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マレーシア、Kelantan, Kota Bharuの巨大仏足跡(2015年1月16日)

久しぶりにケダを訪問し、Mohamed Ridzuan Kassimさんの案内でブジャン・バレー、ジュライ山、スンゲイ・ぺタニの製鉄遺跡を見学したのち1月16日スンゲイ・ペタニから7時間かけてバスでコタ・バルに移動した。コタ・バルはかつて大日本帝国が1942年12月8日に米国に宣戦布告した折、マレー半島制圧のために上陸作戦を敢行した古戦場である。市内には戦争博物館がある。行ってみたが、ほとんどがパネルの類であまり興味はそそられなかった。

1月17日にはFace Bookで友達になったKujoeさんが車を運転して迎えに来てくれた。朝10時の約束である。後で聞くとKujoeさんの家からホテルまで車で2時間もかかるという。これは東京と足利ほどの距離(約100Km)である。それが最初からわかっていたら、タクシーで出掛けたのにと思ったがKujoeさんでないと場所がわからない。また、Kujoeさんには大型仏足跡以外に私に見せたいものがあったのである。(何とケランタンには最低5基の仏足跡があることになる)。

大型仏足石はBachok地区にあった。市内から30分もかからない場所であり道幅、10mほどの公道に面した場所にあった。公道から見ると単なる岩の塊にしか見えない。しかし、これは紛れもなく仏足跡である。おそらく呵羅単国時代に作られたものであろうから5世紀の作品であろう。サイズも岩の最も高い部分は地上1.8メートルはあり、そこからなだらかに地上に傾斜している。仏足跡の踵の部分は形が崩れてしまっているが全長は2メートルはあり、足の指の形はしっかり残っている。

このようなものを作った仏教徒の集団がここには存在したということである。呵羅単国王は自国が仏教徒の国であることを南宋(劉氏)の高帝(文帝)に奏上していたが、嘘ではなかったことがこれで知られる。文帝元嘉7年(西暦430年)が呵羅単の最初の入貢である。

宋書には「伏惟皇帝,是我眞主。臣是訶羅陁國王名曰堅鎧,今敬稽首聖王足下,惟願大王知我此心久矣,非適今也。山海阻遠,無緣自達,今故遣使,表此丹誠。所遣二人,一名毗紉,一名婆田,令到天子足下。」とうやうやしく奏上し、貢献品としては(呵羅単国)「遣使獻金剛指鐶、赤鸚鵡鳥、天竺國白疊古貝、葉波國古貝等物」を納めている。赤い鸚鵡は国産であろうが、ダイヤモンドの指輪は綿織物(古貝)はインドからの輸入品である。その後も434年、444年、435年、436年、437年、452年と頻繁に朝貢使を派遣する。

これは西海岸のケダ(干陀利)とのつながりを示唆する。インド方面からの輸入品をケダで陸揚げし、セッセと中国に運んだものと考えられる。その朝貢船が船出したのが今のコタ・バルの海岸からであったものと考えられる。呵羅単としての朝貢は452年が最後であるが、その後は干陀利が引き継いだものと考えられる。干陀利はケダであり、東海岸まで領土を有していたものと考えられる。



私はこの大型仏足跡1基だけで終わりかと思っていたが、Kujoeさんの言うにはここから20KmほどのところにBukit Marakという小山があり、そこには4基の仏足跡があるといわれているので、行ってみませんかという。私はもちろん二つ返事でぜひ連れて行ってくれと頼んだ。

Kujoeさんはその小山のふもとで子供に話しかけ、だれか案内してくれる人はいないか尋ねたところ、20分ほどして山刀を持った2人の村の青年がやってきた。彼らがジャングルの雑草や小枝を払いながら頂上までのぼていった。頂上には電線工事の男が3人で休憩しており、彼らに場所を確認してからようやく1個の小型の仏足跡を見つけた。長さは60センチ・メートルほどでチャイヤーやワット・クライソンで見つけた岩に穴を彫っただけの原始的な形のものであった。あと3個はこの近くにあるはずだが、案内人のお兄さんもすぐには見付かられないだろうというのでやむなく引き揚げることにした。私は片道1時間足らずのこの登山ですっかり疲労困憊してしまい。その後遺症は1週間は続いてしまった。