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2013年1月の仏足跡探訪記
前半;南タイ、後半;スコタイ
後半:スコタイおよびシサッチャナライ
(南タイの巻)
2013年は新年早々1月3日~25日までタイに出かけた。その主な狙いはリストで作成したタイ各地に存在する680例(未知のものを含めるとこの倍くらいはありそうである)の仏足跡の探訪を今後どう進めるべきかのアイデアを得るためになるべく広く各地を歩いてみようということにあった。
しかし、途中で1月11日~13日にナコン・シ・タマラート(NSTと略)で開催された”The Origin of Buddhism Spread
in Southeast Peninsula"なる国際セミナーに参加することになり、その間、東北タイに行く時間が無くなってしまった。
行った先はNSTを振り出しにSathing Phra, Songkhla, Satun, Trang, Phuket, Krabi, Surat
Thani県西方のBan Ta Khunと、次いで北部に飛んでスコタイとシ・サッチャナライに行きそこで終わりになってしまった。スコタイからコンケーンにバスで(6時間)移動しようとしたが、体力的かつ時間的に無理なので今回はギブ・アップしてしまった。
1.南部タイ再訪
南タイには何回も出かけているが仏足跡に的を絞っての旅は2度目である。
1月3日にバンコクにつき、翌日は両替や携帯電話の整備などで時間を使い、5日に朝6時50分のフライトでNSTに行く。NST国立博物館に直行し、セミナー用に持参した20冊の本(英語版)や小型スーツ・ケースなどを預け、ミニバスでサティン・プラに向かう。アノン館長がミニバスの始発地点まで送ってくれる。ここで出発間際のミニ・バスに乗ることができた。これを逃すと次は2時間後くらいになる。
サティン・プラの近くのパーコー(Pha Kho)寺院まで140バーツ(B)であった。時間は2時間ほどかかった。パーコーというのはもともとはPhra
Khao(聖なる山)であり、古くから仏教寺院があった。それ以外にWat Chathing Phraもあるが、それはサティン・プラがシュリヴィジャヤ後期(三仏斉時代)の貿易港として栄えた全盛期(999年)に建設されたものである。パーコー寺は本通りから2Kmのど内陸にある。小高い山の上にある。当時はサティン・プラのあたりは陸続きではなく、いくつかの島に分かれていたという。
隋時代に煬帝の特使として赤土国に赴いた常駿の記録に「狼牙須国の山を西に望み」南に向かい「雞蘢島に達し、赤土国の領土に入った(於是南達雞蘢島、至於赤土之界)」とある。私は雞蘢島はどこか不明であると『シュリヴィジャヤの歴史』などに書いてきたが、このパー・コーの山はまさに雞蘢のような形をした小高い丘(100m足らず)であり、常駿の雞蘢島とはここだったのではないかと思い始めた。
このパー・コー寺には古い形の仏足石があり、Virginia McKeen女史の写真では自然石に刻まれたままの姿がみられる。(”Footprints
of the Buddhas of this era in Thailand” Siam Society , 2004、p29)。今のパー・コー寺の本堂に置かれているものはそれをきれいに刻みなおしたものだろうか?
上の写真を見ただけでは仏足石は真ん中の単なるくぼみにしか見えないが、実際はきちんとした足型が彫られている。今のパー・コー寺は1500年代に建てられたというが、その前はもっと素朴なものであったと思われる。
5日の午後はパー・コーの付近で通りがかりのミニ・バスを待っているとほどなくやってきた。ソンクラまでは40Bであった。ホテルにまずチェック・インしてからと思い’Green
Wold Palace Hotel'の名前を告げると、そこで降ろしてくれた。そこまではよかったがそのホテルの看板からホテルにたどり着くまでが大変であった。矢印は出ていて、100XXXと書いてあった。しかし100m先にはそれらしき建物が無いので、モーターサイ(オートバイ・タクシー)の爺さんを捕まえて、グリーン・ワールドを知っているかと聞くと「知っていると」と答えた。
それではと連れて行ってもらうと、路地みたいな道をクネクネと走って、それらしいホテルに着いた。見ると「Viva Hotel」と書いてある。中に入って聞くと、ここはグリーン・ワールドではないという。Agodaに前金を払っているのでこのホテルに泊まるわけにはいかない。仕方なしに、大通りに出て次のモーターサイのお兄さんに連れて行ってもらった。彼は何を勘違いしたのかKhao
Sengという海岸通りに向かって走り始めた。
実はこのカオ・センこそは仏足跡が2箇あり、翌日私が行こうとした場所であった。カオ・センの海岸に着いたとき料金を聞くと30Bだという。私はそこで30B払ってから、「私はKhao
Sengの仏足跡を見に来たので、そこまで連れて行ってくれ」といって日本で用意していった写真を見せた。それは大きな岩が横たわっており、その端面にこれまた巨大な仏足跡のようなくぼみのある写真であた。その根元には小型のお稲荷様のような祠が置いてあり、岩には紅白の布が巻いてある。
それをみてモーターサイのお兄さんは山のほうの道に乗り込み、海岸に見える其の巨大岩まで連れて行ってくれた。まるでトドが鎌首を持ち上げているような風情である。巨大岩の前のくたびれたようなジサマが私の旅姿である。これが仏足跡なら世界一といえるかもしれない。私はカオ・センには仏足跡が2箇あるという調査を信じて、これをNo.1と見立て、No.2を探そうとしたが手がかりはなく、あきらめてグリーン・ワールド・パレス・ホテルに行くことにした。朝から実は何も食べていないうちに午後4時ごろになっていた。
ソンクラではグリーン・ワールド・パレス・ホテルの名前をいうとみんなが知っていると答えるが、実はほとんど誰も知らなかったのである。同じ経験は翌々日のトラン市でもした。誰もがリ・ボン島に仏足跡があるといったが実は存在しなかった。一日無駄にすることになってしまった。しかし、誰にも悪意はなく、全員が「善意に満ち満ちていた」のである。
そこで、先ほどミニ・バスが降ろしてくれた場所まで行ったが、モーターサイのお兄さんは100m先には何もないと思ったか、よせばいいのに中年の一見賢そうなマダムに道を聞いた。そこでよしわかったとばかりソンクラ市の中心部を目指した。ついた先はソンクラではNo.2といわれるパビリオン・ホテルであった。大きなホテルだが薄暗くイマイチパッとしないホテルで私はここに以前泊まったことがあり、2度と泊まる気がしないホテルであった。私はドライバーにここではないんだといった。
彼も困り果てて近くにいたモーター・サイのたまり場の親分に聞いたら、その親分は懇切丁寧に道を教えてくれた。着いたところがはじめミニ・バスが降ろしてくれた看板のある場所であり、そこから100mほどのところで左折すると一番奥まったところにグリーン・ワールド・パレス・ホテルがあった。大きなホテルだがいかにもマネージメントが悪そうなホテルで無料のWifiもつながらず、風呂場も薄汚れていて、ドアの鍵も廊下側もベランダ側もかからない。私は鍵のかからない部屋には泊まらないといったら、さっそく直してくれた。付近にはレストランも屋台もなくどうにもならない陸の孤島的ホテルであった。ソンクラに泊まるならBP.サミラ・ビーチ・ホテルに限る。サミラ・ビーチには有名な人魚の像が岩の上に鎮座している。値段もリーゾナブルで1500B位だったと思う。ここはなぜかAgodaでは予約できないようだ。そういうホテルは時折見かける。
ところで、上の仏足跡だが、松久保先生は単なる自然石ではないかと疑念を持っておられる。一度実物を見ないと何とも言えないということである。確かにそうかもしれない。しかし、私には、自然石に村人が手を加えて仏足石(岩)に仕立て上げたとみたい。松久保先生の鑑定やいかにといったところである。
1月6日はホテルでマズイ朝飯を食べ、そそくさとモーター・サイに乗りハジャイ(Hat Yai)行きのミニバス・ステーションまで連れて行ってもらった30B.そこからハジャイまで約1時間で女子学生らと一緒になった。彼女たちは途中で降りた。料金は何と28Bである。途中でザルが回ってきてめいめいが28B入れることになっている。タクシーで行くと600Bは取られる。公共機関の乗り物は飛行機以外はタイは実に安い。それでも自動車やオートバイがドンドン売れる。
ハジャイにつくと、そこは別の大規模なミニバス・ステーションがあり、サトゥン(Satun)行きの出発窓口もきちんと存在した。利用者が多いのである。サトゥン港からマレーシアにも行けるし、ランカウイ島など付近の島々に船が出ている。最近はあまり知られていなかった島までがリゾート地として怪しげな白人が出かけている。彼らは一様に腕や足の見えるところに入れ墨をしている。実際見ていて気持ちが悪い。顔立ちのいい娘さんも入れ墨をしている。
ハジャイからサトゥンまでのミニ・バス料金は80Bで2時間ぐらいかかった。コック・パヨムに行きたいと場所を告げると、その間近で下してくれる。そこにはモーター・サイの溜りがあり、さらに目的地まで送ってもらえる。サトゥンはその昔はケダーの一部と考えられていた。古代においてベンガル湾を渡ってきた船はブジャン溪谷にたどり着きムダ川やメルボウ川経由で内陸に荷物を運び、そこからさらに陸路を使って東海岸のソンクラ、パタニ、ケランタンに運んだと考えていた。
しかし、ブジャン渓谷からサトゥンまで行き、そこで荷物をおろし陸送すれば中継点のハジャイまでは平坦なほぼ一直線の道がある。このルートのほうが楽かもしれない。確かにサトゥンにはインド人のコロニーが存在したと見えて仏足跡が2箇リスト・アップされている。それ見に行くのが私の狙いである。リストによればKhok Phayomに2基ともある。サトゥンの市内からそう遠くはない。モーターサイの運転手(50歳くらい)に聞くとおよその見当はわかるので行ってみましょうということで奥地に進んでいく。道はきれいに舗装されていた。そのあたりの雑貨屋で道を聞くと「知らない」という答えが返ってきた。
店の人がいうにはこの辺の山は「ミネラル・ウォター」を採るためにいくつかきりくずされているという。サトゥンの沖のXX島に仏足石があると聞いているから港にいって聞けばわかるだろうという。そうかもしれないが時間がないので今回はあきらめた。途中のホテルで聞いても知らないという。仕方がないのでバス停にいって次の目的地トランに行こうと思って、大通りのモーターサイの溜り場に行き、念のためこの付近に仏足石はないかといったら、街中にあるという。その寺まで連れて行ってもらった。
町の真ん中にあるWat Chanatip ChlroemというSatun 最大の寺であった。寺男に聞くと確かにあるという。その建物にいったらドアに鍵がかかっている。近くの事務所に行きそこのメガネをかけたインテリ風のお坊さんに仏足石の写真を日本から取りに来たといって、ついでにタンブン(お布施)はどこでやればよいかと聞いたら、事務所の奥の仏間に通してくれた。そこに100Bおいてきた。坊さんは外に出て寺男を呼び鍵を開けるように指示してくれた。話はスムーズである。
そこに納められていたのは2m弱の4段の仏足跡であった。これは4Roi (シー・ロイ)と称されるものでつま先を見るとそこが4段になっている。シー・ロイとはいえ小型のものであり、近世の作である。私が見たかったのは古代の自然石に刻まれた仏足跡であったが、この写真をとれただけでも大満足である。狙いにしていた2個のうち1個の写真がとれたのだからいうことはない。
次に近くの大通りに出てトラン行きのバス・ステーションまでモーター・サイに乗っていく。比較的近距離だったが40Bとられた。バスが12:15に出る直前の12:05分に着いた。切符売り場で137B支払いバスに飛び乗った。近くの売店には駄菓子と水しかなく、またもや昼飯抜きで3時間かけてトランまで行く羽目になった。ともかく目的地に着くのが最優先であり、すき腹のことなどはほとんど気にならない。
トラン市についたらバス停近くのトムリン・タナー・ホテルに飛び込み値段は850B(朝飯つかず)だというので、そこに決めた。小さいがきれいな部屋でバス・タブ月である。実は2kmほど離れたところにトランでNo.1の同名のThumrin
Tana Hotelがある。ここは1600B(朝飯付き)で立派なホテルである。ここには前にt泊まったことがあり、翌7日はこちらに宿泊した。しかし小タナ・ホテルのほうが同じメニューながら味もよく、こちらの850Bの小タナ・jホテルほうが旅行者にはおすすめである。どちらWifiはロビーのみ(無料)である。
この小タナ・ホテルで一息入れて、「地球の歩き方05~06年版」に仏足石があると書いてあるタンティヤーピロム寺院に出かけた。これはトラン市内にある最大の寺院で前にも行ったことがある。しかし、そこには仏足跡は無かったのである。これには愕然とした。しかし、ここで寺院内で店を経営している中年の紳士がリボン島に行けば仏足跡があると教えてくれた。ホテルに引き上げて夕食を済ませ、風呂に入り熟睡した。(右下隅の寺がトランのタンンティヤーピロム寺院)
7日は朝起きて真っ先にリボン島に行「くフェリー乗り場」まで行くというミニ・バス・ステーションにモーター・サイで行く。7:40に着ついたら8:00に出るという。ところが乗客が3~4名しかいないため出発は8:30に延期になり、さらに9:00に再度延期になり、バスが出たのは9:20であった。1時間20分の延期である。距離は60Kmあり100Bとられた。港に着くと「フェリー」どころか布製の屋根をはった漁船が待っていた。船賃は50Bであった。救命具もついていた。これに10名ほどが乗り込んで30分ほどでリボン(Ri
Bong)島に着いた。
上陸するとサイド・カーのようなリヤカーの荷台を脇につけたモーター・サイが待っていた。仏足跡はあるかと聞くと運転手のお兄さん(30歳くらい)はあるという。そこに4人連れの男女2組が乗り込んで5人で出発である。まず4人組の目的地の小学校に行くことにした。仏足蹟はその後だという。20分ほどでその小学校に到着すると運動会の準備のようなことをあっていた。4人組は中にいた教師などと打ち合わせを始め、30分ほど何かやっていた。
運転手は中の先生に仏足跡のありかを聞いて来いという。私はノコノコ教員室のような場所に行き、まず英語を話せる先生はいないかと聞いた。一人の若いイスラム教徒の小柄な先生(Darさん)が出てきて、この島には仏跡はないと断言した。この先生のいうにはリボン地区というのは対岸の港も含まれそこには確かに仏足跡はあるという。あまりのことに開いた口がふさがらなかった。わざわざこの島にくる必要はなかったのである。同行の4人も大いに同情してくれたが、どうにもならない。また、引き返すほか仕方がない。
帰りの船が行きとは違い10名ぐらいが定員のところ20名ほど乗せ、さらにオートバイ2台のほかに島の特産物のようなものを山ほど積み、ようやく出発したと思ったら、また途中で3人ほど乗客を乗せた。ところが船が浅瀬に乗り上げていて出発しようとしたら左に大きく傾き、もう少しで転覆・沈没するところであった。船頭はいかにも強欲そうな70歳近い老人であった。その人相は極めて悪かった。船には救命具など何も積んでいない。沈まずにやっとこさで対岸にたどり着いた。
同行の4人も同じ船で、港の役場に連れて行ってくれ、仏足跡のありかを聞きだしてくれた。それによるとロング・ボートをチャ^ターし海からアクセスするしかないという。私はもうすっかり疲れ切ってトランに帰ることにした。するとこの4人組は1トン・ピックアップ車できているからトランの町まで乗せていくという。ありがたく便乗させてもらった。彼らは心底親切な人たちであった。職業は聞かなかったが、おそらく教育関係者であろう。
町についたら、大きい方のタナホテルに宿替えした。1泊1600Bであった。インターネットはロビーでしか使えないが部屋は立派で、日本の一流ホテルなみであった。7日はかくして1日「空振り」に終わった。要するについてない1日だったが、リボン島観光だけが「収穫」であった。こんな日もある。
8日は大タナ・ホテルで朝飯を食べ、プーケット行きのバス・ターミナルに行く。パンガーまで200Bで6時間はかかる。そこで小山直之先生(プリンス・オブ・ソンクラ大学プーケット分校の日本語講師)と待ち合わせようとした。クラビで小山先生に携帯電話したところ小山氏はクラビのバス停まで迎えに行くから途中下車して待っていてくれという。我々の目的はクラビで虎洞窟寺院(1237段の石段)の近くにもう一つ仏足跡があるから、そこに行こうということである。
プーケットからクラビまで3時間以上かかる。ご苦労様である。クラビでは”Phra Phuttabat Ban Yot Khao, Amphoe
Muang, Tambon Thap Prik"を目指したが、結局見つからずにプーケットに行って2泊することにした。宿泊は前回同様Baan
Suan Hotel(1泊税さ込800B)である。シャワーのみで朝飯はつかないがホテルの前に食べ物の屋台のようなものがある。肉まん1個15Bほどであり、隣はコンビニである。見ていると白人のサラリーマン風の男女もそこで食糧を買い求めていた。彼らの生活も決して楽ではないのだ。
9日は朝からパンガー県の観音寺であるWat Rat Upathamに小山先生の車で出かけた。小山先生の車がなければ実際に仏足跡の探訪も不可能に近い。小山先生はこの辺の地理に詳しいから移動は極めて効率的である。
最初に行ったのは4118号線から少し入ったWat Rat Upatham (Wat Bang Riangとも言う)。この寺は平地と山の上に分かれている。一つの地名・名称に寺が2か所あるようだ。まず平地のほうに行ってみた。ここもかなり多きな寺であり、地元民の出入りも多い。また本堂には大きな舟の先頭の形がついている。この地は実は海からそう多くはない。古くから商人や漁民の信仰を集めていたのかもしれない。
この寺の僧侶に仏足跡のありかをたずねると山のほうを指さし、あっちだという。そこでさらに山を登っていくととちゅに観音菩薩像が見え、広い駐車場が現れた。朝から何台ものミニ・バスやっ乗用車が止まっている。そこで車を降りると参道に差し掛かる。はるか山の上の本堂には数人の白人(ロシア人観光客)がいた。本堂の近くでツアー・ガイドの女性にあったのでここに仏足石はあるかというと、いともあっさりと「ある」といって、本堂のほうを指さす。ついでに私の帽子を脱いでいくように御注意があった。
どうもこの寺は普通の寺と違って「格式」が高いらしい。本堂に上がっていくとすでに白装束をしたタイ人の女性が額づいている。しかし、仏足石らしいものは見当たらない。さらに本堂の奥のほうに進むと寺のガイドに靴下を脱げと注意された。靴を脱ぐのはどこでもやるが、靴下まで脱がされたのはこの寺が初めてである。しかしながらどうしても仏足石は見当たらず、やむなく外に出て周りの景色でも写真にとって帰ろうとテラスで写真を撮り始めた。はるか向こうには白い観音菩薩の像があって、それを撮影した。
右手のほうを見るとインテリそうな若い僧侶が誰かと話をしていた。そこに近づき、この寺には仏足石はござらぬかと小山先生がタイ語で聞くと、こっちに来いと案内してくれる。どこに行くのかと思って我々もはだしのままついていくと、先ほどの本堂に石段をあがて入っていく。そしてここだと指さしたのが、先ほど写真を撮った祭壇のところだ。ヨク見ると、そこには猫の置物のような仏足石が飾られていた。この仏足石は相当古い。シュリヴィジャヤ以前のものかもしれない。足裏の中央部には法輪が丸く浮き出されていた。
私は普段から不信心もので、仏像などをみてもさして感動をするようなタイプではなく、根っからの俗物であるが、この観音菩薩像には思わず見とれてしまった。実に優しそうな慈愛に満ちたお顔である。この寺には女性の信者が多いのも頷ける。それにしてもロシア人の観光客が多いのはなぜだろうか?日本人はわれわれ2名だけだった。
その日次に目指したのが、スラタニ県西部のWat Kraison Khetaramである。これは内陸部であるが、今はダムとなっている山間部を通る川とつながっていたところで、Ban Ta Khumという町のすぐ北側にある。Klong SokとKlong Pra Saengという川の合流点である。この付近がタクアパ⇒チャイヤー間の物流の中継点になっていた。扶南がタクアパとプン・ピンを結ぶ水路として利用した時の中継点であり、古代においてはそれなりに人口も多く、特に室利仏逝時代はにぎわっていたのではないかと考えられるからである。
このワット・クライソン・ケタラムには実は2つの仏足跡がある。一つは右側大きなもの(長径1.8m)であり、中には小さ仏足跡が3つ刻まれており、いわば「4段仏足跡の原型」ともいうべきものである。普段は茶褐色の雨水がたまっていて底は見えないが松久保調査団の女性スタッフが水を掻い出し撮影したものである。(2013年4月)
もう1つはチャイヤーにみられる岩盤に丸形の仏足跡を彫り込んだだけの「原始的」なもので松久保秀胤師(薬師寺元管長)が2013年4月にここを訪問された際に偶然発見された。下の写真の左側のものが、松久保長老がご自身で発見されたものである。この仏足石の存在は長年の間その存在を誰も知らなかったものであろう。もちろんこの小型仏足跡は大型のものよりかなり古い。
タイ独特の「4段(シー・ロイ)仏足跡」の原点がこのっワット・クライソンの大型仏足跡といえるかも知れない。(他にもあるかもしれないので。)
人口が少なく「集落(コロニー)」が形成されないようなところには仏足跡は作られないはずである。それにしても小山さんの運転でWat Kraisonという寂れた寺にたどりついて、その荒廃ぶりには驚いた。周辺に多少の住民が住んでおり、葬式用の煙突は立っていたが、寺院の建物はかなり傷みかかっていた。入っていくと80歳を超えているとみられる老僧がいたので、ここに仏足石はあるかと、小山さんが尋ねると「裏山にあるが、石段を登って、さらにその奥で、私も長年行ったことはない」という返事であった。
しかし、その老僧は若い屈強なお坊さんを道案内につけてくれた下の上半身裸のお坊さんがその人である。。彼は何度か登っており、私に途中で「杖」を作ってくれたり、笹の葉をかき分けてくれたり、何かと親切にしてくれた。
それにしてもクライソン寺は寂れた寺であった。しかし、有名な古刹らしくGoogle Mapで検察することがえきる。
私はさほど高くもないクライソン寺の裏山を往復しただけで完全にグロッキー状態になてしまたった。道案内をしてくれた若いお坊さんが駆け寄って私のヒザをマッサージしてくれた。私はいくらなんでもタイのお坊さんのマッサージを受けるわけにはいかないので、この後慌てて飛び起きた。そして同行の小山さんと老僧にお礼をいったら、今度はその老僧が「ご苦労さん」といわんばかりに冷えたペットボトルを2人に恵んでくれた。いやはやお坊さんから施しを受けるなんて、なんということであろうか?
それだけでなく、冷たい水で顔を洗って行けとか、ご親切の限りを尽くしてくれたのである。わずかばかりのタンブン(お布施)を差し上げていたとはいえ、過分のお恵みを頂戴してしまった。こんなに人情味のあるお坊さんにめぐりったのは初めてである。ああ、ありありがたき幸せ。南無阿弥陀仏。私はは汗と涙でずぶ濡れになった顔を何回も拭きながら、小山さんの車にヨタヨタと戻っていたった。実際に存在するかどうかはっきりしなかったこのクライソン寺を訪ねてきてよかった。優に1000年以上は続いているクライソン寺は健在だったのである。
後半:スコタイおよびシサッチャナライ
ナコン・シ・タマラートでの国際セミナーを終えて1月14~17日にスコタイ地区を訪問した。
1月14日、スコタイに早朝の飛行機で出かける。空港には考古局のピラポン所長がご多忙の中を出迎えてくださる。さっそく事務所にお伺いしてナコン・シ・タマラートの国際会議の様子などお話しする。私の仏足石への関心もご理解いただけたものと思う。ただし、タイでは仏足研究を本格的にやっている人は少ないという話をされた。
Virginia Mckeen Di Crocco さんがSiam Societyから本(Footprints of the Buddhas
of this era in Thailand)を出しておられる。原本は読んだが大変な労作である。しかし、総花的な扱いで歴史的な視点が若干かけているようだ。
スコタイのラムカムヘン博物館にさっそく行ってみる。そこにはKhao Phra Bat Noiから移設された仏足跡が置いてある。Mckeen さんの本(p78)では1379年の作だとある。セイロンからもたらされたものであろう。あるいは図面だけ持ってきて当地で加工したものかもしれない。長さ2mx0.8mの大型仏足石である。この仏足石にはまだ「升目はついていない。親指の付け根に法輪ともみえる渦巻き模様がある。通常これは足裏中央部に位置するものが多い。これは Wat Traphang Chang PheuakにあったものだとJaques de Guernyはその著書の中で述べている。
スコタイ王朝は近くに第2の首都ともいうべきシ・サッチャナライ(Sri Sachanalai)を持っていた。スコタイから車で30分ほどのところであり、こちらのほうは規模もはるかに小さいく、古い。仏足跡もWat Sri Ratana Mahathatのものと近くにあるWat Cherng Kiri(1510年?)のものである。後者は寺院としては新しく建て替えられたもののようだが、背後におびただし卒塔婆ががり、歴史の古さを感じさせる。
Wat Mahathat (上)のものは周辺が擦り切れて補修されている。両者の特徴は升目こそないが吉祥文様がきちんと上下左右に置かれていて、あたかも「升目」が存在するかのような作品である。スコタイ王朝の末期の1300年代の終わりごろの物であろう。
この両者がタイにもたらされた升目つき大型仏足石の始まりであろう。原産地はセイロンであると考えられる。スコタイの王位についたマハダマラジャ(Mahadhammaraja)1世が家臣をセイロンに送り、スマナクタ山上(アダム・ピーク)の仏足石を見学させ、108の吉祥紋などを調べ、同様のものを作らせたと1357年の碑文に書かれている。その一つが現在スコタイ歴史公園内にあるWat Traphang Thonglangの仏足跡であり、もともとはKhao Phra Bat Yai (通称スマナクタ山)に置かれていたものである。
それまでは「升目」のついた仏足石はタイには存在しなかったように思える。これから後、15世紀に入りアユタヤ王朝の時代に入ると仏足石ははるかに華麗なものになってくる。言うまでもなくアユタヤ王朝は「上座部仏教(小乗仏教)」を「国教」として採用し、全国各地に仏教寺院を建設し、崇拝の対象として比較的コストの安い仏足跡を導入したものと思われる。
現在は規模の大きい大仏が各地に作られているが「仏足石信仰」は根強く生き残っている。
スコタイ遺跡公園内のWat Traphang Thonglangの仏足跡(下)。
これはKhao Phra Bat Yai山頂にあったものを運んできたという。これには法輪と升目模様が施されている。長さは1.7mである。