2-8.検察庁、トミーをチモール社売却の不正行為で提訴(08年5月7日)
2-7.検察庁トミー・スハルトの不正取得財産徹底追求の構え(7年5月24日)
2-6. トミー・スハルトの隠し財産にインドネシア政府が凍結訴訟(07年1月23日)
2-4. トミー・スハルトが来月にも出所(06年8月18日)
2-3. トミー・スハルト、15年から10年に減刑(05年6月28日)
⇒トミー脳腫瘍の疑いで急遽「陸軍病院」に入院(04年11月26日)
2-1.トミー・スハルトの逮捕と裁判と15年の実刑
スハルトの三男フトモ・マンダラ・プトラ、通称トミーは2001年11月28日に1年と24日振りに逮捕された。警察庁長官のビマントロが交代させられる前日のことである。
トミーは 刑事局長ソフヤンに肩を抱きかかえられて警察署に迎え入れられた。トミーは薄笑いさえ浮かべて少しも悪びれる様子はなく、手錠もかけれれていなかった。
トミーは2000年11月に食糧調達庁ブログとの土地取引をめぐる不正行為で18ヶ月の実刑判決を受け(トミーの逃亡期間中に同じ南ジャカルタ高等裁判所で無罪の逆転判決を受ける)、収監直前に姿をくらました。
その後、かってトミーに有罪判決を下したシャフィウディン・カルタサスミタ最高裁判事が01年7月何者かに出勤途上銃殺された。
また、トミーから直接依頼を受けたとされる爆弾所持者が逮捕されるなど、過去1年の間に数回起こった爆弾テロ事件にも関与していた疑いが持たれていた。また、トミーの自宅を捜索中にライセンスの無い銃器が複数押収された。
トミーが1年間も逮捕されなかったのは、警察が所在を突き止めながら、何らかの理由で逮捕を怠っていたのではないかという疑惑すら持たれている。
また、トミーの逮捕時に彼のボディー・ガード もおらず、すんなり逮捕されたことも逮捕劇に対する疑惑を深めている。トミーは拘置所内では特別待遇を受けていることも批判の的になっている。
これ以外にも、トミーの逮捕によって前大統領のアブドゥラマン・ワヒドに思わぬ「汚職」容疑が降りかかっている。
というのはトミーはワヒドに実刑の「特赦」を願い出て、ワヒドと直接会談していたことは広く知られているが、その時ワヒドとの会談を斡旋した人物に150億ルピアを渡し、その一部がワヒド側(夫人)に渡されたというものである。
ワヒドはトミーの「特赦」要請を断ったが、刑事犯がいくら元大統領の子息だからといって直接現職の大統領とホテルで面談し「特赦」を願い出るなどということができたこと自体異常という外ない。
しかし、スハルト一族からは莫大なる買収資金が警察、検察、裁判所などに流されることが予想され、結局トミーは罪を免れる可能性もかなり高いと見るべきであろう。
(2002年6月30日追加)
トミーは裁判のなかで驚くべき証言を笑みをたたえながらおこなった。それは「逃亡中、しばしば自宅に帰った」という内容である。トミーはスハルト一族の住居のあるCendana(チェンダナ)に自宅があり、再三手入れを受けているが、スハルト一家警護の警察は、トミーの出入りを認めていたということである。
これが事実とすれば、「必死でトミーの逮捕に努力している」と言っていた警察の言い分は国民を小ばかにした「猿芝居」だったことになる。トミーの居場所を警察は知っていたということはインドネシアでは当たり前のこととして、いわば「公然の秘密」であった。
トミーが逮捕されたときの刑事局長ソフィヤンは彼を抱きかかえるように、警察署内に導きいれたが、その後栄進し、スマラン地区の警察長官になり、今度は高級車密輸の手助けをしたとして、話題になっている。このようなスハルト時代に培われた「デタラメ体質」がインドネシアから払拭されるのは容易ではない。
また、肝心のトミーの裁判(シャフィウディン・カルタサスミタ最高裁判事殺害事件)では検察官がトミーに対し、かなりおざなりな訊問をおこない物議をかもしている。
(02年7月15日追加)
予想どおり、トミーの判事殺害、武器不法所持および懲役逃れに対する検察側の驚くべき求刑がでた。
インドネシアは明らかに法治国家という概念から逸脱している。自分に有罪判決を出した判事殺害については2人の殺し屋には無期懲役刑 (検察側の求刑は14年の懲役であった)が出されている。ところが主犯のトミーには他の罪もあわせて(武器の不法所持の最高刑は死刑)15年の禁固刑である。
検察側がかなりいい加減な公判をおこなっていたといわれ、不当に軽い求刑であった。判決で軽くなればこれはただではすまない。インドネシア国民は怒るであろう。
インドネシアという国はスハルトによって徹底的に腐った国にさせられてしまった。メガワティも相当頑張らないとインドネシアはまともな国になることは難しいであろう。
(02年7月26日追加)
トミーに対する判決が本日言い渡された。求刑通りの15年の禁固刑判決であった。そもそも求刑が異常に軽すぎたのであり、これでは大多数のインドネシア国民は納得はしないであろう。
トミーは今回の判決には不服で控訴すればスハルト一家にとってはさらに多額の買収資金が必要となるであろう。(控訴せず刑は確定)
また、今回の裁判で全く触れられていない事件がある。それはジャカルタなどで起こった爆破事件(2000年9月の証券取引所爆破事件で10名の死者がでている)である。これにはトミーがかなり関与しているとみられている。
彼ばかりか軍の「特殊部隊」関係者も事件にかかわりがあるという見方がされている。
スハルトの女婿であり、故スミトロ・ジョヨハディクスモ博士の長男のプラボオ元特殊部隊司令官の影響力も噂されている。スミトロ博士は汚職批判などしばしばおこなっていたが、自らも汚職の嫌疑をかけられたこともあるしたたかな学者であ り、Bank Pelitaのオーナーでもあった。
トミーの有罪判決が出た直後、偶然の一致であろうがアンボンでまた爆発事件が起こった。インドネシアの軍(特殊部隊)の中に依然として「スハルトに忠誠を尽くしている」部分が存在していることは間違いない。
(02年7月30日追加)
国会の法務委員会のメンバー30人がトミーの収監されているチピナン刑務所を訪問した。これは委員会として刑務所の一般的見学会という趣旨であったとのことである(他地区の刑務所にもいく)。
しかし、委員の何人かはトミーに親愛の情を示し、抱擁すらした。その1人がゴルカルの財政部長のセティヤ・ノバントである。彼はハビビ政権時代にゴルカル幹部(ギナンジャール・カラサスミタほか)とともにバンク・バリ事件を起こした張本人である。
バンク・バリ事件もうやむやのままに放置されているが、こうしたいい加減な体質が変わらない限りインドネシアへの国際的信頼は戻らないであろう。明らかな経済犯が白昼大手を振って活躍しているのはどうみても異常としか言いようがない。
ちなみに、トミーの独房は4mX9mの広さで、バス・トイレ付、21インチのソニーのカラー・テレビ付で3部屋に仕切られ、壁は塗り替えられたばかりで極めて優雅なものであると伝えられている。
法務委員会メンバーが他の監房をみに行くと1室(4mX4m)に12人収容されている。囚人達はトミーを死刑にしろ叫んだということである。(7月30日付けジャカルタ・ポスト)
(02年8月2日、3日追加)
トミーは15年の禁固刑という判決について控訴しないことを決めた。控訴すれば、死刑になる可能性がでてくるからである。
トミーへの特別待遇は常軌を逸しており、個室を与えられテレビ、携帯電話を与えられていたほか、自分のビジネスを継続しており毎日秘書が書類のサインを取りに来るという。また、刑務所で自分の家族も呼び「記者会見」を開いたインドネシア最初の囚人という「名誉」も与えられた。
「今後は特別待遇をやめる」とインドネシア政府はいっているが、このようなスハルトへの遠慮がインドネシアの「改革」を極めて困難にしており、NHKのリポーターまでが「スハルト時代のほうが治安は安定していた」などという的外れ発言(8月2日の朝のインドネシアの木材盗伐リポート)を している。
2-1.イスラム過激派とトミーと軍.(02年8月6日追加)
トミーの逮捕以降、彼がやっていた政治的活動が少しずつ明らかになってきた。その@は反アブドゥラマン・ワヒド(通称グス・ドゥル)大統領デモの企画とデモ隊動員に対する資金援助である。
これはグス・ドゥル大統領とトミーが会談し、18ヶ月の禁固刑に対する「特赦」を求めたが、グス・ドゥルがきっぱりとこれを断ったのがきっかけであった。
そのAはイスラム過激派のリーダーが刑務所にトミーを訪ねてきてなにやら打ち合わせをおこなっていることである。この両者を取り持つものはマネーである。トミーは彼らに何を求めているのだろうか。おそらく今度は反メガワティ運動だろうといわれている。
トミーは「イスラム教をもっと深く勉強するため」イスラムの教師を呼んだと称しているが額面どおりには受け取られていない。
イスラム過激派は今国会で議論されている憲法改正問題で「イスラム法」を憲法に入れろと主張し、デモを繰り広げている。その資金をトミーに求めている可能性は高い。副大統領のハムザ・ハム(統一開発党党首)も彼らの動きを支持している。
彼らは女性が大統領になること自体に強く反対している。それはコーランの教えに反するらしい。
トミーはこれからは有り余る不正蓄財の資金を使って反「反スハルト」運動をやっていくであろう。「スハルト時代は良かった」などというコメントがあちこちから出てくると何かと都合が良いからである。
トミーはHabib Al-HabsyiとHabib Ali Baagilを刑務所に呼んだ。
アル・ハブシは目の見えないイスラム導師であり1984年にボロブ・ドゥール遺跡の爆破事件(タンジョン・プリオク事件の報復として)を起こし12年間服役した。
その後マルク地方でのキリスト教徒に対する「聖戦」を指導してきた。 彼らイスラム過激派は「アル・カイダ」との関連が何らかの形であったことは事実らしい。
それよりも最近は金づるを求めて行動していると考えられる。インドネシアで彼らに最も金を出す可能性があるのはスハルト一族であろう。
これらイスラム過激派の背後にはインドネシア軍の「特殊部隊」がついていた。その特殊部隊をかって指揮していたのはトミーの義兄プラボオ中将である。プラボオ派の軍人はスハルト失脚後、マルク地方などに飛ばされてしまった。彼らは当然反民主勢力、反メガワティ政権である。
現在の軍中央も彼らをコントロールするのは難しい。彼らは大日本帝国時代の「関東軍」のごとき様相を呈している。 軍中央はもちろん国軍とイスラム過激派とのかかわりを否定している。しかし、軍人の協力なしには爆薬や武器の入手、あるいはポソ(スラウエシ)のキリスト教教会への侵入などは困難であろう。
⇒トミー脳腫瘍の疑いで急遽「陸軍病院」に入院(04年11月26日)
トミー・スハルトは特別待遇を受けながら、離れ島のヌサカンバンガン(Nusakambangan)刑務所で服役中であるが、脳腫瘍の疑いがあるとして、厳重な護衛をつけて、ジャカルタの陸軍病院で検査を受けている。
トミーの狙いとしては、外国でないと手術を受けられないとして、シンガポールあたりに遁走することを考えているのではないかと疑われている。
2-3. トミー・スハルト、15年から10年に減刑(05年6月28日)
トミー・スハルトは自分に不利な判決を下したシャフィウディン・カルタサスミタ(Syafiuddin Kartasasmita)最高裁判事を殺し屋を使って銃殺した罪で02年7月に15年の禁固刑(この刑そのものが異例の軽さ)でヌサカンバンガン(Nusakambangan)刑務所で服役中である。
ところが、最近になって、カネモチ階級にはやけに情け深いことで知られるインドネシアの裁判所(この場合は最高裁バギール・マナン裁判長)はトミー・スハルトの要求に応え、禁固刑を15年から10年い減刑するという思慮深さ(?)を発揮した。
バギール判事はこれが担当判事が一致して認めるインドネシアの正義であると主張しているという。あきれはてた正義である。
しかし、トミーはまだ不満で「即時釈放」を求めていたらしい。要するに、銃器の不法所持もカルタサスミタ判事殺害も全てがでっち上げ打というのである。それならば、なぜ地裁の判決が出たときに控訴しなかったのであろうか?
しかし、最高裁はトミーの要求を聞かない代わりに、きわめて迅速に刑期の短縮をおこなった。よっぽど、即効性のあるオクスリが利いたものとみあっれう。インドネシアの国民はこれにはさすがに黙っていらえないであろう。
こういう国で事業をやるというのは外国人にとっては大変なリスクであると認定せざるをえない。このような桁はずれの「正義の判事」がインドネシアの法廷から一掃されない限り、インドネシアの「投資環境」は重大な欠陥を持っているといわざるをえないであろう。
あちらこちらが腐っているのが今のインドネシアであるが、徐々に改善されつつあるのも事実である。それを成し遂げるのは為政者ではなくて一般国民であるということがインドネシアの悩みである。
SBY大統領がどこまで本気でやる気があるのか?それは彼が国軍の浄化をどこ迄やるかを見てればすぐにわかることである。そのひとつの試金石はアチェのGAMとの和平交渉であり、ムニール事件の処理であろう。
2-4. トミー・スハルトが来月にも出所(06年8月18日)
トミー・スハルトは自分に不利な判決を下したシャフィウディン・カルタサスミタ(Syafiuddin Kartasasmita)最高裁判事を殺し屋を使って銃殺した罪で15年の禁固刑(この刑そのものが異例の軽さ) に書せられ、さらに05年6月には10年に減刑された。
ところが、06年の8月17日の独立記念日の恩赦で、何と来月には出所し晴れて自由のみになるという。全くの、自己中心的な動機から、殺し屋を使って、良心的な最高裁判事を殺害しておきながら、たったの4年の刑期で釈放されると言うのだから、あきれ果てた話しである。
ユドヨノ大統領はいくらキレイゴトを並べたててもこれでは、「ニュー・オルバ(新しいスハルト体制=オルデ・バル)」といわれても仕方がないであろう。 減刑を決めるのは最高裁ということにはなっているが、重大事犯については大統領の意向を無視して決めるわけにはいかないであろう。
ユドヨノが今までやったことの最大の目玉は陸軍の右翼のボスであるリャミザード参謀総長をクビにしてアチェの和平を実現したことぐらいで、経済面ではさっぱりである。
2007年度の予算ではインフラ投資に思い切ってカネをかけ、経済の浮上を目指すとかいっているが、カネもないインドネシア政府にどこまでやれるか疑問である。
そんなことよりも社会正義の実現に努力し、国民の政府に対する信頼回復が先である。今回のトミーの釈放劇を国民がどう見るか、少し考えれば分かりそうなものである。インドネシアが百鬼夜行の世界に戻りかねない危険をはらんでいる。
これからは、スハルト一族やクローニーたちが大手をふって再登場する(一部ではかなり復活してきているが)ような予感がしてならない。その先導役はユスフ・カラ副大統領やアブリザル・バクリやソフィヤン・ワナンディなどであろう。
トミー・スハルトは2001年11月にシャフィウディン・カルタサスミタ(Syafiuddin Kartasasmita)最高裁判事を殺し屋を使って銃殺した罪で逮捕され、その後15年の禁固刑に処せられていたが、本日釈放された。1年間はつきに1度矯正院に顔を出すだけでよいという。
刑期が大幅に短縮された理由は「トミーの服役態度が良好だったため」であるということである。
これほどの重罪を犯しながら実質5年足らずで無罪放免になるというのがインドネシアという子にである。その間スハルト一族はかなりの大金をアチコとばら撒いたであろうが、それが通用してしまうところにインドネシアのダメさがある。
殺し屋のほうは終身刑で依然服役中である。
こんなことがマカリ通っているようではインドネシアも当分浮かばれない。正義や法の秩序が欠如している国は発展しないのである。こんなことを国民が納得するはずはないであろう。ユドヨノ大統領は一体ナニをしているのだろうか?
2-6. トミー・スハルトの隠し財産にインドネシア政府が凍結訴訟(07年1月23日)
イギリス海峡にあるチャンネル諸島のガーンジー(Guernsey)島法廷はインドネシア政府が提出したトミーことフトモ・マンダラ・プートラ(Hutoma Mandala Putra)の隠し預金が違法に隠匿された疑いがあるとして「凍結」の要請を受け入れる判決を下した。
英領バージン・アイランドに本社を置くガーネット・インベストメント(Garnet Investment)社はトミーの会社であるが、BNP Paribas銀行の同島支店が3,600万ユーロ(約56億円)の引き出しに応じないとして、訴訟を起こしていた。
インドネシア政府はその訴訟に「第3者として」介入することをチャンネル・アイランドの法廷が認めたものである。
インドネシア政府の主張はし、そのカネ(口座には最大7,500万ユーロ=約117億円が存在すると見られている)はトミーが汚職などの不正手段で手に入れたもので本来インドネシア政府に帰属するという主張をしている。
BNP Paribas銀行も同様な理由(不正資金の疑いがあるとして)から引き出しを拒否している。
インドネシア政府を代表してこの訴訟を起こしているのはインドネシアのマーティ・ナタレガワ(Marty Natalegawa)駐英大使である。マーティ大使は今年3がら始まる訴訟に対して、目下証拠書類をジャカルタで作成中とのこと。
トランスペアレンシー・インターナショナル(Transparency International)のインドネシア支部によればトミーがBNP Paribas銀行のガーンジー支店に資金を移したのは1998年7月22日のことでスハルトが5月18日に失脚した直後のことであったという。
2-7.検察庁トミー・スハルトの不正取得財産徹底追求の構え(7年5月24日)
トミー・スハルトは上記のとおり海外に隠し財産を所有していることが明らかになり、この不正送金を援助したとしてユスリル・イブラ・マヘンドラ官房長官とハミド・アワルディン司法・人権相が先ごろ更迭された。
あらたに任命されたヘンダルマン(Henarman Supandji)検察庁長官はスハルト自身の汚職追及はもとより3男のトミー・スハルトの不正財産取得について徹底的に追求しすると意気込んでいる。
今回PNB Paribas銀行の口座にある3,600万ユーロの現金がどのように獲得されたのかという問題とは別に、スハルト時代にトミーに与えられたさまざまな特権についても内容を明らかにしたいとしている。
その1つがクローブ(丁子)の買い上げ独占機関であるBPPC(Clove Marketing and Buffer Agency)にまつわる不正汚職疑惑である。
これは1990年末に国内産の丁子と輸入される丁子の購買権をトミーが支配するBPPCに独占させ、それを寡占状態にあった丁子入りタバコの会社に販売するというものであった。
また、1996年2月に突如トミーに対し「国民車」を製造する特権が与えられた事件である。
これは韓国の起亜自動車と合弁でPT Timor Putra Nasionalなる会社を設立し、部品輸入の関税など一切ゼロにしてインドネシアの「国民車」を製造販売するというものである。
これは、それまでインドネシアに投資をおこなってきたトヨタなどにきわめて不利益をもたらす措置であったが、息子可愛いさのあまりスハルト大統領がとった行動であった。
これについては何の実績もないチモール社に供与された巨額融資や、そのコゲツキ問題など多くの禍根を残した事件であり、その過程でトミーは不当利得を得たとされている。
スハルト政権が崩壊した1998年5月以降もこれらの問題にはメスが入れられず放置されてきた。
しかも最高裁判事を殺害しながら、たったの5年そこそこの刑期で自由のみとなったトミーに対する国民的憎悪はかなりのものがあり、ユドヨノ大統領としてもある程度筋を通さなければならない段階に来ていることは確かである。
2-8.検察庁、トミーをチモール社売却の不正行為で提訴(08年5月7日)
インドネシア検察庁はトミ−・スハルトが所有していた元国民車の自動車会社「チモール社(TPN=T. Timor Putra Naional)」の株式をトミー・グループの会社 PT. Vista Blla Pertama (VBP)など4社に売却したとして、財務省にかわり民事訴訟を起こした。
TPNが通貨・経済危機のときに政府に担保として差し出していた4兆5千億ルピア(515億円)の簿価のあった資産をBPPN(IBRA=Indonesian
Banking Restructuring Agency=インドネシア銀行再建庁)は差し押さえていたが、2003年4月にVBP社に5120億ルピアで売却した。これによって政府は4億4000万ドル(460億円)の損害を蒙った。
ところが後に明らかになったところによると、VBP社が支払った金はMBB(PT. Mandala buana Bakti)というトミーが所有する会社から出ていた。
すなわち、TPNを担保に政府から4兆5千億ルピアの借金をして、それを倒産させ、後から10分の1の価格でその会社を買い戻すと言う典型的なインチキをトミーがやってのけたことがバレてしまったのである。
VBPは2003年5月にこのTPNをブリティッシュ・ヴァージン諸島に本拠を持つアマゾネス社(Amazonas Finance Limited)に売り払った。インドネシア検察庁はもしこの一連の取引に不正行為があったという判決が出た場合はアマゾネス社は判決に従うことが義務付けられていると言う。
そもそも、トミーが出したカネというのはスハルト時代にトミーがオートバイ会社をTPNプロジェクトの関連で設立するとして政府から引き出したものではないかという。
上記(#2-6)の記事の事件とあわせて、トミーの不正・インチキの仕掛けはなかなか巧妙で、一筋縄ではいかないが、出所は全てインドネシア国民(政府)のカネである。
この記事はジャカルタ・ポスト(インターネット版)08年5月6日付けの記事を参照して書いたものだが、数字の誤りもあり、今の段階では必ずしもスッキリしていない。(続く)