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イスラム既成政党

ナフダトゥール・ウラマ・PKB

グス・ドゥル派アリ・マシュクールがPKBの党首に就任(08年5月2日)


93. ナフダトール・ウラマ分裂の危機(04年11月29日)


PAN

104. PANの党首にストリスノ氏(05年4月11日)

インドネシア議会で第5位の53議席を占めるPAN(国民信託党=イスラム政党)の党首選挙が4月10日(日)に行われ、ビジネスマン出身のストリスノ(Strisno Bachir)氏が選ばれた。

ストリスノは前党首のアーミン・ライスの強い支持を受けての当選であった。PANでは財政部長を務めたことがあるらしいがほとんど無名に近い人物である。党内外からも驚きの声をもって迎えられた。

7人の候補者のうちから前のスハルト政権時代の財務相を勤めたフアド・バワジール(Fuad Bawazier)とストリスノの決戦投票になった。フアドはスハルト下大統領の金庫番的存在で、資金力は豊富であったがさすがにこの元灰色高官は選ばれなかった。

もし、フアドが選ばれたとしたらPANはおしまいであった。フアドが党首をやっているような政党を国民が支持するはずがない。フアドは最近までイスラム過激派への資金提供者と見られていた。また、爆弾屋グループにもカネを出していたという風評が 絶えなかった。

一方、ストリスノは1957年4月10日生まれ、中部ジャワのぺカロンガン出身である。ビジネスマンとはいってもIka Muda Groupという中小企業でエビの輸出と不動産業 を営んでいる。また、イスラム色の強いRepublikaという小さな日刊紙を発行している以外はあまり知られていない。

写真で見る限りでは人柄はよさそうな印象を受けるがカリスマ政治家のアーミン・ライスの後継者としてはいかにも軽量である。 アーミン・ライスの忠実な支持者で、ライスは相変わらず党の実権を握り続けるであろうことは間違いない。

当初ストリスノの名前が党首候補者として名前が挙がったときもフアドにはとても比べ物にならないと謙遜していた。それはその通りであり、フアドの経歴(彼はハーバードでPh.Dもとっている)と 国税局長時代から蓄積してきた資金力は他を圧倒していた。

しかしフアドが党首になったらおしまいだというのはアーミン・ライスにはよくわかっており、必死でフアドを引きおろしにかかった。有力候補者であったハッタ・ラジャサ(Hatta Radjasa)は現在SBY政権の閣僚(運輸相)であり、党首選に立候補するなら閣僚を辞任することを要求されていた。

ハッタ・ラジャサはアーミン・ライスとの話し合いの結果、党首選立候補をあきらめた。 もし彼だ立候補すれば彼は当選できた可能性が高い。そのかわり、アーミン・ライスは「院政」をしけなくなったであろう。

PANは2千万人のメンバーを有するとされるムハメディア(知識層の多いイスラム団体)を母体とする政党であるが、ストリスノが今後どれだけ求心力を発揮していけるか大いに疑問である。

ムハメディアの若手メンバーの多くはPKS(繁栄公正党=党首ヒダヤット・ヌル・ワヒド、国民評議会議長)の支持者となっているといわれている。






93. ナフダトール・ウラマ分裂の危機(04年11月29日)

インドネシア最大のイスラム教団体ナフダトール・ウラマ(NU=Nahdlatul Ulama,もともとはイスラム教伝道師の団体)は11月28日から5日間の予定で全国大会を開いている。

会員4千万人と称するこの大組織は会長選挙をめぐって、いまや分裂寸前の状態にある。NUは元大統領のアブドゥラマン・ワヒド(通称グス・ドゥル)が1999年に大統領に選出されるまで15年間会長職にあった。

その後は、ハシム・ムザディ(Hasyim Muzadi=今年の大統領選挙でメガワティと組んで副大統領候補として落選)がNU の会長を務めていた。

今年は会長選挙の年であるが、グス・ドゥルが会長職にカム・バックしたいという意欲を強く示しており、一方ハシム・ムサディも会長職の再任を望んでいる。2人の決選投票になればハシムの勝利になりそうな形勢であると見られている。

状況不利とみたグス・ドゥルは支持者を集めて別に集会を組織し、グス・ドゥルを会長に指名し、ハシム再選反対のデモ行進を行うという異例の事態に発展した。

グス・ドゥルの主張はナフダトゥール・ウラマはあくまで社会・文化的活動を主眼とする団体であるべきだとしているのに対し、ハシムは政治活動にコミットしてNUを政治団体化しようとしたとしている。

最終的決着は12月2日(木)にまで持ち越される。

[ナフダトゥール・ウラマの略史]

ナフダトゥール・ウラマはインドネシア独立運動が高揚しつつあった1925年にスラバヤ市でグス・ドゥルの祖父ハシム・アシュアリ等によって結成された。

ナフダトゥールというのは「覚醒」を意味するアラビア語であり、ウラマはイスラム教学者、イスラム伝道師といった意味である。主に農村部のプサントレン(少年たちを集め合宿生活をしながらイスラム教や一般的学問の基礎教育をおこなう)の教師が主な構成員であった。

1926年にはKhittah(Guiding Princiles=組織指針)を定め、「純粋に宗教活動に専念する」という方針を確認した。しかし、時代はそれを許さなかった。

NUは1930年代には民族主義運動(独立運動)を行い、ミアイ(MIAI=全インドネシア・いすらむ協議会)の中心的組織となった。日本軍占領下では、NUは軍政の協力組織として重用された。

1945年10月からは対オランダ独立戦争を「ジハード=聖戦」と規定し、積極的に戦った(今風に言えばオランダ軍にたいするテロ活動)。

また、政党としてのマシュミ党に参加した。しかし、1952年にはマシュミ党から別れナフダトゥール・ウラマ党として独自路線を歩み始めた。

1955年の選挙では18.4%の得票を得て、第3党となった。スハルト政権下ではNUは反共政党として、積極的にスハルト体制を支え、共産党員虐殺(50万人とも呼ばれる)にNU青年部が関与したといわれている。

しかし、アリ・ムルトポが行った政党集約化構想の下にNUは1970年に開発統一党(PPP=現存)というイスラム政党の連合体に吸収されてしまう。最近までPPP の党首でメガワティ政権下で副大統領を務めていたハムザ・ハズはもともとNUの党員であった。

1984年のNU の大会で、NUは政治活動を行わないという決議を行い、PPPから脱退する。このときのリーダーがグス・ドゥルで彼は「文化活動」として民主主義運動を始めた。1989年からは政治活動も是認した。

彼自身はスハルト体制との正面衝突を避けながら、反スハルト運動を行うという,ある意味では「ブディ・ウトモ=オランダ植民地時代のインテリ層を中心とした教養主義運動」にもにた発想があったのではないかと思われる。

1998年のスハルト体制が崩壊後はPKB(National Awakening Party=国民覚醒党)を組織し、NUの政治活動母体として今日に至っている。1999の選挙では得票率12.23%であり、04年の選挙では得票率10.57%とやや落ち込んでいるが第3位であった。

ただし、議席数では@ゴルカル、128議席、APDI-P(闘争民主党)、109議席、BPPP,58議席、C民主党、55議席、DPAN、53議席、EPKB、52議席と6位になっている。これはPKBの得票が東ジャワ(スラバヤを中心とする)に偏りすぎあっためである。

⇒ハシムがNU総裁に再選(04年12月3日)

12月2日(木)におこなわれた選挙でハシム・ムサディがNUの総裁に当選した。また、代議員会議長はハシムの盟友のサハル・マフズ(Sahal Mahfudz)が 再選れた。ハシムはメガワティと組んで副大統領候補者として立候補し落選したが、NUの支持は変わらなかった。

実際の総裁選挙はグス・ドゥルの代理人と目される若手のマスダール・マスディ(Masdar Masudi)とハシムの間で行われたが、346票対99票の大差でハシムが勝った。グス・ドゥル派はハシムの買収作戦に敗れたと悔しがった。

どうぢて手に入れたか良くわからないが、選挙前にハシムは50億(約6千万円)ルピアをNUの財政資金に寄付するとの言明をおこなった。これは大統領選挙のときに副大統領候補としてメガワティから貰った金ではないかといわれている。

サハルはカリスマ的なイスラム教伝道師であり、MUI(Indonesia Ulama Council=インドネシア・イスラム伝道師評議会)の指導者であり、満場一致で代議員会(Syuriah)議長に選ばれた。 グス・ドゥルはサハルに対抗すべく立候補したが、必要最低得票の99票を獲得できなかった。

選挙に敗れたグス・ドゥルは大いに面目を失墜した。会場を後にし、ジャカルタに行き、メガワティ宅で夕食をともにした。夕食会にはゴルカルの党首アクバル・タンジュンも同席の予定であったが、アクバルはメダンの党支部との打ち合わせでジャカルタには戻れなかった。

グス・ドゥルはハシムに敗れたらNUを分裂させるといっていたが、グス・ドゥルの支持者はハシムに協力を約束しているので分裂という事態は避けられるものと思われる。両者の意見の基本的対立はほとんどなく、単なる人事ポストの争いであった。

グス・ドゥルは政治分野でPKBを率いて影響力を維持したい考えのようで、これからはGAM体制でいくと公言している。いうまでもなくGAMは自由アチェ運動(アチェの分離独立派)のことであるが、グス・ドゥルのGAMはGus、 Akbar、Megawathiの3人の頭文字である。

要するに、世俗政党3党の党首(PKBの名目的な党首は国民福祉調整相のアリ・シュワブだが、事実上の党首はグス・ドゥルである)が議会の多数派支配を通して、SBY大統領に対抗する勢力を結集していこうという考え方であろう。

上の3党の議席数はゴルカル128+PDI-P109+PKB52=289議席であり、総議席数の550を上回っている。

問題は12月のゴルカルの党大会でアクバル・タンジュンが党首に再選されるか否かが最大の焦点になる。副大統領のユスフ・カラ、経済調整相のアブリザル・バクリ、労働・移民相のファハミ・イドリスのほかウィラント元国軍司令官などオルバ派(旧スハルト体制)がアクバル引きおろしを虎視眈々と狙っている。

アクバル・タンジュンが敗れればゴルカルはSBY支持に回ることは確実であり、12月の党大会が今後のインドネシアの政局を左右する重要な大会になる。

ただし、今のところSBYは改革派の姿勢を維持しており(閣僚はユスフ・カラ副大統領を含め怪しげな人物が少なくないが)、グス・ドゥルのGAMとも対話は本来、十分可能である。

⇒NUはPKBとの同盟関係を解消(04年12月4日)

ハシム・ムザディの指導するNUは改めて、1926年のKhittah(組織指針)の精神に戻り、政治的には中立の立場を保ち、メンバーにPKB(国民覚醒党=グス・ドゥルが指導者)への支持を強要しないことにした。

ハシム・ムザディもメガワティの副大統領候補にあるなど大いに政治活動を行ったが、NUはPPP(統一開発党)やゴルカル(ハシム・ムザディは副党首)などPKB以外の党員も多い。また、PKBにも NUの非メンバーが存在する。党首のアリ・シュワブは非メンバーである。

これらの多様化された政党の利害関係がNUに持ち込まれると、宗教団体としての統一と純粋性が維持できなくなるという考え方が出てきたものと思われる。

⇒グス・ドゥル、新組織「競合NU」を12月15日に結成(04年12月6日)

NUの総裁選挙で敗北したグス・ドゥルは12月15日を期して、新組織「競合NU=NU Tandingan」を結成することを宣言した。既に視力をほとんど失ったグス・ドゥルにとってはかなり厳しい出発となることは間違いない。

また、新しいメンバーがさほど集まるとも思えない。ハシム・ムザディはNUの分裂は避けたいとして最後の話し合いに望みをつないでいると思われえるが、グス・ドゥルは話し合いには目下のところ応じていない。

グス・ドゥルは強気で、一般のNUのメンバーの95%はグス・ドゥルを支持するであろうと述べている。確かに総裁を選ぶ代議員レベルはハシム派が掌握したかもしれないが、一般メンバーの動向は良くわからない面がある。

グス・ドゥル派アリ・マシュクールがPKBの党首に就任(08年5月2日)

国会議員アリ・ムシュクール(Ali Masykur Musa)がPKB(国民覚醒党=National Awakening Party)の臨時大会で党首に選任された。人気は2008〜2010年までである。

グス・ドゥルの娘イェニー・ワヒド(Zannuba Arifah Chafsoh=Yenny Wahid)とムアミール・ムイン(Muamir Muin Syam)を抑えての当選であったがイェニーは当選の意志がないことを宣言していた。

アリ・ムシュクール党首は1962年に東ジャワのトゥルンガグン(Tulunggagung)生まれ。議会では第11委員会=財政委員会のメンバーである。

グス・ドゥル派は08年4月にPKB党首だった甥のムハイミン(Muhaimin Iskandar)を党首の座から解任している。

一方、ムハイミン派は新党を結成してムハイミンを改めて党首にするとともに、グス・ドゥル派の臨時大会の無効を訴えるとしている。南ジャカルタ地裁はムハイミン派の勝訴判決を出したが、グス・ドゥルは最高裁に控訴した。さらにグス・ドゥルは最高裁に対し、南ジャカルタ地裁が政治的に影響のある「仮処分」などを出さないように文書で要請した。(08年6月17日)

このようなグス・ドゥルの動きは2009年の大統領選挙に再度出馬するためのものであることはいうまでもない。