2010年南タイ旅行記(2010925日~930)


私の今回の南タイの旅行はソンクラの北40kmほどのところにあるサティン・プラの訪問である。サティン・プラはチャイヤーに次ぐヒンドゥー神像や仏像の出土が多いといわれた地である。その出土品の多くはソンクラ国立博物館に収蔵されている。

しかし、サティン・プラは5世紀ごろからの重要な港であったにも関わらず、歴史学者があまり取り上げてこなかった。その理由はサティン・プラは漢籍に登場するような「朝貢国」でもなかったし、義浄のような仏僧がインドへいく途中に立ち寄る港でもなかった。

サティン・プラはシュリヴィジャヤ時代、シャイレンドラ時代、三仏斉時代を通じての中国への商品(朝貢品)の積み出し港であったものと推定される。私の考えでは、『新唐書』の「訶陵」の条に出てくる夏至の時の8尺棒の日影の長さが「2尺4寸」の場所がここだったのではないと思う。これはさらに検討を要するテーマである。ともかく、現地を見てみないことには始まらない。

9月25日(土)、バンコク⇒ハジャイ⇒ソンクラ(パビリオン・ホテル泊り)

朝9時50分のハジャイ行きの飛行機があるというので新設のマカッサン駅からピカピカの高速鉄道に乗ってスヴァンナプーム空港に行く。1時間に2本しか出ていないというが走行時間は18分である。料金も100バーツである。(いずれ150バーツになる)

8時少し過ぎたところでタイ航空の切符売り場まで行くと、9時50分のフライトなどはなく、6時の1番機の次は13時25分だという。エアーエイシアは14時台だという。ホテルのフロントのおネイ様にだまされた。昨日に予約をしておけばこういうことは避けられた。しかも、航空券は4,105バーツ(約1万500円)という意外な高値である。しかたがないので飛行場で5時間もすごす羽目に陥る。

飛行場というのはまことに居心地の悪い場所である。昼飯を食べたり飲み物を取ったり、日本に電話したりして後は所在無げに過ごす。ハジャイに付いたら既に3時少し前である。そこからタクシーでソンクラまで行く。620バーツである。

パビリオン・ホテルにチェックインしたら1,200バーツ(朝飯付、税サ込み)である。日本円で3,300円ほどだが、ここが南タイで一番高かった。ロビーは薄暗く印象悪かったが部屋は広くバス付きでダブル・ベッドであった。ホテルのボーイに明日サティン・プラまで行きたいがどうしたらよいかと聞いたところ、タクシーで往復2,000バーツだという。片道38キロしかないのに高いのでやめた。

一休みしてソンクラの国立博物館に行くが、4時で閉館であった。タッチの差でアウトである。仕方がなしに、博物館の裏手のほうにブラブラ歩いていくと「プレム枢密院議長」の生家跡があった。高床式の古典的なタイ住居であった。

プレムさんは1980年~88年まで首相を務め、軍人出身でありながら、タイの議会制民主主義に道を開いた人であり、1985年に外資の自由化に踏み切り今日のタイ経済の発展の基礎を築いた優れた政治家である。

タクシンの「独裁政治」をきらい、2006年9月の軍事クーデターを画策した人物として赤シャツ派や日本の「タックシン派」の学者や新聞記者から毛嫌いされているが、プレムの偉さは彼ら「手続き民主派」にはわからないであろう。

日本のアジア学者は「開発独裁論」にコミットすることによって、保守・反動の自民党政権に迎合してきたものが多い。彼らはアジ研をハイジャックしたりして、「うまい汁」を吸う機会にも恵まれた。タクシンはASEANの大国タイの独裁者である。これに飛びついたのが某某某大学教授である。

ともかく、タクシンの独裁政治を阻止したことによってタイの民主主義は守られ、経済発展も軌道に乗ったことは間違いない。これからタイをどうするかはタイ人が決めることである。日本の視野狭窄症候群におちいっている学者や新聞記者がとやかく言っても仕方がないであろう。

それはともかく、プレムの生家に靴を脱いで上がりこむと、ガイドの女性がいろいろタイ語で説明してくれる。もちろんタイ語の内容はわからないがどこに何があるかぐらいは見ればわかる。ついでに明日サティン・プラに行きたいがミニ・バス・ステーションを教えてくれといったら、朝8時にこの前から出るから8時にこいという。

プレムさんの生家前は「夜店」が開かれる。なんと日本の寿司の屋台まである。1個10バーツ(28円)だというが大きさは日本の回転すしの半分以下である。それとマズそうなのでそこは敬遠して近くのオープン・レストランにはいる。コエティアオ(広幅米粉うどん)スープを食べて夕飯は終わりである。30バーツ(85円)であった。下左が寿司屋の屋台。食慾わかず。右がプレムさんの生家。小さいが格式を感じる。



ホテルまで歩いて10分足らずであった。 9月26日に朝食(バイキング)をとり7時半ごろに前日のプレム生家前に行く。人っ子1人いない。仕方がないのでプレム生家前の敷石に腰をかけて、所在無げに時間をすごす。

8時になると赤い色のソンテウ(1トン・ピック・アップ車にホロをかけて腰掛を荷台の両側につけたもの)がやってくる。ここが始発のようで誰も乗っていない。運転手にサティン・プラ行きかと言うと「そうだ」という答え。助手席に乗れという。後ろにも座席があり、そこには運転手の娘(5歳前後)が乗っていて、料金を受け取る役である。

サティン・プラまでの道は良好でタイ湾沿いの海岸を走り1時間ほどで着く。料金は60バーツ(170円)であった。途中で何十人も乗ったり降りたりした。学生もかなり多い。

サティン・プラはワット・チャティン・プラという古びた寺院でおろしてもらう。相当古いが9世紀ごろのものらしい。一渡り見学した後、隣が役場なので行ってみると、日曜日で全てお休みである。海岸まで1キロ足らずである。モター・サイ(オートバイ・タクシー)で連れて行ってもらう。

海岸には売店兼食堂が2~3軒ある。ペット・ボトル入りの水(1リットル=10バーツ)を買い海岸のベンチに腰を下ろして、1時間ほど海を眺めて過ごす。はるか沖合いには石油掘削リグが見えた。タイ湾は天然ガスの宝庫である。

そもそもサティン・プラまで遠路はるばるやってきた目的は何かというと、Q.ウェールズ博士がサティン・プラはシュリヴィジャヤにとってはチャイヤーに次ぐ重要な港であり、古来からのヒンドゥー神や仏像の遺品が数多く発掘されていると述べている。ソンクラの博物館にも小型のものが多く陳列されている。ウェールズ博士の言うシュリヴィジャヤとは「室利仏逝⇒新訶陵(シャイレンドラ)⇒三仏斉」を通した時代である。

特に新唐書に「訶陵」の位置として8尺棒による夏至の時の影が2尺4寸とあり、これは北緯6度50分あたりを示すことからサティン・プラもその「範囲」に入ると考えられる(誤差の許容範囲)。

サティン・プラのタイ湾側の海岸は見渡す限りの砂浜で、到底そこに大型帆船が長期間停泊していられるような場所ではない。 サティン・プラが中国向けの大型船の港として使ったのは、裏側のソンクラ湖であったことは間違いない。そこでパッタルンあたりから運ばれてきた西方の財貨やマレー半島の産品などを船積みして、ソンクラの水路を使って、タイ湾、南シナ海に出て行ったものであろう。

今回、残念ながら足が痛く、交通手段もないのでソンクラ湖方面の探索は諦めたが、感じは良くつかめた。

タイ湾の海岸からの帰りは大通りまでテクテク歩く。チャティン・プラ寺院前に屋根つきのバス停がある。そこに腰掛けていた娘さんにナコン・シ・タマラートまでいくバスは来るのかと聞いたところ、赤い色の大型バスが来るという。待つこと30分、大型バスがやってきた。一応エア・コンが効いている。



上左は999年創建といわれる「チャティンプラ寺院」である。右はサティンプラの海岸から、タイ湾を望む。

ナコン・シ・タマラートまで87バーツ(約240円)で150キロほどを3時間強かかった。ついに昼飯を食べ損なう。ナコン・シ・タマラートでは街中のグランド・パーク・ホテルに泊まる。一泊780バーツ(朝食付2100円)という安さだが、比較的新しく堂々たる綺麗なホテルである。日本なら1万円以下では泊まれそうもない立派な造りである。いままではツイン・ロータスに泊まったがここは値段が1200~300バーツと高い割には町から離れていて不便であった。

早速、国立博物館に出かける。着いたら3時ごろであった。館長のアノンさんにお会いする。2年前に来たとき『シュリヴィジャヤの謎』をお渡ししたら、ソンクラ博物館の「リンガ(男性のシンボルでヒンドゥー教徒の信仰の対象)」の写真を見つけられてしまい、冷や汗をかいた。彼女は当時ソンクラ国立博物館の館長で、館内の陳列品は全て「撮影禁止」だったのだ。

本の趣旨を説明したら理解してくれて、お許しを得たがあの写真はあまり公開されていないようである。そのとき「狼牙須(ランカスカ)」はパタニではなく、ナコン・シ・タマラート郊外の「ラン・サカ」ではないかといっておいたが、その私の説も2年間考えてくれていたようである。考古学的な証拠はない(遺物が発見されていない)が「文献学的」にはありうる話というご理解のようであった。

「諸蕃志」の趙汝适の説(1225年)だけが取り上げられ、1349年に書かれた「汪大淵の島夷誌略」の記述が検討さえされていないのは全く合点がいかない。『島夷誌略』のほうにはランカスカの地名と地理的特徴や人々の生業や気質がきちんと書いてある。山と山とに挟まれた高原の狭い平野で人々が蟻のように土地に張り付いて農業を営みながら貧しい生活を送っているが、人情は厚いと書いてある。

ところが「通説」のパタニは見渡す限りの平野で周辺に山などはない。趙汝适自身はランカスカは「単馬令(ナコン・シ・タマラート)から6昼夜で行けると書いたが、そこは「ソンクラの隣のパタニ」などとは一言も書いていない。経済学者もインチキが少なくないが歴史学者もソートーなものである。プロとして飯を食うならもっと修行が必要であろう。

今回、2010年5月に出版した『シュリヴィジャヤの歴史』(めこん社)をアノン館長に進呈し、主旨を説明してきた。

「扶南の王族は真臘に追われてメコン川下流域から対岸のバンドン湾(盤盤国)」に海軍を引き連れて逃げてきたはずであり、遠路はるばるジャワに逃亡するなどということはありえないという私の説に賛成してくれた。



私はさらに「ラン・サカ」と「ター・ルア」が結びついていたのではないかという話をしてきた。彼女は「ター・サラ」というナコン・シ・タマラートの北方の遺跡調査が現在進行中で、そこからは想像以上の出土品があり、その全容が明らかになるとまた新たな議論が展開されるのではないかといっていた。

そうなるとランカスカはラン・サカとター・ルアといういわば「点と点」の結びつきではなく、広くター・サラ地域までも包摂する貿易国家というイメージにもなりうるのである。

また、彼女はスラタニ市北20キロの「カオ・シリウチャイ(シュリヴィジャヤ山)」の発掘現場に行ってみるように勧めてくれた。この山(というより丘)はシュリヴィジャヤの語源という説があるので有名であり、頂上にはまさに「ヒンドゥー遺跡(寺院跡など)」で埋め尽くされている場所だということで、タイ語の「発掘レポート」が本になって出来上がっていた。

図書館で数冊の本を買い、またレポートの印刷物など貰ったら相当の重さになった。私は思わず「歴史は重い(History is heavy)」というと彼女は大笑いをした。6キロほどのリュックを背負い、10キロほどの本をぶら下げて歩く羽目になった。それらをスラタニ経由バンコクまで持ち帰ったが、いためていた右膝がいっそう悪化してしまった。

しかし、「歴史は重い」という言葉を反芻しながらこれからも残された人生を歩むことになってしまったようである。手に入れた文献のほとんどがタイ語なので私には読めないが、いずれ翻訳する人が出てくることを期待したい。


ナコンシタマラートではラン・サカとタールアに行ってみた。いってみただけの話である。午後にはワット・マハタート大寺院に行く。中の雑然とした博物館は半分ほどしか公開していない。陶磁器の陳列があったが宋以降のものばかりであった。

9月28日は朝まで雨が降っていたが、7時には止んだのでので、次の目的地のスラタニに向かう。ホテルの前にたむろしていた年寄りのモーター・サイの運転手にスラタニ行きのミニ・バス・ステーションに行ってくれと言ったら、ソンテウの止まる場所と勘違いされ、そこでおろされてしまった。

なかなか来ないので果物屋台のオバさんから20バーツでグアバを買う。待てど暮らせど来ないので道の反対側にあるサムイ島行きのミニ・バス・ステーションに行き、あらためてスラタニ行きのステーションを教えてもらい、再度モーターサイに乗って市街地の中心部にまで戻る。1時間のロスであった。

スラタニまで120バーツであった。2時間ほどでスラタニにつき、そこからトゥク・トゥクでいつものワン・タイ・ホテルにチェックインする。何とかスリウィッチャイ山の発掘現場に行こうと思ったが、ホテルでは誰も知らない。仕方がないので街中の本屋にいってスラタニの地図を買って、場所を確認した。幸い、出版されて間もないスラタニの大きな地図が売っていた。120バーツであった。

よくよく見ると、スリウィッチャイ山が出ていた。市街地から20~30Kmのところである。ホテルの近くに待機しているトゥク・トゥクのオヤジさんに地図を見せたら場所をすぐに認識して往復400バーツで行ってもらうことにした。道は見事に舗装されていた。片道30分強かかった。

オヤジさんが近くの民家の人に道を聞きながら、発掘現場の入り口に何とか到着した。そこは民家の庭先であった。オヤジさんは親切にも発掘現場の頂上まで同行しててくれた。場所は「山」というよりは「丘」であり、高さは20~30メートル位である。右ひざの痛みを忘れて一気に発掘現場の頂上付近にまで登って行った。



丘の周辺は見渡す限りの緑だが近くには大きな寺院と学校があった。発掘作業はまだ続いていたが、ヴィシュヌ神の像や陶器の類はすでにナコン・シ・タマラートなどに移され、すでにレポートが出版されている。全てタイ語なので読めないが買って持ち帰った。

このサイトはこの地に仏教が伝来した以前のもので一番古い寺院跡は4~5世紀ごろのものではなかろうか。完全にヒンドゥー教のものであった。仏教関係の遺物、塼仏(せんぶつ)や法輪も発見されているが、質量ともに少ないようである。

しかし、その後にこの地域に仏教が入ってきて、地図で見ると周辺にいくつも仏教寺院があった。プン・ピン川の下流域で、この辺が「盤盤国」の貿易拠点の一つであったことは間違いない。チャイヤーはここから30~40Kmほど北に当たる。

途中の茶店で冷水を補給しホテルに帰る。まだ5時前であった。夕食はワン・タイ・ホテルのレストランでとる。メニューはトム・ヤム・クン・スープとパッブン(空心菜の炒め物)と白米とハイネッケン・ビールである。いつも同じようなものばかり食べている。

味はさすがに抜群であった。値段は税・サ込みで270バーツ、日本円で750円である。日本ではホテルでビール一杯の値段である。ちなみに、宿泊費は1泊790バーツ(朝食はバイキング),2,200円である。

9月29日はチャイヤーに出かける。いつものミニ・バスの停車場に行く。カセット・ソンという第2市場の近くだ。料金は60バーツ。
いつも通り、ワット・プラ・ボロマハタート寺院前でおろしてもらう。

いつも通り、本堂の中に入ってお参りをする。中では品の良い中年のカップルが参拝していた。線香をあげて、ひざまづいて敬虔な祈りである。私の方は例によって例のごとく立ったまま2~3秒合掌するだけである。義浄もここに来たかも知れないと改めて思う。

境内では付近の住民が集まってOTOP(一村一品運動)の製品の即売会をやっていたが、ロクなものはない。買い手より売り手が多いという感じである。

チャイヤーの中心部にもどり、レン・ポー(海岸)に行こうとしたが、2年前にはいたソン・テウが今回は見当たらない。仕方がないのでモーター・サイで行く。80バーツであった。海は美しかったが波打ち際にはクラゲの死骸がゴロゴロしていた。陶磁器の破片はあちこちに落ちていた。これらも1000年も前からここにあるのだ。

いざ帰ろうと思ったが、交通手段は何もない。これにはのんき者の私も参ってしまった。先ほどのモーター・サイの運ちゃんが電話をすれば迎えに来るといってメモを残してくれたが、肝心の電話がない。

仕方なしに数キロはなれたプム・リアン(Phum Riang)という「織物の村」にまでいって、そこから電話をしようとテク・テク歩き出した。35度の炎天下をビッコを引きながら歩き始めたが、このまま熱中症で行き倒れになるのではないかと思った。

車は時々通るので、ヒッチハイクをしようと思い、タオルを右手につかんで高く上げながら、なお歩き始めた。すると、オート・バイにリヤカーをくくりつけた「サイドカー」におバサンとその嫁さんと、幼児の3人連れが止まってくれた。リヤカーには空のポリバケツがぎっしり積んであった。

しかし、そのオバサンはリヤカーの荷台に腰掛けて足を外にブラブラさせれば乗れるからといって身長180センチ、体重92キロの私を乗せて村まで送ってくれた。村に着いたら、「これから何処に行く」と聞くから「チャイヤー」までだというと、ついでだから送ってやるという。「地獄に仏」とはこのことである。

右の写真が「親子3代の乗ったサイドカー」であり、私はサイドカーのヘリに腰掛けて外に足をぶらつかせて乗せてもらった。左の写真がレン・ポー海岸につながる大きな入江(もともとは川であった)である。ここに昔は多くの帆船が繋留されていたに相違ない。



オバさん運転手は途中のガソリン・スタンドでホリバケツを全部おろして、荷台を空けてくれた、10キロほど離れたチャイヤーの町まで結局送ってもらった。今度は私の足も荷台の内側に無事収まった。

降り際にガソリン代を渡そうとしたが、いらないの一点張りであった。しかし、連れていた赤ん坊にミルクを買ってやってくれと頼んでなにがしかのお金を受け取ってもらった。肝っ玉おっかさんの人情に助けられたチャイヤーの昼下がりであった。

行けばいくほど親しみの湧く人情土地柄である。これで今回の私の冒険旅行の話は終わりである。


(追記)サティン・プラについてはJanice Stargardt という学者が発掘調査の論文を書いているがまだ入手いていない。運河を掘って灌漑用水として使い、水田稲作をおこない、また陶工を連れてきて陶磁器生産をおこなっていたという。


しかし、三仏斉の衰退(12世紀末)とともに、サティン・プラの地位はナコン・シ・タマラートにとってかわられた。