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新唐書にみる室利仏逝と訶陵

新唐書は北宋の欧陽修らが仁宗の嘉祐6年(1060年)に完成させたものである。旧唐書を参照しながら、新しい情報が多く織り込まれている。

例えば、室利仏逝についてである。仏逝王が朝貢に来たということは旧唐書の本紀には書かれているが、南蛮伝に室利仏逝の項目自体がいない。

新唐書には室利仏逝について次のように書いてある。「過軍徒弄山二千里、地東西千里、南北四千里而遠。有城十四、以二国分総。西曰郎婆露斯。多金・汞砂・龍脳。夏至立八尺表、影在表南二尺五寸。・・」

これを意訳すると「ベトナムのホーチミン市沖合いのコンドル島を過ぎて二千里(800Km位か?)に室利仏逝国はある。東西千里、南北4千里の細長い国である。傘下の都市国家は14ある。国が南北に長いので、2つに分けて治めている。西にはバロス国(スマトラ沖のニコバル諸島)がある。金、水銀、龍脳などが多く採れる。八尺棒で夏至に影を測ると二尺五寸になる。・・」


ベトナム沖から比較的近距離で、南北に長細い国といえばマレー半島以外にありえない。八尺棒で夏至に影の長さをはかり、緯度を計算するというのは昔の中国人は良くやっていたようで、他にも記録がある。影の長さが二尺五寸というのは北緯6度7分であるというのは、この道の権威者である田次伸也氏(神戸市在住の1級建築士で魏志倭人伝の研究家)の計算によるものである。

私は「シュリヴィジャヤの謎」の114頁では桑田六郎博士が用いられている5度50分という数字をそのまま引用させてもらったが、要は北緯6度あたりであるということになう。地図でみるとケダからケランタンにかけての、私のいう「Bルート」がまさに北緯6度線上にある。

もともと室利仏逝はチャイヤーにあり、最初はタクアパーチャイヤーの通商路(Aルート)を支配していたが、南に勢力を拡大し、Bルートまで支配下におさめたものと考えられる。

それは「盤盤国(チャイヤー)」に扶南の王族が真臘に追われて亡命してからおこなったと考えられる。その結果として「隋」時代の「Bルート」の支配国であった「赤土国」が消滅してしまった。

「赤土国」を占領してしまったからには、「盤盤国」として朝貢を続けるのは唐王朝のお咎めを受けかねないので「室利仏逝」と改名(看板の書き換え)したとも考えられる。唐王朝は「朝貢国」を自国に忠誠な「従属国」あるいは「保護国」と考えていたので、朝貢国の間の紛争には神経質であったはずである。

新唐書の執筆者が使った資料が作成されたのは8世紀以降のもの(宋時代により近い)とすれば、室利仏逝の南の支配地(2分割統治の)を、すなわちBルートを含め室利仏逝と認識したものであったと考えてよい。

ところが、肝心の第1首都とも言うべきチャイヤーは一時期(745年頃〜775年頃)真臘に占拠されていて本部をBルートに移していたと考えられる。そのためか室利仏逝は742年を最後に朝貢を止めてしまう。

それはともかく、西曰郎婆露斯とある以上どう考えても室利仏逝は南半球のパレンバンなどではなく、北半球のマレー半島、しかもチャイヤーとケダを包摂する地域であったと見るべきである。こんなことに疑問の余地は全くない。過去の歴史学者がこれを見過ごして延々不毛な議論をかさねてきたのである。

次に新唐書は訶陵についてこのように記述している。
「訶陵、亦曰社婆、曰闍婆、在南海中。東距婆利、西堕婆登、南瀕海、北真臘。・・・・夏至立八尺表、景在表南二尺四寸。貞観中、與堕和羅・堕婆登皆遣使者入貢、・・・・」

ここで大変困った問題が起こった。夏至の時の影が2尺4寸だとすると、ジャワ島(シャイレンドラは当時
訶陵の看板を掲げて入貢しており、本拠地は中部ジャワのジョクジャカルタあたりと考えられる)が何とケダよりももっと北にあったとはいかなることぞと言うことになる。

今までの歴史家は単にこれは新唐書の執筆者のミスとして片付けて、いわばこの部分を無視してきたのである。事実、中国歴代の正史の記述には多くの記載ミスがあることは確かである。しかも八尺棒なんかで不正確な測り方でナニがわかるかという見方をされてきた。

しかし、田次氏は古代中国の天文学の知識は大変なものだったと語られる。田次氏は最近、「古田史学の会、関西例会」の機関紙に『「魏志倭人伝」の「計其道里當在会稽東治之東」の新考察』という論文を発表しておられる。その中で、後漢時代に成立したとされる『周髀算経』に@北極星の高度を測定する、A特定の日(夏至など)に八尺の周髀(棒)による日影の長さを測定する、という方法によって南北の位置関係を測定するという方法が確立されていおり、使いやすさからいっても八尺棒が広く普及していたと述べられている。

そこで、田次氏に訶陵の「二尺四寸」の計算をお願いすると、北緯6.7度というお答えをいただいた。これを地図に当てはめてみると、マレー半島のケランタンとソンクラの中間地点にあるペタニあたりがそれに当たる。これをまちがいだと決め付けてしまえば、それでオシマイである。

しかし、これが正解の可能性も実はありうる。

それはシャイレンドラ朝がどういう方法で朝貢貿易を行ったかとうことである。シャイレンドラが訶陵の名前を使って朝貢したのは、別にジャワ島の特産品を中国に持ち込むのが目的ではなかった。

それは西方(アラブやペルシャや南インド)からの財物(香料など)にくわえ東南アジア全域の特産品(象や犀の角や香木など)を集めて、この地域の独占的朝貢者として中国に出向いたのである。

そのために西方からのカーゴをわざわざ全てジャワ島の何処かの港(スマラン港など)に集める必要は毛頭ない。自分の支配地域のもっとも便利な港を使えばよいのである。ただし、中国にはあくまで「訶陵からやってきました」という説明で十分だったはずである。

そういう港であれば、北緯6.7度のペタニでもよかったし、8度25分のナコン・シ・タマラートでもよかったはずである。八尺棒の測定誤差がどのくらいあったかはもちろんわからないが、二尺四寸にはナコン・シ・タマラートまで入るとすれば、後の三仏斉時代の主力港になる同港を考えあわせればスッキリする。

パタニ港も古来から大きな港であり、明時代にはランカスカ(狼西加、凌牙斯加)といわれていたことを考えると、新唐書の訶陵の日影のデータはこの辺で採られたという見方も成立しうるのではないだろうか?

古代の東南アジアの地名の当てはめが非常に難しいのは、国名を現代と同じ感覚でとらえて、国境線を狭く想定した上で考えるからである。訶陵も本来ジャワ島の国ではあるが勢力圏は「シュリヴィジャヤ帝国」として広範囲にわたっていたと考えれば、マレー半島の港(中国に朝貢した出発地点)を範囲に入れてもおかしくないであろう。

劉氏南宋時代に入貢した「訶羅単」についても同じことがいえよう。「訶羅単治闍婆」と書いてあるからといって訶羅単を闍婆の内部に取り込んでしまうのはあまりに「現代的」である。いつの間にか訶羅単が闍婆の首都になってしまい、さてその場所は不明ですでは話しにならない。訶羅単が「ケランタン」のほうがよっぽどスッキリする。

ジャバ(闍婆)という概念は古来、ジャワ島という狭いものではなく、スマトラ島やマレー半島も包摂していたのである。マルコ・ポーロでさえスマトラ島を「小ジャワ」と読んでいたではないか?漢籍においても「闍婆」をジャワ島に結び付けて狭く解釈するのは宋以降の傾向である。

また、宋書には呵羅単は仏教国だという記述があるが、事実ケランタン、コタバルには古代の仏足石が存在する。



「訶羅単」をジャワ島だとしてしまうと、その後継国がどこなのか不明になってしまう。訶羅単の朝貢は5世紀で終わりであり、その後継国はどう考えても「干陀利」ということになる。干陀利はケダである。ケダからマレー半島を横断する支配地域を持っていたと考えられる。

干陀利がケランタンとかパタニ、ソンクラあたりから朝貢をおこなったと考えるべきである。