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タイ―ラオス仏足跡探訪記

2012年9月5日〜21の予定でタイとラオスの仏足跡を探訪するたびに出かけた。バンコクにも有名な寺の仏足蹟はあるが時代は現在のラタナコシン王朝以降(18世紀末以降)のもので絢爛豪華ではあるが、歴史が新しくタイに仏足跡がもたらされた西暦7世紀以前ごろの岩盤をくりぬいた古典的スタイルのものではない。日本では奈良薬師寺の仏足石(石に彫られたもの)が国宝として有名である。日本全国には300基ほど存在するというが実際に見た人はさほど多くはない。かくいう私も2011年7月に薬師寺を訪れたが参拝しそこない、其の後2012年12月に拝観したところ図面に基づき線彫されたもので、法輪や吉祥紋が完備した立派な作品であった。

薬師寺の前管主の松久保秀胤長掾i現蓼科聖光寺住職兼務)が我が国の仏足跡研究の第一人者であり、私は松久保先生のご指導により仏足跡研究を始めた。松久保先生は仏足跡のインドからの伝来は当然のことながら「仏教伝来」ルートと同じコースをたどったと考えておられる。

東南アジアへの仏教伝来は古代のインド商人が西方(インド、ペルシャ,アラブなど)の商品を海路、中国、東南アジアにもたらし、中国の絹織物や工芸品などを西方にもたらす「東西貿易」の中心的役割をはたした。いわば「海のシルク・ロード」と呼ばれる、貿易路を通して東南アジア中国に伝来したものと考えられる。不思議なことに「陸のシルク・ロード」には仏足石は見られない。敦煌から中国にかけては仏足石は1基も発見されていない。

海上ルートでは、そのインド商人とともにバラモンや仏教徒が東南アジアに渡来し、この地にヒンドゥー教や仏教を普及させた。仏教は「陸のシルクロード」を通じて最初に中国に入ってきたとされているが、唐代以降は「海のシルクロード」と呼ばれる海路を通じての経典の輸入などがしきりに行われ、むしろこちらが主流になった。それは義浄の『南海寄帰内法伝』や『大唐西域高僧傳』の記述を見れば、東アジ(中国、朝鮮)からインドに向かう仏教徒がいかに多かったかが想像がつく。法顕にしてからが往路では陸上ルートを使ったが、復路ではセイロンから大型の商船に便乗して帰国しているのである。それは5世紀の初頭のことであった。玄奘は往復ともに陸路を利用したが、唐時代としてはむしろ例外に近かった。

事実法顕は往路は陸路インドに渡ったが、帰路は海のルートを使用したことは「法顕伝」に見る通りである。我が国に義浄の直弟子道慈が大乗仏教を腹に伝えたが、義浄ははじめから海路「室利佛逝」に向かいそこでサンスクリット語を半年学んだ後に、再び国王の持ち船に乗せてもらい「末羅瑜」経由ベンガル湾に向かった。帰りも海路を利用した。中国の仏教熱の盛り上がりとともに、盤盤(バンドン湾に面したスラタニ地方)や扶南や呵羅単といった東南アジアの中継地点の諸国でも仏教が盛んになっていった。漢籍をひも解けば東南アジアからの朝貢品に仏具の類が少なくないことに気付くであろう。

陸の「シルクロード」は仏教の伝来ルートとして喧伝されているが、「陸のシルクロード」には仏足跡は見当たらない。これは一見奇妙な事実である。おそらくラクダのキャラバン隊には仏僧が同行する余地が少なかったことと途中にインド商人の集落(コロニー)が存在しなかったためではないだろうか?また、敦煌にみられるような仏教遺跡は最初から仏足跡のような素朴な信仰形態は存在しなかったと考えるほかない。敦煌では地元の政治権力者が財力に物を言わせて一挙にあのような壮大な仏教遺跡を作ってしまった。また、住民側にも仏足石を求めるような雰囲気もなかったのかもしれない。

ただし、玄装三蔵の『大唐西域記』(629年〜645年)には荒城の北40余理のところに「昭怙釐伽藍」(しょうこり)があり東昭怙釐の佛堂には「面の広さ2尺余、色は黄白をおび、蛤のような形をしたものがある。その上にはブッダの足うらがあり、長さ1尺8寸、広さ6寸に余るものである。斎日に光明を照らし輝かすことがある。」(水谷真成訳、大唐西域記、平凡社15頁)この仏足石は今では見つからないが、これが陸路では最も中国に近いものであろう。

ちなみに其の手前(東)の「屈支国(くちゃ)」国では伽藍が100余箇所、僧徒は5千余人で、小乗教の「説一切有部」を学習していると玄装は記している。7世紀中頃まではこの地域では仏教が盛んであったことが窺われる。仏足石はクチャ(亀慈)の手前で途切れてしまったようである。

この南方の仏教伝来ルートはセデスほか大多数の歴史家が主張するパレンバンが東西貿易の中継点であり、かつ室利仏逝(シュリヴィジャヤ)の首都はパレンバンであったという説が主流になっている。しかし、パレンバンやスマトラやジャワ島ては仏足跡(石)は皆無である(現在1基も発見されていない)。パレンバン経由で中国に仏教が伝わったなどという説は到底信じがたい。

またジャワ島には呵羅単という仏教国が南宋(劉氏)以来頻繁に朝貢したと信じている学者も少なくないが、ジャワ島にも仏足蹟はない。呵羅単とは実はマレー半島(マレーシア領)のケランタンであった。(拙著『シュリヴィジャヤの歴史』参照)。実はマレーシア領では仏足跡はほとんど見つかっていない。しかし、ケランタンには古代の仏足石や歴史の古い仏教寺院は存在する。




セデス以来東西貿易はインド、セイロンとスマトラ島、ジャワ島を中心に行われたという説がいわば学界の主流になっている観を呈しているが、それは全く的外れである。古代の東西貿易の拠点はマラッカ海峡の南端に位置するパレンバンなどではなく、実はマレー半島の西岸の主要港とシャム湾に面する東海岸を結ぶマレー半島横断ルートが中心になっていたのである。セデスはチャイヤーの辺りはタイ湾にあり「袋小路」だからそこにシュリヴィジャヤがあったとは考えられないといっているが、夏季に季節風の影響でマラッカ海峡を南下できず、半年近く「風待ち」を強いられたため、マレー半島を横断して、東海岸から中国に向かう船に貨物を積み替えていたという、当時の地理学的事情を全く無視した議論を展開しているのである。このセデス等の誤りを最初に指摘したのはイギリス人の歴史家クオリッチ・ウエールズである。

したがって「仏教の南伝」の拠点はマレー半島にあったということにならざるをえない。我が国の主流の学者はなぜか「マレー半島の重要性」に触れている人はまれである(皆無に近い)。松久保先生は仏足跡の多さや仏像の多さからも「マレー半島」を重視しておられるのは当然とはいえ「卓見」というべきである。

私は仏足跡について全く意識することなく「東西貿易の拠点」はマレー半島にあり、室利仏逝の首都はチャイヤーにあったと確信して『シュリヴィジャヤの歴史』を公にしたが、仏教伝来ルートという観点からも「マレー半島」中心説は正しいものと断言せざるを得ない。

また、シュリヴィジャヤは大乗仏教が主流であり、中部ジャワのボロブドゥール遺跡は大乗仏教遺跡として知られている。またスマトラ島のジャンビの近くにあり、近年遺跡の整備が進んでいる「ムアロ・ジャンビ(ジャンビの河口という意味)」は大乗仏教の世界最大の遺跡とであるとされる。これはシュリヴィジャヤが7世紀の後半にスマトラ島の東南部、パレンバンやジャンビを制圧し、シュリヴィジャヤの版図になってから仏教が本格的にもたらされたのちの時代の大乗仏教の建造物であり、おそらく8世紀以降に建設されたものであろう。

シュリヴィジャヤに上座部仏教(小乗仏教)が本格的に知られるようになったのはセイロン(細蘭)がシュリヴィジャヤとの交易が深まって以降のことであろう。諸蕃氏は正論は三仏斉の属領の一つに数えられている。それは11世紀にナコン・シ・タマラートのワット・マハタートが初めてのセイロン風の大寺院として建設された。同様の先のとがったパゴダはミヤンマーのパガンなどに多く見られ、10世紀には建造が開始されたとみられる。

松久保先生のお話では古代インドにおいては釈尊の入滅後、仏像を作ろうという機運はあったが、お姿を形にするのは恐れ多いとして最初は「足型」を作り、それを崇拝・信仰の対象としていた。足型の上に見えざるブッダのお姿を想像して足型を崇拝の対象にしたのである。イスラム教徒は現在においてもマホメットの像などは作らず、一切の「偶像崇拝」を拒否している。

岸壁にくりぬいた法輪などの模様の無い仏足石は南タイに限らず、タイ内陸部にも広く分布していた。中部・北部や東北部にもみられる。大型で108個の「吉祥紋」模様をつけた仏足石は主に13世紀スコタイ朝以降に普及した者であり、原型はミヤンマー(ビルマ)やスリランカからもたらされたものが多い。とくに升目型のものはビルマのモデルが採用されたものとみられる。

仏像ができたのは仏滅後数百年を経て後、西暦に入ってからだである。ガンダーラの仏像は最古のものといわれるが西暦2-3世紀のものであろう。したがって仏像よりも仏足石の歴史のほうがはるかに古い。初期の仏足跡は文字通り石や岩に彫られたブッダの足型であり、やがてその中心に法輪が刻まれたり、仏教のシンボルが付けられるようになった。その形態については多丹羽基二氏らにより多くの専門家による解説がなされているのでここでは省略させていただく。

今回の私の旅は仏足跡については無知の初学者の探訪記であり、写真を撮ることだけが目的の全てといっていいほどのものである。探訪した場所が数か所に限られる。おそらくタイ全土には知られているものだけでも700か所以上はあると思われる。また、岩盤に彫られた仏足跡も数百年の歳月の間には度重なる洪水被害にあい、埋没してしまったものも多いと考えられる。今残っている物はほとんどが山の上の岩盤など洪水被害の影響を受けないものである。

私の今回の主な旅行ルートはサムイ島⇒プーケット島⇒クラビ⇒タクアパ⇒ラオス・ビエンチャン周辺である
。南ラオスのパクセーとワット・プーにも行きたかったがプーケット島で海に滑り落ち負傷するというアクシデントに見舞われ実行できなかった。ラオスにだけは何とか行きたいと思い9月12日にプケーットからビエンチャンに飛び、ビエンチャン周辺の4か所の仏足跡を探訪したが、体力の限界を感じ、やむなく9月15日にバンコクに引き返し、数日休養をとった(身動きできなかった)のちに20日にはカンチャナブリニ往復するのみであとはバンコクで博物館などの件が国費やした。その後何度かタイに出向き、かなりの仏足跡の写真を撮った。

その間、書籍を数冊買ったがそれが重くてリュックサックのひもが引きちぎれそうであった。持って行ったキャスター付のカバンはキャスターのゴムのリングがすり減ってうまく転がらなくなってしまった。本を買うのはもうコリゴリだと思いながら9月21日何とか東京に舞い戻った。

旅行開始

9月7日早朝7時バンコク発の飛行機でスラタニに向かう。前日の6日には携帯電話が故障し、やむなく新品(2200バーツ)に切り替えた。故障を早く発見して不幸中の幸いであった。今回の旅は「不幸中の幸い」が何度も起こるというツキがあるようでないような不思議な旅であった。事前に警戒していたので最悪の事態を何とか免れた。タイでは携帯電話を所持していないとどうにもならない。バンコクの知人にも連絡が取れないし、日本に電話するのも容易でない。タイでは公衆電話はめったにないし、あってもしばしば故障している。

スラタニに8時に到着して定宿のWan Tai Hotelに向かう。今まで780バーツだったのが一挙に980バーツに値上げされていた。しかもシャワーに全室切り替わりバス・タブがなくなり、喫煙室もほとんどなくしたという。極めてサービスの悪いホテルに生まれ変わってしまった。受付の小太りの男の対応がつっけんどんで初めから不愉快であった。

チェックインして町中にあるサムイ域のフェリー運航会社(SEATRAN FERRY)の事務所に行く。そこからバスで船着き場まで行き、その会社のフェリーに乗るという仕組みである。9時36分についたが9時20分にバスは出てしまい、次は10時20分でフェリーの出発は12時、サムイ島着は午後1時30分ということになってしまった。サムイ島からスラタニへの帰り船は午後6時である。現地では3時間しかない。料金はバス代込で片道250バーツであった。ドンサク(Donsak)港までバスで1時間弱かかる。フェリーは大型で自動車兼用である。(当時1バーツ=2.5円)
 


これはこの仏足跡のお堂の門番です。お賽銭を上げるのを失念してしまいました。後のタタリが確かにありました。

左上の写真のように潮風に吹かれてデッキでくつろぐのはいい気分だが(一人旅のワビシサが漂うが)、これも天候の良い日にかぎられることは言うまでもない。フェリーを降りるとタクシーが待ち受けている。ボスのような人物にバタフライ・ガーデン近くの仏足跡に行きたいというと片道500バーツ、往復1000バーツという。これは観光客と見て特に吹っかけた金額でもなさそうで行先ごとの料金表がある。またタクシーの運転手の順番も決まっているようで、20代と思われる英語がある程度分かる運転手が出てきた。

さっそく出かけるが道は舗装されていた。ただし両側の民家や商店はタイの田舎町と変わらない。30分ほどで目的地に着く。小高い山の上に仏足跡の小屋があった。これは最近作り替えたもののようで地図には4段(Si Roi)の仏足跡という表示があった。以前のものは足の指のところが1段になっていたのかもしれない。Wat Phutthabat Khao Le (レー山仏足寺)が正式名称である。若い白人の男女2組がオートバイに乗って見物に来ていた。タクシーは山のふもとで待っていて港に帰ってから料金を支払う仕組みである。

この仏足跡は先端部分に3本マストの大型帆船の絵が描かれている。これは原始的なものから何度か作り替えられたのちに大型化されたが、昔のじデザインであったはずで、船乗りが安全祈願をした場所なのであろう。スラタニのカンチャナディットの仏足跡も山の上部にあり(今回は行かなかった)、9日にいったクラビの虎洞窟寺院は1237段の石段を上がった山頂にあり、仏足の先端ははるかかなたのアンダマン海の方向を指していた。この辺の仏足跡は航海者もしくは商人たちが航海の安全を祈願したのであろうという松久保先生のお説は頷ける。もちろん内陸にも多くの仏足跡があり、それは付近の商人や農民の仏教信仰の対象として作られたものであろう。

サムイ島にはそのほか2基の仏足跡があるが、いずれも比較的新しいものなので今回は見学に行かなかった。天気模様が怪しくなってきたので4時のフェリーに乗ってスラタニに帰った。スラタニの町も雰囲気が悪くなっている。モーター・サイ(オートバイ・タクシー)に乗ったがホテルまで100バーツなどといって吹っかけてきた。50バーツで折り合ったが感じの悪い運転手であった。ワン・タイ・ホテルの晩飯は安くてうまい。しかし、ローカルの客に占領されていて彼らのマナーの悪さには参った。子供がレストランの中でか走り回っているのである。これではバンコクの日本人会のレストラン並みである。日本人の母親も子供のしつけなどには関心がないらしく、やりたい放題やらせておく。

9月8日は10時半のバスでプーケットに向かう。所要時間は4時間といわれているが実際は6時間近くかかった。夜にはプリンス・オブ・ソンクラ大学のプーケット分校で日本語講師をしておられる小山直之先生(年齢40歳)がホテルまで来てくれて今後の行動予定の打ち合わせ。彼は若くてはつらつとしており、私とは生きの良さが全然違う。

クラビの1237段の石段で体力の限界を知る


9月9日は朝からクラビの虎洞窟寺院の仏足跡を見に行く。見上げると高い山の頂上にストーパが見える。その傍らに仏足跡がある。しかし、その間には1237段の恐るべき石段が待ち構えていた。のぼり初めて100段ぐらいで息がゼイゼイして足が上がらなくなってしまったが手すりで92Kgの巨体を引き上げて何とか頂上に達した。小山さんには先行してもらったが余裕綽綽といた感じであった。下りも難行苦行であった。

(猿がペットボトルの水を恵んでくれる)


のぼりもきつかったが下りも大変であった。最後の200段目くらいで動けなくなり、踊り場で腰かけてゼイゼイ言っていると後ろから小型の水入りペット・ボトルを投げ込んでくれたヤツがいた。誰だろうと振り返ると誰もいない。10匹ほどのサルの群れが欄干などに掴まてこちらを見下ろしている。水を恵んでくれたのはこのサルのボスであろう。この話あまりにミットモナイので数か月伏せていたが、実際にあったことなので書いてしまった。しかし、その水は飲まなかった。サルに同情されたのは生まれて初めてである。こいつはイケネエと気を取り直して無事下山し、小山氏にさっそく水を買ってきてもらい、一気に飲み干した。

この時の体力の全面的消耗がその後の行動に大きく影響した。要するに足腰ガタガタ状態がその後10日間も続き、ケオ・ヤーイ島では滑って海中に落っこちるというわが人生最悪の失態を演じてしまった。



左が仏足跡。中央が7日にサムイ島行きのフェリーのデッキで、いい気持ちでくつろいでいた私が1237段の石段を1時間かけてやっとのぼり、息も絶え絶えという情けない有様であった。自らの選択とはいえ、運命は過酷である。しかし、この仏足跡の写真が撮れたことで大満足である。右は3体の仏像越しに遠くにアンダマン海が見える。東西貿易の西側の港としてはタクァクアパとケダーが重視されているがクラビも古代から近重要な拠点であったことは言うまでもない。近くのクロン・トムではビーズ玉の加工も行われていた。

9月9日の第2の目的地はクラビに近いパンガンガ県のWat Tham Suwankuheという大洞窟寺院に行く。ここも虎洞窟(Tiger Cave)と称している。ここは平地にあり、安心である。洞窟に入ると金色の大涅槃像があり、その足元に仏足跡が置かれていた。全長2mほどである。表面には法輪と108の吉祥文様が描かれているが、さほど絢爛豪華なものではない。この形のものは2011年3月に松久保調査団が南タイのヤラで見つけたWat Khuhaphimukのものとよく似ている。




9月10日は朝からタクアパに行く。目的地はココ島である。この島とタクアパの間にはタクアパ川があり、波静かな良港である。西方からのインド、セイロン、ペルシャ、アラブなどの船舶はこの地に長期間停泊したものと思われる。ココ島の外洋はアンダマン海であり、波も高い。ココ島(Ko Kho Khao)もしくは隣接する小島のKhao Ko Lanは漢籍(『新唐書』)では哥谷羅と呼ばれていたものと思われる。哥谷羅は箇羅(ケダ)と同列に扱われる国際商業都市国家である。『新唐書』に箇羅と哥谷羅が西海岸の主要港として記載されているがタクアパに相当する地名は書かれていない。むしろ哥谷羅のほうが中国に出入りしている商人や船乗りの間では有名だったのであろう。

島の南端に近い部分にはトゥン・トゥク(Thung Tuk)と呼ばれる地域があり、ここにインド商人は住居を構え、倉庫を備え、かつヒンドゥー寺院もおいていたものと思われる。いわば貿易商人の集落である。ペルシャのツボの陶片もあった。過去Q.H.ウェールズ以下が数次の発掘をおこない、最近はFine Arts DepartmentのCaptain Boonyarit氏がレポートを発表している。


上の図は小さくて見にくいが左がココ島でその中の○印がトゥン・トゥク(Thung Tuk)で島の交易・商業センターであった。対岸のタクアパとの間の水路が波静かな停泊地であったものと思われる。外国船からの積荷はThung Tuk で取引され、その後小舟でタクアパに運ばれ、さらにチャイヤー方面に運ばれたものと思われる。上の地図の右隅あたりにインド人などのコロニーがあったと考えられる。

当日はタクアパ川のフェリー乗り場についたら船頭が1時間は出発しないというのKhao Ko Lanという小島にボートでいってみることにした。これが哥谷羅と呼ばれる場所だったのかもしれない。タクアパ側に張り付いたようなハート型の小島で現在はほとんど人は住んでいないが昔は有力な中継地点であり、小高い丘にはヒンドゥー寺院があった。途中の小屋の近くでは今でもきれいな真水が湧き出る井戸がある。井戸の存在というのは当時は大変重要でペルシャの大壺にいれて帰路に備えて事であろう。コバルト・ブルーの大壺は大変な貴重品であるが当時は船員の飲み水の入れ物だったのである。島ではボートの運転手が案内をしてくれた。往復600バーツ。

またタクアパ側にもどったら先ほどのフェリーは1往復して戻ってきていて出発は1時間後だという。料金は乗用車1台片道150バーツ(400円)である。フェリーは満車になるまで出ないので結局1時間半も待たされた。向こう側につくと舗装された立派な道があり10分ほど走るとThung Tukの遺跡につく。遺跡の入り口にはコンクリートのきれいな建物があり、中にはパネルのみが展示されている。小山氏が携帯で管理人に連絡すると数分でオートバイにのった中年婦人がやってきてカギを開けてくれた。お礼に100バーツ渡す。遺跡は整備されていて車で1周する。途中でペルシャ陶器と宋磁の茶碗の破片を拾う。

帰りのフェリーでまた1時間ほど待たされて、遅い昼飯を食べてからカオ・プラ・ナライ(Khao Phra Narai)の遺跡に向かう.。そこはタクアパ川の上流で今は途中まで立派な舗装道路がある。そこにはヴィシュヌ神ともう1体がガジュマロの木のようなものに取り巻かれていた。それが下左の写真のようにプーケットの博物館に持って行って展示してある。左側の像の顔が無残にも切り取られている。これはフランス人の仕業だとされている。

そこからしばらく行ったところに
Wat Narai Nikaramという古い寺院がある。別名Thep Narai Phon Museumと称する小型博物館にもなっている。そこにはヴィシュヌ神などのレプリカが飾ってあり、壺が多数並べられていた。一歩外にでると、小型の仏足石が安置されている。岩に掘られた古式ゆかしいものである。ここの膨大な壺は水をいれてインド商人が帰路の船中で使ったものであろう。



プーケット沖合の小島で海に転落


9月11日にはプーケット島の沖合のKo Geaw Yai(ケオ島)にいった。天気が悪かったのでやめよう思っていたが午後から晴れ間も見えてきたので思い切っていくことにいた。途中で小山先生の教え子でこの辺の仏足跡の研究をしているというライト君(タイ人)が合流した。浜につくと若い白人の男とその彼女(タイ人)も一緒に行くという。ボート代は往復1000バーツであった。海に出ると波が高く船はピッチング状態になった。島に着くと海に降りなければならず、膝から下はビショ濡れになった。

島には小さな寺がありヒカラビたような老僧などがいた。案内役のライト君はわれわれをその老僧の前に連れて行き10分ほどわけのわからない説教を聞かされた。その時にお布施を出しておけばよかったが早く仏足石をみたいばかりにお布施は省略した。海際の岩場に仏足石はあった。そこへ近づこうとしたら通路の岩場から私は不覚にも海に滑り落ちてしまった。左の耳と側頭部が切れかなり出血した。その時カメラとメガネを紛失してしまった。下の写真は同行の小山先生が撮影したものである。彫りの浅い仏足石であった。

急いで本島に帰り、プーケット・インターナショナル・ホスピタルに行き耳と側頭部の裂傷を20針近く縫った。レントゲンも正面と側面の2枚撮ったが骨には幸い異常がなかった。抗生物質と痛み止めの薬を1週間分もらった。全部で8,200バーツとられた。これは帰国後保険でカバーされることとなった。病院には日本人女性がお世話係でいた。明日はビエンチャンに行くといったら朝早く来て傷跡のチェックをしてから行けと言われた。





ラオス、ビエンチャンに向かう


9月12日朝4時に小山先生が迎えに来てくれた。そのまま病院に行き、飛行場に直行した。朝7時発のバンコク行きのタイ航空に乗り、11時45分のビエンチャン行に乗り継いだ。ビエンチャンには永星通商の瀬浦社長と、私の東洋大学時代のゼミ生の小井土敦君が出迎えてくれた。頭のキズは多少痛んだが大したことはなかった。後頭部と首筋が少し痛んだがこれは海に落ちた時の衝撃で軽い鞭打ち症状が出たものであろう。


9月13日朝から小井土君が迎えに来てくれる。永星通商の車を出してくれる。ありがたい。さっそく出発である。第1の目的はビエンチャンから約80KmのWat Pabat Phonesoneである。ここはラオスでも最も知られた仏足跡のあるお寺である。道中ほとんどほとんどが舗装されていて1時間半ほどで到着した。仏足蹟は風呂桶のようにそこが深く、金色の枠がかけてあった。こういう金網はタイではあまり見かけない。お賽銭泥棒よけとあh思いたくないが、そうかもしれない。


この寺は古いので近くの岩盤に彫りこまれた仏足石があるかと思って探したが見当たらなかった。




上の写真は途中にあった永星通商の木炭工場である。カチカチの黒ダイヤのような「備長炭」が作られていた。永星通商は原料木を切った後にはすぐに植林を行い5〜6年もするとそれが成長し、再び木炭の材料になるという。瀬浦社長が先頭に立って地元の農民とともに原料木の苗木を植林している。私も工場の近くで「記念植樹」を行ったがそれは残念ながらココナツの苗だった。もっと山奥から原料木は切り出されてくる来るという。こういう環境に配慮した事業は当然のことながらラオス政府からも支持されている。

某日系製紙会社が広大な面積にユーカリの植林をしたが、木が育って伐採しようとしない。採算が合わないらしい。ユーカリ木は周りの栄養分を吸って急速に大きくなるが、後は不毛の地になるということでラオスの人たちは心配している。これはタイでは前々から問題になっている。

次に向かったのがビエンチャンから65Km離れたWat Pabat Houa Kaoという山村の谷川のほとりにある、仏足石であった。国道から離れると未舗装道路で途中では中学生や寺の少年僧が道の草を伐採していた。たどり着くと岩場の底に仏足石はあった。谷川では少女たちが衣服をまとったまま水遊びをしていた。



写真を撮り終わり帰る段になり川沿いの道に足を1歩踏み出した途端に足元の岩に滑って私は川に転落してしまった。今回2度目の水難であった。今回は予備のカメラが水につかり使えなくなってしまった。幸い中身のチップは無事だった。これから先は写真が撮れないと思って途方に暮れているとカメラの達人の小井土君が予備の小型デジカメを貸してくれた。持参したカメラを2台ともダメにするとはドジな探検家である。この時ばかりはいささか自己嫌悪に陥った。上の写真は」自己嫌悪」に陥る前のノンキな表情が写っている。左の女の子は数名で水遊びをしていた一人である。まことに屈託のない笑顔であった。

9月14日はWat Pabat Phong Kongへと出かけた距離はビエンチャンから50Kmほどだが何しろ道が悪い。この寺は将来ラオス佛教大学が建設されるという。敷地は広々としていて自然環境は抜群である。立派な涅槃仏もあった。


これで本当はおしまいにしたかったが、ビエンチャンまで仏足跡を訪ねてくる機会はあまりないのでもう1か所行くことにした。Wat Pabat Oell Kantである。運転手は途中メコン川の支流を渡しのフェリーで横切れば大した距離ではないという。確かにビエンチャンからは50Kmとある。そこで渡河作戦を実行した。車1台で満杯である。作戦は上々であったが全ての道路が未舗装で自動車は時速10Km位でしか走れない。行けども行けども目的地は見えてこない。



ようやく到着したら近所のおかみさん連中が集まって食事の支度をしていた。かなり広い敷地で周辺の人口もそこそこ多いらしい。日本から仏足跡を参拝に来たといったらリーダーのおかみさんがご苦労様といいって現場まで案内してくれた。最後は小井土君と並んでビエンチャンの仏足跡探訪の旅が終わったことを仏様に感謝した。小井土君の凛々しさに圧倒された。好漢の将来に幸あれと祈った。頼もしい若者である。

本当は南のパクセーやワット・プーにも行きたがったが、さすがに今回は1237段の石段とプーケットの転落事故で疲れ果て15日にはバンコクに戻った。バンコクは雨期で夕方から豪雨であった。バンコクでは疲労のため3日間ほど身動きが取れず、19日になってようやくカンチャナブリまで日帰り旅行を試み若手の歴史家のBoonyaritさんに面会を果たした。ブンヤリットさんはココ島発掘のレポートを最近本にまとめた。非売品のその貴重な本を1冊頂戴してきた。タイ語と英語で書かれたその本は秀作である。