トップ・ページに戻る


韓国の経済発展史
 

(東洋大学、アジア経済論の”韓国編”のレジュメを元にしたものです)(04年1月13日)

1、 韓国(朝鮮)の前史

1)新羅による3国統一(新羅、百済、高句麗)676年〜918年

2)高麗時代;918年〜1392年

3)李朝時代;1392年〜1910年

(中央集権支配)上級官僚は自分の出身地以外に任用(相避制)、任期は一定期間として永続的な任用をさけた(任期制)。

(土地制度)原則として国王の所有物。李朝初期においては土地は両班たちに分配されていた。世宗(第7代)の12年から、現職の官僚に「職田」として与えられた。

(経済)@農本主義→「農者天下之大本也」→「士農工商」、A免許制による制限=商品経済の未成熟。官僚による徴税圧力や収奪により農民の余剰蓄積が少なかった→社会的分業の発展が抑えられた。農民にしても土地の所有権がなく「インセンティブ」が働かなかった。

(社会)自己防衛意識が強く、家族主義が重視された。ついで地縁(村落共同体)的な結束が強まった→「契」とよばれる「頼母子講」の普及。

(儒教思想)政治哲学としては儒教、特に朱子学が重視された。「修身・斉家・治国・平天下」という中央集権的な思想を中心にして五倫(父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り)が説かれ、「忠孝の一致」が求められた。李朝が朱子学を重視したのは高麗末期における仏教の腐敗の反動でもあった→「廃仏崇儒」。

           

4)植民地時代

1876年(明治9年)「日韓修交江華条約」による開港

1908年3月「東洋拓殖株式会社法」成立→農業移民を日本から韓国に送る。土地を取得し日本人の農民に貸し付け→1917年に業容を「拓殖」のための融資と事業に拡大。

1910年に日韓併合、「朝鮮総督府」を設置。

                    

戦前においては朝鮮(韓)半島は「北工南農」と呼ばれ、現在の北朝鮮に比較的多く工業地帯が配置され、重化学工業設備は特に北側に偏在していた。南朝鮮(現在の韓国)側はどちらかというと農業が中心であった。日本の植民地時代1920年には日本の米不足を補うための「産米増産計画」が行われた。南朝鮮側は工業化投資があまりなされず大邸を中心とする繊維産業が目立つ程度であった。

また、工業資本の所有比率では1940年当時は公称資本金17億円のうち、日本人の所有が94%に達していた。技術者については1944年当時8,476人中、朝鮮人は1,632人と約20%を占めるにすぎなかった。しかし、少数とはいえ、彼らの存在は戦後の経済発展に大きな力となった。

 

2、 第2次大戦後の独立から朴政権誕生まで             

1)戦後は南北朝鮮に分断され、しかも1950年から朝鮮戦争が勃発し、わずかに残された工業生産設備もその70%が破壊されたといわれる。

朝鮮戦争は53年6月に停戦になり、その後は主に米国や国連機関からの援助により、急速な復興をとげ、57年にはほぼ戦前の水準を回復した。経済回復の主役は製造業であり、この期間の伸び率は15.9%に達した。

アメリカの援助によって「三白産業」(砂糖、製粉、繊維)が興こった。この段階で既に特権的企業家グループが出現し、政府から外貨割り当て、特別融資などを受けた。「三星」「ラッキー」「双龍」などはこの時期にスタートした。

また、49年からは「農地改革」がアメリカの指導のもとで実施された。しかし、朝鮮戦争の勃発により、不徹底に終わった。

 

3)1960年4月19日に政治腐敗に抗議する学生運動によって李承晩政権が打倒された。その後選挙が行われた張勉内閣が発足したが経済混乱に乗じて61年には若手軍部による「5・16軍事クーデター」によって朴正熙将軍が政権を掌握した。

 

3.軍事政権下の経済発展

朴正熙は大統領に就任し、貧困からの脱却には独裁制が必要であると主張した。彼の時代の国家主導型の重化学工業の発展が「開発独裁論」の有力な根拠となり、東南アジアのフィリピンのマルコス体制、インドネシアのスハルト体制に対する、日本の異常とも言えるODA支援を正当化した。

朴政権時代に「国家―銀行―財閥」という韓国経済を特徴付ける基本的な構造が出来上がった。

 

1)1962年「第1次開発ヵ年計画」、経済企画院を創設。技術系官僚を登用。

官主導型資本主義の育成=財閥の育成、輸入代替工業化を目指したが、食糧輸入のための外貨獲得の必要性に迫られ60年代半ばから輸出指向型工業化を推進した。当初は軽工業中心の輸出産業(繊維、衣類、木材・合板、電気製品、雑貨)であった。

この時期に63年5月から1ドル=130ウォンという固定為替制度から、1ドル=255ウォンを下限とする「変動為替制度」に転換し、輸出しやすい為替環境をつくった。

同時に、輸出奨励制度を導入した。主なものは、@輸出用原材料や機械に対する免税と優遇利子の適用、A事業税、商品税の免税、B輸出による利潤に対する事業税減税(50%)、C輸出用機械設備に対する加速償却、D電力、輸送料金に対する優遇価格の適用、E政府機関(KOTRA=韓国貿易振興機関や在外公館)の輸出協力などである。

その結果、製造業の生産と輸出の伸びは急拡大した。

 

「第2次5ヵ年計画(1967〜71年)」においては製造業の重点が消費財から中間財、耐久消費財および資本財に展開されていった。基本目標は「産業構造を近代化し、自立経済の確立をいっそう促進すること」におかれた。内容的には、@食糧自給化の促進、A化学、鉄鋼、機械工業の振興と工業生産の倍増、B輸出の増進と輸入代替の促進により、国際収支の改善、C

雇用の増加と人口増加の抑制、D国民所得の向上、と特に農業所得の向上、E科学および技術の振興と生産性の向上などである。

具体的な重点産業としては;化学繊維、複合肥料、合板、塩酸、カーバイド、尿素、プラスチック加工、石油化学製品、圧延鋼材、鋼管、家電製品、電子工業、自動車などである。

60年代の後半には「現代」「韓進」「鮮京」「韓国火薬」「大農」「東亜建設」「韓一合繊」「斗山」「大宇」などの財閥(Chaebol)が出現した。これらは朴政権から指名されて出現した。

 

この時期には一連の産業振興法が整備された。67年の「機械工業」、「繊維産業」、「造船業」、69年の「電子産業」、70年の「石油化学」、「鉄鋼業」、71年の「非鉄金属」といった7産業育成法であり、財政資金の投入などが盛り込まれていた。

 

また、朴政権の初期においては極度のナショナリズムに基づく政策がとられ、外国資本の投資はあまり認められなかった。しかし、投資資金として外資借入を急増させて言った。そのうちのあるものは無理な設備投資がたたって倒産するなど「不実企業整理」問題(1965年5月〜8月)の原因ともなった。66年に「外資導入促進法」制定してから徐々に開放政策が採られた。

国内での貯蓄に乏しかった当時の韓国においては、民間銀行は短期資金の貸し出ししかできず、設備投資のような長期資金は外国からの借入に依存した。それを政府や銀行が支払い保障をおこなうという形で、設備投資が「特権企業」中心に強行されていった。日本の金融機関から融資を受けていた主な企業(内は国内シェア)は、韓国ガラス(100%)、韓国アルミ工業(100%)、鮮京化繊(アセテート100%、ポリエステル56%)。韓一合成繊維(アクリル原綿84%)、東洋工業(ギアー80%)、韓国ベアリング(80%)、豊農肥料(熔成燐肥69%)、大韓造船公社(新造船65%)、連合鉄鋼工業(冷延薄板57%)、高麗合繊(ポリプロピレン繊維55%)、韓国肥料(尿素49%)、双龍セメント(49%)など政府保護の下に高い独占的あるいは寡占的シェアを有していた。

日韓国交正常化協定が1965年6月22日に締結されたことも、日本からの借入金導入に拍車をかけることとなった。無償3億ドル、有償2億ドル形億ドルの「供与」が決められた。

70年1月に「輸出自由地域設置法」が制定され馬山輸出自由地域(工業団地)が設置された。ここには日系企業が大挙して進出したが、その大部分が失敗した。原因は労働争議であった。

また、日本の協力によって「浦項製鉄所(POSCO)」の建設も70年からスタートした。

70年には、朴政権は政治的基盤を強化するために、農村開発にも力をいれ、セマウル(新しい村)運動を開始した。この運動によって農民層にある程度の所得の再配分がおこなわれ、財政赤字は増加したが、国民経済的には国内需要を増加させるという成果をもたらした。

 

2)米国が69年7月に「ニクソン・ドクトリン」を発表し、韓国は経済的、軍事的自立体制の強化が必要となった。

アジア諸国は安全保障について各国の自己努力で極力処理すべしという方針を打ち出した。韓国からも71年3月には歩兵1個師団を撤収した。このような動きの中で、韓国政府にとっての最大の課題は自力防衛のために重化学工業化を産業政策の基本に据え、その中で自前の軍事産業を育成していこうということにあった。

69年11月の「日米共同声明」⇒「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である。」

 

72年から始まった「第3次5ヵ年計画」は総合製鉄所(浦項製鉄所)と石油化学と4大核心工業(重機械、造船、特殊鋼、鋳物鉄)を基幹産業として育成・発展させることを目標としていた。すなわち、「重化学工業育成計画」ともいうべきものであった。「漢江の奇跡」といわれるほど、大きな実績をあげたのはこの時期であった。しかし、当時は北朝鮮の工業力がはるかに韓国を上回っていると考えられていたのである。

 

表 1 韓国の重化学工業化比率の推移(1975年価格、%)      

 

1961

1965

1970

1975

1980

21.3

33.0

41.8

46.4

55.6

資料出所:韓国の経済発展p40、原点;経済企画院「主要業務指標」他

 

輸出も急増し、1971年10.7億ドルから72年16.3億ドル、73年32.2億ドル、74年44.6億ドルと急増していった。輸出の増加をささえた商品は工業製品であった。輸出の向け先は米国と日本に集中していた。この時期は韓国経済は2桁成長の「高度成長期」にあった。

73年8月に金大中氏がKCIAによって東京のホテルから拉致された。

 

3)重化学工業化の過程で財閥育成が促進され国家資金が投入され外国からの技術・設備輸入による資本集約型産業が大々的に導入された。(鉄鋼、石油化学、造船、自動車、電子、非鉄)

 

1973年に朴大統領が重化学工業政策宣言をおこない、その線にそって重点的な重化学工業化政策が加速的に採られた。

金融面と租税面からの優遇措置に加え、73年から国民投資基金(NIF)により、重化学工業のための長期資金融資制度が整備された。

同時に極端な輸出指向政策が採られ為替の安め誘導による一貫した切り下げに加え輸出補助金制度が長期間採用された(61年から64年までは直接補助金、65年から87年までは国内税の

減免、関税減免、金融支援など1ドル当たり約100ウォン=金昌男)。また、最終財の輸出が生産財の国産化をもたらした。(衣類輸出−化学繊維、造船−鉄鋼)

 

重化学工業のための工業団地が政府によって建設されたがその多く「慶尚道」に位置していた。

(鉄鋼関連=浦項、石油化学=蔚山、総合石油化学=麗川、機械工業=昌原、非鉄金属工業=温山、中規模造船所=玉浦、電子工業=亀尾など)これらの一連の政策は「不均衡型開発戦略」ともいうべきものであり、政治権力と財閥の癒着関係が強化された一方、経済の底辺部分を構成すべき中小企業の育成はなおざりにされたと言えよう。

この時期に、韓国経済を揺るがした最大の事件は、73年10月から始まった第4次中東戦争をきっかけにした、「第1次石油危機」であった。このとき、原油価格は1バーレル2ドル台から11ドル台にまで、4倍の水準となった。韓国は貿易収支の赤字が急増したが、輸出のいっそうの拡大と、海外(特に中近東)の建設工事の受注により何とか乗り切った。

 

韓国にとって幸いしたのは「オイル・ダラー」がふんだんに出回り、ユーロ市場からの多額の借入が可能となり、資本集約型の設備投資が可能になった点であった。75年末には民間企業が商業借款などを行いやすくするために、「総合金融会社に関する法律」が作られ、76年4月には「韓国総合金融会社(大宇とバークレーの合弁)」が設立され、70年代末までに合計6社(全て合弁)が設立された。そのことによって大手財閥は積極的に多角化をおこないながら規模を拡大していった。しかし、借入金依存の拡大であり、財務体質は脆弱のままであった。

 

4)第4次経済開発5カ年計画(1977〜81年)

1976〜78の3年間は景気の過熱状態にあった。これは輸出の急増にその根本原因があった。77年には輸出は100.4億ドルに達し、75年の50.8億ドルからたった2年でほぼ倍増した。

第4次計画の基本目標は:@自立的な経済構造確立のための成長、A社会開発による均衡、B技術革新と能力の向上であった。

特にBの「技術革新」政策では科学技術投資を81年までにGNPの1%にまで引き上げるという目標が掲げられた。

79年10月26日に朴大統領が暗殺され、崔圭夏国務総理が大統領代行を務めたが、その後軍の最高実力者となった全斗煥が政権を引き継いだ(80年9月15日)。80年5月18日には光州事件が起こった。80年10月に新憲法が公布され、81年2月に全斗煥が大統領に就任した。

 

第2次石油ショックにより韓国経済には大きな打撃を受けた。直後に起こった逆オイル・ショックは中近東に進出していた建設会社が大打撃を蒙った(84年7月には海外建設振興綜合対策という名目で大整理が行われた)。1980年にはついにマイナス成長(−2.1%)を記録した。

韓国経済の課題は重化学工業偏重投資の是正と、インフレ抑制にあった。

80年8月には第1次重化学投資調整がおこなわれ、先ず自動車産業がその対象とされ乗用車は現代と大宇に、バス・トラックは起亜と東洋の合併会社に集約するなどの方針が出された(81年2月)、また80年9月には20大財閥系列の企業整理が行われた。11月には昌原に建設されていた機械メーカー現代洋行が倒産し、国有化され韓国重工業となった。

また、この頃から経済の自由化政策が採用され始めた。

 

5)第5次5ヵ年計画(1982〜86年)

「科学と技術を通じて80年代中に先進国になる」というスローガンのもとに、科学技術の発展が強調された。

1980年にはGNPの0.2%であったR&Dの比率を86年には2%にまで高める目標を掲げた。この間、政府は3,340億ウォン(約4億6388万ドル)を支出し、民間は2,170億ウォンを投入するという計画であった。これには外国から買う「技術」も当然含まれていた。韓国としても、徐々により賃金の安い国からの追い上げを背後に感じていたため、工業生産のレベル・アップを目指したものである。

従来の韓国の工業化は外国から技術を買うことに主眼が置かれ、ロイヤリティの支払いも、1962〜71年までは1,704万ドルであったものが、72〜81年の間には5億4800万ドルに達した。62〜82年の間の外国からの投資は12億7600万ドルであった。政府としては外資の受け入れより、技術輸入のほうを選好した。ナショナリズムの強い韓国民は外国企業経営者との折り合いがあまりよくないことを意識していたためである。(70年代の馬山の失敗)

しかし、実際はハイテク企業の投資には優遇措置が与えられた。

 

80年代の前半は米国のレーガノミックスによる輸入急増のおかげで何とか韓国経済は生き延びることができた。輸出に占める重工業製品の比率は83年には50%を超えた。83年から85年にかけて「10大戦略産業」を育成する方針をとり、その中には自動車や一般機械産業が含まれ、半導体やコンピューターなども戦略産業としての位置付けを与えられた。

85年秋のプラザ合意以降の急激な円高は韓国の輸出にとって大きなチャンスとなり、86年から89年は貿易黒字になった。ウォンも86年を底に上昇に転じた。三低条件(ウォン安、国際金利の低下、一次産品・原油の価格低下)が韓国経済のブームを支えた。それは88年のソウル・オリンピックまで続いた。しかし、対米貿易黒字の増大から今度はウォン高を強いられ86年(平均)1ドル=881.5ウォンから89年には671.5ウォンへと31.3%切りあがった。今度は三高条件(ウォン高、金利高、物価高)が韓国経済を襲った。

85年2月には全政権との関係が希薄であったとされる第7位の財閥「国際商事」が解体された。

 

3.民主化時代(87年以降)

1985年2月におこなわれた国会の選挙で、民主化を求める野党が実質的に勝利した。

国民の民主化要求の声に押され盧泰愚大統領候補は87年6月10日に大統領直接選挙を含む「民主化宣言」を行わざるを得なくなった。全斗煥大統領から盧泰愚大統領に政権が変わり(88年2月)、労働運動の自由化が進み、労働争議件数が急上昇し、かつ労働組合も大幅賃上げを相次いで獲得した。韓国の労賃は遂に台湾を凌駕し、日本の2分の1程度にまで達した。

これに伴ない労働集約的組み立て産業は次第に競争力を喪失していった。90年から再び大幅な貿易赤字に陥った。労働運動の盛り上がりによって、賃金上昇の恩恵を受けた一般国民の消費意欲の高まりによって、89年以降韓国では本格的大衆消費時代を迎え、個人消費が経済に占める位置がやや高まり、GDPの伸びを個人消費が多少とも上回る年がたびたび現れた(89年、90年、92年、93年、95年、96年、99年、01年、02年)。

 

当時のバブル経済を抑えるために政府は92年から不動産投機の抑制に乗り出した。

93年2月に金泳三大統領が就任し「実名制度」の実施など経済の近代化に努め、政治的にも完全に民主体制に移行した。

80年代に始まった「自由化政策」は90年代に入り、いっそう加速された。特に、著しかったのは金融部門であった。81年から銀行の民営化がおこなわれ、新規参入の自由化もおこなわれた。80年代末からまず金利の自由化が段階的に実施された

90年代に入ると米国からの資本市場開放の圧力が強まり、また1996年のOECD加盟への条件整備としても外国為替自由化など各種の自由化措置がとられた。

「総合金融会社」はその後比較的安易に設立が許可され、経営管理能力の欠如したものが少なくなかった。彼らはオフショア市場から短期資金を借り入れ、長期貸付で運用するなどという無謀な経営をおこなったところが多く、通貨危機に際して30社あった「総合金融会社」が次々に営業停止処分や閉鎖命令を受け、現在は11社のみが営業をおこなっている。しかし、それまでに積年の政府の強引な「産業政策」のツケが全て金融機関に負わされ、潜在的に多額の不良債権を抱え、金融機関の経営体質は新韓銀行など一部を除き脆弱であった。

 

80年代の後半以降は産業政策の面でも大幅な自由かがおこなわれた時代であった。特に85年に「工業発展法」が導入されてからは、産業政策は「部門育成政策」から、優遇措置を「合理化プログラム」に移行させ、国際競争力の強化に対する助成へと変わっていった。

この「合理化プログラム」は自動車、建機、重電、舶用エンジンなどに適用された。

金泳三政権時代は自由化政策がさらにいっそうの「規制緩和」という形でおこなわれた。財閥も自分の従来の守備範囲を逸脱し、たとえば三星グループは自動車産業に進出を果たした。

しかし、全面的自由化がおこなわれたわけではなく、たとえば現代グループが高炉一貫製鉄所計画を申請したが許可されなかった。現代はやむなく「冷間薄板圧延設備」の建設のみでおこなった。一方では、金泳三大統領と政治的つながりのあった韓宝スチール社は還元鉄による一貫製鉄所の建設を申請し許可された(後に韓宝グループは倒産)。この段階においても政治家や官僚は彼らの財閥への影響力が薄れることを極度に警戒していたのである。

 

90年代には海外投資が活発化した。これはプラザ合意以降の円高で、日本企業が海外に輸出用生産拠点を移し、韓国の「追い上げ」に対抗できる競争力を獲得したという側面があった。台湾が日本に次いで東南アジアや中国に投資を急増させ、韓国も対抗上、海外に生産拠点を持たざるを得なくなった。その場合、資金調達は海外でおこなわれた。海外での資金調達については韓国政府はほとんど干渉しなかった。韓国企業は、また海外支店で外貨を借入れ、それを東南アジアやロシアで運用し、利ざやを稼ぐということも盛んにおこなっていた。

 

この時期には、世界的にIT産業が開花した。そのため科学技術政策の充実強化がおこなわれた。そこでは依然として国家の役割は大きかった。しかし、金泳三大統領も最後は身内の金銭スキャンダルを契機に急速に国民の信頼を失っていった。

94年から日本円が再び急上昇したため韓国の輸出は再度ブームを迎え、折角の引き締めムードがご破算になり、国内投資も活発化し貿易赤字は急拡大した。

(韓国の通貨経済危機)

金融の自由化を背景に、各財閥は海外から低利の融資を受け、積極的な設備投資や、海外投資、さらにはデリバティブにまで手を染めるところも出てきた。しかし、過剰な設備能力を抱える韓国企業の利益率は低かった。巨額の投資をおこなった割には、売上こそ伸びたものの、設備稼働率を高めるためにあえて安い注文もとっていったのが低利潤率の原因の1つであった。国内経済のマクロ指標には目立った危険信号は出ていなかったが、東南アジアの通貨危機で痛手を受けた日本などの海外金融機関は97年末にかけて、融資の引き上げを開始した。

それに伴い、韓国も97年後半から急速な通貨危機に見舞われ、年末にはウォンの暴落を招き、遂にIMFに資金救済を仰ぐに至った。それに先立ち、韓宝鉄鋼は96年に破綻し、その後、大宇財閥、起亜自動車、三美特殊鋼などの大手企業の破産も相次いだ。

韓国政府はIMFに580億ドルの緊急融資をあおぎ、政府自身も86.1兆ウォンの不良債権の買取をおこなった。IMFの厳しい融資条件は韓国でも大きな被害をもたらした。

その後、韓国は輸出の増加と引締め政策によって通貨危機と98年の深刻な経済危機を乗り切った。韓国企業は低下したウォンを背景に、輸出拡大によって危機をしのいだのである。

韓国政府は財閥の業務整理や事業転換を迫り、銀行の集約合併(33行⇒18行に)もおこなった。また、このとき外国資本も韓国企業の買収や株式取得をおこない、銀行にたいする外国資本の経営参加もおこなわれた。しかし。それらが実際に韓国経済にどのような効果を発揮しているかは、いまだ解明されてはいない。日本は韓国を見習えなどという議論もあるが、現状を見る限り、韓国企業・経済が本当の意味で体質改善されたとは言い切れない。韓国の企業群は三星など一部を除き依然として経営体質に問題があり、最近もSKグループが不正経理事件を起こし、国際的な衝撃を与えた。

(参考文献)高龍秀「韓国の経済システム」東洋経済、2000年2月