ブジャン渓谷探訪記(2005年2月)

ブジャン渓谷探訪記

1話 マレーシア、ケダー州ブジャン渓谷ヒンドゥー・仏教遺跡見学記(05221日、06129日加筆修正)私が今回東南アジアに旅行した目的は古代東西貿易のマレー半島の貿易港のひとつと考えられているケダー州を見に行くことであった。もともと私は経済学的には「歴史学派」に属している(?)と自称しているが、歴史の専門家ではない。しかし私は東南アジアという地域が歴史的にどのような発展を遂げてきたかというアウト・ラインだけは何とかは認識したいという思いから、現在市中で買える何十冊かの書物(英文を含む)を入手し、一応読んでは見た。ホールの「東南アジア史」やセデスの名著を読んでも、なんとなく胃の腑に落ちないものを感じざるを得なかった。そのポイントの1つはシュリヴィジャヤ王国という概念のあいまいさにある。シュリヴィジャジャは10世紀以前は「室利仏逝」であり10世紀以降は「三仏斉」という国が唐末から宋時代、1178年までしばしば朝貢に訪れる。

 

両者は内容的は同じもので、首都はパレンバン(スマトラ島のムシ河上流100Kmの町)で、それがやがてジャンビというところに移るという「通説」である。 しかし、この「通説」は現在、揺らぎつつあるが決定的な否定論は出てきていないように思われる(岩波講座、東南アジア史第25ページ以降の深見純生氏の論文参照)しかし、実際は誰もセデスの説に異論を唱えていない。深見氏もパレンバン説に依拠して論文を書いている。

この通説への疑問は拙著「東南アジアの経済と歴史」で論じたので重複は避けるが、要は唐時代の仏僧、義浄が旅行記「南海寄帰内法伝」で広州を出発して20日そこそこで南シナ海を横断して、パレンバンに行き着けたのかという点である。

7世紀の当時の帆船は可なり大型のものであったとしてもあまりに時間的に短か過ぎはしないかという素朴な疑問である。次に、パレンバンは義浄が言う千人もの仏僧がいる僧院があったにしてはほとんどそれらしき遺跡がないといわれている。また、

パレンバンは10世紀以前において本当に東西貿易の拠点であったのかという疑問である。

パレンバンが東西貿易の拠点であるためにはマラッカ海峡が東西貿易の主要通路になっていなければ話が通じない。しかし、インド・セイロン側から偏西風に乗ってインド洋、ベンガル湾を通って来た帆船がそのままマラッカ海峡を同じ風で通過し、シンガポールの先端を回ってシャム湾側にでられたと考えるのは可なり困難と思われる。この時期(夏季)はマラッカ海峡を南下する帆船は斜め逆風を受けるからである。困難であるからこそ、マレー半島のしかるべき港で積荷を降ろし、半島を陸路、象や牛車に荷物を積んで横断し、シャム湾側に出て、そこから再び船に積んでカンボジア、ベトナム、中国方面に輸送していたのである。(マレー半島横断ルートの重要性)シャム湾側の港は北からスラタニ(チャイヤー)、ナコン・シ・タマラート、パタニ、コタバルなど可なり多くの港があり、比較的近世にいたるまで港として機能していた。マレー半島西側やその付け根のビルマ側にもいくつかの港があったことはいうまでもない。北からいえばビルマのモールメン(現在のタイへの陸路の出入り口でもあった)やタボイやタクアパやケダーである。マレー半島の西と東のつながりから言えば、①タクアパースラタニ、チヤイヤ、ナコン・シ・タマラート、②ケダ(ブジャン渓谷)-ソンクラ、パタニ、コタ・バルといったルートが考えられる。この2つのルートが東西貿易上重要な存在であった。

私は、そのなかでもケダは非常に重要な意味を持つ港であったと考えている。なぜならケダは古代からの水田稲作地帯であったからである。米の生産地であるということは、多くの人口の存在の基礎となる。

余剰の米は外国の商船の乗組員の食糧となるし、場合によっては「輸出商品」になる。人口が多いということは、その地域の支配者にとって、強力な軍隊を維持できることを意味する。ケダの港といっても2箇所あり、ケダー州の州都のアロール・スターの外港ともいうべきクアラ・ケダー(Kuala Kedah)であり、もう1つはそこから南に60-70Km下ったブジャン渓谷=タンジョン・ダワイ(Tanjung Dawaiダワイ港)周辺である。

ダワイ港はスンゲイ・メルボクやムダ川という大河の河口に位置する。このメルボク川やムダ川をさかのぼれば可なり内陸にも船が入れたことであろう。

また、この大河にはブジャン川が支流として流れ込んでいる。また、ケダの平野部はかなり広く、ムダ川の上流は一大水田地帯であり、これは可なり昔から水田稲作が行われていたと考えてよいのではないか?日本の「稲作論」はなぜか「焼き畑・陸稲・水田」という3段階論が主流になっているが、3段階論というのは可なり怪しい。その必然性があまり感じられない。私が目指したブジャン渓谷(Lembah Bujang独身者すななわち僧侶の谷、また蛇の谷という説もある)にあるヒンドゥー・仏教遺跡である。ブジャン渓谷には飲料に最適な透き通った水が山(Gunung Jerai=ジェライ山)から豊富に流れている。ジュライ山(標高1279)頂上にはヒンドゥー遺跡があるという。(それは今は取り除かれ通信施設が置かれている)

山を神の座所とするヒンドゥー信仰にとっては、ジェライ山からその裾野にあたるブジャン渓谷というのは一大信仰拠点とも言うべきものである。その清流にそって数多くの寺院の遺跡(55箇所ともいわれる)があるのだ。チャンディ(寺院)・バト・パハット(石のみ)などもその1つである。インド側から数ヶ月かけて長旅をしてきた貿易船にとっては停泊地で飲料水と食料の補充ができなければならない。また、清流での沐浴は何よりの楽しみであったはずである。その意味でこのダワイ港周辺こそは当時は

コメと飲料水が十分に補給できる良港の1つであったことは間違いない。ただし、難点はダワイ港からシャム湾までの距離が可なり長いことである。 アロール・スターからシャム湾側のコタ・バルまで400Kmはある。一方、一番短いクラ地峡は直線距離で

チュンポンまで60Km>の幅しかない。 しかし、東北への道をたどればタイのパタニまでは比較的容易に出られたはずである。しかも途中の内陸の要衝都市ヤラ(<span lang=EN-US>Yala、パタニから43Km内陸))</span>から海岸のパタニまでは比較的川幅の広いパタニ川が通じている。 パタニ川はマレー半島内部にかなり食い込んでおり、この水路を使えば、陸送はだいぶ楽だったはずである。

また、「パタニを24Kmほど遡航した右岸に、小村ヤラン(Yarang)がある。それから5Kmほど離れた地点で、1962年、古代のこの国の首都であったと思われる遺蹟が発見された。そこには城壁の痕跡が認められ…略…、この遺構がきわめて古いものであることを示唆している。」と千原大五郎氏はその名著「東南アジアのヒンドゥー・仏教建築、p100)で述べておられる。また、アロール・スターからタイのソンクラへも横断道路が通じている。これらマレー半島を横断する道路はいくつもあり、そのほとんどが古代からの「通商路」だったのである。ケダ州南部の、コメと飲料水の優位は当時としては相当なメリットであったに相違ない。このダワイ港周辺には古代(おそらく3,4世紀あるいはそれ以前)からインド商人が何世紀にもわたって出入りしていた。そうすると、そこにはインドの宗教(ヒンドゥー゙教、仏教)が一緒に入ってきたことはいうまでもない。

ただし、ケダは南インドのヒンドゥー教徒(タミール族)の影響が強く、仏教はあまり栄えず、仏教徒はもっぱらシャム湾側に集まって、中国僧との交流も活発であったようである。これはモン族が支配力の強かった地域で仏教(モン族の場合は主に小乗・上座部仏教)が広まったということも影響しているかもしれない。ジャワ島でも同じことで、中部ジャワのボロブドゥール遺跡(大乗仏教)や多くのヒンドゥー寺院もインド人によってもたらされた。

このブジャン遺跡はその重要性の割にはあまり広く知られていない。おそらく10世紀の後半以降、中国・南宋からの陶磁器の輸出が盛んになると、南スマトラのジャンビやパレンバンが地理的優位性を発揮するようになる。パレンバンの優位性は中国から北東風にのって冬季に寄港するには便利だったということである。後に述べるように10世紀の北宋、その後の南宋の時代になって、中国からの輸出品が「陶磁器」が主体になり、かつ中国商人の海外渡航が許されるようになると、ジャンビ、パレンバンの優位性は急速に高まる。

その後ジャンビに引き継がれていき、15世紀からはマラッカへと引き継がれていく。その結果、ケダの貿易拠点としての意味は次第に薄れていったのではないがと推測される。

近世に入り、マラッカ帝国の成立以降はブジャン渓谷は貿易上の地位を失ってしまい、現在は一寒村となってしまい、人々から次第に忘れ去られていったのではないであろうか?しかし、ケダ周辺も東西貿易史を研究するには最重要の遺跡であることは間違いない。

上に述べた理由から、マレー半島西岸では マラッカ王国成立以前はケダのダワイ港が可なりにぎわっていたのではないかと思われる。ジャワのシャイレンドラ王朝がケダーを中心として勢力を盛り返したということすら言われている。(前掲、深見著125ページ)私が、この遺跡に興味を持ったのは、かなり以前に壮大なヒンドゥー・仏教寺院跡が発見されたという紹介が今は度忘れしたが、どこかに出ていたことである。シュリヴィジャヤ王国の1つの重用拠点であることは間違いないであろうという感じがしたのである。

ところが、そこが素人の悲しくも愚かなところであり、この地域は今の筆者よりももっと鋭い問題意識を持って、現地調査をして、立派な論文を発表していたイギリス人がいたのである。その人の名は、クオリッチ・ウェールズ(Quaritch Wales)博士である。彼は1930年ごろ夫人を伴って、このあたりを踏査し、発掘調査も行いながら、おびただしい論文を発表してる。

しかし、なぜか彼の著書はあまり日本人では紹介されていない。

私は、一部しか読んでいないが、文章としても面白く、問題意識もシャープで大いに感動させられる。ウェールズが日本にあまり紹介されていない原因のひとつに日本人の学者の「権威主義」があるような気がしてならない。

それはセデスの存在である。「セデス、セデス」と草木もなびく現象が起こっていたのである。もともと日本人は「虫歯」にかかりやすい(?)体質なのかもしれない。

ウェールズ博士の著書は「Towards Angkor」や「The Malay Peninsula

in Hindu Times」など10冊以上刊行されている。東京大学の東洋文化研究所付属図書館に行けば現物が閲覧できる。若い学徒(私より)には一読をお勧めした。本論に戻るとして、ニワカ歴史家の私は昨(04)年6月にクアラルン・プールの国立博物館にいった時には詳しい英語のパンフレットは見つからず、マレー語で書かれたものが若干あっただけだったので、業を煮やして、今回意を決してアロール・スターに乗り込んだ。アロール・スターはケダー州の州都で、交通の要衝でもある。立派な建物が随所に立つ大都会である。といってもやはり地方都市であり、あまり洗練はされていない。イスラム色が強く、近くのスーパーにいってもビールなどは売っていない。

英語もあまり通じない。クアラルンプールからマレーシア・エアラインが3往復、エア・エイシア(格安路線)が3往復出ている。私は朝745分発の朝1番のマレーシア航空(運賃片道187リンギ=約5000円)で乗り込み、アロール・スターには840分ごろ到着し、ホテル(グランド・コンチネンタル・ホテル=1泊税・サ・朝食込みで127リンギ=3800円)に直行した。かなりオンボロ・ホテルであった。午前中は市内の州立博物館(無料)に見物に行き。午後からいよいよ夢にまで見たブジャン渓谷にタクシーをチャーターして乗り込んだ。タクシーでは片道1時間15分を要した。国道をペナン方面に南下し、ベドン(Bedong)という町の交差点を右折し20分ほどのところにその遺跡はあった。

途中にMARA工科大学の壮大なキャンパスがあり、そこから少しいくとブジャン遺跡の標識があり、右折して山道(舗装はしてある)を2.5Kmいくと突如として平屋ながら立派な建物が現れる。そこがブジャン博物館である。(下の写真参照)玄関の手前の左脇に、炭化しかかったような黒ずんだ小船が5-6隻、屋根のかかった陳列棚に置いてあった。近くまでこの小船が来ていたことを物語る。川はスンゲイ・メルボク河(この上流はスンゲイ・ペタニ市)とつながっている。建物の中に入ると、ポロ・シャツを着た中年の小太りの男がいて、写真をとっていいかと聞くと、大いに結構とのことなのでデジ・カメで50枚ほど写真をとりまくった。大げさな言い方をするとパリのギメ美術館を訪れたときのような衝撃を受けた。

ジャヤバルマン7世の首の石像こそなかったが、想像を絶する発掘品の陳列ケースであり、それを読みながら館内を1周するには1日では足りない感じである。写真を撮るだけとって、博物館の裏手にまわると、山の斜面に何箇所か寺院(チャンディ)の礎石がある。脇には清流が音を立てて流れており、ここならば数百人の僧侶が合宿できたであろうと思われる。きれいな流水は疫病に対する何よりの予防である。

その上には、木造の建物が立っていた。その四角や円い礎石が館内にも屋外にも多数陳列されていた。館内の陳列物を見ると、明らかにヒンドゥー様式のもの(リンガなど)が混じっていた。もちろん、仏像もあったが、さほど大きなものは見当たらなかった。その他こまごました発掘品(土器を含め)が多数陳列されており、ガラス器の破片もあった。 これらは西暦初期のものもあるという。また、ヨーロッパから運ばれたガラス細工もあり、東西交易の歴史の古さを感じさせる。

こういう遺物については私はまったくの門外漢なので、せめてパンンフレットでも買って帰ろうとしたが、そういうものはないという、さきほどの管理人の答えであった。これはもちろんマレーシア政府の問題だが、もっと国際的な専門家による研究・分析があっても良いと思った。

アンコール・ワットとは比べ物にならないが、古代の重要遺跡であることは間違いないし、しかも、マラッカ海峡側にあるということはシュリヴィジャヤ王国の謎を解く上でも、何らかのカギを提供してくれることは間違いないであろう。その後、調べてみたら、日本の学者によるブジャン遺跡についての研究論文は岩本小百合氏の「シュリーヴィジャヤ」時代におけるクダーいわゆるルンバ・ブジャン遺跡についてーが「東南アジア考古学会」の機関紙、1996年号 に掲載されていることがわかった。

ブジャン渓谷遺跡が1880年代にイギリス人J.Lowによって「発見」されてから今日までの考古学的な成果・経緯などが書かれている。シュリヴィジャヤ論についてもご意見が述べられている。ブジャン渓谷では「大乗仏教」が主流であったという説も興味深い。というのは義浄は室利仏逝の仏教は大乗仏教であるということを強調していたからである。全体によく整理された貴重な論文である。

ついでの話コタ・ゲランギ騒動(5224

ブジャン渓谷遺跡はマレーシアでどういう取扱いを受けているのかと思って、 The Star日刊英字紙)を検索していたら、私のいく直前にコタ・ゲランギ(Kota Gellqngi)遺跡というすごいものがあるというニュースが出ていて、各国のメデアも注目しているとのことであった。

Kota Gellangi洞窟というのはパハン州にあって、そこでは新石器時代の遺跡があるが、そことは違うものらしい。場所はジョホール州のジャングルの中だというだけで、発見者のライミイ(Raimy Che-Loss>氏と数人の関係者以外には秘密にされていてわからないようである。この遺跡の発掘調査に国家の予算やジョホール州の予算を付けろとか大げさな論議が巻き起こされている。

ライミ氏は6年前にその場所を発見したといっており、仏教寺院の基盤らしい物を見つけたという。彼はここがもしかしてシュリヴィジャヤ王国の本拠かもしれないと語っている。しかし、どうもその場所は海岸線から遠く離れたジャングルの真ん中辺らしいということが気になる。

私は、曲がりなりにも経済学者の端くれとして、いかなる王国にもそれを支える経済的基盤が不可欠であり、東南アジアにそくしていえば「水田稲作」による多くの人口の扶養が可能であり、かつ「東西貿易の中継点」で貿易活動による富の入手が可能な場所に限られるという見方をしている。そういう意味からいうとジョホール州のジャングルの真ん中辺はいずれの条件も満たしていない。しかし、もっと本格的な調査の価値はあるかもしれない。

     

タイ旅行記

室利仏逝はどこか?どこでもいいではないかというのが大方皆様の感想であろう。私も、通説がパレンバンだとものの本で読んで、ああそうですかと一応は納得していた。

しかし、三仏斉はパレンバンが仮に本拠地であったにせよ、義浄が行った室利仏逝はパレンバンではなさそうだという思いが捨てきれない。義浄がサンスクリット語を半年も勉強し、帰途に数年も滞在し持ち帰った仏典を漢訳した地はそれなりのインフラが整備された土地であった間違いない義浄の言う室利仏逝には1000名もの仏僧が当時いたという。また、その地は羯茶(ケダ)でないとすれば、南タイ東岸をあたらなけばならない。南タイといったが、シャム湾の付け根のペブリ(Pechaburi=というのが正式地名であるが、現代タイ人はペチャブリとはあまり言わないようだ)も相当なヒンドゥー・仏教遺跡がある。

ペブリは当時はドワラワティ(堕和羅)すなわちモン族の支配地で室利仏逝ではなさそうだ。しかし、ペブリも無視できない。バンコクのナショナル・ミューゼアム(国立博物館)に行ってみれば一目瞭然である。ペブリやロップブリ(アユタヤの隣)の遺跡から出た大量のヒンドゥー・仏教の像のコレクションをみれば、モン族の支配地のヒンドゥー・仏教文化のすごさがわかる。

閑話休題、本論に戻るとしよう。私の関心事は7世紀中ごろの東西貿易に直接結びついた土地と、その地のヒンドゥー・仏教文化の跡地をこの目で確かめたいということにあった。

ともかく現場を見ないことには始まらないと思い、まず最初に052月にマレーシアのケダに行ってみた。そこでの話は第1話をご覧いただきたい。

今回は2度目の現地見物(調査といいたいが実態はとうていそこまで行かない)でははじめはパタニに行こうと思っていたが、パタニはタクシン首相の強行策(愚行)のおかげで、いまやイスラム教徒と仏教徒との宗教戦争のごとき有様になっており、昨年初めの紛争勃発以来すでに900人近い死者が出ているという。

おまけに、仏教徒が首を切られるケースが最近続発しており、いくら平和主義者を自称していても人品・骨柄からして私などは事件に巻き込まれる恐れがあるとタイ人の友人が脅かすので、安全なナコン・シ・タマラートから北に行くことにした。首を切られたりしてはたまったものではない。ここは日和見路線への転換である。

05629日に成田を発って、中華航空の格安チケットを握りしめ、台北経由バンコク入りした。

1)ナコン・シ・タマラー

ナコン・シ・タマラート行きの飛行機は朝6時発が11便あるだけだという。翌朝4時に起きて飛行場に向かい窓口でキップを買い飛行機に乗り込む。予約などしている暇はなかったが朝6時発の飛行機など乗る人間は少ないだろうと思っていたが70%は席が埋まっていた。ホテルの予約はしていかなかったが飛行場にはツイン・ロータス・ホテルというナコン・シ・タマラートではNo1のホテルのリムジンが迎えにきていた。泊まれるかどうかはわからないが、そのリムジンに乗り込む。聞けば無料だという。78人の客と一緒にホテルに向かう。

ホテルに着くとまず値段の交渉だが、11200バーツ(3300円、税・サ・朝食込み!)だという。バンコクなら45000バーツはとられそうな立派なホテルで、受付嬢もきれいな英語を話す。すっかり気に入ってしまい、1泊お願いすることにした。料金は前払いである。

チェック・インは12時だという。時計を見たら午前8時半である。参ったなと思ったが、仕方がないのでロビーでしばらく休んでから市内見物に行こう思ったいた。

驚いたことに、後ろで日本語が聞こえるので振り向いたら私と同じ年恰好の5人ほどの男女のグループがいた。山田長政の故地ということでナコン・シ・タマラートまでやってきたらしい。それにしても、ここで日本人に会えるとは思っても見なかった。

そうこうするうちに、部屋の用意ができたと受付嬢がいってくれて、とりあえず部屋で一休みしようと思っていたら、915分に町まで無料のマイクロ・バスを出すという。帰りは電話をしてくれれば市内のどこにでもも迎えに行くという。とりあえず、最大の仏教寺院であるワット・プラ・マハタートに行ってみる。

下の写真はそのストーパである。そのもの自体さほど大きなものではないが、壁に囲まれた寺院そのものはばかでかい。坊さんや信者が大勢いた。なかにこじんまりとした博物館があり、いろいろなものが雑然とおかれていた。説明は何もないから内容がさっぱりわからない。日本刀やその一部を加工した槍やなぎなたのようなものもあった。

また、ブンガ・ウマスといって金製の造花とおぼしきものがあった。これはおそらく本物の金ではないが、ブンガ・ウマスはアユタヤ王朝が属領から服属の証として、定期的に献上させていたものである。

次に、有名なナコン・シ・タマラート国立博物館に行ってみた。この段階で気がついたことは、この町にはタクシーというものがないことである。実はタイではタクシーがあるのはバンコク以外はほんのわずかな都市に限られるということである。

何があるかといえばオートバイ・タクシーと軽トラックの荷台にホロを被せた、小型乗り合いバス(ソンテェウ)である。都市間の移動はミニ・バスと大型バスである。結局これらの乗り物を乗り継ぎながら以後4日間かけて各地を見物しながらバンコクに戻ることになる。

博物館には地図を頼りに歩いていった。500mくらいと思ったが優に1kmはあったと思う。その博物館は実に立派な代物であった。パンフレットもきちんと用意してあった。敷地に入るといきなり「リンガ」(ヒンドゥー教の男性のシンボル)と「ヨニ」(女性のシンボル)が陳列してあるオープンな建物があった。ここでは誰もいなかったので写真を撮った。普通はどこの博物館でもタイでは撮影禁止であり、月曜日と火曜日は休館なので注意を要する

ナコン・シ・タマラートという都市は運河に沿って長方形の城壁を廻らした大要塞都市なのである。町のところどころにレンガの塀の跡が残されている。ここは、国際貿易都市であるとともに、軍事的な拠点でもあったことが伺える。町のそこかしこに寺院や寺院の廃墟のようなレンガの瓦礫が見られる。ここなら1,000人くらいの仏僧の収容余地はありそうである。

「諸蕃志」によれば「単馬令」(タマラート)は「以木作棚為城、広六七尺、高二丈余、上堪征戦」と書いてあるから、昔は町の周辺に木の柵を使った堤防を廻らせて外敵に備えたものであろう。

このあたりは平野であり、川の水量も豊かで、古代から水田稲作が行われていたと思われる。貿易港としては背後(マラッカ海峡側)のタクアパあたりからはチャイヤに比べてやや距離がある。しかし、内陸まで河川が入り込んでおり、途中から船を使えばさほどのハンディはなく、むしろ要塞としての安全性が買われたことも考えられる。

ナコン・シ・タマラートからは775年の年記があるシュリヴィジャヤの記載のある石碑が発見されている。また、時代は下るが1223年のチャイヤの石碑にはナコン・シ・タマラートがケダを支配していたという記述があるという。

一方、チャイヤはその防備力という面では城壁に当たるものがあったかどうかは不明である。しかし、チャイヤは古代から寺院の多い町ではあった。

2)スラタニとチャイヤ

次に私が目指したのはチャイヤである。チャイヤに行くには宿を大都市スラタニにとって、そこから60Kmほど北にあるチャイヤに行かなければならない。ナコン・シ・タマラートのホテルから、町のミニ・バスの乗り場までリムジンで連れて行ってもらう。

乗り場といっても、街角の喫茶店(椅子とテーブルが雑然とおいてある茶店といった雰囲気)である。店の一角にやけに人がたむろしている。得意(?)のタイ語で「我はスラタニに行かんと欲す」といった趣旨のことをわめきながら、人だかりに首を突っ込むとそこには切符売り場があって、100バーツ(公定料金)だという返事が返ってくる。

100バーツ払って切符を受け取ると、そばに運転手が待っていて、「こっちへ来い」と裏庭に連れて行かれる。そこにミニバスが待っていて、荷物を後ろのトランクに放り込み、ドアを開けてくれる。マイクロ・バスは3列からなり1列3人と運転手の隣2名の11人が定員である。ドアの近くの座席を除き満員である。満員になればすぐ出発してしまう。

運転手にはスラタニのホテルのワンタイまで行ってくれるかと聞くと、「ダイ(OK)」という。大助かりである。国道401号線を約120Kmの道を2時間半ほどでスラタニに着く。ワンタイ・ホテルというのはスラタニ市でナンバー2のホテルでメイン・ストリートのはずれにある。

予約なしの飛び込みで1泊お願いする。値段は890バーツ(2,400円、税・サ・朝食込み)である。部屋は広くてダブルベッドがおいてあり、もちろんエアコン、バス付である。この割安ホテルには感動してしまった。レセプションの女性も英語が達者で、おまけに親切である。これからチャイヤに行きたいといったら、ミニ・バス・ステーションへの行きかたなどこまごまと教えてくれた。

片道50バーツのミニ・バスに乗り60Kmほど北にあるチャイヤの町に向かう。目指すはチャイヤの国立博物館である。それはワット・プラ・ボーロマタート・チャイヤーという寺院に隣接して建てられている。

スラタニから1時間ほどでバスの終点のチャイヤ駅前に着く。そこからはオートバイ・タクシー(20バーツ)で博物館に行く。チャイヤ駅といってもオモチャの国の駅みたいで、汽車がいつくるかわからないような小さな駅であった。

このワット・プラ・ボーロマタートチャイヤーと博物館は日本語の市販の案内書にはさも素晴らしいもののように書いてあるが、規模は想像していたよりもはるかに小さいものであった。博物館の中身もこれで全部か言いたくなるような内容であった。下の写真は上の3枚が寺院のもの、下の2枚が博物館のものである。このほかチャイヤにはワット・ウィアン、ワット・ロン、ワット・ケウ、ワット・ノップなどの古い寺院がいくつもあり、ヒンドゥー・仏教関係の像が出ている。ただし、良いものはバンコクの博物館に陳列されているようだ。

      私ごとき野次馬がちょっと行って見ただけでチャイヤーを語るのはあまりにおこがましい。すでにこの地を私が生まれる以前に調査している先覚者がいるのだ。彼の名は知る人ぞ知るQ・ウェールズ(H.G.Quaritch Wales)博士である。

ウェールズはタクアパからチャイヤやナコン・シ・タマーラートの周辺を1930年代のはじめごろから丹念に調査をし、チャイヤーこそが室利仏逝であったにそういないという結論をだされた。その根拠は仏教遺跡の多さと、唐時代に「盤盤」と呼ばれていて、シュリヴィジャヤという発音に近い山が近くにあるということのようである。ウェールズの素晴らしさは、室利仏逝を貿易拠点として捉えていて、マラッカ海峡側の貿易拠点のタクアパとチャイヤーをいわば、セットとして考えているところにある。これは、及ばずながら私めとまったく同じ発想である。こういう視点が後世の史家にはむしろ薄れている印象を否めない。

ウェールズはチャイヤーを対中国貿易の主要港であったことを重視している。タクアパに届いたインド方面からの商品は陸路を横断して<b

シャム湾側のチャイヤに運ばれ、そこから中国に出荷された。盤盤の中国への朝貢は455年の孝建元年から始まる。

また、千原大五郎博士の「東南アジアのヒンドゥー・仏教建築」(鹿島出版会刊行、1982年、以後、千原と略す)のp241以降の記述で、ウェールズがシュリヴィジャヤの首都をチヤイヤーと比定した根拠が示されている。

シャイレンドラ王の名とともに、シュリヴィジャヤという名称が出てくる、「リゴール(ナコン・シ・タマーラート)碑文(775年)なるものは、実はチャイヤーから出土したものであるという。

その内容はこの国の王がチャイヤーに大乗仏教の寺院を3ヵ所建設したということが記されているという。ウェールズはその3寺院をワット・ウァ・ウィアング、ワット・ロング、ワット・ケウだとしている。チャイヤには城壁らしきものはないと先に書いたが、実は小規模ながら存在したということもウェールズ氏が発見している。ワット・ウァ・ウィアングが城壁の中心部に当たるということである。

現存する多くの寺院は古い寺院の基盤の上に建設されたため、古代の寺院の構造はよくわからないらしい。それは残念なことだが、やむを得ない。

現在のワット・プラ・ボーロマタート・チャイヤーも一見新しいものの如しであるが、実は古い寺院の基盤の上に建てられているという。

7世紀後半に義浄が立ち寄った室利仏逝とはチヤイヤーかナコン・シ・タマラートのどちらかということであろう。当時から多くの仏教寺院群を持っていたということ、それらが大乗仏教の中心地であったということがその根拠である。

規模からいって、ナコン・シ・タマラートのほうが有力な感じはぬぐえぬが、チイヤーのほうが歴史が古く、扶南時代からのタクアパからの陸送の終点であり、こちらが本命であるというのがウェールズの見方である。

ウェールズはナコン・シ・タマラートは本格的に発展したのは時代的には遅く、123世紀以降ではないかと見ている。たしかに、シュリヴィジャヤ時代の寺院の遺跡はほとんど発見されていない(当時のヒンドゥー神や仏像は多少発見されてはいるが)。

ワット・マハタートのストパ(上の写真参照)もセイロン様式で1200年代に建造されたものであるという。そういわれてみればマラッカ海峡側と直結する港湾都市(タクアパやケダ)とはだいぶ離れている。ただし、農業(稲作)の中心地であったことは間違いない。

この2地域で気がついたことはインド系と思われる住民が比較的多かったということである。特に、ナコン・シ・タマラートのほうで目立った。それはケダでも感じた。ご存知マハティール前マレーシア首相はインド人の血筋を引いている。

ケダと直接のつながりが強かったパタニは大乗仏教の拠点であったかどうかは疑問になってきた。パタニやソンクラに仏教遺跡がどの程度あるかというのが、問題を解く鍵ではある。今のところ、ナコン・シ・タマラートやチャイヤほどのものはなさそうである。<BR>

3)タクアパとラノン

南タイ3日目はスラタニから古代の通商ルートをバスでタクアパに出ることにした。スラタニからプーケットに行くバスがあり途中でタクアパを通る。タクアパから左に行くとプーケット、右に曲がるとクラ地峡方面でラノンという町にでる。

私はタクアパでいったん降りて、ラノンに行くことにした。ところが、このタクアパ行きのバスは大変込んでいた。まず、大型バスの発着所に行く必要があった。タクシーがないが、ワンチャイ・ホテルの脇には軽トラックの荷台に幌を被せた、ミニ・バスが1台止っている。これがタクシーに代わって、大型バス・ステーションに連れて行ってくれるという。このアレンジはホテルのフロントのお姉さんがやってくれた。料金は50バーツであった。

このすごいおんぼろ軽トラック・タクシーはきわめて質素な身なりの小太りの運転手がいて、前払いで金をくれという。バス・ステーションは郊外のかなり離れた場所にあった。軽トラックは途中でガソリン・スタンドに立ち寄り、さきほど渡した50バーツでガソリン(2リッター弱しか買えない)を入れ、また走り出した。気の毒なので着いたら20バーツほどチップを渡した。これで彼も朝飯にありつけるであろう。

バス・ターミナルはかなり広く、バンコク行きなど数本のルートに分かれている。プーケット行きは朝740分である。時計を見ると、まさに740分であるが、誰も待っていない。さてはバスは定刻より一足先に行ってしまったかと、次の9時半のバスを待つことにした。

ところが、タイのバスが定刻より早く、出発するなどと考えたのは大間違いで、30分遅れで810分にやってきた。どこで人を乗せてきたか満員で、座席はない。仕方がないので立ったまま、3時間のタクアパへのバス旅行を覚悟した。実際、足の置き場所に困るくらいの満員状態で、しかも、ヒッピー風の外国人などが次々乗ってくる。完全なすし詰め状態である。

バスはサービスのつもりか、大音響でドタバタ劇のテレビをつけている。日本のドタバタ・テレビもこいつにはかなわないが、元祖はどう見ても日本のフジ・テレビか日テレあたりであろう。ともかく程度が悪い。あまけに、エアコンはついているがさっぱり利かない。汗は流れる、うるさい、立ちっぱなしと散々な目にあった。それでも1時間ほどすると空いてきてどうにか座れた。料金は100バーツであった。

1時間も走るとバスは山間部に入っていく。ようするに峠の坂道である。その峠はタクアパに着くまで2時間近く延々と続いていた。所々に小さな集落がある。これが、もとの宿場といったところであろうか?ともかく、人の姿をあまり見かけない。人家もまばらである。しかし、周辺の山や谷の景色は素晴らしかった

古来、?世紀のものと思われるタミール語の碑文河原の石が出ている。タミール商人が通商に携わっていたことの証拠である。タミール商人は大きなギルド(同業組合)を組織して通商を行っていた。付近から出土した土器も4>世紀にさかのぼる。

下の写真は左2枚が道中の景色で、右端はタクアパの町である。寂しい感じの町で、バス・ターミナルのあたりしか人影は見えない。

タクアパでの遺跡を見ようと思ったが、ホテルらしきものも目に付かず、タクシーもないので、後日またくることにした。タクアパが貿易の中継地として、その地位をケダに奪われていった理由を考えてみると、周辺は山また山で水田らしきものは見当たらない。

ということは、常備軍を多数養っておけないということを意味する。したがって外敵や海賊の襲撃に備えるにはインド商人が自前の軍隊を連れてきて駐在させておかなければならない。それはコストがベラボーにかかる。したがって、ケダの優位性が認識されるにつれて、インド船はケダを貿易港として多用するようになったと考えることができる。

ラノン行きのバスは比較的すいていた。ラノンはクラ地峡へ行く長細い湾に沿って北上する形になる。途中クラ・ブリ(Kra Buri)という小奇麗な町を通る。xxxブリという地名からして、昔はモン族がこの地を貿易拠点にしていた町であることを示唆する。

モン族のドワラワティの支配下にあった町はxxxブリ(ペブリ、ロップブリ、カンチャナ・ブリなど)という名前がしばしばついている。

ラノンまではバスで3時間ほどであった。途中の景色は抜群であった。ラノンの町外れのバス・ターミナルの近くで降ろされてしまう。屋根のついたバス停で、ガイド・ブックでラノンではNo2のホテルにとりあえず>行くにはどうしたらよいかを考えた。

近くに、オートバイ・タクシーもいたが、乗り合いバスに乗っていこうと思い、例の軽トラック・バスに手を上げる。xxホテルと告げると、まず乗れという。相乗りの客が3人いた。

ホテルの近くでバスがとまり、ここで降りろという。10バーツ払って、道の反対側のホテルにたどり着く。ところが改造中やけに埃っぽいが、半分ほどは営業していた。受付の女性が英語があまり得意でないらしく、タイ語交じりの英語で何とか話が通じた。

温泉宿が売り物らしいが、1200バーツだという。あまりパットしないホテルなのでやめようと思ったら、こちらの気配を察してか1100バーツにまけてやるといいだした。汚い部屋であったが泊り客は結構いた。温泉に入ろうと思ったら、「海水パンツを着用しろ、なければ貸してやる」といわれ、早々に退散した。ガイド・ブックには結構、いい説明がしてあったのでホテルの名前はここには書かない。

翌日、チュンポンに行き、その後ナコン・パトムの近くで1泊しようと思った。チュンポンに行くにはミニ・バスのお世話にならなければならない。バス停まではホテルの1トン・ピックアップ・トラック(タイではこの車が最も売れている)で送ってもらう。50バーツであった。ナコン・シ・タマラートのホテルより大分サービスが悪い。

ミニ・バス停に行くといまバスは出たところだから、次のバスまで1時間待てという。隣に、オープンな喫茶店があり、そこでコーヒーを飲む。15バーツであったが、味は抜群であった。コーヒー店に付属するコンビニ店のマダムが入れてくれたものだ。<BR>

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このマダムが年恰好は50歳代だが、実にうまい英語をはなす。彼女のおかげで、久しぶりに公衆電話がかけられ、バンコクの友人と連絡が取れた。これからどうするのかと相手は聞くが、私もどうなるか自分でもわかっていない。

ミニ・バスで2時間ほどでチュンポンに着く。ミニ・バスの終点が鉄道の駅であった。早速、ナコン・パトムまでの切符を買おうと思って、窓口をのぞくと、若い女性の駅員が「今日の分は売り切れです」という。だいたい、タイに行って当日の長距離切符を買えるなどと思っている方がドウカしているらしい。

タイでは鉄道の線路は敷いてあるが、列車の本数は一日数本でしかも、時間がかかるらしい。バンコク駅が過密で本数を増やせないなら、郊外にターミナルを作ればよいではないか?ようするに、鉄道が国民生活に生かされていないのである。

しかし、需要はかなり多い。鉄道省は需要があるかないかはあまり気にしていないらしい。余計な仕事が増えるのがこまるから、新しい車両の増強や、列車の増発などおよそ考えないものの如しである。

私は、「何でも民営化」だなどという安っぽい経済政策には反対の対場だが、こういうのこそは民営化して、バスと競争させるべきであろう。

チュンポンからナコン・パトムまでバスで行かなければならない。オートバイ・タクシーの親父さんに相談すると、ともかくバンコク行きのバスに乗って、ペブリあたりで降りて乗り換えて行けという。

この会話を全てタイ語でこなしたのには我ながら驚いた。もう15年前になるが、タイで2年間駐在員生活をしたおかげである。というよりはタクシーの親父さんがこちらの事情を察して、うまく説明してくれたおかげである。渡る世間に鬼はないといったところか?

いままさにスタートせんとするバンコク行きのエアコン・バスに乗り込む。ペブリまで200バーツ、所要時間は6時間であった。途中、バン・サパンまで2時間、さらにホア・ヒンまで3時間、ペブリまで1時間であった。国道のバス停でおろされる。

オートバイ・タクシーにナコン・パトム行きのバス停まで連れて行ってもらう。しかし、ペブリも結構見所のある町である。そこで、さらに行き先変更して、町1番のロイヤル・ダイヤモンド・ホテルまで連れて行ってもらう。

ホテルは静かな町外れにあった。受付嬢に1泊いくらかと聞くと800バーツとの返事が返ってくる。若い美人で英語がとてもうまかった。へやは広く、バス・タブはついていなかったが、申し分のないホテルであった。日本人はあまりこないということであった。

バンコクからたった2時間の場所で、歴史的な寺院など見所が多いのに、なぜだろうと思ったが、私自身も駐在員時代はホア・ヒンのソフィテル・セントラル・ホテルに泊まりに行ったが、ここははじめてである。ペブリのほうが休養にはうってつけだ。

ホテルの近くにレラックス(Relaks)という名の気の聞いたレストランがある。客はこの辺の中産階級で店の雰囲気は抜群にいい。値段も屋台の2倍くらいである。一人ぼっちなのがシャクの種だが、大いに気に入って翌日の昼食もここでとる。

ペブリの見所は、山の上の「プラ・ナコーン・キリ歴史公園」である。山の上まではケーブル・カーでいける。ほてるからあるいて5分くらいの場所であった。ここを扇の要のようにして町のそこかしこに寺院が点在する。いうまでもなくペブリはモン族のドワラワティ王国の貿易の中心地であり、ヒンドゥー・仏教関係の文化財が多数出ている。