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ワヒド政権(2001年8月5日初出)

インドネシアの大統領は2001年7月23日にワヒドからメガワティに交代した。なぜワヒドは辞めさせられたのか?恐らくワヒド自身 はインドネシアの民主化を推進しているのになぜ辞めさせられるのかという思いがあったに違いない。

ワヒドは99年10月に国民協議会(国会議員500名プラス地方代表者など200名が加わった計700名の議員からなる大統領の選任機関であり、スハルト時代は5年に1回しか開かれなかった)によって選任された。ワヒドは国会議員選挙ではPKB(国民覚醒党)を率いて戦ったが、メガワティ率いるPDI−P(闘争民主党33.8%)に惨敗し 12.6%の得票しかなかった。

メガワティが大統領に当選するものと多くの国民は考えていたが実際はそうはならなかった。スハルトから政権を委譲されていたハビビが第2党のゴルカル( 22.5%)の代表者であり、ハビビが大統領に再選されるという見とおしも根強く存在した。日経新聞は10月の決選投票の日の一面トップでハビビの当確を報道し、内外を驚嘆させたことは記憶に新しい。

しかし、実際はワヒドかメガワティかということになっていたのである。さらにいうなれば大統領はワヒド、副大統領はメガワティというシナリオは決選投票の1週間も前から決まっており、二人して故スカルノ大統領の墓前に報告に行っていたのである。この辺のいきさつはシンガポールのストレート・タイムズに早くから報道されていた。

(なぜワヒドが大統領になれたのか?)

ではなぜ少数党のワヒドが大統領になれたのであろうか?それは大統領選挙の直前になってイスラム諸政党の大同団結が成立したからである。ボロス・テンガ(中央枢軸)という動きがそれである。

もともとインドネシアはイスラム教徒が90%近くを占める世界最大のイスラム教国であるが、信仰の実際については濃淡があり、古来からの精霊信仰(アニミズム)の影響が強く残っていた り、ヒンズー教的神秘主義の影響があったり、あるいは形だけに近いイスラム教徒がいたり、またそれとは逆にイスラム教の教義をより純粋な形でとらえようとするインテリ層を中心とするグループがいたりする。

それらの人々はグループを形成して政治活動に歴史的に参加してきた。その中で最大のメンバー数 (4千万人)を誇るのがナフダトゥール・ウラマ(NU)であり、その指導者はワヒド(正式にはアブドゥラマン・ワヒドであり、ワヒドは彼の父親の名前である)、通称グス・ドゥル( ドゥル兄さん)である。

一方イスラム知識人を組織してきたグループは 旧マシュミ党の流れを汲むムハメディア(NUに次ぐイスラム組織)を母体とするPAN(国民 信託党=第5党、7.1%)であり、そのリーダーはシカゴ大学を出たアミアン・ライスである。

それ以外にスハルト時代にイスラム諸党をまとめて作られたPPP(イスラム開発 統一党)も大きな勢力を有し、選挙では第 4党(10.7%)となった。その党首は ハムザ・ハズ氏であり、今回副大統領に選ばれメガワティ大統領とコンビを組むことになる。ハムザ・ハズ氏はもともとNUのメンバーでもあった。

これら以外PBB(月星党)などの小イスラム政党を加えるとボロス・テンガ・グループの得票数は37.8%となり、国会での実際の議席配分は172議席となりPDI−Pの153議席を上回った。ちなみにゴルカルは120議席であった。

したがって、PDI−Pもイスラム諸党に団結されると第2グループに転落してしまい、ゴルカルと組まない限り大統領選挙には勝てない仕組みになってしまったのである。しかし、それはできない相談であった。

ゴルカルも当然多数派工作を行い、その資金の一部が「バリ銀行事件」として表面化した。これがハビビを決定的に不利にした。

(ワヒドの失敗)

このようなイスラム諸政党の大同団結は幸か不幸か短命に終わった。ワヒド政権発足時は反スハルト、反ハビビでともかく民主政治を目指すということで閣僚も各党から幅広く参加したが、それが永続しなかった。

まず最初にPDI−Pの ラクサマナ国務大臣(国営企業担当)、ついでクイック・キアン・ギー経済調整大臣が解任された。この二人はなぜか日本ではあまり知られていないがメガワティの両腕とも言うべき人物で、大変優れたエコノミストとしてインドネシアでは有名である。

インドネシア大学経済学部系のいわゆるバークレー・マフィアやその流れを汲むようなアカデミズム系の観念論者とはひと味もふた味も違う人物である。ところがワヒドはつまらぬ難癖をつけてこの二人を追い出してしまった。この段階でワヒド政権はおかしくなっていたのである。

追放した理由は簡単である。この二人はPDI−P幹部だったからであり、ワヒドのPKBにとって邪魔者だったからである。PKBは早くも2004年の選挙に向けて「資金作り」をスタートさせたかったのである。その意味で経済閣僚ポストは絶対にPK Bでおさえる必要があると認識し、ワヒドもそれに同調したのである。

それ以降もPKBの意向が強く働いた人事異動が繰り返された。 イスラム他党の閣僚も次々追われていった。PPPのハムザ・ハム党首もはっきりしない理由で早々に閣外に去った。アミアン・ライスとは政権発足時からすでに仲たがいしていた。

ワヒドは結局メガワティをもっと大切なパ−トナーとして 取りこむべきであったがそれをやらなかった。ワヒドはメガワティを「女性」だと思って軽く見ていたフシがある。メガワティは多くの人事異動でほとんど事前の相談を受けていなかったらしい。

しかし、ワヒドが思い通りに必ずしもやれなかった人事がある。それは軍関係の人事であった。なぜなら軍・警察に PKBの幹部はほとんどいなかったからである。

逆に、 スハルトの直系でもあったウイラントが飛ばされたあとの軍はメガワティに近い軍幹部が昇進してきた。また、軍もメガワティに頼って軍の昇進秩序を守ろうとし、軍ーメガワティの一種の同盟関係が形の上では成立してしまった。

今回ワヒドの汚職(スハルトに比べれば問題にもならない微罪であった)問題を契機に国民協議会で弾劾が行われる動きに対し、 ワヒドは「戒厳令」で国会の解散をおこなおうとしたが、閣内の軍関係者(ユドオノ調整大臣以下)を始め、軍・警察がこぞって反対し、ワヒドの「戒厳令」は空振りに終わった。

結論的にワヒドは与党のPKBに足を引っ張られて政治的に孤立し、途中で退任 させられてしまった。 しかし、今回の政変で軍がイニシアティブをとったという事実も無いし、今後よほどのことがない限り、政治のリーダーシップを取ることもないであろう。軍はむしろワヒドの一方的な攻撃にさらされ逃げ回っていたというのが実際の 姿であった。

しかし、スシロ・バンバン・ユドヨノはじめ軍人には次代のインドネシアの政治リーダーになりうる資質を持った人物がいることは改めて明らかなってきた。

(ワヒドという人物)

ワヒドというのは自分の古い仲間であるPKBの幹部のいうことしか聞かなくなって人事政策やメガワティとの協調に失敗したが、いったいどういう人物なのであろうか?ワヒドについてはスハルト時代にはスハルトにもゴマをすり、ゴルカルの選挙運動に協力する一方で「民主化運動」にも首を突っ込んでいた。

彼のことをオポチュニストと評する向きは少なくなかった。しかし、ワヒドが大統領になってもっとも私が驚いたのは「9・30事件」の決着をつけ「共産主義」に対する非合法を止めようと言い出したときだった。

1965年9月30日に共産党系の若手軍人(スカルノの親衛隊長であったウントン中佐など)が将軍6人を殺害するというクーデター事件が起こり、おりしもジャカルタに駐在していた戦略予備軍司令官であったスハルトが このクーデターをあっさりと鎮圧した。この事件をきっかけにスハルトは後に大統領になり、32年間の独裁政治を行った。

これは当時政治的大勢力(党員数公称350万人以上)であったPKI(インドネシア共産党)の陰謀であったということになり、50万人ともいわれるPKIメンバーが虐殺され、多くの党員や同調者が獄に繋がれ、島流しにあった。50万人の殺害はほとんどが裁判抜きの「リンチ殺人」であり、手を下したのは軍人とNUの 青年メンバーであったといわれる。

ワヒドは事件当時エジプト等に留学しておりリンチには直接関与していない。 スハルトはこの事件は「共産党の陰謀」であるということで国内をまとめあげ、イスラム勢力を動員して完全なる反共体制を築き上げた。

ところが2000年3月テレビ番組でワヒドは9.30事件を急に取り上げ、当時の虐殺事件について謝罪すると同時に、その後も反共 法の撤廃やマルクス主義文献の自由化などを提言した。

ワヒドにとってはこれは当然だとしても「PKI殺し」をやっ た人間にとっては、今度は元PKIのメンバーや家族から復讐される可能性もあるわけで、イスラム団体からは猛烈な反対論が沸き起こった。

この9.30事件は依然なぞの部分が多く、スハルト自身が仕組んだ「自作自演」のクーデター劇であったとか、米国のCIA陰謀説もある。いずれにせよ、この事件はカンボジアのポルポト政権の虐殺に次ぐ大事件であり、この問題はいずれインドネシア人自身が何らかの処理をつけねばならないであろう。なぜなら、この問題をうやむやにしたまま放置しておくことはインドネシアという国家の団結と正当性にも関わってくるからである。

ところでワヒドは自分自身では恐らく「民主派」だと思いつづけているフシがある。しかし、大統領として実際にやったことはしばし「独裁的」であり、議会を軽視していた。 また、人事権を乱用して閣僚や軍・警察幹部の首をしばしばすげ替えた。

特に最後の段階で「戒厳令を布こう」とするワヒドに抵抗したビマンタロ警察庁長官の解任事件は軍・警察はもとより議会の強い反対にあった。ビマントロは警察庁長官の任免 権は議会にあるとして抵抗したのである。 ワヒドはやむなく長官代行を任命したが、すでに政治的に孤立していたワヒドの強引なやり方は通用しなかった。また、イスラム教の指導者でありながらジャワ的神秘主義にもかなり傾倒していた。

しかし、ワヒドがいつも話していた通り「ワヤン人形劇(影絵)」の役割は終わってしまったら、人形はあとは箱に入れられるだけである。インドネシアには次々に新たな有能な、ときには邪悪なリーダーが現れてくるであろう。

インドネシアにはスハルト32年の暴政の中で生きぬいてきた人材が多く、指導者の質はかなり高いというのが私の見方である。ただし、悪(わる)も相当多い。この点だけは極東の某経済大国とて同様であるが。

(メガワティ大統領) (8月8日追加、8月18日に一部削除)

メガワティが大統領に就任してから閣僚名簿が発表されたのは16日も経ってからであった。だからインドネシアでは「民主主義は機能」しないのだなどという、お決まりの雑音が聞こえ始めている。しかし、民主主義は時間がかかるものなのである。

もともとインドネシアは「ムシャワラ(話し合い)」という言葉があり、村落内での「寄り合い」では原則的に長老連中や主だった自作農など出席者の満場一致で物事を決めていくという伝統があった。

そんなことではインドネシアは「近代社会」ではやっていけず非効率であるとして、 「民主制よりも独裁制」が良いという、いわば「開発独裁」支持論が日本では強かった。この議論は日本のアジア学者のオリジナル作品ではもともとなく、ハーバード大学のサミュエル・ハンティントン教授などが提唱し議論であった。これに新古典派の開発経済学者の一部が悪乗りしたのである。

日本の一部のアジア学者は韓国の「朴政権の成功例」をみてにわかに「開発独裁論」支持が主流となった。「開発独裁論者にあらざれば学者にあらず」といわんばかりの風潮が最近まで学会、ジャーナリズムを支配してきたのである。

ハンティントン等の主張は「短期的処置としての独裁是認」論であったが、日本の場合は「何が なんでも独裁」是認論が主流であった。マルコス政権やスハルト政権を崩壊の最後の日まで日本人の関係者(政府、学者、ジャーナリズムの一部)は支持してきたのである。

独裁政治が何をもたらしたか結果を見ればあきらかである。民主主義的に十分時間をかけて物事を決めたほうが良かったことは明白である。独裁政権下でいかに多くの人々が不条理な死を遂げたことか、いかに多くの国民の財産が奪われ、かつ海外に持ち出されたことか、いかに貧しい経済的パフォーマンス(政府発表の見かけの数字は別として)であったか?

早めに民主制に切り替えたタイはインドネシアやフィリピンなどより遥かに豊かな経済的発展を遂げていることに思いを致すべきであろう。しかし、今でも「インドネシアに民主主義が根付くはずがない」と思っている「識者」は決して少なくない。

ところで、メガワティについて言えば政治家としての評判はお世辞にも「良好」とはいえない。ワヒド時代にもあまり多くの発言をしなかったし、「何を考えているかよく判らない」とか「何の政治的信条もなく周りに担ぎ回されているだけだ」とかいわれている。

最近ではアメリカの雑誌「TIME,、2001年8月6日号、25ページ」で、スハルト時代に共産主義者(あるいは同調者)として最近までブル島に抑留されていた著名な文学者プラムディア(Pramoedya  Ananta Toer)は「私はメガワティなど信用しない」と語っている。

彼によれば「メガワティはスハルト政府から住宅と「国会議員」のポストを与えられ何不自由なく暮らしてきた人物である。メガワティしか居ないから青年層に担がれているだけで彼女自身スカルノの著書すら読んでいないのではないか?スカルノの良い性格を引きついでいるとは思えない。紛争の起こっている地域には行くが涙を見せるだけで終わりである。彼女では駄目だ。インドネシアはいまや社会革命(Social Revolution)の時代に入っているのだ」とかなり手厳しい評価を下している。

このプラムディアの言葉は恐らく真実を鋭く突いているであろう。しかし、今はこれしか仕方がないというのも事実である。メガワティを最初に政治の表舞台に担ぎ上げたのは軍の改革派であるといわれている。

野党の民主党の党首に担ぎ出されたのは1993年である。しかし、メガワティは単なる「操り人形」にしては求心力が有りすぎたため、スハルトは慌ててメガワティ下ろしにかかった。メガワティ支持派の軍人が先ずパージされ、次いでメガワティを民主党大会で党首の座から引きずり下ろすという荒業が行われた。

それを取り仕切ったのがパンガベアンなど国軍主流派の幹部であった。そのとき(1996年7月)に民主党事務所の明渡しを巡って大きな暴動がジャカルタで発生した。民主党を追い出されたメガワティ派は「闘争民主党」という新たな政党を作って民主化闘争を開始したのである。

それから僅か3年後の選挙でそれまで75%前後の得票を得ていたゴルカル(党)を破り、議会の3分の1を占める第1党となったのである。しかし、メガワティの真価を決めるのはこれからである 。

(メガワティの新閣僚発表ー8月9日追加、8月18日、9月15日一部修正)

メガワティが大統領に就任してから16日も経ってからようやく閣僚名簿が発表された。”ゴトン・ロヨン(相互扶助)内閣”というのがうたい文句である。1957年2月にスカルノ大統領が「指導された民主主義」方針を打ち出し、共産党を含めた主要政党の連合内閣を作ったときも「ゴトン・ロヨン内閣」と呼ばれていた。

その顔ぶれをみるとPKBを除く”挙国一致内閣”には違いないが”メガワティの内閣”すなわちメガワティが仕事をやりやすような強力な内閣という印象である。

まず、政治・治安調整相には 予想通りスシロ・バンバン・ユドヨノが就任した。彼は軍人出身でありながら健全な常識を備えた民主派といわれており、国民的人気は高い。ただし、退役した先輩軍人の中には利権から遠ざけられるという恐怖感を抱くものも少なくないであろう。

経済調整相にはかねて呼び声の高かった、 駐米大使のドロジャトン・クンチョロヤクチが就任する。彼はインドネシア大学経済学部長を務めた学者だが、 74年のマラリ事件(田中首相が訪問した際に起こった暴動)の時の学生運動のリーダーであり、逮捕され刑務所暮らしの経験もある。

インドネシア大学の教官になってからもスハルト 体制とは距離を保ち、スハルトのクローニー華人資本の動きには絶えず批判的であった。彼自身はカリフォルニア大学バークレー校でPhDを取得しているが、インドネシア大学の いわゆる「バークレー・マフィア」(スハルト体制を支えたといわれる)の流れを汲む安っぽい”新古典派”経済学者ではない。

90年代初めに日系企業の投資ラッシュが始まったときも”日本企業は足許をすくわれないように気をつけた方が良い”と警告を発している。(Far Eastern Economic Review, 1990年9月27日号)彼こそインドネシアが誇る最も優れた”骨太”のエコノミストといえるであろう。アメリカ大使時代もアメリカ政府や国際機関からも高い評価を受けており、IMFとの交渉役としてもうってつけの人 物であろう。

経済企画庁長官には元の経済調整相のクイック・キアン・ギーが就任し、歳入および国営企業担当相にはラクサマナ・スカルディが就任した。この二人は先に述べたとうり、メガワティの両腕ともいえる人物であり、ワヒドの側近に讒言され罷免された人物であり、この二人が閣外に去ってからインドネシア経済は急におかしくなり始めたのである。

このほかでは財務相にブディオノが就任した。彼は ガジャマダ大学卒業後オーストラリアのモナシュ大学で修士、アメリカのペンシルバニア大学のウォートンスクールでPhDを取得、ガジャマダ大学で教鞭をとった後、世銀関係のIBRDの理事代行、インドネシア銀行の理事や一時的に経済企画庁長官も勤めたことが有る 物静かな実務的官僚である。

また、通産相のリニ・スワンディは潰れかかったアストラ社(インドネシア最大の自動車メーカー)を再建した女性マネージャーである。 ただし、本当の実力は未知数であるが頭の切れの良さは定評がある。

 このように経済閣僚に限っていえば”インドネシア建国以来の最強の布陣”といってよいであろう。スハルト政権発足時にいわゆるバークレー・マフィア(ウイジョヨ・ニティサストロ、エミル・サリムなど)が経済閣僚を代表していたが、本当の実権はスダルモノなどの国家官房(民族派官僚)が握っており、ウイジョヨ等はいわば「表舞台」の顔にしか過ぎなかった。

 また、交通相に選ばれたアグム・グメラールは軍人出身であるがメガワティを昔から支えてきた改革派であり、ユドヨノにも匹敵するぐらい人望は高い人物である。彼を副大統領に推す声も有ったほどである。

国防相になったマトリ・ アブドゥル・ジャリルは元PKBの党首でありながらワヒドと折り合いが悪く、99年10月の選挙にもメガワティを大統領にすべきだという発言を繰り返していた。

 司法・人権相に就任したユスリル・イザ・マヘンドラはPBB(月星党)というイスラム政党の党首であり、インドネシア大学の法学部教授である。 スハルト大統領の演説原稿のライターを勤めたこともあり、もともとワヒドと親しかったが最後に袂をわかった。 しかし、彼はPBBの幹部から不正蓄財の疑惑を告発されている。(週刊誌Tempo、8月28日号)

国民福祉調整相になったユスフ・カラはワヒド時代に通産相をやっていたが汚職の嫌疑をかけられ2000年4月にラクサマナと同じ日に追放された。彼の汚職疑惑はかなり実態があったといわれる。彼はスラウエシ出身であり、ブカカ財閥のオーナーである。スハルト時代の大物民族派官僚であるギナンジャールに引き立てられて、石油公社プルタミナ関係のビジネスで財を成した。PDI−Pの幹部であるアリフィン・パニゴロ(石油会社メドコ社長)等とともに”ギナンジャール・ボーイズ”と呼ばれている。

閣僚名簿は以下のとおりであるが従来日本ではあまり名前を知られていない人が多い。

Coordinating Minister for Political and Security: Susilo Bambang Yudhoyono( 49年生、軍人)

Coordinating Minister for Economic Affairs: Dorodjatun Kuntjoro-jakti(39年生、学者)

Coordinating Minister for People's Welfares: Yusuf Kalla(42年生、ゴルカル、実業家 、スラウェシ出身)

Minister of Home Affairs: Hari Sabarno(軍人、国会副議長)

Minister of Foreign Affairs: Hasan Wirayuda(官僚、外務省)

Minister of Justice and Human Rights : Yusril Ihza Mahendra(PBB党首、学者)

Minister of Defense : Matori Abdul Jalil(元PKB党首、メガワティ派)

Minister of Religious Affairs: Said Agil Munawar(ナフダトゥール・ウラマ、大学教授)

Minister of National Education : Abdul Malik Fajar(ムハメディア、大学教授)

Minister of Health ; Ahmad Sujudi(無党派)

Minister of Finance : Boediono(43年生、経済官僚)

Minister of Trade and Industry : Rini Suwandi(58年生、女性、民間企業経営者)

Minister of Manpower and Transmigration : Yacob Nuwa Wea(PDI-P、全国労働組合連合議長)

Minister of Agriculture : Bungaran Saragih(PDI-P、大学教授)

Minister of Forestry : M Prakosa(PDI-P)

Minister of Transportation : Agum Gumelar(軍人、メガワティ派)

Minister of Energy : Purnomo Yusgiantoro(留任、バンドン工科大卒、エネルギー経済学者)

Minister of Fisheries and Maritime Affairs: Rochmin Dahuri(ゴルカル)

Minister for Resettlement and Regional Infrastructure : Soenarno(官僚)

Minister of Social Affairs : Bachtir Chamsjah(PPP=イスラム統一開発党)

State Minister for Culture and Tourism : I Gde Ardika(官僚)

State Minister for Research and Technology : M Hatta Rajasa(PAN)

State Minister for Cooperatives and Small-Medium Enterprises : Ali Marwan Hanan(PPP)

State Minister for Women's Empowerment Affairs: Hj Sri Redjeki Soemarjoto(女性、ゴルカル)

State Minister for the Environment : Nabiel Makarim(官僚)

State Minister for Administrative Reforms : Faisal Tamin(KORPRI=公務員協同組合)

State Minister for Acceleration of Development of Eastern Indonesia : Manuel Kaisiepo(無党派)

State Minister / Head of the National Planning Board : Kwik Kian Gie(35年生、PDI−P)

State Minister for Revenues and State Companies : Laksamana Sukardi(56年生、PDI−P)

State Minister for Communication and Information : H Syamsul Muarif(ゴルカル、国会議員団長)

State Secretary : Bambang Kesowo  (官僚、国家官房)

(ラクサマナ国務相はIBRAも担当)(8月15日追加、8月26日加筆)

国営企業担当のラクサマナは8月14日付けのジャカルタ・ポストによると従来財務相の担当であったIBRA(インドネシア銀行再建庁)の業務を統括することが決定された。IBRAは1997年の経済危機以降窮地に陥った銀行への資金注入と引き換えに担保として押さえた約600兆ルピアの資産の処分(売却)を行う機関であり、政治的にも大きな利権の場であるという見方がされていた。ワヒドはPKB党員がこの機関の全権を掌握することを狙いあえて強引な人事異動を行ったとされる。

またラクサマナが2000年4月に解任された時に担当していた「国営企業」もIMFから民営化(民間への株式売却)にからみ、利権の温床となる可能性があり、清廉なラクサマナが邪魔になり、閣僚ポストから外されたという見方がされていた。

今回メガワティ大統領は国庫収入に直接結びつく国営財産の処置を司る(今日のインドネシアでは極めて重要な意味を持つ)ポストを全てラクサマナに託したという見方ができよう。

ラクサマナは1956年10月1日生まれ、バンドン工科大学を卒業後、 1981年シティ・バンクに入り、監査部を経た後 85年から87年まで営業部のバイス・プレジデント(担当部長クラス)を経験している。1987年にバンク・ウマム・エイシアの取締役になり、88年にリッポ銀行に副頭取として迎えられ、1988年から93年までリッポ銀行の 頭取を勤めた。

1992年にはインドネシアのバンカー・オブ・ザ・イヤーに弱冠36歳で選ばれている。その後、政治活動に入り民主党でメガワティの片腕として今日に及んでいる。 また、彼は自由主義派エコノミストとしても有名である。なお財務相のブディオノは今回のこの措置(IBRAを自分の所管から外す)を歓迎しているという。

(8月26日、9月15日加筆・修正)

なお、ファー・イースタン・エコノミック・レヴュー誌(2001年8月30日号)にラクサマナの特集記事が掲載されている。ホーム・ページのアドレスは http://www.feer.com ですのでご関心の向きはご参照下さい。本誌の表紙の表題は;”CAN THIS MAN SAVE INDONESIA?" というもの。

ラクサマナを紹介した記事は日本ではあまり見かけないが、FEERが今回のメガワティ政権で先ず注目したのがこの人物である。これからのインドネシアの政治経済はこの人物の仕事の成否にかかっているといっても過言ではないであろう。

ラクサマナにかかる国民的期待は極めて大きい。汚職と利権の温床である国営企業とIBRAの接収資産(国家資金貸付の担保として企業から接収したもので、当初の担保価値は650兆ルピアだったものがすでに167兆ルピアにまで減価しているという)の売却という難事業に取り組む責任者が彼の立場である。

また、国営企業には軍営(国軍が経営している)のもかなりあり、軍は国家予算から支給されるお金では経費のほんの一部(一説によると20%ていど)しかまかなえず、残りは国営企業の収益、その他(ワイロを含むさまざまな上納金)でまかなっているという。したがって、国営企業の民営化などはそう簡単には実現しない。