扶南と真臘と林邑の歴史(引用厳禁)2016-10-13
まえがき
私は2010年に『シュリヴィジャヤの歴史』(めこん社)を上梓し、2012年にはその英語版である“The History of Srivijaya ”(めこん社)を書いた。内容的にはそれまでセデス等が作り上げてきたシュリヴィジャヤ像とは多くの点でかけ離れたものになった。その内容の詳細については拙著をご一読いただきたい。Wikipediaによれば、私の理論は「有力」ではあるが、「異論が多い」と書いてある。しかし今まで「異論」なるものに接したことはない。おそらく学界の権威からは「好ましからざる異論」ということで無視もしくは敬遠され続けているのであろう。いうまでもなく東南アジア古代史は資料的制約が多くいわば随所に「ミッシング・リンク」がある。それをどう補っていくかは歴史家の想像力・能力である。しかし、既存の権威者に無批判に追随し、自ら思考停止に陥っている歴史家は間違った仮説をそのまま受け入れて間違いを拡大再生産していかざるをえない。ミッシング・リンクを補っていくには歴史家の「合理的思考」が何よりも求められる。それには考古学のみならず、経済地理学的な知識・常識など多方面の学問的知識も要求される。拙著は英語版を「めこん社」から出版していただいたおかげで東南アジア諸国の研究者の目に触れる機会にも恵まれ、少なからぬ反響を呼び、彼らとの議論の中で新たな発見もしている。と同時に彼らの間には私の仮説が徐々に浸透しつつある。
私がここで指摘しておきたいことは「東南アジア古代史研究」においては「経済地理学」的視点がもっと取り入れられなければならないということである。もちろん過去の歴史家も地理学的要素は取り入れてきたが、誤った解釈に引きずられてきた人があまりに多い。それは権威者とされる学者の理論を無批判に受け入れるからである。資料的な制約はもちろんあるが、おおよその経済発展の流れと歴史的進化は密接に関係しているという点は忘れられるべきではない。単に漢籍や碑文の字句を読み解くだけでは「歴史」は論じられないことは言うまでもない。歴史という「たて糸」を通すには経済地理学的な経過を解明していかねばならない。私が東南アジアの古代史について書き続けるのは「議論を本道に戻す」ことが目的である。現状は余りにひどすぎるのである。
例えばセデスにしても東西交易史という視点でシュリヴィジャヤ史を論じる意図はみられるが、東西貿易の「中間点」をスンダ海峡に置かれてしまっては、後が続けられない。しかもセデスという非科学的な議論を振り回す「権威者」の影響下にある東洋史学者がいまだに圧倒的な多数派を占めているのは意外である。「シュリヴィジャヤ史」の研究以外の、たとえば「考古学」といった分野で優れた実績を上げている人は多いが肝心の「シュリヴィジャヤ史」をセデス理論に任せていたのでは最後はおかしな結論に陥る例も少なくないのではないだろうか。東西交易史においては「西方」とジャワ島がメイン・ルートでありスンダ海峡が中間点であるといったセデスの理論に見られるごとく極端にマレー半島の重要性を無視した現在の「通説」なるものが史実・実態からかけはなれたものになっている。そういう理論を根幹から改めて行かない限り東南アジアの古代史は迷路から脱出することはできない。現実には自らが迷路をさまよっているという自覚すらない歴史家が少なくない。マレー半島を抜きに東西貿易は論じられないし、仏教伝来ルートもデタラメそのものになる。
なぜセデスがシュリヴィジャヤ史において重大なミスを繰り返したかということについては拙著『シュリヴィジャヤの歴史』2010年めこん社、を参照していただきたいが、彼は基本的に『新唐書』の記述を読まなかったか、あるいは無視したかである。『新唐書』には「室利佛逝,一曰尸利佛誓。過軍徒弄山二千里,地東西千里,南北四千里而遠。有城十四,以二國分總。西曰郞婆露斯。」と最初に書いてある。「軍徒弄山二千里」とはホーチミン市沖合のコンダオ島で、そこから2000里(約800Km)のところに室利仏逝はあり、東西1000里、南北4000里の長細い国土であり、傘下に14の城市(属領)があり、国を2分割して統治していた。西は「郎婆露斯」とある。「郎婆露斯」とはLangka Balusであり「ニコバル諸島」のことである。ニコバル諸島の「東」はマレー半島に他ならない。上の記述をどうひねって解釈しても、これがスマトラ島の南部のパレンバンだという結論には至らない。「郎婆露斯」の読み方が難しが、これは桑田六郎博士が『南海東西交通史論考』p199において次のように述べている。
「(新)唐書室利仏逝の絛には二國分総西曰郎婆露斯とある。九世紀中頃即武宗宣宗の世のIbn Khordãdzbeh及びSuleymãn所記の裸人國Langabãlūsが是に当る。是はSirandib(Sri Lanka)から十乃至十五日程、Kilah(Kedah)まで六日程で、今のNicobar諸島を指し。その名は後世まで用いられている。」
イブン・フルダ-ドベーの記述ではセイロン(Sirandib)を出てからランガ・バールス(Langabalus)'までが10~15日かかり、そこからKilah(Kedah) まで6日間という旅程が示されている。5世紀はじめ法顕がたどった航路もまさにこのルートであったと思われる。法顕の「耶婆提」はマレー半島であり、唐以前の漢籍に書かれている「闍婆」とはほとんどの場合「マレー半島」なのである。これを「ジャワ島」に置いてしまってはまったく史実を離れてしまう。5世紀にジャワ島が仏教大国だなどということはありえない。訶羅旦もジャワ島を統治していたという話になってしまう。訶羅旦はどう考えてもマレー半島のケランタンである。5世紀ごろには仏教が伝えられていたし、大型の自然石に刻まれた古典的な「仏足石」もコタバルに存在する。このようなものはマレー半島には数多くあるがジャワ島やスマトラ島では発見されていない。
そもそも「扶南」、「真臘」、「林邑」の歴史についても定説といえるようなものは存在しない。それぞれについて歴史家によって様々な解釈が行われている。そもそもセデスの「パレンバン仮説」に依拠している限り「定説」などは書けるはずはないのである。マイケル・ヴィッカリーの素晴らしい碑文の読解も全体のシナリオでは最後はセデス理論を受け入れているために「臥龍点睛を欠く」ものになってしまっている。
これら3国の歴史について今回私は僭越ながら大筋はどういうものであったかということについておよその見当をつけることができたと確信している。それは「シュリヴィジャヤ史」という、いわば「盾の片側」が確かなものになってきたので、もう片側のインドシナ半島(真臘と林邑)についてもかなり確信をもって書けるようになってきたのである。室利仏逝がマレー半島にあったということが確定されれば、扶南は「自然消滅」ではなくて盤盤国に計画的に時間をかけて亡命して、後に「シュリヴィジャヤ」を建国し、さらに勢力をマラッカ海峡とジャワ島(シャイレンドラ王国)にまで拡大したのだという筋道が明らかになる。現在タイやカンボジアやベトナムはそれぞれ「国境」を異にしているが、古代国家の歴史を考える場合、現代の国境概念を念頭に置いていると大きな過ちを犯しかねない。扶南や真臘の歴史はカンボジア史として狭く限定して論じるわけにはいかない。そこで改めて「扶南と真臘と林邑」の歴史はいかなるものであったかを全体的に概観する必要があると考え本書をあえて上梓するものである。本書ではアンコール王朝は802年に即位したジャヤヴァルマン2世からスルヤヴァルマン1世(1050年没)までの250年間は旧扶南王朝の流れをくむ政権であったという問題提起をした。この間に大乗仏教が一挙にカンボジア全土に普及した。私はここで歴史の流れの本筋に一歩近づけたと確信している。個々には誤りや欠落はあるかもしれないが後世の研究者に正していただくことを期待したい。
シュリヴィジャヤの略史とアンコール王朝
ここで扶南とその後継国シュリヴィジャヤがどういう歴史的経過をたどったか概略をかえりみたい。シュリヴィジャヤという国もしくは政体はメコン・デルタに本拠地を持っていた「扶南」の支配層がメコン・デルタから北方の真臘によって6世紀中頃に駆逐された後に、タイ湾の対岸にある属国「盤盤(首都チャイヤー)」に本拠を移し、そこをベースにして「赤土国」など周辺諸国を吸収合併し、マレー半島中部の統一国家として新しい政体を建国したのが「室利仏逝」すなわちシュリヴィジャヤである。このようなことは当然の歴史認識だと思うが、そう考えている歴史学者は21世紀の今日においてすら非常に少ない。
シュリヴィジャヤの母体は亡命国家扶南であったという見方は私もセデスと同じであるが、内容は全く異なる。セデスは真臘にメコン・デルタを追われた扶南の支配者たちはジャワ島に逃げ、そこでシュリヴィジャヤを建国したと考えている。しかし、普段はさほど交流もないジャワ島に逃れて、そこで扶南の支配者たちは既存の強国「訶陵」を圧倒して室利仏逝を建国するなどという筋書きはあまりにも現実離れしている。「訶陵」国を圧倒して中部ジャワを征服したのは686年にバンカ島に結集したシュリヴィジャヤの大海軍であった。戦勝後シュリヴィジャヤは中部ジャワに「シャイレンドラ王国」を建国する。ただし、しばらく旧訶陵のサンジャヤ王国とも「責任を分担」しながら共存する。この時シュリヴィジャヤの版図は最大になる。ただし、シャイレンドラ王国もパレンバン王国も新しくシュリヴィジャヤ・グループに加わった属領の地位にあったことを忘れてはならない。
図1.室利仏逝の勢力範囲、7世紀末) |
しかし、741年の朝貢を最後に「室利仏逝」は歴史から忽然と消えてしまう。おそらく水真臘に侵略され首都チャイヤーが占領されたものと思われる。ほどなくシュリヴィジャヤ・グループは反撃に転じ、760年代に入り、ジャワ島のシャイレンドラ軍(海軍)が主力になりチャイヤー地域を奪還し、余勢を駆ってメコン川の真臘の主要都市を攻略し、チャンパにも侵攻する。「チャンパから撃退された」と碑文にはあるが、ポ・ナガール神殿などが荒らされ林邑の海軍は壊滅しそれ以後林邑は750年を最後として朝貢できなくなったものと考えられる。シュリヴィジャヤは扶南の故地のカンボジアの奪還をめざし、ジャヤヴァルマン2世を司令官とする遠征軍を派遣し、802年に真臘の主要勢力を制圧し、カンボジアの統一を果たしアンコール王朝が始まる。それから約250-300年間アンコール王朝はシュリヴィジャヤの影響下にあった。その間朝貢を行わず、単馬令(タンブラリンガ)と前進基地ロッブリの軍事的・政治的影響下で中央集権を維持していた。タンブラリンガは現在のナコン・シ・タマラートであるが当時はシュリヴィジャヤぼ「対外政策本部」と「タイ湾側の諸国の管理本部」がおかれていたと考えられる。同時に大乗仏教が支配領域全土に普及する。それ以前の真臘王朝はシヴァ信仰が中心であった。扶南の王族もヒンドゥー教信者が多かったが、扶南は中国やインドとの交易の中で仏教を知り、取り入れて行った。後のシュリヴィジャヤ時代には大乗仏教を積極的に支配下の国々に広めていった。国王も民衆も等しく仏教徒であるという「調和のとれた平和国家」が成立し、長期にわたり存続し繁栄したのである。国王はヒンドゥー教を信仰していたものもいたが、仏教と調和させていたのである。
いっぽう、チャイヤーを一時的に占拠していた真臘勢力を駆逐したシャイレンドラ王国軍司令官であったパナンカラン王は功績によりシュリヴィジャヤのマハラジャ(大王)に推挙される(リゴール碑文、775年)。帰国後、中部ジャワにおいて共同支配者であったサンジャヤ王家の「代表権」を剥奪し、中部ジャワはシャイレンドラ王国に統一された。おそらくその記念事業としてボロブドゥール寺院という世界最大の大乗仏教寺院を建設する。しかし、サンジャヤ・グループもプランバナン(Prambanan)シヴァ寺院を9世紀中頃に建設する(856年Shiva-grha碑文)。これはサンジャヤのラカイ・ピカタン(Rakai Pikatan)王がシャイレンドラのバラプトラ王子を追放した記念碑的建造物に他ならない。若干の未完の部分を残したままボブドゥール寺院は土をかけられて埋められてしまった(メラビ火山の噴火で自然に埋まったという説もあるが信じがたい)と考えられる。そのおかげで保存状態が比較的良好に保たたれ現代まで維持されてきたとも言えよう。両方ともジョクジャカルタの近くに存在すること自体シャイレンドラ王朝とサンジャヤ王朝が7世末(686年)から9世紀初め(830年頃)にかけてどのような関係で「共存」してきたかを示唆する歴史的証拠である。
シャイレンドラの皇太子バラプトラが父サマラトゥンガ大王の死後、サンジャヤ勢(ラカイ・ピカタン)との抗争に敗れ830年頃にジャワ島から追い出され、ジャワ島のシャイレンドラ王国は消滅する。バラプトラは途中ジャンビに立ち寄るがそこを根拠地とすることができず結局ケダーに逃れ、シャイレンドラ家のマハラジャを名乗ることになった。しかし、グループ全体を統率する権威はなく、ジャンビ国は自前で朝貢に出かけるなど、シュリヴィジャヤ・グループは一時期統制が乱れる。その後ジャンビも分裂の不利益を悟り、9世紀末にチャイヤー、ケダー、ジャンビの主要3か国で「三仏斉」を結成する。チャイヤーはタイ湾、ケダーはマラカ海峡の北口、ジャンビは南口を守備範囲として海上支配を担当する。目的は朝貢貿易の東南アジアにおける独占と、西方からの財貨の強制的買付である。
チャイヤーのやや南に位置するタンブラリンガ(単馬令=ナコン・シ・タマラート)は特別本部としてアンコール、ロップリの経営にあたる。また、タイ湾側諸国の年貢取立てなどの管理も担当する。中国との交易窓口は室利仏逝時代マレー半島東岸のソンクラが使われ、シャイレンドラ、三仏斉時代はやや北のサティンプラ港が使用され、その管理は内陸部のパッタルンが行った。960年から宋王朝への朝貢が始まり、三仏斉体制は順調に機能する。1025年に南インド・タミールのチョーラ王国にケダーが占領されるが、三仏斉の結束はどうにか維持され、チョーラ撤退後は再び結束を固め活力を取り戻す。チョーラの主目的はケダーを起点とするマレー半島横断通商路の独占的利用であり、内陸部の支配を目指したものではなかった。
南宋王朝が財政難から、「朝貢制度」を廃止し、財貨の輸入を全て「市舶司制度」(一般的通商制度)に移行したため三仏斉の存在意義がなくなり、1178年を最後に朝貢を取りやめる。その後まもなく三仏斉は自然消滅したものと考えられる。13世紀に入り、タンブラリンガ(単馬令)のチャンドラバヌが独立宣言(1230年)を行い、マレー半島のシュリヴィジャヤの属領を支配下に置く。しかしチャンドラバヌ王は2度のセイロン出兵に失敗し勢いを失い、13世紀末にはタイ族のスコタイ王朝のラムカムヘン王がタンブラリンガを支配下に置く。明の時代になって浡淋邦(パレンバン)が自ら「三仏斉」を名乗って朝貢に訪れるなどという話は最初から虚偽である。それを馬歓が『瀛涯勝覧』でまことしやかに取り上げたので当時の日本の東洋史家は全員が騙されてしまった。パレンバンが三仏斉すなわち室利仏逝であるという虚偽のシナリオが世界中にまかり通ってしまったのである。パレンバンは室利仏逝の14の属領の一つにしか過ぎなかったのである。シュリヴィジャヤ史が『明史』や『瀛涯勝覧』研究から始められたことが、シュリヴィジャヤ史を大きく歪める結果となってしまった。両書ともシュリヴィジャヤが消滅してから書かれたものであり、およそ荒唐無稽なシナリオになっているのもやむを得ない。
アンコール王朝は12世紀にはいるとスルヤヴァルマン2世という、旧扶南系以外から出てきた実力者が登場し、仏教寺院ではなく、ヴィシュヌ神を祀るアンコール・ワットを建設し、1116年には約300年ぶりに朝貢を再開する。その後、ジャヤヴァルマン7世というバイヨンを建設した仏教徒王が登場して大乗仏教は輝きを取り戻すが、彼の死後間もなく、シヴァ神を盲信するジャヤヴァルマン8世が現れ、徹底した反仏教政策を実行した。当然王と民衆とのミゾが拡大し、アンコール王朝も衰退していく。それでも13世紀末に周達観が『真臘風土記』を書いたころまでは元王朝の知識人を驚嘆させるような繁栄が残されていた。その後、1431年にタイのアユタヤ軍にアンコールが占領され、カンボジアは長い停滞期に入り、フランスの植民地になるなど苦難の歴史を経て現在に至る。
第1章 扶南
1-1 扶南の建国と発展
扶南という国名は「三国時代」の呉の黄武4年(西暦225年)に朝貢国として初めて登場した。扶南建国の歴史は『梁書』に詳しく語られている。『梁書』によれば「有事鬼神字混填、夢神賜之弓、乗賈人舶入海・・・」ということで、タムラリピティ(Tamralipti=擔袟)出身のブラーマンの混填(カウンディニヤ)が神のお告げで弓矢を賜り、商人の船に乗り、マレー半島を迂回してメコン・デルタの一角(カンボジアもしくはベトナム)の海岸にたどり着き、原住民の女王である「柳葉」と対戦し、神の弓の一撃で柳葉を降伏させる。彼女を妻としてめとり、小王国の王となり、7人の子供を授かり、勢力を拡張し、7人をそれぞれ小国の王としたという「伝説」が扶南の出発点となったという物語である。
扶南は海洋貿易を経済のベースにした「海洋国家」であるということが骨格になっていて、それはその後のシュリヴィジャヤになっても変わらない。もちろん後背地は水田稲作地帯であったが、そこの農民から取り立てる「年貢」に財政収入のほとんどを依存する政権ではないという点が大きな特色となる国である。そのためやがて属領であった「真臘」に追放されてしまう。「前アンコール王朝」の真臘は扶南の陸の通商路を受け持つと同時に領地に農村地帯を保有する農民支配型の政治勢力であった。農村を支配することによって強力な歩兵集団を組織できた。一方、扶南は貿易を主体とする「海軍国家」であった。
インド商人がベンガル地方の港を出発してマラッカ海峡を下り、南シナ海を通ってメコン川の下流に帆船で到達するには大変な時間がかかった。また、航海によるリスク(天候や海賊)も少なくない。そこに扶南はメコン・デルタのどこかに根拠地(オケオ港の辺り)を持つ貿易国家として存立する根拠があったのである。しかし、そこまで「西方の物産」をどういうルートで運んだかが問題であり、当初は下ビルマの港(タトンやタヴォイやテナセリム)からはるばるタイの内陸部を主にチ川やムン川といった河川を使いながら陸送してメコン・デルタの「オケオ」の港まで財貨を運ぶという時代が存在した。ここでそれを「陸の扶南」と呼ぶことにする。
いっぽう、財貨を主に海上船舶を使って運ぶルートも存在し、特に「マレー半島横断通商路」が開発された4世紀半ば以降は,マレー半島の西岸から東岸までを陸送したのちにチャイヤーの港からタイ湾を横切りオケオあるいは直接中国に運ぶルートが主流になってきた。これを「海の扶南」と呼ぶことにする。また4世紀の後半から、季節風を利用して南インドやスリランカ方面からベンガル湾を横断してマレー半島の西岸の港(タクアパやケダー)に西方の物産が直接運ばれるルートが確立されると、この「マレー半島横断ルート」が急速に盛んになった。インドからの貿易船もベンガル地方から南インドやスリランカ方面からの大型船が主流になってきた。しかし、これは扶南の独占するところとはならず、南のケダーを拠点とする独自の対中国貿易ルートが出現した。その代表格がケダーに首都を置く「干陀利(カンダリ)」国である。彼らは「室利仏逝(シュリヴィジャヤ)」に統一される7世紀中頃までは独自のルートを維持してきた。ケダーが脚光を浴びるようになったのは南インド方面からベンガル湾を直接横断する航路が4世紀後半以降開発されてからである。帆船は南インド・セイロン方面からマレー半島に到着しても、冬季の北東風が吹くまではマラッカ海峡を南下できず、寄港地で半年近くも「風待ち」を余儀なくされたからである。ケダーは後背地で水田稲作を行っており、食料や飲料水の補給も十分に可能であり船待ちには便利な港であった。
図2、マレー半島横断通商路
マレー半島を横断して東海岸にまで貨物を運べば、その年のうちに中国(広東)にまで商品を輸送できたのである。当時マレー半島にはモン族が商業活動を行っており、それにインド商人が参加した。扶南は盤盤で彼らを使い流通ルートを拡充した。扶南は単に王族だけでなく多くの事務スタッフを抱えて仕事をやっていたに相違ない。住民にも文字を読み書きする能力が必要とされ、『旧唐書』盤盤の条には「人皆學婆羅門書,甚敬佛法」とあり、おそらくサンスクリット語を勉強していたものと考えられる。同時に仏教も市民の間に普及していた。チャイヤーやスラタニ周辺は当時としては大変進んだ都市国家であったことがうかがわれる。7世紀前後に市民がサンスクリット語を学習していた国は東南アジアでは盤盤以外になかった。当時は文字の読み書きは僧侶や一握りのエリ-ト階級の特権であった。
いっぽう、ケダーなど扶南の勢力の及ばない地域では地元の豪族が小国家の国王としてこの「通商業務」に携わるものが出てきた。ケダーには中国で箇羅、呵羅、羯茶とか干陀利と呼ばれた王国があり、東海岸には呵羅単(のちに丹丹)と呼ばれる「受け皿」的な王国が存在した。受け皿になった国はほかにもある。ソンクラ、パタニ、ランカスカなどである。漢籍には呵羅単は「闍婆州」にあるとか「治闍婆」とか書かれているので「ジャワ島」の王国であったなどと信じている学者も多いが、実はマレーシアのケランタン(コタバル)であった。唐時代までは「闍婆」とはマレー半島を含めていたのである。ケランタンには5世紀ごろ作られたと思われる大型の仏足石やの自然石(岩)に刻まれた仏足石が現存する。漢籍にも呵羅単は5世紀には仏教国であったと書かれている。その物的証拠が「仏足石」として現在まで奇跡的に残されている。
写真1、コタバルの古代仏足石
写真はコタバル市郊外バチョク(Bachok)の大型仏足石、筆者撮影
インド(含むベンガル)とタイ(大陸部と半島)の交易自体は紀元前3-4世紀のマウリヤ王朝のころから始まったと推定されている。そこから商人たちがマレー半島やインドシナ半島に出入りしていた。紀元前3世紀ごろの墳墓からインド商人がもたらしたと思われるビーズの首飾りも発見されている。また交易のみならず、インド人がマレー半島やスマトラ島にやってきたのは金鉱山やスズ鉱山を探すためであった。インド人商人が交易品として持ち込んできたものは木綿織物やビーズの首飾りや陶器などで、食料品や現地でとれる香料・香木・金・錫などと交換したものとみられる。
時代が下るとインド商人は中国からの絹や工芸品や東南アジアの香辛料を購入し、さらにそれらをローマ帝国などに再輸出して巨利を得た。インドはローマから大量の金貨を得て、そのために「銀本位制」から「金本位制」に通貨が変わり、より多くの金の需要が発生した。そのため、インド人の「金」探索熱は高まり、スヴァルナドウィパ(Suwarnadvipa=両側が水の黄金国)すなわちマレー半島やスマトラ島への金鉱探索が加速された。スヴァルナドウィッパといえば「スマトラ島」と短絡的に理解している歴史学者は非常に多い。
中国との交易においては陸路による、いわゆる「シルク・ロード」よりも海路による「シルク・ロード」のほうがはるかに効率的で益も上がることをインド商人やペルシャ商人はいち早く見抜いていたのである。また、インド商人は仲間意識が強く、多くの重要事項を合議制で決めていた。そのため扶南の政策運営についてもトップ・リーダーの間でよく話し合われて意思決定がなされていたフシがある。時に王の決定についても范師蔓や次の僑陳如(第2カウンディヤ)の例に見るように合議で決められたケースもあった。扶南の碑文の例が少ないのは特定の個人の事績を強調する習慣がなかったためとも考えられる。
扶南の「建国」といっても最初は土塁で囲われた港町(集落)程度のものであったと思われる。海岸に近い原住民の集落を占拠したのかもしれない。当然現代的意味での国家ではなかった。中国に朝貢にいって初めて「国名」を聞かれ、プノン(Phnom/Bnam=山の意味)」から来たと漠然と答えたので役人は「扶南」と音・漢訳したものであろう。
『南斉書』には僑陳如闍邪跋摩(Kaundinya Jayavarman=カウンディヤ・ジャヤヴァルマン、478~514年))が永明2年(484年)に派遣した朝貢使節の団長のインド人ブラーマンの「那伽仙(Nagasena=ナーガセーナ)」が首都に赴き「其國俗事摩醯首羅天神,神常降於摩躭山」」と述べている。意訳すると「扶南の民衆はマヘーシュバラ(最高神=シヴァ神)を敬い、メル山に降り立つと信じており、神様がそこに鎮座されている限り、常に気候も良く平和である。」と信じているのである。したがって国王が遷都するたびに適当な山をみつけては「聖山」に見立てていた。アンコール時代にはピラミッドの上に高い塔を建設し、そこをメル山に見立て、宇宙の「中心軸」として尊崇したのである。杉本直治郎博士は扶南の使節が語ったと思われる山はバ・プノン(Ba Phnon)ではなかろうかといっている(杉本、p376)。しかし、そこが扶南の元々の都であったとは思えない。そこは海やメコン川から離れすぎているし、オケオとの運河のつながりもない。遺跡の多さや地理的条件からみてやはりアンコール・ボレイが首都であったとみるべきである。
このようにメル山(須弥山)信仰が最初からシヴァ神信仰として扶南にはもたらされていたといってよいであろう。このころの扶南は仏教の普及はさほどなく、祖先崇拝やヒンドゥー教が民衆に広く信仰されていたようである。ただし、扶南にも大乗仏教がこのころには入っていた。仏教の普及が進んでいたのはインド商人の出入りの多かったマレー半島の属国の「盤盤」国であった。この地域には仏教伝来の証ともいえる岩盤に仏の足型を彫りこんだだけの初歩的な「仏足石」がかなりみられる。盤盤とインドとの交易関係は盛んなになるにつれて仏僧も商人と共にこの地に移住して布教を行ったものとみられる。文化的にも盤盤は進んでおり、扶南のエリート達がカンボジアに固執する理由は失われていたとすら考えられる。扶南の仏教は属領の盤盤から仏教が押し寄せてきたと同時に、むしろ朝貢先の中国の仏教熱に刺激された面もある。しかし、ひとたび仏教に取り組んでみると扶南の指導者たちは仏教の教義の深さに惹かれ、自ら仏教徒となるものが少なくなかった。いつの間にか大乗仏教(密教系)は扶南の指導者の共通の哲学的基礎となっていった。その後の歴史を見ると、扶南の支配権が及ぶ地域では大乗仏教が普及していった。その典型が中部ジャワのシャイレンドラ王国であり、アンコール王朝である。
混填(カウンディニヤ)が扶南の本当の始祖といえるかどうかは断定しがたいが、『梁書』にはその後の王統の歴史が詳しく書かれている。
「盤況年九十餘乃死,立中子盤盤,以國事委其大將范蔓。盤盤立三年死,國人共舉蔓為王。蔓勇健有權略,復以兵威攻伐國,咸服屬之,自號扶南大王。乃治作大船,窮漲海,攻屈都昆、九稚、典孫等十餘國,開地五六千里。次當伐金隣國,萬遇疾,遣太子金生代行。蔓姊子旃,時為二千人將,因篡蔓自立,遣人詐金生而殺之。蔓死時,有乳下兒名長,在民間,至年二十,乃結國中壯士襲殺旃,旃大將范尋又殺長而自立。」
扶南国王の盤況は90歳以上まで生きるが、国政は大将軍の范蔓にゆだね、国王は息子の盤盤に継がせるが3年で死んでしまう。すると扶南国民は大将軍范蔓が王位に就くように推挙する。このように扶南は国王の継承には、王家の血筋よりも国民(実際は重臣であろう)の推挙で次の国王を決めるということがあったことがわかる。後世(5世紀)の憍陳如(カウンディニヤ)も外部(盤盤国)からやってきて国王に推挙された。
范蔓は天才的な戦略家であり扶南の交易ルート(特に西方の物産の仕入れと輸送)を「独占的」に確保するために大型の手漕ぎボートからなる海軍を組織し、主要交易港を次々攻略し支配下に収める。上の文中の「九稚」は「九離」の間違いでタクアパとされ、典孫はテナセリム(メルグイ)だと考えられている。主要貿易港を支配することによって西方からの輸入財貨を独占的に手に入れ(もちろん代価は支払う)、中国貿易に利用したのであった。屈都昆については特定できていないがチャンパ(林邑)の主要港で日南郡の近くであったと考えられる。ここへの影響力を行使することによって林邑の交易はある程度掣肘をうける形になったと考えられる。
また、「金隣国」については諸説あるが、ビルマからスリー・パゴダ峠を越えてタイ内陸部に入る要の位置にあったカンチャナブリではないかと私は考える。カンチャナ(Kanchana)とはサンスクリット語で金という意味がある。ここは内陸部ではあるがメクロン川でラチャブリにつながっており、タイ湾にも出られる。Q.ウェールズは金隣とはやや内陸部のウ・トン(U Thong)であろうとしている。ウ・トンはシ・テェプ(Si Thep)への起点にもなっていた最重要ともいえる中継点であった。ウ・トンはスパンブリの郊外であり、スパンブリというのもモン語で「黄金の町」という意味だという。カンチャナブリからウ・トン、スパンブリにかけてはいわばモン族の完全な支配地域であったということである。この地域は扶南の「陸の通商路の要」であり、范蔓はタイ湾からこのメクロン川を遡って攻撃を仕掛けたものと思われる。カンチャナブリとウ・トンは扶南としては是非押さえておきたい要衝だったのである。いずれにせよ、范蔓の戦略は見事に結実し、扶南の東西貿易の地位はゆるぎないものとなる。同時に、扶南の海軍は近隣に卓越していて常時睨みを利かせることもできた。この「海上支配」策は後のシュリヴィジャヤ時代にも受け継がれて行った。范蔓が病に倒れると長男の范金生に代行させるが、范蔓の姉の子の范旃(Fan Zhan)将軍が金生を謀殺して王位を奪ってしまう。范旃王は呉に赤烏6年(243年)に入貢する。范蔓の末子の范長(Fan Chang)は幼少期から民間で20年間暮らしていたが范旃王を殺害し、兄金生の仇討ちに成功する。しかし彼は范旃の将軍であった范尋(Fan Xun)に殺されてしまい、結局、范尋が王位を継ぐというめまぐるしい政変劇が記録されている。
范尋王は西晋、武帝の泰始元年(265年)に朝貢する。その後も范壽王の西晋への朝貢は太康8年(287年)まで4回続く。70年後の東晋の穆帝升平元年(357年)に「王竺旃檀奉表献馴象」の記録がある。その中で当時15歳の少年であった穆帝は象の贈り物などされても民衆を驚かすうえに、飼育に手間暇かかって仕方がないから2度と持ってくるな」と露骨な不快感を示したとある(『梁書』)。
「王竺旃檀」の「竺」とはインド人であることを示す言葉である。「旃檀」はサンスクリット語のチャンダナ(Candana)である。本人もインド人としての「自意識」があった。しかし、彼の朝貢は「象事件」がたたり失敗に終わった。この事件以降4世紀における扶南の入貢は激減し、389年のみとなり、その後も劉氏南宋の元嘉11年(434年)まで入貢が途絶える。また、5世紀に入ると「盤盤国」が劉氏・南宋の嘉年間(424~53年)に入貢を開始した。盤盤の入貢は実質的に扶南の入貢と変わらない。いっぽう、ライバルの林邑は扶南の不振をよそに東晋時代に7回入貢する。扶南は2回に留まる。
4世紀から5世紀の中ごろにかけて扶南は政争が続いたとみられれ、朝貢回数も激減するが婆羅門(ブラーマン)の憍陳如(カウンディニヤ)が「扶南の王となれ」という神のお告げで「従属国の盤盤国」にやってくると、その噂はたちどころに扶南に伝わり、国を挙げて迎えられて国王に就任したと『梁書』に書かれている。この2人目のカウンディニヤ(憍陳如)はインドの制度などを導入し行政改革を実行し、その後の扶南の繁栄の基礎を築いたとされる。この挿話は扶南と盤盤がいかに近い関係にあったかを物語る。盤盤は事実上扶南の属領というか現代風にいえば「子会社」のようなものであった。それは3世紀の初めに扶南の大将軍范(師)蔓がタクアパを占領し、タクアパ⇒チャイヤー間の「マレー半島横断通商路」が開発されてからのことであった。4-5世紀にかけて経済地理が大きく変わったのである。
1-2 扶南と中国
呉の孫権(222-252年)の交州刺史であった呂岱(りょたい)の任地は広東であった。管轄下の「交趾郡」の太守「士燮(ししょう)」の死後、息子の「士徽」が交趾の南の「九真郡」の太守に任命されたが、士徽は交趾から離れずに呉に反旗を翻した。呂岱は交趾と九真に軍を送り士徽を破り、「士一族」を排除し、呉の南方の支配権を確立し実力者として名声を博し、「鎮南将軍」に叙された。また呂岱は部下の朱応を「宣化従事」に、康泰を「中郎」に任じ、扶南の国情を調査させるべく派遣した。朱応が役職上は「代表」格であるが、後に残された文献は康泰の執筆のものが多く引用されている。
康泰は帰国後『外国伝』と『扶南土俗』を書いたとされるが本文は散逸してしまい、その一部が『太平御覧』(980年頃に北宋の李昉等が編纂)などに引用されている。「巻787、四夷部八、南蛮三」によると「諸薄」(ジャワ島)という国の存在が認識されていて周辺諸国の情報ももたらされた。
「諸薄」の西北に「薄嘆州」があり金を生産し米などと交換しているとか、東の「馬五州」は「雞舌香」(丁子=クローブ)を生産しているといった話である。この「馬五州」はクローブの生産地が限られていることからモルッカ諸島しか考えられない。また、西北には鉄を生産する「耽蘭州」があるという。当時の鉄の生産地はケダーのスンガイ・バトゥ(Sungai Batu)であろう(2009年に一大製鉄遺跡が発見された。タイ内陸部やカンボジアでも古代製鉄遺跡が発見されている。)。また「諸薄」では白畳布(木綿)が織られていたという。扶南はこのころ諸薄国と交易関係があったことを示唆している。ただし『扶南土俗』には明らかにおかしい記述もある。錫を生産するという「比瓐国」は諸薄の「東南」にあるという。しかし、そこは海である。古来錫の生産地はマレー半島西岸のタクアパやケダー付近である。また、「蒲羅中國」には5-6寸の尻尾をつけた食人種がいるとも書かれている。もちろんそんな国はありえないが、これらは全て康泰が扶南で聞いて書いたものである。
しかし、金、錫、鉄の生産は3世紀にはマレー半島で実際に行われていたことは確かである。朱応は『扶南異物志』を書いた。両者とも『梁書』に引用されている。
『梁書』の「中天竺」の条の記述によれば、さらに康泰は扶南で思いがけず「蘇物」という人物にめぐりあう。彼は扶南からインドに派遣された特使であり、帰国したばかりであった。彼から往復で4年もかけて行ってきた中天竺の情報を入手できた。少し長くなるが引用すると、[呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國,從扶南發投拘利口,循海大灣中正西北入歷灣邊數國,可一年餘到天竺江口,逆水行七千里乃至焉。天竺王驚曰:「海濱極遠,猶有此人。」卽呼令觀視國內,仍差陳、宋等二人以月支馬四匹報旃,遣物等還,積四年方至。其時吳遣中郎康泰使扶南,及見陳、宋等,具問天竺土俗,云「佛道所興國也。人民敦厖,土地饒沃。其王號茂論」]とある。蘇物は投拘利(タクアパ)から船でインドにわたり、1年半かけて7千里の旅を経て「天竺」に到着する。王は大変喜び2人の部下をつけてお土産に馬4頭を授け范旃王に返礼をする。康泰はその話を報告書に書き入れる。「天竺には茂論という国王がおり仏教が盛んで人口も多く、土地も肥沃で大変豊かである」という趣旨である。しかし、扶南は仏教の本格的導入には直ちには取り組まなかったようである。茂論王とはクシャン朝のムルンダ王(Murunda、ヴァスデヴァ王)のことと考えられる。3世紀の半ばにはこのように具体的な国際的交流がみられたことは注目に値する。
3世紀の前半にスタートした中国への朝貢貿易は4世紀には上述のように扶南が突如不振に陥る。東晋時代(317~420年)の扶南の朝貢回数はわずかに2度(357、389年)のみであるが、いっぽう林邑の朝貢は極めて順調であった。5世紀の初めまでに7回(340、372、373、375、377、414、417年)が記録されている。扶南不振の原因は扶南内部で4世紀には政争があり朝貢どころではなかったのではないだろうか。その混乱を収束させるために第2のカウンディニヤ(憍陳如)が呼ばれたと考えられている。ただし、彼が実際に直接インドからやってきたかどうかは不明であり、盤盤国に移住していたブラーマンであるとも考えられる。扶南は林邑にくらべ西方の物産の仕入れには有利な立場にありながら肝心の朝貢回数が激減したことは扶南にとっては大問題であった。実際は西方から仕入れた財貨は林邑などに転売していた可能性がある。それは朝貢貿易に比べれば利益は少なかったはずである。
中国への朝貢というのは中国政府との直接「貿易」を意味する。当時は王朝が最大の買い手であり、また高価で買い上げてくれたのである。形式は「貢物」とそれに対する回賜(返礼)であり、朝貢国は中国皇帝の海外における「臣下」という形式がとられた。朝貢国同士の紛争は厳しく禁止されていた。この「建前」は後世の唐宋の時代まで引き継がれたのである。しかし、このころ扶南と林邑は友好関係を維持しながらも時々紛争を起こしている。
扶南は西方(インド、ペルシャ、アラブなど)の物産をビルマの沿海部の港で仕入れてそれをメコン下流域の港(オケオなど)に運び、改めて中国に持ち込んでいた。林邑はどういう方法で西方の財貨を仕入れ中国との交易を行っていたのかは必ずしも明らかではない。ビルマの港湾で荷揚げされた財貨をタイの大陸部を経てムン川経由でメコン川まで運び、さらに上流の港サヴァンナケット(Savannakhet)で陸揚げして、フエ(Hue)などの海岸部に運ぶというルートがあったが、インド商人がマラッカ海峡を回ってインドシナ半島に到着する古来からのルートもあったと推定される。すなわち、ベンガルの港(タムラリピティ)から冬季に船出すれば途中でタクアパ(ココ島=哥谷羅)やケダーに立ち寄っても風待ちの必要がなく、一気にマラッカ海峡を南下し、ムラユ国(リアウ諸島)にまで到達でき、翌年の春風で広州方面に北上できた。
朝貢時に貢物として持参した品物の詳細が分からないケースが多いが、象や犀角やインドシナ半島でとれる香木などに加え、西方の物産も貢献品に加えていたに相違ない。林邑にとしてもワット・プー(チャンパサック)の辺りは重要拠点であり、そこを自分の領土として支配していたことが有史以来何度かはあったはずである。チャンパサックがチャンパの支配下にあればメコン川を少し下ってチャンパの領土を通って貨物の輸送もできたはずである。チャンパサックがクメール(扶南・真臘)に占拠されるとメコン川のやや上流から陸送に頼ることになる。後に林邑は陸の仕入れルートが細る5世紀以降は、船でチャイヤーの港「レン・ポー=Laem Poh」にまで行き、そこで扶南が運んできたものを買い入れ(仕入れ)ていたこともありうる。扶南からは「卸値」で西方の物産を買っていたのである。両国は長期にわたり、商業・文化の面では比較的良好な関係を維持していたものと思われる。ただし、その場合扶南が林邑にたいして「優位」に立っていた時期がかなり続いたものと見られる。430年頃林邑は交州に侵攻するために扶南に援軍を頼んで断られたこともあった。また扶南の自称王子「当根純」(実際は婆羅門ナーガセーナの奴婢)が5世紀後半(480~491年)に林邑の王位を一時期奪ったこともあった。(後述の「林邑小史」参照)
タイの主な河川と古代の都市
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1-3 陸の扶南-陸路依存の時代
インド商人は当初はビルマのタヴォイ(Tavoy)やテナセリム(Tenasserim)という港湾都市経由でベンガル地方から舟で渡たってきて交易を行ったり、さらにタイ内陸部深く入り込み、先住のモン族やクメール族と共に鉱産物製品(高錫含有青銅)を製造したり、あるいは農業指導を行っていた。おそらく灌漑による水稲の栽培もインド人から教わったものであろう。インド人は自国の宗教であったヒンドゥー教や仏教も東南アジアの各地に持ち込んだ。ただし、ヒンドゥー教といってもインド本国にあるような「カースト・システム」は取り入れられなかった。モン族は商工業と水田稲作を経済的な基盤としていた比較的平等な社会を構成していたためインド式の「カースト制度」は受け入れられなかっものたと思われる。
扶南とチャンパ(林邑)が中国への朝貢を開始したの3世紀前半であるが、それ以前からインド商人による中国への「交易ルート」の開発が行われた。その一つは帆船でマラッカ海峡回り南シナ海に出るルートがあったが、主に河川を利用するタイ内陸部の陸路の交易ルートも存在していた。もともとモン族は下ビルマで農業や交易をおこなっていた民族と考えられるが、マレー半島のみならず、大陸部においても東へ東へと進出していった。それはやがてタイ内陸から中国雲南省を結ぶ交易ルートの開発につながっていった。さらにはラオスからベトナムにまで彼らは足を延ばした。
インド商人は当初はモン族の内陸商業ルートを利用し、メコン川に到達していた。これはインド人の東漸ともいうべきものであるがインドからの移民が大挙押し寄せたとは到底いえない。しかし少数のインド人商人が3世紀の朝貢開始以来中国に出入りし、インドやさらにはペルシャやアラブの製品を持ち込み、中国の絹製品や工芸品と交換し、それを西方に運んで利益を上げるという「東西貿易」の原型ともいうべき形が形成されていった。しかし、それは個々のインド商人が単独で商品を持ち込んだというより、同族もしくは仲間とグループを作り、大型の帆船で中国までやってきたと考えられる。扶南という政体は単独の国王支配というより時に集団的合議制の色彩が感じられるのは建国当初から「仲間」関係が強かったとすら思われる。その例が范蔓の国王推薦や第2カウンディヤの国王就任の経緯である。
扶南が成立してから当初は陸路で西方の物品がメコン・デルタの「前進基地」まで運ばれた。その途中でいくつかの「集荷場・町」が作られた。まず、ビルマのテナセリムやタヴォイで水揚げされた貨物は三仏塔峠(スリー・パゴダ・パス)を越えてカンチャナブリまで運ばれた。このルートは新石器時代から存在したといわれる。そこからウ・トン(U Thong)に運ばれた。その中間点のカンチャナブリにはプラサート・ムアン・シン(Prasart Muang Sing)という古代からの遺跡がある。そこは後にアンコール王朝が交易の便宜のために整備拡充したといわれる大型の要塞となり、商品の保管場所でもあり、仏教寺院遺跡ともなっている。ドヴァラヴァティ様式の菩薩像(バンコク博物館所蔵)などが発見された仏教遺跡でもあり、現在は歴史公園となっている。(写真)
1-3-1 陸路の拠点シ・テェプ(Si Thep)の存在
シ・テェプは古くはスリ・デヴァ(Sri DevaまたはSrideb=神宮)と称されていた。インド商人が出入りするようになってから、当初はヒンドゥー寺院が建てられ、古代の神像が多く発見されている。近くにパサック(Pasak)川が流れ、それを使ってロップリに出て、さらにアユタヤを経てタイ湾に出られる。またチ川やムン川を使えばメコン川につながっており、この2つの水系をシ・テェプは利用することができた。シ・テェプは内陸都市ではあったが、古代から通商路の要の位置にあった。シ・テェプはもともとモン族の商業拠点があり、ここに扶南グループは古代から物流拠点を置いていた。現在はシ・テェプは小さな地方都市といった風情であるが、西暦後から7世紀くらいまではヒンドゥーの神々が祀られる神殿がいくつも建てられ、多くの商人が行き来するタイ内陸部では最も規模の大きい有力な都市だったのである。現在残された遺跡の規模をみると当時の大きさがしのばれる。ドヴァラヴァティが盛んであったころはモン族の商業都市として繁栄していた。現在もドワラワティ風の仏教寺院遺跡があり、巨大な「法輪」も遺跡公園内に飾られている。11世紀以降の建設と伝えられるシヴァ神を祀った塔もシ・テェプ敷地内に残されている。現在はピザの斜塔のように傾いてしまっているが12世紀ごろまではかなり繁栄していた様子がうかがえる。集落の囲いの中には巨大なストーパの遺跡が複数みられる。タイ東北部は銅鉱山もあり紀元前から銅の精錬なども行われ、金属加工品の流通もかなり活発に行われていた。また、タイ東北部では製鉄と同時に製塩も行われていた。また、ロップリにも製銅遺跡がみられる(新田栄治、東南アジアの考古学、p87-96)。扶南系の商人がシ・テェプに到着したと思われる3世紀ごろにはすでに鉱物製品の生産と流通が確立していたと考えられる。
タイ内陸部の鉱物製品はビルマ沿海部からインド方面に輸出されていたことも考えられる。こういった生産・流通にはモン族が深く関与していた。南のラチャブリ郊外のクー・ブア(Khu Bua)遺跡とシ・テェプ遺跡の建造物が類似している点を見ても。モン族の経済・文化圏がタイ内陸部深くにまで浸透拡大していたことがわかる。
図3.タイ国内の古代通商ルート
古代のタイ内陸部の商業ネット・ワークはいかなるものであったかは必ずしも明らかではないが、遺跡の状況から見ると紀元前1000年以上も前から内陸部の通商はかなり盛んに行われており、交津の要衝の墳墓からはしばしばドンソン青銅鼓が発見される。これら要衝の地には古代から集落が形成されそれを取り仕切る権力者が存在していた証でもある。交通の要衝を中心古代の都市は形成されていったものと思われる。多くは集落の周りに水濠がめぐらされており、現在でも農業用の灌漑施設として利用されている。シ・テェプの古代の支配者たちは「農業経営」をも視野に入れてこの地を統治していたものと考えられる。
問題はどういうルートで商品がここに運ばれ、それがどういうルートで扶南の港のオケオまで運ばれたかである。ビルマのタヴォイで陸揚げされたものはカンチャナブリまで運ばれ、それがウ・トンにまで運ばれたというのがクオリッチ・ウェールズ(Quaritch Wales)の仮説である。そこからナコン・サワンに運ばれ、さらにシ・テェプに運ばれたと考えられる。シ・テェプから先は上に述べたような形でチ川やムン川を使ってメコン川にまで運ばれたという概略の図式が成り立つと考えられる。当時の主要な輸送は川に頼っていたことは間違いないが、その間をつなぐ道路も存在していたし、陸送する部分も多かったはずである。
また、タイ内陸奥地においても活発な商業活動が有史以来行われていたと考えられる。最近ではメコン川沿いのナコン・パノムで30メートル近い古代木造船の残骸が2013年に発見された。そこからは唐時代の陶器の壺が出てきており、9世紀以前に使われていたことは間違いない。その大型帆船についても解明されなければならない。この船の帆柱(17メートル超)も発見されており、船腹は釘を用いず紐で接続されており(縫合船)、板の隙間は樹脂で充填されている。船腹は2重構造になっていた。この大型帆船の存在はメコン川の上流にも大量の貨物が輸送されていたことを物語る。中国雲南地方とタイ北部・東北部やカンボジア、ベトナムともメコン水系を通じて古代から経済交流が盛んであったことが推測される。
この大型船は現地で建造された可能性がある。すでに3世紀において扶南は范蔓が長さ20メートルの手漕ぎ外洋船を建造した実績がある。この図はそれに三角帆をつけたものであろうか。外洋から運ばれたとすればそのルートは謎である。残骸が発見された場所がナコン・パノムであることからワット・プーを起点としてメコン川上流を行き来していた大型輸送船であった。
シ・テェプがいつまでオケオとの商業上のつながりがあったかが問題であるが、オケオ港は4-5世紀ごろから衰退に向かったにせよメコンとオケオを繋ぐ水運ルートそのものは13世紀までは存続したのと考えられている。
写真5.シ・テェプ、6ウ・トン
上の写真はシ・テェプの航空写真である。環濠集落の形がよくわかる。最初の円形のものに、さらに外側に長方形の壁が継ぎ足されている。1930年代にウェールズ(Q.Wales)が現地で発掘調査(1935~6年)を行い、キャンプの近くに虎が出没したと書いている。今は外側には住宅や学校もできているが、本体部分は広々とした歴史公園として整備されている。パサック川を下ればロップリまでは水運が可能である。ウェールズはパサック川は水運に適さない(特に乾季)といっているが小型船であればさほど問題はなかったと考えられる。シ・テェプからチ川までは陸送ルートが利用されていた。いずれにせよ当時の輸送ネット・ワークは未解明の部分が多い。Q.ウェールズはシ・テェプの遺跡をみて、ここの建設技術が後にクメールやチャンパに伝わっていったと述べている。当時としては有数の商業・宗教上の大都市であった。
扶南の古都であるアンコール・ボレイ(Ankor-Borei=国都という意味のクメール語)や主要港のオケオにはシ・テェプ系とみられるヒンドゥーの神々の像が多く残されていることをみても、両地域は文化的、経済的、宗教的つながりが深かったことがわかる。これらの像を後期グプタ様式とみる考古学者は多いが、ヒンドゥー神については、インドからの直接の影響を受けた作品というより、現地で独自に発展された様式である様に見受けられる。歴史家の多くは「インド化された東南アジア」という表現を好むが、インド人が大挙移住してきてこの地に彼ら自身の植民地を形成したとは考えられない。商業ルートをそれが確保しながらモン族やクメール人と融合しつつ進んだインド風の文化や宗教や生産技術をもたらしたと考えられる。それが「インド化」の実態であろう。
上の写真はいずれもシ・テェプで発見されヒンドゥーの神々の像であり現在バンコク博物館で展示されているものである。1番目がスルヤ(Surya=太陽神)、2番目がクリシュナ(Krishna Govardhana)で左手で天を支えているため体が左に傾いている。 クリシュナはヴィシュヌの変身と見られている。3番目のものはシヴァ神だと考えられている。4番目はやや体をくねらせた円筒形の帽子をかぶったヴィシュヌヌ神もある。これはオケオやマレー半島に類似のものが数多くみられる。この円筒帽のヴィシュヌ神は各地に普及した。スルヤ神はヒンドゥーの神々の中心的存在でありヴィシュヌはスルヤ神の子供と考えられている。シ・テェプからは8体のスルヤ像が発見された。これら以外にも多数ありニューヨークの美術館にも展示されている。いずれも6世紀前後のものと考えられる。
これらのヒンドゥーの神像の多さをみてもシ・テェプはかつてスリ・デヴァ(Sri Deva=神宮)と呼ばれていたことが納得できる。シ・テェプの中には大型の「法輪」があり、後には仏教信仰の寺院が建設されたことを物語る。ドワラワティ(モン)様式の大ストーパもかつては存在していた。その台座部分にはドワラワティ様式の人形が浮き彫りとして飾りとなっている。ただし、「仏足跡」が存在した形跡はない。4-5世紀ごろはあくまで古典的なヒンドゥー教徒が支配者であったと考えられ、真臘初期にもそれは持ち越された。これらのヒンドゥー神像はいずれも4—5世紀の作品と考えられるが公式には6-7世紀のものという記述が多い。特にヴィシュヌ像は頭部が円筒形になっており、アンコール・ボレイやチャイヤーのヴシュヌ像の先行形式とみることができよう。これらはインドのグプタ時代(320~600年)の影響を受けているといわれるが、インドのヴィシュヌ像は形が複雑であり、円筒形の帽子にもさまざな装飾が施されている。いずれにせよシ・テェプ以降の作品は「単純化・簡素化」されたスタイルに変更されていったことは確かである。
シ・テェプから数キロ離れた山の洞窟(Tamorat Cave)で発見された。モン族の大乗仏教徒が残したものと考えられ、仏像頭部などは外国人収集家が持ち去られたが、多くは回収されバンコク国立博物館に収蔵されているという。スパンブリ県のウ・トン(U Thong)もシ・テェプと同様な「環濠集落」が形成され、中には王宮やヒンドゥー・仏教寺院が建設された。その規模はかなり大きく、今でも「歴史公園」という形で遺跡が修復され、国立博物館も設置され保存されている。シ・テェプには及ばないがかなりの大都市であったと想像される。これらの「古代都市」は物資の集積場でもあり、軍隊が配置され警備も万全であったに相違ない。このウ・トンからシ・テェプ、さらには東北の大都市ナコン・ラチャシマ付近に至る陸路の通商路も存在したことは確かである。その陸の通商路は次に見るチャナサ王国が一時期支配していたものと考えられる。
1-3-2 チャナサ(Canasa)王国など中間王国の存在
東北部のナコン・ラチャシマの近くにムアン・セマ(Muang Sema)という大規模な遺跡があり、発掘調査も行われた。青銅の仏像や法輪等仏教関係の発掘品が多い。経済的には商業の中心であったことは間違いない。規模は755mX1845mでモン族系の王国があったとみられる。
ここにはアンコール王朝よりも前からモン族やクメール系住民が居住していた。その後の真臘王国との関係は不明であるが政治権力を握っていたのはモン族であると考えられる。ナコン・ラチャシマの南35kmほどのところにあるパクトンチャイ(Pakthongchai)郡のヒン・コン(Hin Khon)にも8世紀にはスロ・ヴラー(Sro Vraah)という小国がありヌリペンドラディパティヴァルマン(Nripendradhipativarman)という王が支配していたという記録が残されている。住民はクメール系が多かったようだが、この地域におけるモン族の展開はかなり広範囲に及んでいたと考えられる。いまでも古典的な(スコタイ・アユタヤ以前の形式)の仏足石が随所にみられる。仏教とヒンドゥー教が信仰されていた。
また、8世紀ごろにはタムラン(Tamran)を都としてこの辺りを支配していたという碑文が残されているがその場所は特定できていない。いずれにせよ、この東北のナコン・ラチャシマ辺りには真臘の直接支配下にないモン族の王国が存在していたものと思われる。
ムアン・セマ近くのボ・イカ(Bo Ika)碑文(868年)は古代クメール文字が使用され、内容はサンスクリット語とクメール語で書かれている。ドヴァラヴァティ体制からは独立した存在であったことを示している。内容としてはチャナサ王が仏教寺院に奴隷などを貢献したことが書かれており、仏教儀式を執り行ったということである。モン族はドヴァラヴァティの支配下に属していない小仏教国家が多数存在していたことも明らかである。古代の仏足石がこの地域に点在している。
下の写真はナコン・ラチャシマ県コンブリ(Konburi)のWat Suwan Banphot(通称赤牛寺)の仏足石であり、長さは約1.8メートルあり、岩盤に直接彫りこまれたものである。もともとはヒンドゥー神が祀られていたが後に仏教寺院となったものである。
(写真・赤牛寺)
チャナサ王国はシ・テェプからコラート(ナコン・ラチャシマ)を結ぶモン族の国家で商業的なつながりが強い国であったと考えられる。その間にチ川とムン川という2大河川がある。セデスは7世紀から12世紀までチャサナ国は存在したといているがもっと古くから存在していたと考えられる。ただし、シ・テェプは上に見たとおり、歴史も古く別格の存在であったことは間違いない。
また、アユタヤの937年の銘の入った碑文(K.949)によるとシ・テェプからムアン・セマにかけてはスリ・チャナサ(Sri Canasa)またはチャナサプラ(Canasapura)と呼ばれる王国が存在し、バガダッタ(Bhagaddata)という王が記録され、数代後にスンダラパラクラマ(Sundaraparakrama)王、息子のスンダラヴァルマン(Sundaravarman,)その息子兄弟のナラパティシムハヴァルマン(Narapatisimhavarman)およびマンガラヴァルマン(Mangalavarman)という王が支配していた。(M.Vickery, p200)。また、ここからジャヤヴァルマン5世の名前が刻まれた碑文(971年)が発見されている。
扶南は当初はビルマ沿海部⇒タイ中央部⇒メコン川⇒メコン・デルタの港という「陸の通商路」を古代から利用していたが、3世紀の半ば以降、クラ地峡に近い港を起点とするマレー半島横断通商路を開発して、より経済的でスピーディな通商ルートを作り、「東西貿易」の覇者になっていった。そのきっかけとなったのは扶南の将軍で後に国王になった范(師)蔓が3世紀の初めにマレー半島の有力な港湾を軍事的に制圧し、西方からの物資の輸入の窓口を抑えたことにある。その結果、最も有利に西方の財貨を扶南の港のオケオまで運ぶルートの模索が行われ、タクアパ⇒チャイヤーというマレー半島横断通商路が最終的に確立されたのである。最初はクラ地峡からチュンポンまでの距離が80キロメートルと最短であったことから「クラ地峡⇒チュンポン」ルートも使われていた。しかし、このルートは山越えで周囲はジャングルで物流ルートとして難点があったため、地理学上も最も安全で輸送(水運)も便利なタクアパ⇒チャイヤーのルートが最終的に選択されたのである。この通商ルートには「盤盤」というモン族系の国の領域であったが、范蔓以降は事実上扶南の支配下に置かれていた。盤盤は水田稲作地もあり、人口も多くかつ商業も活発であり、領内のウィアンサ(Wiang Sa)には土塁で囲われた集落や貨物の集積場が置かれており、その遺跡は現在でも見ることができる。
もちろんビルマのテナセリムやタヴォイに運ばれてくる財貨は内陸部を経由するいくつかのルートが利用された。シ・テェプを経由するルートも、扶南がメコン・デルタを追われる6-7世紀中ごろまでは存在意義があったと考えられる。これらの陸の通商路は全て扶南の管理下に置かれていたものと考えられる。道中の要所要所には扶南グループの倉庫兼小要塞が建設されていたことであろう。ビルマの港からタイへのルートは次の3ルートが存在した。
① タトン(Thaton)やモールメン(Moulmein)にベンガル地方から船で入荷した財貨はメー・ソット(Mae Sot)峠経由でターク(Tak)まで運ばれ、そこから陸路スコタイに行くか、ピン川を使ってナコン・サワン、アユタヤ経由でメナム川を通り、タイ湾にまで運ばれた。ナコン・サワンから東に進むとシ・テェプにも到達する。ナコン・サワンからスパンブリ(ウ・トン)というルートも使われた。タークは古い街で、初期の仏足跡も残されている。仏足跡の写真はターク市の小高い丘にあるワット・ドイ・コイ・カオ・ケオ(Wat Doi Khoi Khao Keao)のものである。
上の写真はスリー・パゴダ峠。パゴダは小型で高さ3メートル程度、右はターク市の古寺ワット・ドイ・コイ・コ・ケオの仏足跡であり10世紀以前のモン族仏教徒の作品であろう。
② これより南に位置するタヴォイ(Tavoy)に入荷したものは「スリー・パゴダ・峠」経由でカンチャナブリ⇒ラチャブリに運ばれ、ここからタイ湾経由でオケオまで輸送された。このルートが古代においては最も多用されていたと考えられる。もちろんカンチャナブリからウ・トン⇒シ・テェプにも運ばれた。
③ 漢籍では頓遜(典孫)すなわちテナセリムがしきりに登場する。次にみるメルグイ-テナセリムもこのスリ-・パゴダ峠越えルートも利用していたようであるが、最短のルートは山越えでプラチョウプ・キリ・カン地域に運ばれ、現在のホア・ヒンなどに残るいくつかの港を使い、タイ湾経由でオケオまで運ぶというルートが存在したに相違ない。ここは当初は「投和」として漢籍に紹介されていたが、後に堕和羅鉢底(ドワラワティ)と呼ばれる国となった。唐時代に羅越と呼ばれた国はラチャブリと考えられる。扶南の范蔓大将軍(後の国王)はこの地を真っ先に攻略し、支配した。ちなみに典孫はモン語で「五つの王国」という意味があり、ビルマ側からタイ湾側にまたがる「5か国」が連合してより大きな「典孫国」を形成していたものと思われる。このルートが下ビルマからの最短のルートであった。
1-3-3ドヴァラヴァティ
マレー半島の付け根の地域はモン族が支配していた地域であり、ペチャブリやラチャブリを包摂するモン族の支配地域であった。後にドワラヴァティ文化として紹介されている独自の形式の仏像などは扶南や真臘の影響をあまり受けていない。それらのテラコッタ像などの遺物はラチャブリの郊外のクー・ブア(Khu Bua)遺跡から多く発見されているが、ナコン・パトムあたりからも発見され、タイ内陸部にかなりの広がりをみせている。ドワラワティは北部のハリプンチャイにも王国を築いていた。モン族の居住範囲は現在のタイ王国のほぼ全域に広がっていた。特に内陸部で果たした役割は大きく、それがやがてクメールや13世紀以降は雲南地方から進出してきたタイ族に支配権を奪われていった。モン族の歴史については必ずしも十分な解明が行われているとはいえないが、彼らの経済的・文化的役割は大きかった。彼らは仏教を受け入れ、各地に仏足跡(石)を仏教信仰の証として残している。
メルグイ・テナセリムに入荷した財貨は距離的な経済性を考えれば、山越えでシンコン峠(Shingkhon Pass)からプラ・チュウブ・キリカン(Prachuap Khiri Kan)まで運ばれた。そこからホア・ヒンの港に運びタイ湾を南下するというルートが有力だったに違いない。この周辺には今でも仏足跡が数多く残されている。また、ペチャブリやラチャブリにも運ばれた。(上記③のルート)
モン族の国家である「ドワラワティ」は西暦584年に「頭和」として朝貢を開始するが、これはのちに堕和羅鉢底や独和羅などとして唐時代には記録された「ドワラヴァティ」に他ならない。彼らは扶南がメコン・デルタから追われた隙をついて入貢した。堕和羅鉢底は唐の貞観年中に入貢したと記録されている。638年、640年、643年、649年と相次いだ入貢がみられるが、扶南が室利仏逝としてマレー半島からの入貢を670年以降、独占するとドワラヴァティは入貢しなくなってしまった。海上交通の支配権を室利仏逝に奪われたためと考えられる。彼らが陸路で朝貢していたとすれば室利仏逝の登場には左右されなかったはずである。
ところが日本の歴史学者の中にはドワラヴァティが台頭してきたために扶南は衰退したという逆の見方がある。それはモン族国家「ピュー」が白貝(綿織物)の生産国でそれを扶南が買って中国で売りさばいていたところ、同じモン族のよしみで「ドワラヴァティ」がその商売を横取りしてしまったというものである。そのため扶南は「製品の仕入れができず商売あがったり」になって衰退したというのである。(『岩波東南アジア史講座、第1巻、223頁』。伊東利勝)これは奇説というべきで「ドワラヴァティが実力的に扶南を上回るという」主張に等しい。もしそうだとしたら、扶南をしのいでドワラヴァティが東西貿易の覇者になっていたということになろう。しかし、歴史の経過を見れば明らかなように漢籍から消えてしまったのはドヴァラヴァティの方である。
漢籍に記録されている限りは、65年間で堕和羅鉢底という国が短期間で姿を消したことになる。しかし、実際に消滅したということではない。それよりもだいぶ早くからドワラヴァティ国の前身は「頓遜・典孫」などという呼称で存在していたが、扶南の掣肘を受け自ら朝貢に行けなかったのであり、648年が最後となったのは、その後は室利仏逝が朝貢を許可しなかったためであると考えるべきである。実際にはモン族の国家は名前は変わっても扶南が登場する西暦225年よりもはるか前から集落を形成し各地に「・・・ブリ(Buri)」という地名を各地に残している。三仏斉(シュリヴィジャヤ)が姿を消した後も北部タイにハリプンチャイ(今のランプン市)というモン族国家が存在していた。1292年にランナー(Lanna)王国のメングライ(Mangrai)大王に占領されるまで続いていた。これらを総称してドワラヴァティ王国とか文化と呼ばれることが多いが「モン族国家」として考えればよい。マレー半島の「盤盤」ももともとはモン族国家であった。モン族は現在のタイ王国のほぼ全域にわたってタイ族の先住民として居住していたと考えられる。。
ドワラヴァティは独特の文化様式を持っていたことはよく知られている。ラチャブリ(Ratchaburi)とその郊外にあるクー・ボア遺跡から多く発見された仏像や、人面像はほかの地域とは異なる豊かな表情をみせている。とうていインド風とはいえないこの素朴なスタイルの像がタイ内陸部で相当な広がりをみせており、シ・テェプの大ストーパの基盤の装飾にもなっている。しかし、ヴィシュヌ像も発見されており、最初はヒンドゥー教が入り後に仏教がこの地に広かったことは明らかである。
地理学的にみてもタイ湾に直結しているラチャブリはモン族の交易センターであったことは間違いなく、クー・ボアの遺跡を見ても大規模な文化国家であったことが窺われる。かつては朝貢に赴いた堕和羅鉢底(ドワラワティ)の中心地でもあり、漢籍でいう「羅越」はここを指した可能性は極めて高い。起源は下ビルマではなかろうか。シュリヴィジャヤの物とは趣を異にする。
1-4 海の扶南
1-4-1 西海岸の主要港の支配
陸の通商道路より海路を使い、クラ地峡の近くで貨物を水揚げし、マレー半島横断通商路を使ってチャイヤー(バンドン湾)からタイ湾を横断してオケオにまで船で運ぶのが時間の短縮になり、コストも安くつくということを扶南の人々は発見した。そのためには関連する港を武力で制圧し、自国の支配下に置く必要があった。それを実行に移したのが上記の范蔓将軍(後に国王)であった。3世紀の初めごろ彼は大型の手漕ぎ船を多数作り、「海軍」を組織した。手漕ぎ船は季節風の影響が少なくて済むし、帆船よりも高速である。
范蔓の建造した船については『太平御覧』巻769に詳しく書かれている。『呉時外国伝』にいう。「扶南国伐木為船・長者一二尋・広肘六尺・頭尾似魚・皆以鉄鑷露装備・大者載百人・人有長短橈及篙各一。従頭至尾、面有各五十人作・或四十二人・随船大小。立則長橈・坐則蓉短橈・水浅乃用篙・皆当上応声如一」舟の長さは12尋で約23メートル、幅6肘尺で約3メートルであったと推定される(当時の度量衡は正確にはわからないが肘尺≒50㎝とされる)。『南斉書』では長さ8-9丈(22~23メートル、幅6-7肘尺(3~3.5メートル)。鉄の薄板片の胴着を用意していた。大きい船には100人乗り込むことができたとある。漕ぎ手片側42~50人上下2段に分かれ、上段(立ってこぐ)のオールは下段の座って漕ぐものより当然長い。号令を掛け合いながら漕いだ。この船には大小の小舟を曳航させていた。船の頭尾部は魚の形の飾りをつけていたと詳しい。船の後ろにつける小舟は食料などを運ぶためのものであろう。この船は当時の呉にはなかった新型船であった。この海軍はその後の扶南・室利仏逝に継承されていった。
范蔓の海軍については『梁書』は次のように書いている。「(范師)蔓勇健権略、復以兵威攻伐旁國、咸服属之、自號扶南大王、乃治作大船、窮漲海、攻屈都昆、九稚、典孫等十餘國、開地五六千里。」とあり、范(師)蔓は勇将であり戦略に優れ、周辺諸国を制圧し、服属させた。自ら「扶南大王」と称し、大型船(手漕ぎ)を建造し、遠征に赴いた。タクアパ(九稚)、テナセリム(典孫)など10か所あまりの港湾都市を支配下に置いている。屈都昆はインドシナ半島中北部の林邑の傘下の貿易港とみられるが正確な所在地は特定できていない。西方の港湾攻略の目的はなにかといえば一義的には「西方からの物産」の独占的な買い取りである。その物産の多くは中国との交易に使われた。商品の仕入れルートを抑えれば、その後の販売(朝貢を含む)が有利になるのは明らかである。
このようにして傘下に収めた港のうち扶南が最も重用したのがマレー半島クラ地峡南のタクアパ(ココ島=哥谷羅)であり、そことチャイヤーを結ぶマレー半島横断通商路であった。ここにはモン族の王国「盤盤(槃槃)」があったが、実質的な支配者は扶南であった。ココ島はタクアパの向かい側の島であり、漢籍にある「哥谷羅」とは国際貿易の市場が開かれていたこの島(トゥン・トゥク=Thung Thuk遺跡)のことであることは確実である。扶南はこのマレー半島横断通商路を4-5世紀以降は主に使用した。このルートは盤盤国の領域であるが、それは扶南の支配下にあった。盤盤国の名前の由来は中国に朝貢に最初にやってきた時「南宋・劉氏の元嘉年中(424-453年)」に国名を聞かれ、「バンドン湾」から来たといったので中国の役人は「盤盤」と音訳して記録したものと推定される。現代中国語の発音では「Pan-Pan」となるため所在地の特定について無用な混乱が生じているが「Ban-Ban=バンバン」すなわちBan Don湾と理解すべきである。この盤盤こそが後の「室利仏逝」の原点となった地域である。
1-4-2ベンガル湾横断直行ルートとケダーの興隆
4世紀後半からモンスーン(季節風)を利用して南インド、セイロンから大型帆船でベンガル湾を直接横断するルートが開発されると、タクアパ、クラビ、パンガー、トラン、ケダーなどのマレー半島西岸の港湾の利便性が急増した。ただし夏季に吹く偏西風でベンガル湾を渡ってきてもマレー半島に到着後ただちにマラッカ海峡を南下できない。南西の逆風が吹いているからである。マラッカ海峡を南下するには冬季の東北風を待たねばならない。その間5~6か月間は風待ちをする。
法顕が411年にセイロンからモンスーンを利用しベンガル湾を横断して、何度も難破の危機を潜り抜けてたどり着いた先が「耶婆提」だったと記録している。そこで5か月風待ちをしたのである。耶婆提とは「ヤヴァ・ドウィッパ=Javadvipa」の漢訳であるが、場所は特定できないまでもマレー半島西岸の主要な港湾のどこかであることは間違いない(多分、ケダー)。この耶婆提をほとんどの学者がジャワ島だとかスマトラ島と考えているが全くの誤りである。「耶婆」は「ジャヴァ」だからジャワ島のどこかであるなどと短絡的に解釈すると実態が分からなくなる。漢籍でいう「闍婆(ジャヴァ)」は宋時代まではマレー半島以南を指していたのである。
法顕はその耶婆提で5か月間冬季の東北風を待機していたのである。法顕はさらにその後マラッカ海峡を南下し、末羅瑜(ムラユ=おそらくシンガポールの向かいのリアウ諸島)で一時期風待ちし、旧暦4月の南西風に乗って広州方面に向かたのであった。法顕が風待ちをしたマレー半島の港はおそらくケダーのブジャン渓谷付近であったろうと思われる。ケダーは4世紀ごろから「風待ちの港」として南インドやセイロンからベンガル湾を横断してくる商船の貿易港として急速な発展を遂げることになる。ここには当時は扶南の直接的な支配は受けていなかったと考えられる。その間にケダーを中心とする干陀利(カンダリ、カントーリ)が中国との交易関係を発展させた。干陀利はもちろん東海岸に出荷用の港(多分呵羅単やソンクラ)を用意していた。
ちなみに「Dvipa(ドウィッパ)」とは「両側が水」という意味であり「島もしくは半島」である。これもほとんどの歴史家が「島」もしくは「スマトラ島」と考えている。そういうことになると、東南アジア方面にやってくるインドの仏僧全員が「スマトラ島」に布教に行ってしまうことになり、まことに歪んだ「仏教伝来史」が出来上がってしまう。スマトラ島にも仏教遺跡はあるが「ムアロ・ジャンビ」や「ムアラ・タクス」などに集中していて、そこにはインド僧が訪れたことは間違いないが、広がりという意味ではタイの盤盤国(チャイヤー)やナコン・シ・タマラートやケダーには到底及ばない。人口の規模も桁違いである。しかし、今でもスヴァルナドヴィッパ(Suvarnadvipa)はスマトラ島のことだと確信している学者は少なくない。辞書にまでそう書いている「専門家」もいるのでまことに始末が悪い。これではいつまでたっても真実に近づけない。南タイには数多く残されている古典的な仏足石がスマトラ島からはいまだに1基も発見されていない。仏教伝来の密度がスマトラ島とマレー半島では桁違いの差がある。ところがインドの文献では東南アジア島嶼部をスヴァルナドヴィパという言葉で表示してしまうので大勢の仏僧がスマトラ島に押し掛けて行ったと後世の歴史家に誤解されてしまった。これによって大多数の読者は永遠に真実から疎外される。ちなみにP.Wheatleyはその著書“The Golden Khersonese(黄金の半島)”において “Svarunadvipa, the Goldn Island or Golden Peninsula”と正しく定義づけをしている(P.Wheatley, p182)。ただし、ホイートリーはパレンバン論者なので最後の結論がしばしばずれてしまうのは惜しまれる。
1-4-3 扶南の亡命先としての属領盤盤と室利仏逝の成立
盤盤(チャイヤー)は歴史的に扶南の属領でありながら、こと仏教の普及に関しては、マレー半島に存在したために、扶南よりもはるかに進んでいた。それは『通典』(801年、杜祐編)に述べられているとおりである。当時仏教寺院が11か所あり、そのうちの1つは「道士寺」とよばれるワン・ランク上の仏教寺院であったという。一般の僧は「肉食不飲酒」であるが道士(高級僧)は肉食も飲酒もしなかったと書かれている。そのかわり、民間人は彼らを「貪」(欲)だと評していたという。7世紀のころから一部の高級仏僧には市民から貪欲と評せられるような行動がみられたらしい。
私はシュリヴィジャヤ史を扶南の歴史の延長として認識している。セデスもそれは同じだが、彼は扶南の王族は真臘に追放されて「ジャワ島」に逃亡したと考えている。そこからセデスの歴史認識に重大な間違いが次々と連鎖的に発生していく。その結果、とんでもない東南アジア古代史が「通説」としてまかり通ってきた。扶南は6世紀の中ごろ、旧属国で同じ扶南の王族が支配する内陸部の農業国家「真臘」に圧迫され、ついにはメコン・デルタから追い落とされてしまったというのが『梁書』などに書かれており、通説である。しかし、真臘は実は扶南の「陸の通商路(輸入品の輸送ルート)」を支配していた扶南の属領だったのである。しかし、彼らはシ・テェプのような中継点を支配し、同時にそこでは農村地帯も支配していた。そういう意味では扶南本国よりも経済的基盤は強く、農民を多数擁していたため兵力の募集も容易であり、軍事的にも強力になっていった。
セデスは扶南の王族は遠く「ジャワ島」に逃げていき、そこで「シャイレンドラ王国」を建国し、それがシュリヴィジャヤ(室利仏逝)として栄えたというシナリオを作った。セデスはここでも大きな間違いをしてしまい、後々の彼のシュリヴィジャヤ史は史実から大きく逸脱した荒唐無稽なものになってしまった。ジャワ島にシュリヴィジャヤの勢力が及んだのは686年にバンカ島に結集したシュリヴィジャヤ軍が「訶陵」を攻撃して中部ジャワを占領した後のことである(バンカ島、Kota Kapur碑文686年)。それ以降にシャイレンドラ王国がジャワに誕生した。シャイレンドラとはシュリヴィジャヤ軍の司令官の名前である(Dapunta Selendra、Sojomerto碑文)。言葉の意味としては「聖山の神」である。扶南の王族はしばしば「山の神」を自称していたので、シャイレンドラ王も扶南の王族の一員だった可能性が高い。これをジャワ島の地元民だとかインドからやってきたとかスマトラ島の出身だとかという主張はおよそ的外れである。セデスは扶南の王家がシャイレンドラ家であったと単純に考えていたようである。しかし、扶南は単一の王家が継続的に支配権を握っていたような王国ではなかったことは扶南の歴史をひも解けば一目瞭然である。
もう一つの説は扶南は真臘に敗れ、そこで「貿易国家」としての歴史的使命が終わり、崩壊と同時に消滅したという見方である。これは桑田六郎博士の説でもあり、最近では,鋭い碑文解析で知られるM.ヴィッカリー博士(Dr.Michael Vickery)も扶南消滅論者である。M.ヴィッカリーは6世紀の中ごろには扶南の貿易そのものが衰退していたと主張する。しかし、彼は527年から扶南に代わり、盤盤の入貢回数が急増していることを見落としている。M.ヴィッカリーはもともと扶南も真臘も漢籍が取り上げるような「大国」ではなかったという基本的な考え方をしている。巨大な「中央集権国家」というよりは「小国家」の連合体という色彩が強かったことはその通りかもしれない。真臘が北から小国を併合しながら南下し大国になっていった反面、扶南のカンボジア支配はメコン流域とオケオの辺りの港湾地帯に集中していたことは間違いない。しかし、残念ながら両博士の扶南消滅説は間違いである。
盤盤の入貢は劉氏南宋時代の元嘉年間(425~53年)に始まり途中70年ほど途切れたが、時代に急増する。527年、529年、532年、533年、542年、551年、陳時代に入り、571年、584年と続く。すなわち、扶南の地位が真臘に押され危うくなってから急増したのである。いっぽう、扶南は梁時代には503年、511年、512年、514年、517年、519年、520年、530年、535年、539年、543年、陳時代に入り、559年、572年、588年と続く。ここで注目すべきは扶南の入貢回数はさほど落ちているようにはみえないが527年以降の盤盤の急増である。盤盤の入貢は実質的には扶南の入貢と変わらない。両者を足し合わせると扶南の入貢は6世紀には急増したといえる。しかもおそらく530年以降は扶南の入貢は盤盤の港(チャイヤーのレン・ポー)から行われたとみられることである。520年代の後半にメコン・デルタを追われた扶南は貿易の本拠をバンドン湾(チヤイヤー)に移し扶南と盤盤の両方の「名義」を使い分けながら朝貢を行っていたと考えられる。この辺の事情を見落とすといつ真臘に扶南が追い出されたかということもみえてこない。真臘のバヴァヴァルマンが王位に就いたのは550年前後とされているが、それよりも20年以上も前に扶南はメコン・デルタを事実上放棄して盤盤に本拠地を移転していたと考えられるのである。
『通典』は盤盤について「國無城,皆豎木為」と国には城壁はなく王の住居は短い木の柵がめぐらされているだけだと書いている。また兵士の装備については「其矢多以石為鏃,槊則以鐵為刃」槍の穂先は鉄の刀がついているが鏃(やじり)には石を使っているという記述である。およそ軍事強国とは程遠い軍隊しかもっていなかった様子がうかがわれる。これは宗主国である扶南の意向でそうしたとしか考えられない。国王は「楊=Yang」という姓でモン族であったと考えられるが、実質的支配者は扶南であった。
確かに扶南の伝統的な支配地域は商品流通ルートが主体であり、主に主要な川筋をコントロールしていた。シ・テェプ近くのチ川、それにつながるムン川、ワット・プーそれから南のメコン川流域と首都があったとされるアンコール・ボレイと港湾都市オケオは運河でつながっていた。いわば「点と線」の支配地域であり、カンボジア内陸で大規模灌漑用水を建設し、水田稲作を経営するようになるのは9世紀以降のアンコール王朝になってからである。ただし、真臘勢はその前から拠点都市を中心に周辺に広域農村部を支配していたことはシ・テェプの例をみても明らかである。ワット・プーも周辺にかなりの水田地帯を擁していた。
盤盤(首都はチャイヤー)王国はもともとモン族の王が支配していたが、3世紀の范(師)蔓の征服以降は歴史的に扶南の属領であった。扶南の亡命政権は盤盤を乗っ取り、そこを基盤にしてマレー半島の貿易国家を次々統合し室利仏逝(シュリヴィジャヤ)を建国したのである。室利仏逝は670年代にはマレー半島の唯一の朝貢国という地位を築きあげてしまった。盤盤の名前もその時点で消滅する。
扶南はタクアパ⇒チャイヤーのマレー半島横断通商路が確立すると、チャイヤーから中国への直接輸送がより効率的であり、わざわざオケオまで財貨を運んでから改めて朝貢に出かける必要性が無くなってしまった。それがオケオの衰退につながったのである。オケオは紀元前5世紀ころから西暦5世紀ごろまで港湾都市として栄えていたが、4世紀をピークに次第に衰退に向かいつつあった。それと並行して、内陸の「シ・テェプ」の存在意義も薄れていった。そこに不満と危機感を持った「真臘勢力」が扶南本部(アンコール・ボレイ地区)を攻撃した一因があるとみることができる。しかし、シ・テェプは内陸中央部のかなめの商業都市という性格もあり、モン族を中心とする商業・生産活動の中心であったことも忘れてはならない。タイ内陸部では古代から鉄器や青銅器の生産が行われていたことは確かであるし、陶器の生産の歴史も古い。しかし、タイ内陸部の生産・流通に関する全容の解明が十分になされているとはいえないのが現状である。単に扶南の陸の通商路の拠点という観点だけからシ・テェプを見るわけにはいかない。商業、宗教、文化の中心地であった。
盤盤を足場にして成立した室利仏逝が最初に入貢したのはおそらく670年である。その翌年末に義浄はペルシャ船に乗って20日間ほどで室利仏逝に到着する。義浄が出発するにあたって、大仏教国である室利仏逝はすでに彼の念頭にあったはずである。セデスのように695年に初めて室利仏逝が朝貢したというのは根も葉もない間違いである。漢籍にもそのような記述はなく、695年は主要朝貢国が帰国する際に唐王朝が支給する「帰路の食糧」を定めた勅令が発せられた年に過ぎない。その中には当然室利仏逝の名前も出てくる。義浄は『南海寄帰内法伝』においても、『通典』にあるごとく当時すでに大仏教国として存在したはずの「盤盤(槃槃)」について一言も触れていない。その理由は670年当時盤盤はすでに室利仏逝と名前を変えていたからである。
唐王朝の正式な朝貢国として認知された室利仏逝は、その後マラッカ海峡の支配をめざし、680年代には中継国ムラユ(末羅瑜)を手始めにスマトラ島東南部のジャンビやパレンバンやバンカ島を占領し、締めくくりとして686年に中部ジャワの「訶陵」を支配下に置いた。7世紀の終わりにはマレー半島、スマトラ、ジャワ島を支配する巨大貿易帝国を構築したのである。これが私の「シュリヴィジャヤの歴史」の骨格である。パレンバンを室利仏逝の「原点」に据えてしまうと、マレー半島などは視野から消えてしまう。歴史家がマレー半島を軽視しがちなのはセデスの謬見がその出発点にあるといえよう。セデスは東西貿易の中継点はパレンバンにあると考えていたし、「パレンバンに本拠を置くシュリヴィジャヤは西ジャワに派兵したり、マレー半島諸国を占領したり」、まことに「多忙な活動」をするということになっている。人口の少ないパレンバンから多方面に出兵するなどということはそもそも不可能である。
1-4-4盤盤における大乗仏教とシュリヴィジャヤの宗教
仏教に関しては「盤盤」のほうが扶南よりも先進地域であったことは『通典』の記述をみても明らかである。既に7世紀の初めには(隋・唐時代)に盤盤には「有僧尼寺十所,僧尼讀佛經,皆肉食而不飲酒。亦有道士寺一所,道士不飲食酒肉,讀阿脩羅王經,其國不甚重之。俗皆呼僧為比丘」と書かれており、義浄が671年に室利仏逝に行った際にも義浄は『根本説一切有部百一羯磨巻五』の割注で「又南海州咸多敬信人王国主崇福為懐此佛逝廓下僧衆千余学問為懐並多行鉢所有尋讀」と書き込んでいる。市中には1000人を超える仏僧がいたというのは上記の『通典』の盤盤の記事とも符合する。室利仏逝には当時、大徳釈迦雞栗底(Sakyakirti)というインド人の高僧が滞在し仏教の指導にあたっていたという。(桑田六郎、『南海東西交通史論』p209)。そのレベルの高さを義浄も称賛し、中国人僧でインドのナーランダ寺院に修行に行くものは室利仏逝で1-2年間勉強してから行ってもよいのではないかとまでいっている。扶南のエリート階層が盤盤に亡命してきて100年彼らもここで仏教を学び大乗仏教徒となり、シュリヴィジャヤの外延的発展に伴い周辺諸国に大乗仏教を普及させていったのである。パレンバンや中部ジャワ(シャイレンドラ)しかりである。これは後にアンコール王朝下のカンボジアにまで及んだ。
室利仏逝の前身は盤盤国である。扶南の王族・リーダーの多くは亡命してきて始めて日常的に仏教に触れ仏教信者となった者も相当いたに違いない。しかし、国王はじめ同時にヒンドゥー教信者でもあった者も少なくない。杜祐は『通典』の中で「又其國多有婆羅門,自天竺來,就王乞財物。王甚重之」とも書いており、ヒンドゥー教も尊重し、インドから婆羅門(ブラーマン)が国王の庇護を求めて多数渡来してきたとも書いている。ブラーマンは知識人として国王の政治的な側近や官僚として重要な役割を果たしていたと考えられる。後のシュリヴィジャヤ時代になると支配者は密教的要素を含んだ大乗仏教を受け入れていた。シュリヴィジャヤに新たに占領されたパレンバン国の王に任命されたジャヤナサ王(遠征軍の指令官のダプンタ・ヒヤン)は密教の知識を持っていた大乗仏教徒であったことが「タラン・トゥオ碑文」からもうかがわれる。その後の大乗仏教の普及をみると扶南・シュリヴィジャヤ系の支配が及んだ地域には必ずといっていいほど大乗仏教の普及がみられたことは注目に値する。
また、グナヴァルマン(求那跋摩)が5世紀の初めに「闍婆国」に赴き、国王の母に「五戒」を授けたという話が『高僧伝』に出てくるが、この闍婆とはマレー半島で盤盤国であった可能性が高い。闍婆国をジャワ島と解するには当時のジャワ島(むしろ諸薄と呼称されていた)は余りに未開であり中国との交易関係(朝貢)はなく、仏教を受け入れていた痕跡はほとんどない。大乗仏教の特徴は一言でいえば「民衆の宗教」なのである。大乗仏教徒の国王には民衆が良く従った面は無視できない。それに比べシヴァ教は国王・支配者の宗教であり、もともと「大衆的宗教」ではない。扶南・真臘においてはシヴァ教を庶民の祖先崇拝と結びつけなければ民衆との接点を持ちえなかった。
第2章 真臘・前アンコール王朝
2-1 真臘が扶南を追放する
真臘(Chen-la)はもともと扶南の属国であったとされ、扶南の「陸の通商路(西方の物産の輸入ルート)」を支配し、同時に周辺の農村地帯をも支配していたが、次第に経済力と軍事的勢力を増し、南下して扶南を圧迫し、ついに扶南を滅ぼしたということが、『隋書』南蛮伝の真臘の条などから読み取れる。『隋書』には「真臘國、在林邑西南、本扶南属國也」と説明されているが、主要河川沿いの水田稲作地帯を手に入れることによって属領のほうが経済力や軍事力で扶南本部を上回るようになったとみることができる。それは6世紀の初め頃のことであった。このような『隋書』の見方をM.ヴィッカリーは否定する。扶南も真臘も2分された国家という形態をとっておらず、1個の政体の中で、2つの権力者がいただけだと考える。しかし、その後の扶南と真臘の動きをみればM.ヴィッカリーの説ではシュリヴィジャヤの歴史は全く説明不可能である。
扶南最後の王ルドラヴァルマン(Rudravarman)については『梁書』に次のような記述がある。「(天監)十年,十三年,跋摩累遣使貢獻。其年死,庶子留陁跋摩殺其嫡弟自立。」これは「天監13年(西暦514年)にジャヤヴァルマン(跋摩)は朝貢使節を続けて送ったが、その年に没した。側室の子のルドラヴァルマンは王位継承権を持つ正室の子である弟を殺害し、自ら王位に就いた。」ということであり、ルドラヴァルマンは「簒奪者」であった。こういう事件が起こると関係する王族や貴族の間でもかなり激しい「政争」が起こるのが普通である。ルドラヴァルマンは仏教徒であったがシヴァ教も受け入れていた。539年に朝貢使節を送ったのちに、540年頃に死亡したものとみられる。ルドラヴァルマンの入貢は517年、519年、520年、530年、535年および539年の6度であった。539年9月の入貢時には「復遣使獻生犀。又言其國有佛髮長一丈二尺,詔遣沙門釋雲寶隨使往迎之」(『梁書』)と貢献物に生きた犀を持っていき、おまけに扶南国には「ブッダの1丈2尺の頭髪がある(ので献上したい)という話をしたところ、梁武帝はさっそく高僧「釈雲宝」を使節に随行させて「ブッダの頭髪をお迎えした」という話である。
いっぽう、扶南の王族達はいずれは強力な陸軍を擁する真臘によって追い出されると察し、「盤盤」から527年、529年、532年、533年、534年、542年、551年と朝貢のピッチを上げたものと見られる。扶南は危機を予想し、早めに「別列車」を用意していたのである。
後に、扶南の王族を殺害あるいは追放して「初代の真臘王」として知られるバヴァヴァルマン(Bhavavarman)はルドラヴァルマンの縁者(孫ではない)を自称し、ルドラヴァルマンの死後、550年頃に王位を受け継ぎ「真臘王」と称したと考えられる。彼は扶南の「月族」の流れをくむものであると自称し、「真臘」の「日族」とは違う点を強調しているという(Briggs, p40)。「月族」とは初代のカウンディニア(混填)とソーマ(柳葉)の夫婦を始祖とする家系の王族であるという主張である。バヴァヴァルマンの父親はヴィヴァヴァルマン(Vivavarman)でその父親はサルヴァバウマ(Sarvabhauma)であり、セデスは彼をルドラヴァルマンであろうと考えていた。しかし、それにはさしたる根拠がない。ここで「月族」とか「日族」とかいっても、何か遺伝子上の差異があるわけではない。単なる派閥の色分けでしかありえない。最初のカウンデニヤ(混填)とソーマ(柳葉)の流れをくむのが「月族」だと後の支配者階級が主張しているだけの話しである。
その弟(異父弟?)のチトラセナ(後のマヘンドラヴァルマン=Mahendravarman)はバヴァヴァルマン1世の軍隊の司令官を務めていた。シ・テェプに彼の碑文が残され、シ・テェプとの関係が深くシ・テェプ出身ではないかともみられている。シ・テェプは上述のごとく現在の中北部タイにあり水田稲作地帯のパサック川流域(Pa Sak Valley)の中心地であった。ちなみに扶南最後の王ルドラヴァルマンはカンボジア南部の古都のアンコール・ボレイにいたとされる。しかし彼らは濃淡の差はあれ皆姻戚関係にあったという説もある。扶南の王族も真臘の王族も元をただせば同系統の血族関係もしくは仲間関係にあったことはありうる。ただし、内陸部の王族は運輸・交易以外に広範な水田地帯を支配下に持っており、富も兵員も海岸地帯の通商国家扶南の王族を上回るようになっていった。扶南の貿易権を奪えばもっと富が増やせると考えたのか扶南本部に対し攻勢を強めて行ったものと思われる。しかし、その思惑は完全に外れてしまった。扶南の主な支配者たちは大海軍を伴って盤盤に逃亡してしまったからである。
また、注目すべきは扶南の主要港オケオの最盛期は4世紀であったというのが1940年代初めに発掘調査を行ったマルレー(Malleret)の見解であり、5世紀以降は「盤盤(チャイヤー)」とオケオは並列関係にあり、次第にチャイヤーのほうが貿易港としては優勢になり、「陸の扶南ルート」は衰退に向かっていったものと思われる。そうなると「陸の扶南」グループからはオケオに近いアンコール・ボレイに本拠を置く扶南の「本家筋」グループへの不満も増していったものと想像される。
真臘の指導者たちが「真臘王国の経営」のためにシ・テェプを去った後にはモン族の農民と商人が残り、モン族系の文化が栄え、仏教寺院や仏像の設置がみられた。ただしシ・テェプ遺跡として大規模なものが存在し、かつての繁栄の様子がうかがわれる。シ・テェプに次ぐ陸の通商路の拠点はウ・トンであったが、両者とも水田稲作地帯に属し、周辺に多くの農民が生活していた。両者の違いはシ・テェプのほうがタイ中央部にあり、メコン・デルタにはずっと近かったということである。遺跡としての規模もシ・テェプのほうがはるかに広大である。
2-2 真臘の出発点としてのシ・テェプの役割
5世紀中ごろから末にかけて真臘の支配領域はタイ内陸部のシ・テェプから、さらにはムン川の河口(メコン川に近い)ウボン・ラチャタニ(Ubon Ratchathani)、さらにはラオスのワット・プーにまで及んでいた。シ・テェプは古代からモン族の商業都市であったが、後からやってきたインド人はヒンドゥー教徒が主体で数多くのヒンドゥー神像を製作或いは輸入し日ごろ崇拝していたものであろう。シ・テェプにはスルヤ神像だけでも7-8体発見されたという。インドとの直接的つながりを持つものが多いとイギリス人考古学者Q.ウェールズ(Q.Wales)は指摘する。インドのブマラ(Bhumara)寺院のシヴァ神像の顔に類似のものがシ・テェプでみられるという。(Q.Wales,”The Making of Greater India”p38)
シ・テェプが東西貿易の中継点として果たしていた役割は扶南の歴史とともに古く3世紀あるいはそれ以前にまで遡る。3世紀以降は扶南がが朝貢貿易を支配するようになると、扶南の王族や有力者がシ・テェプの王(支配者)として常駐するようになり、多くの神殿を建設し、ヒンドゥー神像を祀った。また、扶南の本拠地のあったプノム・ダ(Phnom Da)のヒンドゥー神像(特にヴィシュヌは)はシ・テェプの神像の影響を受けているという。これはインド商人がヒンドゥー文化の終点が扶南の都のアンコール・ボレー(プノム・ダ)であったと考えられるのである。しかし、このヴィシュヌ像のスタイルは後に海を渡って盤盤地区(スラタニやチャイヤー)にもみられるようになり、さらにそこから周辺に拡大した。
シ・テェプにはバヴァヴァルマン(Bhavavarman) の碑文も存在する。彼には後継の息子がいなかったため没後は弟のチトラセナ(マヘンドラヴァルマン=Mahendravarman)が王位に就く。この兄弟の父親はヴィヴァヴァルマン(Vivavarman)であるというのがC.ジャックスらの最近の説である。(従来は従弟か異父兄弟とみられていた)。彼は、この2人はダングレク(Dangkrek)山脈の南のカンボジア北部の出身者であるとしている。それは具体的には何処かというとワット・プーぐらいしか思い当たらない。しかし、C.ジャックスの説とは逆に、経済的な豊かさから見てタイの東北部に拠点を有していたことはまず留意されなければならない。それはこの地域がパ・サク川流域の水田稲作地帯であり、鉄や銅の精錬に加え製塩業もあり、多くの農民が商工業活動にも従事していたからである。ダングレク山脈の北側のシ・テェプからムン川河口の辺りが経済活躍の舞台であったろうと思われる。
扶南を追い落としたのちにバヴァヴァルマン1世は都をサンボール・プレイ・クック(Sambor Prei Kuk=Kompong Thomの北)に定めた。ここは後にイシャーナヴァルマンの都のイシャーナプラになる。この地はメコン川から離れており、優勢な海軍を持つ旧扶南の急襲を意識して選ばれた可能性がある。チトラセナ(マヘンドラヴァルマン)の碑文はバサク地方やクラチエにも存在するがその多くは現在のタイの東北部に存在する。コラート(ナコン・ラチャシマ)、ウボン・ラチャタニ、ピーマイ、スリン、タ・プラヤ(Sa Kaeo県)などである。彼の活動の範囲がダングレク山脈の北部に大きくひろがっていることがわかる。兄のバヴァヴァルマンの碑文はシ・テェプ、バッタンバン、ストン・トレン(Stung Treng=カンボジア領、ワット・プーの南)に存在する。この2人の兄弟は扶南の「陸の輸送路」の支配者の家系であり、彼らの本拠地は現在のタイ東北部にあったとみるべきであろう。
セデスのいうように真臘のそもそもの本拠地がワット・プー(Wat Phu、現在のラオス領)だというという見方は正しくない。また、セデスがワット・プー地区の真臘の初期の王としてスルタヴァルマン(Srutavarman)とスレスタヴァルマン(Sresthavarman)という名前を挙げている(セデス、英文1968年、p66)。 ところがこの2人はジャヤヴァルマン7世の時代に(12世紀末)の碑文で、初めて名前が出てくるとM.ヴィッカリーはいう(Vickery, p 42)。600年前にいたとされ、またどういう地位にあったかわからない人物を真臘の王統の祖先にしてしまうのはいかにもセデス流の強引なやり方である。ワット・プーを基地として周辺のチャンパセックの農民だけでは南部の扶南の領域に攻め込むには不十分であったと思われる。やはり、兵力に物をいわせたとしたらシ・テェプの位置するパサック渓谷の広大な農地を背景にした農民層も動員したであろうことは間違いないであろう。また、製鉄・製銅・製塩遺跡の多さからみて隊東北部(イサーン)はカンボジアよりも経済的に卓越していたという見るべきである。これは現在のタイ王国においてイサーンは経済的に立ち遅れた農業地帯という現実からは想像もつかない事態であった。
真臘の祖先はシ・テェプで先ず第1に扶南の貿易品の中継・管理をおこなっていたと考えられる。ムン川の河口とメコン川の合流点は林邑も西方の物産の獲得場所として重視しており、4世紀にはこの地(チャンパサック)を支配していたこともある。第2には農民の支配である。シ・テェプの環濠にバライ(灌漑池)なども設け、周辺の農民への農業用水の供給も行っていた。世襲的にシ・テェプに住むことによって地方領主としての地位を次第に築いていったものと考えられる。
いっぽう、扶南は通商国家であり、合理的な通商経路の開発を進めており、最終的にマレー半島西岸のタクアパ・ココ島を港とし、そこからウィン・サ経由でチャイヤーに運ぶマレー半島横断通商路(主にKlong SokとPhum Dung 川が使われた)を確保するようになった。さらに盤盤から直接中国への出荷にとどまらず、朝貢も行うようになっていった。
そのいっぽうで、「陸の扶南」の支配者たちはシ・テェプのパサック流域のみならず、チ川流域、ムン川流域の広大な稲作地帯を着々とその勢力下に収め、メコン・デルタに依拠する「扶南の本家・本拠地」に対する圧力を高めていった。扶南の本流勢力は5世紀中頃からオケオから徐々に「盤盤」へのビジネス拠点の移動・疎開を行ったことは間違いない。彼らは海軍の主力をバンドン湾に移し、仏師などの職人も事前に移住させていた。それはチャイヤー地区に存在する仏像やヴィシュヌ像がアンコール・ボレイ地区のものとよく似ていることからも類推される。『新唐書』の「室利仏逝」の条に「国多男子」とわざわざ特記しているところをみると、多くの「海軍兵士」が常駐していた様子がうかがわれる。M.ヴィッカリーのいうように海外貿易が減退に向かい、扶南が「自然消滅」を遂げたというのは全く当たらない。
C.ジャクスはその著書”ANGKOR, cities and temples”RIVER BOOKS, 1997年版の中で次のように述べている、「彼(バヴァヴァルマン1世)はワット・プー王国の王子であった(セデス説を踏襲)。彼は父王からはその小王国の後継者として指名されていなかったが、自分の王国を開くべく意を決し、コンポン・トムから北方30Kmのサソンボール・プレイ・クック(Sambor Prei Kuk)のあたりに都を定めた。彼は勢力拡張に励み、彼の碑文はカンボジア北方のバッタンバン(Battambang)にも残されている。いっぽう彼の弟のチトラセナ(Citrasena)は父王から王位を譲られマヘンドラヴァルマン(Mahendravarman)と号し、現在のタイ東北部にも兵を送り、コン・ケーン(Khon Kaen)の北方をも支配下に置いた。」(C.Jacques, P57,58)。
C.ジャックスは真臘の出発点をワット・プー王国に限定しているようであるが、ワット・プー・チャンパサクでは「土俵が狭すぎる」のである。バヴァヴァルマン、チトラセナ兄弟で分担して事前に勢力を拡大していたことは碑文からも窺われる。もともとワット・プーは地理的に考えてシ・テェプの「出先」的な存在であった。むしろ、ダンレク山脈の北側、特にムン川流域をしっかりと押さえていたはずである。近くのウボン・ラチャタニのムン川右岸からチトラセナの碑文が3基発見され、ウボン・ラチャタニ国立博物館に展示されている。
(下図碑文)
ウボン・ラチャタニ碑文(K.496-497)2基はラオスのバサック(Basak)で発見されたK363と同じであり’Citrasena, also named Mahendravarman, younger brother of Bhavavarman, son of Vivavaruman’とある。3基目(K.508)は,’grand son of Svabhauma'という言葉が追加される(Vickery,p74)。これ以外にもチトラセナの碑文はコンケーン(Khon Kaen)、ピーマイ( Pimai)、スリン Surin)、ウボン( Ubon)、タ・プラーヤ( Ta Phraya)で発見されており、彼の活躍範囲は主にダンレク山脈の北側(タイ東北部)であったことがわかる。
なお、兄王バヴァヴァルマンの碑文はバッタンバン(Battambang、K.213)には名前のみあり、シ・テェプ(k.978)には’Bhavavarman, son of Prathivindravarman, grand son of Cakravatin'とあり、ストゥン・トレン(Stung Treng、K.359)碑文には’Hiranyavarman, son of Somasarman and of sister of Bhavavarman, daughter of Viravarman'という文脈の中に出てくる(Vickery,p74-75)。
2人の兄弟王は熱烈なシヴァ教徒であり、リンガ信仰に傾斜していた。また碑文の分布からみても北方(現在のタイ東北部)出身者であることは間違いない。これをみるとシ・テェプから途中のチ川流域、ムン川流域の豊かな水田地帯からワット・プーにかけてバヴァヴァルマン一家は勢力を張っていたと考えられる。シアヴァ信仰に執着していたのは彼らが仏教と接した経験が浅かったのも一因であろう。また、シヴァ教は「王権は神から与えれれたもの」という思想が強く「支配者」に好都合な宗教でもあった。
しかし、ひとたび仏教を信仰した民衆との精神的ギャップは一層拡大し、真臘政権は約150年という短命に終わる宿命にあった。ジャヤヴァルマン1世はその点に薄々気が付き仏教融和策を採ったようであったが時すでに遅かった。
ワット・プー(Wat Phu)はラオス領チャンパサックにあり、メコン川に面している。この地はタイの中央部のシ・テェプ( Si Thep)付近を流れるチ(Chi)川とそれに続くムン(Mun)川が現在のウボン・ラチャタニ付近を通りメコン川に合流する点がチャンパサックであり、伝統的に扶南の「陸の重要拠点」であった。この内陸輸送ルートはタクアパからチャイヤーに抜ける「マレー半島横断通商路に比べはるかに非効率なため、4世紀以降は衰退した。しかし、マレー半島横断通商路を使えない林邑にとっては依然重要な流通拠点であり、ある時期林邑が支配下に置いていた可能性はある。それゆえ「チャンパサク」という地名が残されたのかもしれない。林邑にとってはムン川経由でメコン川を遡上してサヴァンナケットで財貨を陸揚げして海岸のユエなどに輸送するルートが主流であったと考えられる。メコン川をやや南下してからの陸路も存在したが扶南の干渉を避けるためにはサヴァンナケットが多用されたとみられる。また、タイ東北部(イサーン)の産品もここに集めてインドシナ半島の海岸部に陸送した可能性がある。いずれにせよこの中継点はかなり後世に至るまで活躍していた。
考古学調査による発掘品・遺物はシ・テェプはかつてインド方面と扶南を結ぶ中継点であり、シ・テェプとメコン・デルタのオケオの間には歴史的遺物としてかなりの共通点・類似品がみられる。アンコール・ボレイ様式のヴィシュヌ像の原型はシ・テェプに求められるといえよう。下の写真はプノム・ダで発見されたヴィシュヌ像の代表作であり、高さは2.87m、現在プノンペン国立博物館で展示されているが、以前はアンコール・ボレイ博物館に置かれていた。ただし、このヴィシュヌ像は真臘が扶南をアンコール・ボレイから追放したのちに、「勝利を記念して」作成し、プノム・ダの大塔の中に飾ったもので7世紀前半の製作ではないかという説がある(ナンシー=Nancy H. Dowling)。 その完成度の高さからみてもナンシー説は正しいかもしれないが真臘が政権掌握後にこのような像をアンコール・ボレイ占領後に作成したとは考えられない。真臘が重視したのはあくまでシヴァ神であり、その象徴としてのリンガであった。プノム・ダの聖堂には今でもリンガとヨニが祀られていた痕跡が残っている。しかし、プノンペン博物館にある以上の出来栄えのヴィシュヌ像はカンボジアには存在しない。アンコール・ボレイ地区ではほかにも時代の古いヴィシュヌ像はいくつも発見されている。真臘王国においてはシヴァ神とその象徴としてのリンガが異常なまでに強調されていたことは銘記されるべきである。チトラセナは扶南の本拠地があったという説もあるバ・プノン(Ba Phnom)に勝利を誇示するかのようにシヴァ神像を設置した(Briggs, p43)。
また、扶南が盤盤に亡命した際に職人や仏師を同行させたことは確実であり、スラタニの「シ・ウイッチャイ(Si Wichai=シュリヴィジャヤ)山」遺跡から発掘されたヴィシュヌ像(下の3番目の写真)はアンコール・ボレイのヴィシュヌ像と類似している。現在チャイヤー国立博物館に保存されている石仏坐像(図 )は6世紀の作とされるが、これは頭部の形状(円筒形)や表情などアンッコール・ボレイの仏像(頭部)との類似性が強い。
下のヴィシュヌ像は「8本の手を持つヴィシュヌ」として知られプノンペン博物館で展示されている。この像はプノム・ダの主堂の地下に埋められていたものである。真臘が新しいヴィシュヌ像を製作して、その後リンガを設置するために地下に埋めてしまうのはどう考えても不合理である。これは遅くとも扶南時代のルドラヴァルマン王治世以前に作られた作品であろう。真臘が扶南を占拠した後の6世紀半ば以降にヴィシュヌ像が新たに製作されたとは考えにくい。というのは真臘はシヴァ信仰に傾斜してしまったからである。シャカムニはヴィシュヌ神の化身だという見方もあり、ヴィシュヌ像は余り作られなかったと考えられる。(写真)
2-3 扶南の首都
扶南の首都については『梁書』では河口から500里(約200km)と記すのみで都市名は特定していなかった。『新唐書」に至り、最初は「特牧城」であり、その後真臘の圧迫を受けたので「那弗那城」に遷都したとされている。セデスは特牧城をヴィヤデャプラ(Vyadhapura)であるとし、バ・プノン(Ba Phnom)に当たるとしているが、バ・プノンはオケオから運河でつながっておらずメコン川からもやや離れており、扶南の都があったとは考えられない(Vickery、p61)。アンコール・ボレイ(Angkor Borei)はその歴史的遺産の多さ(Phnom Daを含め)からみても長年扶南の首都であったことは確実であり、「特牧城」がそれにあたるといえよう。そうなると、那弗那城がどこかはわからなくなる。扶南の王族が最後に立てこもった町というのはオケオかその近くの沿海部であろう。
扶南は6世紀中ごろに真臘に「特牧城」を追われ、最終的に那弗那城に遷都したとして、7世紀前半にイシャーナヴァルマンに扶南は滅ぼされたとすると100年足らずしか首都として那弗那城が存在しなかったとことになる。アンコール・ボレイ(Angkor Borei)のように、そこに多くの仏像やヒンドゥー神像など残せるはずはない。しかし、杉本直治郎博士は那弗那城=Navanagara=Angkor Boreiであろうという見方をしているが、特牧城については該当地の特定はしていない。またペリオット(Pelliot)はナフナはカンポット(Kampot)県のナヴァナカール(Navanakar、場所が特定できない)ではなかろうかといっているが定かではない(Briggs,p31)。
カンポットはトンレサップ湖の真南に位置するタイ湾に面した海岸地帯であり、オケオにも近く、バンドン湾に逃れるのにも便利な場所であり扶南一族は一時期このカンポン・ポット辺りに避難した可能性はある。カンポットにはジャヤヴァルマン1世が基金を出したという碑文がある(M.Vickery,p41)
当時は有力な都市であたと考えられる。那弗那城の候補地としてはナヴァナカールは最有力である。。
2-4前アンコール(真臘)王朝
扶南最後の王ルドラヴァルマン(推定514-540?年)の治世が終わり、次に真臘にとってかわられるが、『隋書』が語る真臘の成立については以下の通りである。 「其王姓剎利氏,名質多斯那。自其祖漸已強盛,至質多斯那,遂兼扶南而有之。死,子伊奢那先代立。居伊奢那城,郭下二萬餘家。城中有一大堂,是王聽政之所。總大城三十,城有數千家,各有部帥,官名與林邑同。」
バ-ヴァヴァルマン1世の弟であり、後継者である「質多斯那」チトラセナ(Citrasena)マヘンドラヴァルマン王(Mahendravarman,600-611年在位)が扶南を併合し、息子の伊奢那(イシャーナヴァルマン)が全国を統一し、首都をイシャーナ城に定めたと書かれている。
2-4-1イシャーナヴァルマンの全土統一
イシャーナヴァルマン(Isanavarman,611-635年、Claude Jacquesは628年没説)がマヘンドラヴァルマンの後継者となり、新しくイシャーナプラ(Isanapura)なる都を開いたとされる。それはソンボール・プレイ・クック(Sombor Prei Kuk)というコンポン・トム(Kompong Thom)から30-40km北に位置する場所である。そこはメコン川から離れており、広大な敷地があり、ヒンドゥー遺跡があるが仏教関係の遺跡はみられない。「郭下二萬餘家。城中有一大堂」というような大都市で大神殿が置かれていたとされる。また、「總大城三十、城有数千家」とあり、首都の周辺にさらに30か所の大集落(衛星都市)があり、それぞれ数千戸の住民がおり、軍隊も持っていた。このイシャーナプラのイメージは「単独の大都市」というより、30もの衛星都市を持つ大都市国家のようなものであったかもしれない。また、イシャーナヴァルマンは西方にも勢力を伸ばし、タイのチャンタブリを確保しタイ湾への出口としていた。しかし、タイ湾は亡命した扶南政権に制海権を維持されており、さほど有効な使い道はなかったはずである。
『新唐書』には「其王刹利伊金那、貞観初并扶南有其地。」と書かれ、イシャーナヴァルマンが扶南を「完全追放」し併合したのは貞観年間初めだと書いてある。しかし、彼の死(635年)以降も扶南は健在で、「太宗貞観十七年(西暦643年)、「林邑王遣使云為扶南所攻、乞師救援」と依然として扶南が活発な行動をしている。扶南はどこかで生き延びていたのである。それはいうまでもなく「バンドン湾地域」であり、「盤盤」といわれたチャイヤーを首都とする国である。この事件はまさに「室利仏逝」誕生の前夜であった。イシャーナヴァルマンの勝利はあくまでカンボジア国内での勝利にしか過ぎなかった。
彼はカンボジアのほぼ全域を制圧した「偉大な王」と碑文には讃えられている。真臘は政権掌握後ただちに、西方のバッタンバンからタイのチャンタブリに通じる道路を確保し、さらにタイのチャンタブリに抜けるタイ湾への通路を開いた。また、アンコール・ボレイ付近で611年の年号の入ったイシャーナヴァルマンの碑文が見つかっている(Briggs,p51)。
イシャーナヴァルマンの妃がバ・プノム(Ba Phnom)の近くのアディヤプラ(Adhyapura)家の出身であり、シヴァダッタ(Sivaddata)とバヴァクマラ(Bhavakumara)を生み、後者が後のバヴァヴァルマン2世となった。その後もアディヤプラ閥としてクメールの歴史上さまざまな場面に登場するた。また、イシャーナヴァルマンは各地の小領主を任命した。その中には長男のシヴァダッタをジェスタプラ(Jyesthapura)地方領主に任命した。その場所はタイの国境近くのタ・プラヤ(Ta Phraya)辺りと伝えられる。彼はタイ湾に近いプラチンブリ(Prachinburi)にも碑文を残している。真臘の本拠地バヴァプトラ(Bhavaputra)の領主に任命された息子が後のバヴァヴァルマン(Bhavavarman)2世である。しかし彼の出自については異論も存在する。アダヤプラ(Adhyapura)の一族はイシャーナヴァルマンの姻戚として権勢をふるいヴァダグラマ(Varadagrama),タムラプラ(Tamurapura),アモンガプラ( Amonghapura), ビマプラ(Bhimapura)およびチャクランカプラ(Cakrankapura)の領主として名前が碑文に残されている。その中でも現在のベトナム領にあるタマンダラプラ(Tamandarapura)はイシャーナヴァルマンの任命した領主が支配していた(Vickery,p25)。 このように国王直系の領主を地方に派遣して支配権を拡大するという動きは貿易国家である扶南時代にはみられなかった。扶南はカンボジア内陸部に触手を伸ばしていくという戦略はとらなかった。
逆に真臘が各地方の有力な「小国家」を束ね「中央集権的」な国家体制を築いたといえよう。しかし結果的にその体制は長続きはしなかった。地方領主がそれぞれ実力を蓄え中央の権威に必ずしも従わないという事態が発生したのである。後にジャヤヴァルマン1世が死ぬと7世紀の終わりにはこの中央支配体制が崩れてしまった。
イシャーナヴァルマンは外交的に林邑にも融和策をとった。彼はスリ・サルヴァニ(Sri Sarvani)という娘をチャムの王子ジャガダルマ(Jagaddharma)と結婚させた。しかし、彼は何か事件を起こし、バヴァプラ(Bhavapura)に移り住んでいた。彼らにはプラカサダルマ(Prakasadharma=諸葛地)という王子がいて、彼は後にチャンパに戻りヴィクランタヴァルマン(Vikrantavarman)として635年に王位に就いた(Briggs,p52)。これはミソン(My-Son)の碑文に記録されている。(後述林邑史参照
2-4-2 聖山とピラミッド
また、セデスは『隋書』に書かれている「陵伽鉢婆山(Lingaparvata)」をワット・プーの山と考えているが、『隋書』の文脈からは、これはイシャーナヴァルマンの都のイシャーナプラに近い山のことであり、30km離れたところにあるプノン・スントック(Phnom Suntuk)ではないかというのがM.ヴィッカリーの説である。王都に近い山を「聖山」として、そこにリンガを建て、宇宙の中心とするということが当時の基本的な考え方であり、本拠から遠く離れた場所では支配下の民衆は遠路はるばる参拝に行けない。ただし、現在でもこの「陵伽鉢婆山(Lingaparvata)」はワット・プーの背後の高い山であり、その頂上は自然の巨大リンガ(とがった山頂)だと信じている人は少なくない。また、後にアンコール時代になると王居の近くに聖山をかたどった高い塔を建設し、それを「聖山」として崇める動きもできてきた。後にアンコールの王都にそれぞれ高い塔を備えた構築物が随所に建設されるようになる。
2-5 真臘の終わりの始まり
バヴァヴァルマン2世がイシャーナヴァルマンの後継者である。バヴァヴァルマン2世については王位を横取りしたという疑いがあったためかアダヤプラ一族からは明らかに疎外されており、アンコール・ボレイの近くに居住していたという説がある(Briggs, p52)。
彼はシヴァ教徒であったがシヴァ神とヴィシュヌ神が合体したハリハララヤ(Hariharalaya)を信仰した。しかし、扶南時代から大乗仏教はかなり普及しつつあったが、真臘政権になってからはシヴァ教一点張りになり、さらにハリハラ信仰にとって仏教を邪魔と考え、弾圧した国王とはイシャーナヴァルマンではないかとブリッグスは述べている(Briggs,P51)。すでに民衆の間に信仰されていた仏教を国王の権威で潰すということは大きな抵抗をもたれたに相違ない。バヴァヴァルマン2世の時代においても仏教弾圧の手は緩められなかった。義浄が真臘には「悪王」が出現して仏教が弾圧され、仏僧がいなくなったと記述しているが、(『南海寄帰内法伝』)それはこの両王を指すものと考えられる。
義浄は「西南一月。至跋南国。旧扶南。先是裸国。人多事天。後乃仏法盛流。悪王今並除滅。無僧衆。外道雑居。」と述べており、仏僧はいなくなり、「人多事天」とは多くの人々がヒンドゥー教の神を信仰しという意味であり、「外道」とはこの場合ヒンドゥー教を指す。
その次のジャヤヴァルマン1世(655年~681年?)はソーマ王家と血縁関係にあるといわれる神官でコンポン・トムの地方領主のチャンドラヴァルマン(Candravarman)の息子として生まれたという説がある。直接はこのアダヤプラ一族とは関係ないが、后はアダヤプラ家の出身だという。また彼自身イシャーナヴァルマンの血統だともいう(Briggs,p54)。彼にはマハラジャの称号のつけられた碑文(k1059)が発見されている。彼は誰かから王位を簒奪したのではないかともみられている。しかし、ジャヤヴァルマン1世はその対外的活躍にもかかわらず前王ほどの威厳がなく、カンボジアの統一にヒビが入ったとC.ジャックスは述べている(Jacques. p57)。彼は初めて全土の統一を成し遂げたのみか、ラオス中部や雲南省南詔にも兵を送ったとされる。彼の都はプランドラプラ(Purandarapura)であったとされるが場所は特定できていない。
ヴヤダプラ(Vyadhapura=Prei Veng)についてはジャヤヴァルマン1世が登場する2年前の碑文にヴヤダプレスヴァラ(Vyadhapuresvara)という地名が出てくる。それはコンポン・チャム(Kampong Cham)の東方である。ここを扶南の旧首都とする説があるが、M.ヴィッカリーはそれを否定する。しかし、この地はカンボジアの中では最も商業活動が盛んであり、経済的に活況を呈していた地域であるといわれている。ジャヤヴァルマン1世がこの地に王都を置いたとすれば従来の「真臘王朝」が首都をコンポン・トムの北方においていた「守りの体勢」からの脱皮を狙ったものと思われる。しかし、彼の意図は国内の分裂によって不成功に終わった。後世のジャヤヴァルマン2世はここを出発点として北方のカンボジア全土の制圧に向かったとM.ヴィッカリーはいう(Vickery p26)。
セデスはジャヤヴァルマン(Jayavarman,657-681年) 1世はバヴァヴァルマン2世の息子であるとみているが別人のチャンドラヴァルマンの息子だという説が有力である(Vickery、p26)。いずれにせよイシャーナヴァルマンの係累の人物であるとは思われるが、前の諸王とは異なる雰囲気を持っていたようである。在位中に残された碑文は13基存在する。その中で彼は武将として賞賛されている。彼は真臘の勢力圏をいっそう拡大し現在のシェムリアップにも勢力を伸ばし、北のワット・プーにも碑文が残されている。タケオ(Takeo)のプノン・バヤン(Phnom Bayang)、タイ国境のプレア・ヴィヒア( Preah Vihear)およびコンポン・トムのハン・チェイカラ(Han Cheikara)から碑文が発見されている。さらにはラオス中部・北部への遠征を行い、また南詔にも勢力を拡張したという(Briggs,p54)。彼によって真臘国として何とか統一は維持されていたが、内実はかなりタガが緩んでいたといわれる(Briggs, p57)。ジャヤヴァルマン1世の直接支配領域もコンポン・トム(Kompong Thom)とコンポン・チャム(Kompong Cham)が中心であり、ワット・プーに碑文が1個残されており、バッタンバン(Battambang)とプレイ・ヴェン(Prey Veng)に各1個の碑文があるが地域的な偏りは否めない。また彼の都があったとされるプランダラプラ(Purandarapura)は所在不明であり、ブリッグスはバンテアイ・プレイ・ノコール(Banteay Prei Nokor=コンポン・チャムの東南1.2Km)であったと述べている(Briggs, p57)。
このジャヤヴァルマン1世の時代には仏教関係の碑文も散見されるようになったといわれる。彼自身は仏教徒であったとすらみられている。9世紀に入ってアンコール王朝になってジャヤヴァルマン2世が中央政権を確立して以降再び大乗仏教が普及されようになった。
ジャヤヴァルマン1世が681年に死ぬと後継者が弱体(婿)だったために、真臘は分裂状態に拍車がかかったとされる。ジャヤヴァルマン1世が世を去り、ジャヤヴァルマン2世が802年に「ジャワからの独立宣言」を行うまでのほぼ1世紀の間中央政権は不在であった。各地の地方政権はそれなりの経済的基盤(米作農業)を有し、かなり強力になりつつあり、それが中央政権の形成には障害になったと考えられる。彼らを服従させるには強力な軍隊を動員できる政治勢力が必要であった。それを可能にしたのは旧扶南勢のシュリヴィジャヤ・グループの海軍力であったと思われる。
ジャヤヴァルマン1世の娘のジャヤデヴィ(Jayadevi)のが最終的に女王の座に就いた。しかし、その支配領域は南部に限定され(水真臘)、全国的に小国が乱立していて「中央の統制」が利かない状態になっていた。セデスはジャヤヴァルマン1世には男子の後継者がおらず、ジャヤデヴィという女王だったために真臘はだめになったという主旨の議論をしている。セデスはジャヤヴァルマン1世の没後、カンボジアやサンブプラを1人の王のもとに強固に団結させていたが男子の後継者がいなかったので空位にと断言している。これに対し、M.ヴィッカリーは、セデスが考えているようにカンボジアは「父系相続社会」ではなかったといっている。確かにジャヤヴァルマン1世の死後(681年)カンボジアは小国の分裂状態にあったとはジャヤヴァルマン1世の娘であるとされるジャヤデヴィ(Jayadevi)も嘆いている。しかし、「女王」だったから「分裂状態」になったわけではない。彼女の夫ヌリパディトヤ(Nripaditya)が王位を継いだがどうにも手に負えなくなっていたのである。この辺のセデスの認識は明らかにおかしい。
2-5-1 真臘の朝貢実績と水真臘と陸真臘の分裂
『旧唐書』は706年以降、陸真臘と水真臘の分裂を記録している。どちらかというと水真臘のほうがコンポン・チャムを中心とする「商業が活発な地域」を支配しており、経済的には優勢であった。この辺りはアニンディタプラ(Aninditapura)地域であり、ジャヤヴァルマン1世の首都があったと考えられている。C.ジャックスはこのアニンディタプラという地名はアンコール期の碑文に現れるが、そので所在地は確定できていないという。C.ジャックスはプランダプラ(Purandarapura)のことではないかと述べている。ところがこのプランダプラ自体がはっきりしない。およその場所はアニンディタプラと同じでコンポン・チャムのやや南であろうというのがM.ヴィッカリーの推測である。この見方は正しいように思われる。トンレサップ湖にも近く、メコン川の下流域にも位置し、商業活動が盛んで経済的な発展がみられた地域なのであろう。
いっぽう、メコン川中流域のクラチエとその先のサンブプラは陸真臘の拠点があった。唐王朝への朝貢はほとんどが陸真臘からだが、地理的には内陸部であり農業が主体であり経済的な発展はさほど期待できなかった。
8世紀の初めには陸真臘と水真臘が分裂していたことは『新唐書』にも書かれている。「神龍後分為二半:北多山草,號陸眞臘半;南際海,饒陂澤,號水眞臘半。水眞臘,地八百里,王居婆羅提拔城。」M.ヴィッカリーはこの記述そのものを疑っている。しかし、ありもしないことは欧陽脩監督下の宋の高級官僚が安易に記述するとは考えにくい。多分朝貢に現れた「陸真臘」の使節の説明に基づいた記録をもとに記述したものと推測される。分裂の最大原因は陸真臘が水真臘の統制を受け入れなかったためであろう。多くの小国が分裂状態にあり、扶南が享受していた「貿易によるメリット」も消えてしまい、あえて統一国家にしておくメリットは双方の権力者になかったと思われる。
アンコール王朝成立以前は制海権を持たない真臘は、「陸真臘もしくは文単」として下にみるように朝貢をほとんど陸路で行なっている。8世紀の朝貢は10回行われている。ただし750年以降の「文単」の朝貢は陸真臘の指示で行われていたものと考えられるが、文単国が勝手に朝貢した可能性も否定できない。しかしながら肝心の朝貢国真臘の国王の名前が見当たらないのである。わずかに大暦6年(771年)に「宴文単國王婆彌等五人于三殿」とあるのみであり、この婆彌王は真臘本国(全体)の王ではなく「文単」という真臘傘下の国王の名前であろう。この時すでに768年に「訶陵」(シャイレンドラ)が朝貢を再開しており、メコン・デルタ沿海部はすでにシャイレンドラに奪還されており、のちのジャヤヴァルマン2世がメコン流域から内陸部に向けて軍事活動の準備が開始されていたと思われる時期である。文単はラオスのヴィエンチャン付近とすればジャヤヴァルマン2世の軍事行動とは無関係の地域に属していたものと考えられる。
真臘が初めて朝貢したのは隋の煬帝・大業12年(616年)2月である。唐に入り、武徳6年(623年真臘)、同8年(625年真臘)、貞観2年(628年、この時は林邑と一緒)、同9年(635年真臘)、永徽2年(651年真臘)、永淳元年(682年真臘)、聖暦元年(698年真臘)、神龍3年(707年、真臘)、景龍4年(710年真臘)、開元5年(717年真臘・文単)、天宝9年(750年、真臘遣使犀牛)、同12年(753年、文単王子率其属26人)、同14年(755年、文単)、大暦2年(767年、文単)、大暦6年(771年、文単王婆弥来朝献馴象11)、建中元年(780年、真臘入貢珍禽獣悉縦之)、貞元14年(798年、文単、李頭及為中郎将)、元和8年(813年、水真臘遣使李摩那等来朝)、元和9年(814年、水真臘)。ここから約300年の空白期間の後に政和6年(1116年、真臘)、宣和2年(1120年、真臘)、紹興25年(1155年、真臘・羅斛)、慶元6年(1200年、真臘)。
この入貢実績をみると、開元5年(717年)までは真臘もしくは陸真臘という国名が記録されている。ところが天宝12年(753年)以降は明示的に文単という国名に代わるが、文単は真臘国であると唐朝では認識していた。陸真臘の名前が出てくるのは707年である。『旧唐書』に書かれている太宗貞観2年(628年)の記事をみると、すでにこの時までに「陸路で朝貢にやってきた実績があった」ということになる。ということはほとんど最初から「海上ルート」での入貢は旧扶南の海軍によって阻止されていたという見方ができる。
イシャーナヴァルマン王の時代、628年には隣国林邑に頼み込んで、何とか船に同乗させてもらい「海上入貢」を果たしたというのが実態ではないだろうか?文単とはいまはラオスの「ヴィエンチャン」であった可能性が高い。メコン川を遡上して雲南入りをしたのであろう。
ジャヤヴァルマン2世は「ジャワからの完全独立を果たし、世界の王になった」のは802年だという話はSKT碑文のみに書かれている。もしそうであったとすれば、その時からは「ジャワから完全独立を果たし」自由に入貢できたはずである。しかるに入貢実績は、813年と814年の2回しかない。これはジャヤヴァルマン2世が政権を獲得したのちの朝貢であるが、その後シュリヴィジャヤ・グループから朝貢差し止めの勧告を受けたに相違ない。813年に入貢したのは「水真臘」であって、「陸真臘」ではないことも注目される。アンコール王朝の形成主体はどちらかというと「水真臘」であったとみられる。なお上のリストで750年と780年「真臘」とあるのは「水真臘」であるかもしれない。天宝9年(750年)6月に「真臘遣使献犀牛(冊府元亀・外臣部・朝貢四)」とあり、これは陸真臘か水真臘かはっきりしない。しかし「犀牛」(犀そのもの)の陸送はありえないので、これは「水真臘」が海上輸送したものであろう。この入貢は室利仏逝が占領された直後の出来事とすれば室利仏逝の首都を攻撃して滅ぼしたのは水真臘であったということになるであろう。この水真臘は朝貢実績が少ないためか漢籍の記述があまりない。ヴィッカリーは水真臘の実在すら疑問視している。しかし、『旧唐書』には「其境東西南北約員八百里、東至奔陀浪州(Panduranga)、西至堕羅鉢底国、南至小海、北即陸真臘。其国王居城号婆羅提抜、国之東界有小城、皆謂之国。其国多象。元和八年(813年)、遣李摩那等来朝。」とあり、国境は「環王」のパンドゥランガ(現在のPhan Rang)に接し、その間にいくつかの小国があったという。メコン河口からインドシナ半島の海岸線に沿って勢力を張っていた様子がうかがわれる。
アンコール期の朝貢について若干触れると、814年の水真臘の朝貢から300年間も真臘は朝貢せず(できず)、シュリヴィジャヤとのしがらみが切れたスルヤヴァルマン2世の時代になって、ようやく1116年に入貢する。この時は三仏斉もチョーラの侵略後海軍力も衰えを見せていたはずであり、海路を使ったものと思われる。次いで1155年には真臘と羅斛(ロップリ)が共同で入貢している。このころまでは両者は対等な立場での一体的な関係にあったのであろう。タンブラリンガの前進基地でもあったロップリは古くからのモン族の商業都市でもあり、当時はかなりの実力を備えていたことと考えられる。アンコール(真臘)は1200年にも入貢したが、これは三仏斉が1178年を最後に入貢を禁じられた後に入貢しており、これが最後になる。これはジャヤヴァルマン7世の使節である。いわば「締切後」の入貢であり、これが南宋最後の大国からの朝貢となった。この時は献上品としては馴象2頭、象牙20本、犀角50本、織物40匹が含まれていた。返礼品は1,000匹(巻)の紅絹、200匹の生絹織物および磁器皿が記録されている。羅斛はその後スコタイ王朝の後のアユタヤ王朝の成立に中心的役割を果たしていく。明史などに登場する暹羅というのはスコタイとロップリという意味である。
2-5-2 前アンコール末期の真臘
真臘はジャヤヴァルマン1世(657-681年)没後、娘婿のヌリパディトヤ(Nripaditya)が一時王位を継いだが統治能力がなかったためか、娘のジャヤデヴィ(Jayadevi)が女王として君臨した(713年の碑文)。しかし国内の統一は維持できず、支配権はアニンディタプラ(Aninditapura=場所は未特定)周辺にとどまったといわれ、8世紀には統一中央政権が一時的にせよ消滅していた(C.Jacqes,p60)。しかし、カンボジアの南半分は何とか真臘の旧政権は支配下に置いていたようである。これは「月族(Lunar)」とよばれるグループがアニンディタプラ中心に勢力を張っており、北の方は「日族(Solar)」グループが新王朝と称し、サンブプラ(Sambhupura=クラチエ付近)中心に存在していたとみられる。前者を「水真臘」、後者を「陸真臘」とブリッグスは解釈している(Briggs, p57-58)。
ブリッグスの説明によるとアニンディタプラはもともとバラディトヤプラ(Baladityapura)と称していたらしいという。イシャーナヴァルマンの攻撃に真っ先に降伏して、以降真臘の属領となった。この地域の最初の王であり、カウンディヤ―ソーマ(柳葉)の血筋を引くとされるバラディトヤ(Baladitya)の母系の姪がヴィサヴァルパ(Visavarupa)というブラーマンと結婚し、その息子ヌリパティンドラヴァルマン(Nripatindoravarman)がアニンディトラプラ国を治めていた(Briggs,p47)。国内には海に通じるメコン川の川筋とオケオやアンコール・ボレイといった旧扶南の重要都市が含まれていた。いっぽう、陸真臘のサンブプラ(Sambhupura)の方は領内にサンボール(Sambor)とクラチエ(Kratie)を主要都市とし、ジャヤヴァルマン1世時代に早くも真臘と袂を分かっていたという。
『新唐書』は上述のごとく「水真臘」は「王居婆羅提抜城」と書いてある。これがバラディトヤプラ(Baladityapura)だとセデスはいっている。婆羅提拔城とはどこかは不確かであるがC.ジャックスはプランダラプラ(Purandarapura)のことではないかと述べている(C.Jacquesp58)。ヴィッカリーは’City of Indrapura'という意味ではないかと推論する(Vickery, p355)。それではIndrapuraはどこかという問題が次に出てくる。碑文K.105とK.325からすると、それはコンポン・チャムの南でバンテアイ・プレイ・ノコール(Banteay Prei Nokor)の近くであろうという。7世紀から10世紀にかけてインドラプラはコンポン・チャムからコンポン・トムを包摂する広域地域となったという(Vickery,p356)。しかし、もっと狭くコンポン・チャムから南を指していた期間が長かったように見える、おそらくジャヤヴァルマン1世はその辺を本拠地にしていたであろうことは想像に難くない。水真臘の支配地域はメコン川の中流域を扼する地帯であり、トンレサップ湖にもつながる地域であり、前アンコール(真臘)時代の経済の中心地であったものと思われる。杉本博士はバラデヴァはアンコール・ボレイであろうといわれる(杉本、p376)。しかし、アンコール・ボレイはあまりに南に偏っており、扶南が去った後では経済的な影響力もなさそうな地域である。
「陸真臘」の方はメコン川中流域のサンボール、クラチエを中心として、北はムン川の下流域まで包摂していたとブリッグスはいう。これで「婆羅提抜城」がはっきりすれば長年謎とされてきた「陸真臘」と「水真臘」の勢力圏がほぼ明らかになる。
ブリッグスは陸真臘を「建国」したのはサンブヴァルマン(Sambhuvarmanという人物たということだが記録には残っていない。サンブプラの最初の国王となったのはサンブヴァルマンの娘だと考えられ、彼女はアニンディトラプラのヌリパティンドラヴァルマンの息子のプシャカラクシャ(Pushkaraksha)と結婚し彼がサムブプラの王になったというが不確かである。これをみると「月族」の王子が「日族」の姫のところに婿入りしてそこで国王になったということになる(Briggs,p58)。しかし、この話はM.ヴィッカリーは全面的に否定する。プシャカラクサにかかわる話はすべてがセデスの作り話であるという。(M.Vickery, Coedès’ Histories of Cambodia, p18, 2-7参照)
『新唐書』では陸真臘すなわち文単であるという単純な見方をしている。もちろん文単は陸真臘の貿易の出先を務めた小国にすぎなかったのであるが、入貢に際しては「陸真臘」を自称していたことであろう。そうしなければ唐の宮廷からは軽い扱いを受けてしまう。文単は「賈耽」の『地理志』においても重要な扱いを受けている。『新唐書』の「真臘」の部分には「陸眞臘或曰文單,曰婆鏤,地七百里,王號「笪屈」とある。「笪屈」とはもちろん真臘の王ではなく「文単の王」の名前である。
2-6 賈耽の『皇華四達記』が示す陸路と海路
2-6-1 陸路で文単―羅越への道
文単に関する賈耽の『新唐書』の「地理志」の記述では陸路による東南アジア方面に向かう道筋が示されている。「自驩州西南三日行,度霧溫嶺,又二日行至棠州日落縣,又經羅倫江及古朗洞之石蜜山,三日行至棠州文陽縣。又經漦漦澗,四日行至文單國之算臺縣,又三日行至文單外城,又一日行至內城,一曰陸眞臘,其南水眞臘。又南至小海,其南羅越國,又南至大海」とあり、中国から羅越までの陸路の道順が書かれていることが注目される。これは賈耽が実際に歩いた道だという学者もいるが賈耽は時の宰相であり自分で歩くはずがない。ここで「羅越」というのは俗説ではマレー半島の南端のジョホールということになっているが、そういうことはありえなず、マレー半島の北部のラチャブリ(Ratchaburi)辺りであろう。そこからタイ湾に抜けるという道順であると解釈される。ただし、残念ながら途中の地名がほとんど特定できず、「文単」はどうやらラオスのヴィエンチャン(Vientiane, Viang Chanh)ではないかと思われる。文単からわずか1日で真臘本国に入れるとすれば、文単はヴィエンチャンであった可能性が強い。メコン川を越えれば真臘(タイ東北部)である。
2-6-2、海路でベンガル湾へ抜ける道
賈耽の『皇華四達記』(『新唐書』地理志に引用)の「通説的解釈」の間違いを指摘しておかなければならない。これは賈耽が「海路」で西方に向かう航路を示したものである。もちろん「陸路」同様賈耽が自ら航海に出向いたものではなく、関係者から情報を集めて書いたものである。原文は「至奔陀浪洲。又兩日行,到軍突弄山。又五日行至海硤,蕃人謂之「質」,南北百里,北岸則羅越國,南岸則佛逝國,佛逝國東水行四五日,至訶陵國,南中洲之最大者。又西出硤,三日至葛葛僧祇國,在佛逝西北隅之別島,國人多鈔暴,乘舶者畏憚之。其北岸則箇羅國。箇羅西則哥谷羅國。又從葛葛僧祇四五日行,至勝鄧洲。又西五日行,至婆露國。又六日行,至婆國伽藍洲。又北四日行,至師子國,」とある。
意訳すれば「奔陀浪=パンドゥランガ(Phan Rang)から海路2日で軍突弄山(コン・ダオ島、崑崙島=ホー・チミン市沖)に至り、さらに5日で海峡(ここでは湾口)に至る。湾口の広さは100里(約40㎞)ある。地元民はここは質(チ)というところだという。湾の北側は羅越であり南側は仏逝(室利仏逝=シュリヴィジャヤ)である。」となる。「通説」ではこの「五日至海峡」はいきなりシンガポール海峡だとしている。「質」とはマレー語で’Selat'というのだとご丁寧にマレー語の解説までついている。誰の説かはわからないがいい加減なこじつけである。「質」はどう考えても「固有名詞」としか考えられないが、どこと特定するかは困難である。私は「質」とは「シ」の聞き間違いではなかろうかと思う。もしそうだとすれば現地人がいわんとしたのは「シ・スラット=Sri Surat」すなわち現在のスラタニ(Surat Thani)ではなかろうかと思う。湾口が100里とすればバンドン湾以外に考えられない。シンガポール海峡の幅はせいぜい10㎞足らずである。「質」」をマレー語の'Selat'(海峡、湾口などという意味がある)という普通名詞だなどと考えると、さっぱり訳がわからなくなる。しかし、歴史家のほぼ全員がそう考えている。‘Selat’を現地の船乗りが普通名詞として「質」などといったとは思えない。ここは何処かと聞かれ「シまたはチ」と答えたものであろう。
次の問題は「佛逝國東水行四五日,至訶陵國」である。室利仏逝=バンドン湾から4-5日間「室利仏逝国の東海岸に沿って下ると訶陵に行きつく」と書いてある。4-5日でで「訶陵の本国」のある中部ジャワまで行くのは不可能である。『大唐西域求法高僧伝』で義浄は「無行法師」は室利仏逝からムラユ(末羅瑜=リアウ諸島)まで15日間かかったという。ここで問題は「訶陵」というのは何処を指すかである。これは実はマレー半島のソンクラかサティンプラと見るべきなのである。
このように賈耽の海路の説明を愚直に読んでいくと「定説」なるものがとんでもない間違いであることに気が付く。この場合のキーワードは「質」が固有名詞(おそらくシ・スラット=スラタニ)であること、「海峡」が湾口を意味していること、「南北百里」というのはとてつもない広さで、これに該当する場所は「バンドン湾」しか考えられないこと、さらには「室利仏逝」の東を4日間公航海ると「訶陵」に行きつくと書いてある。これらを総合すると私のような解釈に到達せざるを得ないのである。ついでに「羅越」というのはマレー半島北部を意味することまで一気に分かってしまった。
「訶陵(後期)」は768年に朝貢を再開した(前回は666年)が、今回の「訶陵」はジャワのシャイレンドラ王朝が掲げた「旗印=国名」であるが、実質はシュリヴィジャヤ・グループ(連合)の表の「看板」に過ぎないのである。どこから「後期訶陵(シャイレンドラ)」が唐王朝への朝貢船を出したかといえば、それはマレー半島の中部のサティンプラだったと考えられる。唐の役人はサティンプラを「訶陵」(の一部)として現地で8尺棒で夏至に「緯度」を測定し、政府に報告したに相違ない。それは『新唐書』の「訶陵」の条に出てくる。「夏至立八尺表,景在表南二尺四寸」すなわち夏至の日に8尺棒を立てると、南に影が2尺4寸(北緯6度45分)できるというのである。これはパタニ(6度52分)に近いがパタニは集荷場としては不便である。ソンクラ湖に面していればパッタルンから荷物が船で運べる(陸送もできた)のでサティンプラが適当ではないかと考えられる。パッタルンが三仏斉時代の集荷場であったことは2014年の金葉や金製品の発掘で明らかになった。『新唐書』の執筆者も賈耽も「訶陵」の位置はここという認識で一致しているのである。ちなみに「室利仏逝」の条には「夏至立八尺表,影在表南二尺五寸」と室利仏逝の方が何と1寸ほど影が長いということは「訶陵」よりやや南に位置しているということになる。これはソンクラ(室利仏逝時代)とサティンプラ(訶陵時代)の差ではないかと考えられる。その差は40-50Kmである。
室利仏逝も支配領域が拡大する前はチャイヤー経由で中国に出荷していたが、支配領域が「14城市」にまで広がると、各地からの「貢献品」を最も集荷しやすい場所を中国への出荷港としたのは当然で、おそらく赤土国(その前は干陀利国)の出荷港であったソンクラが選ばれたに相違ない。室利仏逝グループの朝貢用「貨物」はソンクラに集約されていたということがこの『新唐書』の記述から類推できる。ソンクラのやや北に位置するサティンプラは「訶陵(後期)」および「三仏斉」時代の中国貿易のための専用港だったものと思われる。唐時代の官僚の頭の中では「室利仏逝」と「訶陵」が共存していたのであろう。『新唐書』の著者もこの辺りの地理については正しい認識はなかったものと考えられる。記述に矛盾があるのは致し方ない。
さらに「訶陵」(ここではサティンプラ港)から「西出峡」とあり、こちらの海峡はシンガポール海峡であろう。海峡を出て西に3日で「葛葛僧祇國」に着くとあるが場所は特定できない。ジャンビの近くの島であろう。そこは海賊の多い危険地帯であると書かれている。
賈耽はインド、スリランカ方面に出る「航路の主要港」を記述したものであることは明白であるからマレー半島東海岸ではバンドン湾(チャイヤー、スラタニ)とソンクラ、サティンプラ地区の2か所について記述したと考えるべきであろう。唐時代にはナコン・シ・タマラートは商船の出入りにはあまり使われていなかった。また、マレー半島西海岸では賈耽はケダー(箇羅)とココ島(哥谷羅=タクアパの外港)の2箇所の大きな港の名前を挙げている(其北岸則箇羅國、箇羅西則哥谷羅國)のである。これらが主要な港である。賈耽はわかりやすく主要港への「海路」を説明したはずであり彼の「意図」するところを考えれば全てが自ずと明らかになる。後世の歴史学者の誤解の出発点は「質」はマレー語の‘Selat’だと考えた点であり、それは「海峡」を意味するという誤解が出発点である。このような解釈は何の合理性もない。「質」を固有名詞として考えたくなかったからSelatなどというマレー語と強引に結び付けたに過ぎない。この際語学的知識よりも「経済地理学」的知識が優先されるべきであった。
2-6-3 羅越の位置はマレー半島北部
また、『新唐書』南蛮下には「羅越者,北距海五千里,西南哥谷羅。商賈往來所湊集,俗與墮羅鉢底同。歲乘舶至廣州,州必以聞」とある。羅越の西南に「哥谷羅」(ココ島)があるといっている。上の文章ではケダーの西(北)に哥谷羅がある(箇羅西則哥谷羅國)としている。要するに羅越はケダーよりもはるか北方にあり、マレー半島の南端ジョホールではありえない。また羅越の民は「墮羅鉢底・ドヴァラヴァティ」と同じであると丁寧な説明をしている。双方とも住民はモン族であった。ジョホールの住民は主にマレー系である。羅越はおそらく室利仏逝の掣肘を受け、自らの国名で朝貢こそでできなかったが、商船が毎年「広州」にやってきてコマーシャル・ベースの交易を行い官憲に出入港を報告していると書かれている。
『新唐書』にはこのように「羅越」が3箇所で記述されている。その各々を読み比べてみれば「羅越」のおよその位置も明らかになるはずである。どう考えてもケダーより北にあるマレー半島の北部であり「ジョホール」とはまるで方向が違う。高岳親王も天竺行きを目指して、ここから山越えの通商路でビルマのテナセリウムに向かう途中病没された可能性が高い。ジョホールで虎に殺されたなどという説は作り話に過ぎない。マレーシアのジョホールバルの日本人墓地に高岳親王の記念碑が建てられているが歴史学の貧困を物語るものである。ジョホールに羅越はあったという説は『新唐書』地理誌に引用されている賈耽の「海路案内」を近代の学者が正しく読解できなかったことによる単純な誤解である。
2-7 Dr. Michael Vickeryのセデス批判
ここで再びマイケル・M.ヴィッカリー博士(Dr. Michael Vickery)の所説を検討したい。彼は米国人でエール大学で博士号を取得し、1960年ごろからカンボジアに長年居住し、研究活動を続けた人である。彼はチャンパについても優れた論文を発表している。M.ヴィッカリーの学説についてはブログに多くの論文が掲載されており、その主要なものは多くがプリント可能である。ただし残念なことに彼の主著である”Society, Economics and Politics in Pre-Angkor Cambodia: The 7th-8th Centuries. Tokyo“Centre for East Asian Cultural Studies for UNESCO, The Toyo Bunko, 1998.”(東洋文庫刊行)だけは市販されておらず入手は困難である。ただし大学図書館で備えているところはある。この著書こそ古代クメール史をこれから学ぶ者にとって必読の書と言ってよい。
東南アジア史におけるセデスの業績はたしかに大きなものがあり、20世紀のほとんどの期間、セデスの説は「通説」として、世界中でまかり通ってきた来たといってよい。しかしセデスは「シュリヴィジャヤの歴史」研究において重要かつ決定的な間違いをいくつも犯したことは小著『シュリヴィジャヤの歴史』において指摘したとおりである。ところがシュリヴィジャヤに限らず、「前アンコールの歴史=古代クメール史」においてもM.ヴィッカリーはセデスの誤解や誇張について厳しく批判している。
古代クメール史は1000基を上回る碑文が存在し、それをあるていど読みこなさないと正しい歴史が認識されないという意味では「部外者」が立ち入りにくい領域である。しかし碑文の多くは土地の寄進や寺院の建設などにかかわるものであり、それだけ読んでいても歴史そのものの解明には結びつかない。考古学についても同様である。漢籍を紐解いても「真臘(Chenla)」に関する記述はさほど多くはない。登場人物も少なく、そのつながりも必ずしもはっきりしない。どれをとっても、それだけでは歴史のストーリーを正しく描く決定的鍵にはならないところに歴史学の難しさがある。歴史を正しく解明するには個々の歴史学者の仮設設定能力がきわめて重要である。その仮説は様々な資料によって裏打ちされ検証されなければならない。また、資料そのものも検討を加えられなくてはならない。碑文がいつも客観的に事実を伝えているとは限らないし、漢籍もしかりである。
次に、M.ヴィッカリーがセデスについての見解をみてみたい。 彼のブログ集に収められている論文の一つに”Coedès' Histories of Cambodia” in Silpakorn University International Journal (Bangkok) Volume1, January-June 2000, pp.61-108という論文がある。これはM.ヴィッカリーがタイのシラパコーン大学においてセデス批判を集中的に行った講演の論文である。(もちろんこれ以外でもセデス批判を随所でおこなっている)
セデスの代表作ともいうべき”The Indianized States of Southeast Asia“ 1968年版(原著はフランス語)についてアメリカ人学者のO.W.Wotersは‘No course on earlier Southeast Asia history shuld be taught anywhere for foreseeable time without frequent reference to Coedès’s book’とべたほめしている。また、タイ史の権威者として著名なDavid K. Wyattも調子を合わせている。東南アジア史を学ぼうとする学徒にとっては必読の「標準的教科書」だというのである。事実Coedèsの著書は世界中でそのような扱いを受けてきたといってよい。しかしよく読んでみるとこれはとんでもない間違いであることがわかるというのがM.ヴィッカリーの説で、私も彼の言う通りだと思う。
ワイヤット(Wyatt)はさておきコーネル大学の歴史学者ウォルターズ(Wolters)の インドネシア史(Indonesian early commerce)やシュリヴィジャヤ史などはセデスの仮説を追随している部分が多ことは私も同感である。彼の論文には古代インドネシアの事象についてほとんど論拠らしきものを示さないまま多くの事柄を空想的かつ断定的に書いている。
M.ヴィッカリーはセデスを一読すべきことは構わないがセデスを鵜呑みにし「金科玉条」の扱いなどはとんでもないことだといっている。私もセデスの著書は「地雷が各所に隠されていて、危険がいっぱい」ということに気がついた。どこに嘘や間違いが隠されているか素人には判別できない。ところが日本では東洋史の大学院生を募集するにあったて、第2外国語は「フランス語」でなければならず、「中国語」を選択した学生は不採用としていた国立大学が最近まで存在していたのには驚かされる。要するにフラン人の学説を勉強すればそれでよしとしていたのである。そのために漢籍を読まない大学院生が増えたのは当然であり、日本の東南アジア史研究は少なからず阻害された。
M.ヴィッカリーはセデスについてこう切り捨てる。”Coedès, in his books, did not write as a scientist. These books are not high-standard scholorship. They are intellectual entertainment for well-read dilletante. They are monuments to uncritical synthesization, some of which belongs in historical romance, not in history”だとし、到底歴史科学の名に値しない、歴史小説同然だというのだ。セデスの「方法」というのは “Coedès a great synthesize-indeed that may have been his greatest talent when functioning as writer of historic accounts; and he had to find, or imagine ,a connection every detail and some other detail in another time or place”だといいあちこちの些細な事実を時間の脈絡も考えずに結びつけ話をまとめ上げる「歴史物語作家」同然だというのである。
確かにパレンバンのケドゥカン・ブキット(Kedukan Bukit)碑文の中から’Shrivijaya'なる単語を見つけ出しそれが漢籍でいう「室利仏逝」に結びつけた点(それもセデスが最初でない)はそれなりに評価に値するが、そこからセデスはパレンバンこそが室利仏逝の本拠地であるというところから始まって大いなる脱線を遂げ、シュリヴィジャヤ史はとんでもない方向に逸れてしまった。それが今日に至るまでさほど修正される様子もない。インドネシア政府はシュリヴィジャヤはインドネシアのものだとすっかり決め込んでしまい、それを支持し、迎合する欧米や日本の学者も次々現れている。
どう考えてもパレンバンは室利仏逝グループの14の属領の一つ(『新唐書』)にすぎないし、しかも683年以降新たに版図に加えられた「城市(ここでは属領)」の一つにしかすぎない。それにも関わらず、セデスはパレンバンを室利仏逝の首都に決めてしまい、ジャヤナシャ(Jayanasa)王をシュリヴィジャヤのマハラジャ(大王)に「昇格」させてしまった。彼は扶南のエートには違いないがパレンバンの新国王に任命されたにすぎなかったのである。
そればかりか室利仏逝の最初の朝貢が670年代初め(咸享年間670-673年、義浄の出発から考えると670年)であったにも関わらず強引に695年(證聖元年)にしてしまった。この年には室利仏逝は朝貢に行っておらず、主要朝貢国の帰途に唐王朝が支給する食料の量を勅令で決めた年である。このような例は枚挙にいとまがないー小著『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年めこん社刊)をご参照いただきたい。
なぜセデスがそんな小細工をしたかといえばケドゥカン・ブキットの碑文の年号が683年なので「室利仏逝の朝貢はそれ以降」でないと整合性がとれず都合が悪いと考えたからとしか理由が思い当たらない。そうだとすればセデスは史実のねつ造までやってしまったことになる。これに世界の歴史家が誰も気が付かないというのも不可解な話である。漢籍を読みこなせる日本の歴史家の責任は重大であったといわなければならない。
M.ヴィッカリーはセデスの個々の碑文の「読み」についてはそれなりの評価をしている部分もあるが、彼の書いた「歴史」の「枠組・組立」にそれらの碑文の解読が生かされていない点を数多く指摘している。たしかにセデスはそもそも史実をあまり尊重していない例があまりにも多いし、史実に対して「科学的分析」を加えようともしていない。彼の著書はむしろ「小説」ともいうべきものだというのである。
その1例としての‘Pushkara’について:
セデスは8世紀初頭のクメールについて次のように述べている。 ‘Around the same time (713年ごろ) a prince of Aninditapura named Pushkara or Pushkaraksha became king in Sambhupura-a site represented by the group of ruins at Sambor on the Mekong, upstream from Kratie-where he had an inscription engraved in 716'. It has been suggested that he obtaind this royal status “by marriage”, but this is a gratuitous hypothesis; we can just as easily hypothesize that he seized power because the throne was vacant. (1968, 英語版p85)
これに対してM.ヴィッカリーは、’The inscription of 716 is the reason for “Puskara or Puskaraksa”, because it records an act of a person with the former name, but it does not identify him as royalty or with any conection to the King Puskaraksa. Moreover, none of the genealogies say Puskaraksa of Aninditapura became King in Sambhupura'として、Puskaraksaなる人物はサンブプラの王になったという系図は見当たらないと指摘している。
確かにセデスの著書を読んでも古代クメール史はいったいどうなっているかはよくよく考えるとわからない部分が少なくない。M.ヴィッカリーに問題点を整理してもらうと実にわかりやすくなる。ただし、M.ヴィッカリー自身の「仮説」もすべてが正しいとは限らない。たとえば「ジャワ」をチャンパとみなす彼の見解には同意できない。カンボジアの古代史に関してはもっと多くの研究者が多角的に研究していく必要があることはいうまでもない。それでも彼の研究によって古代カンボジア史はかなり解明されてきたといってよい。特にセデス主導で作られてきたカンボジア史はシュリヴィジャヤ史同様大幅な見直しが必要である。
M.ヴィカリーの著書の特徴は古代クメールについての王統の解明にとどまらず、社会構造についても碑文から多くの物を読み取ろうとしている。そこに彼の唯物史観が如実に現れている。彼によれば農民の米の余剰は収穫の60%くらいはあったろうと推計している。これだけあれば支配者としてはかなりの富を蓄積でき、多くの兵員を養えたであろうし、軍事的にも強大になっていく素地が出来上がり、貿易にその収入のほとんどを依存していた扶南がやがて圧倒されていったのも当然であることが良くわかる。また、地方豪族も独自の経済力や軍事力を蓄えた事情も理解できる。逆にいえば「中央集権」体制の維持は容易でなかったといえるであろう。それは7世紀後半から8世紀後半にかけて真臘の中央政権の崩壊という形で現れる。ジャヤアヴァルマン2世の登場によって初めて真臘の中央政府が再建されたのである。
また、土地所有については農民は土地の所有権は認められず、耕作権のみが与えられていたようである。土地所有ができたのは寺院や地方豪族であり、彼らに対する「寄進」についての碑文が多いという。それは土地の帰属を明確にし、かつ財産権もある程度明らかにしている。
交換手段としての貨幣は存在せず、多用されたのが銀の地金や衣類(その多くはインドからの輸入品)や米であったろうと彼は推論している。もちろん地域の特産品(香木など)もそれに加わったに相違ない。共通通貨が存在しなかったというのは中央集権国家の形成が不十分であったからに他ならない。しかし、扶南の貨幣なるものは存在したことは間違いない。旭日文様の貨幣はモン族の支配地域のあった遺跡から数多く発掘されている。これは交易経済の交換手段であり、価値尺度となったものであろう。ただし、内陸部濃音地帯では「物々交換」経済が中心であり、扶南貨幣もでどれだけ利用されたかは定かではない。真臘の時代には存在しなかったということは、農民中心の社会で商品経済が未発達の段階では貨幣の必要性はなかったということであろう。
順番 | 汪名 | 在位 | 漢籍 等 |
1 | Bhavavarman I | 550-600? | Rudravarmanの孫?、シヴァ教徒、 |
2 | Chitrasena Mahendravarman |
600-611? | 質多斯那、Bhavavarmanの異父弟、父親はVirvavarman 祖父はSarvabhauma(Cakravartin) |
3 | Isanavarman | 611?-635? | 伊奢那先代、刹利伊金那。今のSambor Prei Kukに イシャナプラなる新都を開いた。 |
4 | Bhavavarman II | 635?-655/7 | Takeo出身。Isanavarmanの末の息子?。義浄の悪王? |
5 | Jayavarman I | 655/7-681? | 真臘の版図を最大限に広げた。没後後継者に恵まれず、 中央統一政権は消滅。群雄割拠時代。 |
6 | Queen Jayadevi | 681?-713 | Jayavarman Iの娘。天下の乱れを嘆く。 |
7 | Samnhuvarman | 713-716 | 以下は全国統一の王ではない。在位年数も不詳。 |
8 | Pushkaraksha | 716-730 | |
9 | Sambhuvarman | 730-760 | |
10 | Rajendravarman I | 760-780 | 沿海部の支配者だった?(Briggs p105) |
11 | Mahipativarman | 780-788 | Indravarmanの妃の、Indradeviの父親。Rajendravarman I の息子。(Briggs p105)、殺害された。 |
Jayavarman II | 770/802-834 | 802年にカンボジアの独立宣言。全国統一。C.Jacquesは 790年には王位についていたと考える。 |
第3章 扶南のその後と室利仏逝の成立
扶南は確かにメコン・デルタからは追い出されたが、「扶南という政治経済体制」は室利仏逝=シュリヴィジャヤに名前を変えて、その後も大きく発展したということである。
3-1生きていた扶南
6世紀中頃に滅ぼされたはずの扶南が『新唐書』南蛮伝下に堂々と朝貢国として登場する。「扶南、在日南之南七千里、地卑窪、與環王(チャンパ)同俗、有城郭宮室。王姓古龍、居重観、柵城、楉葉以覆屋。王出乗象・其人黒身、鬈髪、」とあり、かなり質素な王宮に暮らしていた様子がうかがえる。名前も「・・跋摩(Varman)」といった旧扶南の王族のようなものでなく「古龍」だという。これは崑崙と記されている例もあるが古代クメール語では’Kurun'は「王」とか「支配」という意味である。重臣も王族の場合は‘Kurun’と称していたのかもしれない。
これは盤盤国の王と似ている。盤盤国の王は元々はモン族であったと考えられ、姓は「楊」であると『通典』には書かれている。「楊」は’Yang'であり、モン語では「王」の意味である。漢籍が「音訳」には忠実であった様子がうかがわれる。上述のように『通典』によれば盤盤(媻媻)は軍事的には弱小国であり、王城らしきものはなく王の住居は短い木で囲いが作られていたとある。また仏教が盛んであり、仏寺が10か所、道士寺(上級仏寺)が1か所あり、王は婆羅門も優遇していたとある。槍の穂先は鉄製だが、矢ジリに石を使うなどは新石器時代そのままである。これは盤盤が「軍事弱国」であったことを物語っている。扶南が属国「盤盤」に命じて、あえて弱い軍隊のままにしておいたであろうことは容易に想像される。「海の守り」は扶南の強力な海軍がバンドン湾を警備していた。陸伝いに外国から攻められる可能性はほとんどゼロに近かった。
『新唐書』ではさらに扶南が唐時代に至っても「武徳、貞観時、再入朝、又献白頭人二、白頭者、直扶南西、人皆素首、膚理如脂、居山穴、四面峭絶、人莫得至、與参半國接。」とあり、朝貢時に白頭人2名を献上した。その白頭人の居住地については人里離れた山の穴倉で暮らしているといった説明までしている(内容は作り話であろう)。この白頭人が居た地域というのはオケオのやや西方の海岸近くのカンポット(Kampot)辺りではないかというのがブリッグスの説である。(Briggs,p48) しかし、カンボジア国内に扶南が7世紀にいたるまで拠点を維持し続けるたとは思えない。
扶南はさらにそれ以外の漢籍に登場する。『冊府元亀』(1013年ごろ北宋時代、王欽若が王命により編纂した)の巻九百九十九、外臣部(四十四)・「請求」の中で「太宗貞観十七年(西暦643年)、「林邑王遣使云為扶南所攻、乞師救援。」とあり扶南が攻めてくるので唐に援軍を陳情したとある。太宗は唐という大国が控えているから安心するようにといい陳情を受け付けなかった。事実その後の「扶南からの攻撃」の話は記録されていない。
6世紀の半ばに消えたはずの扶南が100年後に元の隣国林邑を攻撃してきたのだという。しかしこれは事実であったと考えられる。「盤盤国」に亡命した扶南政権が海軍力を強化して林邑のどこかの港湾を襲撃したことは十分に考えられる。唐王朝は直接朝貢にやってくる扶南に対し林邑攻撃を止めるように命じたものであろう。逆らえば「朝貢国」としての資格を剥奪され、甚大は損害を被ることになる。
林邑にしてみれば攻撃してきた海軍は昔の「扶南の海軍」と同一のものだと考え、唐王朝に救援を願い出たものであろう。7世紀の中ごろに確かに扶南は「生きていた」。しかしどこでどういう形で生きていたのであろうかが問題である。それを明確に説く学説にはお目にかかったことがない。逆に日本の先駆的な東洋史家からは『新唐書』は頼りない史書であるかのごとき取り扱いを受けてきたのが実態である。
ここで問題になるのはMichael Vickery (マイケル・ヴィッカリー)の「真臘と扶南は平和裏に合体し、扶南が自然に真臘に吸収された」という説である。
しかし、真臘が扶南を滅ぼしたという『隋書』の記述を疑うだけの根拠はない。さらに『新唐書』には「其王剎利伊金那,貞觀初幷扶南有其地」とあり、イシャーナヴァルマンが唐・貞観時代の初めに扶南を完全に併合したと書いている。唐時代に入っても扶南がたびたび出没するので唐王朝としては真臘に実態の説明を求めたものと思われる。真臘は完全に「扶南を併合・吸収した」と説明したに相違ない。
M.ヴィッカリーの「扶南平和併合説」の根拠は次にみるK53碑文(667年)によると扶南時代から継続して真臘の王4代、合計5代の王につかえた大臣一家がいたからだという(Vickery, p41)。もちろんそういうケースもあったろうが、問題は扶南の本流の王族や支配階層がどういう行動をとったかである。彼らが全体として真臘に服属し、将来当てのない「国際交易」を断念して歴史から消え去ったなどということは客観情勢からみてもおよそありえない。コンポン・チャム(Kompong Cham)の近くで発見されたハンチェイ(Han-Chey)碑文にはバヴァヴァルマンは逃げる敵を追い掛け回し、山の王たち('Kings of mountain=扶南の王族を指す)を殺害したとあり、その勝利について吟遊詩人を派遣し全国に喧伝したと書いてある。これが扶南の王族との戦いであったという以外には考えられない。この碑文が事実とすればM.ヴィッカリーが「平和統合論」を説くのは意外である。
マヘンドラヴァルマンとしてチトラセナは王位に就くや「王権は神から授かった」というシヴァ信仰を強調し、リンガを建て、チャンブ・ヴィシュヌ(Chambhu-Vishnu)の名のもとに混合神を祀るなど極端なシヴァ信仰を打ち出した。そういう中で扶南時代に培われた仏教信仰は迫害され、衰退に向かった。義浄が『南海寄帰内法伝』において「跋南(扶南のこと)に悪王が現れ、それまで隆盛を極めていた仏教は除かれ、仏僧もいなくなり、人々は外道(ヒンドゥー教)を敬うようになった」と嘆いている。それだけ、仏教を敬い育ててきた旧扶南の王族にとっては真臘の支配者に対する許しがたい感情を持った者も少なくなかったはずである。
もちろん、真臘が覇権を確立したのちも扶南の王族でそのまま地方の豪族として残留したものはいたに違いないが、扶南王朝の王族や貿易実務を担当していたエリート階級の多くは亡命を余儀なくされたことは間違いない。
真臘は扶南を排除した直後から朝貢に精を出し、貞観2年(628年)の朝貢は『旧唐書』には「林邑と共に来た」と記録されている。これは明らかに海路によるものである。太宗はこの入貢を大変喜び、多くの返礼を与えたといわれている。「太宗嘉其陸海疲労、錫賚甚厚。」とあり、真臘は海と陸路と両方を使い入貢していたことがわかる。また「南方人謂真臘國為吉蔑國」とある。吉蔑は’クメール(Khmer)'の音訳であり、真臘の使節は自らを「クメール國」から来たと説明したと考えられる。しかし、盤盤に亡命を余儀なくされた扶南の支配者たちは依然強力な海軍力を維持し、真臘の海上ルートでの朝貢を阻止したであろうことは間違いない。そのため真臘の朝貢は次第に陸路による朝貢に転換し、「文単」国を通じて朝貢を行うようになった。陸路依存の朝貢は貢物は地元産品が主体になりさほど大きな利益は望めなかったであろう。
イシャーナヴァルマンはコンポン・トム(Kompong Tom)の北方30Kmほどのところにあるイシャーナプラ(Isanapura)に618年ごろに首都を定めたとされる。現在でも170か所のヒンドゥー寺院や建造物の遺跡があり、巨大な王都であったことが窺われる。寺院にはシヴァ神が祀られていた。真臘政権の成立は一種の「宗教改革」を伴い、同じヒンドゥー教といってもシヴァ信仰が重視され、またこの時期シヴァとヴィシュヌを合体させたハリハラ(Harihara)信仰がイシャーナヴァルマン時代に初めて碑文に現れ、像もいくつか作られた。宗教改革や行政改革を推進するためにもインドから多くのブラーマンがやってきたといわれる。
地理学的にはイシャーナヴァルマンがなぜこの地を王都に選んだかは不明である。しいていえば川を使ってメコン川に出られるが、一方メコン川か数十キロの距離があり、敵(旧扶南)の急襲を避けられたことは確かである。彼が扶南勢力の存在を意識していたことは明白である。そもそも真臘が扶南を平和裏に統合したのであるなら、真臘は扶南にかわって「海路による朝貢」をスムーズに続けたはずである。真臘はその後も唐王朝に朝貢を続けるが、扶南の名前は唐初の「貞観年中(627-49年)」で終わりである。その後は「室利仏逝」という国名に変更したのである。
3-2 扶南の消滅と室利仏逝の登場とその後
いっぽう、盤盤国を乗っ取っていた旧扶南政権は7世紀前半には「赤土国」を併呑し、マレー半島の主要港(ソンクラやケダーまど)を支配下におさめた。そのため一時室利仏逝利は『新唐書』にあるように「地東西千里,南北四千里而遠。有城十四,以二國分總」と長細い国になってしまい、場所が離れすぎているので首都機能を2都市で分担したと書いてある。1つはチャイヤーでもう一つは前の「赤土国」の首都でもあたケダーであろう。ケダーはマラッカ海峡側を担当したに相違ない。670年には「室利仏逝」として唐に最初の入貢を果たし、さらに680年代初めにはマラッカ海峡全域を支配領域におくためにスマトラ島南部のムラユ、ジャンビ、パレンバン、バンカ島に兵を進めて、余勢を駆って中部ジャワの「訶陵」をも686年には制圧していた。この時がシュリヴィジャヤの版図は最大になる。この時すでにカンボジアを追われた旧扶南勢力は真臘内部分裂をよそに、新天地で大発展を遂げていたのである。
扶南の一時的「没落」に伴い、朝貢国が増えたことが多くの歴史家によって語られる。盤盤はもともと扶南そのものであるが、P.ホイットリー(Paul Wheatley)などは「別物」と考えている。それ以外の周辺国では狼牙須国やドヴァラヴァティ(堕和羅鉢堕底)などが相次いで新らたな朝貢国として登場する(P. Wheatly, p289-290)。多くの歴史家はこれをみて「扶南は歴史から永遠に消え去った」と考える。「室利仏逝」をパレンバンと見ているので扶南とは無関係だという認識である。
扶南の「統制が緩んだのは中国貿易が一時的に衰退した」というM.ヴィッカリー流の見方ももちろん誤りである。むしろ6世紀の初めごろはルドラヴァルマンの王位簒奪といった扶南の王族間の争いや北部勢力の真臘の進出(南下)による政治上の混乱で扶南の統制力が一時的に衰えたことは確かである。しかし、扶南は着実に巻き返しを準備していた。その答えが「室利仏逝」の登場である。
3-2-1 狼牙修国(ランカスカ)の朝貢
狼牙須国(現在のナコン・シ・タマラート)が最初に朝貢を行ったのは梁の天監14年(515年)であり、523年、531年、最後の朝貢は陳王朝光大2年(568年)であった。合計4回の入貢記録が残されている。したがって515年ころには扶南の政治的な内紛(ルドラヴァルマンの王位簒奪、511年)などにより、海上支配力が一時的に衰えをみせ始めたものと考えられる。盤盤の隣国である狼牙修国はその辺の情報をいち早くキャッチし、機敏な行動に出たものと考えられる。狼牙須国はその後どうなったかは記録がない。おそらく干陀利(ケダー王国)に併合され、「赤土国」として隋時代に朝貢したものと推察される。その赤土国は7世紀の前半には室利仏逝に統合されたものと考えられる。
狼牙須国は最近はパタニであるという説が流布されているが、これは明らかな間違いである。疑いもなく、今日のナコン・シ・タマラートであった。最初に狼牙須国の所在地を記述したのは隋時代に煬帝の命で「赤土」に特使として派遣された「常駿」である。その記録には『隋書』に「又行二三日、西望見狼牙須國之山」とある。コンドル島から2~3日航海すると西のほうに陸地があり、山が見えた。その山とはこの場合船乗りが目指す「ランド・マーク」であり、ナコン・シ・タマラートの背後にあるカオ・ルアン山(標高1820m)であったことは間違いない。ランカスカをパタニとするのが現代の「通説」であるが、パタニは平地であって肝心の山は全くない。山は動かない。
不思議なことに、現代のタイ人のほとんどすべての歴史家はパタニこそがランカスカ(凌牙斯加)であると信じている。パタニの内陸部にヤラン(Yarang)に遺跡があり、それがランカスカの首都であったと信じて、米国の調査団と共同発掘調査などを行っている。米国人も漢籍をロクに調べないで、パタニを凌牙斯加と信じていたのである。ところで凌牙斯加がパタニであると明示した文献はこの世の中に存在しない。趙汝适が1225年に出版した『諸蕃志』の記述に基づき、そのように後世の歴史家が勝手に思い込んでいるだけである。思い込みの第1号は1621年に『武備志』を編纂した茅元儀である。彼が書いた鄭和の航海図に「孫姑那(ソンクラ)」の南隣に「狼西加」という地名が出ている。もちろんこれは茅元儀が「ランカスカ」のつもりで勝手に書き込んだ間違いである。さすがに気が咎めたのか「凌牙斯加」とも「狼牙修国」とも異なる漢字「狼西加」をあてている。
『諸蕃志』で趙汝适が凌牙斯加という国名を記述したのは1225年であるが、これが「ランカスカ」と読み、その所在地が「単馬令」から6日かかるというので、パタニではないかというのが後世の学者の推理であってほかの根拠は何もない。『諸蕃志』には「凌牙斯加國,自單馬令風帆六晝夜可到,亦有陸程」と書かれている。「単馬令」とはナコン・シ・タマラートであるから、そこから6日の航海であればパタニではないかという推測にすぎない。常駿の記述は歴史学者全員が無視してきたということになる。諸蕃志の記述は『隋書』の常駿の記述に比べ、はるかに具体性に欠ける。趙汝适は主に当時のアラブ商人からの聞き取りで『諸蕃志』を書きあげたといわれる。趙汝适はおそらくタイ湾に面したチャンタブリ辺りとおもわれる「丹眉流」を「単馬令」と勘違いしていた可能性がある。
ところが皮肉にも『諸蕃志』にはパタニと思われる地名が書いてある。それは「抜沓」である。抜は「pa」であり「沓」は「ta」である。パタニがパタと漢訳されていても不思議ではない。そうなると『諸蕃志』のいう「凌牙斯加國」は行き場所が無くなってしまう。だから歴史家は「抜沓」をパタニと読むことをためらい、これを「スマトラのバタック」だなどと説明したり、位置不明にしてしまったとしか考えられない。歴史学者のご都合主義としかいいようがない。狼牙須国はその後、梁の「普通元年(523年)、中大通3年(531年)、陳の光大2年(568年)と朝貢を続けるが、合計4回のみである。狼牙須国の登場は扶南の勢力が衰えてきた6世紀前半にタイミングが一致する。それまでは貿易国としては能力を有しながら、扶南の掣肘を受けて直接朝貢するには至らなかったためと思われる。
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3-2-2 干陀利と赤土国と室利仏逝
狼牙須国はその後どうなったのかはこれまた「謎」であるが、ケダーに本拠を置いていた貿易大国の干陀利(カンダリ)に吸収されて、「赤土国」の一部となったものと推測される。M.ヴィッカリーは意外にも干陀利はスマトラ島にあったというセデスの説を素直に受け入れている。『明史』三仏齊の条に,「古名干陀利。劉宋孝武帝時,常遣使奉貢。梁武帝時數至。宋名三佛齊,修貢不絕。」とあり、セデス等の解釈では「三仏斉」の古名は「干陀利」であると書いてあり、三仏斉(シュリヴィジャヤ)はパレンバンにあったから干陀利はスマトラにあったという単純極まりない幼稚な解釈である。実は「三仏斉」はジャンビ、ケダー、チャイヤー3国の連合政権なのである。『明史』の執筆者はこれを「ケダー」であると単純に考えて書いたまでの話である。チョーラ(注輦)との関係を見るとチョーラとの直接的交渉があったのはケダーでありケダーが三仏斉を代表して行動していたのである。『明史』の執筆者はケダーすなわち「干陀利」だから、干陀利は三仏斉であると書いた。明初に浡淋邦国王が自らを「三仏斉」と称して朝貢に来たものだから、後世に史家はさらに誤りを重ね、パレンバン=三仏斉=シュリヴィジャヤと間違いに間違いが重なったものであろう。それに引っかかったのが残念ながら日本の権威ある東洋史家であった。しかし、その誤りがいまだに訂正されないまま今日に至っている。
隋の煬帝が特使を送ったほどの大国「赤土国」も3度の朝貢を行った後に大業6年(610年)を最後に『隋書』の上からは消えてしまう。その理由は述べられていない。赤土国はその後、旧扶南政権(当時は盤盤)に併合(吸収)されてしまったものと考えられる。旧扶南政権は表向きは盤盤を看板に朝貢を続けながらも「室利仏逝」創設の準備を進めていた。旧扶南政権は盤盤に根拠地を置きながら、この赤土国を吸収してマレー半島の統一を達成し、670年に「室利仏逝」という「看板」を掲げて唐に朝貢した。赤土国はケダーに本拠を置き、多分東海岸はソンクラまでを領土として隋との交渉を持っていたものと思われる。この辺の筋書きはいわばミッシング・リンクともいうべきものであるが、これ以外のシナリオは考えられない。ただし、マレー半島の「統一」が武力によるものか「話し合い」によるものかは定かではない。
『新唐書』室利仏逝の条には「一曰尸利佛誓。過軍徒弄山二千里,地東西千里,南北四千里而遠。有城十四,以二國分總。西曰郞婆露斯。」とあり、『隋書』赤土国の条には「東波羅剌國,西婆羅娑國,南訶羅旦國,北拒大海,地方數千里」とある。
「郎婆露斯」とはニコバル諸島のことであり、室利仏逝はその東(マレー半島)にあると『新唐書』には明記してある。また『隋書』の「西婆羅娑國」も「郎婆露斯」と同じであり、赤土国も室利仏逝もニコバル諸島の東に位置していた。すなわち同じマレー半島にあったということになる。郎婆露斯とは’Langka Balus’というニコバル諸島の古名で、ペルシャ人地理学者イブン・フルダーズベ(Ibn Khurdadhbeh)などが9世紀ごろよく使用していた言葉の「漢訳」である(桑田、p199)。桑田博士はこのことに気づいていたが、自分ではセデスのパレンバン説を採用していた。あまりにセデス理論に傾倒したいたために、軌道修正が最後まで利かなかったのかもしれない。まことに惜しまれる。
干陀利プラス狼牙須国⇒「赤土国」、盤盤(扶南)プラス赤土国⇒室利仏逝という順序でマレー半島の集約化がすすめられたものと考えられる。ただし、室利仏逝成立以降は参加の属領からの「朝貢用財貨」を集約して唐王朝向けに出荷する便宜上、使用された港はチャイヤーから赤土時代に使われていたソンクラに移されたものと考えられる。『隋書』でいう「僧祗城」というのはソンクラであるとみてよいであろう。ちなみに「西望見狼牙須國之山,於是南達雞籠島」という記事は「狼牙須(ランカスカ)」は現在のナコン・シ・タマラートであり、「雞籠島」は不明とされてきたが、現在のサティンプラの近くにある円錐形の小山のワット・パー・コー(Wat Pha Kho)ではなかろうか。ここには山頂に大きな仏教寺院や古典的な仏足石もあり、昔から人々の参拝の場所でもあった。当時はこの辺りは現在のような完全な陸続きではなく、いくつかの島に分かれていたといわれる。パー・コーというのは正しくはプラ・カオ(Phra Khao=聖なる山)の意味である。
私のこのような推理は必ずしも明確に記述された文献に基づくものではないが、漢籍の個々の朝貢の記録や断片的な記述をつなぎ合わせるとそのような結論に到達せざるをえないのである。旧扶南が盤盤を輸出基地にして中国への朝貢を続けたことは西海岸のタクアパ港で自由に西方の物資を輸入できたので、十分に物的な根拠はある。室利仏逝の時代にはいるとケダーを始めとしてトランやクラビなどの複数の服属国からも朝貢品を集荷する必要から、輸出港を最も効率の良い港(ソンクラ)に移動したものと考えられる。扶南・室利仏逝の輸出政策は一貫して柔軟かつ合理的であった。
M.ヴィッカリーが解明した7-8世紀の前アンコール期の碑文では真臘が海岸に近い地域からカンボジアの北部・中部に向かって行政権を強化したということは読み取れるというが、水真臘にかかわる碑文は存在しなかったようである。M.ヴィッカリーはそもそも「水真臘」の存在自体を疑っており、漢籍の間違いではないかと考えている。しかし、原則的に『正史』は根拠のないことは書いていない。必ず何らかの記録を参照しているはずである。もちろん参照した記録の間違いや執筆者の勘違いや理解の不足は避けられないが、近代の歴史家ほどひどい過ちは犯していない。
3-3 室利仏逝の消滅とシャイレンドラの台頭
ところが室利仏逝は742年に叙位を受けたのちに漢籍からは消えてしまう。貿易超大国が朝貢を止めるのには「重大な事件」が発生したに違いない。それは『新唐書』などの史書には記載されていないが「陸真臘」あるいは「水真臘」がチャイヤー地区に攻め入って室利仏逝の本拠地を占領したとしか考えられない。「陸真臘」といえどもメコン中流域(クラチエのあたり)を支配しており、海に出てからチャイヤーを攻撃することは不可能ではないが、普段ある程度の「水軍」を常備していたのは「水真臘」であろう。
この「事件」についての直接の証拠は見当たらないが、775年の「リゴール碑文(もともとはチャイヤーのWat Wiangにあった)」をみると、シャイレンドラのパナンカラン王がジャワ島から大海隊を率いてやってきて侵略者の真臘の軍勢を撃破したことは明白である。この一連の事件でかなり激しい戦闘があり、多くの犠牲者が出たこと窺い知ることができる。(後述、リゴール碑文)
8世紀の中ごろになると、室利仏逝はマラッカ海峡の経営に注力しており、タイ湾の本国の防衛には普段からあまり大きな兵力を配備していなかったものとみられる。首都チャイヤーはバンドン湾の奥まったところにあり、外敵が簡単に攻めてくるとは予想していなかったのであろう。海軍はマラッカ海峡方面に主力が展開していた隙を突かれたと考えるべきであろう。この時は室利仏逝の幹部の多くが殺害された可能性が高いことは後の「リゴール碑文」からもうかがえる。シュリヴィジャヤ・グループは犠牲者の鎮魂のためにチャイヤーに新たに3つの寺院(ワット・ウィアン、ワット・ロング、ワット・ケオ)を建設したのである。これはかなり大規模な殺戮があったことを示唆している。また、バンコク国立博物館のブロンズの菩薩像(Boddhisattva Avalokitesvara Padmapani)はチャイヤーのWat Wiangから発見されたものとされるが、ボロマハタート大寺院のものだという説が有力である。その出来栄えから見て当時インドから輸入されたものと考えられている。
(写真)
シュリヴィジャヤ・グループは760年代の初めにはチャイチャーを奪還し768年には「訶陵」が約100年の中断期間ののちに唐に再入貢した。その戦勝記念碑がいわゆる「リゴール碑文、775年」である。シャイレンドラ軍がチャイヤー奪還部隊の主力であったことは碑文からも明らかである。その功績によりジャワ島のシャイレンドラ王(パナンカラン王)がシュリヴィジャヤ・グループの総帥(マハラジャ=大王)に推挙された。シャイレンドラ王家はもともと扶南の王族の一つであったに相違ない。全くのアウトサイダーが「マハラジャ」に選ばれることはありえなかったと思われる。
シャイレンドラ海軍は勝利の余勢を駆って、メコン川沿いの真臘の拠点都市やチャンパ(林邑)をも攻略している。M.ヴィッカリーはシャイレンドラの攻撃はチャンパ王によって撃退され、1度で終わりになったとみており、現地にはそのような碑文が残されている。しかし、林邑の朝貢は天宝9年(750年)を最後に途絶してしまう。シャイレンドラ軍の攻撃がチャンパに回復不能なほどの重大な被害を与えたものと考えられる。シャイレンドラ軍を撃退したという碑文のみが強調されているが、攻撃の影響はかなりの後遺症を残したと見なければならない。このことがシュリヴィジャヤ史の謎を解明する最重要のカギである。シュリヴィジャヤはマレー半島、ジャワ島、インドシナ半島の沿海部(カムラン湾辺りまで)をすべて制圧し、カンボジア(クメール)全体についても770年頃からジャヤヴァルマン2世を司令官とする旧扶南勢が真臘を制圧したと考えられる。6世紀中頃真臘にメコン・デルタから駆逐された扶南勢力は200年後にはカンボジア・タイ大陸部を含む東南アジア一帯を支配する一大帝国として再登場したのである。しかし、シュリヴィジャヤのマハラジャ(大王)としての宣言は何一つなされていない。逆にSKT碑文ではジャヤヴァルマン2世が「ジャワ(シュリヴィジャヤ)」からの「独立宣言」を行っている。しかし、その後の経過(朝貢)をみればアンコール王朝はシュリヴィジャヤのコントロール下にあったことが窺われる。このことはシュリヴィジャヤの支配者が中国的あるいはヨーロッパ的な「専制君主」とは異なることを意味している。いわば「静かな大帝国」であった。
真臘はチャイヤー地区での敗北に引き続き、一挙にメコン川中下流域の主要港もシャイレンドラ海軍に制圧されてしまった可能性が高い。その後、シュリヴィジャヤは自国系のカンボジア政権を作るためにジャヤヴァルマン2世を国王に仕立ててカンボジア支配を行ったのではないかというのが私の仮説である。こういう見方はウェールズ(Q. Wales)が”Towrds Angkor“の中で触れているが、M.ヴィッカリーや他の歴史学者は全くそのようには考えていない。いずれにせよシャイレンドラ(シュリヴィジャヤ)がメコン川中下流域のどこかに760年代のチャイヤー奪還後に何らかの拠点を構築したことは十分考えられる。もし、770年のクラチエ(Kratie)の碑文の「ジャヤヴァルマン」がジャヤヴァルマン2世を指すのであれば、シュリヴィジャヤ軍はクラチエまで一気に占領してしまったとみることができる。クラチエは「陸真臘」の本拠地が置かれていた場所でもあった。M.ヴィッカリーはジャヤヴァルマン2世は770年にはインドラプラ(コンポン・チャムの南)を支配していたという。このあたりはジャヤヴァルマン1世の本拠地があったと考えられる。おそらくシャイレンドラ海軍(シュリヴィジャヤ・グループ)はメコン川を遡上してクラチエ支配に向かい760年代に陸真臘の心臓部を制覇していたということになろう。シャイレンドラ(後期訶陵)は768年に入貢を再開しているので、その前に大作戦を完了させていたと思われる。
742年以降の室利仏逝の消滅と750年の水真臘の朝貢と768年の「訶陵(シャイレンドラ)の朝貢復活と775年のリゴール(チャイヤー)碑文の間は全て「ミッシング・リンク」であり、それをつなぐ仮説は誰も提示していないが私は上に述べて様に考えている。全体の流れとしてはこれで間違っていないと確信している。要約すれば室利仏逝は742年に叙位を受けた後に745年頃水真臘の急襲を受けて首都チャイヤーを占領されてしまう。水真臘は750年に入貢を果たす。しかしシュリヴィジャヤ・グループはチャイヤー奪還を目指し、ジャワ島のシャイレンドラ王国の海軍を主体に反撃に転じ、760年頃首尾よく故地チャイヤーを回復する。余勢を駆ってメコン川にまで攻上り765年頃までに水真臘の首都を占領する。ついでに林邑の港を制覇する。このストーリーはアラブ商人にも知れ渡り、スレイマン(Sulaiman)が851年にチェンラ王とザバグ(シュリヴィジャヤ)大王の戦いの物語として筋書きはやや異なるが書き残している。あらすじは若いチェンラ王がザバグに攻め入り、大王(マハラジャ)のっ首を取って盆の上に乗せてみたいものだと大臣に語る。大臣は両国民とも仲良くやっているのにそんな無益なことはやめるように王をいさめる。しかし、王の意向はザバグ大王の耳に入り、怒ったマハラジャは船団を組み暮夜ひそかにメコン川に侵入し、若い王の首を取り帰国し、頭蓋骨を洗い香油を塗り、壺に入れてチェンラの王子に送り返す。その時にザバグ王はチェンラの王位を奪うつもりはないことを付言した。この話はインドと中国にも伝わり、マハラジャの評価が高まったという。これはシュリヴィジャヤが真臘を侵攻した話と符合する部分があるが、実際にはマハラジャはその後のジャヤヴァルマン2世軍を派遣してカンボジアを占領してしまう。なおQ.ウェールズは殺されたチェンラ王はマヒパティヴァルマン(Mahipativarman)ではないかといっている(Angkor and Rome,p55)Mahindravarmanだとすると彼は陸真臘の最後の王とみられ、殺害されたのは781年と推定されており、ジャヤヴァルマン2世によって殺害されたと見られる人物でスレイマンの物語の人物ではなさそうである。なお研究の余地がある。
3-4 M.ヴィッカリーの理論的問題点
M.ヴィッカリーは古代クメール碑文の解読ではセデス等の先人の誤訳や勘違いを大幅に修正するという大きな成果を上げたことはまず高く評価されなければならない。しかし、自分でもいくつかの重大な誤解をしている。その主なものは以下の通りである。
3-4-1 M.ヴィッカリーの誤解のその1
真臘が内陸部で勢力を伸ばし、宗主国である扶南を攻略し、併合したという漢籍の書き方は間違いで、実際は外国貿易の衰退により扶南が経済的な力を失い、真臘に自然に屈服し、吸収されてしまったというもので、武力による併合はなかったとM.ヴィッカリーは主張する。
これは彼の重大な勘違いである。もしそうだとすれば、扶南併合後に真臘は必死になって朝貢貿易を行うはずはない。しかも、海路が扶南の亡命政権によって封鎖されたために、陸路による朝貢ルートを開拓した。これは実際はモン族が開拓したルートを横取りしたと考えられる。M.ヴィッカリーは貿易の重要性をことさらに軽視しているが7世紀に入ってからの朝貢実績をみれば、真臘の朝貢貿易重視政策は明らかである。しかし、真臘にとって予想外だったことは盤盤に逃れた旧扶南が海軍を保持増強し「タイ湾の制海権」を以前にもまして強化した事である。そのため真臘はやむなく陸路(メコン川上流⇒雲南省経由)の朝貢ルートを開発せざるをえなかった。陸路による朝貢は「文単」という支配下の小国家に担当させた。また真臘は隣国林邑の貿易船に同乗させてもらい、海路での朝貢も行った。それは貞観2年(628年)10月にともに来朝したと唐王朝は記録されている。扶南時代には林邑の力を借りて入貢するなどということはありえなかった。もし扶南との「平和統合」がなされていたならば、扶南の使っていた航海ルートをそのまま利用すれば済むことであり、わざわざ「陸海疲労」には及ばなかったはずである。
いっぽう、海軍を引き連れてタイ湾の対岸の盤盤国に逃げ込んだ(本拠を移した)扶南は制海権を維持し、以前と変わらず海路による朝貢を引き続き行った。それは時には盤盤という国名を使ったり、扶南という自国名を使ったりして行われたと考えられる。盤盤が純粋な独立国だと考えてしまうと、そういう理解はできない。「盤盤は歴史的に扶南の代理国であった」ということを論じる学者もほとんどいない。なおタクアパの対岸にあるココ島が実際の国際的商取引の場所であったと考えられ、多くの遺跡が発掘されている。漢籍で「哥谷羅」と呼ばれるのはココ島かそれに付属するハート形の小島のコー・ラン(Koh Lan)であったと考えられる。ココ島にトゥン・トク(Thung Tuk)という島の中央部の集落に市場があり、当時の建物の遺跡が残っている。また、アラブ陶器の破片やビーズが多数発見されている。
タクアパ周辺、ココ島
このマレー半島横断通商路こそがシュリヴィジャヤの歴史の謎を解くカギなのである。室利仏逝をパレンバンだと考えてしまうと、古代の東西貿易のルートが完全にずれてしまい、古代通商史そのものの実態がまったく見えなくなってしまう。その間違った「古代通商史」が今日まで大手を振ってまかり通ってきたのは何とも不可解な現象である。
3-4-2 M.ヴィッカリーの誤解のその2
彼は「ジャヴァ」をチャンパ(という言葉の訛り)と同じと考えていた。
確かにチャンパにはオストロネシア語族(Cham族)が居住していて、インドネシア語やマレー語と同系統言語を話すし、航海術にもたけている。ところが、そもそもジャワという言葉は、古代においてはマレー半島とその海域(ジャワ島も含め)を含む意味があった。上で説明した法顕の「耶婆提」の例をみても明らかである。
ここでの問題は802年に「ジャワ」からの独立宣言をしたジャヤヴァルマン2世が「ジャワからカンボジアにやってきた」というSKT碑文(1052年)が残されているからである。セデスは「ジャワ」を「ジャワ島」と信じて、その後の議論を展開している。M.ヴィッカリーは隣のチャンパこそが「ジャワ」だというのだ。しかしそれは両者とも間違っている。
ジャヤヴァルマン2世はチャイヤーの辺りのシュリヴィジャヤの本拠地で生まれたか、そこで育ったはずである。ジャヤヴァルマン2世の親や祖先の素性は必ずしもはっきりしないが、M.ヴィッカリーはジャイェンドラ・ディパティヴァルマン(Jayendra-dhipativarman)王がジャヤヴァルマン2世の母方の伯父にあたるとしている。ブリッグスは彼はインドラヴァルマン1世の祖父にあたるとしている(Briggs, p98)。ジャヤヴァルマン2世からアンコール王朝がスタートすることになるが、M.ヴィッカリー説ではシュリヴィジャヤはそもそも最初から無関係だということになってしまう。
これでは814年から1116年までの300年間になぜ真臘が一度も中国に朝貢に出かけなかった(陸路も含めて)のかという大きな謎が解けないことになる。朝貢に出かけなかった理由は貿易のメリットが無かったからではなく、アンコールの歴代の国王がシュリヴィジャヤと何らかの約束(朝貢は行わないという)をしていたからであると解釈せざるをえない。
(まとめ)
真臘が扶南をカンボジアから消滅させて以降、8世紀中頃までを歴史家は「前アンコール期」としているがジャヤヴァルマン1世の死後(681年)7世紀末には分裂状態になり、「陸真臘」と「水真臘」あるいは「上真臘」と「下真臘」と呼ばれるようになった。初期の真臘王朝の中央集権体制は、その後の地方権力の経済的実力向上によって分裂・崩壊していった。また、中央権力の政治思想がシヴァ教だけでは民衆の合意が得られず、また求心力にもなりえなかった。シヴァ信仰は結局「王の宗教=神権思想」であり、扶南時代に大乗仏教を経験し、信仰していた農民層の支持を得られなかった。その間「盤盤国」に亡命した扶南の支配者はマレー半島中部を統一し、「シュリヴィジャヤ(室利仏逝)」国としてマレー半島を統一し唐王朝への朝貢を開始した。さらにシュリヴィジャヤ・グループはスマトラ東南部のムラユ、ジャンビ、パレンバンおよびバンカ島を傘下におさめマラッカ海峡の支配権を確立し、さらには中部ジャワの訶陵国も制圧し「シャイレンドラ王国」を建国した。おそらく水真臘のチャイヤー地区への侵攻を機に、一気に反撃に出てチャイヤー、ナコン・シ・タマラートを一気に奪還し、メコン川中流域に攻め上りこれを制覇し主要港を占領した。シャイレンドラ海軍は余勢を駆ってチャンパの海岸地帯をも攻略した。チャンパは占領こそ免れたが、その後は朝貢を中止せざるをえなくなった。ジャヤヴァルマン2世は旧扶南勢力のシュリヴィジャヤから派遣された司令官であり、ほぼ30年がかりでクメールの地から真臘王朝を一掃した。新しい政治体制は大規模灌漑池の建設を中心とする一大米作産業の創設であった。宗教面では国王としてはシヴァ信仰やハリラヤ信仰を維持しながらも大乗仏教を大衆に広範に普及させ、それが政権の求心力として作用した。ここにクメール地区に大乗仏教国が成立したのである。
第4章 アンコール王朝
ジャヤヴァルマン(Jayavarman)2世以降のカンボジアをアンコール王朝として区分される。ジャヤアvルマン2世からスルヤヴァルマン2世の直前まで約300年間はシュリヴィジャヤの制約下にあった。前アンッコール(真臘)王朝と最も異なる点は大灌漑池の建設によって水田稲作の生産量を飛躍させたことである。これによって農民の生活も飛躍的に向上した。大乗仏教の普及により農民の精神生活を安定させる効果もあった。しかし、朝貢はシュリヴィジャヤによって300年間も制約を受けた。中国への朝貢貿易の欠如した国家運営はバランスのとれた経済発展の障害ともなった。
4-1 ジャヤヴァルマン2世
ジャヤヴァルマン(Jayavarman)2世の伝記は没後200年(1053年製作)以上もたってから、ウダヤディトヤヴァルマン(Udayadityavarman)2世(1050~1066年)の時代に製作されたスドック・カク・トム(Sdok Kak Thom=SKT)碑文で初めて「全貌」が明らかにされる。これ以外にジャヤヴァルマン2世についての碑文はほとんどない。スドック・カク・トムはカンボジア国境に近いタイ領のアランヤプラテェート(Aranyaprathet)から34km東北というアンコールからはかなり離れた場所である。ジャヤヴァルマン2世の碑文の不在ということは彼の実績を考えると実に不自然な現象といわなければならない。M.ヴィッカリーはこのSKT碑文以外はジャヤヴァルマン2世の碑文は770年と781年の年号のものがみられるという(Vickery、p22)。それ以外にはシェムリアップ(Siem Reapには781年の碑文があり、これは観音菩薩像(Bodhisattva Lokedvara)の設置にかかわるものである。(Coedès,英語版1968年p94)
この770年の年号の碑文はコンポン・チャム地方のトゥボン・クムム(Thbon Khmum)県のプレア・テアト・プレア・スレイ(Preah Theat Preah Srei)で発見され「ジャヤヴァルマン王が基金を創設した」とのみ記されている。770年という年号が正しければ、ジャヤヴァルマン2世がコンポン・チャムに上陸してそこを前進基地にしていたと考えるほうが自然であろう。770年という年号はシャイレンドラ(後期訶陵)が朝貢を開始した768年の2年後である。この時すでにシュリヴィジャヤ・グループはチャイヤーを奪還し、おそらくメコン川中下流域も制覇した後のことである。ただし、「文単(陸真臘)」も767年と769年に朝貢している。真臘という名前で780年、再び文単という名前で798年に最後の朝貢を行っている。このことから類推すると8世紀末まで陸真臘の一部の勢力はダングレク山脈北部で生き延びていたと考えられる。多分そこまではジャヤヴァルマン2世軍も陸戦の準備ができず制圧していなかったとみられる。タイ東北部の真臘勢力の一部は8世紀末までは健在だったとみられる。
ジャヤヴァルマン2世は770年の少し前頃「ジャワ」からカンボジアに「帰還」し、各地を転戦し、地方豪族を次々に帰順させ平定したのちに802年に「ジャワからの完全独立宣言」をプノン・クーレン(Phnom Kulen)で行った。‘Kamaraten jagat ta raja’と名付けられたリンガを建て、「神王」宣言を行うと同時に、世界の大王チャクラヴァルティン(Chacravartin)として、アンコール王朝の創始者となったという筋書きである。このようなタイトルを持つ王はカンボジアでは初めてのことであった。この王にすべての権限が集中するという、いわば「中央集権宣言」でもあった。
しかし、どのような形で「帰還」したのか、今に至るまで謎である。C.ジャックが「彼は事実上征服者であった」とまでは述べているが特段の根拠を示してはいない。私はジャヤヴァルマン2世の行動からみて彼はシュリヴィジャヤ軍の若き司令官であったと考える。802年にはおそらくカンボジア国内のダンレク山脈の南の旧真臘勢力・地方政権がほぼ全面的にジャヤヴァルマン2世に屈服したとみられる。
SKT碑文では802年に彼が「ジャワからの独立を宣言し、この地上の支配者になった」と高らかに宣伝したというが、これは真臘勢力制圧の勝利宣言であると同時に、カンボジア民衆に対する政治的ジェスチャーではないかと私は考える。換言すれば「シュリヴィジャヤ(マレー半島=ジャワ)のひも付き」ではないとカンボジアの地方権力者・民衆に対して宣言したものとも受け取れる。
SKT碑文には確かな証拠はないにしても、一応は大筋において事実が記されていると仮定して考えると、まず問題になるのはジャヤヴァルマン2世が「ジャワ」から帰還したといわれるが、ジャワとはどこかが問題になる。セデスは、これはジャワ島に違いなく、真臘内部の権力闘争に巻き込まれ彼がジャワ島に逃れ、その後シャイレンドラ王朝の「衰退期」にカンボジアに帰還して政権を樹立したという説を述べている。
それにしても、このセデスの「ジャヤヴァルマンはシャイレンドラ王国の衰退に乗じて逃げ帰った」という書き方には驚かされる。ジャヤヴァルマン2世がカンボジアに「戻ってきた」のは770年頃とされているが、この時期はシャイレンドラ王朝のまさにこれから全盛期に向かう日の出の勢いの時期にあたり、ボロブドゥール寺院も8世紀末のころから建設が開始されたと考えられる。衰退どころかシャイレンドラ王国の躍進の時期に「戻って」来たのである。
ジャヤヴァルマン2世の出自についてセデスは以下のように述べている。'He was only distantly related to the ancient dynasties of pre-Angkorian
Cambodia: he was the great-grand nephew through the female line of Pushkarakha,
the prince of Aninditapura who became king of Sambhypura (Sambor), and also the nephew of a King Jayendradhipativarman about whom we know
nothing.(Coedès、英語版p97)
政争を嫌ってジャワ島に逃げていき、シャイレンドラの「衰退に乗じてジャワから戻ってきた」という。しかし、それほどの氏素性の持ち主ではなさそうである。セデスはプシュカラクサの遠縁にあたり、ジャイェンドラディパティヴァルマン王の甥だという。また、彼は単身帰国して何ができたのであろうか?彼はシュリヴィジャヤの軍勢(海兵隊)を引き連れてカンボジアへの侵攻を果たしたとみるべきである。
ジャヤヴァルマン2世の軍事行動についてはC.ジャックスは次のような説を述べている。ジャヤヴァルマン2世はまず扶南の古都とされるヴィダプラ(Vydhapura)を占領し、メコン川をさかのぼりクラチエ(Kratie)のやや北のサンボール(Sambor)を占領し、次に現在のコンポン・チャムの東南のバンテイ・プレイ・ノコル(Banteay Prei Nokor)という城市を攻略し、そこをインドラプラ(Indrapura)という都とした。ジャヤヴァルマン2世はそこを軍事基地としてメコン川上流にあるワット・プーを占領し、コーン・パペン滝(長さ約10Km)を含むメコン川の南の流域を完全支配したというのである。これはM.ヴィッカリーの見方と順序が異なる。Banteay Prei Nokorは水真臘の都があったと考えられ、ジャヤヴァルマン2世はそこを根拠地としたことは十分考えられる。
M.ヴィッカリーの見解は現在のコンポン・チャムの近くのヴィダプラを起点としてコンポン・トムの北方のバヴァプラ(Bhavapura)に進み、次いでサンブプラの真臘系の君主を懐柔し、背後を固めてからトンレサップ湖を渡り、北西部のバッタンバンを陥れ、最後にシェムリアップ(アンコール)地区に戻り、そこを平定したという。クラチエには女王が君臨しており、803年まで母から娘へと女王の位を譲っていたとM.ヴィッカリーは述べている。クラチエは陸真臘の都があったところである。
ジャヤヴァルマン2世の軍勢の性格を考えると、「海兵隊」が中心であり船を使って軍をすすめ、まずメコン川の主要都市を抑えたことは確実である。陸路、歩兵の大軍を長距離にわたり行軍させる戦法は当時としては道路の整備があまり進んでおらず、兵站のこともあり困難極まりないものであったに相違ない。C.ジャックスの説ではワット・プー(Wat Phu)作戦以降「陸戦」が主体になってくる。ワット・プーにこだわる理由は不明であるが、ダングレク山脈の南を歩兵の大部隊が行軍するということは大変困難なことであったと思われる。
シャイレンドラ軍は数はさほど多くはなかったと思われるが勝利できたのは、地方の豪族が結束して外敵(ジャヤアヴァルマン2世軍)にあたるということがなかったためと思われる。地方豪族の兵力は土着の農民兵が主体であり、シュリヴィジャヤの正規軍に比べればさほど強力なものではなかったはずでである。
M.ヴィッカリーはさらにジャヤヴァルマン2世の碑文が真臘の中央部や、タケオ、カンダル(Kandal),コンポン・セピュー(Komponag Sppue)といった真臘の主な支配領域に残されていないということは、彼が外部からやってきた人物であるということを示唆しているという(Vickery、p29)。
彼に敵意を持っていた地域には碑文は残されないという見方である。これはもっともな指摘である。彼はまさしくシュリヴィジャヤ(旧扶南系)から派遣されてきた若き軍司令官だったと考えるのが妥当であろう。
しかし、ここでヴィッカりーは妙なことをいい出す。ジャヤヴァルマンは「Java=ジャヴァ」から帰ってきたと碑文に書いてあるが最近までカンボジア語では「Java/ChveとはCham」であったというのである。当時はジャヴァといえばマレー半島を含めそこから南を指す言葉であることは明らかであり、無理にチャムに結び付ける必要性はない。漢籍でも「闍婆」を「ジャワ島」と明確に位置付けているのは宋時代にはいってからであり、『宋史』の「闍婆」の条の記述も「ジャワ島」を指しているが、たとえば『嶺外代答』1178年周去非は「闍婆國,又名莆家龍=ジャワ国、別の名をペカロンガン」とわかりやすく書いている(『諸蕃志』1225年も同様)。それ以前の用例では概ね闍婆はマレー半島以南を示していた。
ジャヤヴァルマン2世は各地を転戦したのち、シェムリアップに戻り、さらにその北方の安全な山の砦、プノン・クーレンで戴冠式を行い、「将来構想」を練ったものと考えられる。プノム・クーレンは山奥であり、水は豊富なので「防御」には適している。その地で802年に独立宣言兼戴冠式(Chakravartin=世界の大王宣言)を行った。山から下りたジャヤヴァルマン2世は平野部のハリハララヤ(Hariharalaya)という地域(現在のロリュオス)を占有し、そこを最終的な都とした。シェムリアップから15Kmほど離れたトンレサップ湖の北に当たる。この時のジャヤヴァルマン2世は「権力の源泉は土地と農民」にあるとの基本的な考え方に立っていたと考えられる。それ故にハリハララヤ(ロリュオス)の地を選び「灌漑事業」政策を実施した。その政策は後世の諸王によって継続的に実践されていった。農民の労働が富の源泉になるというのは貿易国家扶南には基本的に欠けていた政治経済哲学であった。もちろん真臘王朝においても神殿に付属したような小規模灌漑池は数多く作られたが、アンコール王朝のような国家プロジェクトともいうべき壮大なものではなかった。いっぽう真臘は政権をとっても次の段階の展望が開けないまま内戦に明け暮れ最後は自壊してしまったともいえよう。
それまでにジャヤヴァルマン2世はシヴァカイヴァルヤ(Sivakaivalya)とシヴァキンドゥカ(Sivakinduka)という兄弟の妹スヴァミニ・ヒヤン・アムリタ(Svamini Hyang Amrita)と結婚した。プリティヴィナレンドラ(Prithivinarendra)という武将がこの2人の兄弟と共にマルヤン(Malyang=Batambangの南)の敵を掃討したといわれる。この地は叛徒が多く、かつアンコール地区からタイ湾に通じる主要な道路があった。後にこの兄弟は征服地を与えられた。(Briggs,p83)
宗教面では、司祭シヴァカイヴァルヤ(Sivakaivalya)を導師(Guru)として、「国王」としての戴冠式を挙行した。さらにブラーマンで魔術に長けたヒランヤダマ(Hiranyadama)をジャヤパダ(Jayapada)から連れてきてカンブジャデサ(Kanbujadesa)王国を「ジャワ」から解放する祈祷を行わせた。同時に、デヴァラジャ(Devaraja=神王,大地の王)信仰を確立したということになっている。ヒンドゥー教の「王の神格化」の思想は王にとってまことに好都合であるが一般大衆とは本質的にかけ離れた宗教であるともいえる。そこに大乗仏教が国民大衆の宗教として幅広く浸透する素地があり、支配者は自らはヒンドゥー教徒でありながら、大乗仏教を尊重することによって民衆とのつながりを維持できたともいえよう。
それまでは『南斉書』に書かれているように扶南の闍耶跋摩(カウンディニヤ・ジャヤヴァルマン)王の使節の「天竺道人釋那伽仙ナーガセーナ(Nagasena)」がいうように、民衆は国王の崇拝するシヴァ神(摩醯首羅天神=マヘーシュバラ神)を一緒に拝んでいれば「平和と繁栄」が約束されると信じていたという。それが盤盤の影響もあり、扶南自身が6世紀半ばにかけて急速に仏教を受け入れたのである。
しかし、最近の研究では現実世界(世俗世界)を統治する王はジャヤヴァルマン2世であったが、神の世界の「統治者」は別にいて、大司祭シヴァカイヴァルヤのような導師(Guru)が神の意志を神王として代行していたという説が出てきている。ジャヤヴァルマン2世はデヴァラジャ信仰のクメールにおける先達の一人だが、そのころからカンボジアには大乗仏教のシンボルともいうべき観音菩薩像などが数多く作られている。これはいうまでもなく大乗仏教を信仰していたシュリヴィジャヤの支配者の宗教政策が影響していたことを示唆している。大乗仏教はシュリヴィジャヤの支配者の信仰する宗教であると同時に、一般民衆が親しみやすい宗教でもあった。
ジャヤヴァルマン2世は834年に没し、諡としてにパラメシュヴァラ(Paramesvara=シヴァ神の化身或いはSupreme Lord)が残される。言葉としては古代インドから存在する。彼がこのようにシヴァ神との繋がりを強調したのは、真臘政権(シヴァ信仰)との「連続性」をアピールしたためではないかと思われる。
それにしても不思議なのはカンボジア統一の偉業を成し遂げた大王自身の直接の碑文が200年以上経ってから、シェムリアップからはるか離れたスドック・カク・トム(Sdok Kak Thom)碑文(全体は340行、サンスクリット語とクメール語で書かれている)で記されたことである。碑文の内容が正確か否かは何も証拠がないので確かめようもないが、「伝説」に基づいて作成されたものとしか考えられない。あるいは何らかの政治的意図が隠された碑文であると解釈すべきであろうか。その政治的意図が何であったか後世の人々の類推にゆだねられることになった。
アンコールから離れた場所に碑文を作ったのは、アンコールの近くだと後世破壊される恐れがあったためではないかと考えられる。事実狂信的シヴァ教徒のジャヤヴァルマン8世は先王の仏教徒の碑文や寺院を多数破壊している。このようにジャヤヴァルマン2世の碑文の欠如は何を意味するかといえば、彼は「よそ者=異邦人」であり、シュリヴィジャヤ帝国から派遣された「征服者」だと地元では受け止められていたことを示唆する。地方の敵対者を殺害し、碑文を作っても受け入れるような地域が少なかったということであろう。いわば全国的に「不人気」だったか、あるいは作られた碑文が破壊されることを恐れたのではないだろうか。
また、注目すべきはジャヤヴァルマン2世はカンブラジャ(Kamburaja=Kambuの王)と自称していたのである。すなわち、「日族」の王、すなわち「真臘系」の王という看板をかかげていたという。それはチャンパのポ・ナガール(Po Nagar=Khanh Hoa省Nha Trang市)碑文、817年に出てくる。彼の後継者もスリ・カンブ(Sri Kambu)の「日(Solar)族の名誉の守護者」とジャヤヴァルマン2世のことを呼んでいた。後のヤショヴァルマンもヤショダラプリのことをカンブプリ(Kambupuri)とあえて呼ばせていた。その後もアンコール王朝が滅びる(1432年)まで国の呼称はカンブジア(Kanbujia)またはアンコール(Angkor)で統一されていた(Briggs,p88)。これはことさらにジャヤヴァルマン2世の出自(「月族」=扶南王家)を隠ぺいするためであると解釈されうるであろう。SKT碑文のすべてを額面通りに受け取ってしまうと、わけがわからないアンコール王朝史になってしまう。
また、このポ・ナガール寺院の774年の碑文には「ひどく色黒で痩せた」人々に襲われ、リンガを奪われたが、撃退したとある。また、ファン・ランの寺院の787年の碑文には「ジャワ」の軍が侵攻し、パンドゥランガの中心都市ヴィーラプラ西方の寺院が襲われたとある。この付近にチャンパの本拠地があるとしてシャイレンドラ(シュリヴィジャヤ)軍がしきりに攻撃をかけてきたものと思われる。その目的とするところは内陸部の占領ではなく、林邑や環王の「朝貢」阻止にあったように思われる。この事件を契機に林邑は750年を最後に朝貢を止めてしまう。環王が武徳年中(618~26年、2度)、貞観年中(627~49年)および貞元7年(793年)の4度だけ入貢し、林邑と重複していた時期がある。新国家占城は北宋時代にはいるとすぐさま960年以降入貢を開始する。
4-2 ジャヤヴァルマン2世の本拠地ロリュオス
ジャヤヴァルマン2世の名前は碑文ではなく、意外な形て登場する。それはアンコールから東方に15Kmのところにあるロリュオス(Roluos,当時のハリハラジャヤ)のプレア・コー(Preah Ko=聖なる牛、シヴァ神の乗り物のナンディ)寺院の前列の3基の塔(後列の3基はそれぞれの夫人のもの)の中央のものが、ジャヤヴァルマン2世の諡パルマシュヴァラ(Paramesvara=最高の神)すなわちジャヤヴァルマン2世に捧げられたものである。プレア・コーの塔を建設したのインドラヴァルマン1世(Indravarman、877~889年)である。このジャヤヴァルマン2世の名前を冠した塔には事績については具体的には何も語られていない。さらに、3列の塔のうち、向かって一番左側の塔はインドラヴァルマン1世の祖父のルドラヴァルマンに捧げられたものである。3基目の右側の塔はインドラヴァルマン1世の両親のものである。インドラヴァルマン1世の父親(Prithivindravarman)の妹のダラニンドラデヴィ(Dharanindradevi)がジャヤヴァルマン2世の妃であるという説明をブリッグスはしている(Briggs, p64)。しかし、ダラニンドラデヴィの出自は不明である。C.ジャックスはインドラヴァルマン1世の母の父親がルドラヴァルマンであるといっている(C.Jacques,p66)。
ヤショヴァルマン(889-910年頃)が製作したとされるコンポン・チャム県、Thaboung Khmum地区のPreh Theat 遺跡から発見された長文の碑文(K.0110)のB面を2014年5月にProf. T.S.Mawellが英訳し発表した。それによると
① Aninditapuraの王統にSri-Puskarakusaという人物がいてSambhupra(Siva’s City)の王位を獲得した。Mount Mahendra(Kulen)を住処とした王ジャヤヴァルマン2世の母の母方の伯父のそのまた母方の伯父であった。
② Rajendravarmanは後者の血縁の子孫であり、母方の血縁の中でVyadhapuraの王位を獲得した。彼は后のNrpatindradeviとの間にMahipativarman王をもうけた。その王は勇猛果敢で傲慢な敵を退治した。
③ 彼は高貴な后との間にSri Narendravarmanをもうけた。その娘にNarendralaksmiがいた。彼女はRajapativarman王とのあいだにRajendradeviを生んだ。彼女は神の子供のようであった。
④ Mahipativarman王は彼女を養女とし、Queen Indradeviと称した。
⑤ ジャヤヴァルマン2世は多くの王に君臨した。地上の支配者であり(Lord of the earth)、生まれながらにして至上の人物であり、幸運と勝利の推進者(Vardana)でありSri Jayavardanaとも呼ばれた。
⑥ ジャヤヴァルマン2世の祖母の弟がルドラ(Rudara)であり、Sri-Rudravarmanと呼ばれた。
⑦ ルドラヴァルマンの甥(姉妹の息子)がインドラヴァルマンの父のSri- Prthvindravarmanである。またルドラヴァルマンの娘の母親がSri-Nrpatindravarmnの娘である。Sri-Prthindravarmanとルドラヴァルマンの娘との間に生まれた子供がインドラヴァルマンである。かれはMan-Lion(獅子人間)と呼ばれていた。
最初にジャヤヴァルマン2世の遠い先祖にPuskarakusaなる王の名前が出てくる。これは余りにも漠然としていて不確かであるということはM.ヴィッカリーがかねてからセデス批判の中で指摘しているとおりである。そもそもジャヤヴァルマン2世の両親の名前がどこにも出てこない。
インドラヴァルマン1世の出自については「ジャヤヴァルマン2世の側室のひとりの遠縁にあたる」得体のしれない人物という見方もされてきた。しかし、上記の碑文からジャヤヴァルマン2世の遠い親族であることが判明した。この場合のキー・パーソンはジャヤヴァルマン2世の祖母の弟であるルドラヴァルマンであることが分かった。ジャヤヴァルマン2世が大灌漑池の造成とい大事業を推進するためには多くの官僚を動員したに相違ない。その中で現地にいたと思われるジャヤヴァルマン2世の親類のルドラヴァルマンのグループが実権を握り、一族の若手のインドラヴァルマン1世が台頭したものと思われる。その中でジャヤヴァルマン3世は父親以外に係累がいないため宮廷で孤立させられ簡単にはじき出されてしまったに相違ない。彼の碑文すら残っていない。インドラヴァルマン1世がが自分の家族のための霊廟であるプレア・コーの建設など指揮していたという事実をみれば、ジャヤヴァルマン3世が877年まで生存していたとは信じがたい。インドラヴァルマン1世は879-889年の在位とされるが、ジャヤヴァルマン3世(834-879年)との間に別な王存在した可能性もある。
碑文によればインドラヴァルマン1世の父親は’King Prithivindravarman'といいルドラヴァルマンの甥である。母親の父親はルドラヴァルマン(Rudravarman)であり、ルドラヴァルマンの娘の母親がSri-Nrpatindravarmnの娘であった。だからといってインドラヴァルマンが王位継承を主張するほどの血筋のようには思えない。このルドラヴァルマンとは「扶南最後の王」とは何の関係もない。このルドラヴァルマンはジャヤヴァルマン2世の側室のダラニンドラデヴィ(Daranindoradevi)の母親の弟だという説もあるが、それを示す証拠は見つかっていない。
ジャヤヴァルマン2世の出自は分かっていないが、碑文によるとジャヤヴァルマン2世の祖母の弟のルドラヴァルマンがカンボジアに居て、その甥(姉妹の息子)がインドラヴァルマンの父のSri- Prthvindravarmanである。またルドラヴァルマンの娘の母親がSri-Nrpatindravarmnの娘である。Sri-Prthindravarmanとルドラヴァルマンの娘との間に生まれた子供がインドラヴァルマンである。(上のThaboung Khmum 碑文)
ジャヤヴァルマン3世はヴィシュヌ信者であり、諡は‘Visnuloka’が与えられた。目立った事績は記録されていないが834年から879年まで45年間も在位したことを額面通りには受け取れない。プレア・コーは879年に完成したとされ、バコン(中央の高塔)は881年完成といわれているがインドラヴァルマンがシヴァ・リンガを立てた。ジャヤヴァルマン3世は「象狩の事故で死亡した」ことにはなっているが、象狩りなどに出かけるのは若いころであり、インドラヴァルマンに謀殺された可能性がある。
ここでジャヤヴァルマン2世、3世、インドラヴァルマン1世の3代の王が目指したのは灌漑設備を整え、乾季にも稲作が可能なようにし、米の生産性を上げ、豊かな穀倉地帯を築くことにあった。この基本的構想は後にヤショヴァルマンのアンコール地帯への遷都によって、さらに広範な農業開発が行われ、アンコール王国のその後の繁栄につながっていった。さらにアンコール王朝はタイ内陸部(北方)への勢力拡大を行ったことは注目に値する。ここには真臘の残存勢力がおり、中国雲南省への貿易ルートの確保という目的もあったことであろう。さらには農村地帯の拡大によって富の源泉を拡大するという大きな目的があったとみるべきであろう。すでにタイ北部は歴史的にモン族が居住しており、当然モン族との勢力争いが起こったとみられる。そこに12世紀ごろから雲南地区からタイ族の南下があり、最後はタイ族との争いになったがクメール王朝は戦いに破れ15世紀の中ごろにはアンコール地区をも占領されてしまう結果となった。
4-3 シュリヴィジャヤ・グループの戦略
セデスのいうようにジャヤヴァルマン2世が「ジャワ島」から「シャイレンドラの衰退」を機に、単身帰国したというのは上に述べたようにおよそありえない話である。ジャヤヴァルマン2世が770年にカンボジアにたどり着いたということは、シュリヴィジャヤ(シャイレンドラ)海軍によってメコン川中下流域の拠点の征服(地ならし)が行われた後のことに相違ない。彼が率いてきたのはいうまでもなくシュリヴィジャヤの軍勢(海兵隊)である。
768年に「訶陵(後期)」が100年ぶりに朝貢を再開したというのは、シャイレンドラ家がサンジャヤ系を抑えて、ジャワ島で「王権」を名実ともに獲得したが、あえて「訶陵」の看板を掲げ、唐王朝に入貢したのである。その理由は中国の王朝は朝貢国同士の戦争や、その結果としての併合は固く禁じており、それに違反すれば入貢を禁止し、それまでに与えられた叙位などを剥奪されるからである。したがってシュリヴィジャヤといえどもジャワ島のシャイレンドラ政権から「訶陵」という名前を消せなかったのである。
それ以前にシャイレンドラ海軍はチャイヤー奪還の余勢を駆って、メコン川の主要地域に一撃加えており、メコン川中下流域の支配権を奪い扶南の故地である真臘を支配下に置くことを目論んだ相違ない。その司令官にジャヤヴァルマン2世が選ばれたとみるべきである。彼は「ジャワ」(マレー半島のシュリヴィジャヤ・グループ)の代理人と地元ではみられていたので、802年に敢えて「ジャワからの独立宣言」を荘厳な儀式で執り行ったのであろう。これは多分に地元民に対する「政治的ジェスチャー」的なものであろう。このようなシナリオを描いた歴史家は少ないと思われるが、これが真相である可能性は極めて高い。彼はカンボジアの各地に「地盤がなかった」ので、彼にまつわる碑文が皆無に等しいのもやむをえない。アンコール王朝設立後間もなくシュリヴィジャヤはアンコール王朝に対し中国に朝貢に出向くことを禁止したみるべきである。
このジャヤヴァルマン2世の「シュリヴィジャヤ・グループの司令官」という私の説には先人がいたのである。それはイギリスの考古学者のクオリッチ・ウェールズであった。彼はその著書 “TOWARDS ANGKOR、1937”(p221) の中で次のように述べている。
’This great king (Jayavarman II) had ruled for sixty-seven years (実際正式に王位にあった期間は32年間である:802~834年)from the time when, in his extreme youth, he was sent by the King of the Mountain to occupy the Khmer throne.’ この場合の' The King of the Mountain' とはいうまでもなくシュリヴィジャヤのマハラジャ(当時はシャイレンドラのパナンカラン大王かその前任者のダルマセトゥ=Dharmasetsu大王)である。扶南の故地を奪回せよというシュリヴィジャヤの意志が働いていたというのがウェールズの説である。私もまさにその通りだと考える。そう考えないとアンコール王朝が300年間も中国へ朝貢しなかった理由がわからない。しかし、彼に同調する学者は皆無に近い。C.クロードもM.ヴィッカリーもそうは見ていない。前アンコール期(真臘)の諸王とアンコール王朝のジャヤヴァルマン2世以下とは明らかに違いがある。大乗仏教の普及と大灌漑池の建設である。アンコールの王は真臘の王と比べより「開明的」であったと言えよう。
ジャヤヴァルマン2世は770年以前にシュリヴィジャヤに制圧されていたコンポン・チャム辺りを出発点としてシュリヴィジャヤ海軍(陸戦隊)を率いて周辺地域の征服に向かったとみられる。この「陸戦隊」作戦については前例があり、683年にパレンバンを占領した時に使った戦法である。クドゥカン・ブキット碑文には1,312人の陸戦隊が戦ったと書かれている。この時の司令官はダプンタ・ヒヤン(Dapunta Hyang)であり、のちにパレンバン王国の国王(ジャヤナサ王)に任命される。彼は大乗仏教徒であったことは後の「タラン・トゥオ碑文」で明らかになる。
また、ジャワ島の主要港ペカロンガン付近のソジョメルト(Sojomerto)で1960年に発見された碑文にダプンタ・セレンドラ(Dapunnta Selendra)の名前がみえる。Selendraは現地語であり、サンスクリット語ではSailendraである。すなわちシャイレンドラ司令官が中部ジャワの「訶陵」を海軍を使って攻略した際の「戦勝記念」として建てられたものであろう。シュリヴィジャヤ軍はバンカ島に海軍を集結させ、686年一気に中部ジャワのペカロンガン(Pekalongan)港を急襲して勝利を収めたものと考えられる。プラロンガンには旧訶陵の本拠地があったと考えられる。
ヒヤンとセレンドラ(シャイレンドラ)も室利仏逝(シュリヴィジャヤ)の支配階級のエリート(王族など)の一員であったと推察される。ジャヤヴァルマン2世も同様の人物であったに相違ない。また、シュリヴィジャヤというのは旧扶南の支配者階級の連合政体であり、その統括者であるマハラジャ(大王)はその時々の実力者が推薦を受けて就任していたものと思われる。たとえばシャイレンドラ家といった単一の家系の出身者が世襲的にマハラジャに就任していた様子はうかがえない。リゴール碑文(775年)をみてもシャイレンドラ家がシュリヴィジャヤ・グループのマハラジャ(王の中の王)に任命されたのはル碑文の建てられた775年の少し前からであることがうかがわれる。セデスのようにシュリヴィジャヤの王家は元来シャイレンドラ家であると考えるのは行き過ぎである。
4-4 ジャワ(闍婆)はマレー半島も意味していた
ここでジャヤヴァルマン2世が帰国した時の「ジャワ」について考えてみたい。M.ヴィッカリーはジャワというのは「チャム」すなわち、「林邑」(チャンパ)ではないかという。しかし、M.ヴィッカリーはシャイレンドラ(Dapunta Selendra)について間違った認識をしている。彼はシャイレンドラは元々ジャワ島の王家であり扶南とは関係がないと考えている。これは彼が室利仏逝の成り立ちや歴史的発展を無視しているためである。バンカ島のコタ・カプール碑文では686年に「これからジャワ島に攻め入る」と明記されていることについて気が付かなかったのであろうか。
ソジョメルト碑文が発見されたペカロンガン(Pekalongan)は中部ジャワの中心都市であり主要港であり、「訶陵」国の表玄関(首都?)であった。シュリヴィジャヤ海軍はここを直接攻撃し、占領したものと考えられる。ソジョメルト碑文はその「戦勝記念碑」と考えて差し支えない。1178年に周去非が編纂した『嶺外代答』には「闍婆國,又名莆家龍,在海東南,勢下,故曰下岸。」と記され南宋時代には「闍婆」は「ジャワ島」と明確に定義づけられたようであり、別名「莆家龍(ペカロンガン)」と呼称されていたことが明記されている。しかし、少なくとも唐時代以前には「闍婆」の概念はもっと広くマレー半島も包含していた。5世紀初めに高僧求那跋摩が立ち寄った闍婆とはマレー半島の盤盤ではないかと思われる。そこではすでにかなり仏教が普及していた、ジャワ島には求那跋摩を受け入れるような仏教インフラは整っていなかったと思われる。
シャイレンドラ王国はシュリヴィジャヤ軍が中部ジャワを攻略した686年以降に成立したものであることは間違いない。ただし、それまで「訶陵」として唐王朝に知られていた「サンジャヤ系王家」と二重王権(平行王権)を形成したものと考えられる。下手に国名を替えると唐王朝から余計な詮索を受けることを嫌って、シュリヴィジャヤはあえて古い国名「訶陵」のまま朝貢に出かけたと解釈されよう。シュリヴィジャヤの目的は主要港湾を確保して貿易の独占を狙いとしたものであり、ジャワ島内陸部の農村地帯を支配し、農民から余剰生産物(年貢米など)を取り上げることを主目的には考えていなかったと思われる。内陸部の行政権を掌握しようとすれば膨大な官僚群を本国シュリヴィジャヤから連れて来なければならない。それは貿易国家シュリヴィジャヤの目的ではない。「貿易上の話し合いに応じない」ジャワ島(訶陵王国)をこれから攻撃するという趣旨のことがコタ・カプール碑文(バンカ島、686年)に明瞭に書かれているのをみても明らかなように「貿易」問題が最優先課題であった。。
セデスはこのシュリヴィジャヤ軍は中部ジャワではなく、西ジャワのタルマ(Taruma=多羅摩)攻撃に向かったと書いている。西ジャワにはシュリヴィジャヤ軍を派遣するような強国(貿易上の競争相手)は当時は存在していなかった。まったくの「お門違い」である。「室利仏逝」に対抗する国は「訶陵」しかなかったのである。セデスは次のように述べている。’The inscription of Bangka closes by mentioning the departure of an expedition against the unsubdued land of Java in 686. The land referred to may have been the ancient kingdom of Taruma, on the other side of the Sunda Strait, which we do not hear spoken of again after its embassy to China in 666-669.’(Coedes, English, p83)
666年に唐王朝に入貢したのはセデスは西ジャワのタルマ(多羅摩)だと主張するが実際は中部ジャワの「訶陵」である。タルマは唐に朝貢していない。これはセデスの明らかな嘘である。「訶陵」は次に入貢したのは100年後の768年である。それはシャイレンドラ・訶陵の朝貢であった。セデスの事実誤認というより事実の歪曲である。シュリヴィジャヤ軍が中部ジャワ攻撃に向かっては「不都合な理由」が何かあったのであろうか。確かにセデス個人にはその理由があった。なぜならば、扶南はジャワ島に逃げていき、そこで「室利仏逝」を建国したというのがセデスの筋書きであったからである。最初に間違ったためにセデスは次々とデタラメを上塗りせざるを得ない羽目に陥ったのである。歴史家というのは時にいい加減な「歴史認識」を作りうる職業である。
ジャワ島での政権分担は内政を従来の「訶陵(サンジャヤ系)」が行い、軍事・外交・貿易はシュリヴィジャヤ(シャイレンドラ王家)が担当することにしたとみられる。ただし、唐王朝への朝貢はあくまで「訶陵王国」の名義で行ったことは漢籍に書かれているとおりである。しかし、686年以降の「訶陵」(中部ジャワ)の真の支配者は征服者のシャイレンドラ(シュリヴィジャヤ)なのである。しかし、この点に気付いている歴史家は皆無に近い。さらに問題を複雑にしているのは「訶陵」からの朝貢といってもシャイレンドラの場合はシュリヴィジャヤ・グループ全体から朝貢品を集荷する必要から、実際の朝貢船はマレー半島のソンクラの北方のサティンプラから船出したのである。シュリヴィジャヤ・グループは内陸のパッタルンに貨物を集め、そこから外港のあるサティンプラまで輸送し、中国に向けの大型船で出帆したと考えられる。中国からの「回賜」(返礼品)もパッタルンまで運ばれ、そこで各国に分配されたと考えられる。上記の賈耽の『皇華四達記』(『新唐書』)の「訶陵」はまさに、このサティンプラ(またはパッタルン)を指していると考えるのが妥当であろう。
『嶺外代答』の三仏斉の条には「其屬有佛羅安國,國主自三佛齊選差」とあり、佛羅安國すなわちパッタルンは三仏斉の属国であり、その国王は三仏斉が選任していたと書かれており、パッタルンの地位の特殊性が記載されている。すなわち、三仏斉各国の朝貢用財貨はパッタルンに集められ、南宋王朝からの「回賜(返礼)」もパッタルンで諸国に分配されたものと考えられる。その事務処理一切を取り仕切ったのが三仏斉から派遣された高級官僚(国王)であった。パッタルンの交易センターとしての重要性を物語る証拠として2014年にパッタルンから南宋王朝が交易用の決済に使用したと思われる厚手の金箔を折りたたんだ「金葉」や「金の装飾品」などが多数発見された。
(写真)
このシャイレンドラ(後期訶陵)がシュリヴィジャヤ・グループ全体から「献上品」を集めて、唐王朝に朝貢したという事実に気が付いている歴史家は少ない。「訶陵」は前期と後期に分かれており、前期の「訶陵」は古くからある王国(サンジャヤ系?)であり、一時期「悉莫(シーモ)」という女王が統治していたことは『新唐書』に記載されているが、768年に朝貢した「訶陵」はいわば「後期訶陵」であり、シャイレンドラ王朝である。この区別を理解できないとシュリヴィジャヤ(シャイレンドラ)は唐時代にはほとんど朝貢をしなかったという見方に陥ってしまう(桜井由躬雄・東大名誉教授、岩波『東南アジア史講座』第1巻、p143)。これはシュリヴィジャヤとシャイレンドラの関係についての無理解を物語る。
ジャヤヴァルマン2世は確かに「ジャワ」からクメールに「帰国(進出)」してきたものと考えてよい。ただし、その「ジャワ」とは私の考えではマレー半島のシュリヴィジャヤの本拠地であるチャイヤーもしくはナコン・シ・タマラートから出撃したのである。ではなぜ彼はシュリヴィジャヤの本拠地にいたかということが問題である。セデスはジャヤヴァルマン2世はもともとは真臘の有力者であったが「政争」を逃れてジャワ島に渡り、また舞い戻ったという説である。私は彼はチャイヤーに亡命した扶南の元王族(または貴族階級)の子孫であり、20代の若さで真臘征服のために派遣されたシュリヴィジャヤ軍の司令官だったのではないかと考える。派遣された時期は760年代の後半で768年に「訶陵」が朝貢を再開した前後であろう。この辺りはまさに「ミッシング・リンク」の部分であり、どう考えるのが最も「合理的」かという問題である。
また、「闍婆=ジャヴァ」はジャワ島と「マレー半島」を意味していたということは東南アジア史をみるうえで重要なポイントである。ここを間違うととんでもない「東南アジア史」が出来上がってしまう。クメールの碑文で語られる「ジャヴァ」とはお隣のマレー半島の「シュリヴィジャヤ」のことだと理解すべきである。しかし、そのような認識を持っている歴史家は目下のところ少ない。
4-5 リゴール碑文
「室利仏逝」が742年を最後に唐王朝に対する朝貢をやめてしまった。これはシュリヴィジャヤの歴史の重大な謎である。私の推測では朝貢を止めた理由は真臘の一部の勢力に一時的に首都チャイヤーが占領されてしまったからとしか考えられない。6世紀の中ごろから真臘はもともと「扶南の陸路の通商ルート」を支配下に置いていた「扶南系勢力」であり、大陸部タイを支配下に置いていて、西方の現在タイ領になっているプラチンブリやタイ湾に近いチャンタブリあたりまでは完全に真臘の領土であった。そこを基地にして真臘(水真臘)はタイ湾から攻め入り、チャイヤーを占領したのかもしれない。もう一つの可能性としては710年ごろ成立したと『新唐書』の伝える「水真臘」が海軍をメコン川からタイ湾を渡り室利仏逝の首都チャイヤーを陥れたのかもしれない。どちらかはわからないが、事実上真臘政権の後継者とみられる水真臘がかかわっていた可能性は高い。彼らはある程度の海軍力を普段から保有していたとみられる。天宝9年(750年)の朝貢が水真臘だとすれば、水真臘の可能性は強まる。水真臘が740年代の後半に室利仏逝の首都を急襲してから、750年に悠々と海路を利用して、貢献物に「犀」を携え朝貢したことも考えられるからである。何かこの種の突発事件がなければ室利仏逝が朝貢を止める理由はない。当時740年代にはシュリヴィジャヤはマラッカ海峡のコントロールに多忙で、海軍の主力はマラッカ海峡にいてタイ湾のバンドン湾あたりの警備は手薄になっていた可能性は高い。もともと真臘は「陸軍」は強いが「海軍」は弱体であったという油断もシュリヴィジャヤ側にあったのではないであろうか。
このあたりの事実関係を直接示す碑文や証拠は見付かっていない。この間の事件はいわば「ミッシング・リンク」であるが上述のシナリオで間違いないであろう。そもそも室利仏逝がパレンンバンにあったのであれば朝貢を止める理由は全く見当たらない。パレンバン王国が突然消滅してしまうなどということはおよそありえない話である。
その室利仏逝の本拠地を745年ごろ水真臘は軍隊を送って攻略し、占領してしまい、真臘(クメール)の王族の一部や幹部は現地に駐在して支配していたことは間違いない。しかし、20年もたたないうちにジャワ島を支配していたシュリヴィジャヤ・グループの「シャイレンドラ王国」が海軍の大軍を率いて逆襲に出て、765年ごろにはチャイヤー地区を奪還したものと考えられる。その戦勝記念碑が775年の年号が刻まれた「リゴール碑文」である。
この戦勝の功でシャイレンドラ王国のパナンカラン王(または王子)はシュリヴィジャヤのマハラジャ(大王)に推挙される。その結果中部ジャワにおいてもシャイレンドラ家がサンジャヤ系にかわって中部ジャワの「訶陵国の王位」(いわば代表取締役)に就いたというのが全体的な筋書きであろう。
(写真)Ligor碑文
リゴール碑文(左側がA面)、この裏側(B面)にも数行の書き込みがある。これは9世紀中頃バラプトラ王子が書き込んだものと思われる。(バンコク国立博物館蔵)
パナンカラン大王の死後、息子のサマラトゥンガ(Samaratung)がマハラジャの位を引き継いだ。彼とシュリヴィジャヤ本部の元大王のダルマセトゥ(Dharmasetu)王の娘ターラ(Tara)が結婚する。ただ、サマルトゥンガはすでに結婚していて、ターラは第2夫人となる。2人の間に生まれたのがバラプトラデヴァ(Balaputradeva)王子である。ダルマセトゥ大王はシュヴィジャヤ・グループの重鎮(元マハラジャ)で「月族」だといわれる。月族というのは伝統的に扶南の王族であり、真臘の王族は「日族」だといわれている。
「リゴール碑文」は元々はチャイヤーのワット・ウイアン(Wat Wieng)にあったものを13世紀にリゴール(ナコン・シ・タマラート)の太守(のちに三仏斉から独立して王位に就く)であったチャンドラバヌ(Chandrabhanu)がリゴールに移したと伝えられる。これはシュリヴィジャヤ・グループの最高権威者であるマハラジャ(Maharaja=王の中の王)について書かれているからチャイヤーにあったのではまずいと考えたからであろう。
内容的にはシュリヴィジャヤ王に対する抽象的賛辞がほとんどだがチャイヤー奪還後に3つの寺院を建設し、死者の霊を慰めたと碑文に書かれている。真臘はシヴァ信仰へのこだわりが強く、そのため占領時にチャイヤーの主要仏教寺院を破壊したに相違ない。3つの寺院とはワット・ウィアン(Wat Wieng),ワット・ケオ(Wat kaeo), ワット・ロング(Wat Long)であり後の2寺は遺跡が残っている。それ以外にワット・プラ・ボロマハタート・チャイヤー(Wat Phra Boromahathat Chaiya)という大きな寺院が現存しているが、その由来は不明であり、現在のものは古い寺院の上に建てられたということは判明している。おそらく盤盤時代からのチャイヤーの中心的寺院であったに相違ない。青銅の観音菩薩像がここからも出ている。6世紀半ばの作といわれる、石仏座像が今も隣接するチャイヤーの国立博物館に展示されている。この仏像は風貌や頭部の髪型がアンコール・ボレイのものと類似している。これはおそらく扶南政権が亡命時に連れてきた仏師が製作したものであろうと推察される。チャイヤー地区の仏像、ヴィシュヌ像、菩薩像もアンコール・ボレイ地区の作品と強い類似性がみられる。
左の写真はワット・ケオ、右の写真はチャイヤー最大のワット・プラ・ボロマハタートである。ワット・ケオはレンガ積み構造物であり、チャンパ風である。
4-6 ロリュオス地区からアンコール地区へ
ジャヤヴァルマン2世とその後継者のジャヤヴァルマン3世(835~877年)やインドラヴァルマン1世(877~889年) もハリハラジャヤ(ロリュオス)を都とし、灌漑用水池を作り、乾季にも水田稲作が可能になるような「農業政策」を実施した。これはのちのアンコール地域灌漑設備と寺院建設のモデルとなった考え方である。ヤショヴァルマンはロリュオスから15Km離れたアンコール地区の新開地に転進したのである。ここからアンコール王朝の新たな歴史が始まったといえる。
上記のQ.ウェールズの説を参照すればジャヤヴァルマン2世は扶南の王統を継ぐ人物であり、インドラヴァルマンも同系統の王であるという理解もできるのである。その後の歴史を見るとスルヤヴァルマン1世までの最初の250年間のアンコール王朝は「扶南系王朝」という見方ができる。
M.ヴィッカリーはインドラヴァルマンの導師(Guru)のシヴァソーマ(Sivasoma)はジャイェンドラディパティヴァルマン(Jayendradhipativarman)の孫であるとしている。ブリッグス(Briggs)はジャイェンドラディパティヴァルマンはジャヤヴァルマン2世の母方の叔父であり、インドラプラの属領の王だったのではないかと見ている。インドラプラは言うまでもなく旧水真臘の中心部であった地域である。(Briggs, p64)。
プレア・コー神殿から少し離れた同じ地域にピラミッド型の大塔(Bakong=バコン)があり、ローレイ(Lolei)は国道の反対側にあり、灌漑池の中に作られた島であり、ここにヤショヴァルマンが祖先の霊廟を作った(893年完成)。ヤショヴァルマンがあえてローレイに彼の両親と祖先の霊廟を独自に作った理由は明らかではない。おそらくヤショヴァルマンには父親インドラヴァルマンの血筋を王として引き継ぐ後継者としての宣言とも受け取れる。兄弟間で後継争いがあったもといわれる。
バコンはジャヤヴァルマン3世が建設を開始したといわれ(881年完成)、15mの高さの塔1基があり、これは世界の中心メル(Meru)山を擬したものであり、その後のアンコール地区の多くの塔のモデルになったといわれる。ただし、そこに飾られているリンガはインドラヴァルマン1世のものである。ここにジャヤヴァルマン2世および3世の血統はインドラヴァルマン1世によって断たれたとみられる。
(Bakhong)
インドラヴァルマンの何よりの業績はインドラタカと称する灌漑施設を完成させ、雨期の余剰水を備蓄して、乾季の稲作に利用するというアンコール王朝の基本になる「灌漑・農業政策」を実践したところにあるといえよう。彼の築いた灌漑池は長さ3.8Km、幅800mという当時としては巨大なものであった。彼は王位につくや「5日以内に池の掘削を開始すると」と宣言したといわれ、積極的な農業振興策を表明したのである。これはジャヤヴァルマン2世の当初からの構想でり、すでに宮廷には多くの地元出身のスタッフが配備されていたことであろう。その事務局長がインドラヴァルマン1世の父親(Prithivindravarman)とインドラヴァルマンであったと考えられる。
4-6-1. ヤショヴァルマンのアンコール地区への遷都
インドラヴァルマンの息子のヤショヴァルマンはハリハラジャヤから15Kmほど離れた現在のアンコールに遷都し、その地をヤショダプラと命名し、プノン・バケン(Phnom Bakheng)に神殿と居城を作り、その地の農業開発事業(灌漑池の建設など)に着手した。このプノン・バケンがヤショダラプラの中心的な寺院であり、シヴァ神が祀られていた。
アンコール・ワットやアンコール・トム(大きな都)とその広大な灌漑池が完成するのは、はるか後のスルヤヴァルマン2世(1113-1150年?)やジャヤヴァルマン7世(1181~1218年?)の治世であるが、9世紀の終わりごろには灌漑稲作の本格的拡大という国家的な大目標が樹立された。ところがアンコールの地に最初に乗り込んだのはヤショヴァルマンではない。ウエスト・バーレイの南側にジャヤヴァルマン2世が建設を始めたとされる「アク・ヨム」(Prasat Ak Yom)寺院跡が存在する。これがカンボジア最古のピラミット型寺院であると考えられ、完成は9世紀の初めごろと推定されている。この地はジャヤヴァルマン2世が最初から注目していたのである。
(写真と地図)
上はプノン・バケンの頂上である。現在はまだ修復途中である。中央の円筒の石はリンガである。牛の石像はナディンと呼ばれるシヴァ神の乗り物である。この反対側には100塔といわれる無数の小塔が建っている。
ヤショヴァルマンはプノン・バケンの東側にヤショダラタータカ(Yasodharatataka)という長さ7.5km、幅1.38km、深さ4-5mの巨大な灌漑池東バライ(East Baray)でを建設した。池の中央部にはイースト・メボンといわれる島が作られ、そこに神殿がある。南側にシヴァ神、ヴィシュヌ神及び仏教寺院を建設した。領土内の他の場所にも神殿を建設し、その中でも今日残っているのはタイ領との境目にあるプレア・ヴィヒア寺院(Preah Vihear)がある。ヤショヴァルマン支配下の農民の数は新開地の拡大により大幅に増えた。彼の行政を支える官僚群もレベルが高かったことが窺われる。もちろん彼の軍隊も強力であり周辺を次々に支配下に収めて行った。
彼の死後、2人の息子のハルシャヴァルマン(Harsavarman, 910~922年)1世とイシャーナヴァルマン2世(Isanavarman, 922~928年)が後を継いだ。しかし、この2人の王には後継者がなく、イシャーナヴァルマン2世の死後インドラヴァルマンの娘の息子が王位を継ぎジャヤヴァルマン4世(928~942年)と称した。バクセイ・チャムクロン(Baksei Chamkron)碑文によれが彼の夫人はヤショヴァルマンの妹だということである。彼は2人の先王兄弟の死を待って強引に王位に就いた(Bgigga, p 116)。彼は「簒奪者」と見られておりヤショダラプラに居にくい事情があったのであろうかアンコールから100Kmも北東に離れたコー・ケー(Koh Ker=Chok Gargyar)に首都を建設し、そこで新たな灌漑用水の建設を行った。(Briggs, p90)。
コー・ケーにはシエム・リアップと直接つながる道はなく、むしろタイ国境のプレア・ヴィヒア(Preah Vihear)に道路は通じていた。しかし、1万人以上の人口が集まり、城市もヤショダラプラよりもはるかに広く、「コー・ケー様式」と呼ばれるヒンドゥー神像など、独自のものを生み出した。その遺跡の規模・内容をみるとわずか16年間だけの首都であったとは思えない規模の大きさである。かなり以前からこの地には都市計画や灌漑施設の計画が存在していた可能性がある。C.ジャックスによればジャヤヴァルマン4世は属国の領主としてのキャリアーがあり、921年よりコー・ケーの地の領主であったという。灌漑池として長さ1200m、幅560mのものを作った(Rahal Baray)が岩盤が固いため大型の灌漑池は造営できなかったといわれる
ジャヤヴァルマン4世はこの地に7段からなる高さ35mのピラミット型の寺院(Prasat Thom)を建設した。頂上にはリンガが祀られていた。これも世界の中心であるメル山を擬したものである。ピラミッドには砂岩がふんだんに使われた。これらの加工には大量の鉄器が使われたものと思われる。
鉄器の生産地はタイ東北部(イサーン)で行われ、実際の遺跡発掘作業は鹿児島大学新田栄治教授が行っている(ブリラム県のBan Dong Phlong遺跡)。古来からイサーン各地で製鉄が盛んに行われていたとされる。
彼の死後息子のハルシャヴァルマン2世(Harsavarman, 942~944年)が後を継いだが、短命に終わった。次のラジェンドラヴァルマンに退位を迫れれたか、殺害されたものとみられる。
4-6-2 ラジェンドラヴァルマン2世とジャヤヴァルマン5世
ハルシャヴァルマン2世の従弟であったといわれ、ヤショヴァルマンの姉(Mahendradevi)の子供とされるラジェンドラヴァルマン(Rajendravarman, 944~968年)2世は王位に着くやアンコールに遷都し953年に王宮を建設した。ラジェンドラヴァルマンは当初はバヴァプラ(Bhavapura)に住んでいたとされる。東バライのメボンの碑文では彼は「カウンディヤ—ソーマ」の血統で母親はサラスヴァティ(Sarasvati)の娘であるという。いずれにせよ「扶南」の血統の人物であったようである(Briggs, p62, 123)。また、ジャヤヴァルマン2世の血筋を引く人物であることはコンポン・チャムに近いPreh Theat 遺跡から発見された長文の碑文(K.0110)にも語られている。
バヴァプラとは真臘初代の王バヴァヴァルマンの首都であったが場所は特定されていない。コンポン・トムの30Kmほど北だという説があるが、チャンパサック(ワット・プー)の辺りではないかという説もある。いずれとも言い難い。ラジェンドラヴァルマンの母親マヘンドラデヴィ(Mahendradevi)はハルシャヴァルマン2世の母親の妹であった。彼はヤショヴァルマンを尊敬しており、ヤショダラプラ(アンコール)の地に戻って彼の事業を継承した。土地の収用をめぐっては地元の豪族たちとの戦いがあったといわれている。彼は武勇に優れ、全面的勝利に終わりヤショヴァルマンの元の領地を回復した。961年にプレ・ループ(Pre Rup)に彼はシヴァ神殿を築いた。東バライと呼ばれる東西7Km、南北2Kmに及ぶ広大な灌漑池(今は干上がっている)の中心部に「東メボン (East Mebon)」という島を作り、3層の基壇の上に5基の祠堂を建造た。これら一連の建造物の建設の指揮を執ったのはカヴィンドラリマターナ(Kavindrarimathana)という名の仏教徒の大臣であった。この地にはリンガではなくて金色に輝くパラメスラの像が建てられた。これはいうまでもなくジャヤヴァルマン2世に対する敬慕の象徴である(C.Jacques p94)。アンコールの地ではピメアナカス(Pimeanakas)という新たなピラミッド神殿を建て、そこに王宮を建てた。
ラジェンドラヴァルマンはチャンパを946年に攻略し、ポ・ナガール(Po Nagar)寺院にあった黄金の仏像を奪った。また彼は中央集権を確立し、プノン・クーレンの近くにバンテアイ・スレイ(Banteay Srei)寺院の建設に着手した。彼の死後息子のジャヤヴァルマン5世が即位したが年齢はわずかに10歳であったという。
M.ヴィッカリーによると、カンボジアの統一を果たし、行政機構の整備(改革)を実際に行ったのはラジェンドラヴァルマンであるという。彼はコー・ケーからアンコールに首都を戻した。前の王(ジャヤヴァルマン4世とその息子のハルシャヴァルマン2世)のシガラミから逃れるためと、何よりもアンコールのほうが土地も広く灌漑も容易であったためと考えられる。彼はほかの王同様、形式的にはシヴァ神を崇めたが、仏教についても寛大な政策を実施した。
ラジェンドラヴァルマンが968年に没すると息子のジャヤヴァルマン5世(968~1000年)が父の跡を継いだ。その時彼はまだ10歳という幼少の身であったが、親族や家臣のバック・アップ体制が整っていたといわれている。ジャヤヴァルマン5世は難敵(チャンパ)との戦いに遭遇したと碑文には記されているが忠臣に取り囲まれて無事に切り抜け、治世全体を通じて比較的平穏無事であり、平和で安定した恵まれた時代であった。彼の周辺には、ハルシャヴァルマン1世の孫のヤジニャーナヴァラハ(Yajnyanavaraha )という著名な仏教学者であり、医学や占星術に精通している人達がいて、若い王の教育指導にあたったといわれている。彼以外にも先王にも仕えたナラヤナ(Narayana)という高僧がいた。もっとも政治的に影響力があったのはサプタデヴァクラ(Saptadevakula)という北インド出身の博士(Bhatta)の称号を持つ人物であった。彼はジャヤヴァルマン5世の妹のインドララクシュミ(Indralakshmi)と結婚した。また、彼のグループはスルヤヴァルマン1世の王位就任にも尽力くしたといわれている。
プノン・クーレンの近くに赤色砂岩を用いたバンテアイ・スレイ(Banteay Srei)という小型だがよく整った美しい神殿(女性の神殿と呼ばれる。ヴィシュヌが本尊)がある。これはラジェンドラヴァルマンが建設したものである。
彼は968年にチャンパとの戦いで死亡した。諡はシヴァロカ(Shivaloka)である。ジャヤヴァルマン5世が王位に就いた年にバンテアイ・スレイの完成式を挙げた(968年)。これはそれまでのクメール建築の粋を集めたものだという評価を受けている。また、ジャヤヴァルマン5世は現在のタイ国境にあるプレア・ヴィヒア(Preah Vihear)神殿も着工した(完成させたのはスルヤヴァルマン1世)。ジャヤヴァルマン5世は祖先崇拝の傾向の強いシヴァ信者であったが、彼の時代に大乗(Tantaric)仏教が大いに普及したといわれる。仏教徒の大臣のキルティパンディタ(Kirtipandita)に命じて各地に仏教が普及する様に運動させ、仏教関係の文献・経典を大量に輸入させた。菩薩像などを大量に作らせ各地の寺院に納めさせた。もちろん当時大衆に信仰されていたヴィシュヌ神も各地の神殿に祀られた。
ジャヤヴァルマン5世はプノン・バケンを再び手に入れ、改修工事をおこなった。また、その近くのタケオに975年に新たに神殿の建設を開始した。そこはヘマスリンガギリ(Hemasringagiri=黄金の頂を持つ山)と呼ばれ「メル山(聖山)」を意味していた。それは彫刻も一部しか施されず未完成に終わったが現在もアンコールに残っている。彼はタイの東北部に兵を進めたが、カンボジア国内では彼の治世は概ね平和であった。しかし、彼の死後カンボジアは一時的に5-6年間近く3人の王がかわるという混乱期を迎える。
4-6-3 スルヤヴァルマン1世
ジャヤヴァルマン5世は世継ぎの男子がいなかったために、ウダヤディトヤヴァルマン(Udayadityavarman)が跡を継いだ。その後ジャヤヴィラヴァルマン(Jayaviravarman)1世、スルヤヴァルマン( Suryavarman)1世と相次いで登場するが、彼らの個々の王の在位期間については必ずしもはっきりしない。最終的覇者であるスルヤヴァルマン1世(1007?-1050年)を除いて、在位期間が短い。それは身内同士の権力争いか話し合いによる政権交代かは不明である。彼らはいずれも単馬令(タンブラリンガ=ナコン・シタマラート)出身者であるとされる。しかし、政権交代が「血を血で洗う戦闘」の結果かどうかは疑わしい。そういう記述の碑文は見付かっていない。注目すべきは彼ら3人がいずれもタンブラリンガ(単馬令)出身者らしいということである。その意味するところは「シュリヴィジャヤ系」人物であるということである。M.ヴィッカリーやC.ジャックスがタンブラリンガ出身説を強く否定するのは、もしそれを肯定すればアンコール王朝は旧扶南系王朝であることを認めることになるからであろう。歴史家にはそれぞれの都合があるらしい。
ウダヤディトヤヴァルマン(Udayadityavarman)1世はジャヤヴァルマン5世の妃の姉の子供であった。碑文(Prasat Khna)では母親はスレスタプラ(Sreshthapura)家の出身であるとされる。その治世はわずかに2年で終わっている。ジャヤヴァルマン5世の死に伴い王位継承権を主張していた人物がスルヤヴァルマン1世であった。彼は単馬令の支配者の息子であったとされ、彼の母親はインドラヴァルマン1世の母系の血筋であった。彼は海軍を率い東カンボジアに上陸し、首都に向かって進撃を開始したといわれている。ロバン・ロマス(Robang Romeas)碑文には彼はサカ暦923年(1001年~1002年の初め)に王位に就いたとあり、ワット・ティプデイ(Wat Thipdei)碑文とタケオ(Takeo)碑文には彼は1002年に王位に就いた書かれている。ウダヤディトヤヴァルマン1世が何時退位したかは記録にないがジャヤヴィラヴァルマン(Jayaviravaruman)が1003年に王位に就いていたことは碑文にみえるがいつまで王位にあったかは不明である。(Briggs, p144-145)。
ジャヤヴィラヴァルマンがジャヤヴァルマン5世の王位を引き継ぐ正当性は特に見当たらない。ジャヤヴィラヴァルマンはスルヤヴァルマンの別名ではなかったかとM.ヴィッカリーは推理する。それはスルヤヴァルマンが1002年に王位についたとする碑文が存在するためである。しかし、ジャヤヴィラヴァルマンが首都を占拠し、スルヤヴァルマンが軍を率いて単馬令からメコン川にやってきて東方を支配していたという説が存在する。両者の睨み合いは9年間続いたとされるが戦闘行為があったという証拠はない。コンポン・トム地区にあるダムボック・クポス(Dambok Khpos)碑文では1005年現在ジャヤヴィラヴァルマンの支配下にあったと記されている(Briggs,p146)。
最後の決め手となったのは宮廷内の重臣たちの動向であったようである。彼らは長年ジャヤヴァルマン5世に仕え、実質的な行政権や宗教権を握っていた。その時にラジェンドラヴァルマン2世の王妃の直系であり、ジャヤヴァルマン5世時代の最高実力者であったサプタデヴァクラ(Saptadevakula)の一族の主張が勝利した。またシュリヴィジャヤ・グループの総本部ともいうべき単馬令はスルヤヴァルマンを支持していたとみられる(Briggs,p146)。
(ハリプンチャイ歴史物語)
いっぽう別な話として、15世紀の初めにチェンマイで編集されたとされるチャムデヴィヴァンサ(The Chamdevivamsa=チャムデヴィ女王の物語)とジナカラミ(Jinakalami=1527年に書かれたとされるが現存するもっとも古い写本は1788年のクメール語のものである)はハリプンチャイ王国の歴史やランナー・タイやパガン朝(後者)のことも書かれているという。その中でアンコール王朝の国王が登場する。後世に何回か書き直された跡もみられ、資料としての評価はわからないが、重要なポイントもかなり書き残されているという。
この「ハリプンチャイの歴史物語」の中でハリプンチャイのアトラサタカ(Atrasataka)王はラヴォ(ロップリ)を支配していたウチタチャクラヴァティ(Ucchitachakravatti)を討とうとして進軍した。まさに戦を始めようとしていた時にスリ・ダルマネガラ(Sri-dharmanagara=単馬令=ナコン・シ・タマラート)の王のスジタ(Sujita=後のスルヤヴァルマン1世の父、あるいは本人?)が大軍と大船団を率いてやってきた。双方の王は戦を止めてハリプンチャイめがけて逃亡したがウチタ(Ucchita)のほうが一足早く到着し、そこの女王と結婚し、彼自身がハリプンチャイ王であることを宣言したという。一見、荒唐無稽な物語のようであるが、内容的にはかなりの重要な事実も含まれているように思える。スジタ・スルヤヴァルマン(Sujita=Suryavarman)が登場する点が興味深い。
ブリッグス(Briggs)はその物語を引用して「スルヤヴァルマンは単馬令の王の息子でスパタデヴァクラ(Saputadevakula)家の王女を母にして生まれた。スジタラジャ(Sujitaraja)はロップリを占領したがハリプンチャイにまで攻め上り、結果的に失敗した。彼はその後カンボジアを征服し、カンブラジャ(Kammbojaraja=カンボジア王)と呼ばれた」と書いている。ロップリ(Lop buri)の‘buri’からもわかるようにモン族の作った古くからの商工業都市国家であり、ある時期はドワラワティ王国の一部であった。シュリヴィジャヤはここをアンコール軍の基地とした。そのためロップリの国王は追い出され、北部のランプンに逃げて行き、のちにハリプンチャイ王国を建国したというのが筋書きであろう。8世紀にはロップリからチャーマデヴィ姫がランプン王国に嫁いでいたという伝説がある。この物語の真偽は別としてジャヤヴィラヴァルマン(Preah Botomvaravamsa)は前アンコール王(Rajendravarman)の甥にあたり、アンコールの王となった。いっぽうスルヤヴァルマン1世(King Virauraja)は彼の第2王(Obyuvaraja)に就任した。ウダヤディトヤヴァルマン(Udayadityavarman=Udayaraja)は彼の陸軍司令官(Obraja)に就任したという趣旨のことが書いてあるという。事実この3人は単馬令の関係者でかねてから顔見知りの間柄であったとみられる。このころはタンブラリンガのシュリヴィジャヤの軍勢がアンコール王朝の中央軍であったことを示唆しているともいえよう。それが最後はアンコールの王権を巡って争う運命に陥ったのであろうか?しかもジャヤヴィラヴァルマンとウダヤディトヤヴァルマンは兄弟同士であり、高い塀に囲まれたロッブリの宮殿にいた。ジャヤヴィラヴァルマンはウダヤディトヤヴァルマンの兄であった。プラサート・クナ(Prasart Khna碑文=、碑文K356/980)の中でスリ・ナラパティヴィヴァヴァルマン(Sri Narapativivavarman)と書かれているのは彼のことである。彼のタイトルからは彼はナラパティ(Narapati)またはロップリの支配者であり、ジャヤヴァルマン5世の陸軍司令官であった。タ・プラヤ(Ta Praya)碑文ではラジェンドラヴァルマン 2世の時代(944~968年)の962年からその地位についていたという)。ジャヤヴァルマン5世の義兄弟でもあり、引き続き陸軍司令官の地位にあった。
プラサート・トラパン・ルン(Prasart Trapan Run)のサンスクリット語碑文ではスルヤヴァルマン1世をマラ・キング(Mala king=Maulimalaraja)と表記しており、シュリヴィジャヤ王スジタ(Sujita)と同一人物であることを示している。これはスルヤヴァルマンが本家本元の単馬令(タンブラリンガ)の王に1002年に就任したということである。この碑文の裏面にはジャヴィラヴァルマンは1002年に王位に就き、1006年にはアニンディトプラ(Aninditpura)の土地の一部を彼の仏教上の師のカヴィンドラパンディヤ(Kavindrapandita)に寄進したとある。スルヤヴァルマン1世も1002年に王位に就いたという碑文があることからM.ヴィッカリーのように両者同一人物という見方も当然出てくる。ジャヤヴィラヴァルマンが1007年に退位(死亡?)したので、アンコール王朝の王位に就いたということかも知れない。
この時代のアンコール王朝はスルヤヴァルマン1世の時代までは確実にシュリヴィジャヤ系の支配下にあったものと考えてよい。その軍事的支配のためにシュリヴィジャヤは当時ロップリに巨大な軍事力を維持していたものと考えられる。このところを逆に考え「アンコール王朝が単馬令やマレー半島を支配していた」という記述の歴史書もあるがそれは話が逆である。アンコール王朝が三仏斉を上回る海軍強国でない限り、それはありえない話である。歴史家というのは往々にして事実関係を逆にとらえることがある。シュリヴィジャヤはパレンバンが本拠で後からマレー半島を攻略した(セデス)などというのもその一例である。タンブラリンガとロップリの支配者がアンコールの軍の司令官であり、国王にもなったというストーリーはシュリヴィジャヤとアンコール王朝の関係を考えるうえで需要なポイントとなる。なぜそういうことがありえたのかというと話をジャヤヴァルマン2世の時代までさかのぼらなければならない。これをM.ヴィッカリーのように頭から否定するとアンコールの歴史は謎の迷路から永遠に抜け出せないといえよう。
上記のようにジャヤヴィラヴァルマンの碑文が1002年と1006年の年号で残されているが、スルヤヴァルマン1世はすでに1002年の年号の碑文で王位についていることになっている。しかし、両者が一時期王として併存していた可能性は高い。すなわちジャヤヴィラヴァルマンがアンコールに君臨する「第1王」でスルヤヴァルマンが東半分を支配する「第2王」という形がある期間はありえたのではないだろうか。事実首都を確保していたのはジャヤヴィラヴァルマンで、東方からアンコールに向かって徐々に勢力を伸ばしていたのがスルヤヴァルマン1世であったと考えられる(Briggs,p146)。東方から来たということはメコン川に海軍をマレー半島から引き連れて進軍したということが考えられる。これはジャヤヴァルマン2世のときと同様の戦術である。
ウダヤディトヤヴァルマン1世のコー・ケーの碑文では1002年2月13日付けの彼の勅令が記録されている(C.Jacques、p123)。しかし、その年に彼は退位したことになっている。
ジャヤヴィラヴァルマン1世 がその跡を継いで、アンコールで王位に就きジャヤヴァルマン5世の居城に住んでいたとされる。彼は西方のバッタンバンとアンコール東方のコンポン・トム(Kompong Thom)を支配していた。彼の勅令が1006年5月25日の日付で碑文として残されているが、1010年までは何らかの形で在位していたとみられている(C.Jacques、p124)。
スルヤヴァルマン1世はジャヤヴィラヴァルマンから王位を奪った(もしくは禅譲を受けた)が、それは何年であったかは特定しがたい。1006年の後半にはアンコールを占拠したのは間違いないようである。ピメアナカス碑文(Phimeanakas)ではスルヤヴァルマン1世は1002年にスリ・ダルマラジャ(Sri Dharmaraja=単馬令の長官)の地位についていたとある。この記述は重要であり、彼がシュリヴィジャヤ・グループの出身者である何よりの証拠である。ジャヤヴァルマン2世以降は歴史的に単馬令(タンブラリンガ)がアンコールを監督下に置いていたと考えられるが、タンブラリンガ王は形式的にはアンコールの王を補佐する立場(Obyuraja=副王)にあったものと考えられる。政治的にはもちろんタンブラリンガの方がアンコール王朝より上位にあったと考えるべきである。
スルヤヴァルマン1世の治世は1007?~1050年と比較的長く続き、国内的には平和であったという。しかし、彼は居城を壁で囲ったといわれる。反乱を意識していた証拠であろう。また、ヤショダプラに4,000人の官僚や軍幹部を集め忠誠を誓わせたともいう。中央集権を強化して、地方豪族(小国家国王)の蓄財を吸い上げ、彼らが強大な権力・財力を持つのを妨げたという。
スルヤヴァルマン1世の時代にコラート高原にあるピーマイ・ヒンドゥー寺院は彼の時代に完成されたとされる。ジャヤヴァルマン6世が建造したという説があるが、最初は仏教寺院として建造されたのでシヴァ教徒であった彼が作ったものではありえない。アンコール王朝時代には現在のタイ領に多くのクメール寺院が建設されたことをみると、アンコール勢力タイ内陸部を広範囲に支配していたことは疑いない。当時はタイ内陸部は鉱工業が発展し、経済的には豊かであったことが考古学的にも立証されている。アンコール王朝は中国への朝貢の道が閉ざされた中で内需主導型の国づくりが行われたと考えられる。特に後のジャヤヴァルマン7世の時代はアンコールからピーマイに通じる所謂「王道」が建設された。この王道はチャンパのヴィジャヤまで通じていた。
(道路地図)
また、アンコール・トムにあるピメアナカス寺院はラジェンドラヴァルマン2世時代(944-968年)にヒンドゥー寺院として建設が開始されたが完成させたのはスルヤヴァルマン1世であった。ジャヤヴァルマン7世がそこを居城としたとされる。高さ40mでラテライトを使ったピラミッド型のものである。これもメル山を擬したものである。別名「象の司令官の王宮」(Royal Palace of Elephant Commander)と称される。現在は上部構造が失われ基礎部分が残る。周達観は国王の住居として「金塔一座」ありと記述している。
スルヤヴァルマン1世はアンコールで西バライ(West Baray)建設に着手して、後継のウダヤディトヤヴァルマン2世の時代に完成した。西バライはアンコール・トムの西側に位置し、長さは東西に8Km、幅は南北に2.1Kmに及ぶアンコール最大の貯水池である。中央部に神殿を備えた小型の島である西メボン(West Mebon)の建設もほぼ同時期に行われたと考えられる。ここには青銅の横たわるヴィシュヌ像が置かれ全長は4m以上あったと推定される。現在は頭部付の上半身がプノンペン国立博物館に展示されている。周達観は『真臘風土記』の中で「東池在城東十里周囲可百里中有石塔石屋塔之中有臥銅仏一身臍中常有水流出」と記録している。東池(東バライ)は城の東の10里のところにあり、周囲は100里ほど(約59km)で池の中央(東メボン)に石塔・石室があり、石塔の中に銅の仏像が横たわっていて、その臍から水が噴き出す仕掛けになっている」と記述している。銅仏というのは青銅製のヴィシュヌ神のことで13世紀末には完全な形で存在していたことが分かる。この周達観の記述はおそらく東と西とを取り違えたものと考えられる。
C.ジャックスは碑文によるとスルヤヴァルマン1世は単に古代のサンブプラ(Sambhupura=メコン流域のSambor付近)で戴冠式を上げたというだけで彼の氏素性については詳しい記述はないという。その後のスルヤヴァルマン1世のチョーラとの交信をみるとシュリヴィジャヤ・グループの王家の一族であったことは確かである。スルヤヴァルマン1世がチョーラ王ラージャラージャ(985-1016年)に送った1012年の手紙の内容は『カランダイ・タミル・サンガム銅板文書』という長大な刻文の中で「自分がそれに乗って数々の敵を打ち破った戦車を贈るのでチャオプラヤ流域におけるスルヤヴァルマンの戦闘を援護してほしい」ということであった。「チャオプラヤ流域の敵」とはモン族であったと推定される。ただし、実際にこの話が実現したという記録はない。
ジャヤヴァルマン2世からスルヤヴァルマン1世の約250年の間にカンボジアでは大乗仏教が全国的に普及した。これは明らかにシュリヴィジャヤの影響と考えるべきであろう。しかし、諸王は従来の真臘のエリート層のヒンドゥー教徒にも十分な配慮を示してきた。
4-7 チョーラの三仏斉侵攻
三仏斉のチュラマニヴァルマン(ケダーに本拠を置いていた)王は注輦(チョーラ)のラージャラージャ大王にナガパタム(Nagapatam)という場所に仏教寺院を建設・寄進し、息子のシュリ・マーラヴィジャヨーットゥンガヴァルマンはその寺院の維持のために「村を寄進」したという記録が1006年の大レイデン碑文に残されている。三仏斉とチョーラはこのころまでは極めて友好的関係を維持していた。そういう縁もあってスールやヴァルマンはチョーラ王に対し「援助」を要請したものではなかろうか。
三仏斉とチョーラの関係が悪化したのはチョーラが1015年に北宋に入貢してからである。チョーラの使節は本国を離れてから広州にたどり着くまでに何と1150日を要したと記録されている。普通は丸1年の航海で済むはずである。おそらく航海上のトラブル以外にマラッカ海峡通過時に三仏斉と何らかのトラブルがあったものと推測される。三仏斉はマラッカ海峡を通過する船舶に対し、「積荷の3分の1を三仏斉に売却」することを強制していたものと思われる。チョーラの使節はこれに抵抗したに相違ない。『宋史』注輦の条「離本國凡千一百五十日至廣州焉」、また『諸蕃志』三仏斉の条に「經商三分之一始入其國」とある。
また、『諸蕃志』(1225年刊)においては単馬令は三仏斉の属領であるとされているが「国王」は存在せず「相公」が治めていた。「相公」というのは本部から任命された高官(長官)のことであろう。『諸蕃志』単馬令の条、「単馬令國、地主呼為相公」とあり、三仏斉(シュリヴィジャヤ帝国)内においても「属領」とは異なる半ば独立した特殊な地位(本部直轄領)を占めていたことをうかがわせる。単馬令はアンコール王朝を監視するという特殊な地位が与えられていたものと推測される。
さらに単馬令は「本國以所得金銀器、糾集日囉亭等國類聚献入三仏斉」とあり、近隣の国々から「年貢」を集めて「三仏斉」に収めるというマレー半島東海岸での管理センターの役割を果たしていたものと思われる。この場合、タイ湾側の三仏斉はチャイヤーが支配者としての地位を保っていたものと思われるが、タイ湾側の行政上の実権は軍事力とともにかなり単馬令に移っていたとみられる。ただし、三仏斉の朝貢品の集荷と回賜(返礼品)の配分はパッタルンで行われていたようである。パッタルンも単馬令(ナコン・シ・タマラート)からは至近の距離にあり、何らかの影響力を及ぼしていたものと考えられる。
チョーラがケダーはじめマレー半島を1025年に占拠したのは貿易ルートの確保(マレー半島横断通商路)が主目的であり、それ以外のことにはチョーラは最初から関与せず、占領地の行政的支配などは意図していなかったといえよう。だからこそ1067年にはケダー王から叛徒鎮圧の援軍要請を受け、派兵し勝利を収めた後にケダーの王に主権を返却しているのである。また、チョーラはジャンビについては余計な口出しはしていなかったようである。なぜならばジャンビは「三仏斉詹卑」という看板を掲げて1079年と1082年と2度にわたり単独で朝貢している。これに対し、北宋はジャンビには回賜(返礼)を行わない。返礼は「三仏斉」に対して行うと宣言した。ということはジャンビは三仏斉の構成国の1つとして北宋から見られていた何よりの証拠である。そもそもジャンビが単独で入貢するのはルール違反だというのが北宋の立場であった。結果についての記載はないが結局ジャンビは三仏斉として回賜を頂戴し、一部を三仏斉本部に上納したものと推察される。
スルヤヴァルマン1世の治世の1007?~1050年の中で、最も不都合な事件は1025年のチョーラの三仏斉侵攻であった。これによってケダーは占領され、タンブラリンガも攻略された。そのことによって、シュリヴィジャヤがアンコールを支配していた「司令部」が崩壊してしまったことを意味する。最大の問題はいざというときに「軍事的支援」をシュリヴィジャヤから受けられなくなったことである。また、その後単馬令の司令部はロッブリに移ったものと推定される。ロップリは事実上「独立王国」になってしまったと考えられる。
1050年にスルヤヴァルマン1世が死ぬとNirvanapada(涅槃に入った王)という諡が付けられた。大乗仏教徒の証でもある。彼の後継者のウダヤディトヤヴァルマン2世(1050~1066年)はスルヤヴァルマン1世の軍司令官であり、前王との血縁関係はなく、王妃Viralakshmiの親戚であり、ヤショヴァルマン1世の妃の血筋とされる(C.Jacques,p136)。治世のほとんどを元将軍のカムヴァウ(Kamvau)の反乱などの内乱対策に追われたという。スルヤヴァルマン1世のやり残したウエスト・バライを完成させた。またアンコール・トムの敷地内にピラミッド型寺院バプオン(Bapuon)を建設した。これはシヴァ神殿であり世界の中心メル(Meru)山を擬したものとされるが一部は大乗仏教に割かれて、15世紀には仏教寺院に改修された。彼の代にスドック・コク・トム(SKT碑文、1053年)が作られたことでも知られる。この碑文にはジャヤヴァルマン2世からスルヤヴァルマン1世までの事績が書き込まれている。アンコールの遠隔地にあり無傷で残されたSKT碑文の価値は極めて大きいものがある。彼が賢明な王であった何よりの証拠である。
ウダヤディタヴァルマン2世の軍司令官として活躍したのがサングラマ(Sangrama)将軍であった。王は退位したのちも生存していた(Briggs, p176)。
次のハルシャヴァルマン(Harshavarman、1066~1080年)3世の治世は国内的には比較的平和であったが、チャンパとの戦争はあった。タ・プローム(Ta Prohm)碑文によると真臘の初代の王バヴァヴァルマンの末裔であると同時にカンボジャラジャラクシミ(Kambojiarajalaksimi)女王ともつながっており、スリ・ダルマジャ(Sri Dharmaja=単馬令)系でもあるということになっている。先王の兄だったという説もあるが出自についてははっきりしない。この辺までが旧扶南系の王統といえるであろう。しかしハルシャヴァルマン3世は後のジャヤヴァルマン6世の反乱により退位(殺害?)させられた。諡はサダシヴァパダ(Sadasivapada)である。ここで単馬令系の血筋はアンコールにおいては途絶えたとみてよい。
4-8. スルヤヴァルマン2世-シュリヴィジャヤとの絶縁
―ヒランヤヴァルマン(Hiranyavarman)家の台頭、ダングレク山脈の北側の勢力ーいわばピマイ王朝ともいうべきものである。
ジャヤヴァルマン6世(Jayavarman VI、1080~1107年) は1080年に大司教ディヴァカラパンティタ(Divakarapantita)により、おそらくヤショダプラにおいて即位の儀式を行ったとされる(C.Jacques, p147)。ディヴァカラパンディタ大司祭はウダヤディタヤヴァルマン2世とハルシャヴァルマン3世と前2代の王の即位式も行っている。ということは、彼の王位就任が神官・家臣団によって公認されたことになる。
ディヴァカラパンディッタはインド中部出身のヒンドゥー教徒(バラモン)であり、アンコール・ワットを設計したとも言われている。
しかし、ジャヤヴァルマン6世の碑文には前王との関係は記されていない。彼の父親はヒランヤヴァルマン(Hiranyanavarman)といい、東北地方のピーマイのあたり属国の君主であったものと考えられる。彼は自らカンブジャデサ(Kambujadesa)につながる王族だと称していて、マヒンドラプラ(Mahindorapura)という王国(または都市)に代々住んでいたというがどこかは正確にはわからない。ジャヤヴァルマン6世がピーマイ寺院を建設したという説があるが、スルヤヴァルマン1世の碑文が存在することからその話はありえない。その碑文は片面は仏教のものであり、もう片方はシヴァ神が語られているという(C.Jacques, p149)。リンテル(まぐさ石)にも仏教の碑文が刻まれている一方でヒンドゥー教のものがあるという。ジャヤヴァルマン6世がピーマイ寺院を現在の形に改修し完成させた可能性はあるが、ピーマイ寺院の歴史はかなり古く、8世紀に起源を求める説もある。ジャヤヴァルマン6世は実際にアンコールに居住していた確かな証拠はない(C.Jacques, p148)。ヒランヤナヴァルマンの娘はスルヤヴァルマン2世の祖母である。東北部でかなりの経済的実力を蓄積していたと考えられる。
ダラニンドラヴァルマン1世(Dhranindravarman I, 1107~1113年)はジャヤヴァルマン6世の兄であったが、その後を継いだ。王位に就く前は大神官であり、宮廷で大臣を務めていた。特に目立った業績を上げる前に彼らの姉の孫にあたるスルヤヴァルマン2世によって殺害されてしまった。彼の治世の初め、1008年12月にピーマイ寺院の南門(正門)にはトライロキャヴィジャヤ(Trailokyavijaya=降三世明王)の像が置かれた。これはヴィーマヤ(Vimaya)神であり、ピーマイの語源となったされる。
スルヤヴァルマン2世(Suryavarman II,1113~1150?) はスルヤヴァルマン1世とは血縁関係はなく、ジャヤヴァルマン6世の姉の孫である。父親はカシティンドラディタヤ(Ksitindraditya)、母親はナレンドラァラクシュミ(Narendralashmi)といいヒランヤナヴァルマンの孫娘である。M.ヴィッカリーはスルヤヴァルマン2世とジャヤヴァルマン7世はピーマイの出身であると述べている。彼はもっぱら軍事面で活躍をし、実力を蓄えていったものと思われる。彼もまたチョーラには外交的な気配りをみせ、1114年にクロトンガ チョーラ1世には宝石をプレゼントしたと伝えられる。彼は軍事行動をしきりにおこし東西に遠征軍を派遣したが、どれも最終的には失敗に終わった。特に東部戦線ではスルヤヴァルマン2世は1128年にはチャンパ軍の応援も得てダイ・ヴィエト(Dai Viet=大越)に2万人の軍勢を率いて攻め込んだが敗北し、1132年にはチャンパ軍と連合で再度挑戦したがこの時も敗北している。その後、1136年にチャンパのジャヤ・インドラヴァルマン(Jaya Indravarman)3世はダイ・ヴィエトと和睦してしまい、スルヤヴァルマン2世の遠征軍には参加しなかった。憤ったスルヤヴァルマン2世は1144-5年には今度はチャンパに侵攻し、首都ヴィジャヤ(Vijaya)を占領した。王妃の弟ハリデヴァ(Harideva)をチャンパ国王に据えたが、その後チャンパの逆襲を受け、ハリデヴァ王も殺害された。スルヤヴァルマン2世の没年もはっきりしないが1149~50年の間にチャンパとの戦いの中で戦死したのではないかとみられている。彼は単馬令やロッブリからの援軍に頼れなくなったため、傭兵を多用し、「タイ族の傭兵」を用いたことがアンコール・ワットのレリーフ壁画に描かれている。タイ族は雲南省がもともとの居住地だが、当時はタイ北部や東北部にも一部移住して傭兵としてクメール王朝のために働いていたことは後にタイ族の大規模南下の重要な契機となったことは確かである。
(アンコール・ワット(裏面))
スルヤヴァルマン2世が即位したのは1113年で大司祭のディヴァカラパンディタ(Divakarapandita)がワット・プーで即位式を執り行った。彼は4代の王の即位式を執り行ったことになる。彼の時代になるとシュリヴィジャヤ・三仏斉とのしがらみが無くなり、1116年に中国との朝貢を再開する。300年以上のブランクである。『宋史』には次のように書いてある。北宋の末期でもありスルヤヴァルマン2世にはさほどの地位は与えられなかった。彼は晩年にチャンパのヴィジャヤ占領を試みる。一時期は成功するが1149年にはチャンパの反撃にあいそこで戦死したと考えられる。なぜヴィジャヤを目指したかといえば、朝貢に便利な港だ寶ではないかと推測される。まだこの時期は三仏斉の海軍がメコン川の沿海部を監視していた可能性がある。以上は筆者の推測である。
「政和六年(1116年)十二月,遣進奏使奉化郞將鳩摩僧哥、副使安化郞將摩君明稽{田+思}等十四人來貢,賜以朝服。僧哥言:「萬里遠國,仰投聖化,尚拘卉服,未稱區區嚮慕之誠,願許服所賜。」詔從之,仍以其事付史館,書諸策。明年三月辭去。宣和二年(1120年),又遣郞將摩臘、摩禿防來,朝廷官封其王與占城等。建炎三年(1129年),以郊恩授其王金裒賓深檢校司徒,加食邑,遂定為常制。」
国王の名は書かれていないがスルヤヴァルマン2世の治世下の出来事である。1120年の入貢時にはチャンパ(占城)国王の位を北宋王朝から与えられている。しかし、占城(チャンパ)は1127年には自前で南宋に朝貢に出向き、さらに1129年、1132年、1155年、1167年、1168年と朝貢を続けており、時にはアンコール朝の攻撃(1145年)を受けながらも独立を守りぬいたといえよう。
スルヤヴァルマン2世の治世下で知られた最大の業績はアンコール・ワットの建設である。彼は今までの王のシヴァ信仰と違ってヴィシュヌ神の熱烈な信奉者であった。この寺院は長さ1,030メートル、幅820メートルのラテライトの塀によって囲われていた。中央の塔は高さ45mあり、メル山(Mount Meru=宇宙の中心)を象徴している。この建設にあたってはインドのマディヤデサ(Madhhyadesa=カルタナカーオリッサ州)出身のブラーマン学者のダモダール・パンディタ(Damodar Pandita)がスルヤヴァルマン2世の司祭長として指揮をとったといわれる。アンコール・ワットはヴィシュヌ神殿として作られたがスルヤヴァルマン2世の霊廟でもある(周達観は霊廟と記述している=魯般墓)。彼の諡はパラマヴィシュヌロカ(Paramavishnuloka)で死後はヴィシュヌ神の世界に入ったということになっている。なぜシヴァ教でも仏教でもなかったという明らかな理由は示されていないが、スルヤヴァルマン2世としては「旧真臘」でも「旧扶南」でもないという彼の思いがあったのかもしれない。
(地図挿入シエムレアップ)
スルヤヴァルマン2世はアンコールから40Kmほど離れたベン・メアレア(Beng Mealea) とコンポン・スヴァイ(Kompong Svay) に灌漑池を作った。プノン・クーレンの南にある灌漑池ベン・メアレアは「蓮の池」という意味である。ベン・メアレア寺院はアンコール時代の最大の寺院の一つである。11基の塔を備え、アンコール・ワットの前身ともいわれている。主神はヴィシュヌであるが仏像やクリシュナ像やシヴァ神像、ガネシャ像などもみられる。
スルヤヴァルマン2世がいつ死亡したかについては碑文には残されていない。1149年までは生存しており、1150年にチャンパとの戦闘中に戦死したのではないかと推測されている。1145~1182年の間は碑文がないので正確にはわからないのである。彼の後継は従弟のダラニンドラヴァルマン(Dhranindravarman2世=1150~1160年)である。彼自身の正式な即位についても、ヤショダラプラ(アンコール)に住んでいたという証拠もない。彼は後のジャヤヴァルマン7世の父親である。また、彼の治世のときにアンコール(真臘)は羅斛(ラヴォ=ロッブリ)と共に1155年に朝貢している。 ロッブリは三仏斉時代には三仏斉の前進基地であった。単馬令が羅斛に前進基地を置きアンコール朝を監督下に置いていたと考えられる。しかし、C. ジャックスは1155年にはその地位が逆転したとみている(C.Jacques p198)。親元の単馬令(タンブラリンガ)がチョーラの侵攻以降勢力が衰えてしまった結果そうなったのかもしれないが、すでにこのころには羅斛は王国としての独立性を確保していたと考えるべきであろう。12世紀末に三仏斉が解体したのちにはタンブラリンガのチャンドラバヌが1230年に独立宣言をしたが、ロップリもすでに1155年からアンコール王朝と共同で朝貢に出かけるだけの経済的実力を備えていたことは注目に値する。その後、スコタイ王朝が成立しアユタヤ王朝がその後継者となるにあたってはロップリ王国が中心的役割を果たしていた可能性が高い。軍事的にはすでにスルヤヴァルマン1世の時代から以前から強力であった。しかし、三仏斉とアユタヤ王朝の陰に隠れていたためにロップリの歴史については現在においても十分な解明がなされているとはいえない
スルヤヴァルマン2世の治世下で知られた最大の業績はアンコール・ワットの建設である。彼は今までの王のシヴァ信仰と違ってヴィシュヌ神の熱烈な信奉者であった。この寺院は長さ1,030メートル、幅820メートルのラテライトの塀によって囲われていた。中央の塔は高さ45mあり、メル山(Mount Meru=宇宙の中心)を象徴している。この建設にあたってはインドのマディヤデサ(Madhhyadesa=ガンジス川流域の中北部)出身のブラーマン学者のダモダール・パンディタ(Damodar Pandita)がスルヤヴァルマン2世の司祭長として指揮をとったといわれる。アンコール・ワットはヴィシュヌ神殿として作られたがスルヤヴァルマン2世の霊廟でもある(周達観は霊廟と記述している=魯般墓)。彼の諡はパラマヴィシュヌロカ(Paramavishnuloka)で死後はヴィシュヌ神の世界に入ったということになっている。なぜシヴァ教でも仏教でもなかったという明らかな理由は示されていないが、スルヤヴァルマン2世としては「旧真臘」でも「旧扶南」でもないという彼の思いが垣間見られるような気がする。
(地図挿入)
スルヤヴァルマン2世はアンコールから40Kmほど離れたベン・メアレア(Beng Mealea) とコンポン・スヴァイ(Kompong Svay) に灌漑池を作った。プノン・クーレンの南にある灌漑池ベン・メアレアは「蓮の池」という意味である。ベン・メアレア寺院はアンコール時代の最大の寺院の一つである。11基の塔を備え、アンコール・ワットの前身ともいわれている。主神はヴィシュヌであるが仏像やクリシュナ像やシヴァ神像、ガネシャ像などもみられる。
スルヤヴァルマン2世がいつ死亡したかについては何の碑文も残されていない。1149年までは生存しており、1150年にチャンパとの戦闘中に戦死したのではないかと推測されている。1145~1182年の間は碑文がないので正確にはわからないのである。彼の後継は従弟のダラニンドラヴァルマン(Dhranindravarman2世=1150~1160年)である。彼自身の正式な即位についても、ヤショダラプラ(アンコール)に住んでいたという証拠もない。彼は後のジャヤヴァルマン7世の父親である。また、彼の治世のときにアンコール(真臘)は羅斛(ラヴォ=ロッブリ)と共に1155年に朝貢している。 ロッブリは三仏斉時代には三仏斉の前進基地であった。単馬令が羅斛に前進基地を置きアンコール朝を監督下に置いていたと考えられる。しかし、C. ジャックスは1155年にはその地位が逆転したとみている(C.Jacques p198)。親元の単馬令(タンブラリンガ)がチョーラの侵攻以降勢力が衰えてしまった結果そうなったのかもしれないが、すでにこのころには羅斛は王国としての独立性を確保していたと考えるべきであろう。12世紀末に三仏斉が解体したのちにはタンブラリンガのチャンドラバヌが1230年に独立宣言をしたが、ロップリもすでに1155年からアンコール王朝と共同で朝貢に出かけるだけの経済的実力を備えていたことは注目に値する。その後、スコタイ王朝が成立しアユタヤ王朝がその後継者となるにあたってはロップリ王国が中心的役割を果たしていた可能性が高い。軍事的にはすでにスルヤヴァルマン1世の時代から強力であった。しかし、三仏斉とアユタヤ王朝の陰に隠れていたためにロップリの歴史については現在においても十分な解明がなされているとは言えない。
C.ジャックスはダラニンドラヴァルマン2世の在位については碑文がなく不明とされている。しかし、後任のヤショヴァルマン2世が1160年に王位に就いていることから逆算して1150-1160年まで王位にあったと推定できよう。タ・プローム(Ta Prohm)碑文ではダラニンドラヴァルマン2世は熱心な仏教徒であったとされ、諡はParamanishkalapadaである。(Briggs, p205)タ・プローム寺院(1186年建設)は王の寺院(Rajavihara)と呼ばれていた。主神はブッダの母親であるPrajnaparamita(Perfection of Wisedom=智慧の完成)であり、ジャヤヴァルマン7世の母親に似せた像が設置されていた。
なおこのころからタイ中部にアンコール王朝から独立の動きが出てきた。ナコン・サワンにシュリ・ダルマショカ(Sri Dharmashoka)王が登場した。1167年にパーリ語とクメール語で書かれた碑文がDong Mae Nang Muang, Nakhon Sawan(1167年号)で発見された。また、現在のスパン・ブリ(真里富と呼ばれた地域?不確か)に「自治政府」が存在したという(Piriya, p138)。ヤショヴァルマン2世はこれらの独立の動き(反乱)を封じるべく出陣したものと推測される。
4-9. ジャヤヴァルマン7世
ヤショルマン2世(Yasovarman II、1160~1165年)については何時王位に就いたかはジャヤヴァルマン7世の碑文に記録されている。北西地方の叛徒を制圧したという記録が残されているが、その反乱とは上に述べた動きかもしれない。ヤショヴァルマン2世の出自も明らかではないが、ダラニンドラヴァルマン2世の係累・身内であったと考えられている。自分の住居を現在のプリア・カーン寺院に定めた。
ヤショヴァルマン2世はラヴォダヤ(ロッブリ)への遠征を行って帰国すると、重臣の反乱により殺されたというのがC.ジャックスの解釈であるが、M.ヴィッカリーは疑問だとしている。そもそもアンコール王がロップリに直接遠征に行く理由がはっきりしない。1155年には共同で朝貢に出かけた間柄である。また、ダニンドラヴァルマン2世の息子に後のジャヤヴァルマン7世がいるのに、なぜ王位につけたのかもわからない。これは同じ親族内で話し合い、年長者のヤショヴァルマン2世を先に王位につけたということかもしれない。
トリブヴァナディトヤヴァルマン(Tribhuvanadityavarman) はヤショヴァルマン2世の「重臣」であったが、皇太子と称し、1165年ころにヤショヴァルマン2世を倒して即位した。しかし、彼はチャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン(Jaya Indravarman)4世にアンコールにまで攻めのぼられて1177年に没したということになっている。しかし、この話にはM.ヴィッカリーから重大な疑問を呈されている。たしかに当時のチャンパ国王が白昼堂々とアンコールに攻め入って国王を殺害するような実力を持っていたとは信じがたい話である。
ジャヤヴァルマン7世(1181~1218年)は1165年にヤショヴァルマン2世が臣下の謀反にあって危険な状態にあることをチャンパで聞き、王を助けるために急きょ帰国したが、時すでに遅かったという。彼は1160~1167年まで夫人と離れチャンパ(Vijaya)にいた。ジャヤヴァルマン7世は第1夫人のジャヤラジャデヴィ(Jayarajadevi)のすすめにより、その後12年間王位奪取の機会を待っていた(C.Jacques,p203)。
チャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン4世はVijayaの本拠地からクメール侵攻を思い立ち、1177年にまず水軍を使いメコン川に軍をすすめ、中国人の水先案内に導かれ、メコン川を遡上しトンレサップ湖に入り、アンコール軍を急襲した。トリブヴァナディトヤヴァルマン(Tribhuvanadityavarman) は和平を申し入れたが聞き入れられず殺害されたというのが漢籍などに残されたストーリーになっている。
その後、ジャヤヴァルマン7世は多分チャムの地方君主の軍勢を率いてチャム王と戦い、プリア・カーン(Preah Khan=正義の剣)の地で最後の決戦が行われチャム王ジャヤ・インドラヴァルマン4世を倒したとされるが、M.ヴィッカリーはチャム王は本国で死んだという碑文の存在を主張する。ジャヤヴァルマン7世が即位したのは4年後の1181年であった。プリア・カーンには寺院が1191年に建設され、遺跡は現存している。そこにはジャヤヴァルマン7世の父親のダラニンドラヴァルマン2世の像が観音菩薩(Lokesvara)の像として祀られていた。
『宋史』の占城の条の最後に「(淳熙)四年(1177年)、占城以舟師襲真臘、傳其國都。慶元以降、真臘大挙伐占城以復讐、殺戮殆大盡、俘其主以帰國遂亡、其地悉帰真臘」とあり、トリブヴァナヂトヤヴァルマンは舟でやってきたチャンパ軍に1177年襲われ殺害されたことが書かれている。それからジャヤヴァルマン7世の治世時に今度は真臘がチャンパ(占城)に侵攻し、首都を陥れ、殺戮の後に国王を捕虜にして凱旋したということが宋史に記載されている。このときチャンパは滅びたという。ジャヤヴァルマン7世の即位は1181年であり、その18年後に後にチャンパ攻略を果たした。
『諸蕃志』真臘の条には次のように書かれている。「本國舊與占城鄰好,歲貢金兩,因淳熙四年五月望日,占城主以舟師襲其國都,請和不許,殺之,遂為大讐,誓必復怨。慶元己未,大舉入占城,俘其主,戮其臣僕,勦殺幾無噍類。更立眞臘人為主,占城今亦為眞臘屬國矣。」これを要約すると、「もともと真臘(アンコール王朝)は占城とは友好関係にあり、占城は金をアンコール朝に貢納していた。しかし、淳康4年5月(1177年)に占城王は船団を率いてアンコールを襲い、和議要請を退けて王を殺害した。その後、慶元巳未・5年(1199年)にアンコール軍は大挙占城に侵略し、国王を捕虜にし、大臣や将兵を片端から殺した。アンコールの王族を占城の国王に据え、占城を属国にした」というものである。具体的にはジャヤヴァルマン7世は自分の義弟(Vidayanadana王子)をヴィジャヤの王にしたが、のちにスルヤヴァルマン王としてパン・ランのラジャプトラ(Rajaputra)を支配した。
チャンパとアンコールの戦いはこのような形で主に漢籍によって「明快」な説明が与えられているが、M.ヴィッカリーはこの話は全体的に怪しいとみている。というのはこの戦争の「1177年の大勝利」についてチャンパ側には碑文が存在しないという。アンコール側にも碑文が存在していないというのである。チャンパ王がアンコールに出撃したときにジャヤヴァルマン7世はヴィジャヤの碑文ではチャンパにいたというのである(Vickery,ARI p70)。
結果からみればジャヤヴァルマン7世はチャンパ王と組んでアンコールを攻めトリブヴァナディトヤヴァルマン王(簒奪者)を倒したとみることもできよう。多分この簒奪王トリブヴァナディトヤヴァルマンは宮廷革命のような形で暗殺されたのかもしれない。ましてやジャヤヴァルマン7世が1177年にアンコール防衛とトリブヴァナディトヤヴァルマン王支援のために駆けつけたということは考えられない。さらにM.ヴィッカリーはチャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン4世はアンコールとの戦で勝つたびに神殿に供え物をしていたという。それが1163~65、67、68及び1170年であったという。ところが1177年には何の記録もない。故に1177年の大戦争もなければ大勝利もなかったとM.ヴィッカリーは推理する。多分このM.ヴィッカリーの見方は正しいであろう。
次の碑文(C92BとC92C)はミソンにあり、1182、1190、92、93、94年~という年号が見えるという。これはジャヤヴァルマン7世が1181年にアンコール王となり、その後1190年にチャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン4世がジャヤヴァルマン7世に反旗を翻し、それを鎮圧した話である。チャム王のスルヤヴァラルマデヴァ(Suryavarmadeva)すなわちヴィディヤナンダナ(Sri Vidyanandana)王子が1182年にアンコールのジャヤヴァルマン7世の宮廷に仕えていた。王子はバッタンバン方面の叛徒平定作戦に司令官として出陣し、その役割を無事果たした。1190年にはチャンパの反乱(ジャヤ・インドラヴァルマン4世)の鎮圧に派遣された。ジャヤ・インドラヴァルマン4世は捕虜となりアンコールに連れてこられ、恭順の意を表してジャヤヴァルマン7世の部下となる。ヴィダヤナンダナ王子はその後ヴィジャヤの王にいったんは任命されたが、ラジャプトラ(Rajaputra)(=Phan Rang)に配置換えされそこで王となる。しかし、彼はヴィジャヤの王(Sri Jaya Indoravarman)になっていたラグパティ(Raghupati)王子によって追放された。1192年にジャヤヴァルマン7世はチャンパに軍隊を送りヴィジャヤの王となっていたラグパティ王子を捕え殺害し、ヴィディヤナンダナ王子は再びヴィジャヤ王となった。しかし、その年に前のチャンパ王でアンコールに帰順していたジャヤ・インドラヴァルマン4世は北のアマラヴァティ(ミソン地区)に脱走した。そこで軍隊をかき集めヴィジャヤに攻め上ったが敗北に終わった。以上がM.ヴィッカリーの描くシナリオである。彼の説は有力である。特に1177年にチャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン4世が大軍を率いてアンコール攻めを行ったという話しは確かに信じがたい。彼が単独でそのような野心的試みをする根拠が見当たらない。むしろジャヤヴァルマン7世と組んで簒奪者トリブヴァナディトヤヴァルマン王を打倒したとみるほうが理にかなっている。それはジャヤヴァルマン7世主導のクーデターであったという見方も可能ではあるまいか。
その後、通説ではジャヤヴァルマン7世は、チャンパ勢力をアンコールから追い出し(お引き取り願い?)実際に即位したのは4年後の1181年であった。彼はスルヤヴァルマン2世の従弟であった。ジャヤヴァルマン7世の母親はジャヤラジャチュダマニ(Jyarayacmani) といってハルシャヴァルマン王(どこかの小王国の王)の娘であった。彼はコンポン・スヴァイ(Kompong Svay)のプレア・カン(Preah Khan)に住んでいたといわれるがチャンパ(ヴィジャヤ)にも1160~1167年には滞在していた。チャンパ軍アンコールを攻略したとされる1177年にはジャヤヴァルマン7世はなぜかチャンパにとどまっており、アンコールの宮廷とは距離を置いていたとされる。トリブヴァナディトヤヴァルマン王は彼にとっては宿敵だったのである。彼は王位に就くや何よりも「仏教徒王」として振舞った。大乗仏教はカンボジアよりもチャンパの支配者たちがより厚く信仰していた宗教でもあった。
ジャヤヴァルマン7世は各地の敵対者を平定すると同時に各地に通じる道路建設(直線道路で石で舗装))を行い、商人・旅人の宿泊施設(121か所)を作り、また住民のために102箇所に施療院(Arogyasala=Hospital Chapel)を作ったとされる。しかし、施療院そのものははヤショヴァルマン1世の時代からぼつぼつ作り続けられたものだという(C. Jacques p270)。タイの各地にそれらの多くの遺跡が残されている。
また、ピーマイが政治の中心地として浮上してきた。ピーマイとアンコールを結ぶ幹線道路は後世代表的な「王の道」と呼ばれるようになった。事実この街道に沿って多くの建造物遺跡が残されている。そればかりではなく「王道」はチャンパにも伸びており、Vijaya(Binh Dinh)にまで到達していた。その結果アンコール王朝の版図は、ハリプンチャイ、メナム川流域、マレー半島の付け根の部分の登流眉國(メクロン川流域でラチャブリ周辺、単馬令とは別)雲南の西双版納(シプソン・パンナー=タイ族の居住地)まで含めると彼の時代に最大のものとなった。タイ族や下ビルマからのモン族が傭兵として「チャンパ遠征」に加わった。
(王道地図)
ジャヤヴァルマン7世の司祭(hotar)はビルマ出身のブラーマン、ヒリシケサ(Hrishikesa)という人物であった。彼は後にジャヤ・マハプラダーナ(Jaya Mahapradhana)と名前を変え大司教としてジャヤヴァルマン8世の戴冠式を行う。彼はジャヤヴァルマン8世のもとで激しく廃仏運動を行った。
ジャヤヴァルマン7世以降をマヒハラプラ(Mahiharapura)王朝という。彼は「国教」として新しいタイプの大乗仏教を取り入れた。後のスリンドラヴァルマン(Srindravarman)王は自らテラヴァダ仏教を信仰し、1308年頃からクメール王朝では上座部仏教に切り替わっていった。このグループの諸王はダングレク山脈の北側(現在のタイ東北部)の出身で、ピーマイ辺りを都としていて、従来のアンコールの諸王との直接的な血統的なつながりはない。しかし、王宮の家臣たちはそれ以前の王から引き継がれたものが多い。
ジャヤヴァルマン7世は統一国王として可能な限りの「善政」を試み住民の支持を得ようと努力したあとがみえる。それでも彼の国内統治は平穏なものではなく、しばしばマルヤン(Malyan=現在のバッタンバンの南)王国で反乱が起こった。彼は上述の通りチャンパ(Tumprauk-Vijaya出身)の王子ヴィディヤナンダナ(Sri Vidyanandana)を司令官として派遣し、それらの反乱の鎮圧にあたらせた。王子は若いころからジャヤヴァルマン7世に仕えていた。クメール族の将軍よりも彼のほうが信用されていたのである。
ジャヤヴァルマン7世は強権的独裁者ではなったが宮廷内に味方は少なかったといわれる。味方に付いた多くの地方君主に特権を与え、自治権をも与えた。それによって増長する者もあらわれたに相違ない。また、多くの権力者でヒンドゥー教信者であった者は大乗仏教の導入に内心反発していたものも少なくなかったはずである。
ジャヤヴァルマン7世は熱烈な大乗仏教信者であり、自ら「生き仏」と信じ、プリア・カーン寺院の碑文には彼のことがブッダとして描かれているという。ジャヤヴァルマン7世はアンコール・トム(Angkor Thom)を完成させ、そこを居城とした。そのほかに王室の霊廟ともいうべきタ・プローム寺院を建設(1186年)した。現在はガジュマルの木の根によって建造物が覆われかかっている有名な寺院である。
ここはブッダの母親が観自在菩薩(Prajnaparamita)の形で祀られているが、ジャヤヴァルマンの母親に似せた観自在菩薩像であるという。また、バンテアイ・クデイ(Banteay Kdei )寺院も建設した。また、プレア・カーン寺院も1191年に完成させた。ここは仏教・シヴァ教、ヴィシュヌ教の混合的な寺院である。
ここは簒奪者のトリブヴァナディトヤヴァルマン王の居城の跡地であった。ジャヤヴァルマン7世が滅ぼしたとも考えられる前王の鎮魂のための神を祀ってある。またヴィシュヌ神の形をしたチャンペスヴァラ(Champesvara)という神も祀ってある。これはチャンパから取った名前である。何もかも融合させて今後の繁栄を図ろうというジャヤヴァルマン7世の仏教哲学の反映とみてよいであろう。これらジャヤヴァルマン7世が建造した寺院は王の「観世音菩薩信仰」が多かれ少なかれ反映されたものであり、「バイヨン様式」とも呼ばれている。
ジャヤヴァルマン7世の最高の建造物はバイヨン(Bayon)である。これはチャンパを打ち破った戦勝記念に建設されたされたものと考えられる。最初は大乗仏教寺院として作られたが、その後盲信的シヴァ教徒のジャヤヴァルマン8世はバイヨンなどを意図的にヒンドゥー寺院に改造した。また、ピメアナカスの碑文も破壊されたがこれも彼の仕業だと信じられている。SKT碑文がアンコールから遠い場所に作られたのは実に先見の明があったといえよう。いつの世にも自己中心的な思想を持った支配者が存在するのである。彼らは自分に都合の悪い歴史的事実を抹消し歪曲した。ジャヤヴァルマン8世は「民は王の支配に従順に従っていればよい」」という旧式の支配者であった。当然のことながら民衆の心は彼らから離れて行った。
また、ジャヤヴァルマン7世はカンボジア北西部のタイ国境近くにバンテアイ・チャマー(Banteay Chhmar)という巨大な寺院を建設した。「猫の要塞=Citadel of the Cat」とも呼ばれている。規模の大きさはアンコール・トムやプレア・カーンにも引けを取らない。息子の皇太子(Srindrakumara Rajaputra)ために建設されたと伝えられるが、実際は父方の亡き祖母ラジャパティンドララクシミ(Rajapatindralakshmi)を偲んで作られたものだという。タ・プロームやプレア・カーンと似たような作りである。「千手観音像」の浮彫りがあることで知られる。隣接して大規模な灌漑池(Balay=1.6KmX0.8km)が作られている。池の中央にはメボン(島)があり、仏教寺院がある。周囲は1.9KmX1.7Kmの環濠が取り囲んでいる。この地は「砂の国」といわれるほどの不毛の地であったが祖母の所有地であった。ジャヤヴァルマン7世は余りに膨大な建設工事を相次いで行い、国家財政を疲弊させ、彼以降アンコール王朝は衰退の道を歩み始めたと考える歴史家も存在する。しかし、大工事は主に農閑期に行われ、借金財政でもなかったので彼への非難は当たらない。また、施療院や「王道」はインフラ事業であり、民主の役に立っていた。
ジャヤヴァルマン7世は23のJayabuddha Mahanatha像を作り主要都市に配った。これは自分に似せた観音像であるといわれている。主要都市とはLavodayapura=Lopburi,Svarnapura=Supan Buri, Sambukpattana(タイ中部なるも特定できず), Jayarapapuri=Ratchaburi,Jayasimjapura=Muang Singh, Kanchanaburi, Jayavajrapuri=Phetchaburiが記録に残される。これらの都市がアンコール王朝からは重要視されていたことになるが、ほとんどがモン族にゆかりのある大都市である。現在17体の像が確認できるという。
ジャヤヴァルマン7世の諡はマハパラマサウガタ(Mahaparamasaugata)である。彼の碑文はカンボジア国内はもとより、ラオスから交趾に至るまで広範囲に存在するという(Briggs,p236)。
ジャヤヴァルマン7世の後継者は息子インドラヴァルマン(Indravarman) 2世(1218?-1243年)であり、父親のやり残した建設事業の完成に努めた(C.Jacques, P278)。彼は死後にジャヤ・マハプラダーナ大司教がピーマイのシヴァ神殿で慰霊祭を行ったことから王自身がシヴァ信者との疑いをもたれている。この大司教とジャヤ・マンガラルテャ(Jaya Mangalartha=ジャヤヴァルマン8世の娘Subhadraと結婚)という司祭がシヴァ教の指導者となって後の「廃仏行動」の扇動者になったと考えられる。インドラヴァルマン3世の時代、1216年と1218年にチャンパが安南軍から攻撃を受けたため1220年にチャンパから撤退した。またこのころ北部からのタイ族の侵入が続いた。
4-10 破滅に向かうアンコール王朝
そのあとのジャヤヴァルマン8世(1243-1295年)は夫婦ともに熱烈なシヴァ教徒で廃仏運動をしきりに行った。かれはバイヨンの中心にジャヤヴァルマン7世が建てた3.6メートルの仏像をバラバラに破壊し、池に投げ込み、代わりにハリハラ神の像を据えた。その後フランス植民地政府は1935年に仏像の部品を回収し元の姿には復元した。(C.Jacques, p281)。
また、バイヨンの石材を勝手に動かし、新たな塔を建設したという。ジャヤヴァルマン8世は52年間の治世中にジャヤヴァルマン7世の事績や碑文を可能な限り破壊しようと試みた。それ以外にもアンコール・トムも各所で「改造」を行った形跡がある。シヴァ神像を勝手に付け加えた。「ライ王のテラス」と呼ばれる場所のレリーフにも改ざんが加えられた。またバイヨンの碑文からもジャヤヴァルマン7世の名前を削り取ったり、碑文そのものを破壊したり、壁に彫らえた仏像をシヴァ・リンガに削りなおしたりした。ジャヤヴァルマン8世の異常な行動は、彼の出身の一族がかつて、ジャヤヴァルマン7世に放逐されたという「復讐の念」によるものではないかというのがC. ジャックスの説である(C. Jacques p283)。
アンコール・ワットから東北に6Kmほどのところにあるバンテアイ・クデイ(Banteay Kdei )寺院から大小274体もの仏像が埋められているのを上智大学の遺跡修復チームが2001年以降発見した。これもジャヤヴァルマン8世の仕業であるとみられる。
1283年にはフビライ・カーンの軍勢がチャンパからカンボジアを攻撃しようとした。その試みは失敗に終わったが、ジャヤヴァルマン8世1285年と1292年に元王朝に入貢した。そのことによって元軍の侵攻を免れた。しかし、チャオプラヤ流域に勃興してきたタイ族のスコタイ王朝と戦う気力はジャヤヴァルマン8世には無かった。無能なうえに老齢が重なり、宮殿からほとんど外出もしなかったという。彼の妄執ともいえるシヴァ信仰の行き過ぎと仏教の排除は民衆の離反を招いたことはいうまでもない。こういうタイプの王が出てくると民衆と国王との溝が生じ、統制が取れなくなってきてやがて国運が急速に傾き始める。カンボジアはまさにそのようなコースをその後歩んでいった。タイにスコタイ王朝、次いでアユタヤ王朝、ランナー王朝が成立するとクメール王朝は次第に圧迫されていった。タイの王朝は宗教的にテラヴァダ仏教を国教と定め民衆をまとめ上げていき、国力を増していた。アンコール王朝を衰退に導いた張本人ジャヤヴァルマン8世が52年間も政権にいたことはカンボジアにとっては不幸なことであった。仏教徒の国民は白けた態度でジャヴァルマン8世の愚行を眺めていたのである。灌漑施設の補修にも手抜きが起こり始め、水の滞留が起こるとマラリアなどの疫病が発生し、農民がさらに疲弊するというような悪循環がみられるようになっという。そのような災害を解決していく能力が彼には欠けていたし、多分問題意識もなかったものと思われる。
この像はジャヤヴァルマン8世の手により破壊されバイヨンの池に捨てられていた仏像が1935年に発見され修復されたばかりのものである。
写真
ジャヤヴァルマン8世の治世が終わって間もなく『真臘風土記』を著した周達観がアンコールの地を訪問している(1296~1297年の滞在記、1300年ごろ出版)。元王朝の使節団の随員としての訪問であった。ジャヤヴァルマン8世が退位し、娘婿のシュリンドラヴァルマン(Srindravarman)が王位についたばかりの時であった。彼はジャヤヴァルマン7世の血統を受け継いでいたといわれ、すでにタイのスコタイ王朝に受け入れられていたテラヴァダ(Theravada)仏教を導入した人物とされ、ジャヤヴァルマン8世の極端な廃仏主義を修正した。周達観の記述の中には仏の話は随所に出てくる。周達観は人々の暮らしや慣習の観察も行っており当時の様子を知るうえで『真臘風土記』は極めて重要である。
周達観は『真臘風土記』で次のように描写している「石塔出南門外半里余俗伝魯般(Lu Pan)一夜造成、魯般墓在南門外一里許周囲十里石屋数百間、東池在城東十里周囲可百里中有名石塔石屋塔之中有臥銅仏一身臍中常有水流出・・・」。和田久徳博士の訳注が東洋文庫から出版されている。最初の「石塔山」とはプノム・バケン(ヤショバルマン1世建造)で「魯般」(中国の工匠の祭神)が一晩で建設したといういい伝えがあるという。次の「魯般墓」はアンコール・ワットのことである。南門から1里あまり出たところにあり、周囲は10里(約5.9Km)で石室は数百ある。「東池」とは東バライ(ラジェンドラヴァルマン2世の造営)のことで城から東に10里(正確には約7Km)のところにあり周囲は100里(正確には約59Kmであり、ほぼ正確)、池の中央部(東メボン)には石塔・石室があり、塔の中には横臥した銅仏(実際はヴィシュヌの青銅像)があり、臍の部分から常時水を噴き出しているといった内容でる。このプノンペン国立博物館に展示されている青銅のヴィシュヌ像は西メボンにあったものであり、周達観は西と東を取り違えたか当時は東西両方にあったかいずれかであろう。13世紀末までは実際に臍の部分から水が出ていたことがこれでわかる。
また、周達観はバイヨンについて「有金塔一座傍有石塔二十余座石屋百余間、東向金橋一所金獅子二枚列於橋之左右金佛八身列于石屋之下金塔至北可一里許有銅塔一座比金塔更高望之鬱然其下亦石屋十数間」バイヨンからプノン・バケン(山)にかけての情景を記述している。周達観を驚かせたのはバイヨンにおいてふんだんに黄金が使用されていたその豊かさであった。
4-10-2 アンコール王朝の最後
ジャヤヴァルマン8世の治世の末期にはタイ族の王朝であるスコタイ王朝が成立し、アンコール王朝の版図に食い込み始め、チェンマイのモン王国も蚕食され始めた。ロップリ王国もアンコール王朝と絶縁した。アンコール王朝はやせ細るいっぽうであった。
このあたりの国王の血縁関係を整理すると、ヒラヤナヴァルマン(Hirayanavarman)という地方君主の息子のダラニンドラヴァルマン1世(1107~1113年)が王位に就き、彼はおそらく血縁関係のはっきりしないスルヤヴァルマン2世(1113~1150年?)に殺され王位を奪われる。スルヤヴァルマン2世が不明死のあと、ヒラヤナヴァルマン家のダラニンドラヴァルマン2世(1150?~1160年)が王位に就く。そのあとはヤショヴァルマン2世(1150?~1165年)が王位に就き、さらに出自不明の「重臣」であったトリブヴァナディトヤヴァルマン(1165~1177年)がヤショヴァルマン2世を殺害して王位に就くが1177年に暗殺される。しかし、4年後、再びヒラヤナヴァルマン家のダラニンドラヴァルマン2世の息子で大乗仏教徒のジャヤヴァルマン7世(1181~1218年?)が王位に就く。その次はその息子がインドラヴァルマン2世(1218?~1243年)である。そのあとの繋がりははっきりしないが狂信的シヴァ教とのジャヤヴァルマン8世(1243~1295年)が52年の長きにわたり王位に就く。その娘婿で軍司令官であったインドラヴァルマン3世(Srindravarmadeva、1295~1307年)が跡を継ぐ。彼は仏教徒であった。セイロンからカンボジアに直接テラヴァダ仏教が伝わった(C.Jacques p291)。
ジャヤヴァルマン8世の娘は王位継承の証である「聖なる剣」を盗み出し夫に与えた。彼はジャヤヴァルマン8世の息子の踵を切り、投獄したといわれる。インドラヴァルマン3世の後継者は皇太子(出自不詳)のスリンドラ・ジャヤヴァルマン(Srindra Jayavarman=1307~1327年)となる。その後継王はジャヤヴァルマン9世と称するシヴァ教徒であった。ジャヤヴァルマン・パラメシュヴァラ(Jayavarman Paramesvara)である。彼は1350年にラオスに王国を建国した。アンコールに亡命していたラオスの支配者の息子ファー・ンゴン(Fa Ngom)と自分の娘と結婚させ新王国を建国したのである。彼は1万人の軍隊を保有し、ラオス全土を制圧した。彼は祖先崇拝信者であったが、後にアンコールに呼ばれ仏教徒に改宗させられ、テラヴァダ仏教を導入した(Q.Wales, Angkor and Rome, p152)。
14世紀から16世紀半ばにかけては碑文などの資料が極端に少ない時期とされる。国王の名前さえも定かでない。
1431年~1445年にアユタヤ軍によってアンコール地区が占領され、アンコール王朝は本拠を南に移した。1431年にラジャディパティ(Rajadhipati)王がアンコールを占領したとアユタヤの年代記には書かれている(Ayutthaya Luang Praseut chronicle)。O.W. Wolerが主張する1369年説は何の根拠もない(M.ヴィッカリー)。
巨大な灌漑施設によって維持されてきた水田稲作も指導者が不在となり、個別の零細農家の手にゆだねられはじめた。ジャヤヴァルマン7世による巨大な建設事業が民衆を疲弊させたという見方もできるが人的な疲労は比較的短期に回復する。しかし1220年には彼はいなくなった。仮に財政的疲弊があったにせよ、その後の数十年で挽回できたはずである。私はその後に現れたジャヤヴァルマン8世が凡庸の上にシヴァ教を盲信し、極端な仏教排斥をおこなったために民衆の離反を招いた点を重視したい。大衆の信仰する仏教とそのリーダーでもある国王という存在があってこそその国は王国としてまとまっていく。ジャヤヴァルマン8世とその宮廷の行動はまさに民衆の意向に背く形のものであった。
その後15世紀中頃にはカンボジアはアユタヤ王朝の支配下に置かれた。それ以降はアユタヤの属領となった。さらに19世紀にはカンボジアはフランスの植民地とされ、第2次大戦後の独立後もポルポト政権による虐殺行為などにより大打撃を受けた。その後フン・セン政権の成立により政治的な安定がもたらされたが発展のきっかけをなかなかつかむことができず、ようやく最近に至り外国からの投資も増え始めた。しかし、隣国のタイに比べはるかに立ち遅れており、インフラの整備もままならずなお経済的発展が軌道に乗るには多くの時間を要するであろう。
なぜ大国が滅びたか?それは東南アジア諸国に共通の課題でもある。それは何よりも地方権力者の台頭による国の分裂である。また、アンコールの地に作られら灌漑ネット・ワークも維持補修がなおざりになった。それを再構築しようという為政者が居なかった。マラリアの流行により人口が激減したという説もある。大国といえども一度傾きかけるとその趨勢の挽回は困難である。そのことによって他の大国やヨーロッパ列強に個別に浸食されていった。そういうことはタイ王国ではなかった。タイでは仏教徒の国王を中心とした中央集権が維持されていたことが大きな要因であった。また、仏教国としての住民の精神的安定が図られたことも寄与していたかもしれない。有能な官僚群の存在も無視できない。
狂信的シヴァ教徒のジャヤヴァルマン8世が出てきてからはアンコール王朝は目に見えて衰退に向かったことは上にみたとおりである。国王といえども独断的な行動をとると結局国を滅ぼすことになる。1230年に華々しく独立宣言したタンブラリンガのチャンドラバヌ(Chandrabhanu)王もその一例である。それに引き替え扶南の支配者は著名な大王の名前はほとんど知られていないが、全般に合理的な判断で政権を長く持続できたといえよう。朝貢制度に長く依存しすぎ、国の経済が貿易に偏っていたことが問題であり、朝貢制度の廃止に対応できず、時代の変化に取り残され歴史から消えてしまったことは間違いない。早めのカジの切り替えができなかったのである。それにはなによりも先見の明のある賢明な指導者が必要であった。
1 | Jayavarman II | 802-834 | Phnom Kulenで即位式を行う。首都を転々とさせ最後に ロリュオスに落ち着く。王として認定されたのは770年? |
2 | Jayavarman III | 834-877 | 先王の息子。870年没? |
3 | Indravarman | 877-889 | Roluosを都とする。扶南の王族の血筋? |
4 | Yasovarman | 889-910 | Indravarman Iの息子。Vickeryは900までとする。 ヤショダプラ(アンコール地区)を新都に。 |
5 | Harshavarman I | 910-922 | Yasovarmanの息子 |
6 | Isanavarman II | 922-928 | Yasovarmanの息子(兄という説もある、Vickery) |
7 | Jayavarman IV | 928-942 | Koh Kerに遷都、Yasovarmanの妹の夫。 |
8 | Harsavarman II | 942-944 | Jayavarman IVの息子 |
9 | Rajendravarman II | 944-968 | アンコールに遷都 、Yasovarmanの姉の子供 |
10 | Jayavarman V | 968-1000 | Rajendravarmanの息子、仏教保護者 |
11 | Udayadityavarman I | 1001-1002 | Jayavarman V夫人の姉の子。将軍の息子 |
12 | Jayaviravarman | 1002-1007? | Suryavarman Iに王位を奪われた。Lavoの王で Jayavarman Vの司令官 |
13 | Suryavarman 1 | 1007?-1050 | 1002-1049年がVickeryの説、大乗,仏教徒 |
14 | Udayadityavarman II | 1050-1066 | SKT碑文1053年作成。Yasovarman夫人の系列 |
15 | Harshavarman III | 1066-1080 | Udayadityavarman IIの兄。殺害される。 |
16 | Jayavarman VI | 1080-1107 | Hiranyavarmanの息子、小属国の国王、ピーマイ付近 Harshavarman IIIの娘と結婚。非扶南系 |
17 | Dhanindravarman I | 1107-1113 | Jayavarman VIの兄。Suryavarman 1Iに殺される。 |
18 | Suryavarman 1I | 1113-1150 | アンコール・ワットの建設、チャンパを占領 先2代王の姉の孫。300年ぶりの朝貢。 |
19 | Dhranindravarman II | 1150-1160 | Suryavarman 1Iの従弟、Jayavarman VIIの父親 |
20 | Yasovarman II | 1160-1165 | 出自不明だが前王の係累。 |
21 | Tribhuvanadityavarman | 1165?-1177 | 王位簒奪。侵攻してきたチャム軍に殺される。 |
22 | Jayavarman VII | 1181-1218? | チャムと戦い勝利。最盛期。大乗仏教。母親の父は Harshavarman III。 |
23 | Indravarman II | 1218-1243 | Jayavarman VIIの息子、スコタイとチャンパが独立 |
24 | Jayavarman VIII | 1243-1295 | 熱烈なシヴァ信者。廃仏を実行。1270年就位? |
25 | Sri Srindravarmadeva | 1295-1307 | JayavarmanVIIIの娘と結婚。自身はテラヴァダ仏教徒。 |
26 | Srindra Jayavarman | 1307-1327 | 先王の息子、碑文など不在。 |
27 | Jayavarman Paramesvara | 1327-1353? | 生年月日、業績など不明。 |