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盤盤(槃槃)国について

盤盤という国はタイ南部の「バンドン湾」から劉氏南宋に朝貢に出かけた國で南宋王朝はバンドンを「盤盤」という風に音訳して記録に残した。現代中国語ではそれが’Pan-pan’という表記になっているからバンドン湾に結びつかない感じをもつ人もいるかもしれない。盤盤というのは3世紀に扶南の范(師)蔓将軍率いる海軍に占領されてから歴史的に扶南の属領であった。首都はチャイヤーであったと考えられるがバンドン湾の主要都市であったスラタニも当然そのテリトリーに含まれる。

スラタニ=Surat ThaniのSuratはインドのグジャラート地方の港湾都市である。古くからインド商人が移民していたと思われる。Wat Si Suaratには古代から伝わる仏足跡(石)がある。岩盤に彫られた小型で素朴なものであり、幸い現存している。

盤盤の生命線は西海岸のクラ地峡に近いタクアパである。タクアパは川ひとつ隔ててココ島(Ko Khao Koh)がある。インド方面からの商船はこのココ島を取引の場所としていた。その場所は島内のトゥン・トック(Thung Tuk)でありQ.ウェールズ以来、最近までタイの美術局(Fine Arts Department)によって発掘作業が続けられ遺跡の全貌が明らかになっている。

ここは漢籍では哥谷羅と表記されたところであろう。ただし、哥谷羅の特定はなされていないが、藤田豊八博士はここであろうと考えておられた。漢籍では箇羅(ケダ)と哥谷羅の2つしか名前が挙がっていない(『新唐書』地理の部に引用されている賈耽の『皇華四達記』)がケダに匹敵するアンダマン海の港はココ島しか考えられない。

扶南はココ島で手に入れた西方の物産(綿織物、ガラス器、香料、ビーズなど)を陸路バンドン湾まで運んだ。それを最初は扶南の主要港のオケオまで運んでから中国方面に朝貢品などとして出荷していたが、劉氏南宋時代にはチャイヤーからも直接運ぶようになった。5世紀には盤盤が朝貢国として登場するのはそのためである。

盤盤が扶南の「身代わり」として入貢を始めたのである。その関係は唐時代にもおよび、メコンデルタを真臘に追われた扶南の王族もチャイヤーから「扶南王国」という看板を掲げて朝貢した。扶南は530年ごろには真臘に滅ぼされたはずなのに唐時代にも朝貢したとする『新唐書』はデタラメではないかという見方がいまでも主流になっているが実はそうではなかったのである。

扶南が健在であった5世紀にはバンドン湾の周辺の狼牙修国や(ランカスカ)や堕和羅鉢底(ドワラワティ)は朝貢していない。扶南がこの海域を支配していたので朝貢に行けなかったのである。羅越(ラチャブリのあたり)は仕方なしにマラッカ海峡経由で広東まで財貨を運んだ。これは風待ちがあり1年がかりの長い船旅になった。

扶南が真臘に追われるとたちまち、狼牙修国(515年~568年)や堕和羅鉢底(583年~649年)は朝貢を開始した。しかし660年代には、盤盤に本拠を置く扶南の王族はマレー半島の諸国を統一しシュリヴィジャヤ(室利仏逝)王国として朝貢を独占した。670年に第1回目の朝貢を行ってからは隋時代に活躍した「赤土国など朝貢を止め、室利仏逝の独壇場になった。

室利仏逝はスマトラの南のパレンバンにあったなどという説では到底このようなマレー半島の歴史的な流れを把握できない。パレンバンは683年にシュリヴィジャヤに占領され属領になった地方の小国にしか過ぎなかったのである。シュリヴィジャヤがパレンバンを占領した戦勝記念碑が「クドゥカン・ブキット碑文」である。その碑文にシュリヴィジャヤの名前が出てきたからといって、そこをシュリヴィジャヤの本拠地とみるのは何の根拠もない。パレンバンはシュリヴィジャヤの版図に新しく組み入れられた属領の1つにしか過ぎない。ここが首都だなどというのは全く的外れ(セデス説)としかいようがない。


梁書海南傳、貞観3年629年
「盤盤国、宋文帝元嘉,孝武孝建、大明中、並遣使貢献。大通元年、其王使使奉表曰:「揚州閻浮震旦天子・・・・今奉薄献、願垂哀受。」 中大通元年五月、累研遣使貢牙像及塔、并献沉檀等香数十種。六年八月、復使送菩提國真舎利及畫塔、并菩提樹葉、詹糖等香。」

盤盤が朝貢を開始したのは劉氏南宋の元嘉帝(424-53年)の時である。何年かは特定できない。梁時代に入り大通元年(527年)と中大通元年(529年)と6年(534年)に入貢し、その時の献上品は記録されている。象牙の(仏)像や仏画、仏塔などが特記されている。その後も盤盤は扶南とほとんど交互に入貢しているのである。献上物は仏教関連品のほか沉檀香などもある。中大通6年の入貢時には仏舎利を貢献している。これは大変貴重なものであったことは言うまでもない。

梁時代の盤盤の入貢は冊府元亀によれば527、529、532、533、534、542、551年が記録されている。このころ扶南は真臘に敗れ、自国からの入貢が困難になり、盤盤から入貢し始めたのではないかと考えられる。

旧唐書、南蠻西南蠻傳 
(五代後晋の宰相劉昫監修940年頃の作品)
「盤盤國、在林邑西南海曲中、北與林邑隔小海、自交州船行四十日乃至。其國與狼牙修國為鄰、人皆学婆羅門書、甚敬仏法。貞観九年、遣使来朝、貢方物。」

交州から船で40日ほどのところにあり、狼牙修国の隣である。人は婆羅門書(サンスクリット語)を学び、仏教を信仰しているという。貞観9年に入貢し、箱物を貢献したとある。
盤盤は隋時代は大業9年(616年)、唐に入り貞観7年(633年)、9年(635年)、15年(641年)、22年(648年)に入貢している。

また、
狼牙修国を盤盤の隣国だという記述も見逃せない。盤盤はバンドン湾に位置する国(首都はチャイヤー)であり、その隣国はといえば現在のナコン・シ・タマラートと考えるのが自然である。通説ではそれが何とソンクラの南のパタニ(Pattani)だということになっている。このパタニ説はタイでは大部分の歴史家が信奉しているようである。
patani

また
『隋書』では煬帝の特使・常駿が赤土国に赴く際に、マレー半島に近づき「西に狼牙須国の山」をみてから南に方向を変え、「赤土國」の領域に入ったと記録している。狼牙須国の山とはランド・マークとなっていた、カオ・ルアン(ルアン山=1825m)のことであると考えられる。パタニのあたりは平地で山などはない。


新唐書巻二百二十二下、列伝一百四十七下 南蛮下, (1060年ごろ北宋、欧陽脩等の勅撰)

「在南海曲、北距環王、限少海、與狼牙修接。自交州海行四十日乃至。王曰楊粟翨。其民瀕水居、比木為柵、石為矢鏃。王坐金龍大榻、諸大人見王,交抱肩以跽。其臣曰勃郎索濫、曰崑崙帝也、曰崑崙勃和、曰崑崙勃諦索甘、又曰古龍。古龍者、崑崙声近耳。在外曰那延、猶中国刺史也。有佛、道士祠、僧肉食、不飲酒、道士謂為貪、不食酒肉。貞観中、再遣使朝。(其南有哥羅、一曰箇羅、亦曰哥羅富沙羅、名米失鉢羅。累石為城、・・・)


これは次の『通典』の記述をかなり参考にしている。

通典、南蛮下
、(杜祐撰801年)
「槃槃國、梁時通焉、在南海大洲中。北與林邑隔小海。自交州船行四十日、至其國。其王曰楊粟翨。粟翨父曰楊徳武連、以上無得而紀。百姓多縁水而居。國無城、皆豎木為柵。王坐金龍牀、毎坐、諸大人皆両手交抱肩而跽。又其國多有婆羅門、自天竺来、就王乞財物。王甚重之。其大臣曰
郎索濫、曰崑崙帝也、曰崑崙和、曰崑崙勃諦索甘。其言崑崙、古龍、声相近、故或有謂為古龍者。其在外城物曰那延、猶中夏刺史、県令。其矢多以石鏃、槊即以鐡為刃。有僧尼寺十所、僧尼讀佛経、皆肉食而不飲酒。亦有道士寺一所、道士不飲食酒肉、讀阿修羅王經、其国不甚重之。俗皆呼僧為比丘、呼道士為貪。隋大業中、亦遣使貢朝貢

ここでは仏教が盛んな様子が描かれている。「僧尼寺十所」に加え、上級の仏教学習用の道士寺(道教の寺ではない)も1か所ある。これは義浄が室利仏逝に1000人以上の仏僧がいて、仏教のレベルもかなり高いと記述していたことに対応している。室利仏逝の前身は盤盤だったのである。もし槃槃が室利仏逝と関係なく「独立した存在」であったならば、義浄が何の記述もしないはずはない。『南海寄帰内法伝』には仏教大国であった盤盤には何も触れていないのはおかしいではないか?


南史夷貊傳上(海南諸國)
(7世紀に李延壽によって書かれたものである。二十四史の一つに挙げられる。)
「槃槃國・元嘉、考建、大明中、並遣使貢献。梁中大通元年、四年、其王使使奉表累送佛牙及畫塔。并献沉檀等香数十種。六年八月、復遣使送菩提國舎利及畫塔図、并菩提葉、詹糖等香。

これは明らかに梁書からの引用である。佛牙というのは間違いであろう。梁書の記述を正としなければならない。