。」とある。)

元祐元年,1086年10月15日、礼部言占城国進奉大使布霊息馳琴蒲麻勿等乞続進物従之。続いて12月3日戸部言占城国進奉使蒲麻勿等続進犀袴等回死賜銭2,600
緍(宋会要)
元祐7年,1092年、又表言如天朝討交阯,願率兵掩襲。朝廷以交阯數入貢,不絕臣節,難以興師,答敕書報之,而以其使良保故倫軋丹、副使傍水知突為保順郞將。政和中,授其王楊卜麻疊金紫光祿大夫,領廉、白州刺史。楊卜麻疊言身縻化外,不霑祿食,願得薄授奉給,壯觀小國,許之。

政和6年、1116年12月20日、真臘国遣使貢方物。(宋会要、スールヴァルマン2世によるアンコール王朝300年ぶりの入貢)

宣和元年,1119年、進檢校司空兼御史大夫、懷遠軍節度、琳州管內觀察處置使,封占城國王。自是,每遇恩輒降制加封邑。

建炎3年,1129年正月、楊卜麻疊遣使入貢,遇郊恩,制授檢校太傅,加食邑。(宋会要、占城進貢加恩中興礼書とある)
紹興5年,1135年、占城国王遣使貢沉香、犀、象、玳瑁等、答以綾錦銀絹。(宋会要)

1139~1155年はジャヤ・インドラヴァルマン3世が在位していたとみられている。
紹興25年,1155年10月14日、其子鄒時闌巴嗣立,遣使進方物,求對爵,錫宴於懷遠驛,以其父初封之爵授之,報賜甚厚。 (宋会要、「占城国進奉使部領薩達麻、副 使滂摩加奪、判官蒲翁都綱以次凡20人到閾入見表貢、附子沉香150斤、沉香390斤、沉香2塊12斤、上箋香3690斤、中箋香120斤、箋香頭塊480斤、箋香頭239斤、澚香300斤、上速香3450斤、中速高1440斤、象牙168株、犀角20株、玳瑁60斤、暫香120斤、細割香180斤、翆毛360隻、蕃油10燈、烏里香55,020斤。」また12月に占城入貢の記事がみえる。)
なお、この1155年にはアンコール朝(真臘)とロッブリ(羅斛)が11月29日に共同で朝貢し、「馴象」を貢献している。

乾道3年,1167年、子鄒亞娜嗣,掠大食國方物遺人來貢,以求封爵,為其國人所訴。詔卻之,遂不議其封。
(宋会要)「1167年10月1日、福建路市舶司言本土綱首陳応等昨至占城蕃蕃首称欲遣使副恭賚乳香象牙等前詣太宗進貢今応等船6隻除自販物貨外各為載乳香象牙等并使副人等前未継有綱首呉占人賚到占城綱蕃首鄒亜娜開具進奉物数白乳香20,435斤混雑乳香80,295斤、象牙7,795斤、附子沉香237斤、沉香頭92斤8両、箋香頭255斤、加南木箋香301斤、黄熟高1,780斤、詔使人免到閾令泉州差官以礼管設章表先入逓前来候到令学士院降敕書回答拠所貢物許進奉10分1余依条例抽買如価銭閾申朝廷先次取撥俟見実数佔価定市舶司發納左蔵南庫聴旨回賜。」

乾道7年,1171年、閩人有浮海之吉陽軍者,風泊其舟抵占城。其國方與眞臘戰,皆乘大象,勝負不能決。閩人敎其王當習騎射以勝之,王大說,具舟送之吉陽,市得馬數十匹歸,戰大捷。
乾道8年、1172年、複來,瓊州拒之,憤怒大掠而歸。
淳熙2年,1175年、嚴馬禁,不得售外蕃。
淳熙3年,1176年、占城歸所掠生口八十三人,求通商,詔不許。(宋会要、占城進貢賜以錦綾銀銷。)
淳熙4年,1177年、占城以舟師襲眞臘,傅其國都。
この年、チャンパのジャヤ・インドラヴァルマン(Jaya Indravarman)4世が船団を組んでアンコールに攻め込み、トリブヴァナディトヤヴァルマン王を殺害した。このときジャヤ・インドラヴァルマンはヴィジャヤを本拠地にしていた(Briggs,222)。1181年にジャヤヴァルマン7世がアンコール王となり、1195年にチャンパを攻め滅ぼした。しかし、この1177年の事件はM.ヴィカリーはありえない話だとして否定している。実地はおそらくジャヤヴァルマン7世がチャンパの若い将軍(インドラヴァルマン4世)を使って、トリブヴァナディトヤヴァルマン王を殺害したクーデター事件であったものと思われる。

慶元以來,1195年~、眞臘大舉伐占城以復讎,殺戮殆盡,俘其主以歸,國遂亡,其地悉歸眞臘。これはジャヤヴァルマン7世の仕業であるが、南宋が朝貢制度を止めて「市舶司制度」に切り替えた後であり、占城の繁栄も一段落した後のことであった。