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スシロ政権の政治


83. スシロ政権下のインドネシアの政治(04年10月2日〜)


83-21.ユドヨノ大統領の人気急落、メガワティ浮上(08年7月3日)


83-20. SBY大統領の変調?(08年5月31日)

83-19.ユドヨノーカラの支持率低下続く(08年3月26日)

83-18.クビになったユスリルに職を与えたSBY(07年12月25日)

83-17. 内閣改造でユスリル官房長官ら更迭(07年5月8日)

83-16.ユドヨノーカラ政権の支持率ついに過半数割れ(07年3月28日)

83-15.メガワティの闘争民主党、人気回復(07年3月16日)

83-14. 東アジア・サミットを欠席してユドヨノ大統領が行った先は?(07年1月24日)

83-13. SBY大統領が作った改革促進チームへの支持広がる(06年11月8日)

83-12. グス・ドゥルの娘イェニーがSBY大統領の顧問に(06年1月29日)

83-11.内閣改造ブディオノが経済調整相に=速報(05年12月3日)

83-10、SBYの訪中、75億ドルの取引を決める ートミー・ウィナタが浮上か?(05年7月31日)

83-9.アルウィ・シュワブ調整相が党首の座を奪ったPKBを訴える(05年3月28日)

83-8. SBYの足を引っ張り始めたユスフ・カラ副大統領(05年1月25日)

83-7. スギアルト国営企業担当相に早くも辞職要求(04年12月14日)

83-6. 昔の名前で出ていますー情報部長にシレガール退役少将(04年12月9日)

 

117. スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領の訪日(05年6月3日)

 

83-0. 国軍の関連法の改正によって軍は専門職業集団に(04年10月2日)

既にインドネシア国軍はスハルト時代から続いていた無投票の国会議員が10月1日から発足する新しい国会からは居なくなった。その前提で4月の国会議員議員選挙は行われた。

スハルト時代には500人の国会議員中100名が無投票の軍人に議席が与えられていた。それがスハルト政権崩壊後の1999年の選挙では38議席に減らされた。さらに今回の200年の選挙では軍人の議席はゼロになった。

国軍は法律的には名実ともにシビリアン・コントロール下におかれる建前になった。 しかし、今回の法改正の最大の論点は軍改革の行き詰まりとも思える条項が存在することである。

それは第19条の既定で、「軍は緊急の場合大統領の事前の承認を得ることなく軍隊を動員できる。ただし、24時間以内に大統領に報告し許可を得る」といった趣旨の条項だあることである。

国軍の最高司令官はあくまで大統領であるが、その大統領の事前の許可なく軍を移動できれば、軍が勝手に騒乱状態を利用して(場合によっては作り出して)ジャカルタを制圧することすら可能となる。ある意味では大変危険な条項でもある。

歴史的にみると、インドネシア国軍は1945年8月17日にスカルノが独立宣言はしたもののその後のオランダ軍との「独立戦争」を国民の先頭に立って4年間も闘わなければならなかった。

独立後は政党による議会政治が行われたが、インドネシア国軍は2重の機能を持つものとして存在し続けてきた。1つは言うまでもなく軍隊としての軍事的機能であり、第2は「政治・行政的機能」であった。

それは、地方の首長にしばしば軍人が任命され、軍は地方に派遣されると同時に、地域によっては行政上の権限も与えられてきた。末端の官僚機構はオランダが去った後は、そこかしこに「真空地帯」が形成されて いたからである。

また、インドネシア共和国に対して「独立」を求める地域(スラウェシやスマトラ)も出てきて、国軍はそれらの反乱軍を押さえ込むと同時に治安・行政を直接担当せざるをえないという事情の地域もあった。

そればかではない。1957年ころから60年代の初めにかけて、「西イリアン帰属問題」が起こり、オランダとの対決が激化した。その国民運動の高まりの中で労働組合がオランダ系企業の占拠・接収を勝手にやり始めた。

スカルノ大統領はそれらの企業の経営を労働組合に任せるわけにはいかないので国軍にゆだねたのであった。当時は組織を動かしていく訓練を受けた人材は国軍に偏在していたのである。ということで、この時期、国営=軍営企業が数多く誕生した。

従って、国軍の機能は軍と政治・行政の2重機能(Dwifungsi=Dual Function)に加え、軍営企業の経営も加わった「3重の機能」となっていたのである。例えば国営石油会社プルタミナの総裁は軍医中将ストウが任命された。

各師団にも自分の系列の企業群(プランテーションなど)を所有し経営していたのである。

ところが軍人には企業経営の知識・経験が無い者がほとんどであった。たまりかねたスカルノ大統領は米国に約100名の軍人を「経営学」の留学に派遣したといわれている。

しかし、そんなドロナワ方式では間に合わない。そこで登場したのが商売の道にかけてはプロの華僑資本家である。彼らは事実上の番頭さんの役割を果たし、軍営企業のマネージメントを切り盛りしたといわれている。密貿易の手助けもおこなった。

その中で、例えばスハルトがディボネゴロ師団長の時に出入りしていたリム・ショウ・リョン(スドノ・サリム)はスハルトに大いに取り入り、後にスハルトが大統領になるや東南アジア最大の華僑とまで言われるまでに大成長を遂げた。

だいぶ前置きが長くなったが、要するに軍は自分の系列企業を所有しており、その利益で軍の経費の不足をまかない、OBたちにもそれなりの手当てを支給していた。

1998年にスハルト政権が倒れると、それまでベールに包まれていた軍の経理内情が少しずつ明るみに出てきた。その中でも世間を驚かせたことは軍の経費は国家予算から30%以下しか支給されていなかったということである。

不足分は軍が国家予算外で自前で手当てしていたことになる。軍営企業の「利益」はその最大の財源であったであろうが、なおかつ不足すると華僑から直接間接カネを貰ったり、外資系企業の用心棒(守衛)を請け負ったりしていた。

さらには、悪事にも手を染め、麻薬密売組織を所有したり、木材を不法に伐採して売り飛ばしたり、一説によるとニセガネ作りにも手を出したとさえ言われている。このての話に誇張は付き物だが、木材の不法伐採は現在も行われているという。

今回の国軍関連法では地方の行政官からは軍人を完全にシャット・アウトすることにはなっていないが、選挙が実施されるレベル(州知事など)では軍人は現役のまま立候補するわけにはいかない。

さらに問題なのは5年以内に軍営企業を中央政府に返還することが今回の法律で決められていることである。ということは5年以内に国軍の経費は中央政府の予算で100%まかなわれなければ帳尻が合わなくなる。

とんでもない課題が新大統領SBYに課せられたことになる。 SBYは今回の法改正は見直しが必要であろうなどと述べている

議会は今のところ野党が絶対多数を占めている。いずれ与党に寝返るものが出てくるにしても最初から新政権は難題にぶち当たることになる。

 

83-1 国会議長と国民協議会議長が決定(04年10月7日)

スシロ・バンバン・ユドヨノは04年9月20日の大統領決選投票で現職のメガワティ大統領を破り第6代大統領に10月20日に就任する。閣僚名簿は近々発表されるが国会と 国民協議会の議長が既に選出された。

国会は10月2日にゴルカルのアグン・ラクソノ(Agung Laksono)が選出された。アグンの前任者はゴルカル党首アクバル・タンジュンである。

先の大統領選挙で形成された4党からなる「国民同盟」から早くもPPP(開発統一党=イスラム政党)が離脱したため意外な接戦接線となり、アグンは280票、対立候補のエンディン・ソフィハラ(PPP)が257票という僅差であった(定員550名)。

これとは別に32州から4名ずつ、合計128名からなる地方代表評議会(DPD=Regional Representatives Council)がやはり4月5日の選挙で選ばれた。

その議長にはスハルト政権末期に政治官僚として権勢を振るったギナンジャール・カルタサスミタが選出された。 ギナンジャールは日本の東京農工大に留学経験がある。ただし、知日派ではあっても必ずしも親日派ではないらしい。

また、ギナンジャールは現在汚職容疑で検察庁から取調べを受けている。本人は否定しているがフリーポート社(パプアで金鉱山経営)の株を譲渡されたともいわれている。スハルト政権末期には石油公社プルタミナの利権を取り仕切っていた。

国会議員550名とDPD議員128名が合わさって678名からなる国民協議会(MPR=People's Consultative Assembly)が形成されており、こちらは原則年1回開かれ、憲法改正など重要事項が審議される。大統領を弾劾し、罷免する権限も持っている。

こちらの議長が決まったのは10月6日である。議長になったのはヒダヤト・ヌル・ワヒドPKS(Prosperous Justice Party=正義福祉党)党首である。彼の得票は326票で対立候補のスチプト(PDI−P)は324票であり、わずか2票の差であった。

ヒダヤトはもともとイスラム教原理主義に近い思想を持っており、彼は今回の選挙ではスハルト政権下で軍人であったSBY支持に回ったのは既に見たとおりである。彼の政党は第1次大統領選挙ではゴルカル代表のウィラント 元国軍司令官を支持していた。

イスラム教原理派は旧オルバ(スハルト体制)系の軍人をはぜ支持するのであろうか?それは「反メガワティ」であるということでは十分な説明とはいえない。軍とイスラム原理主義者が なぜ結びつくのかは不思議な現象である。その謎はおいおい究明されていくであろう。

ヒダヤトが勝てたのは実はPPPを含む全イスラム政党が彼を支持したのである。アーミン・ライスのPANやグス・ドゥルのPKBなどである。これにSBYの民主党が加わった。

ちなみにヒダヤトの前任はアーミン・ライスPAN党首であった。ライスは今回の大統領選の敗北を機に政界を引退するという意向を漏らしている。しかし、ライスはインドネシア政界においてはかけがいのない人材である。

PPPが「国民同盟」を去っていき、現在のところイスラム諸政党が「統一行動」をとっているようにみえるが、それは1999年の大統領選挙のときも「ポロス・テンガ=中央枢軸」なるイスラム統一戦線が結成されたときと似ている。

しかし、ポロス・テンガはあっというまにボロス(無駄)になってしまった。仲間割れで雲散霧消してしまったのである。したがって、今回もイスラム諸政党の統一戦線ができたなどといって騒ぐ必要はない。

むしろ、アクバル・タンジュンがゴルカル党内で権力を維持できるかどうかが問題なのである。

彼が失脚すればたちどころにゴルカル保守派(オルバ派)が実権を握り、SBY政権にはせ参じることになる。そうなるとインドネシア民主主義は大きなピンチに見舞われかねない。

 

83-2. スシロ政権に早くも亀裂の兆候(04年10月18日)

SBY政権の組閣が異常に難航しており、大統領の就任式の10月20日ぎりぎりまで決定が遅れることになりそうである。遅れている理由はSBYの支持者が多様で利害の調整に手間取っているということであろう。

特にPKS のヒダヤト党首はSBY政権にIMFに近い人物や法的に問題のある人物(過去に汚職容疑等のあった)の入閣に強く反対し、SBYがもしそれを強行するなら、与党連合から降りると述べている。

現在進められている閣僚構想の中にはスリ・ムルヤニ・インドラワティ女史(インドネシア大学経済学部教官)やマリ・パンゲツ女史(シンク・タンクCSIS理事長)が含まれているようである。2人ともIMFの東南アジア担当理事の経験がある。

この2人はSBYが目玉にしている閣僚であり、彼女たちがPKSに拒否されると、もともと薄暗いSBY政権のイメージがいっそう冴えない色彩を帯びることになりかねない。

また、閣僚候補のなかには1998年の経済危機の折にインドネシア銀行から特別融資を受け、その返済問題がすっきりしていない人物やスハルト政権時代に不正蓄財や汚職に関与したと言う風評の人物も含まれている。

また、PBB(月星党)のサハール(Sahar L. Hasan)副党首もSBYは同党に対し誠実味が欠けると不満を漏らしている。また、閣僚の任命に対しても専門家優先ということだが、学者などにはマネージメント能力に問題があると手厳しい指摘をしている。

SBYはインドネシア政府がいまさらIMFの影響を受けることはないと言っているが、IMFは米国の代理人的側面が強く、いろいろ干渉してくることは間違いない。

船頭の多いSBY政権の運営は早くも多難が予想される。いうまでもないが、この政権の成否はSBYの指導力とユスフ・カラの調整力次第である。

(ジャカルタ・ポスト 10月18日インターネット版参照)
 

83-3 SBY政権の閣僚名簿発表(04年10月21日)

SBY大統領は10月20日認証式を済ませ、同日深夜閣僚名簿を発表した。政治家よりも専門家を優先したということのようである。 詳しいコメントは後日に譲るが経済閣僚についていえばこれでやっていけるのかというのが第1印象である。

経済担当調整相のアブリザール・バクリはバクリ・ブラザーズ社(スマトラ出身のプリブミ=現地人企業)の3代目社長で商工会議所会頭などを務めて、なかなかのやり手ではあるがインドネシア経済全体を仕切る能力があるか否かは大いに疑問である。

彼がやり手といわれるゆえんは、政治官僚ギナンジャールにとりいって石油公社プルタミナの利権のおこぼれにあずかって財を成したことである。その意味ではファフミ・イドリス(労働・移民相)もその仲間である。

PDI−Pの幹部でMEDCO(石油会社)社長のアリフィン・パニゴロなどとともに「ギナンンジャール・ボーイズ」と呼ばれるゆえんである。

アブリザールはゴルカル党幹部でもあり、先の大統領選挙ではゴルカル党内の大統領候補者選挙に立候補して敗れている(ウィラントが当選)。実力者ではあるがオルバ(スハルト政権)派の典型的人物である。

彼が今後のインドネシア経済のリーダーになるとは到底思えないが、プリブミ実業家としてはトップ・クラスなのかもしれない。彼は1998年の経済危機のときに国家資金を多額に借りてほとんど倒産に瀕していた。その危機を何とか切り抜けたようである。

大統領

Susilo Bambang Yudhoyono

副大統領

Yusuf Kalla

1

政治・法律・治安調整相

Widodo Adisutjipto

ワヒド政権の国軍司令官・海軍提督

2

経済調整相

Aburizal Bakrie

プリブミ資本家、前商工会議所会頭、ゴルカル

3

国民福祉調整相

Alwi Shihab

ワヒド政権の外相、PKB党首

4

内務相

Mochtar Maruf

退役中将・国軍社会関係担当、SBY選対委員長

5

外務相

Hassan Wirajuda

外務官僚・前政権から留任

6

防衛相

Juwono Sudarsono

ワヒド政権国防相・学者軍事専門家

7

法務・人権相

Hamid Awaluddin

選挙管理委員会購買担当

8

財務相

Jusuf Anwar

財務官僚・アジア開銀理事・証券監視委議長

9

エネルギー・鉱業資源相

Purnomo Yusgiantoro

前政権から留任・官僚エネルギー経済学者・OPEC議長

10

工業相

Andung Nitimihardja

電力庁監査委員長、投資委員会理事

11

貿易相

Marie Pangestu

エコノミスト・元CSIS理事長

12

農業相

Anton Apriantoro

ボゴール農大講師・SBYの学位指導

13

林業相

M.S. Kaban

月星党書記長・政治デモ批判

14

運輸相

Hatta Rajasa

前政権では科学技術担当相、PAN

15

海事・漁業相

Freddy Numberi

退役海軍軍人、ワヒド政権で行革相

16

労働・移民相

Fahmi Idris

ゴルカル党幹部、典型的オルバ派

17

公共事業相

Joko Kirmanto

官僚、同省官房長

18

保健相

Siti Fadilah Supari

心臓病専門医師・女性,PAN

19

国民教育相

Bambang Sudibyo

ワヒド政権財務相・会計学教授・PAN

20

社会関係相

Bachtiar Chamsyah

前政権から留任・PPP党員

21

宗教相

Muhammad Maftuh Basyuni

サウジ大使・NU幹部・ワヒドの腹心

22

観光・文化相

Jero Wacik

民主党副書記長

23

研究・技術相

Kusmayanto Kadiman

バンドン工科大学学長

24

協同組合・中小企業相

Suryadhama Ali

PPP党員、SBYの支持者、ワヒド大統領罷免運動

25

環境相

Rachmat Witoelar

SBYのブレーン、ロシア大使、元ゴルカル書記長

26

女性能力向上相

Meuthia Farida Hatta Swasono

インドネシア大講師ハッタ元副大統領の娘

27

行政改革相

Taufik Effendi

民主党副党首、元トロント総領事

28

低開発地域向上相

Syaifullah Yusuf

ワヒドの甥・PKB書記長、元PDI-P党員

29

経済企画相

Sri Mulyani Indrawati

IMF東南ア担当理事、インドネシア大

30

国営企業相

Sugiarto

PPP党員、SBYの支持者

31

情報・通信相

Sofyan Djalil

SBYのブレーン

32

青年問題・スポーツ相

Adhayaksa Dault

ウィラント系KNPI青年運動議長

33

国民住宅相

Muhammad Yusuf Ashari

PKS党員

34

検事総長

Abdul Rahman Saleh

最高裁判事、Aタンジュンの有罪主張、PBB

35

国家官房長官

Yusril Ihza Mahendra

月星党党首、前政権法務相、オルバ派、スハルトの辞任草稿演説を書く

36

内閣官房長官

Sudi Silalahi

退役陸軍中将、SBYのブレーン

 

(第1次SBY内閣の特徴と問題点)

上の表の顔ぶれは私の知らない人が多く、あまり断定的なコメントはできないが今まで公表されているプロフィールや過去の実績・言動から見ておおよそ次のことが言えるのではないかと思う。

第1次SBY内閣とあえて書いたのは、この顔ぶれで5年間も持つとは到底思えないからである。SBYは「団結内閣」と称しているが、その団結がいつまで続くかが問題である。

(特徴の1)

経済閣僚が弱体である。特にメガワティ政権のドロジャトン・クンチョロ・ヤクティ経済調整相と比べ、アリザバル・バクリはあまりにひどすぎる。これはユスフ・カラが決めた人事であろうが、ユスフ・カラはプリ・ブミ資本家の仲間として彼を選んだとしか思えない。

インドネシアの経済の現状を考えれば、マクロ的に経済状況を把握して適切な手段を迅速に講じていかなければならないが、アリザバルにハそんな気の利いた芸当はできないであろう。

同僚にスリ・ムルヤニ経済企画庁長官やマリ・パンゲツ貿易相がいるが、彼女たちはそれほど実力のあるエコノミストではないし、経済の実態についても知識が不十分である。

ただ、女性のエコノミストとして先進国(日本も含めさせてもらうが)の官僚や政治家にチャヤホヤされてきただけである。

スリ・ムルヤニなどは1998年の経済危機の当初はIMFの融資条件に猛烈に噛み付いていたが、気がついてみればIMFにすっかり取り込まれ、いまやIMFの東南アジア担当理事という要職にある。ただし、君子は豹変しても結構である。

マリ・パンゲツは日本のNHKにも登場したことがある。スハルト政権の終わりごろだったと思うが、スハルト政権の「開発実績」について大いに宣伝していた。彼女は知る人ぞ知るパン・ライ・キムという華人エコノミストの娘である。

パン・ライ・キムは華人でありながらインドネシア人として、極めてナショナリスティックな経済評論をものしていた。いまのクイック・キアン・ギーとよく似ている。昔のファー・イースタン・エコノミック・レビューには常連のエコノミストであった。

そのパン・ライ・キムもスハルト政権になって策士アリ・ムルトポの作ったシンク・タンクCSIS(インドネシア国際戦略研究所)の設立にユスフ・ワナンディらとともにかかわったが、 スハルト体制になじめなかったようである。

すぐに南洋大学の商学部教授になったり、晩年はビジネスに熱中していたようである。

私の目にはマリ・パンゲツはオルバ(スハルトは自らオルデ・バル=新秩序政権と称していた)エコノミストの1人にしか見えない。日本には知己は多い。ただし、彼女の商業相というポストはいかにも不似合いである。

特に、就任早々ASEAN−中国との自由貿易地域構想を実現したいなどといっている。少なくとも、前任のリニ商工相は中国との自由貿易協定がいかにインドネシアに脅威を与えるかについて認識していた。

前任のリニ商工相は女性経営者として経済危機時のアストラ自動車社を建て直した実績があるし、担当相としても優に男勝りの大活躍をしていた。

意外なことに、ワヒド政権で財務相をしていたバンバン・スディビヨアが何と教育相で入閣している。彼はガジャマダ大学の会計学の教授であるがPAN(国民信託党=アーミン・ライス党首)の幹部であるということで入閣したようである。

彼こそは骨太の学者で、難しい財務相のポストを良くこなしていたという印象を持っている。PDI-Pのクイック・キアン・ギーやラクサマナ・スカルディとよく意見が合い気持ちよく仕事ができたと退任後新聞記者に話していた。

今回入閣が予想されながら、結局入らなかったリザル・ラムリが何らかのポストで入閣していれば。このSBY内閣も少しは見栄えがしたかもしれない。

彼は慶応大学に留学していた。ワヒド政権時代は経済調整相も勤めた大物である。ただし、徹底的にIMF批判を行った人物として有名である。

彼はSBY政権では経済調整相に就任すると噂されていたが、ユスフ・カラがアブリザールを選んでしまったため、工業相のポストをオファーされたという。ラムリ はそれを断ったという。

ラムリともあろうものが従来リニが1人でこなしていたポストを2つに割った(工業相と商業相)のうちの1つのポストについて、しかもアブリザールの下で働けるわけがないではないか。

今回の経済閣僚人事はユスフ・カラがプリ・ブミ中心主義で決めたものとしか思われない。外資政策が思いやられる。

(特徴の2)

閣僚の構成から見る限り、この内閣はある意味ではイスラム政権である。大統領選挙戦のはじめは民主党とPKS(正義福祉党=イスラム原理主義政党)の2党が選挙運動の中心であったが、閣僚の顔ぶれをみると、主要イスラム政党員が多数派を占めている。

草の根レベルの運動で大きな役割を果たしたPKSは1名しか入閣していない。ただし、PKSの党首であるヒデヤトはこれら与党連合の支持で国民協議会議長に当選している。

しかし、PKSは他のイスラム政党に気を使いすぎるSBY政権とは早くも一定の距離を置き始めていることに注目していきたい。SBYが露骨な米・豪路線をとっていくとかなりの軋轢が生じかねない。

ヒダヤットは反IMFエコノミストのRizal Ramliを入閣させられなかったことで、相当怒っているとも伝えられる。R・ラムリの件ではグス・ドゥルも大いに怒っている。

SBY政権にとってはこれらの諸政党の議席をかき集めてようやく275議席(全体550議席のちょうど50%)になっているだけに、有力イスラム政党を抱き込まざるをえなかったのである。

所属 人名 人数 議席数
PKB 3. 21.28    3 52
PPP 20.24.30 3 58
PAN 14.18.19 3 53
PBB 13.34.35 3 11
PKS 33. 1 45
イスラム政党員計   13 219
民主党 22.27. 2 55
PKPI 26 1 1
軍人 1.4.15.36. 4  
官僚 5.7.8.9.10.17. 6  
学者 6.11.12.23.29 5  
経済界 2.16 2  
その他 25.3132. 3  
合計   36 275

ただし、これらのイスラム政党が一体化した協力体制を維持するかというとそうはいかない。PKBはNU(フダトウール・ウラマ)という 最大のイスラム組織を母体とする、グス・ドゥル(アブドゥラマン・ワヒド元大統領)が率いる政党である。

(ただし、04年12月初めNUの総裁に再選されたハシム・ムザディはNUはPKBとの同盟関係を清算すると宣言した。)

いっぽう、PANはムハメディヤというイスラム改革運動の担い手であった知識層を中心とする政党で、両者は普段から対抗意識が強い。同じイスラム政党でも水と油といった感じさえ受ける。

PPPは開発統一党としてスハルト時代にそれまでのイスラム諸政党を無理に合併させて作られた政党であり、党員にはNUメンバーも少なくない。政党員の性格としては宗教よりもむしろ政治的利害関係に関心が深いと見られる。

いままでハムザ・ハム前副大統領のもとにまとまっていたが、ハムザ・ハズの引退に伴い求心力が失われつつある。今回、ハムザ・ハズが推進してきたメガワティ支持路線(国民同盟)が敗れると、すぐさま国民同盟を脱退してSBY陣営に馳せ参じた。

PKSは若手のイスラム原理主義運動家が多く、これまた他の政党とは相容れないものがある。PBB(月星党)もイスラム原理主義的な主張が強いが、PKSの若手グループとは違和感を持っている。

なお、検事総長のアブドゥル・ラーマン・サレー(Abdul Rahman Saleh)は最高裁判事であるがPBBのYusril Ihza Mahendra党首に近い人物であり、 かってPBB副党首でもあった。

彼は弁護士出身で、若いときには映画俳優もやっていたという変り種である。2000年から最高裁判事を務め、アクバル・タンジュン汚職事件を担当した。有罪を主張したのは彼のみであった。彼は性格的には大人しいタイプといわれている。

SBYはもともとマルシラム・シマンジュンタク(Marsillam Simandjuntak=ワヒド政権末期に短期間検事総長を務める)を起用する予定であったが、彼がキリスト教徒であことと、イスラム過激派に対して「厳しい態度」で臨んだとしてPKSのヒデヤット党首から強い反対を受けたといわれる。

これのイスラム諸政党は、一時的にはまとまるが(1999年大統領選挙の時)、すぐに喧嘩別れしてしまう。インドネシアでは異なる政党、流派(アリラン)がお互いに真に融合することはないといわれている。

これを「アリラン現象」といって説明する政治学者もいるが、融合しなくても妥協点を見つけて何とかやっていくのが民主政治の知恵でもある。今回SBYはこの内閣を「団結内閣=United Cabinet」と称しているが、切実感のある表現である。

SBYとしてはこれらイスラム政党の「うるさ型」に気を使いながら政策運営を行っていかざるをえず、勢い政策も保守的なものにならざるをえない。特にイスラム諸政党は反米感情が強いだけにやりにくいことおびただしいであろう。

なお、上の表にPKPI(インドネシア公正統一党)とあるのは元国防相エディ・スドラジャットが作った政党で、ハッタ元副大統領の娘のマウティア・ハリダが所属している。

また、ユスフ・カラ、アブリザール・バクリ、ハフミ・イドリスはゴルカル党の幹部である(であった)が、ゴルカル党から離れた個人の立場で入閣しているた。アクバル・タンジュン率いるゴルカルはPDI-Pと組んで国民連盟として野党としてやっていく。

 

⇒PKB(グス・ドゥル率いる国民覚醒党)早くも与党連合から離脱の動き(04年10月27日)

SBY 政権の支持政党連合である「人民連合=People's Coalition」すななち、PD(民主党)、PKS(正義福祉党)、PPP(開発統一党)、PAN(国民信託党)、PBB(月星党)などから、PKB(国民覚醒党=52議席)が離脱し、ゴルカルとPDI-Pの国民同盟に鞍替えしてしまった。

これによって野党の国民同盟が国会の全委員会の委員長ポストを独占できる見通しになった。このことに反発して、与党連合の5党は

国会審議をボイコットしている。SBY の国会運営はまさに前途多難である。

(特徴の3)

軍の関係では陸軍軍人が治安担当閣僚にはなっていないことが注目される。政治・治安担当の調整相はウィドド海軍提督である。彼はワヒド政権で国軍司令官を勤めたことがある。海軍出身者がその地位に就くことは異例中の異例である。

ただし、軍改革のイニシアチブをとったという形跡はあまり見られない。ある意味では敵を作らない円満な調整型の人物なのであろう。

国防相にはユスフ・スダルソノが就任した。彼は軍人ではなく、軍学校の教官という立場の「学者」であった。彼はワヒド政権で国防相に起用された経験がある。その時、彼は軍の国家予算が異常に少なく、必要経費の25-30%しか充当されていないことを明らかにした。

これが、軍の汚職の原因でもあるし、兵士の給与を低いものにし、質の高い兵士が集められず、かつ兵士も悪事を働く原因になることを指摘した。彼は国軍改革を軍事専門家の立場から提言したまじめな人物と見られている。

もう1人の海軍提督のフレディ・ヌンベリ(Freddy Numberi)は海洋資源担当相に就任した。彼はワヒド政権時代には行政改革担当相であった。あまり実績を上げたという話は聞かれなかった。

陸軍軍人ではスディ・シラハリ(Sudi Silalahi)退役中将が内閣官房長官に就任している。このポストは目立たないが,内閣のカナメとも言うべきポストである。おそらく、副大統領に近いくらいの権限を持っているものと考えられる。

彼はSBYと30年来の友人であり、かつ策士であると言われている。スハルト時代のアリ・ムルトポにある意味では似ている。ただし、アリ・ムルトポほど徹底した悪ではないであろうがSBYの政治資金についても彼が取り仕切っているはずである。

閣僚の中に、陸軍軍人を1人しか入れずに、国防相を文民にしたのはSBYが軍隊の文民統制(シビリアン・コントロール)を表看板にしたかったからである。もともとSBYは軍人出身でスハルトにも近い人物であったという風評を気にしている。

軍人風が吹き始めるとたちどころに市民・学生からの猛烈な攻撃にさらされるというのが今のインドネシアの政治的な雰囲気である。しかし、SBYが本当に頼りにしているのは陸軍である。

そこでSBYは経済についてはアメリカの大統領府のように「経済諮問委員会」、軍事については「軍事・治安諮問委員会」的なものを作って、閣外の「有識者」を集めて、行政の補助体制を作ろうという考えである。

これには、閣外の「実力者」がゴロゴロと入ってくることは間違いない。次の国軍司令官といわれるリャミザード(陸軍参謀総長で最もタカ派的軍人であることで知られる)などが入ってきて、実質的な軍事戦略を決めていくであろう。

そういう中で、陸軍軍人が勢力を盛り返して来ることは想像に難くない。リャミザード「国軍司令官」体制の中でどういう軍幹部が形成されていくかが注目されるが、あまり軍改革の方向に向かっていくとは思われない。彼らが狙っているのは「 軍の復権」である。

経済のほうも華人であるということで入閣できなかったソフィアン・ワナンディなどが入ってきて「親華僑、親中国、親シンガポール」経済政策を推進していくであろう。華人系の、マリ・パンゲツ(馮慧蘭)貿易相も中国貿易推進派である。

ただし、ユスフ・カラとアブリザール・バクリがプリ・ブミ(原インドネシア人)資本家なのでその辺がどうなるかは今後を見ないと判らない。 とりあえずは華人系はマリ・パンゲツしか入閣しなかった。

 

83-4. 議会はゴルカル、PDI-P主導に(04年10月29日)

国会の11の常任委員会の委員長ポストのうち10のポストが埋まったが、ゴルカルが5つの委員長ポストを占め、PDI-Pが4委員会、PKB(国民覚醒党)が1委員会と野党連合(国民連合)が全委員会委員長(1委員会だけ未定)となった。

特に、最初SBYを支持していたグス・ドゥルの率いるPKBが閣僚ポストを3つも与えられながら、与党連合(人民連合)を離脱してしまったことが大きく響いている。

これでSBY政権の議会運営はいっそう難しくなってきた。ただし、野党との話し合いをきめ細かくやっていけば、それほど大きな対立にはならなくてすむはずである。

オルバ勢力の意向に沿った政策はかなり厳しいチェックを受けることになるであろう。また、PKSのようなイスラム原理主義派が横車を押せば法案は一切通らないことになりかねない。

ただし、ゴルカル党内でアクバル・タンジュンが失脚すれば今度は逆にSBYの独走が可能になる。年内に行われるゴルカルの党大会が今後のインドネシアの政局を左右する大きな要因になる。

議会は早速、リャミザード国軍参謀長の国軍司令官(任免権は国会が持っている)への昇格を拒否する動きにでている。リャミザードという人物の危険性についてはすでに議会関係者は熟知しているようである。SBYも同じ見方かもしれない。

⇒その後、ゴルカル党首に副大統領ユスフ・カラが就任し、アクバル・タンジュンが追放されたことによって、ゴルカルは与党陣営にはいった。しかし、今度はイスラム諸政党が次第にSBYと距離を置き はじめた。PKSも党員の半数以上がSBY政権を支持していないといわれる。

 

83-5. ようやく国会正常化へ(04年11月9日)

野党の「国民連合」とPKBに主導権を握られ、与党の「人民連合」が国会をボイコットするという異常な事態が続き、SBY 政権は発足そうそう議会が機能しないという思いがけないトラブルに陥っていた。

問題の焦点は2つあって、1つは常任委員会の委員長ポストを野党連合が独占してしまったことと、2つ目は国軍司令官の任命をめぐるSBY と国会(正しくは野党連合)との対立である。

これは、メガワティが任期切れの直前に国軍司令官であるエンドリアルトノ・スタルトが辞表を提出し、彼女がそれを受理し、後任は国会が決める(という決まりになっている)ということでSBY に引き継がれた。

そこで国会はリャミザード国軍参謀総長を国軍司令官に選らぶという手続きをとったのである。ところがSBY はスタルト国軍司令官の辞任を認めないと言い出したのである。現在も国軍司令官の任務はスタルトが果たしている。

メガワティの権限ですすめた「行政措置」を何の根拠もなく後任のSBY が無視し、ひっくり返したことになってしまったという形になって、SBY は批判されている。

しかし、SBY は軍人出身であり、国軍の人事についてはSBY が大統領に就任してから決めるべきものであろうというのが彼の論理であった。そのため、後任のリャミザールの立場はきわめて微妙なものになった。

もしかすると、SBY はリャミザードが国軍司令官ではまずいと思っているのかもしれない。その辺は表立って議論はされていないが、今回の騒ぎは単にSBYと野党連合の面子問題だけではなさそうである。

国軍司令官問題と国会の機能停止状態についてはPANのアーミン・ライスがSBYに苦言を呈していた。

このままではPANも与党連合から離脱する可能性も出てきたため、話し合いが持たれ、常任委員会の委員長の割り振りについても与党連合にいくつか割り振るということで、ようやく妥協が成立したもようである。

国会の運営については出席議員の過半数があれば議会は成立するということにするようである。今までは出席議員以外に出席政党数も過半数でなければならないというルールがあったようである(与党の主張)。それがいわば少数与党連合の最後の砦だった。

議会が正常化しても野党連合が多数を占めておりSBY 政権は何かと野党側のチェックを受け、やりにくいことは確かである。しかし、そのほうが健全な政治運営ができる可能性が高い。もしかすると日本よりはましかもしれない。

⇒エンドリアルトノ国軍司令官の地位に留まるー議会承認(04年12月3日)

SBYと議会の間でもめていたエンドリアルトノ・スタルト国軍司令官の地位問題については議会の国防委員会がエンドリアルトノ司令官を喚問し、質疑応答を行った。その結果、同司令官の留任を事実上了承した。

いきさつは上に述べたとおりであるが、SBY就任の直前に出された同司令官の辞表をメガワティが受理したが、SBYはそれを無効とし、任免権限を持つ議会と対立していた。ただし、議会としてはSBYからの直接の説明をあくまで要求していく構えである。

エンドリアルトノ司令官は「大統領の承認なしに司令官を勝手に辞めるわけにはいかない」という説明を議会側は受け入れざるを得なかった。

もっとも、後任に議せられていたリャミザール参謀長よりはエンドリアルトノ司令官の方が、国軍改革に取り組む姿勢が「素直」であることは衆目の一致するところである。

リャミザールは極度にタカ派であり、彼が国軍司令官の地位に就いたら実際何をやらかすかわからない不気味さを持っている。

インドネシア国軍の兵力は陸軍=268,661名、海軍=53,913名、空軍=24,698名、合計347,272名である。

 

83-6. 昔の名前で出ていますー情報部長にシレガール退役少将(04年12月9日)

メガワティ政権の終わりと主に退任したヘンドロプリヨノ情報相の後任として登場したのがスハルト政権時代の情報部長のシャムシール・シレガール(Sjamsir Siregar)退役少将というのはいささかの驚きをもって迎えられた。

インドネシア国軍では55歳定年という規定があって、ほとんどの将官は55歳で退任するが、スハルト時代に情報部長を務め、勇名をはせたシレガールがなんと63歳(1941年生まれ)になって情報部長にカムバックした。

シレガールがカム・バックした理由は単純明快である。彼はSBYの選挙参謀を務めていたからである。はっきりいって論功行賞である。

いかし、シレガールはただのジサマではない。彼は知る人ぞ知る、「先制攻撃」論者である。テロ・リストの容疑をかけられたら事前に逮捕され、下手をすると、適当に「処分」される可能性が出てきた。「人権抑圧」にかけては腕に覚えがある人物である。

別に相手はテロリストとは限らない。SBYの政敵に対しても何をやりだすかわからない危険人物である。

また、シレガールは情報部長として1996年7月27日の民主党襲撃事件の指揮を執った人物としても知られている。このときメガワティ一派はジャカルタの民主党事務所から暴力的に排除されたのである。 死者も出た。

しかし、シレガールはこの作戦には消極的であったといわれている。(Tempo,04年12月14-20号)

このときの記事を「大々的に書かなかったから、日本企業のインドネシア進出には影響ないであろう」とわざわざスハルト大統領に面談して言上した日本の大新聞社の社長がいたことは日本の新聞の「姿勢」を遺憾なく示した事件であった。

シレガールは96年の10月に彼は55歳の定年で退役した。その後、バリサン・ナショナル(Barisan Nasional=国民戦線)と称する、退役軍人のOBからなる一種の政治団体を作り、その幹部として活躍する。

バリサン・ナショナルはハビビ元大統領(スハルトの後継)がイスラム志向を強めたことに対する危機感から組織されたとしている。ゴルカルの元幹部(軍人)も参加した。

彼らは、ついにSBYという格好のタマを見つけ大統領に担ぎ出したのである。彼は隠居仕事で情報部長などやるつもりはないであろう。いずれ事件を引き起こす可能性は高い。

シレガール的な要素(タカ派的)がSBYにもあることは忘れてはならない。

 

83-7. スギアルト国営企業担当相に早くも辞職要求(04年12月14日)

SBYの与党の民主党から早くも国営企業担当相のスギアルト(Sugiharto)に対する辞職要求が出ている。

民主党の国会副代表のシャリェフ・ハッサン(Syarief Hasan)はSBY 大統領に対し、スギアルトが閣僚就任以前に所属していた銀行の詐欺事件に関与していたとして、解任を求める書状を送った。

PAN(国民信託党=アーミン・ライス党首)のリザル・ジャリル(Rizal Djalil)副党首もスギハルトに面談し、内閣のマイナスにならないように、辞任することを要求したという。

国営企業担当相は「国営企業の民営化」を今後進めていくにあたって、いろいろ「汚職のたね」が転がっており、前歴の怪しい人物が担当していると、何かにつけ「良くない噂」を立てられかねない。前任のラクサマナでさえも汚職疑惑で悩まされている。

スギアルトの場合はインドネシア銀行(中央銀行)からブラック・リストに載せられ、2006年までは「銀行業務につくことを禁止されている」いわば、札付きの人物だったのである。

スギアルトは1999年にヒンプナン・ソーダラ(Himpunan Saudara)1906銀行の監査役であった当時、11の金融機関を通じて「異常に巨額な」ローンを不正な手続きで引き出し、コゲつかせてしまった前歴がある。

また、セメント会社のPT.Semen Gombong 向けの融資であるとして割り当てられていた100億ルピアを彼の銀行 の資本金に流用したといわれる。それによって銀行のCAR(適正自己資本比率)4%をクリアーした。

スギアルトはPPP(開発統一党=ハムザ・ハムが前の党首)の党員でありながら、SBY支持者として活躍し、SBY 当選後はPPPを国民同盟(ゴルカル・PDI-Pを中心とする野党連合)から、SBYの与党連合に鞍替えさせる立役者でもあった。

また、スギアルトはPDI-Pの元幹部アリフィン・パニゴロが経営する石油会社のMEDCOの元役員でもある。ここでも、彼は担保に入っていたメガ・カスピアン石油社の株式25%をメドコに移してしまった。

スギアルトはその銀行はバンドンにあり、スギアルト自身は普段ジャカルタ(たいした距離ではない)にいるのでほとんど経営にはタッチしていないし、インドネシア銀行のブラック・リストというのは見たことがないとシラを切っている。

スギアルトに限らず、SBY の周辺には胡散臭い人物がゴロゴロしているのである。

 

83-8. SBYの足を引っ張り始めたユスフ・カラ副大統領(05年1月25日)

ユスフ・カラ副大統領はアクバル・タンジュンを蹴落として、ゴルカル(国会議員数128名で第1党)の党首となり、政治的なパワーが急上昇したと錯覚し始めた。

最近、何かにつけ、SBY大統領をないがしろにするかのごとき行動に出始めたのである。いわゆる「舞い上がり」症候群ともいうべきものである。従来大統領にしか与えられていない特別行政命令を何と副大統領が出し始めたのである。

さすがにこれは、あちこちから批判が出て引っ込めたが、彼自身SBYをしのぐ権力を持っていると錯覚し始めたのだからどうしようもない。確かにSBY の民主党は55議席しか持っていないのだからユスフ・カラがふんぞり返るのはわからぬではない。

しかし、副大統領というのはあくまで大統領のアシスタントであり、いわば「添え物』でしかない。

今回の、津波事件においても真っ先にアチェに飛び、現場の実態を無視した指示を連発し、かえって混乱を増幅させたといわれている。彼はろくな調整もせずに「国民災害対策、避難民調整委員会(Bakornas PBP)」なる組織を作り上げ、全体の復旧・支援対策本部にしようとした。

しかし、それは現地で実権を握る国軍や外国からの支援を受け入れる窓口となるべき外務省などとほとんどすり合わせができていないから大混乱を招いた。

結局、SBY がBakornas PBPの再編を命令し、ようやく形をつけたが、実際は国軍が取り仕切っており、ジャカルタ政府からはアルウィ・シハブ国民福祉調整相が事務方のトップとして現地に常駐して調整を行うことになった。

しかし、アルウィ調整相はスタッフも少なく、アチェ州知事のプテェも汚職容疑でブタ箱に入っており(数日前出所したが)、国軍のペースで仕事を進めざるを得なかったというのが実態であろう。要するに軍のやり方を追認するというのが彼の仕事になってしまったのである。

一方、ジャカルタではユスフ・カラが勝手にさまざまな文書をあちこちに配り始めた。そのひとつが「政府と議会の諍い」をバラした文書をあちこちにばら撒いたという事件である。

副大統領秘書官プリヨノ(Prijono Tjiptoherijanto)がユスフ・カラの指示を誤解して勝手な文書をばら撒いたとして、ユスフ・カラは責任を秘書官に転嫁してしまった。ところが、このプリヨノはインドネシア大学で行政学を講義する有能な講師でもあった。

プリヨノは前任のハムザ・ハズ副大統領の秘書官も無事こなしており、がそんなつまらないヘマをやるような人物ではないというのが周囲の評価である。プリヨノは憤然として(多分)辞表を提出し、秘書官を辞めてしまった。

これから、どうなるかは判らないが、ユスフ・カラという人物は2代目のボンボン経営者であり、プリブミ(原インドネシア人=非華僑)だということでスハルトの庇護を受けて富を築いて政治家になった男である。典型的な「オルバ」人間である。

軍人としては教養人に属するSBYとはタイプが違いすぎる。この両者がこれからもうまくやっていくのは可なり難しい。ユスフ・カラは副大統領らしくおとなしくしていればよいのだが、何かを勘違いして舞い上がってしまって手が付けられない状態である。

SBY大統領はまさに前途多難である。まともな政治をやろうとすれば、議会で野党の地位にいるメガワティのPDI-Pやグス・ドゥルのPKBと改めて協力関係を模索していかなければならない。

PDI-Pは3月の党大会でメガワティが辞任すればSBYとの対話はより容易になるであろう。しかし、SBY がその気になれば、結構うまくやれるかもしれない。悪は悪で固まって、旗幟鮮明になってきつつある。

 

83-9. アルウィ・シュワブ調整相が党首の座を奪ったPKBを訴える(05年3月28日)

PKB(国民覚醒党)の党首であったが、SBY政権の政治・法律・治安調整相は同党から党首の座を追われたが、それを不服としてPKBを訴訟した(3月27日)。

また、グス・ドゥルの甥でPKBの書記長であった低開発地域開発相のシャイフラ・ユスフも書記長を解任されたことを不服として提訴に踏み切った。

PKBとしては閣僚に就任した者は党のトップに立つことは不可能ということで解任した者と見られる。しかし、副大統領のユスフィ・カラは強引にゴルカルの党首に就任したことは既に見たとおりである。

PKBの本音は同党としてはゴルカルが主導権を握ったSBY政権と一線を画する意図があることは明らかである。

また、アルウィ・シュワブ調整相はアチェでの言動をみても判るとおり(現地軍のマウス・ピースになってしまった)、識見や能力に限界があると見ての事であろう。

 

83-10、SBYの訪中、75億ドルの取引を決める ートミー・ウィナタが浮上か?(05年7月31日)

SBYは中国を訪問し、7月29日(金)に中国政府と70億ドルに及ぶエネルギーとインフラについての取引協定を調印した。中国側は副首相の曽培炎(Zhen Pey Yan)が署名した。

4つの主要な下記の通り、プロジェクトは南スマトラの2基の火力発電所、Tuban(東ジャワ)の石油精製設備、南スマトラの炭鉱からの石炭積み出し鉄道建設である。

インドネシア商工会議所のMS ヒダヤト会頭は「南スマトラの石炭資源開発がこれによって大幅に進む。プロジェクトの一部は今年中にスタートする。エネルギー開発については中国は日本に一歩先行した。中国のオファー価格は日本よりも35%も安い」と述べた。

その他のプロジェクトとしてはカリマンタンもマレーシアとの国境に沿った地点でのパーム油やし農園の開発、西ジャワの工業団地(450ヘクタール)の建設、Muara Enimと Lampungをつなぐ石炭がらみの鉄道建設があるという。

まあt、ヒダヤト会頭は、トミ-・ウィナタ(Tomy Winata)に言及し、トミーは広州の華人とのつながりが深く、今回のプロジェクトでは有利な立場に立つであろうことを示唆した。

トミー・ウィナタは軍系財閥のアルタ・グラハ(Artha Graha)グループのボスであり、テンポ社襲撃事件を起こしたり、闇賭博の総元締めであるとの嫌疑をかけられたりしたこともある、あまり評判がよいとはいえない人物である。

SBYの大統領選挙の資金源はアルタ・グラハではにかという噂もあった。ここでトミーの名前が出てくるということは、やっぱりそうかということになる。トミーは西ジャワの工業団地では最も先行しており、中国系企業を積極的に誘致すると見られている。

トミーはそれ以外のプロジェクトでもお積極的に手を出してくる可能性があり、スハルト政権発足時のサリム(林紹良)のごとき役割を果たす可能性もある。汚職追放をスローガンにしているSBYも次の選挙対策もあり、合法的資金入手の算段をそろそろ始めるかもしれない。

昨年の選挙で、SBYもあまり芳しくない人物・グループに借りを作っていたようである。 

(4大プロジェクト)

@Tuban製油所はプルタミナとSinopecとの合弁で建設され、24億ドルの投資を見込んでいる。

Aタンジュン・ジャティ(Tanjung Jati)の石炭火力発電所は660MW2基でChengda Engineering, Bakrie Power, MSH Groupe, Bank of Chinaの協力で建設され、建設資金は11億ドルを見込んでいる。

B南スマトの石炭火力発電所は600MW4基で建設資金は21億ドルが見込まれる。資金は中国開発銀行(China Development Bank),中国輸出入銀行(China Exim Bank)が担当し、建設はHua Dian Engineering, インドネシア・コンソーシアム、国営鉱山会社PT. Bukit Asamが担当する。

CPT Bukit Asamが所有する炭鉱からTanjung Enim とパレンバンを結ぶ鉄道建設には5億ドルの資金を投入する。

(覚書)

@南スマトラのBatu Rajaの100KW2基の石炭火力発電所の建設資金1億5000万ドル分については中国銀行が融資をおこなう。

A西ジャワのカラワン(ジャカルタの東方=Karawang)の450ヘクタールの工業団地建設資金は第1期で7,000万ドルとする。

BTanjung EnimとTarahanを結ぶ石炭運搬用の鉄道建設は6.5〜7.5億ドルとし、中国商工銀行が融資をおこなう。建設は中国鉄道建設公社( China Railways Engineering Corporation)がおこなう。

(武器輸入)

上記のエネルギー開発などのプロジェクト契約とは別にSBYは中国からの武器輸入についても話を取り決めてきたようである。彼れは記者団に対し「中国は武器の輸入にさいして、どこかの国と違ってアレコレ条件をつけないからいい」と暗に米国を批判したという。SBYにしてはつい口が滑ったというところか。

(Tempo, Jakarta Postの05年7月31日インターネット版参照)

 

117. スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領の訪日(05年6月3日)

昨年10月20日大統領に就任したスシロ・バンバン・ユドヨノ(SBY)は米国についで日本にもやってきた。今回は中国には行っていない。中国に真っ先に飛んでいったタイのタクシン首相とはだいぶ考え方が違うようである。

米国との懸案は米国がインドネシアにおこなっている「武器輸出」の解禁が最大の課題であった。

というのは、日本ではおよそ想像もつかないことであるが、1984年に東チモールの分離独立紛争が激化したときに、インドネシア軍が直接、間接に干渉し多くの東チモール人を虐殺した。

それは今でも、国際裁判の対象になっているが、米国ではクリントン政権がインドネシア国軍の非人道的行為に対し、武器輸出の禁止をおこなったのであった。

そのため、インドネシア軍は何が困ったかといえば、戦闘機やヘリコプターなどで米国から買った武器のの部品穂補充ができなくなったことであった。その結果、インドネシア軍のアチェ掃討作戦が可なりの支障をきたしている。

しかし、ブッシュ政権になってから、米国は米軍を東南アジアの主要地域に展開させたいという強い希望(これを米国の新帝国主義戦略と位置づける見方もある)を持っており、インドネシアとも何とか修復の機会を狙っていた。2002年10月のバリ島爆破事件が、そのよい機会になった。

すなわち、国際テロ、アルカイダの手先である「ジェマー・イスラミア」の存在というシナリオの創設である。これにはシンガポール政府も米国と一緒になって一役買った。ところが肝心のインドネシア国内ではジェマー・イスラミアの存在自体に疑問を持つ国民が多いため、これはうまくいっていない。

しかし、インドネシア政府は米国との関係修復が必要であり、SBYはまず米国に飛んでいたのである。一方、米国はインドネシアとの軍事協力関係の再構築を何よりも望んでおり、まもなく武器輸出のの禁止措置は解除されるであろう。

しかし、その前提としては米国はアチェ問題の解決を望んでいる。米国の武器輸出再開がアチェ攻撃に使われれば、米国はもとより国際世論(日本を除く?)は黙っていないからである。

その次にSBY大統領が日本にやってきた。その目的は「投資の誘致」である。製造業の投資がここ数年東南アジアから中国にシフトしてしまい、ただでさえ遅れていたインドネシアの工業化はいっそう見劣りがするようになった。

このままでは21世紀のインドネシア経済の展望は開けない。石油生産も1990年代の中頃には日産140万バーレル程度生産していたが、昨今は100万バーレルがやっとであり、石油(原油と製品)の貿易バランスは赤字になってしまった。

やはり、本格的な工業化をおこなわなければこれからやっていけない。1960年代後半にスハルト政権が成立してから一時外資を自由に受け入れるという雰囲気が出かかったが、スハルト自身がその動きをつぶしてしまった。(詳細は拙著「東南アジアの経済と歴史」をご覧ください。)

その後、1990年代に入ってタイやマレーシアを見習って、外資受け入れ自由化を少しずつやり始めたが、既に進出していた日本企業はインドネシアにはあまり出て行かなかった。それは「投資環境」が悪かったからである。

その最大の原因は汚職を初めとする「ハイ・コスト・エコノミー」体質である。人件費は中国並みかあるいはそれ以下であるが、余計な費用がかさんで(例えば通関諸掛りや税金)、結局、トータル・コストが高くなってしまうということになっていた。

SBYは大統領に就任するや、真っ先に「汚職撲滅運動」に取り組んでいる。その成果は徐々に出つつあるが、その汚職はきわめて広範囲に及んでいる。汚職は「インドネシアの文化」などとしたり顔に言う人もいるが、結局はスハルト政権時代の政治のゆがみの反映である。

日本にもスハルト賛美者がついこの間まで掃いて捨てるほどいた。「開発独裁」礼賛論である。アジア経済学者は「開発独裁論」者にあらざればヒトのあらずという雰囲気であった。

私にようにビジネスの世界にいた人間にとってはまさに笑止の沙汰であった。その学者の多くがが今なお大学で教壇に立っており、別に大して「反省」している様子も見られない。学会も牛耳っていて学問の進歩に相変わらず「貢献」している。

スハルトは自らの一族の利益と、それを取り巻くクローニーの利益確保のために不正を際限なくやってきたのである。そのためにむしろ外資をシャトオ・アウトするというとんでもないことをやってきた。

どこの国でもそうだが、役人や警察官や軍人は上のやることを良く観察していて、「上が不正を働けば、下はすぐそれを真似する」のである。インドネシアはそれが徹底していたに過ぎない。別にインドネシアの文化でもなんでない。

スハルトをトップとする支配層の腐敗と堕落が未だに尾を引いているのである。そういう意味ではメガワティの夫タウフィクもスハルトの小型版であったといわれている。昨年の選挙ではそれを見ていた国民が反撃をくわえた。

SBYの政治課題はいうまでもなくインドネシア経済を発展させて、国民の貧困を軽減させることである。そのためには工業先進国日本の手を借りるほかはない。だから、日本との「経済協力協定」には熱心に対応するはずである。

自由貿易協定もさほどの難問はない。コメも砂糖も輸入している。工業製品は主なものは外資がやっている。「地元資本」といっても民族資本はほとんど育っていない。いるのは華僑資本家ばかりであるといって過言ではない。

民族資本のチャンピオンとしてユスフ・カラ副大統領とアブリザル・バクリ経済調整相が政権に入っているが、彼らはたいした製造業を営んでいるわけではない。バクリは鋼管工場を持っており、それを「保護」するために躍起となるぐらいが問題点であろう。

それよりもインドネシアが狙っているのは「ヒトの移動」の自由化である。インドネシア人労働者はマレーシアだけでなく台湾、韓国などあらゆるところに進出している。

シンガポールなどではインドネシア人の「家政婦」が過酷に取り扱われたり、犯罪を犯して死刑になるものが続出するなど大きな問題となっている。日本にはとりあえず「看護婦を1万人」などといっている。(ジャkルタ・ポスト、6月3日)

さて日本政府としてはどう対応するかである。日本はこれから労働力が減少し、老人が増えれば、介護・看護をする人たちが足りなくなる。今いる看護婦たちの過重負担は既に限界に近づいている。今の介護制度もヒトの問題で早くも行き詰まりを見せている。

日本に単純労働力を受け入れれば、日本の低所得者が被害を受けることは確かである。しかし、職種によっては、非常な不足が生じているのも現実である。日本の「国家試験」を障壁にして「問題解決」を先延ばしにするなどということは最早できなくなってきている。

7月からの正式交渉を待たずに、介護補助員の問題だけでも早急に日本側の基本方針を作成する必要がある。

昨年10月20日大統領に就任したスシロ・バンバン・ユドヨノ(SBY)は米国についで日本にもやってきた。今回は中国には行っていない。中国に真っ先に飛んでいったタイのタクシン首相とはだいぶ考え方が違うようである。

米国との懸案は米国がインドネシアにおこなっている「武器輸出」の解禁が最大の課題であった。

というのは、日本ではおよそ想像もつかないことであるが、1984年に東チモールの分離独立紛争が激化したときに、インドネシア軍が直接、間接に干渉し多くの東チモール人を虐殺した。

それは今でも、国際裁判の対象になっているが、米国ではクリントン政権がインドネシア国軍の非人道的行為に対し、武器輸出の禁止をおこなったのであった。

そのため、インドネシア軍は何が困ったかといえば、戦闘機やヘリコプターなどで米国から買った武器のの部品穂補充ができなくなったことであった。その結果、インドネシア軍のアチェ掃討作戦が可なりの支障をきたしている。

しかし、ブッシュ政権になってから、米国は米軍を東南アジアの主要地域に展開させたいという強い希望(これを米国の新帝国主義戦略と位置づける見方もある)を持っており、インドネシアとも何とか修復の機会を狙っていた。2002年10月のバリ島爆破事件が、そのよい機会になった。

すなわち、国際テロ、アルカイダの手先である「ジェマー・イスラミア」の存在というシナリオの創設である。これにはシンガポール政府も米国と一緒になって一役買った。ところが肝心のインドネシア国内ではジェマー・イスラミアの存在自体に疑問を持つ国民が多いため、これはうまくいっていない。

しかし、インドネシア政府は米国との関係修復が必要であり、SBYはまず米国に飛んでいたのである。一方、米国はインドネシアとの軍事協力関係の再構築を何よりも望んでおり、まもなく武器輸出のの禁止措置は解除されるであろう。

しかし、その前提としては米国はアチェ問題の解決を望んでいる。米国の武器輸出再開がアチェ攻撃に使われれば、米国はもとより国際世論(日本を除く?)は黙っていないからである。

その次にSBY大統領が日本にやってきた。その目的は「投資の誘致」である。製造業の投資がここ数年東南アジアから中国にシフトしてしまい、ただでさえ遅れていたインドネシアの工業化はいっそう見劣りがするようになった。

このままでは21世紀のインドネシア経済の展望は開けない。石油生産も1990年代の中頃には日産140万バーレル程度生産していたが、昨今は100万バーレルがやっとであり、石油(原油と製品)の貿易バランスは赤字になってしまった。

やはり、本格的な工業化をおこなわなければこれからやっていけない。1960年代後半にスハルト政権が成立してから一時外資を自由に受け入れるという雰囲気が出かかったが、スハルト自身がその動きをつぶしてしまった。(詳細は拙著「東南アジアの経済と歴史」をご覧ください。)

その後、1990年代に入ってタイやマレーシアを見習って、外資受け入れ自由化を少しずつやり始めたが、既に進出していた日本企業はインドネシアにはあまり出て行かなかった。それは「投資環境」が悪かったからである。

その最大の原因は汚職を初めとする「ハイ・コスト・エコノミー」体質である。人件費は中国並みかあるいはそれ以下であるが、余計な費用がかさんで(例えば通関諸掛りや税金)、結局、トータル・コストが高くなってしまうということになっていた。

SBYは大統領に就任するや、真っ先に「汚職撲滅運動」に取り組んでいる。その成果は徐々に出つつあるが、その汚職はきわめて広範囲に及んでいる。汚職は「インドネシアの文化」などとしたり顔に言う人もいるが、結局はスハルト政権時代の政治のゆがみの反映である。

日本にもスハルト賛美者がついこの間まで掃いて捨てるほどいた。「開発独裁」礼賛論である。アジア経済学者は「開発独裁論」者にあらざればヒトのあらずという雰囲気であった。

私にようにビジネスの世界にいた人間にとってはまさに笑止の沙汰であった。その学者の多くがが今なお大学で教壇に立っており、別に大して「反省」している様子も見られない。学会も牛耳っていて学問の進歩に相変わらず「貢献」している。

スハルトは自らの一族の利益と、それを取り巻くクローニーの利益確保のために不正を際限なくやってきたのである。そのためにむしろ外資をシャトオ・アウトするというとんでもないことをやってきた。

どこの国でもそうだが、役人や警察官や軍人は上のやることを良く観察していて、「上が不正を働けば、下はすぐそれを真似する」のである。インドネシアはそれが徹底していたに過ぎない。別にインドネシアの文化でもなんでない。

スハルトをトップとする支配層の腐敗と堕落が未だに尾を引いているのである。そういう意味ではメガワティの夫タウフィクもスハルトの小型版であったといわれている。昨年の選挙ではそれを見ていた国民が反撃をくわえた。

SBYの政治課題はいうまでもなくインドネシア経済を発展させて、国民の貧困を軽減させることである。そのためには工業先進国日本の手を借りるほかはない。だから、日本との「経済協力協定」には熱心に対応するはずである。

自由貿易協定もさほどの難問はない。コメも砂糖も輸入している。工業製品は主なものは外資がやっている。「地元資本」といっても民族資本はほとんど育っていない。いるのは華僑資本家ばかりであるといって過言ではない。

民族資本のチャンピオンとしてユスフ・カラ副大統領とアブリザル・バクリ経済調整相が政権に入っているが、彼らはたいした製造業を営んでいるわけではない。バクリは鋼管工場を持っており、それを「保護」するために躍起となるぐらいが問題点であろう。

それよりもインドネシアが狙っているのは「ヒトの移動」の自由化である。インドネシア人労働者はマレーシアだけでなく台湾、韓国などあらゆるところに進出している。

シンガポールなどではインドネシア人の「家政婦」が過酷に取り扱われたり、犯罪を犯して死刑になるものが続出するなど大きな問題となっている。日本にはとりあえず「看護婦を1万人」などといっている。(ジャkルタ・ポスト、6月3日)

さて日本政府としてはどう対応するかである。日本はこれから労働力が減少し、老人が増えれば、介護・看護をする人たちが足りなくなる。今いる看護婦たちの過重負担は既に限界に近づいている。今の介護制度もヒトの問題で早くも行き詰まりを見せている。

日本に単純労働力を受け入れれば、日本の低所得者が被害を受けることは確かである。しかし、職種によっては、非常な不足が生じているのも現実である。日本の「国家試験」を障壁にして「問題解決」を先延ばしにするなどということは最早できなくなってきている。

7月からの正式交渉を待たずに、介護補助員の問題だけでも早急に日本側の基本方針を作成する必要がある。

83-11.内閣改造ブディオノが経済調整相に就任(05年12月6日)

SBY大統領は経済閣僚を中心とした内閣改造 をおこなうこと年、12月5日(月)出張先のジョクジャカルタで発表した。ポイントは経済調整相のアブリザール・バクリの更迭にあったと思われる。認証式は12月7日(水)におこなわれる。

正式発表によると経済調整相のアブリザール・バクリ(Aburizal Bakrie)が交代させられ、ブディオノ(Boediono)前財務相(メガワティ政権時代)が新たに経済調整相に就任する。ブディオノは現在ガジャマダ大学経済学部教授 である。

アブリザール・バクリはアリ・シュワブ(Alwi Shihab)に替わって国民福祉調整相 に就任する。アリ・シュワブは退任し、大統領顧問と中近東地区担当の特使としてOIC(イスラム会議機構)とIDB(Islam Development Bank)へのインドネシア代表などを務める。

経済企画庁長官のスリ・ムルヤニ・インドラワティ(Sri Mulyani Indrawati=女性)は財務相に就任し、現職のユスフ・アヌワール(Jusuf Anwar)は退任する。 ユスフはどこかの重要な国への大使に転出する(現在未定)。

経済企画庁長官にはパスカ・スゼッタ(Paska Suzetta)がゴルカル党から入閣する。パスカは現在国会の第9委員会(財務)の委員長である。

特にアブリザール・バクリはビジネスマンであり「利害衝突」する立場にあり、しばしば問題点を指摘されており、また能力的にも経済調整相というポストはビジネス感覚以外の経済的な 広い常識が求められるポジションであった。

ブデイオノは硬骨漢として知られ、また清廉な人柄といわれ内外での評判は高かった。 彼は当初から入閣を要請されていたが、アブリザールのもとで経済担当相を務める気が無かったのと、メガワティへの遠慮もあったといわれる。

工業相のポストにはビジネス・マンのファフミ・イドリス(Fahmi Idris)労働・移住相が就任する。現職のアンドゥン・ニティハルジョ(Andung Nitimihardja) は退任する。

ファフミ・イドリス(Fahmi Idris)は元学士運動活動家(スカルノ追い落とし)でスハルト体制下で財をなし、クラマ・ユダという自動車会社(ストウ一族の所有、三菱系)の社長を務めていた。労働組合からはあまり評判はよくなかった。

労働・移住相にはエルマン・スパルノ(Erman Soeparno)が就任する。エルマンはPKBの国会議員で現在は第5委員会(通信・インフラ)の副委員長を務める。

内閣改造一覧表

  新任 前任者
経済調整相 ブディオノ(Boediono) アブリザール・バクリ(Aburizal Bakrie)
国民福祉調整相 アブリザール・バクリ(Aburizal Bakrie) アリ・シュワブ(Alwi Shihab)
財務相 スリ・ムルヤニ(Sri Mulyani Indrawati) ユスフ・アヌワール(Jusuf Anwar)
経済企画庁長官 パスカ・スゼッタ(Paska Suzetta) スリ・ムルヤニ(Sri Mulyani Indrawati)
労働・移住相 エルマン・スパルノ(Erman Soeparno) ファフミ・イドリス(Fahmi Idris)
工業相 ファフミ・イドリス(Fahmi Idris) アンドゥン・ニティハルジョ(Andung Nitimihardja)
大統領顧問・中近東地区担当特使 アリ・シュワブ(Alwi Shihab) なし

出所;ジャカルタ・ポスト、12月6日版

 

83-12. グス・ドゥルの娘イェニーがSBY大統領の顧問に(06年1月29日)

ユドヨノ(SBY)大統領は元大統領のグス・ドゥル(アブドゥラマン・ワヒド)の娘のイェニー(Yenny Zannuba Wahid)を専門アドバイアーの1人として任命したと大統領報道官が発表した。

イェニーはグス・ドゥルが現職大統領のとき、目の不定な大統領に常時付き添って、業務を輔佐していた。イェニーがSBYのスタッフに加わることによって現在実質的に野党の立場にあるPKB(国民覚醒党)もかなりSBY政権に近づくことも考えられる。

おそらくグス・ドゥルとしても汚職退治や国軍改革などで比較的「善政」をしきつつあるSBYに対しては「是々非々」主義で臨もうとしている様子も見え、SBYの政治的基盤はこれで一歩、強化されたという見方が可能であろう。

ただし、目下のところはグス・ドゥル自身、娘がSBYの顧問団に加わったからといってPKBの野党としての立場は変わらないと述べている。

また、SBYはメガワティ前大統領の妹のラフマワティ(Rachmawati Soekarnoputri)も内閣顧問委員会のメンバーに加えようとしているという。

ラフマワティはメガワティとは一線を画しており、スカルノ支持者が依然として根強い勢力を維持しているインドネシア政界ではSBYにとっても支持基盤拡大に役立つと踏んでいるものと思われる。

特にSBYが「汚職退治」にかなり本気で取り組んでいる様子が伺え、これは国民的な支持を受けつつある。この辺が日本の小泉政権の「何でもあり」的な「市場原理主義的改革路線」とは質的に違うところであろう。

 

83-13. SBY大統領が作った改革促進特別チームへの支持広がる(06年11月8日)

SBY大統領は06年9月に大統領の改革プログラムを監視し、統制し、促進する目的でマリシラム・シマンジュンタク(Marsilam Simanjuntak)を長とする「特別チーム」を作り、シマンジュンタクに閣議にも出席する権限を与えた。

Presidential Unit for the Mangement of  Reform Programs=UKP3R というのがその名称であり、10月26日にヘッドの人選が決まり、動き出したばかりである。 マリシラムは元検事総長でありグス・ドゥル内閣では司法・人権相のはか行政改革担当相も経験している清廉な実力派として知られている。

しかし、これには議会第1党のゴルカルが横槍をいれ、猛反対を繰り広げている。反対の首謀者はいうまでもなくゴルカル党首のユスフ・カラ副大統領である。

カラはSBYが軍人出身でドロドロした政治的駆け引きに弱い点をついて、アブリザル・バクリ社会福祉担当調整相と組んで、勝手気ままにふるまっているという風評が絶えず、それに気が付いたSBYとかなりギクシャクした関係にあるといわれている。

この「特別チーム」はカラからすれば自分の行動をチェックする狙いを持っていると解釈しているようである。ゴルカルの言い分としては「特別チーム」は閣僚をないがしろにするものであるということである。

しかし、識者の多くはインドネシアにとっては今が「改革の正念場」であるという認識を持っており、SBYへの応援団が急増しているという。

これはいうまでもなく、カラやバクリに任せておいたら、オルバ時代(スハルト時代)に逆戻りし、インドネシアが一部の利権屋に食い物にされかねないという危機感からである。実際、カラやバクリの行動をみているとそのように映っても仕方がない点は無きにしも非ずである。

SBYへのこの問題への熱烈な支持は「国民協議会(国会とは別の地方代表者の会議)」のラ・オデ・イダ(La Ode Ida)副議長からも寄せられている。ラ・オデは「今までSBYが約束してきた改革はほとんど進んでいない。こういうチームを作って効率的かつ積極的に改革を進める必要がある」と強調している。

カラは古い体質の手練手管の政治家であり、改革を進めるなどということはおよそ経験したことも考えたこともないのではないかと酷評する向きもある。カラとバクリがゴルカルの党大会でアクバル・タンジュンを追放して、党を乗っ取ったやり口をみていると、相当なワルであることが窺われる。

このチームが機能したからといって積年のインドネシアの病弊が一挙に払拭されるものではないが、国民各層に「現状改革のメッセージ」を送り続けるには、差し当たりこれしかないであろう。まさにSBYにとっては3年目の勝負どころである。

インドネシアでも問題の所在を正しく捉えやるべきことを命がけでやっている人もいるのである。

(http://www.thejakartapost.com/ 06年11月8日参照)

 

83-14. 東アジア・サミットを欠席してユドヨノ大統領が行った先は?(07年1月24日)

先ごろフィリピンのセブ島で開かれた東アジア・サミットの最終日(1月15日)に、ユドヨノ大統領はインドネシア国内に重要な予定があるといって欠席して帰国してしまった。

どんな急用が国内に待ち受けていたのだろうかという疑問が沸いてくるが、ジャカルタ・ポスト紙(1月27日、インターネット版)にその答えが出ていた。

当日は反ユドヨノの学生デモがジャカルタで予定されていた。しかし、ユドヨノの行った先はスラウェシであり、そこでの地元のテレビ局と砂糖工場の開所式であった。

東アジア・サミットよりもそちらが大事だという価値判断だったのであろうか?それとも、サミットに出席したくない別な事情があったのであろうか?

ジャクルタ・ポストはこれはご本人の性格の問題であろうということで、彼の指導者としての能力にまで言及している。インドネシアの言論の自由も相当なところまで進んできたものである。

理由の第1に考えられるのはジャカルタの学生デモである。しかし、最近の世論調査では67%の支持を得ているとされるユドヨノにとっては、大したデモにはならないことは最初から分かっていたはずである。事実デモ参加者も数百人で「線香花火」程度のものであった。

理由の2はスラウェシのテレビ局の開所式典への参加である。これは数ヶ月前からきまっており、06円12月のセブ島でのサミットが延期にならなければ当然出席したはずのモノである。今回、サミットと式典が不幸にも重なってしまった。

スラウェシは副大統領のユスフ・カラの地盤であり、ユドヨノが欠席すればカラが代理出席して、彼の政治宣伝に最大限利用するであろう。次の大統領選挙ではユスフ・カラはユドヨノに挑戦するつもりであるといわれている。

ユドヨノとしては何とかスラウェシにクサビを打ちこんでおきたいところである。

第3の理由はビルマ問題である。サミットと同じ時期に国連で安保理事会が開かれ、米国はミヤンマー決議案(アウンサンスーチー女史の自宅軟禁解除など人権問題)を提出し、中国とロシアが拒否権を発動しこれを潰してしまった。

非常任理事国のインドネシアはASEANの代表格でもあるが、この決議案になんと「棄権票」を入れてしまったのである。このニュースは東南アジアには中国の拒否権(人権問題にはたいていソッポを向いてきた)以上に大きなショックを与えたのである。

こんなニュースを抱え、さすがのユドヨノもサミットに出席し続けるのは気まずかったのではなかろうかということである。しかし、サミットへの出欠の是非はともかく、これからこの問題のツケはインドネシア自身が払わされることになる。

第4の理由は、東アジア・サミットなるものが既に「色あせた」存在になってしまっていることである。単なる、仲良しを不必要なまでに演出する「お芝居の舞台」になっているということである。

あれこれ悩んだ末ユドヨノとしてはスラウェシに出かけていって、そこの選挙民に存在感をアピールすることを選んだものと思われる。事実、東アジア・サミットの成果はナンであったろうか?必然性の乏しいものは長続きしない。

東アジア共同体などよりもWTOのドーハ・ラウンドを何とかまとめるということに政治的エネルギーを割いてっ貰いたいものだ。東アジア・サミットに先立つASEANの首脳会議でもWTO交渉再開がアピールされている。経済協力は東アジアに限らず世界中の途上国とやるべき問題である。

 

83-15.メガワティの闘争民主党、人気回復(07年3月16日)

2004年の総選挙と大統領選挙で大敗を喫したメガワティ率いるPDI−P(闘争民主党)はその後、ラクサマナなどの実力者が党を離れて、そのまま衰退に向かうと見られていたが、意外や意外最近の世論調査では人気ナンバー・ワンに返り咲いているという。

LSI(Indonesian Servey Circle)という2004年の選挙では大活躍をした世論調査機関がユドヨノ政権が前半を過ぎたばかりの、最近おこなった調査によると、1200人の回答者の支持政党は以下の通りであった。

 PDI-P  ゴルカル  民主党  PKS  PKB  PPP       PAN 支持政党なし
22.6 16.5 16.3 5.6 4.7 3.6   3.4 24.6

この中でひときは目を引くのが無能の烙印を押されたメガワティ率いるPDI-Pが22.2%の支持を集めトップである。ついで、いつもトップの座にあったスハルト時代からの政権与党であったゴルカルが16.5%と大分差をつけられている。

第3位がユドヨノ大統領の支持政党として新たに浮上した民主党(PD=旧民主党とは別)が16.3%とゴルカルと肩を並べている。2004年の選挙ではジャカルタでトップの得票を得た若いイスラム教徒の活動家の政党とも言うべきPKS(正義福祉党)が5.6%、PKB(国民覚醒党=グス・ドゥル元大統領の党)が4.7%、PPP(開発統一党=イスラム政党)が3.6%、PAN(国民信託党=アミン・ライスの党)が3.4%となった。

注目すべきは「支持政党なし」が24.6%と最も多いことである。実際の選挙になれば、これら無党派層がどう動くかによって勝敗は決まるという点では日本と似ている。

PDI-Pは地方では24.5%の支持を集め、都市部でも19.1%と支持率を回復してきているという。また、イスラム教徒の20.6%が支持しているのに対し、非イスラム教徒(華人が多い)の35%が支持しているという。

一方、ゴルカルの低下が目立つ。それはアクバル・タンジュンというインドネシアではまれに見る有能な組織指導者を追い出し、利権屋色の濃厚なユスフ・カラとアブリザール・バクリーが札束で代議員を買収して党を乗っ取ったが、その後の組織活動が大分ズレてきたことを如実に物語っている。

PKSは選挙が終わったらボスのヒダヤト・ヌル・ワヒ国民協議会の議長という名誉職をあてがわれて、それでオシマイになった感じがぬぐえない。党としてその後どういう日常活動をおこなっているのかはあまり聞こえてこない。

この世論調査では54.3%が「経済は悪化した」と答えており、「良くなっている」の16.7%ヲ大きく引き離している。インドネシアの工業化=外国製造業の誘致はサッパリ進んでいない。

しかし、「経済は俺に任せろ」と豪語したユスフ・カラ副大統領とアブリザール・バクリーは外資を呼びこむのはどうすべきかなどということを考えられるようなタイプの政治家ではない。この辺はメガワティ政権の経済閣僚とは最初から雲泥の差がある。

また、ユドヨノ政権下でスマトラ沖津波災害やジョクジャカルタの地震と津波や最近のジャカルタの大洪水(全市の75%が水につかる)などの災害が多発しており、またジェット機の事故も連続して起こっている。

インドネシアには迷信深い人も結構多く、これは政治家が悪いからだなどという風に短絡的に考える人も少なくない。ユドヨノ大統領も思い切った「本当の改革」を実行していかなければ、やはり「無能」の烙印を押されて大統領職を退く破目になりかねない。それには仕事の出来る閣僚を登用するのが先決である。

 

83-16.ユドヨノーカラ政権の支持率ついに過半数割れ(07年3月28日)

世論調査機関LSI(上記と同じ)がおこなったユドヨノ大統領ーユスフ・カラ副大統領への支持率についての調査結果では、政権発足以来はじめて過半数割れの49.7%となった。政権発足当初は80%の圧倒的支持(と期待)を受けていたが、昨年末は60%強にまで低下してきていた。

支持率低下の主因は経済が活性化するどころかむしろ不況感が漂い、失業者も増加しているという経済的ファクターが大きい。

地域別には知識層が多いジャワ島で支持率が低く、外島での支持率が高いという。外島部ではもともと工業化が進まず、農林水産業がほとんどで景気の変化もさほど感じらず、貧困ながらも失業者は少ないという事情がある。

ユスフ・カラの一族(実兄)が災害救助用だとしてドイツから中古ヘリコプター(10機)を輸入して関税を払わず、税関当局ともめている問題やバクリーのラピンド汚泥事件など主要閣僚の不始末が相次いでいる。

ユドヨノ大統領は支持率の低下について自覚しており、スタッフに要因分析と対策の立案を指示したという。

 

83-17. 内閣改造でユスリル官房長官ら更迭(07年5月8日)

ユドヨノ大統領は5月7日に内閣改造をおこなった。前回は05年12月であった。トミー・スハルトの疑惑送金を手助けしたといわれるユスリル・マヘンドラ国家官房長官とハミッド・アワルディン(Hamid Awaludin)は更迭された。

国営企業担当相に任命されたソフィヤン・ジャリル(Sofyan Djalils)はゴルカル党員だがSBYのブレーンといわれる人物である。

通信・情報相のムハマッド・ヌー(Muhammad Nuh)はスラバヤ工科大学の前学長である。

ラピンド事件を起こしたアブリザール・バクリーは国民福祉調整相の地位にとどまった。

司法兼人権関係相のアンディ・マッタラタ(Andi Mattalata)はゴルカル党員である。南スラウェシ出身でユスフ・カラ副大統領に近い人物であろう。

交通相のジュスマン・シャフェイ・ジャマル(Jusman Syafei Djamal) はバンドン工科大学出身の技術官僚で、1982年に国営航空機会社PT.ディガンタラに移り、社長を2000〜2002年の間務めていた。

  新任 前任者
国家官房長官 ハッタ・ラジャサ(Hatta Radjasa) ユスリル・マヘンドラ(Yusril Mahendra)更迭
交通相 ジュスマン・シャフェイ・ジャマル(Jusman Syafei Djamal) ハッタ・ラジャサ(Hatta Radjasa)
司法兼人権関係相 アンディ・マッタラタ(Andi Mattalata) ハミッド・アワルディン(Hamid Awaludin)更迭
検事総長 ヘンダルマン・スパンジ(Hendarman Supanji) アブドゥル・ラーマン・サレー(Abdul Rahman Saleh)
通信・情報相 ムハマッド・ヌー(Muhammad Nuh) ソフィヤン・ジャリル(Sofyan Djalils)
国務相・国営企業担当 ソフィヤン・ジャリル(Sofyan Djalils) スギハルト(Soegiharto
国務相・低開発地域担当 ムハッマド・ルクマン・エディ(Muhammad Lukman Edy) シャイフラー・ユスフ(Syaifullah Yusuf)

 

83-18.クビになったユスリルに職を与えたSBY(07年12月25日)

トミー・スハルトの疑惑送金を手助けした疑惑を持たれたユスリル・マヘンドラ国家官房長官は今年5月更迭されたばかりだが(上記#83-17参照)、情に厚い(?)SBY(ユドヨノ大統領)はユスリルに法律顧問の職を与えた。もちろん給料は国民の税金から支払われる。

これに対し、ヌルシャバニ(Nursyahbani Katjasungkhana)国会議員(第3委員会=法務委員会)は既に大統領顧問委員会が存在し、そのなかには法務担当委員もいるというのになぜ新たに法律顧問(legal advisor)を任命するのかとSBYを厳しく批判している。

ユスリルは「月星党」の党首であり、当初からSBYの大統領選挙に協力してきたという経緯がある。しかし、ユスリルは他にも汚職疑惑があるという。タイでは裁判で有罪と決まるまでは無罪だなどとタクシン支持者はわめいているが、「汚職追放」を掲げるSBYとしては盟友とはいえユスリルの首を切らざるを得なかったのである。

それが、ここにきての「復活」である。SBYはユスリルを復活させれば「汚職退治」を本気でヤル気があるのかないのかといった「痛くない腹を探られる(?)」リスクを犯しているのである。

SBYの本当の狙いは何であろうか?SBYは大統領顧問委員会にいる正義派弁護士アドナン・ブユン・ナスチオン(Adnan Buyung Nastion)の追い出しを図っているのではないかとも言われている。

しかし、そんなことはありえないであろう。あくまで狙いは2009年の大統領選挙である。有能なユスリルの協力はSBYにとっては不可欠なのである。また、ユスリルがSBYの側にいることによってユスフ・カラとアブリザル・バクリーへの圧力になることは確かである。「ジャの道は蛇」である。

ちなみに、熱泥事件(ラピンド事件)でシドアルジョの住民をさんざ苦しめているバクリーはフォーブスによればインドネシアでナンバー・ワンの金持ということである。スハルト時代はサリムだったが、ついにプリブミ(原インドネシア人)資本家が第1位の金持になった。

ご同慶の至りだが、バクリーはラピンド事件の弁償金を払ったのであろうか?多分ほとんど支払っていないであろう。弁償金は何百億円になるか分からないほどの金額になるはずである。

 

83-19.ユドヨノーカラの支持率低下続く(08年3月26日)

世論調査機関LSN(National Survey Institute)がおこなったユドヨノ大統領ーユスフ・カラ副大統領への支持率 は、08年1〜2月におこなわれた調査では47.4%にまで低下した。不満足と言う答えは41.6%となり、その差は11%にまで縮小した。

政権発足当初は80%の圧倒的支持(と期待)を受けていたが、06年末は60%強にまで低下してきていたが07年3月にはじめて過半数割れの49.7%となった。

法律分野(leagal field)で、満足していると答えた人は35.6%、不満足は49.7%、どちらともいえないは14.7%であった。

汚職撲滅については33.8%の人が前の政権(メガワティ)と変わらない、21.7%が悪化している、31.4%が改善されたと答えた。

経済問題では実に68.7%が不満足を表明し、24.4%が満足していると答えた。どちらともいえないが6.9%であった。

失業問題では前政権より改善されたと見る人はわずかに14.1%に過ぎず、43%が変わらないと答え、35%が悪化しているという。

貧困撲滅は30.6%が前の政権より悪化していると答え、38.2%が不変、25%が改善されたと答えた。

ユドヨノ大統領は汚職退治には比較的意欲を持っているようだが、裁判官がワイロを貰って悪徳ビジネスマンなどに大甘の判決を下したり、検察官も袖の下がお好きなようで、起訴自体を見送ってしまうなどの事件が相次いでいる。

また、最近では中央銀行総裁が汚職事件に巻き込まれ、大統領が出したその後任候補が2人とも議会から拒否されるなど、極東の某経済大国(この地位は別にゆるいではいない)と同様な現象がが起こっている。

経済問題で不満足表明はインドネシアのGDPが07年は6.3%と高成長であったなどといっても、実感が伴っていないことを如実に示している。それもそのはずである。製造業部門の伸びがわずかに3.8%にしか過ぎないのである。輸出の伸びは主に1次産品(石炭やパーム油など)の伸びなのである。

インドネシアの経済は大きな問題を抱えているのである。特に家電や繊維といった工業製品が中国からの安値輸入品徒の競争に負けていることも大きく響いている。中国とASEANとの自由貿易協定は工業化という意味では大きな負担となっている。

失業問題も決め手がない。それは外国からの製造業投資が全く振るわないのである。それでも民間消費が5.8%も伸びているという統計局の発表はマユツバモノである。

ユドヨノ大統領はともかく副大統領のユスフ・カラと社会福祉調製相のアブリザル・バクリーの評判が悪すぎるのである。バクリーの会社のラピンドが起こした「熱泥」事件の補償問題が遅々として進まず、住民が道路封鎖の実力行使に出るなど大きな問題の処理ができていないのである。

それ以外にもユドヨノ大統領の優柔不断ぶりを指摘する声は少なくない。しかし、大統領自身としては何とかインドネシアを良くしようという熱意は強いものを感じる。周りで動こうとしない人間が多すぎるのである。人間の壁にぶち当たっているとでも言うべきか。



83-20. SBY大統領の変調?(08年5月31日)


最近ユドヨノ大統領は1ヶ月近くも不眠症に悩まされ、演説の最中に咳き込むなどして、医師からも休養を取るようにいわれ、公の会合をいくつかキャンセルしたという。

不眠の原因は「石油価格と食料品の値上がりに対する庶民の反発」ではないかといわれている。石油価格問題では各地で学生運動が活発化して、警察との衝突が頻発している。

最近、政府系のシンクタンクであるLIPI(National Institute of Science)が発表したレポートによると石油価格上昇によって2008年中に「貧困層が450万人増加する」とのことである。(5月29日Tempo)

それによってインドネシア全体の貧困層は4,170万人に達するというものである。

政府の貧困層に対する直接「現金援助」が無ければ貧困層は1,650満員増加し、合計5,370満員に達するというのがLIPIの調査官であるアディ・ウィジャヤ(Adi Wijaya)市の見方である。

政府の直接援助というのは月額10万ルピア(約1,100円)を貧困層1家族あたり7ヶ月間支給するというものである。

これに対して政府の国民開発計画省のシャリアル事務局長は政府の諸施策はうまく機能しており貧困層は増えることはないと反発している。

これとは別な話だがユドヨノ大統領は「Blue Energy」プロジェクトという「水から石油を生産する」というインチキ話に引っかかったといわれ、議会でSBYを呼んで説明させるという騒動が持ち上がっている。

この話の発端は昨年バリ島で開催された国連の「気候変化に関する協議会」の席でユドヨノ大統領が大真面目で取り上げたといわれている。

これには今のところ政府がカネを出すにはいたっていないようだが、農学博士であるSBY大統領にしていささかオソマツな話ではないかというのが反対派議員の言い分である。


83-21.ユドヨノ大統領の人気急落、メガワティ浮上(08年7月3日)


調査機関インド・バロメター(Indo Barometer)が石油製品値上げ10日後におこなった33省1,200人を対象とするアンケート調査によれば、次の2009年の大統領選挙ではメガワティ前大統領に投票すると答えた人は30.4%でトップであった。

一方、ユドヨノ大統領に投票するとした人はわずかに20.7%とユドヨノ人気の凋落が窺われる。

2007年の5月の調査ではユドヨノ支持が35.3%、メガワティ支持が22.6%であった。

2007年の12月の調査ではユドヨノ支持が38.1%、メガワティ支持が27.4%となおユドヨノが10%強の差をつけていたが、今回の調査で初めてユドヨノがメガワティにトップの座を明け渡したことになる。

今回のアンケート調査では79.1%が「ユドヨノ政権は経済問題の解決に無能であった」と回答している。

政府系シンクタンクのLIPIのデヴィ・フォルチュナ・アヌワール(Dewi Fortuna Anwar=著名な女性政治経済学者)は「SBY大統領に黄色信号が点滅し始めたと言えよう。政府は民衆の苦しみに応えていない。」

また「低所得者は質のよい教育を受ける機会に恵まれていない。それは彼らが社会で上昇するチャンスを得られないことを意味する」とコメントした。

経済学者のファイサル・バスリ(Faisal Basri=インドネシア大学教授)は「石油だけでなく食糧価格も高騰するというタイミングでの調査であり、SBYにとっては不運な時期の調査だったのではないか。」とやや同情的なコメントをしている。

しかし、「経済のことはオレにまかせろ」と政権発足時に大見得を切ったたユスフ・カラのような人物が副大統領としてアチコチにでしゃばり、トンチンカンなことをいったりやったりしていてはユドヨノもタマリゴトナイといった感はぬぐえない。

インドネシア中が注目した「ラピンド熱泥」事件も住民がまさに「塗炭の苦しみ」にあえぐ中、ロクな補償も与えられず、責任者のアブリザール・バクリ一家は利権をフルに享受し、ドンドン富を蓄積している様子を貧しいインドネシア人もちゃんと見ているのである。

SBY大統領としては汚職退治や積年の悪の根源(軍や司法関係を含む)を徹底的に叩いて、インドネシアの将来への展望を開いてみせるほか残された道はないであろう。

メガワティはメガワティで大きな問題があることは既に見たとおりであるがPDI-P(闘争民主党)の下部党員はカナリ頑張っている様子が最近の地方選挙などからも窺われる。

インドネシアの国会議員の中には汚職がバレてブタ箱に最近ぶち込まれたものがいる。悪を悪として罰しなければ何時までたってもよい社会はできない。最近の日本の経済事犯をみていると日本は限りなくインドネシアに近づいているとしか思えない。

(ジャカルタ・ポスト、08年7月2日版参照)