室利仏逝(シュリヴィジャヤ)考

本文は財団法人「日本タイ協会」の機関紙「タイ国情報」2008年5月号に掲載され論文に加筆・修正したものです。               

 
(要約)

シュリヴィジャヤといえばスマトラのパレンバンというのが通説であり、ほとんどの歴史書にそのように書かれている。それに異を唱えるなどということは「異端者」扱いされかねない。しかしながら、なぜパレンバンなのかということについての根拠は意外に薄弱である。

本稿は筆者が長年東南アジアの経済を研究する中で、「古代東西交易史」の部分を著書として
20081月に出版した『シュリヴィジャヤの謎』の要約と解説である。結論としては義浄(ぎじょう)のいう「室利仏逝」はスマトラ島のパレンバンではなくタイのバンドン湾のチャイヤーであったというものである。しかし、室利仏逝はその後、想像を絶する歴史的展開を遂げた。

シュリヴィジャヤは元を辿れば「扶南」王朝に源を発する。扶南の王統は北インドのガンジス川流域の王族をから出発していると考えられる。彼等は始めはバラモン教徒であったが、後に大乗仏教を信仰するに至った。その後のシュリヴィジャヤの歴史を辿ると、支配者・王統をつなぐ「タテ糸」は大乗仏教であった。

扶南の王統は新興勢力「真臘(しんろう=チェンラ)」に追われ「盤盤(バンバン)」にのがれそこの支配者となる。「盤盤」は現在のタイのバンドン湾を中心に栄えた貿易王国であり、その首都はチャイヤーであった。

「盤盤」はマレー半島の中央部のケダとケランタン、パタニ、ソンクラを結ぶ「赤土国」(隋時代の代表的朝貢国)を支配下に治め「室利仏逝」国と改名して唐王朝に入貢する。すなわち、室利仏逝はタクアパ⇔チャイヤーを結ぶマレー半島横断ルートに加え、南のケダ⇔ケランタン、パタニ、ソンクラを結ぶルートを併合してできたマレー半島の「統一国家」になったのである。

室利仏逝はさらにマラッカ海峡を南下し、スマトラ島東部の諸都市の支配とジャワの訶陵の制圧を目指した

「室利仏逝」は中部ジャワを本拠とするライバル国の「訶陵」(前期)を支配下に治める。その遠征の過程で末羅瑜(ムラユ)国、ジャンビ、パレンバンを制圧し自国の属国とする。パレンバン、ジャンビ、バンカ島に征服の過程を物語石碑を残す(680年代)。

その間に750年頃室利仏逝(742年が最後の朝貢記録)は首都を南下して来た「真臘」に占領されてしまう。

仕方なくシュリヴィジャヤ王統は本拠を中部ジャワに移し、「訶陵」(後期)の名前を使って朝貢を続ける。彼等は主にジャワ人からなる大海軍を率いて北上し、ナコン・シ・タマラート、チャイヤーを真臘から奪還し、チャンパ(林邑)も征服する。(770年頃)

この王統は「シャイレンドラ」王朝と称し、大乗仏教寺院であるボロブドゥール寺院を建設する。

その後、9世紀初め頃にシャイレンドラ王統は先に中部・東部ジャワを支配していた「サンジャヤ王統」に敗北し、もと来た道のスマトラに追われる。マラッカ海峡の旧シュリヴィジャヤの城市は連合して「三仏斉」として朝貢を続ける。おりしも唐末(904年)であった。

三仏斉の構成メンバーは「パレンバン」、「ジャンビ」、「ケダ(カダラム)」であった。当初はジャンビがリーダーシップを握っていたが11世紀には「ケダ」が中心となる。三仏斉の語源は「三つの仏斉国」というのがおそらく正解であろう。

北宋時代が三仏斉の黄金時代であったが、後に南インドのチョーラ王朝に占領され、朝貢権を奪われる。チョーラも三仏斉の名前で朝貢する(三仏斉注輦)。しかし、チョーラは内紛のため三仏斉の支配権を失う。

南宋の時代になると朝貢制度が廃れ「市舶司制度」が整備される。これは輸入貨物に関税を賦課し、市場に販売させるという「近代的」な制度であり、「朝貢儀式」などという余計な手続きを介さない取引である。

そうなると東南アジアからの朝貢貿易の独占を目指した三仏斉の存在意義は消滅する。

明時代は初代の洪武帝時代に一時朝貢制度を復活させ、三仏斉の名前もあがるが、永楽帝以降再び、朝貢制度は消滅し、名実ともに三仏斉は消えていく。

 

ことの始まりは、唐時代の高僧義浄が仏典を求めて海路インドに赴いたときの記録『大唐西域求法高僧伝』および『南海寄帰内法伝』である。671年冬、義浄は波斯(ペルシャ)船に同乗して広州から20日間の船旅で最初の寄港地「室利仏逝」(シュリヴィジャジャ、室利はSri、仏逝はVijaya)というところに到着した。

そこは仏教のメッカともいうべき北インドのナーランダ寺院に匹敵するような大乗仏教の一大拠点があり、
1,000名を越える仏僧が修行をし、仏教の哲理を学んでいた。学問的レベルはきわめて高いものがあり、義浄はそこに6ヶ月間滞在しサンスクリット語を勉強する。

義浄は室利仏逝がすっかり気に入ってしまい、中国からインドに仏教留学するものはそこで
12年予習してからインドに行ったほうがよいというアドバイスを後輩のために書き残している。

なお、私が室利仏逝の前身と考える盤盤(チャイヤー)について『通典(唐時代の)』には「又其国多有婆羅門、自天竺来、就王乞財物。王甚重之。」とあり、さらに「有僧尼寺十所、僧尼読佛経、皆肉食而不飲酒。亦有道士寺一所、道士不飲食酒肉、讀阿修羅王経、其国不甚重之。」とあり、すでに10箇所もの僧院が存在し、さらにハイレベルの仏教研究をおこなう「道士の寺」があったたとされている。

これらの寺院群には当時すでにかなりの数の仏僧がいたことを物語っている。他の国についてはこのような記述は見られない。義浄はここ(旧盤盤)に赴いたものと思われる。ほかに仏教関連の学習に適したような場所は当時は見当たらない。

次に、義浄は末羅遊(ムラユ)に向かう。大乗仏教徒である室利仏逝王は義浄を厚遇し、自分の船で末羅遊まで義浄を送り届ける。末羅遊も特定できないがジャンビの近くのリアウ諸島の貿易港であり、室利仏逝とは友好関係にあったと考えられる。

義浄は末羅遊に
2ヶ月ほど滞在し(たぶん風待ちのため)、次に
羯茶(ケダ)にむかう。そこは現在のマレーシア領のケダ州である。ケダにはインド方面との最大の貿易中継港(ターミナル)があり、同時にヒンドゥー教や仏教の遺跡が多いことで知られる。現在はマレーシアのスンゲイ・ペタニ市の郊外にレンバ(渓谷)・ブジャン考古学博物館があり、そこには膨大な出土品などが陳列されている。

義浄は羯茶から北上し裸人国(ニコバル諸島のどこか)を経て、当時ベンガルの主要港であった耽摩立底(タムルク=カルカッタの近く)に向かう。義浄はガンジス河の中流にある仏教の聖地ナーランダに赴き、そこを中心拠点として仏典の収集や経典の学習などを行い、約10年間を過ごすのである。

それから同じルートで帰国するが、再び末羅遊についたとき(
687年)そこはすでに室利仏逝に併合されていた。義浄は再び室利仏逝に長期間滞在し、仏典の翻訳などを行い、最終的に広州に戻ったのは則天武后の長寿2年(693年)のことであった。

 

問題は義浄が最初に立ち寄った室利仏逝の所在地である。通説ではパレンバンということになっているが、そういわれ始めたのは19世紀の末からである。影響力のある出版物の形で最初にパレンバン説を唱えたのは、日本人の仏教学者で後に文化勲章を授けられた高楠順次郎博士(18661945年)である。高楠博士は義浄の『南海寄帰内法伝』を英訳し1898年オックスフォード大学から出版したのである。

日本ではあまり知られていないこのテキストが欧米の研究者には大変重要視されてきた。その本の中に高楠博士は義浄の旅程を記入した1枚の地図を挿入している。それは義浄の原文にはないものであが、その地図には義浄が行った室利仏逝がパレンバンだと明記してあるのである。室利仏逝についてはローマ字で「Sri Bhoga」と書き込まれている。当時は「仏逝」をどう読むべきかわかっていなかったのである。

高楠博士が室利仏逝をなぜパレンバンに特定したかは根拠不明である。しかし、日本の仏教学者の言うことに間違いはなかろうという「思い込み」が欧米の学者の間に広まってしまった。現在でもこの著書は欧米の東南アジア史研究者にとっての必読書の一つに数えられているのである。

 

次にパレンバン説を裏付ける有力な物証(?)がパレンバン周辺で19世紀末から20世紀はじめにかけて発見された。それは古代マレー語で書かれた数点(1基はバンカ島)の石碑である。その解読にフランス人の歴史学者ジョルジュ・セデスが成功し、そこに「シュリヴィジャヤ」という文字を見出したのである。

それ以降「室利仏逝」は「シュリヴィジャヤ」と読むのが正しいということになった。石碑にはそこが昔から「シュリヴィジャヤ」であったなどとは書いてないが、シュリヴィジャヤの
ジャヤナシャ王(Jayanāśa の名前がでてくる彼は684323日付けの石碑を「植物公園」の開園を記念してパレンバン西方の郊外のタラン・トゥオ(Talang Tuwo)という場所に立てている。この果物を生産する植物園は被征服地の住民への慰撫のために造られたものと考えられる。

碑文の解読に大きな貢献をしたセデスは次に「パレンバンこそがシュリヴィジャヤの首都であった」という説を発表したのである。セデスの論拠はパレンバンはマラッカ海峡とジャワ島のスンダ海峡の中間に位置する貿易の「中継センター」であり、パレンバンはシュリヴィジャヤの中心として500年の繁栄を遂げたと主張する。

このセデスの説が半ば「定説」化して今日にいたっている。しかし、セデスの理論はあくまでセデスの頭脳の中で考えられた「仮説」に過ぎず、以下にみるごとく事実関係を正しく反映したものではない。

 

義浄は『大唐西域求法高僧伝』の中で「室利仏逝」に広州から20日間で到着したと記述している。室利仏逝がパレンバンであるとしたら、ムシ河を100Km近く遡上する必要があり、たった20日間ではとても到達できそうもない。

また、室利仏逝には
1,000人の仏僧が修行する一大仏教アカデミーが存在したといっている。義浄の言うことに誇張がなければ、多くの仏教寺院群がそこには存在したはずだし、彼らの周辺には数万の農民・商工業者および常備兵からなる大都市・農村が存在したはずである。

しかし、パレンバンには多少の仏像は発見されてはいるが大寺院群の跡などもなく、周辺は湿地帯が多く、米作はあまり行われていなかったはずである。いわば「物的証拠」が皆無に等しい地域がパレンバンなのである。

ただ、シュリヴィジャヤの王族が建てた年代の近い数点の石碑(
682686年)が周辺から発見されたに過ぎないのである。石碑が作られた目的と内容の解釈がそもそも問題である。それは外部から征服者としてやってきたシュリヴィジャヤの王が自らの力(軍事力と霊的能力)を誇示し被征服民に「忠誠」を強要するという内容がほとんどなのである。

 

さらに重要な論点はパレンバンがセデスの言うように唐時代(618年から907年)に東西貿易の中継港として栄えたかという問題である。

セデスはスンダ海峡の役割を重視しているが、ベンガル湾を横切ってスンダ海峡を抜けるというルートは当時のインド方面からの大型貿易船はほとんど使わなかった。おそらく海が荒れたのと、当時としてはジャワ島が貿易上さほど重視されていなかったことによると考えられる。こういう事情は後の15世紀末以降の「大航海時代」とは著しく異なるのである。

当時の南インド・セイロン方面からの貿易船は夏季の偏西風=季節風(モンスーン)に乗ってベンガル湾をほぼ真東に横切り、スマトラ島の北方海上を経てマレー半島の西岸の港に到着した。そのうちの主な港はプ-ケット島のやや北方のタクアパやペナン島に近いケダが知られている。もちろんその中間に位置するクラビやトラン港も使われていたし、ペナンより南のタイピンあたりにも寄港地は存在した。

インド方面から来た船がさらに中国方面に向かおうとすれば、マラッカ海峡を南下し、マレー半島の先端を迂回して南シナ海を東北に向かう必要があった。しかし、夏季にマレー半島に到着した船は、マラッカ海峡では南西風が吹いていて、それが逆風になるため、冬季の北東風が吹くまで、風待ちが数ヶ月(4-6ヶ月間)必要だったのである。

また、マラッカ海峡は海賊が出没する海域として恐れられていた。ようやくマレー半島の先端(ムラユ地域)にたどり着いても、中国方面に向かうには、そこでまた数ヶ月夏風を待たなければならなかった。このような非効率を避ける方法を古代からインド商人は熟知していた。それはマレー半島を横断する通商路の開発である。それを最大限以利用したのは次にみる扶南と盤盤(ばんばん=チャイヤー)であった。


(扶南の興亡)

古代からの貿易大国「扶南」はこのマレー半島横断通商路を多用した。扶南は林邑(チャンパ)と並んで三国志の時代、孫権の呉国に朝貢を開始(243年)して以来、歴代王朝に入貢してきた。いわば「朝貢貿易」の老舗である。扶南には北インドからやってきた混填(カウンディニヤ)というバラモンが現地の支配者の王女「柳葉」と結婚して初代の扶南王となったという伝説が残されている。

その後
4世紀の中ごろには憍陳如(こちらもカウンディニヤ)というバラモンがやってきて扶南王朝を継いだ。彼らはタクアパに上陸しマレー半島を横断し、盤盤国からタイ湾を渡り扶南に行ったといわれる。盤盤国は現在スラタニ市があるバンドン湾に位置する貿易国であり、当時はチャイヤーが中心であった。

扶南の貿易港として有名なオケオ(現在はベトナム領)はチャイヤーからほぼ真東にタイ湾を横切ったところにある。当時は南インド・セイロン島(現在はスリランカ)からやってくるインド商人の船はタクアパで積荷を降ろし、盤盤まで陸送し、さらにそれをオケオまで運ぶか、あるいは直接中国まで輸送したものと考えられる。

タクアパ⇒チャイヤー間の陸送の距離は
100Kmほどであり、象や牛車で峠を越え、途中から川を利用したりすれば早ければ1週間か遅くとも10日間程度で盤盤まで運ぶことができ、そこから再度季節風にのり東へと船で向かったと考えられる。

その当時から扶南は「タクアパ⇔盤盤(チャイヤー)」のルートを支配下においていたことは間違いない。そうしなければ扶南にとって西方の財貨の安定的な確保が難しく、貿易大国の地位を守れなかったからである。『梁書』によれば范蔓(はんまん)という将軍が扶南の実権を握り王位に就くが、彼は大型の手漕ぎ船(長さ20m超)からなる海軍を率いて周辺の貿易港を武力で制圧し、貿易権を確保したと伝えられている。

その場合重要だったのはマレー半島の両岸とビルマ側のテナセリムやタボイといったインド船が入港する主要都市(十余国)であった。この范蔓の軍事行動によって扶南の貿易上の優位はゆるぎないものとなった。いわばインド方面からもたらされる貴重な貿易商品をほぼ独占的に入手することができるようになったのである。

 

ところが、扶南は内陸部のシェムレアップ付近の属領「真臘(しんろう=チェンラ)」の台頭により、メコン・デルタ地帯から追い出されてしまう。扶南王朝は真臘と婚姻を通じて親類関係にあった。真臘は内陸の水田地帯を領有としており、人口も多く、国際貿易国家ともいうべき扶南を武力において凌駕したものと思われる。真臘は扶南王朝が信仰していた大乗仏教を追放してしまい、バラモン教中心主義を採る。

扶南は陳王朝の572年を最後に朝貢を中断し、次の隋王朝には一度も入貢していない。真臘は隋の最後の616年に始めて入貢する。これは扶南王朝が570年代以降に真臘に滅ぼされたと解釈されるべきである。ところが唐王朝に入り、武徳年間(61826年)と貞観年間(62749年)に再び扶南が入貢したと『新唐書』に書かれている。これについて桑田六郎博士は間違いだと断定される。桑田博士は扶南は真臘に滅ぼされ、歴史上消滅したと主張される。(『南海東西交通史論考』汲古書院、平成5年刊)

 

(扶南王朝の盤盤国への亡命と室利仏逝の成立)

扶南の隣国の盤盤は歴史的に扶南の属領であり、王族間の婚姻関係もあったものと考えられる。真臘から追い出された扶南王家は盤盤に移動(あるいは亡命)して朝貢貿易を続けたと考えてもおかしくない。「陸の王者」の真臘は当初海軍力をほとんど持たず、扶南の王族を盤盤まで追尾できなかったであろう。

扶南は盤盤の港を使って、唐王朝に入貢したという可能性は大いにありうるのである。唐王朝もそのこと自体を咎めなかったであろう。

その間、盤盤も独自に朝貢を継続している。しかし、盤盤は唐の永徽年間(650655年)を最後として朝貢をやめてしまう。その直後の670年頃(咸享年間670673年)に室利仏逝が出現し、初めて入貢する。いわば、盤盤の後継国として室利仏逝の名前が浮上したと考えられるのである。なぜ、盤盤から「室利仏逝」への転換がおこなわれたかというと、それは扶南王朝(盤盤王族との連合体)が勢力圏をマレー半島の南部にまで拡大し、ケダとケランタン、パタニ、ソンクラなどを結ぶ隋時代の「赤土国」(拙著『シュリヴィジャヤの謎』の中でいう「B-ルート」)の領域を支配下におさめたためではないかと思われる。

 

「赤土国」を占拠したとなると「盤盤」という看板で入貢を続けられなくなったのではないかと思われる。中国の王朝は朝貢国同士が争うことを原則的に認可しないという方針をとっていたからである。それは朝貢にくる国は中国にとってはいわば属領ないしは保護国であり、国王や使節には「xx大将軍」といったような形式的な官職さえ授けているのである。そういう国同士があい争うなどということは本来許されないし、中国の王朝に対する反逆行為になりかねない。ただし、入貢国同士が平和的に「連合体」を組織して入貢する(という建前を維持する)ことは特に問題視されなかったものと考えられる。

 

672年に義浄が「羯茶(ケダ)」に立ち寄ったときはすでにケダは「室利仏逝」の一部(属領)になっていたのである。セデスはケダについてはそういう義浄の記事に気づかず、逆にパレンバンが後からケダ征服したと考えていた。

このころ「室利仏逝」はケダを拠点としてマラッカ海峡の交易路を事実上支配下に置き、さらに交易上のライバルの「訶陵(カリン)」というジャワの交易国を支配下に置くべく準備をしていたものと思われる。当時のケダには多くのヒンドゥー、仏教寺院が存在したはずであるが義浄はそれについて一言も触れていない。すでに義浄が訪れた室利仏逝は当時のケダをはるかにしのぐ仏教寺院が存在したためであろう。それはマレー半島ではチャイヤーでしかありえなかった。そもそも「チャイヤー」というのは「ヴィジャヤ=Vijaya」が訛った言葉なのである。

義浄が672年に羯茶の前に末羅遊(ムラユ)に立ち寄ったとき、そこは室利仏逝の友好国であり、そこに王の船が自由に出入りするような関係にあった。換言すればケダを室利仏逝が抑えているため、ムラユの支配者も逆らえなかったと見るべきであろう。

 

しかし、パレンバン郊外のクドウカン・ブキットで発見された碑文(682年の年号)によれば室利仏逝はパレンバンをまず占領し、そこを基地にしてムラユ周辺の大国ジャンビを陸と川からせめて制圧した。周辺からはそこの住民に忠誠を誓わせる文言を古代マレー語で記した石碑も出ている。さらにはパレンバンに近いバンカ島で発見されたコタ・カブール碑文(686年)には、ジャワ遠征軍の派遣が記されている。この時期、室利仏逝はスマトラ、ジャワ方面に勢力拡大を行っていたことがうかがわれる。

扶南王朝は真臘にメコン・デルタを追われると、すぐにパレンバンに逃れ「室利仏逝」を建国し、そこから680年代に隣国ジャンビを攻め、ついでバンカ島を前進基地にして西ジャワを攻めたというのがセデスの考えたシナリオである。それがいわば「定説」のごとき取り扱いを1世紀近く受け、今日に至っている。

こういう歴史の見方(いわばパレンバン史観)が、東南アジア古代史の研究を大きく歪めてきたことはいうまでもない。パレンバンとは歴史上の大貿易国家であったというよりは「海賊の巣窟」といったほうがより適切な表現であろう。そもそも唐以前においてパレンバンが中国に朝貢した実績は皆無である。

室利仏逝をパレンバンだと解釈して初めて朝貢が行われたということになるのだが、パレンバンの位置がマラッカ海峡からかなり外れており、唐以前の対中貿易の中継点と考えるのは合理性に欠ける。

ただし、680年半ば以降は室利仏逝の版図に組み入れられて、室利仏逝の支配下の「14城市」(新唐書)の一つに数えられていたことは事実であろう。『新唐書』の地理の部で賈耽(かたん)がシンガポール海峡から5日で室利仏逝にいけるというのはスマトラの東南部が680年代に室利仏逝に併合されており、あながち間違いとは言い切れないが、
パレンバンが室利仏逝の「首都」などということは、地理的にみても僻地でありおよそありえない話である。

 

(室利仏逝はジャワ島を制圧するが真臘にチャイヤーを占領される)

室利仏逝がケダを前進基地としてマレー半島の住民からなる大軍を擁してマラッカ海峡からパレンバンとジャンビ、さらにはジャワ島にまで版図を広げる中で、もともとの首都であった盤盤(チャイヤー)が真臘に攻撃され、奪取されるという事件が勃発したと考えられる。というのは室利仏逝が742年を最後に突如朝貢をやめてしまったからである。

室利仏逝の版図が最大限に広がった時期の出来事であり不可解な事態である。室利仏逝が兵力を南方に集中している間に肝心の首都チャイヤーの防備が手薄になった隙を真臘に突かれたとしか考えられない。742年以降は「陸真臘」が750年に一度だけ入貢し、しばらく島嶼部界隈からの朝貢は途切れる。その間、745年から762年までは波斯(ペルシャ)と黒大食(イスラム・アラブ)が計10回入貢する。

 

そうするうちに、666年から朝貢を中断(おそらくシュリヴィジャヤの侵攻を受けて)していた訶陵が768年に突如朝貢を再開する。その間100年以上の歳月が流れている。

前の訶陵と後の訶陵は主権者が異なることは明白である。前の訶陵は義浄によれば室利仏逝に対抗する2大貿易国であった。訶陵というのはインドの東海岸の「カリンガ」から来た名前であり、唐時代の初期には中部ジャワを拠点に朝貢貿易を営んでいたものと考えられる。国王の名前は明らかではないが、後のサンジャヤ王朝の祖先たちが支配者であったと考えられる。

彼らは室利仏逝というこれまたインド(北部インドのガンジス川周辺の出身)系の王統の貿易大国から、現代風に言えば「業務提携」あるいは「企業統合」という形で朝貢貿易をやろうという室利仏逝からの平和的な誘い(?)を拒否してしまったものと思われる。

それでは武力で服従させようと、いわば「帝国主義的」に制圧にのりだした様子が上に述べた
バンカ島のコタ・カプール碑文(686に如実に語られている。その碑文には「ジャワが反抗的なのでこれから攻撃に遠征する。この地の住民はシュリヴィジャヤの代官(知事)の言うことをよく聞いて従順であれ。さもないと天罰が下るであろう」といった主旨の脅し文句めいたことが書かれている。同様の「脅し」の碑文はジャンビの近くにも残されている。

シュリヴィジャヤのジャワへの遠征軍がどのような戦果をあげたかは記録が残されていない。しかし、ジャワ島には後日シャイレンドラ王朝というシュリヴィジャヤ王統の国家が出現し、大乗仏教を信仰する支配者はボロブドゥール寺院を建設する。

ボロブドゥール寺院の建設は8世紀末から9世紀にかけて建設されたものと見られるが、ほぼ同時期にプランバナン寺院というヒンドゥー寺院も建設された。サンジャヤ王家はヒンドゥー教(シヴァ神)を信仰していた。

シュリヴィジャヤの大軍に恐れをなしたサンジャヤ系の「訶陵」国の王族は戦わずして降伏し、いわばシュリヴィジャヤに対し「臣下の誓い」をおこないシュリヴィジャヤの支配権を認めたうえで「共存」を図った公算が強い。サンジャヤ系は東ジャワ(スラバヤ方面)に本拠地を移動させたが、中部ジャワ(ジョクジャカルタ付近)に王族は居住し、シュリヴィジャヤ家との婚姻関係を結んでいたものと推測される。

 

(シャイレンドラ王朝は「訶陵」の名前で朝貢貿易を再開)

中部ジャワの支配権を確立したシュリヴィジャヤ(シャイレンドラ王朝)はマレー半島、マラッカ海峡、ジャワ島という広大な東南アジアの海域部(島嶼部)を支配下におさめ、この地域の中国への「朝貢貿易」の独占権をほぼ手中に収めた。

しかし、750年前後にシュリヴィジャヤの最初の首都であったチャイヤーを真臘によって占領されたままであった。同時にシャイレンドラ(ジャワ島)が一時的にシュリヴィジャヤ帝国の中心地になり、それが820年ごろまで続いたものと思われる。

そこで760年代の後半からシャイレンドラ王朝は遠征軍を派遣し、770年代の初めにはチャイヤーやその南隣のリゴール(ナコン・シ・タマラート)を奪回した。その戦勝記念碑ともいうべき石碑(775年)がリゴールに残されている

シャイレンドラ王はこの地に
3つの仏教寺院を記念に建設したと書かれているが、それらはいずれもチャイヤーにある。このリゴール碑文なるものはもともとチャイヤーに建てられたものであるという説が有力である。この碑文にはシャイレンドラの王統がもともとこの地に歴史的つながりを有していたことが記されているという。

 

シャイレンドラ王朝はこのときクメールの王子で後にジャヤヴァルマン2として新しいクメール王朝の創始者になる人物を捕虜にしている。彼はおそらく扶南王族の血筋であり、シャイレンドラに忠誠を誓ったので、後に釈放されクメールの王位につけたものと考えられるが、802年にジャワからの「独立宣言」を行った。しかし、シュリヴィジャヤに対し反抗的であったという記録はない。

シャイレンドラ王朝はシュリヴィジャヤの故地の奪回のついでに貿易大国チャンパ(林邑)に攻め入り、大いにその城市を略奪したが、チャンパそのものを支配下におくことはできなかった。しかし、林邑は749年を最後に朝貢をやめ、その後継国の「環王」は793年に一度入貢しただけで終わった。8世紀後半のシャイレンドラの攻撃はチャンパに深刻な打撃を与えたことは間違いない。774年にチャンパはジャワからの侵攻を受けたことが記録に残されている。

それから100年近い中断の後に「占城(チャンパ)」が877年に朝貢を開始する。占城は後の三仏斉とは友好関係にあったと考えられる。三仏斉の使節が朝貢の帰りに占城に立ち寄った記録も残されている。

 

一方、訶陵(カリン)は768年から朝貢を再開する。これはシャイレンドラ王朝によるものであり、「後期訶陵」ともいうべきもので、前期の訶陵とは区別したい。

シャイレンドラがなぜ「訶陵」という昔の名前で入貢したのかその理由は明らかではないが、前期の訶陵政権といわば「平和的共存」関係があったためと、朝貢国間の紛争を嫌う唐王朝への配慮があったものと考える。

後期訶陵の朝貢は818年まで続くが820年に「闍婆」(ジャバ)が突如入貢する。これは前期訶陵の主権者であったサンジャヤ王統が復権し、自ら「闍婆」の名前で入貢したものと考えられる。

後期訶陵は太和年間(82735)に入貢するが、このころ既にシャイレンドラ王家は闍婆に覇権を奪われてもと来た道(パレンバンやジャンビ)に逆戻りを余儀なくされたものと思われる。闍婆は831年、839年にも入貢する。咸通年間(86073年)に訶陵が入貢したもとれる記述が『新唐書』にみられるが、これは闍婆であったと考えられる。『新唐書』は訶陵、社簿、闍婆を区別していない。

 

そのような中で占卑(ジャンビ)が852年と871年に単独で入貢する。シャイレンドラが後期訶陵として朝貢していた時代には、いわば同一のグループの国が単独で入貢することはおよそ考えられない。従って、遅くとも850年にはシャイレンドラはジャワからサンジャヤ王朝によって放逐され、いわばシャイレンドラ(シュリヴィジャヤ王統)の統制力・権威が一時的に消滅したものと考えられる。

シャイレンドラがなぜジャワから追い出されたかといえば、ジャワにおける力関係がサンジャヤのほうが強くなったためである。サンジャヤは拠点を東ジャワに移していたが、その地の米作が大きく発展し人口も増加したのと、香料群島(モルッカ諸島)との交易(米を輸出し、香料を輸入)で富を大きく蓄積できたためではないかと考えられる。コショウなどとともに、後にヨーロッパで珍重された香料群島特産のメーズ、ニクズク、クローブといった香料がこのころから次第に中国や東南アジアでも価値を認められ始めたのではないだろうか。

 

(三仏斉の時代)⇒三仏斉とはジャンビ、ケダ及びチャイヤーであると修正しました(2012年)。

シュリヴィジャヤはジャワから追い出されたとはいえスマトラの根拠地まで奪われてわけではなかった。上に見たようにジャンビはいち早く朝貢を開始したのである。ただし、この時代になってもパレンバンはさほど大きな役割を果たしていたようには見受けられない。中国側はパレンバンを「旧港」として認識していたが、これが重視された形跡はさほど見られない。あくまでシュリヴィジャヤの「14城市」(新唐書)の一つに過ぎなかった。その理由はジャンビにくらべマラッカ海峡から離れている上に海から100Km(当時はもっと短かったかもしれないが)近くも内陸部に位置するという地理的な不利に帰せられる。

しかし、ジャンビは単独での朝貢をやめ、「三仏斉」の一員として中国との交易に参加する。「三仏斉」は904年、唐時代の最後の段階で入貢する。

三仏斉は旧室利仏逝系諸国の連合体であることは間違いないが、10世紀の初期の段階ではジャンビとケダとチャイヤー(パレンバンは三仏斉の属領の地位にとどまった)が中心的な役割を果たし、なかでもジャンビがいわばそのチャンピオン的存在であったと考えられる。

三仏斉の語源として、アラブ商人が呼称として使っていた「Zabag」の漢訳ではないかというのが通説である。しかし、3つの「仏斉国」すなわちジャンビ、ケダ、アイヤー(パレンバンではなく)のシュリヴィジャヤ系3国連合体であるという解釈は成り立たないであろうか。すなわち三仏斉は三つの仏斉国(城市)の連合体として唐王朝は認識していた可能性が大である。

すなわち、唐王朝がいわば新参者の「三仏斉」を朝貢させた根拠として、多少は旧「室利仏逝」との関連は意識していたのではないだろうか。いずれにせよ、このことは「漢籍」が触れていないので確かなことはいえない。

一方、ジャワ島の支配者となった「闍婆」は不思議なことに朝貢を長年にわたりほとんどおこなっていない。闍婆が次に入貢するのは992年であり、120年以上のブランクがある。ところがそれ1回きりで闍婆の入貢はその後途絶えてしまう。

闍婆は占城経由で中国との交易を行っていた可能性が強い。チャンパ人はもともとマレー系種族で、現在でもマレーシアやインドネシアの人々と言語的な親近感がある。

一方、三仏斉は北宋(9601126年)の間に頻繁(30回)に入貢する。チャンパも「占城」王朝が成立してから三仏斉と同じくらい(29回)朝貢した。かつての扶南と林邑の全盛期を思わせる状態が再現した。

 

(南インドのチョーラの侵入)

順風満帆にみえた三仏斉に思わぬ外敵からの侵略が待ち受けていた。最初に、闍婆(マタラム王朝)が992年に三仏斉を襲った。このときたまたま朝貢にきていた三仏斉の使節が帰国できなくなり宋王朝に助けを求めた。やがて事態は沈静化したが、闍婆はそれ以降入貢していない。一方、闍婆は1006年にシュリヴィジャヤからの報復攻撃を受けた。その後の国内の分裂状態(アイルランガ王が1037年に統一する)のせいとも考えられるが、闍婆が朝貢を取りやめたのはおそらく宋王朝から「出入り禁止」処分を受けたためであろう。

992年に闍婆の攻撃の対象になったのはパレンバンとジャンビであり、以後三仏斉のセンターはケダに移ったと考えられる。あるいはケダが三仏斉の「首都」になったのはもっと前かもしれないが確証はない。いずれにせよインド側の碑文によれば11世紀のはじめにはマハラジャという称号を有する三仏斉のマラ・ヴィジャヨトゥンガヴァルマン王(Sri Mara-vijayottungavarman)はケダ王の称号をあわせ持っていた。

ついで、それまでシュリヴィジャヤから仏教寺院の寄進を受けたりして友好関係を維持していた南インドのチョーラ(注輦)王朝が1017年頃から三仏斉への侵略の意図を見せ始め1024年以降三仏斉の支配地域を全面的に侵略する。

このときに最大の目標はカダラム(Kadaram)すなわちケダであり、その占領によってチョーラはカダラム王を捕虜にし、莫大な財宝を手に入れたと誇らしげに記録している。チョーラは三仏斉の支配下にある主要港に海軍を派遣し制圧した。このときのチョーラの王はラジエンドラ・チョーラ1世(1014~1042年)である。

三仏斉を支配下におさめたチョーラは中国貿易の本拠地をケダに置いて、東海岸はリゴール(ナコン・シ・タマラート)を主な貿易港として使用したものと思われる。このころからリゴールが漢籍にも「丹眉流、単馬令(タンブラリンガ)」としてしばしば現れるようになる。ケダからリゴールまではハジャイを経由して陸路で1ヶ月くらいを要したものと思われるが道中(現在は主に国道4号線、41号線)は比較的平坦であり、牛車などを使っての交通も楽だったに違いない。

 

チョーラの三仏斉攻略の目的は三仏斉が所有する財宝の奪取というよりは、三仏斉が独占するこの海域の交易権とりわけ中国との「朝貢貿易」の独占であった。チョーラ自身も1015、1020、1033年に入貢している。最初に入貢した1015年にチョーラは三仏斉の貿易上の実力を目の当たりにしたことであろう。

チョーラが困惑したのはマレー半島横断通商路を使えず、マレー半島を迂回する時間の無駄であった。これを回避してマレー半島横断路を利用しようとすれば三仏斉に多大な「手数料」を支払わねばならない。ということで、チョーラの侵攻の第1目標は横断路の入り口を押さえるケダにあったものと思われる。当時、三仏斉のチャンピオンはケダに移っていたことも理由の一つであったであろう。チョーラはジャンビも攻略したが、中国との交易窓口の港である東海岸のリゴールを押さえた。このことによってマレー半島横断通商路を確保し、そのメリットをわがものにすることができた。

しかし、チョーラが次に入貢したのは1077年であり、1033年からは44年間のブランクがある。その間ライバルたるべきチャンパ(占城)は7回も入貢している。おそらく、三仏斉の内部的混乱とチョーラは宋王朝から三仏斉との関係を詰問されていたものと思う。

1077年の朝貢ではチョーラは「注輦」として入貢すると同時に
「三仏斉注輦」として入貢した。使節は同一人物である。このときチョーラの宋王朝への説明はチョーラが三仏斉を占領・支配したのではなく、「三仏斉グループ」の一員となったのだということであったように見受けられる。宋王朝の公式文書に「注輦役属三仏斉」という文言が記録されているが、注輦は三仏斉の「属領」になったという「虚偽の申告」をしたものと思われる。

もし事実(三仏斉の占領)を述べれば、宋王朝としては自国の従属国たる「朝貢国」を勝手に占領してけしからんということになり、チョーラは宋王朝から「敵国扱い」されることになりかねないからである。その辺にチョーラの苦しい事情がその後の展開でもうかがわれる。チョーラはそれ以降必ず三仏斉国の一員として入貢している。

「三仏斉注輦」の名義での朝貢は1079、1082、1088、1090年の4回である。その間「三仏斉詹卑(ジャンビ)」の入貢は1079、1082年の2回である。このことからジャンビはチョーラからある程度の「独立性」を確保していたものと見られる。

ケダを拠点としていたチョーラは距離的にもマラッカ海峡の南に位置するジャンビにまではさほど干渉しなかったのであろう。これ以外に「三仏斉」単独名義での入貢がある。それは1084、1088、1094、1095年の4回であり、これもおそらくはチョーラの支配するケダを基点とするものであろう。ケダを拠点とするという意味はマレー半島横断通商路を使って、リゴールあたりに財貨を集積し、そこから実際の朝貢船は出ていたものと考えられる。

また、チョーラの三仏斉への支配は1090年代中ごろには終わったようである。それはチョーラ本国の政治的混乱と弱体化によるものである。

 

(南宋の自由貿易政策と朝貢貿易の終わり)

南宋の時代(11271279年)に入ると、朝貢貿易そのものが大きな変化を遂げる。それというのも、南宋は市舶司制度を全面的に取り入れ、政府の許可さえとれば、従来禁じられていた中国商人が海外での貿易取引が自由化されたのである。

宋時代に入ると
陶磁器が輸出商品としてクローズアップされてきた。陶磁器は梱包されて輸出されたので重量も体積も大きく、大型中国船(ジャンク)を仕立てて東北風にのり、一気にジャンビあたりに運び、そこで待ち受けるアラブ、ペルシャやインド商人と自由に交易するほうが中国としても「朝貢貿易」というような儀式ばった形式主義的取引よりも有利であるという認識が生まれてきたのである。

この市舶司制度の導入によって南宋王朝は輸出入の「関税」を徴収する事務手続きだけで膨大な収入が得られたからである。それまでは王朝が貢献物を売りさばいたり、使節の面倒を見たり、かなり非効率な面があった。

南宋は財政事情が厳しく「朝貢貿易」の負担に耐えられなかったという説(桑田六郎博士)もあるが、自由貿易を有利とするような商品すなわち大量生産された陶磁器の出現に負うところが大きかったことは確かである。そうなると南宋時代の朝貢は激減し、三仏斉が
5回、占城が3回だけとなり、アラブなどからの遠洋地区からの朝貢はゼロになってしまった。

このような南宋の自由貿易体制はイギリスの自由貿易に先立つこと約600700年である。それは次の元、明の時代にも継承された。明時代は初代の洪武帝の時代に朝貢は一時的に復活し、安南、占城、暹羅(シャム)、真臘に並んで三仏斉も6回(13711377年)ほど入貢するが北宋時代と同じ王統によるものかどうかは不明である。

明も永楽帝の時代になると再び自由貿易体制に復帰する。永楽帝は海外市場の開発に力を入れ、7回にわたって鄭和を司令官とする大船団を派遣したことで知られる。

 

(リゴール=ナコン・シ・タマラートの役割)

三仏斉の時代はジャンビから直接中国に船を派遣して朝貢貿易を行ったということは部分的には事実であるが、10世紀の終わりごろからはマレー半島のケダに三仏斉の拠点が移り、ケダに入港する西方(アラブ、インド方面)の財貨は陸路リゴール(ナコン・シ・タマラート)まで運ばれ、そこに地場(東南アジア)の特産品も輸送し、あわせて「朝貢船」に積載し、中国まで運んだと考えられる。

これは後期訶陵(シャイレンドラ朝)時代からそういう方法がとられていたものと考えられる。インド方面の貿易ルートからかけ離れたジャワ島に全ての貨物を集積してから中国に向かうという方法がとられたとは考えられない。

12世紀に入ると、一時期リゴールが三仏斉グループのなかで「最強国」となり、リゴールに「朝貢」する国が現れたといわれる。『リゴール年代記』にはパハン、ケランラン、パタニ、チュンポン、タクアパ、トラン、クラなど12カ国がリゴールに服属していたという。

また、
リゴールの王チャンドラバヌ1247年と1260年にセイロンに遠征軍を送っている。海軍はケダから派遣したといわれる。この遠征は2度とも失敗し、それ以後リゴールは衰退し、13世紀の終わりにはスコタイ王朝のラマ・カムヘン王によって占領されてしまう。

その後リゴールは紆余曲折の末、結果的にはタイ王国の領土となり、今日に至る。現在のナコン・シ・タマラート市のワット・プラ・マハタートのストゥパはセイロン風であり、セイロンからもたらされた仏舎利が納められていることで知られる。

このチャンドラバヌ王は、熱烈な仏教信者であり、真偽のほどは不明であるが、それ以降のタイの仏像の顔のモデルになったという言い伝えがある。アユタヤ時代に山田長政がリゴールの太守(知事)に任じられ、いわば「島流し」にあったように言い伝えられているが、リゴールはアユタヤ王朝内では桁外れの大国であったものと思われる。マレー半島の北半分(マラッカやジョホールを除く)の主要な都市や国を支配する最重要拠点であった。

これからどうなるかはわからないが、日本の最大手の鉄鋼メーカーである新日鉄やJFEがナコン・シ・タマラートの近くに巨大な高炉一貫製鉄所の建設を検討しているという話も一部では報道されている。それが実現すれば南タイはもちろんタイ王国全体の工業化と経済発展に多大の貢献をすることは間違いない。

 

主な参考文献

①『南海東西交通史論考』桑田六郎著。平成5年、汲古書院。

②『The Malay Peninsula In Hindu TimesH.G.Quaritch Wales.

 Bernard Quaritch LTD. 1976

③『SuvarnadvipaR.C. Majumdar, Cosmo Publications,2004.

④『The Indianized States of Southeast AsiaG.Coedès, translated by Sue Brown Cowing. University of Hawaii Press, 1968.

⑤『シュリヴィジャヤの謎』鈴木峻著、20081月、自費出版。