トップ・ページに戻る

(最近の記事)


⇒ムニール暗殺事件、ムファディ元情報部副部長に無罪判決(09年1月2日)

⇒ムニール事件、主犯ムファディ元情報部副部長に15年の求刑(08年12月3日)


⇒ムニール事件、ムファディがムニールの暗殺指令(08年11月7日)

⇒ムニール事件で元情報部副部長ムファディを逮捕拘留(08年6月20日)

⇒ポリカルプスに20年の禁固刑判決(08年1月26日)


⇒情報部員がポリカルプスの関与を認める証言(08年1月16日)


⇒ガルーダ元社長、情報部の関与を認める証言(07年11月14日)

⇒ムニール事件で元情報部次長を喚問(07年9月21日)


⇒ムニール暗殺で新証言、情報部の関与濃厚(07年8月21日)

⇒ガルーダ航空前社長と女性スタッフ逮捕(07年4月15日)


ムニール事件

1965年生まれ、1989年ブラウィジャヤ大学法学部卒業後、インドネシア法律支援基金(YLBHI)に所属、スハルト政権下における人権侵害被害者救援活動に従事。それとは別に、スハルト政権末期に頻発した反体制活動家の拉致や殺害事件の 被害者を救済する目的でKontra sを設立し、委員長に就任する。1999年には東チモールにおける民兵組織(背後にインドネシア国軍)の現地人虐殺事件などを糾弾する団体(KPP-HAM  Timtim=東チモール人権侵害調査)のメンバーとなる。2002年6月には他の16名の人権活動家とともにImparsial(人権モニター)を設立するなどは ば広く活動していた。メガワティ政権下では警察や軍の人権教育の教師も務める。04年9月7日、ユトレヒト大学(オランダ)で修士号を取得するため留学の途上、ガルーダ航空機の機上で急死。38歳の若さであった。

 

 人権活動家ムニールの死因は毒殺であった(04年11月12日)

04年9月7日にオランダに向かう飛行機の中で急死した、著名な人権活動家ムニール(Munir)の死因は慢性肝臓病によると発表されていたが、オランダの検視研究所の調査では 砒素または重金属(水銀など)による「毒殺」によるものであるとの結果をえた。

ムニールはシンガポールについた段階から体調の不全を訴え、引き続きガルーダ航空に搭乗してから、嘔吐を繰り返し、たまたま同乗していた医師にも診断を仰いだがアムステルダム空港到着2時間ほど前に息を引き取ったという。

検視結果はオランダ外務省からインドネシア外務省に11月11日に送られたが、インドネシア政府はその発表をしばしためらっていた模様である。

ムニール夫人は検視結果を公表するようにインドネシア政府に要求していた。元大統領アブドゥラマン・ワヒドも早急に真相の解明を行うべきであると言明している。

インドネシア政府は係官をオランダに派遣して検視結果の詳しい報告を受けるという。本人の遺体は郷里(東ジャワの、マラン)に埋葬されているが、夫人は再検査のための遺体の発掘調査には協力を惜しまないといっている。

Munirが毒殺されたとすれば下手人は軍関係者という疑いがまずもたれる。KPP-HAM Timtimの活動家たちはウィラントの東チモールでの住民虐殺を真っ先に糾弾した組織として知られる。

彼はしばしば、テロに見舞われ、事務所が暴徒に襲われたり自宅に手榴弾を投げ込まれたり、何度か暗殺を免れている。また、03年5月27日にはアチェの軍事行動を批判するのは「非愛国的行動だ」として暴徒がKontrasの事務所を襲撃している。

警察がこれに対して、ろくな捜査を行わなかったことは言うまでもない。

大統領選挙決戦投票の前夜に彼が口を封じられたということの理由をもあわせて究明されるべきであろう。よりはっきり言えば、民主体制下の軍関係の何者かがなぜ彼を殺害する必要があったのかということである。

彼のようなまっとうな人権運動家の存在を許さない理由は一体なんであろうか?

⇒背後に強力な組織(04年11月18日)

インドネシア人権監視委員会(Imparsial=Indonesian Human Rights Watch)のラフランド(Rachland Nashidik)理事によればムニール暗殺の背後には強力な組織が存在するということである。

強力な組織とは言うまでもなく軍であり、下手人は軍の謀略組織(必ずしも情報部とは限らない)である。誰がムニールの暗殺命令を出したかはもちろん今後の調査を待たなければならない。

ラフランド理事は政府に対し、「真相究明委員会」を組織し、軍・警察関係者だけでなくNGOの代表やムニールの親族も参加させてもらいたいと要望している。

また、ラフランド理事はムニールに毒(ヒ素)が盛られたのはガルーダ航空の機内ではないかとも語った。 (シンガポールでトランジットしているのでそジャカルタ⇒シンガポール間でやられた可能性もある)

いずれにせよ、相当計画的にこの暗殺は行われたものであり、しかもプロの仕業であろう。ムニールの飛行計画を事前に察知し、多分同じ飛行機に犯人が乗っていた可能性 がある。

(04年11月20日追記)

Kontras の活動家の調査によって次第にいろいろな事実が明らかになってきた。出発の3日前にガルーダ航空の職員という男がムニールの自宅を訪れ、ムニールのオランダまでの旅行について予定の変更の有無など確認にきた。

ガルーダ航空に搭乗するとその男が現れ、オランダまで同行すると言ってきた。途中、シンガポールのチャンギ空港まで、エコノミー・クラスからビジネス・クラスにムニールを「グレード・アップ」するとその男は言ってきた。

ムニールは断ったが、しつこく勧めるその男のいうことを聞いてムニールはビジネス・クラスの座席に移った。そこで機内食や飲み物のサービスを受けた。

シンガポールでトランジットで一時休憩して再び、ガルーダ航空に乗ったが、その男は急用ができたといってジャカルタに引き返してしまった。ムニールはシンガポールで搭乗前に既に異変を訴えていたという。

ムニールはそのまま旅行を続けたたが、機内で発作を起こし、たまたま同乗していた医師(インドネシア人)の介護を受けながら旅行を続けたが、着陸2時間前に死亡してしまった。

ガルーダ航空の男というのは氏名が確認されており、Kontrasの事情聴取にも応じたという。

しかし、このPolicarpusという人物は、被疑者の中にはなぜか入っていないという(05年1月24日、ジャカルタポスト)

(04年11月23日追記)

ムニールの夫人のもとに脅迫文やニワトリの頭と足を詰め合わせた小包などが送られてきているという。 それには脅迫文が添えられていて「軍のせいにすると、お前もこうなるぞ」という趣旨のことが書かれていたそうである。

それを聞いて国軍司令官エンドリアルトノ・スタルトも内心穏やかではないらしく、「軍はムニールの死についてはいつでも捜査に協力すると」語った。軍が直接手出しをしたというより、軍系の「殺し屋部隊」がスハルト時代から健在だということであろう。

その後 警察は何もしそうにないので議会が動き出し、ムニール一家の安全について適切な処置をとるように関係筋に働きかけているという。

特に最近になって警察のやる気のなさが注目されている。犯人逮捕の手がかりを得るために係官がオランダに派遣されたが、同行のNGO関係者も愛想をつかすほど緩慢な対応であるという。

警察としては犯人の目星がついていて、手を出すには怖い存在が浮かび上がってきたのであろう。グス・ドゥル元大統領は犯人逮捕については政府のやる気については悲観していると語っている。

問題はSBY大統領がどうするかということである。バリ事件のときのように彼は「逃げ」の一手で行く可能性が強い。そこに手をつけたら、軍の「暗黒部」との一戦は避けられないからである。

 

⇒SBYが動かないことに対する国民の苛立ちが強まる(04年12月10日)

SBYは案の定、自ら約束した「調査チームを結成して、真相の究明に当たる」といった約束をいまだに実行していない。最近の情報では、とてもやりそうな様子は見られないという。

国会ではSBYが動かないと見るや、政府に対して早くアクションを取れと促す動きが出てきた。ゴルカルのスラマット・エフェンディ・ユスフ議員やPANのアブディラ・トーハ議員などが積極的にこの問題で発言している。

この問題は警察や人権団体などが独自に調査を進めており、かなり有力な手がかりをつかんでいる形跡がある。ガルーダのッスタッフが当然関与しており、ジャカルタからシンガポールの機中で砒素を盛られたこともほぼ確かである。

ガルーダのスタッフのうち、軍関係の仕事を長年やっていたものがおり、それが直接の下手人の可能性もある。

もし下手人があがれば、軍関係者(特に情報部?)の指示で動いたことがバレるため、なんとしても「迷宮入り」させたいというのがSBYの潜在意識にあるのではないかと憶測する向きもあるという。

SBY が公正な政治を国民に約束している以上、いくら「身内」が危険にさらされようとも、断固真相の究明に努力すべきことは当然である。

SBY が動かないことに対する国民の不満が高まってくるにつれ、副大統領のユスフ・カラが「大統領はご多忙だから私が代わりにやる」などといっているが、大統領が動かない以上、ユスフ・カラが本気だなとは誰も思わないであろう。

なお、PANの党首のアーミン・ライスもSBYの動きが悪いことに対し、不満を表明している。SBY としても「動きたくとも動けない」事情があるのであろう。(04年12月12日、Tempo)

 

⇒有力容疑者としてガルーダ航空のスタッフが浮上(05年3月11日)

上でも述べたが、ムニールにまつわりついて、エコノミー席からビジネス・クラス席に席を移したり、ムニールの出発2日前にムニール宅に電話をし、出発を確認したりしていた人物がやはり有力容疑者として浮上した。

その人物の名前はポリカルプス(Pollycarpus)といってガルーダ航空のパロットである。彼はもともと軍の飛行機のパイロットで東チムール紛争のときは情報部の専用機のパイロットとして活躍していた前歴がある。

彼がムニールが殺された日に、ジャカルタの飛行場からシンガポールまで特別に乗務したことが問題になっている。その間にムニールは毒(砒素)を盛られたと考えられている。

そもそも、何の必要があってポリカルプスが特別にガルーダ航空に乗ったのかは判らないが、ガルーダ航空の幹部は「乗務命令書」を出したと主張している。しかし、乗務当日ではなく、事後に出したことがバレてしまった。

となると、ガルーダ航空は全社がらみでムニールの殺害を隠蔽し、場合によっては殺害に加担したことになりかねず、社長の責任も問われかねない。

国際法上は航空機の中で起こった殺人事件はその航空会社が自ら実態の解明を行う義務があるが、ガルーダ航空は何の調査もやっていない。それだけでなく、ガルーダ航空は捜査に対しきわめて非協力的であるといわれている。

ポリカルプスは警察に3月10日に喚問されたが、急遽、病気になり入院したということである。ポリカルプスが犯人(下手人)であれば、今度は彼自身が殺害される危険もある。スハルト体制の作った軍というのはロクな存在ではない。

(05年3月16日追記)

インドネシア警察は3月15日にポリカルプスの取調べを行った。具体的な容疑にかかわる供述は得られておらず、取調べは数日続くものと考えられる。

ポリカルプスの家族は本人の身に危険が迫っているため(口封じのために殺害される)警察に留置されることを望んでいるといわれている。

(05年3月16日追記)

インドネシア警察は3月15日にポリカルプスの取調べを行った。具体的な容疑にかかわる供述は得られておらず、取調べは数日続くものと考えられる。

ポリカルプスの家族は本人の身に危険が迫っているため(口封じのために殺害される)警察に留置されることを望んでいるといわれている。

 

⇒ポリカルプスを容疑者として逮捕、ガルーダ全役員解任(05年3月19日)

インドネシア警察はガルーダ航空パイロット、ポリカルプスを人権活動家ムニール殺害の容疑が固まったとして3月18日に逮捕・拘留したと発表した。

それに先立ちガルーダ航空は3月16日に6名の監査役、7名の執行役員計13名の役員全員の解任を発表した。ガルーダ航空は国営企業のため人事権は政府(国営企業担当相スギハルト=Sugiharto)が握っている。

ガルーダの役員総入れ替えjはムニール事件とは直接関係がなく、経営全般の改革の停滞・失敗が解任の理由であるとしているが、ムニール事件へのガルーダ航空への関与が何らかの影響を及ぼしたという印象は免れない。

上にも述べたようにムニール暗殺事件はガルーダ航空の機内で起こった事件であるにもかかわらず、ガルーダ航空は何の調査もやっていない。それだけでなく、ガルーダ航空は捜査に対しきわめて非協力的であるといわれている。

このこと自体、航空会社としての国際法上および国内法上の重要な義務違反である。

そればかりでなく、直接の下手人と疑われているポリカルプス容疑者に対する隠ぺい工作に会社のトップが率先して加担していたことが明らかになったのである。

これまでのムニール暗殺事件特別調査チーム(SBY大統領命令で警察やムニール関係者などで編成)の調べでは、4名のガルーダ航空幹部が事件に関与している疑いがもたれている。

前社長のインドラ・セティアワン(Indra Setiawan)と安全担当責任者のラメルギア・アヌワール(Ramelgia Anwar)とエアバアス330機長秘書のロハイニル・アイニと運行安全担当のポリカルプス(Pollycarpus)である。

直接犯行にかかわったのはポリカルプスであるが会社ぐるみムニール暗殺計画を推進していたフシがある。

まず、社長であったセティアワンがポリカルプスを運行安全担当(aviation security officer)任命の署名を04年8月11日付けで行ったということである。社長自らこういう書類にサインした実績は過去にはない。

また、人事担当副社長であるダーン・アーマッド(Daan Ahmad)が社内の一連の工作を取り仕切ったとも言われている。

それとポリカルプス自身は普通のパイロットであり、正式な訓練・教育を受けておらず、ガルーダの社内規定による「運行安全担当者資格」の証明書を持っていなかった。つまり、無資格者を強引に担当者に社長自ら任命したということになる。

それとポリカルプスを問題を起こしたガルーダ航空機に登場させる命令書を発行したのは安全担当責任者のラメルギアであり、彼はムニールが登場する2日前の9月4日にサインしている。ところがそのサインした日は土曜日で実際にガルーダの事務所は開いていなかった。

あとでわかったことは、その書類のサインは事件が起こった後の9月15日に作成され、サインされたのは9月17日であった。

第3の文書として機長秘書のアイニが9月6日に作成したとされる、ポリカルプスの搭乗命令書(ムニールと同じ飛行機に乗って、シンガポールで降りてジャカルタに翌朝帰る)は秘書にはサインの権限がない文書である。

つまり、ポリカルプスは正式の資格もなく、正式の搭乗命令もないまま問題のガルーダ機に勝手に乗り込み、それを後から関係者が隠ぺい工作を行ったのである。

ポリカルプスの背後にはインドネシア情報部が関与していると見られ、調査チームは少なくとも2名の情報部員がこの事件にかかわったことを突き止めているという。

ポリカルプス自身は犯行を否認しており、情報部とのかかわりも否定している。

事件が起こった当時の情報部長官はヘンドロプリヨノ(Hendropriyono)であり、彼は東チモールで1999年に住民虐殺事件を民兵を使って起こさせたり、イスラム過激派を手下に持って怪しげな事件を起こしていた人物として知られている。

ここ数年の間に、イスラム過激派といわれる「爆弾屋」が起こした数々の爆破事件(バリ事件を含む)についてもヘンドロプリヨノは可なり怪しいと見る向きもある。キー・マンであると見られていたアル・ファルクを逮捕してすぐに米国CIAに引き渡すなど不振な行動が目立った。

ただ、ヘンドロプリヨノは改革派を装い、スハルト失脚後ハビビやメガワティにうまく取り入って情報部長のポストについていた。その辺は軍人仲間としてわかっているSBY 大統領はシレガールと交代させたのであろう。

 

⇒情報部のトップ・クラスが事件に関与か?(05年3月25日)

この事件はもともとガルーダのスタッフが仕組んだものではないことは自明である。背後には軍関係者とりわけ情報部がいることはいわば公然の秘密であった。時間の経過とともに、情報部の誰がムニール暗殺を企てたのかということがアブリ出されてきた。

現在の段階ではもちろん確証もなく噂に過ぎないがジャカルタのメディア(例、Suara Merdeka)には次のような具体的な名前があがってきているという。

下手人のヘッドは情報部(BIN)副司令官のムファディ少将(Muchdi Purwopranjono) ではないだろうかという。ムファディ少将はスハルト政権の末期(1997-98年)には陸軍特殊部隊(Kopassus)の隊長として民主派や学生の弾圧に当たった。

当時の活動家13名は未だに行方不明であり、殺害されたことはまず間違いないといわれている。彼はその後Kopassus隊長を辞任させられたが、いつの間にか情報部の副司令官として復活した。この辺にメガワティ前大統領のいい加減さとワキの甘さもあった。

ポリカルプスはこのムファディが直接スカウトした人物であるといわれている。ポリカルプス自身は情報部の工作員でありピストルを所持していることを周辺に吹聴していたといわれる。

 

⇒ガルーダのスタッフ2名を容疑者として特定(05年4月6日)

インドネシア警察は当日の問題の飛行機に搭乗していた2名のガルーダ航空スタッフを容疑者として特定した。1人は飛行機の調理場(Pantry)で働いていたウディ・イリアント(Oedi Irianto)というスタッフであり、もう1人はスチュワデスのイェティ・ススミアルティ(Yeti Susmiarti)である。

この2名が実際に砒素を飲み物に混入し、ムニールに飲ませた容疑である。ただし、現在は2名とも逮捕はされていない。

オランダ警察はついにオランダで行ったムニールの検視結果を公表し、ムニールは約0.5グラムの砒素を盛られたということである。

 

⇒BINは関与を否定、だが容疑者は特定されている(05年4月13日)

ポリカルプスはインドネシア情報部(BIN)の要員だったのではないかという疑惑に対してBINのシレガール(Syamsir Siregar)長官は証拠ががあるなら見せてみよと強く否定している。

秘密諜報部員に辞令が渡されるかどうかはよくわからないが、ポリカルプスについては情報部(BIN)副司令官のムファディ少将(Muchdi Purwopranjono) が彼を秘密情報部員にスカウトし、「Skep Ka Bin 113/2/2002」という手紙(辞令)を渡していたということがすっぱ抜かれた。

Skep Kaというのは情報部長発の命令書の略号である。同時に、P-2 ダブルアクション・ピストルというインドネシア軍事工廠(PT. Pindad)で製造されたピストルが支給されていたという。

日刊紙Suara Meredekによると、今回に事件の首謀者はムファディ少将で、ヌルハディとスパルトという2人のSergeant Major(上級曹長)がムニール暗殺の実行を命令されたという。

ムニール殺害の動機はスハルト政権末期に多数の民主派活動家が誘拐され、そのうち13名が行方不明になっているが、ムニールはオランダ留学中に実態を暴露する可能性が高いとBINは判断したためではないこと見られている。

また、ムファディ少将は05年4月の初めに解任されてしまった。ムファディは活動家誘拐・殺害事件が起こった198年当時、特殊部隊(Kopassus)の司令官であった。

政府の特別調査チームは最近ナイジェリア大使に任命されたBINのヌルハディ・ジャズリ(Nurhadhi Zazuli)官房長に事情聴取を行う予定であるという。しかし、ヌルハディ大使はBINの事務所でなければ事情聴取には応じないとして予定をキャンセルしてしまったという。

BINの事務所は記録装置一切(テープ・レコーダー、写真機、携帯電話など)の持込を禁止しているという。こういう話を聞くとますますBINの関与が疑われても仕方が無い。

 

⇒情報部幹部を取り調べ(05年5月17日)

インドネシア政府の特別調査チームは最近ナイジェリア大使に任命されたBINのヌルハディ・ジャズリ(Nurhadhi Zazuli)前官房長を5月9日(月)に一応取り調べることができたが、疑惑はさらに深まったとして第2次取調べを5月18日(水)に実施する。取調べの場所は明らかにされていない。

ヌルハディは5月11日(水)に別に警察の取調べを受けている。どちらも結果は公表していない。

ヌルハディに続いてムファディ(Muchdi Purwopranjono=少将)元BIN副部長も近々事情聴取されると観測されている。(上の青字部分参照)ガルーダ航空のポリカルプスをリクルートしたのはムファディであると見られている。

BIN(インドネシア情報部)とTNI(インドネシア国軍)双方ともムニール殺害に関与していないと再三主張しているが、動機を持っているのは軍関係者しかおらず、インドネシア国民の目はもっかBINに向けられている。

本件をウヤムヤに済ますとSBY大統領の「正義派」イメージが一挙に崩れるため、インドネシア政府としても困った展開になってきた。

(05年5月20日追記、05年12月25日一部修正加筆=青字部分

ポリカルプスはムニールの死の前後に41回にわたり(以前は死後35回という情報)にわたり、BINの誰(ムファディ副部長の部屋)かと携帯電話で連絡を取っていたことが突き止められた。

ムハディは「その携帯電話は運転手など誰でも使えるようになっており、私にかかってきた電話ではない」と電話連絡を後の公判で否定している。また、その電話代金は1995年からプラヨゴ・パンゲツのバリトー(Barito Pacific Timber)社が支払っていたと証言した。

SBY大統領は真相の究明についてシレガール情報部長に協力を指示したが、一方において政府の調査チームは予定通り05年6月25日で解散させるとも言っている。

 

ヘンドロプリヨノ前情報部長を近く取り調べ(05年5月28日)

政府の調査チームは現在米国にいるヘンドロプリヨノ前情報部長をムニール暗殺事件の参考人として取り調べることになった。ポリカルプスはムニールの死後、ヘンドロプリヨノにも電話連絡を取っていたことが明らかになった。

また、ムニールと同じ飛行機のビジネス・クラスに情報部のバンバン(Bambang Irawan)大佐が同乗していたことが明らかになった。ムニール暗殺は情報部ぐるみの事件であったことがうかがえる。

またポリカルプスの自宅から押収された手帳には暗殺当日のガルーダ航空の座席の略図が書かれていたことを突き止めた。

 

⇒ムニール暗殺の4つの手口−情報部員作成か?(05年6月15日)

政府の特別調査チーム委員長マルスディ・ハナフィ(Marsudi Hanafi)警察准将は調査の過程で入手したと称する、ムニールの殺害計画・方法を記した文書の内容を一部明らかにした。

それによると、ムニールを暗殺する方法として、@交通事故に見せかけて殺す、A魔術(法)をかけて殺す、Bはムニールの事務所で、さりげなくムニールの飲食物に毒を入れて殺す、Cは実際にムニールが殺害された方法である。

@とAとでは確実に殺せる自信がなかったということであろう。特に、Aについてはわが国でも奈良の昔からつい最近まで、効果があると一部の人によって信じられていた方法で、祈祷師などが「祈り殺す」という方法だが、さすがにこの方法は頼りないと思われたのであろう。

Bについては、ムニールの事務所のスタッフが犯行に加わるわけではないので、外部から何者かが毒物を持ち込み、密かに清涼飲料などに混入するという方法である。これは実際に試みられたらしいが、当日ムニールが事務所に来なかったため失敗したという。

マルスディ委員長は暗殺に使われた「砒素」を販売した薬屋を既に特定したと述べている。

前の情報部長のヘンドロプリヨノは調査チームの呼び出しには言を左右にして応じていない。そのかわり、容疑について議論したいから、ヘンドロプリヨノの事務所にこいというファックスを送ってきたという。新聞のインタビューには応じて無実を主張している。

また、後任のシレガール情報部長の署名がなければ事情聴取に応じないと言っているようである。情報部への家宅捜索とか、関係書類の調査とかはむろんまだやれる状態にはない。

いずれにせよ、今回の事件はSBY大統領にとっての試金石でもあり、インドネシアの法治国家としての試金石となる重要な事件である。

(http://www.thejakartapost.com05年6月15日号参照)

 

⇒ムニール暗殺に情報部員が関与疑惑ー調査報告書(05年6月24日)

政府の調査チームは6ヶ月の任期を終えて6月23日(木)に解散するに先立ち、約100ページからなる調査報告書をSBY大統領に提出した。その中で、直接殺害を実行したのはポリカルプスとガルーダ航空の2名の乗務員であるが、情報部員の関与の疑いを指摘しているという。

ただし、情報部が組織としておこなったか、特定の個人的な意図による犯行かは明らかにしていない。今後は、警察が事件をフォロー・アップする。この段階で、情報部の関与がうやむやにされてしまう危険をはらんでいる。

元BIN(情報部)部長(司令官)のヘンドロプリヨノは政府調査チームからは言を左右にして逃げ回ったという印象を国民に与えたが、今後は警察の直接の取調べを受けるべきであると報告書は述べている。

万一、この事件がBINの仕業だとなれば、他の「疑惑」事件にも波及する可能性がある。特に、軍改革派として国民の期待を集めていたアグス(Agus Wirahadikusumah) 元戦略予備軍司令官やロパ元検事総長の突然の死についても怪しいと見る見方もある。

 

⇒ポリカルプスに14年の禁固刑(05年12月20日)

人権活動家ムニールがオランダ行きのガルーダ航空機上で砒素を飲まされて、暗殺された事件でガルーダ航空の非番のパイロットであるポリカルプスが起訴されていたが、12月20日(火)に第1審で14年の禁固刑の判決が言い渡された。

ポリカルプスは無罪を主張していたが、裁判官は「事前に周到な準備をした犯行である」との判断を示した。しかし、判決では事件の背後関係には一切触れていなかったという。

この事件はポリカルプスの背後にインドネシア情報部がいるということはいわば公然の秘密という見方が濃厚であったが、結局ポリカルプスの単独犯行ということで処理された。

ポリカルプスが上告するかどうかは不明だが「私は無実であり、スケープ・ゴートにされたと」判決後叫んでいたというから、おそらく上告するのではないかと思われる。

ムニールを殺害する個人的な理由は本来ポリカルプス個人にはないはずで、背後に政治的な「理由」が必ず存在すると考えられる。インドネシアの司法当局が今後どうするかが注目される。また、これはある意味ではSBY大統領にとっても試金石となる事件である。

 

⇒米国政府がムニール事件の政府報告書の開示を要求(05年12月21日)

米国国務省のマコーマック(Sean McCormack)報道官はムニール事件でポリカルプスが有罪判決を受けたことを一応評価しつつも、単独犯とは見ておらず、他の全ての犯人についても訴追するようにインドネシア政府に申し入れをおこなった。

また、米国国務省はインドネシア政府が特別調査チームを結成して作成した報告書について内容を開示するように求めた。その報告書にはインドネシア情報部がこの事件に関与しているとの記述があるとされている。

米国政府が他国の人権問題にとやかく言う資格があるかどうかは別として、この事件をポリカルプスの単独犯として片付けてしまうのはインドネシア国民の納得を得られず、また国際的にもとかくの批判の多いインドネシアの司法当局の姿勢を正す意味合いはあることは確かである。

こういう場合に、日本政府はダンマリを決め込んでいるが、ブッシュのイラク侵攻には協力しても、人権や民主主義や言論の自由に対しては「価値観を共有して」はいないのであろうか?

 

⇒ASEM首脳会議でEU委員長がムニール事件についてSBY大統領に質問(09年9月12日)

06年9月10日から2日間の予定でフィンランドで開かれている第6回ASEM(アジア・ヨーロッパ)首脳会議でEUのホス・マニュエル・バロゾ(Jos Manuel Baroso)委員長はムニール事件のその後の調査はどうなっているかというイジの悪い質問をSBY(ユドヨノ)大統領に個別会談の席上ぶつけった。

この事件はインドネシア国軍情報部が引き起こした「謀殺事件」としてインドネシアでは見られているが、ガルーダ航空のパイロット(元情報部所属パイロット)であるポリカルプスの単独犯行ということで14年の禁固刑が確定し、一応処理はされた。

しかし、納得していない国民は多く、更なる真相解明をSBYも約束していた。また、米国政府も政府が行ったという「調査報告書」を開示するように迫っている。それはこの事件が著名な人権活動家にたいする、迫害・暗殺という異常な事件だからである。

EU委員長の質問に「インドネシア政府としては本件を徹底的に解明する覚悟である」という返答をしたそうである。

また、EU委員長は06年12月11日におこなわれるアチェの地方選挙に協力することを約束した。

アジアのリーダーを「自負」する日本はてアチェの和平や、その後の政治体制作りへの協力などでもモタついている。「東アジア共同体」で日本はいかなる役割を果たそうとしてるのだろうか?

 

⇒インドネシア最高裁でポリカルプスの勝訴、犯人不明で幕か(06年10月4日)

人権活動家ムニールがオランダ行きのガルーダ航空機上で砒素を飲まされて、暗殺された事件でガルーダ航空の非番のパイロットであるポリカルプスが起訴されていたが、05年12月20日(火)に第1審で14年の禁固刑の判決が言い渡された。

判決を不服としてポリカルプスは高等裁判所で敗訴し、最高裁に上告していたが、最高裁は証拠が不十分だとして、ポリカルプスの殺人罪については無罪とし、書類偽造についてのみ有罪とし、禁錮2年の実刑に大幅な減刑となった。

さすがにインチキ裁判所の呼びう声が高いインドネシア最高裁の判決である。何しろワイロを受け取りながら最高裁長官が居座り続けているインドネシアの話である。

ポリカルプスは本当にi無罪なのか?無罪とすれば真犯人は誰なのか?ユドヨノ大統領が政治生命をかけて真相を明らかにすべきであろう。こんなインチキ司法機構が存在するインドネシアに投資 をしようなどという外国企業はそう多くはあるまい。

判決がどちらに転ぶか分からないような「正義が守られない」国では外国人は枕を高くして事業などはやっていられないからだ。

日本では、なぜかメディアもほとんど報道していないが、これは国際的にも有名な事件である。この対応如何によってはユドヨノ大統領とインドネシアという国家の品格が問われかねない。

なお、10月5日になって、スタント警察長官は捜査をやり直すといっている。しかし、リップ・サービスで終わらないことをインドネシア国民は願っているであろう。

 

⇒ガルーダ航空前社長と女性スタッフ逮捕(07年4月15日)

インドネシア最高裁はムニール殺害事件の実行犯とみられていたガルーダ航空のパイロットのポリカルプスを、1.2審の有罪判決を覆し、証拠不十分で無罪とし、文書偽造の罪で2年の禁固刑に「軽減」してしまった。

これでこの事件は実質迷宮入りでいかにもインドネシアらしい問題の処理として国際社会(除く日本)から非難を浴びていた。

ユドヨノ大統領は捜査の継続を命令し、警察は今回ようやく事件当時のガルーダ航空の社長であったインドラ(Indra Seyiawan)とムニールが登場した飛行機の機長秘書でポリカルプスの登場許可書を事件後作成したロハイニル(Rohaunil Aini)を逮捕した。

警察の広報官シスノ・アディウノト(Sisuno Adiwinoto)少将はムニールが毒を盛られたのはシンガポールのチャンギ空港内であるとして、ガルーダ機内での犯行を否定した。その根拠は米国に依頼した検死調査に部分的によるというアイマイなものである。

警察はさらに1名の容疑者を近く逮捕すると言っている。しかしそれが情報部の関係者であるか否かでこの事件の方向が決まってくる。多分情報部は無関係というシナリオでインドネシア当局は本件を打ち切りたいところであろう。


⇒ムニール暗殺で新証言、情報部の関与濃厚(07年8月21日)

インドネシア検察庁ヘンダルマン(Hendarman Supanji)長官
はムニール暗殺事件で先に証拠不十分で釈放された元ガルーダ航空パイロット、ポリカルプスを実行犯とする暗殺計画の全容が次第にあきらかになりつつあり、近く法廷で新証言がえられるという見通しを8月13日に語った。

前ガルーダ航空社長のインドラ・セティヤワン(Indra Setiawan)は07年4月に国家警察に逮捕されて以来、警察本部の留置所に拘留されているが、いくつかの重要な事実を供述しているという。

その1つはポリカルプスを飛行警備(Aviation Security)のスタッフとしてガルーダが雇用するようにという手紙を情報部(BIN)次長のモハメド・アサド(M.As'ad)から貰っている。

インドラは人事部にも相談せずにポリカルプスを企業警備スタッフの一員として雇うことを04年8月11日に回答したという。それらの手紙はインドラの車からカバンごと盗まれたという。

ポリカルプスは事件当日の04年9月6日には北京行きの飛行機に乗る予定であったが、急遽シンガポール行きのガルーダ974に搭乗を変更した。その機にはムニールが搭乗していたのである。

ムニールはエコノミー・クラスに乗っていたが、シンガポール行きの機内でポリカルプスはムニールに近づき、ビジネス・クラスの席に移るよう申し出た。その目的はシンガポール到着時に一般客よりも早く機外に出られるようにするためではなかったかと検察側は見ている。

ムニールはシンガポールのチャンギ空港で一旦降りてからオランダ行きの飛行機に乗り換えたが、トランジットの間にムニールとポリカルプスが一緒にいたことが目撃されている。しかも、ポリカルプスは売店(Coffee Bean Cafe)から飲み物を2人前買ってムニールとそれを飲みながら談笑を続けていたという。この時にムニールはポリカルプスに1服盛られた可能性がある。

それを目撃していたのはドイツに留学中のインドネシア人女子学生アスリニ・ウタミ・プトリ(Asrini Utami Putri)と音楽家のレイモンド・オンゲン(Raymond Ongen Latuihamallo)の2名であった。

はじめ、ポリカルプスはチャンギ空港で同僚のスタッフとともに飛行場を出てホテルに直行し、ムニールとは飛行場で接触が無かったと証言していたが、ウソがばれてしまった。

もう一人の重要証人が今回登場した。それは何と情報部の元スタッフで、ラデン・モハマッド・パトマ・アヌワール(Raden Muhammad Patma Anwar)通称ウチョク(Ucok)という35歳のひ弱な感じの青年である。

ウチョックは元情報部のメンバーでムニール暗殺計画に関与していたことを自供した。彼の上官はセントト・ワルヨ(Sentot Waluyo)という情報部員であった。セントトは当時は国内捜査第1課長であったという。

ウチョックによればムニール暗殺計画に関与していたのは情報部次官のマヌンガル・マラディ(Manunggal Maladi)ワフユ・サロント(Wahyu Saronto)という反情報部対策次長であったという。

マヌンガルはセントトとウチョックを知っていると認めたが、セントトは情報部員であるがウチョクはセントトへの単なる情報提供者に過ぎず、また彼自身はムニール暗殺に関与したことは無いと証言した。

また、ウチョックがムニールに嫌がらせをおこなった際にも「そんなことはするな」と止めたという。

シャムシール・シレガール(Syamsir Siregar)情報部長官
はウチョックは情報部のスタッフではないし、彼は警察に捕まってありもしない証言をしたのだろうと、全面的にウチョックの言い分を否定した。

ヘンドロプリヨノ(Hendropriyono)前情報部長官(ムニール事件当時の長官)もウチョクの証言を否定している。

これらの話しはユドヨノ大統領の指示で設立された「ムニール事件特別捜査チーム」の調査により明らかにされたものだという。

情報部からの手紙の現物が奪われたのは痛手だが、情報部とポリカルプスの関係は明らかであり、検察庁もポリカルプスを有罪に持ち込めると見ている。もちろん情報部からも犯人が出てくる可能性が強まった。

(週刊誌テンポ、07年8月21〜27日号、Tempointeraktif.com,07年8月14日付け参照)


⇒ムニール事件で元情報部次長を喚問(07年9月21日)


ポリカルプスは最高裁の逆転無罪判決によって06年12月に釈放されているが、国内世論や外国からの批判に答えるべくユドヨノ大統領が事件の再調査のための委員会を設置し、新たな証拠調べをおこなっている。それもいよいよ大詰めを迎えようとしている。

警察長官スタントはムニール事件に関する重要参考人として近く元情報部次長を含む複数の幹部を喚問して取り調をおこなうと発表した。

8月には検察庁が現在釈放されているポリカルプスと拘置中の元ガルーダ航空社長のインドラ・セティアワンとの電話交信記録を法廷に提出した。

その中で、ポリカルプスをガルーダのパイロットとして採用するようにインドラに圧力をかけたのはM.アスアド(As’ad)情報部(BIN)次長であったことが明らかになった。

また、ポリカルプスと事件直前に41回も電話交信をしたムファディ(Muchdai)第4副部長に対してもさらに捜査がおこなわれると見られている。

また、ポリカルプスは不安がるインドラに対し「最高裁長官も皆仲間だから心配するな」となぐさめている。

実際、インドネシア政治のウラ舞台(特に軍と裁判所)はスハルト人脈がいまだに取り仕切っているのかもしれない。これではインドネシアに正義がおこなわれる日は遠いといわなければならない。

ムニール事件が解決できないようではユドヨノ大統領の権威も失墜することは間違いない。特に米国はこの事件の真相解明をインドネシア政府に強く要求しているといわれている。


⇒ガルーダ元社長、情報部の関与を認める証言(07年11月14日)

ガルーダ航空の元社長のインドラ・セティアワンは副社長代理のロハイニル・アイニ(Rohainili Aini)の裁判で次のような証言をおこなった。

@情報部からムニール暗殺の下手人とみられるポリカルプスをガルーダ航空で雇い、かつ警備要員として航空機に搭乗させるよう要請を受けた。

Aしかし、その要請文は昨年、乗用車の窓ガラスが割られ、ブリーフ・ケースが盗まれた際に、その中に入れていたため無くなってしまった。

検察側はセティヤワンと副社長代理のアイニとが当日問題の飛行機にポリカルプスを搭乗させるという命令書を偽造したという容疑をかけている。

もし、この2人が有罪ならば最高20年の禁錮計に処せられる。


⇒情報部員がポリカルプスの関与を認める証言(08年1月16日)

情報部員のブディ・サントソ(Budi Santoso)なる人物が文書で検察庁に証言を行い、ムニール毒殺犯とされる「ポリカルプスがガルーダ航空に対してポリカルプスを警備担当者として任命するようにという推薦状を情報部から出すように」といってきた述べた。

その手紙は当時のガルーダ航空社長のインドラ・セティアワンに宛てたものであり、情報部次長の署名があったという。

ブディは証言の中で、ポリカルプスは情報部のスタッフではないが当時の情報部長補佐官のムファディ(Muchadi PR)と知己であり、しばしばポリカルプスからムファディの在否を訪ねられ、またムファディもポリカルプスの居所のチェックをブディに命じたと述べている。

2004年6月14日にブディはムファディの命令でポリカルプスに1,000万ルピア(≒13万円)を手渡し、その後もムハディからの指示で300万〜400万ルピアを2〜3回渡したと述べている。

当日の法廷にはブディは出席しなかったが、検察庁の取り調には2度応じている。

元ガルーダ航空社長のインドラはポリカルプスを飛行警備(Aviation Security)のスタッフとしてガルーダが雇用するようにという手紙を当時の情報部(BIN)次長のモハメド・アサド(M.As'ad)から貰っている。

この検察側の証言を聞いたポリカルプスはブディなる人物については全く知らない、また自分は金持なのでそんなカネ(1,000万ルピア)など貰うはずがないと語ったという。

中央ジャカルタ地裁の判決は2月11日に下される予定である。


⇒ポリカルプスに20年の禁固刑判決(08年1月26日)

インドネシア最高裁は元ガルーダ航空パイロットのポリカルプスが人権運動家ムニールを殺害した罪により禁錮20年の判決を昨日(08年1月25日)下した。

以前にポリカルプスは禁錮14年の禁固刑が言い渡されていたが、最高裁は証拠が不十分だとし、書類偽造についてのみ有罪とし、禁錮2年の実刑に大幅な減刑となったいた。

これに対しては国内のみか、
人権問題や民主主義について関心が薄いという国際的評価を受けている日本を除先進国からも厳しい批判が起こり、事実上のやり直し裁判がおこなわれていた。

この件については国際的な反響が非常に大きかったにもかかわらず、日本の新聞等ではほとんど報道されていない。したがってこういう事実があったことを日本国民の大多数は知らない。


裁判の過程でインドネシア情報部の幹部の関与(殺害の影に情報部あり)が明るみに出たことが注目される。

情報部の関与については判決でどう取り上げられているかは不明だが、場合によってはポリカルプスに責任を押し付け、本件は「一件落着」としたいのかもしれない。

人権団体はインドネシア情報部の関与について引き続き追及していく構えだが、肝心の司法当局がどうするかが問題である。多分このままお蔵入りになる公算が大である。

前回の14年より重い20年にしたことで「最高裁はマジメにやった」という印象を内外に与えようという意図も見える。20年とはいっても恩赦に次ぐ恩赦で数年で出所する可能性が高い。

なお、ポリカルプスのガルーダ航空内での行動を情報部の要請に基づき容認した罪で、元社長のインドラ・セティアワンと秘書のロハイリニ・アイニに対する裁判が中央ジャカルタ地裁でおこなわれていたが、こちらには禁錮18ヶ月の求刑が直前に言い渡されている。

インドラ被告は「BNIの便宜を図ったことは事実だが、それがムニールの暗殺につながるものだとは夢想だにしなかった。もしわかっていれば職を賭してでも拒否した」と弁明した。(2月1日の公判で)

ムニール事件が国際的に問題にされウオール・ストリート・ジャーナルまでがしばしば報道するのは、司法のイイカゲンさやインドネシア国軍の体質がインドネシアの「投資環境」に密接にかかわっているからである。

JETROなどの政府機関(国民の税金で運営されている)がインドネシアの投資環境について政府に時々注文をつけたりしているようだが(労働法の改正はケシカランなどと)、こういうインドネシアの政治や司法の暗部にもきちんと透明性を持つように働きかけることも重要である。

さもないとインドネシアは何か「薄気味悪い国」という印象だけが何時までも残っていくのである。それはインドネシアのためにも日本国民のためにもならないことはいうまでもない。


⇒ムニール事件で元情報部副部長ムファディを逮捕・拘留(08年6月20日)

インドネシア警察は人権活動家ムニール暗殺事件の容疑者として元情報部副部長のムファディ( Muchadhi Purwopranjono)少将を5月19日(木)に逮捕・拘留したと発表した。

ムファディの名前は上に述べたように、しばしば法廷での証言で取り上げられ、ムニール暗殺事件の首謀者の一人と目されていた。

しかし、ムファディが事件の首謀者だと考える人はあまりいないようで、当時の情報部(BIN)の司令官であったヘンドロプリヨノの指示でこの事件は起こされたとムニール夫人は主張している。

今回情報部のトップが警察に逮捕されるというのはきわめて異例であり、SBY大統領の強い意向が働いたものと推測される。

なお、朝日のインターネット版で6月20日はじめてムニール事件が取り上げられた。WSJなどしばしば報道している国際的にも重大な関心をもたれているこの「大事件」を日本の一流メディアが無視してきたのかまったく理解できない。

⇒ムニール事件、ムファディがムニールの暗殺指令(08年11月7日)

2004年9月7日に人権活動家ムニールがアムステルダム行きガルーダ航空機内でヒソ中毒のために急死した事件で、下手人はガルーダ航空のパイロットであるポリカルプスであると断定され、最高裁で20年の1禁固刑を08年2月に下され、本人は服役中である。


ポリカルプスにムニール暗殺を命じたのは元情報部のムファディ副部長であるということで目下裁判がおこなわれているが、最近の公判で、かつてムファディの有罪を認めていた証人が、「ムファディを知らないとか、あったこともない」とかいって次々に以前の証言を否定しはじめた。

しかし、検察側は11月6日(木)の公判で、かつてムファディの部下であったブディ(Budi Santoso)元局長(Director)と情報部次長であったモハメ・アサド(M.As'ad)どの供述書を読み上げた。

両名は、目下海外に勤務しており、公判には出られないとのコトで、裁判官は供述書の朗読を許可した。

ブディの供述に寄れば、「ムファディの部下のカワンがムニールを交通事故死か射殺するようにとムファディから命令を受けたといっていた。また、ポリカルプスをしばしばムファディの事務所にいるのを見かけた」と述べている。

「07年6月14日に、ムファディはブディに1,000万ルピア(当時、約13万円)の現金を客に渡すから、持ってくるように命じ、持参するとポリカルプスが部屋の中にいた」

「2007年11月にはムファディはポリカルプスに300万ルピア支払うように命じた。」

「ポリカルプスはシンガポールから電話で、『シンガポールでデカイ魚を捕まえた』といってきた。その話しはムファディにはしたかと聞くと、すでに話したと彼はいった。」

また、ガルーダ航空への手紙の件については「ポリカルプスは04年9月6日のフライトに乗れるように、手紙を書き直すことを要求してきた。その手紙の原稿にはアサド次長のサインがあった。」

しかし、アサドの供述書では「サインのことは記憶にない」とされていた。

以上がブディの供述内容についたは、ムファディは「ブディ局長に5,000万ルピア以下のカネを引き出すように命じる権限は無かった」と否認している。

(jJakarta Post 08年11月7日、電子版参照)


⇒ムニール事件、主犯ムファディ元情報部副部長に15年の求刑(08年12月3日)


インドネシア検察庁は人権活動家ムニールの暗殺の主犯とみられる元情報部副部長ムファディに対し、15年の禁固刑の求刑をおこなった。

実行犯のポリカルプスにはすでに20年の禁固刑が申し渡されているが、暗殺を命じたムファディに対する求刑が15年というのはあまりに「寛大」であるという批判が出ている。

(BBC、08年12月3日電子版参照)


⇒ムニール暗殺事件、ムファディ元情報部副部長に無罪判決(09年1月2日)


インドネシア検察庁は人権活動家ムニールの暗殺の主犯とみられる元情報部副部長ムファディに対し、15年の禁固刑の求刑をおこなっていたが、08年12月31日、南ジャカルタ地裁は「証拠不十分で無罪」という世間をあっといわせる判決を下した。

実行犯としてはガルーダ航空の元パイロットのポリカルプスが犯人として特定され、20年の禁固刑が確定しているが、主犯はインドネシア国軍情報部の副部長であったムファディだと考えられてきた。

この判決ではポリカルプスが個人的動機もないのにムニール暗殺という大事件を勝手に引き起こしたことになってしまう。

これはインドネシアの司法の体質がいかにヒドイものであるかということを世界中に改めて認識させるものである。検察が当然上訴すると思われるが、インドネシアの裁判所が権力者(スハルト一族、軍、財閥など)に過去にきわめて「寛大な」判決を下したなかでも、最も悪質なものであるといえよう。

ユドヨノ大統領はこの「ムニール事件」の解明をきわめて重要視し、「特別調査チーム」まで設置して取り組んできただけに、ショックは大きいものと思われる。ユドヨノ大統領は早速、検事総長と警察長官を呼んで今後の対応策を協議したという(1月1日付けFT)。

スハルト大統領が日本の主流派アジア学者や一流経済紙などに「惜しまれつつ」退陣してから10年間が経過し、インドネシアの民主化や言論の自由などなどかなりみるべき進歩があった。軍の体質改善もかなり進んできたと評価してよいであろう。

汚職もまだまだ多いことは事実だが、スハルト時代と比べればかなり減ってきたとみてよいであろう。汚職摘発の態勢が強化されてきたことは疑いない。省のトップや中央銀行の元総裁までもが実刑判決を受けるようになってきた。

しかし、スハルト体制の「負の遺産」としてほとんど手付かずに残っているのが司法の分野である。これは「司法の独立」という壁が「旧体制」を温存してきたことも最大の理由とも考えられる。隣国のマレーシアではマハティ−ル体制が崩壊した後は裁判官自身の「改革への努力」によって改善に向かっている。

インドネシアの司法がこんな有様では日本の企業がインドネシアに進出することは、きわめてリスクが高いことを認識すべきである。一度裁判沙汰に持ち込まれたら、「公正な裁判」は期待できないものと覚悟すべきであろう。

さすがの朝日新聞もこの判決の記事をインターネット版に掲載した。過去において「ムニール事件」という国際的な大事件を朝日に限らず、日本の新聞はほとんど報道してこなかった。日本の新聞は誰に対してナニを遠慮してきたのだろうか、こちらも大いなる「自覚」を促したい。