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アチェ問題

 

17-22. アチェ州知事選挙で元GAMのリーダー、イルワンディ氏が当確(06年12月12日)

17-21.日本からのアチェへの援助金2,581億ルピアが行方不明?(06年10月31日)

17-20. アチェの地方政党「アチェ民衆党」設立(06年3月18日)

17-19. GAMの軍事組織解散(05年12月28日)

17-18. GAMの武器引渡し、最終段階へ(05年12月15日)

17-17. GAMの武器引渡し、第2ラウンド開始、国軍が発砲事件(05年10月15日)

17-16 アチェ和平協定調印(05年8月15日)

17-15. TNI、アチェからの撤退準備開始(05年8月8日)

17-14. 第5回交渉で暫定合意、調印は8月15日に(05年7月16日)(Renew7/17)

17-13. インドネシア国軍、停戦を拒否(05年6月8日)

17-12. 第4回アチェ和平会議、国軍は停戦に難色を示す(05年5月29日)

17-11. 第3回アチェ和平会議中にインドネシア軍兵力増強(05年4月15日)

17-10. ヘルシンキでの第2回会談でGAMは独立断念を示唆(05年2月23日)

17-9.GAMとの和平会談をヘルシンキで行う(05年1月28日)

 ⇒GAM側は10年以内に独立の是非をめぐって住民投票を要求(05年1月31日)

17-8.国軍、津波被害の救済を2の次にGAM兵士120名を殺害(05年1月21日)

17-7.インドネシア政府、GAMとの和平交渉開始(05年1月11日)

17-6. アチェの惨状、25,000人を超す死者と数百万の家屋破壊(04年12月29日)

17-5. アチェ知事アブドゥラ・プテェついに逮捕(04年12月9日)

17-4. アチェの非常事態宣言はあと6ヶ月間は延期(04年11月19日)

 

17-1.アチェの独立派とジャカルタ中央政府との和平協定(02年12月26日)

アチェの独立派ゲリラ(GAM=Free Aceh Movement)と中央政府・国軍との戦闘は26年間続いていたが、12月9日にジュネーブで和平協定が調印された。その間1万人以上の死者が出たとい われている.休戦協定が成立したあとも国軍兵士が2名殺されるなど双方に数人の死者が出ており、和平が 本当に達成されるのかどうか予断を許さない。

政府は戦乱により荒れ果てたアチェ地域の社会的リハビリに全力を尽くす(といってもあまり期待はされていないが)といっている。

しかし、この和平が本当に実現されればインドネシア史上の大事件である。メガワティにとっても大きな得点である。私は今回の和平協定は意外にうまくいきそうな気がする。なぜならメガワティのようなソフト路線はアチェ人にとっても好感をもたれるからである。

スハルト軍事政権のような強圧路線に対してはアチェ人はなかなか屈服しない。オランダがアチェを制圧したのはなんと20世紀に入ってからである。

オランダ軍は1873年3月にアチェ王国に侵略を開始し,78年にはほぼ制圧を完了したが、80年代以降イスラム聖職者をリーダーとするゲリラ戦争が始まった。彼らが最終的に制圧されたのは1912年のことであった。

今回のアチェ独立派の闘争は、アチェは天然ガスの宝庫(アルンのガス田)でありながら、その利益はジャカルタ中央政府に持ち去られ、アチェの住民は貧しい生活を強いられてきたことに端を発している。

スハルト失脚後はインドネシアの地方自治権の拡大政策もあり、アチェは特別に自治権を与えるべきだという方針も出てきてGAMの抵抗運動も様子見的な休戦のチャンスをつかんだといえよう。しかし、全てはこれからである。

中央政府の対応がいい加減でアチェ人が腹を立てて再び鉄砲のうちあいが始まる可能性も高いが、双方の当事者に人材を得ればうまく収まる可能性もある。

(03年2月11日)GAMの武器引渡しが始まる

2月9日より、協定どおりGAMは武器の引渡しを実行し始めた。昨年12月9日のジュネーブ協定以降何件かの死傷事件はあったが、GAMは自制しており、今のところ着実に和平プロセスが進んでいる。

インドネシア国軍も挑発的な手出しはしていない。この和平が順調に進めば、アチェの人々にとってゃもちろんのことインドネシア全国民にとっての歴史的な朗報である。

国軍もGAMの存在を理由に石油会社から多額の「用心棒代」をせしめていたが、和平実現により、それはできなくなる。そうなると中央政府が本気で国軍の予算を工面しなければならなくなる。よけいな軍隊の派遣が減ればそれだけ経費も浮く理屈である。

インドネシア国軍の自制がこの和平の鍵となった。

(03年3月7日) 依然小競り合いが続く

せっかくの和平の機運が盛り上がっているところに軍とGAMの殺し合いが散発的につづき、インドネシア軍はGAMを一方的に非難し始めた。

しかし、よくよく考えると和平が成立すると当面困るのはインドネシア軍のほうである。彼らはM16(自動小銃)をもってきて16M(160億ルピア=180万ドル)稼いで帰るといわれていた。その儲け口を失うことになる。

その意味で和平を最も望んでいるのは現地の一般民衆であり、最も望んでいないのは軍ではないかと思われる。誰が金お出すかといえば大口は現地で操業している外国資本(エクソン・モビルなど)である。

現実の推移としては和平は紆余曲折を経つつも確実に進んでいく。和平協定地区の拡大も一歩一歩進みつつある。それは民衆が強く和平を望んでいるからである。インドネシア国軍と一部のイスラム強硬派(GAMのなかの)は次第に影が薄くなっていくであろう。

(03年4月14日)というのは、筆者のあまりにも希望的観測であった。行動を起こしたのはやはり軍の強硬派であった。

今、メガワティ大統領は軍の強硬派から、自由アチェ運動(GAM)と再度戦うべしという強い圧力を受けている。軍の強硬派のリー・ダーは国軍参謀長リャミザード(Ryamizard Ryacudu)である。

リャミザード参謀長の言い分は「反乱者(GAM)と和平協定を結んだり、認知したりすることは論外である」というものである。かってのスハルトの言い分と全く同じである。

こういう軍幹部の言い方をみても「和平ぶち壊し」の張本人は彼ら自身であることは明らかである。国民が何を望んでいるか、またインドネシアにとって何が大事かなどということはまるで眼中にないかのごとき発言である。

国軍司令官のエンドリアルトノ・スタルト(Endriartono Sutarto)はより穏健派であることで知られているが、今や元スハルト大統領の最も忠実な部下であったたリャミザードらの強硬路線におされ気味であり、政治・治安調整相のユドヨノもそれに引きずられているという。

リャミザードはバリ島爆破事件にも関与の疑いを持たれた人物である。彼は現地軍の強硬路線派と組んで、ジュネーブ協定のぶち壊しに露骨に動いている。

GAMは7月9日までに武器を放棄することになっているが、それをやられると最も困るのは軍強硬派である。アチェに和平が訪れれば軍が手にしていた、石油資本からの「用心棒代」も消滅するからである。

(03年5月17日)東京で最後の和平会談、出発直前にGAM幹部の逮捕

インドネシア政府は5月17日を期限にGAMが和平に合意しなければ、戦闘を再開するとの「最後通牒」を突きつけ、軍の増強をおこなってきた。しかし、米国、日本、EUはインドネシア政府に対し、平和解決の努力を継続するよう働きかけ、5月17日に東京で最後の会談がおこなわれる手はずになっていた。

ところがアチェを出発しようとしていたGAMの代表者5名がアチェのホテルを出発し、空港に向かう途中、出国書類の不備を理由に逮捕されてしまった。

このように、和平を妨害したいのはインドネシア国軍そのものであるということを内外に示してしまった。東京会談そのものはGAMのヨーロッパ駐在員 (スウェーデンからマリク・ムハマドおよびザイニ・アブドゥラ)が参加することで可能だが、アチェ現地の代表が参加しなければ、実効性が欠けることは明白である。

5月17日に現地で拘束されている5名のGAM代表者が釈放されたということで、午後9時ごろになってどうやら会議の開始にはこぎつけた模様である。

この会議にはインドネシア政府代表としてウイリョノ・サストロ・ハンドヨ氏のほかタイからタノンスク少将、駐インドネシア・ギリシャ大使アレクシオス氏らが立ち会っているという。

5月19日に2日間の東京での和平交渉は案の定決裂し、メガワティは現地に非常事態宣言を布告し、インドネシア軍にGAMに対する攻撃命令を発した。

インドネシア軍5万人とGAMの義勇軍5千人との戦いである。一見勝敗の帰趨は明らかなようだが、GAMもゲリラ戦が得意であり、簡単には決着はつかないであろう。

インドネシア政府にとっては大変なお荷物であり、メガワティは旧スハルト系軍部の術中にまんまとはまった感がある。

インドネシアの軍事専門家であるイクラール・ヌサ・バクティ(シンクタンクLIPI所属)は「インドネシア軍は遠隔地では植民地の支配者のごとく振る舞い、GAMと原住民の違いなどには配慮しないであろう」と住民虐殺の可能性を示唆している。

 

17-2. 戦闘再開 (03年5月23日)

戦闘が再開され、インドネシア軍はパラシュート部隊も動員し快調に進撃を開始し、一般住民を含む58名の「反乱者」を殺害したと、戦果を誇示している。

ところが思いがけない事件が起こっている。それは240もの学校が放火され焼失したことである。政府軍はGAMの仕業だとしているが、約5万人の学童が校舎を失ってしまった。しかし、住民の多くは国軍の特殊部隊の仕業ではないかと見ているという。

政府軍と警察は現地で活躍するNGOのメンバーをGAMの協力者として逮捕し始めているという。

(03年6月5日)ドイツ人を誤って(?)射殺

アチェの戦闘に熱の入っているインドネシア軍は民家に夜襲をしかけ、旅行者のドイツ人男女に発砲し、男性は死亡し、女性はくるぶしを打ち抜かれる重傷を負った。

男性はLuther Hendrik Albert 54才で女性はElizabeth Margrert 49才という名前である。2人は北スマトラのベラワン(メダン近くの港町)にいく観光ビザを所持していたが、禁止区域のアチェに無許可で滞在していたという。

スシロ・バンバン・ユドヨノ治安。政治問題調整相は「あってはならないことが起こってしまった。至急実態を調査する」と語った。

このようなやり方で、インドネシア軍はやたらに一般市民を殺害しており、殺されたのがたまたまドイツ人であったがために、事件が表面化したといえよう。

(03年6月11日追加)これに対し、リャミザード・リャチュドゥ国軍参謀長は「バカなやつだけが、戦闘地域でピクニックをやっている」という心無い発言をした。こんな悪玉将軍がはびこっている間はインドネシア国軍は正常化しないであろう。

リャミザードは一時期バリ事件の黒幕の容疑を持たれたことのある、特殊部隊系の将軍であり、インドネシア軍の影の実力者であり、上司のスシロ・バンバン・ユドヨノ治安・政治調整相の発言をひっくり返すようなことを平気で言う人物である。

インドネシア軍は叛徒GAMのメンバーを105名殺害したと発表しているが、インドネシア赤十字はそのうち少なくとも20名以上は一般市民であると発表している。LIPIのイクラール氏が言ったとおり、市民の犠牲者が相当出てくることは間違いない。

(03年7月3日)国軍はアチェ全土を制圧?

国軍司令官エンドリアルトノは国軍がアチェ全土を制圧したと発表した。GAMの勢力は当初、約5,000名とみられていたが、戦死者309名、投降したもの682名で残存ゲリラ勢力は600〜700名程度とみられると語った。

死者にはかなりの一般市民が含まれているという見方に対しては、若干名にすぎず、また、戦闘終結宣言には至っていないという。

 

17-3.アチェの制圧には何年かかるかわからない?(03年7月7日)

国軍司令官エンドリアルトノは7月6日の記者会見でアチェでの軍事作戦は終了までに何年かかるかわからないと述べ、記者団を唖然とさせた。

数日前、国軍はアチェ全土を制圧したと高らかに宣言したばかりである。アチェの戦闘がそんなに長引くのであれば何故5月の東京会談を決裂させ、戦闘に踏み切ったのか理解に苦しむところである。

軍の発表によればゲリラ350名を殺害し、600名を捕虜にし、4万の住民が避難したとのことである。しかし、少なくとも100名以上の一般人が殺されている。

全土を制圧したにもかかわらず、GAMのゲリラ戦が終わらないというのは、GAMの戦法は最初からそのような性格を持っており、民衆にまぎれて戦うというものなのであろう。

これから何年も戦いが続けばインドネシア国軍の「お仕事」も永続性があり、当分政府内で発言権を維持できるということなのであろうか?そうだとすればこれは国軍のための戦争であるといわれても仕方がないであろう。

⇒住民の虐殺を続けるインドネシア国軍、既に13,000人殺害(04年2月16日)

イギリスBBC放送のラッチェル・ハーベイ記者のレポートによれば、インドネシア国軍は13,000人以上の反乱分子を殺害したと称している。インドネシア軍がGAM殲滅作戦を開始した時はGAMのメンバーは5,000人と言っていたはずである。

スハルトに飼育されて育ってきた軍隊は東チモールの時もそうだったが、アチェでも同じことをあっている。35,000人もの軍隊を動員して肝心の「敵」は殲滅できずに弱い一般国民を殺戮しているとしか思えない。

国際社会はインドネシア政府のこのような暴虐は直ちにやめさせるべきであろう。日本政府も援助問題につき明らかに再考すべき時期に来ていると思う。われわれの税金を殺人者集団のために使われてはたまったものではない。

もしそうでないというならインドネシア政府はアチェ問題を国際社会に公開すべきである。新聞記者もロクにいれずに軍隊に好き放題やらせているとしか思えない。

⇒アチェの戒厳令は5月には終わらせるーメガワティ明言(04年3月7日)

インドネシア国軍はアチェで国際的な監視を遮断して同胞を殺しまくっているが本物の反政府ゲリラ容疑者を1,400人(全体の死者はその10倍近く)を殺害し、所期の成果をあげてといっている。

国際的および国内的な非難が高まる中でメガワティもそろそろ戒厳令だけは辞めないと具合が悪いと遅まきながら考えたようで、5月までには戒厳令は解除すると言明した。ただし軍事作戦は以前継続することになるであろう。

⇒アチェの戒厳令は5月19日で終了(04年5月14日)

スシロ・バンバン・ユドヨノの後任で政治・治安調整相に就任しているハリ・サバルノ(Hari Sabarno)は5月19日をもってアチェ地域に施行している戒厳令を撤廃し、「非常事態」に変更すると述べた。

軍の発表によればアチェでは2,000人の叛徒が殺害され(実数は不明、一般市民も多数犠牲になっている)、降伏したり、捕虜になったものを入れると5,330人の叛徒が消滅したことになり、あと1,500人ほどが捕まっていないとのことである。

メガワティは当初この作戦は「人道主義的作戦」であると称していたが一般市民を含め15,000人以上の死者(5月19日、ジャカルタ・ポスト)を出したといわ、メガワティ政権 下のインドネシア国軍の蛮行はいずれ厳しい歴史的評価が下されることになるであろう。

この作戦の結果、アチェの住民の生活は破壊され、人々の暮らしはいっそう厳しさを増しているといわれている。

国軍幹部は今回の戒厳令撤廃は単に名目的なものであり、引き続きGAMとの戦いを継続するとしている。国軍にとっては鉄砲をどこかでぶっ放し続けないと自らの存在意義が問われるというあせりもあるのであろう。

将来、アチェの民衆の抵抗は戒厳令施行前よりも激しくなる可能性を秘めている。イラクにおける米軍の蛮行にも匹敵するようなことをインドネシア国軍はアチェでやってきたのである。

そもそもこのような殺戮を伴う大作戦が必要であったのか大いなる疑問が残る。

 

17-4. アチェの非常事態宣言はあと6ヶ月間は延期(04年11月19日)

SBY大統領はアチェの非常事態宣言(Civil State of Emergency)は最大あと6ヶ月間は延長する必要があるとして議会の承認をえて実施したいとしている。

これは毎月見直されるが、その間一般国民の生活は制限を受ける。アチェ地方政府は任意に出版物の検閲ができるし、夜間外出禁止令、や令状ナシの家宅捜索も可能となる。

実際問題としてアチェでは軍が全域を掌握しており、市民的自由権は奪われたままである。 報道関係者の取材は特に厳しく制限され、軍の残虐行為は闇に葬られるという事態が続くものと思われる。

アチェのアブドゥラ・プテェ知事は汚職容疑で取り調べ中の身である(身柄は拘束されていない)。

もっとすっきりした人物が派遣されないとゆがんだ行政が行われる可能性がある。まともな人物は軍が使いにくいということであろうか?このままではアチェはインドネシアの恥部であり続けることになろう。

この非常事態統括者にはアチェ警察盆部長のバルムシャ・カスマン(Bahrmsyah Kasman)がプティ知事にかわって任命された。

 

17-5. アチェ知事アブドゥラ・プテェついに逮捕(04年12月9日)

かねてから汚職の嫌疑がかけられていたアチェ知事のアブドゥラ・プテェが逮捕された。逮捕の容疑は2002年に起こった、ロシアからのヘリコプター購入に伴う不正疑惑である。

インドネシア汚職追放委員会(KPK=Corruption Eradication Commission)の調査では、1台125億ルピア(1億4千万円)で買ったロシア製のヘリコプターの通常価格はほぼ半額の61億ルピアであったはずだという。

今回立件されるのはヘリコプタの件だけであるが、他にも210億ルピアで購入した船舶に件や300億ルピアで購入した発電機の件など数々の疑惑がある。

プテェの裁判は04年12月末から開始される予定である。

プテェの弁護士によれば、プテェの逮捕は政治的なものであるという。SBYは大統領主任早々、かねて公約していた汚職退治を徹底的にやるのだといきまいているが、矛先はもっぱら、政敵に向けられている感は免れない。

プテェ知事は知る人ぞ知るゴルカル党首アクバル・タンジュンの盟友である。ただし、残念ながらプテェの汚職のうわさはアチェではあまりにも有名であった。また、プテェは反政府勢力のGAM(自由アチェ運動)指導者の一部とも気脈を通じていたという。

また、SBYは就任早々PDI-Pのラクサマナ・スカルディに「国外逃亡するなよ」と呼びかけ批判を浴びた。政敵叩きと身びいきは汚職拡大の原因になりかねない。

SBYは2005年を汚職追放の年と位置づけているが、この際、スハルト一族の旧悪や軍部の旧悪などにもメスを入れなければ、単なる野党タタキに終わってしまう。

 

17-6. アチェの惨状、25,000人を超す死者と数百万の家屋破壊(04年12月29日)

ジャカルタ中央政府軍の仕掛けたGAM(自由アチェ運動=分離独立派)との戦闘は政府軍が優勢のうちに終盤を迎えつつあるといわれているが、GAM側も必死の抵抗運動を続けている。

そういう中で、04年12月26日午前7時59分(現地時間)に起こったスマトラ北部沖地震(マグニチュード9.0)により大津波が発生し、アチェ地方では特に大きな被害を受けた。

スマトラ島全体で27,000人以上の死亡が確認され、海岸沿いの家屋数百万戸が破壊された。遺体の収容場所もなく、食料や医薬品も極度に不足し、病気による死者も今後かなり出ることも予想される。

スマトラのム-ラボ(Meulaboh)町では住民4万人の4分の1に当たる約1万人が死亡したと伝えられる。

アチェへの外国人ジャーナリストの直接取材は以前から軍により制限されており、現地の詳しい状況はほとんど報告されていなかったがBBCのRachel Harvey記者(女性)が貴重な映像と記事をもたらしてくれた。

通信手段が切断されているため、衛星電話で記事を送信したものである。それによると、「バンダ・アチェでは建物の多くが破壊され、モスクのみが無傷で残っている。死体は各所に取り残されたままである。住民の多くが家を失い、高台にテントを張ったり、モスクに避難している。」状況であるという。

負傷者も多数出ているが、医薬品が極度に不足している。同地域は軍が管理しており、救援隊の入境も制限されているという。知事のプテェは汚職容疑で目下裁判にかけられ12月28日に第1回の公判がジャカルタで行われた。

GAMは一時的休戦を宣言し、被災者の救済活動に専念するということで、目下戦闘は行われていない。なお、政府軍の兵士も400名程度死亡死亡したと伝えられている。

 

Victims in Banda Aceh, 27/12/04
BBCのインターネット版、04年12月29日付けより 04年12月27日に撮影されたもの

(http://www.bbc.co.uk/)参照。

なお、12月29日付けのジャカルタ・ポスト(インターネット版)によると、12月28日になってようやくインドネシア政府はジャカルタ駐在の外国人記者に対し、ようやく現地取材を許可したが、政府(軍)の事前許可を要するとのこと。

同時に外国人の救援活動も認められたとのことである。

(05年1月11日追記)

津波被害の実態は当初の予想を大きく上回り、アチェだけで10万人を優に超えることが明らかになった。

 

17-7. インドネシア政府、GAMとの和平交渉開始(05年1月11日)

津波による壊滅的打撃を受けたアチェでは、インドネシア政府は国軍がGAMとの戦闘を続けながら、アチェの復興を行うことは到底不可能であることを認識し、ようやく、GAMとの和平交渉開始に踏み切った。

インドネシア現地軍は和平の動きには消極的で、米軍の援助物資を輸送するヘリコプターがGAM支配地域に物資を輸送するのを阻止しようとしているとも伝えられている。

しかしながら、インドネシア政府としても国軍の戦費負担は重く、かつアチェの復興にも巨額の資金が必要であり、戦闘行為を無制限に続けるわけにも行かなくなったというのが実情であろう。

GAM側も民衆の中に入り込んで、ゲリラ活動を行ってるが、今回の大津波で多くの民衆の生活基盤そのものが破壊され、その再建に優先的に取り組まざるを得なくなったという事情がある。

また、ゲリラ戦士の多くも津波の犠牲になり戦闘力は大幅に低下しているはずである。

GAMのスポークス・マンのソファン・ダウド(Sofan Daud)氏は外国に関与してもらう形での和平交渉にはいつでも応じる用意があるとしている。

一方、ハッサン外相はBBCに対して、「双方とも和解に関心を持てる」状態にあると語り、和平交渉への意欲を示した。

交渉は正式に何時再開されるか目途は立っていないが、双方とも戦闘能力が大幅に削減されており、交渉再開は近いものと思われる。

GAMに対する攻撃は、上(17-2)で見るごとく、インドネシア国軍が東京会談をぶち壊す形で、03年5月から開始され、1万3千人の住民が殺害されるという惨事となったが、国軍が完全勝利するにはいたっていない。

戦争というのが、「勝者」にとっても、いかに無意味なものかを示す、格好なサンプルとなってしまった。勝者の国軍とインドネシア政府にとってうるものは何もなく、軍と官僚の汚職と住民の悲惨な生活のみが残った。

⇒1月末にも交渉再開か?(05年1月20日)

インドネシア政府はGAM側と和平交渉に向けての準備を進めており、早ければ05年1月末にも再開されるとの見通しをハッサン(Hassan Wirajuda)外相は明らかにした。

アチェには約2,500人のGAMの兵士が存在するという。

 

17-8. 国軍、津波被害の救済を2の次にGAM兵士120名を殺害(05年1月21日)

インドネシア国軍は支援国の軍隊にアチェの被害者救済を任せ、せっせと「GAM討伐」作戦にはげみ、GAM のゲリラ戦士を過去2週間で120名殺害したと、戦果を公表した。

インドネシア国軍は支援国からの救援物資をいち早く自分たちのために確保し、GAM側が一方的な休戦を宣言するなかでインドネシア国軍の現地部隊はGAM掃討作戦を展開していたということになる。

インドネシア政府が発表していた、「GAMとの和平交渉再開」というニュースも単なるカモフラージュであったのではないかという疑念がもたれても仕方がない。

リャミザード陸軍参謀総長は「和平などという話は時期尚早である」と考えているようである(BBC,インターネット版)。リャミザードは国軍兵士2万人はGAM掃討作戦に従事し、1万5千人は住民救済に当たっていると述べている。

リャミザードはGAMが独立のための戦いを止めない限り、和平はありえないとして、話し合いを事実上拒否している。これは、2003年5月の東京会談をぶち壊して以来の一貫したインドネシア国軍の態度である。

国際社会の援助も国軍がいる限り、国軍のための補給にその多くが使われている現実に何ともやりきれなさを感じる。

また、ニュージーランド空軍の輸送機でアチェの富裕階級の人々をジャカルタに「避難」させる際に、インドネシア軍は1人当たり80ドルの手数料を聴取しているのではないかとニュージーランド側が抗議したとの報道がなされている(ジャカルタ・ポスト、05年1月28日)

 

17-9. GAMとの和平会談をヘルシンキで行う(05年1月28日)

ジュオノ・スダルソノ国防相は1月26日(水)インドネシア政府の3人の閣僚をGAM(自由アチェ運動=分離独立派)と和平交渉を再開すべく、フィンランドの首都ヘルシンキに派遣したと発表した。(上の17-7参照)

3人の閣僚とは司法相ハミド・アワルディン(団長)とウィドド・アディ・スチプト治安担当調整相と情報・通信相ソフヤン・ジャリルである。ジュオノ国防相自身はなぜか出席しない。また、メンバーの中では最上席のウィドド調整相が団長でないというのも理由がよくわからない。

肝心の国軍の現役幹部が出席するのかどうかもはっきりしていない。軍からは元アチェ司令官シャリフディン・ティペ(Syarifuddin Tippe)少将が出席するという未確認情報がある。

GAM側からは現在スウェーデンに滞在するのGAM亡命政権首相のマリク・マームド(Malik Mahmud)と外相のザイニ・アブドゥラ(Zaini Abdullah)が出席する。GAMの創設者のハサン・ディ・ティロ(Hasan di Tiro)は高齢のため出席できない。

和平交渉そのものは大津波(04年12月26日)以前からユスフ・カラ副大統領が根回しを進めているという噂があり、フィンランドの元大統領のマルティ・アティサリ氏が仲介役を果たすということで、会談がヘルシンキで行われることになった。

マルティ・アティサリ氏は国際紛争調停のための組織CMI(Crisis Management Inithiative=危機管理構想)を2000年に作り、国際紛争や地域紛争の調停・和平交渉の仲介役を行っている。

インドネシア政府としてはSBY大統領がアチェに広範な自治権を与えることで今回の紛争を収めようとしている。GAMの目標はあくまで分離独立であるが、現実には達成不可能であり、どこかで妥協点を模索しなくてはならない。

問題はインドネシア国軍であり、国軍にとってはアチェそのものが「利権」となっており、簡単には手放すとは思えない。インドネシア中央政府にとっては、交渉相手はGAMだけではなく、国軍(特にリャミザード陸軍参謀総長)も厄介な相手である。

しかし、建前上は国軍はインドネシア政府の1機関に過ぎず、いつでもコントロールできるはずである。SBY が大統領として決断すれば済む話ではある。しかし、そうは簡単に行かない事情があるらしい。

いずれにせよ、今回のヘルシンキ会談で事態が解決するとは考えられない。しかし、インドネシア政府としてもいつまで国民(アチェ人)の殺害を続けるわけにも行かない。金もかかるし、国際世論からの攻撃もある(日本政府は例によってインドネシア政府の立場を支持しているものと思われる)。

 

⇒GAM側は10年以内に独立の是非をめぐって住民投票を要求(05年1月31日)

ヘルシンキでのインドネシア政府とアチェ分離独立派(GAM)との交渉は物別れに終わったが、2月21日に再度交渉することで合意した。その時にインドネシア政府側はアチェの「特別自治州化」について詳しい提案を用意すると約束した。

一方、アチェ現地のGAM司令官のトゥンク・アダム(Teungku Adam)は、GAM側からは直ちに独立を求めない代わりに、5〜10年以内に独立の是非についての住民投票を行ってほしいという要求を出したと伝えられる。(WSJ,05年1月31日、Internet版)

 

17-10. ヘルシンキでの第2回会談でGAMは独立断念を示唆(05年2月23日)

インドネシア政府とGAMのヘルシンキにおける第2回目の和平会談が2月22日から行われているが、席上GAM側は独立を当面断念する旨の意向を明らかにしているという。

GAM側のスポークス・マンであるバクティアール・アブドゥラ(Bakhtiar Abdullah)氏は独立の是非を問う住民投票を10年後に行うという要求を撤回したと述べた。

インドネシア政府としてはGAM側にアチェ地域での広範な自治権を認め、自由な選挙による自治政府の樹立を認める提案をしている。GAM側としてはインドネシア国軍のアチェからの撤退を要求しているものと見られる。

GAM側の従来にない譲歩に対し、インドネシア政府が従来からの軍の強硬路線に引きずられ続ければ、この話はご破算になる。SBYとしても何の国家的利益にもつながることのないアチェ紛争を早く終結させたい思いはあるであろう。

ただし、アチェを自分の特殊権益の場所と考える、一部の国軍幹部の説得もしくは排除がSBYの最大の課題である。また、SBYとしても軍を自分の手で直接掌握するためには、好き勝手な行動をとり続ける強硬派を1日も早く追い出す必要がある。

それは、今進行しつつある軍の人事異動の成否にかかっている。

インドネシア軍は大津波発生以降も、GAM側の停戦宣言を無視して、一方的に攻撃を続け、既に200名のGAMのゲリラを殺害したといわれている。GAM側に言わせれば国軍が殺害したのはほとんどは一般の民間人であるということである。

国軍にすれば、何人殺したかが「勲章」につながる話であり、そんなことは一向に意に介しないで今までやってきた。しかし、国際機関の援助活動で多くの外国人が現地に駐在しており、彼らの目の前で好き勝手なことはインドネシア軍としてもやりにくい。

国軍は、外国人に早く出て行ってほしいといわんばかりの態度をとり続けている。苦しんでいるのは現地のアチェの住民である。今回のヘルシンキ会談の成功をアチェの住民は何よりも期待しているであろうことは間違いない。 

 

17-11. 第3回アチェ和平会議中にインドネシア軍兵力増強(05年4月15日)

ヘルシンキにおいて第3回アチェ和平会談が4月12日(火)から行われており、かなり前向きに話が進みつつあるという報道がなされている。ハミッド司法人権相はアチェは特別自治区としてインドネシア共和国にとどまるということで基本的な合意がなされていると語った。

人権団体の活動家はアチェ紛争がスハルト政権下の1976年に始まって以来1万4千人が殺害されたと主張している。その大部分はインドネシア国軍による殺害である。

昨年末に起こった大地震と大津波で13万人のアチェ人の死亡が確認されており、各国から軍隊などが派遣され救出・治療活動、復興支援活動が行われてきたことは記憶に新しいが、その大混乱のさなかにインドネシア国軍は国際援助によりいち早く「補給を完了し」、早速GAM討伐を再開し、華々しい「戦果」を挙げている。

そういう現場を目撃されたくないインドネシア軍は外国軍隊の支援活動を3月26日に打ち切るよう通告し、現在ほとんど各国からの支援部隊(民間を含め)引き上げてしまった。

この早期引き上げのさなかに運悪くニアス諸島での大規模な地震災害が起こり、救助・支援活動は大幅に遅延・制約されたことはいうまでもない。全てがインドネシア国軍とそれを支持しているインドネシア政府の責任である。その被害は全て現地住民が背負わされる結果となった。

和平会談の進行にあわせるように、インドネシア軍は3,000人の軍隊を新たに増強した。目的は現地の混乱した治安を回復するための増強であると軍は主張する。しかし、03年5月の東京会談の時と同様に和平会談のブチ壊しを国軍が狙ったものではないかという憶測が流れている。

インドネシア国軍はアチェでは封建領主同様に振舞い「住民の生殺与奪の権利」を握っているのである。その地域の独裁的支配者であれば、大変な「余禄」がある。いわば、国軍にとっては「宝の山」なのである。国際支援などもその宝の山を大きくする役割を担っている可能性がある。

せっかくうまくいきかけているヘルシンキ会談は再び軍部によってぶち壊される危険をはらんでいる。SBY大統領はとりあえず強硬派の大親分のリャミザード中将の動きだけは封じたようであるはあるが、今後どこまでやるのかをよく観察する必要がある。

次回は5月26日から行われる。

 

17-12. 第4回アチェ和平会議、国軍は停戦に難色を示す(05年5月29日)

05年5月26日(木)からヘルシンキでインドネシア政府(代表者はハミド・アワルディン司法相)とGAMとの和平会談がおこなわれているが停戦問題に関しての目立った進展は見せていないようである。

今回の会議は停戦後の「政党問題」についての話し合いがおこなわれたという。部分的にせよ前に進んでいるとGAMの関係者は語っている。5月28日(木)は戦争責任免除(アムネスティ)と社会の統合と経済問題が話し合われ、翌28日(金)は自治政府と経済問題が話し合われた。

5月28日(土)は安全の保障問題が話し合われたという。しかしながら和平会談の期間中の一時的停戦すら国軍は拒否しており、GAMの掃討作戦を続けており、5月27日(金)には3名のGAM兵士が殺害されたという。

つい1週間前にはインドネシア政府はアチェの「非常事態宣言」を撤廃したが、実態は少しも変わっていない。要するに、インドネシア国軍の一部の強硬派幹部はアチェの権益を放棄したくないという思いが強いのであろう。

SBY大統領が強権を発動しない限り、GAMとの停戦は容易には実現しそうもない。インドネシア国軍は「国軍あって国家なし」という60年以上前の大日本帝国陸軍同然の態度でいるようだ。

しかし、アチェの和平が実現しない限りインドネシアの国家財政は疲弊を続けるし、国軍の財政問題(100%国家財政による軍の維持)の解決も遠のくばかりである。

⇒第5回交渉は7月12日から(05年5月31日)

第4回交渉は5月31日(火)までおこなわれたが、結論に至らず、第5回交渉を7月12日からおこなうことで合意した。問題はインドネシア国軍の強硬姿勢であろうと思われる。

インドネシア政府代表のハミド司法相は中央選挙管理委員会時代の汚職容疑がかけられており、次回までクビがもつかどうか怪しい状況である。

(ジャカルタ・ポスト、インターネット版参照)

 

17-13. インドネシア国軍、停戦を拒否(05年6月8日)

BBCのインターネット版(6月8日、夜)によると、インドネシア国軍司令官エンドリアルトノ・スタルト(Endriartono Starto)は和平協定成立以前にはGAMへの攻撃を止めるつもりはないとの強硬発言をおこなった。

和平交渉そのものには軍としては特に反対意見は述べなかったようだが、話しを振り出しに戻すような今回の発言であり、SBY大統領の事前の了解を得た発言かどうかはわからない。

また、スタルト司令官は003年5月の和平交渉決裂以来の掃討作戦でGAMを3千人殺害したと述べた。これに対しGAMのスポークスマン(Bakhtiar Abdullah)はBBCに対してGAM側の戦死者は数百人にすぎず、政府軍が殺害したと称する3千人の大部分は一般市民であるということである。

スタルト司令官はもしGAMがっ本当に和平を望むなら、降伏して武装放棄すべきであると語った。それを和平の条件にするならばGAM の「降伏」要求であり、和平交渉ではない。GAMとしてもリスクが高い(国軍が何をやるかわからない)ので武器引渡しには応じられないであろう。

第5回交渉は予定通り、7月12日からヘルシンキでおこなわれるという。

 

17-14. 第5回交渉で大幅歩み寄り(05年7月16日)

インドネシア政府とアチェの分離独立派GAMとの第5回目のヘルシンキ和平交渉が7月12日(火)からおこなわれているが、交渉は大幅に進展しているとGAMのスポークス・マンは述べている。

現在は和平後の選挙態勢をどうするかの話し合いに焦点が移っており、GAM側はアチェにおける独自の政党を認めよと政府側に要求している。

現在のインドネシアにおける政党法では「全国政党」以外は政党としての政治活動を認めていない。すなわち、全国33州のうち半数以上の地域に支部を持ち、ジャカルタに政党本部を置くことなどという政党法の規定がある。

その趣旨は地方政党を認めると、各地で分離独立運動が「公然化」する恐れがあるためである。

この点に関し、政府側はアチェをベースにした政党設立の可能性を示唆しているという。

そのほかの問題としてはGAMの武装解除とインドネシア国軍の撤退である。インドネシア国軍にとっては「宝の山」であるアチェの「支配権」を簡単に手放すとは思えないが、ユスフ・カラ副大統領は、それは問題ないと述べている。

⇒暫定的に合意成立、調印は8月15日(05年7月17、18日)

BBCはGAMからの情報として、和平交渉は暫定的に合意に達し、合意文書がジャカルタに送られ、政府の同意を待つ段階に来ているとのことである。

地方政党の設立(GAMがアチェにおいて独自の政党を作る)については、当初SBY大統領は難色を示していたが、GAMは武装放棄し、インドネシア国軍も撤退するという合意が成立し、大局的見地からGAMの政党化を受け入れることで合意したとみられる。

これが、実現すれば30年続いたGAMの独立武力闘争は終了する。この間1万5千人の死者が出た。

調印は05年8月15日にジャカルタでおこなわれる予定である(Tempo インターネット版、7月17日)

しかし、政党法の改正には国会の承認が必要とされ、今後議会内の主要政党がどう動くかが問題になる。目下のところPKS(Prosperous Justice Party=福祉公正党=イスラム原理主義政党)が早くも反対の意向を表明している。

PKSは先の国会議員選挙で大きな飛躍を遂げた政党であり、党首のヒダヤト・ヌル・ワヒドは国民協議会(憲法改正権を持つ)の議長であり、PKSの説得がまず第一の障害となろう。

アチェ州はイスラム政党が強く(2004年選挙ではイスラム諸政党の得票率が56%で全国一)、既存のイスラム政党がいっせいに反発する可能性がある。また、インドネシア国軍の影響力が強いゴルカルもユスフ・カラ副大統領が党首とはいえどういう動きをするか予断を許さない。

PDI-P(闘争民主党)は自分たちが政権にある間に、このような和平協定が一歩も進まなかったことに慙愧の念を覚えたのか、ヘルシンキ協定には一切反対の立場であることを表明している。

軍の強硬派リャミザールにタウフィク・キエマスが同じ南スマトラ出身ということもあって、極端に「弱かった」のもその一因である。この期に及んでGAMとの戦闘を続けよなどいうのだろうか?どちらにせよPDI−Pの出る幕は最早どこにも残されていない感がある。

 

17-15. TNI、アチェからの撤退準備開始(05年8月8日)

TNI(Tentara Nasional Indonesia=インドネシア国軍)は8月15日のGAM(Free Aceh Movement)との和平協定調印が動かないものとなってきたということから一部、撤退の止めの準備を開始したと報じられている。

特に山間・僻地でGAMのゲリラと対峙していた部隊は、都市部の軍の基地への撤収を開始し、また654名の海兵隊は8月6日(土)既にアチェを離れたという。しかし、まだ約3万人のTNI部隊がアチェに駐留している。

SBY大統領は9月から3ヶ月以内にTNIを撤退させると言明である。そのかわり、通常の治安維持の軍隊組織2万名を常駐させることを検討している。

この和平実現についてはEUとASEANが非武装の監視団約300名を派遣することが既に決まっており、インドネシア政府もこれを受け入れる方針である。

懸案になっていた、地方政党については合法化させ2009年の選挙には参加できる方針で進むことになるであろう。

TNIも和平に同調せざるを得なくなったのは、インドネシア政府としては津波被害のアチェの復興を最優先せざるをえず、これ以上軍事行動をさせておくだけの財政的余裕ばなくなった為であろう。

TNIとしても軍の経費の「正常化(今は国家予算で経費の3分の1程度しか支給されていない)」問題に政府として真剣に取り組むという約束を取り付けたことと思われる。これによって、TNIの強硬派も頑張りきれなくなったことと思われる。

 

17-16 アチェ和平協定調印(05年8月15日)

フィンランドの首都ヘルシンキでインドネシア政府代表とアチェ独立運動(GAM)の代表が和平協定に調印した。これは今まで述べてきた通り、5回にわたる和平協定会議の成果である。

その仲介の労をとったのは元フィンランド大統領のマルティ・アティサーリ(Marttti Ahtisaari)氏である。彼の献身的な仲介工作がなければこの無益な殺戮はさらに数年続いた可能性がある。

また、インドネシア政府もSBY大統領量が軍部の強硬派を抑えて、和平に持ち込んだ功績は大である。

これでアチェに平和が回復されるということには必ずしもならない。というのはインドネシア国軍が養成した「民兵組織」が温存されているからである。この民兵組織こそはインドネシアにおける真の意味の「テロリスト集団」であるが、軍の傘下にあるためにテロリストの定義から免れている。

かれらが、暗躍し、挑発を続ければ、GAMも当然反撃に転じるであろうし、そうなれば和平は破壊される。 現在、アチェの民兵は約1万人いるともいわれている。彼らの武装解除と解散がおこなわれないかぎり、GAMも武器を全面的に手放す気にはなれないであろう。

しかし、アチェの住民が和平を誰よりも望んでいたことはいうまでもない。住民の意志こそが今回の和平を本物にしていくであろう。

EUやASEANの和平監視団は既にアチェに入って活動を開始している。極東の平和国家のチャンピオンであるべき日本は一体何をしているのであろうか?自衛隊を派遣しないこの種の監視団には日本は参加する気がないのであろうか?

はたまた、初めからお呼びがかからなかったのであろうか?なんだかあまり日本は期待されていないような寂しさを感じる。そういえば、03年5月に東京で和平会談がおこなわれたが、日本は場所を貸しただけに終わったのだろうか?

口を開けば「東アジア共同体」などといっているが、肝心のアジア諸国から日本はあまり信用されていないというか、こと平和や民主主義(例えばビルマ)のお話になると、「日本に話してもしょうがない」という雰囲気がはっきり感じられる。

今日は敗戦60周年に当たる。日本は口先では「平和国家」を唱えるが、実態がないことは既にアジア諸国は先刻ご承知である。このままでは、日本人の心の中から拭い去れていない「暗い情念」がまた頭をもたげてくるようなことになりかねない。

「暗い情念」をもつ日本人の支持を背中に感じながら、小泉純一郎首相はA級戦犯を合資する靖国神社に参拝するという「リスク」をあえておかした。彼とその周辺は「国内政治的には大成功 」という認識であろう。しかし、国際的には 日本のイメージは丸つぶれである。

靖国神社に現役閣僚を含む50人近い国会議員がここ数日で参拝しているという。都内では「新しい歴史教科書」が大量に採用されるという。イイカゲンにし てほしいものだ。「暗い情念」を掻き立てる役には立つだろうが、こんなことが日本人の将来にとって一体何の足しになるのであろうか?

小泉首相が口先でアジアとの平和・友好関係の回復などといっても相手はもはや信用していない。小泉政権下でアジアとの友好関係は木っ端微塵に打ち砕かれてしまったのだ。 国連の安保理常任理事国どころの騒ぎではなくなってしまった。

話しはそれるが「民がやれるものは民がやる」などというというインチキ理論を振りまいて今回の選挙がおこなわれようとしている。

民ならば全てよいか?とんでもない。鐘紡の大粉飾決算、住金の「巨額の使途不明金」を含む41億円脱税事件など枚挙に暇がないではないか?民間企業においては幹部がいくら不正を働いても、よほどのことがない限り表面化しない仕組みになっているのである。

公認会計士は一体何をやっていたのであろうか?株主総会は依然「社内株主」か「総会屋」が仕切っていて「議事進行」一点張りで、ほとんど機能していない。

国民の重要な共有財産は国民の監視の目が行き届く形での運営がなされることが基本である。これが戦後の民主主義の原則であろう。そこのところの改革はおこなわれず、「民営化すれば何とかなる」では、実態無視のマル投げといわざるをえない。

戦後の日本の歴史の一側面としてゴマカシに次ぐゴマカシというというこが社会の要所要所に厳存することは悲しいかな否定すべくもない。 そのことに対するメディアの取り上げ方も遠慮がちだし、国民の反応も鈍い。

Acehnese women pray for peace, Banda Aceh, 15 August アチェのモスクで金曜日(8月12日)の礼拝日から引き続き平和への祈りをささげる、イスラム教徒の女性たち(8月15日、BBC)。ちなみに日本の テレビのニュースでは「まっすぐのNHK」をはじめとしてほとんど報じられていない。アジアの出来事なのにBBCがやっていることをNHKはなぜできないのか?NHKはようやく8月16日(火)の朝のニュースで簡単な報道をおこなった。

 

⇒1875人の政治犯を釈放(05年8月16日)

GAMとの和平協定によってインドネシア政府は1,875人の政治犯を釈放することを決定したとハミド司法相(ヘルシンキでの政府代表,調印当事者)が発表した。

 

17-17. GAMの武器引渡し、第2ラウンド開始、国軍が発砲事件(05年10月15日)

その後、アチェにおける和平交渉は本格化し、インドネシア国軍の引き上げやGAMの武器引渡しも第1段階を終え、第2ラウンドが10月14日(金)から開始された。

ところがインドネシア国軍兵士が散発的にGAMメンバーに対し、発砲事件を起こし、死者1名と複数名の負傷者が出ている。

和平協定の実施に当たっては、EUから関しチームが派遣され、GAMの武器引渡しとインドネシア国軍の撤退がスムーズに実施されるよう監視している。

第2ラウンドの武器引渡しは少なくとも210丁の火器(銃とピストル)の提出が決められているが38丁しか提出されなかった。提出数が少ない理由は説明されてないが、国軍側からなされる散発的な発砲がGAM側に「警戒感」を与えていることは推測できる。

また、提出された武器の中には「実用に適していない」と認定されるものも少なからず入っているといわれている。

GAMは今年末までに4段階に分けて840丁の火器を提出することになっている。

しかし、全体としては和平は順調に進んでおり、捕らえられていたGAMの捕虜もほとんど全員釈放され、外国に亡命していた幹部も帰国を始めている。GAM側の安心感が高まれば、今後はスムーズにいくであろう。

どちらにせよ、国軍もGAMも逆戻りするような余力はなくなっている。

 

17-18. GAMの武器引渡し、最終段階へ(05年12月15日)

30年続いたアチェの独立運動のゲリラと政府軍の戦闘は05年8月15日の和平協定合意以来、比較的順調に和平プロセスが進行し、ゲリラ(GAM)の武器引渡しも最終段階を迎えるにいたった。

引き渡される銃火器の総数は840丁だとのことであり、既に792丁がAMM(Aceh Monitoring Mission=アチェ和平監視委員会)に引き渡されたという。このAMMはEUとASEAN諸国からなる人員で構成され、「平和国家日本」は入っていない。

インドネシア国軍は引き渡された武器のうち628丁しか、「有効な武器」とは認めていない。すなわちゲリラ側がまだ多数の武器を隠し持っているという認識である。多分それは事実であろう。しかし、問題はゲリラ側がその武器を再度使って武力闘争を再開するかどうかである。

いまのところそんなムードは全くない。昨年末の大津波で26万人にも上る犠牲者を出し、多くの家屋や財産を失い、これから生活の再建に取り組むアチェの人々にとっては戦争をやっている暇はない。

今回の和平を実現した最大の功労者はユドヨノ大統領である。彼は軍部の右翼強硬派リャミザード総参謀長などを解任し、和平への軍側の「障害」を排除したことが大きい。メガワティ前大統領にはそれができず、グズグズと戦闘を長引かせた。

これからは政府側が約束した「アチェ独自の地方政党(今の法律では地方政党は認められていない)」の設立を認める特別法案を作り、国会を通さねばならない。これが以外に難物である。メガワティの率いる闘争民主党やイスラム政党の一部も反対に回りそうである。

しかし、それも実現する可能性は高い。戦争などというものがいかに無益なものかはインドネシア国民が良く認識しているからである。勝ったほうも良くてせいぜい現状維持であり、負ければ惨憺たることになる。その間の犠牲は計り知れないものがある。

そんな判りきった理屈を理解できない愚かしい日本人が少なくない。

 

17-19. GAMの軍事組織解散(05年12月28日)

GAM(Free Aceh Movement=自由アチェ運動=分離独立主義の武装集団)は12月27日(火)に司令官のソフヤン・ダウド(Sofyan Daud)はユドヨノ大統領と会談した後に「軍事組織を正式に解散した」と発表した。

1976年から続いた武力紛争は約15,000人の死者を出してようやく終結した。

この紛争終結は大津波による15万6千人(アチェだけの死者と行方不明者)の犠牲者が出て、多くの町や村が破壊されるという不幸な事件によって促進された側面は否定できないが、もともと武力紛争など起こす必要もなかった。

スハルト独裁体制がアチェの豊な天然資源(天然ガスや木材など)を住民の利益を二の次にしてジャカルタ政府が吸い上げ、一部は特権階級が私物化したことによって発生した事件である。貧困に苦しむアチェの民衆が暴政への絶望から武装蜂起に立ち上がったのである。

1998年5月にスハルト体制が崩壊した後に和平の機運がうまれたが、軍部の強硬派に押し切られる形でずるずる紛争を長引かせた最大の責任はメガワティ大統領とその背後にいる夫キエマスにあるといわなければならない。

津波被害からの復興は多くの国際支援やインドネシア人の懸命の努力にもかかわらず、遅々として進んでいないが、インドネシア国軍も戦闘部隊の多くは撤収し、残った部隊も復興活動に協力するということであり、今後はかなり急ピッチに再建が進んでいくものと期待される。

アチェの和平が2005年のインドネシアにとっての最も明るいニュースといってよいであろう。

 

17-20. アチェの地方政党「アチェ民衆党」設立(06年3月18日)

中央政府との和平合意に基づき、アチェの民主運動家グループはAPP(Acheh People's Party=アチェ民衆党)の設立準備委員会を発足させた。党員の基盤は農民、漁民、学生ほか貧困層であるという。

設立準備委員会のタムリン(Thamrin Ananda)委員長は、「同委員会は既に12の行政区(regency)に支部を設立したが、法令に定めるところではアチェの前行政区の50%以上に支部を設立する必要があり、もっと支部を増やす必要がある」と語っている。

アチェには複数の地方政党が設立される見通しである。

 

17-21.日本からのアチェへの援助金2,581億ルピアが行方不明?(06年10月31日)

テンポ誌(10月31日、インターネット版)によれば2005年に日本政府からアチェへの復興資金として1兆870億ルピア(約140億円)が供与されたが、使途が明確なのはそのうち8,289億ルピアで残りの2,581億ルピア(約33億5500万円)は使途が不明である(どこかに消えてしまった)ということである。

これはインドネシアの再建復興庁(BRR=Reconstruction and Rehabilitation Agency)とJICS(Japan International Cooporation System)が管理していた資金であるという。

本件はNGO Aceh Anti-Corruption Movement のコーディネーターであるアキルディン(Akhiruddin Mahyuddin)氏が明らかにしたものである。

BPK(Supreme Audit Agency=会計検査院=委員長アヌワール・ナスチオン)もこの事実を認めているという。

140億円という巨額の援助資金のうち24%がどこかに消えてしまうというのはいくらインドネシアといえども信じがたい数字である。日本人のスタッフは資金管理に関与していなかったのだろうか?インドネシアの名誉のためにも是非真相を明らかにしてもらいたいものだ。

 

17-22. アチェ州知事選挙で元GAMのリーダー、イルワンディ氏が当確(06年12月12日)

06年12月18日(月)にアチェ(Nanggroe Aceh Darussalam)州の知事と地方行政区(Regency)長選挙がおこなわれた。これは05年8月にインドネシア政府と分離独立運動のGAMとの和平協定後の始めての地方選挙である。

州知事と副知事の候補者がペアーになって知事選挙は戦われるが、8組が立候補した。ゴルカルやPPP(開発統一党)やPKS(正義福祉党)といった全国政党の公認を受けて立候補した者もいれば、元GAMのリーダーで入獄経験者 なども無所属で複数立候補している。

即日開票も行われているが正式結果の公表は07年1月2日におこなわれる。しかし、世論調査機関であるIndonesian Survey Intitute (JSI)がおこなった出口調査ではイルワンディ(Irwandhi Yusuf=46歳)候補(無所属)が39%の圧倒的支持を得て、2位の候補者の17%を大きくリードし、当選確実といわれている。

この調査は誤差が+-1〜2%と精度が高くイルワンディ氏の当選は間違いないといわれている。なおトップ当選者が25%以上の得票率をあげれば再選挙はおこなわれない。

イルワンディ氏は元GAMのスポークス・マンを務めていたリーダーの1人で 、2003年に投獄されたが、2004年末の大津波発生時に刑務所が破壊され、脱獄した経験がある。

同州の人口は430万人、有権者260万人中80%が投票した。

(WSJ,06年12月11日、インターネット版ほか参照)