トップ・ページに戻る

ランカスカ考

ランカスカ考(2007年1月4日、1月28日,08年10月8日加筆

現代の通説ではランカスカはマレー半島東岸のパタニだということになっている。そうすると、隋書に出てくる赤土国の位置が不明になり、桑田六郎博士のように、室利仏逝と同じくパレンバンだということになってしまう。

私の結論は「明時代のランカスカ(凌牙斯加あるいは狼西加)はパタニであったにせよ、梁時代狼牙須は今のナコン・シ・タマラートを中心にして南はパタニあたりをカバーする大国であり、隋の常駿は狼牙須をナコン・シ・タマラートのあたりだと認識していた」ということである。

また「赤土国もケダからソンクラ・パタニにかけてマレー半島横断通商路のBルート(私の室利仏逝論参照)をカバーする辺りにあった」と考える。・

隋の煬帝によって赤土国に派遣された常駿は、狼牙須の山を見て、そこから南下して赤土国の領海に入ると記しているからである。

もし狼牙須がパタニならそこから先はどこかさっぱりわからない。隋の時代の大国といったらパレンバン(パレンバンなどは当時の史書には見当たらないが)しかないなどという、全く根拠の無い見方が当然出てくる。

そして、「赤土国」は「室利仏逝」同様パレンバンであったという桑田六郎博士の説に到達してしまうのである。

そういう議論とは関係なく、藤田豊八博士は『狼牙脩国考』なる有名な論文を書いておられる。

ここでは藤田博士の『狼牙脩国考』を念頭に置きながら、私なりの「ランカスカ考」を論じて見たい。私の問題意識はランカスカはパタニであるという通説にたいする異論である。

少なくとも隋の常駿が記録した「狼牙須」と明代の『武備志』に書かれている「狼西加」あるいは宋代の『諸蕃志』の「凌牙斯加」とは内容が違うのではないかという疑問である。同じことは藤田博士も考えておられた。

ところで狼牙脩、狼牙須、狼西加、郎迦戌といった地名がなぜランカスカと読まれるのであろうか?それは『諸蕃志』(趙汝适撰・1225年)に凌牙斯加という地名が出てくるからである。これは確かにランカスカと読むのが適当であろう。そうなると、ほかの類似の漢字も全て「ランカスカ」と読むべきであるということになってしまう。

狼牙須国は『梁書』に初めて登場する。『南史』にも出てくるがこれは『梁書』によるものである。梁は502~557年に中国南部に起こった政権である。503年、初代の武帝の時に扶南と中天竺から使者が訪れている。仏教を国教としていた。

『梁書』では狼牙須は『在南海中。其界東西三十日、南北二十日行、去広州二万四千里。土気物産、與扶南略同』とある。マレー半島を横断する領土を持っていたものと推定される。

衣類は綿織物(古貝)を着、国王は金の帯をし、金の耳輪をしていたと書いてある。すでにこのとき400年の歴史を持つ古い国であったという。古貝とはサンスクリット語のkarpasaの対音で綿花の意味である。この時代から綿織物はインドから輸入されていたと考えられる。ビーズ玉の首飾りもインドから東南アジアへの重要な輸出品であり、これは現物が数多く存在するが、綿織物は消滅してしまい遺物は見られない。

狼牙須はその後、隋時代以降、唐時代にも朝貢していない。何らかの理由で朝貢国としてのステイタスを失ったものと思われる。そのことについては後述する。

しかし、狼牙須という国名は残っており、ランカスカについて玄弉は『大唐西域記』に『有室利差咀羅、次東南大海隅、有迦摩浪迦国、次東有堕羅鉢底』と書いている。

これは義浄の『南海寄帰内法伝』の東裔諸国注にある『有室利察咀羅、次東南有郎迦戌国、杜羅鉢底』に対応するものであると藤田博士は述べておられる。それゆえ迦摩浪迦(カマランカ?)とあるが郎迦戌(ランカシュ?)と同じと見てよいということである。しかし、両者の発音が部分的にしか共通していないことが気になる。


(梁書における狼牙須と盤盤の存在)

また、狼牙須と同時期に朝貢をしていた国として盤盤が『梁書』に出てくる。両国はマレー半島の東岸の中央部の北と南に分かれて朝貢をおこなっていたと思われる。

盤盤というのは今のスラタニ市があるバンドン湾のことを指すものであることは間違いない。スラタニから60キロメートルほど北に行ったところにチャイヤーがある。私はここが唐時代に義浄が訪れた室利仏逝であると考える。

当時の貿易港としての重要性や仏教寺院などの遺跡の豊富さから考えても「室利仏逝の首都」と信じられているスマトラ島のパレンバンなどとは比べ物にならない。

盤盤は西海岸のタクアパとつながる陸路の通商路を有し(これをAルートと仮称して論じてきた)扶南とも近く、両国は密接な関係を保っていたものと考えられる。

藤田博士はプラオ(Pulao)とチャイヤー(Chaiya)が陸路でつながっていたと論じる。プラオとはマレー半島西岸のタクアパに近い港である。実際に峠越えの道が存在し、現在バスも走っている。当時は細い陸路と河川が多用されていたものと思われる。

すなわち、梁の時代以前にマレー半島横断通商路の重要なルート(タクアパとチャイヤーを結ぶ)がここに存在していたのである。そこは同時に扶南の強い影響下にあった。むしろ扶南の属領と考えても良いほどの関係にあったと考えられる。

また藤田博士は「梁書でいう、郎迦戍、狼牙須はPunpin(スラタニの近く)の南のはずだ」といっておられる。そうすると、リゴール(単馬令、タンブラリンガ、ナコン・シ・タマラート)も当時はランカスカに入っていたこともありうる。いや、それどころかリゴールが狼牙須の中心地(貿易上の表玄関)であったとさえ考えられる。

リゴールに対応するマレー半島の西岸の港はクラビ、クロン・トム、トランあたりではないかと思われる。この東西の港を結ぶ「交易路」がラン・サカというリゴールに近い峠の集落を通っていたのである。それはカオ・ルアン山(標高1,835メートル)の麓に位置する。

タクアパもさほど遠くはないのでリゴールに対応させることは可能であるが、北インド系の盤盤と扶南に独占されていて、南インド方面からやってくる商人にとってはいわば異民族の支配する通商路とみなされていた可能性がある。

トランを真東に60キロメートルほど進むとパッタルンにでる。三仏斉時代の仏羅安がそれに当たるとみる説もある。そこから北に100キロメートルほどいくとリゴールである。

このルートはケダが南インドからの寄港地として確立する以前の梁時代には多用されたルートだと考えられる。しかし、ケダが東への出口であるソンクラ、パタニ、ケランタンへの独自のルート(これをBルートと仮称)が出来上がると、赤土国として独自に隋王朝に入貢するようになり、狼牙脩のルート(中間ルート)は歴史の表舞台から姿を消していったものと考えられる。

「中間ルート」のイメージは西海岸はクラビ、クロン・トム、トラン、東海岸(朝貢の窓口)のリゴール(ナコン・シ・タマラート)である。しかし、この中間ルートは完全に消滅したものではなく、AとBルートの補完ルートとして存在を続けたと考えてよいであろう。

プトレミーのいうタッコラ(Takkola)というのは「タクアパ」ではなく、それより南のトラン(Trang)であったという説があり(Stuart Munro-Hay, "Nakhon Sri Thammarat")、東北のルートを使い、
ラン・サカ峠をこえてナコン・シ・タマラートに行けば、象で3日間でいけたというのである。トラン河を利用して、さらに牛車などを使っても1週間もあれば横断できたであろう。

これらのルートを統合したのが「室利仏逝」であるというのが私の仮説である。中間点のパッタルンからはソンクラやパタニもさほど遠い距離ではない。しかし、何らかの理由で狼牙須は朝貢する権利がなかったと考えられる。すなわち、隋時代は「赤土国」、唐時代は「室利仏逝」にいわば「統合」されてしまったからであろう。


因みに、『旧唐書』(巻197)の「盤盤国」の条に、「其国(盤盤)與狼牙脩為隣」と書いてある。盤盤と狼牙脩は隣国であり、狼牙脩を現在の「ナコン・シ・タマラート」に比定してもおかしくないのである。

『新唐書』(巻222下)においてはやはり「盤盤国」の条に、「北距環王(チャンパ)、限小海、與狼牙脩接」とさらに詳しく記されている。小海というからには「至近の距離」という印象である。盤盤国のあったバンドン湾とナコン・シ・タマラート港の間は、まさに「小海」という程度の距離である。

また、義浄『大唐西域求法高僧伝』の中の「義朗律師」の条に、「既至鳥雷同附商舶掛百丈陵萬波舸扶南縦覧郎迦戍とある。扶南に近い国であったという認識であろう。この郎迦戍義朗律師は国王から賓客として遇されたと記している。


(ランカスカの再登場)

時代は飛んで明時代『武備志』の巻末に鄭和の『航海図』が載っている。そこでは孫姑那(ソンクラ)の南に狼西加(ランカスカ=ランシカ?)がきている。次に昆下港→西港→吉蘭母(ケランタン)とくる。昆下がどこかは不明である。藤田博士はサイブリ(Saiburi)ではないかとされている。いずれにせよ、ソンクラの南となると狼西加はパタニ(Pattani)ということになる。

藤田博士によるとパタニの名前は漢籍には明以前には出てこない。しかし、パタニは1700年ころまで巨大な港であったという。江戸時代の御朱印船の寄港地の1つだった。だからパタニこそが狼牙須に相違ないという説が通説になっている。

私見では6世紀以前においては『梁書』の記載されているように狼牙須の領土として「其界東西三十日、南北二十日行」を額面どおり受け取れば「マレー半島を東西に横断し、南北にも20日間の行程(おそらく陸路)に及ぶ領域」を支配していたと見られる。すなわち、狼牙須は今のナコン・シ・タマラートのあたりからパタニ付近までを支配下においていたと思われる。

また、肝心の「ランカスカ」の名前の由来は必ずしもはっきりしない。藤田博士はケダの45マイルほど内陸部の地点に類似の名前があるからそこではないかと述べておられる。

 ところがナコン・シ・タマラートの郊外の25キロメートルほど離れたところにラン・サカ(Lan Saka)という集落がある。ランカスカというのはそこからきたものではなかろうかと考える。

ラン・サカには古い集落の遺跡もあり、16世紀にはタンブラリンガ王の離宮もあったという。また、ラン・サカはクラビ方面に通じる古代からの街道のリゴール側の入り口にあたる交通の要衝(峠)でもある。背後にはカオ・ルアン山(標高1,835メートル)などの高い山がある。

この周辺は意外に広い耕地に恵まれ、昔からの稲作地帯であり、人口も多い。また、「Lan」というのは谷という意味で、古くは「Langka」といわれていたという

しかし、この説はさらに実証的研究(特に考古学的な)を要することはいうまでもない。ラン・サカという地名がランカスカに似ているからふと思いついたに過ぎないが、狼牙脩=リゴール説が仮に正しければ、成立しうる説である。

クオリッチ・ウェールズ博士はリゴールの考古学的調査の結果、リゴールが表舞台に立つのは12~3世紀以降だとされている。要するに比較的新しい港湾都市であり、バンドン湾(チャイヤー)に比べ、港湾としては風向き、潮流などでやや劣るという説である。

しかし、後背地に本拠地が隠されている場合もありうるのである。海岸に近いと、海からの外敵に襲撃されるため、本拠地は海岸線から10キロメートル以上はなれているケースが多いのである。チャイヤーもそうだし、タイのラチャブリやペブリも同様である。

『梁書』で詳しく論じられた狼牙須の名前はその後長らく漢籍で取り上げられなくなった。朝貢国として名前が残されているのは515年、523年、531年、568年の4回のみであり、いずれも隋の前の梁の時代であった。

しかし、隋の時代に赤土国を訪ねた煬帝の使者である常駿が狼牙須の(高い)山を海上から遠望し、そこからシャム湾岸沿いに南下し赤土国の領海にはいったと述べている。この船上から見えた「高い山」というのはカオ・ルアン山に相違ない。そこから南にいくと高い山はほとんどなく、特にランカスカの有力候補のパタニあたりはほとんど平野といってよく、海から見て目印になるような山はまったく存在しない。

隋の時代までは狼牙須や狼牙脩という国名は中国人の記憶に残っていたことが常駿の記録からうかがい知ることができる。隋の時代に入り、赤土国の登場によって、狼牙須はいわば「朝貢国」としてのステイタスを「赤土国」もしくはやや北の「盤盤」に奪われ、領土は隋時代にはナコン・シ・タマラートを中心とする地域に狭められた可能性がある。

その赤土国の名前も隋王朝への朝貢国として現れたが、いつしか消えてしまい、唐時代のマレー半島の主役は「室利仏逝」に移る。そうなると、ますます狼牙須の影は薄くなる。しかし、史書には出てこなくなるが、地域の名前としてはその後も数百年残っていたのではなかろうか。

それが宋の時代に『諸蕃志』「凌牙斯加(ランヤスカ?)」として突如再び現れる。ほぼ700年ぶりの登場である。諸蕃志における凌牙斯加は単馬令(ナコン・シ・タマラート)から帆船で6昼夜を要するとある。また陸路でもいけると書いてある。

産品としては象牙、犀の角、生香、脳子、酒、米などがあげられている。『諸蕃志』以前には「ランカスカ」という呼ばれ方はしていなかった可能性がある。この『諸蕃志』の呼び方が決定的な影響を持ち、「狼牙須」など全てが「ランカスカ」と呼ばれるようになったと考えられる。

しからば13世紀に『諸蕃志』を編纂した趙汝适は6世紀の「狼牙須」についてどの程度の知見を持っていたのであろうか?また、「狼牙須」について正しい知識があったならば、
なぜわざわざ「凌牙斯加」という字を当てたのであろうか?

藤田博士は『狼牙脩国考』の締めくくりで、ペリオ氏の所説を紹介する。ペリオ氏は凌牙斯加の所在地をナガラクレタガマ(Nagarakretagama)ランカスパ(Lengkasupa)というところだという。藤田博士はこの見方を「卓見」であるとたてておられる。

さらに敷衍して、Kedahの記録である『Marong Mahavamsani』によれば、このランカスパ(NagarakretagamaのLengkasupa)は最古の王城にして首都の名であるという。これを訳したLow氏によれば、その遺跡はケダ・ピーク(Kedah Peak=ジェライ山)の東方約45マイルのクボ・バライ(Kuboh Balai)の近傍にあるという。そこで藤田博士の結論は「諸蕃志の凌牙斯加はパタニ(Patani)の後山、今のケダ(Kedah)地方をいう」ということになる。

『梁書』の「狼牙脩」は『諸蕃志』の「凌牙斯加」と名前はランカスカで同じだが実は別ものであるという藤田博士の結論はある意味では明快である。

こういう説明であればランカスカというものが梁時代と宋時代と異なる内容(当てられている漢字も異なる)であると考えることができる。

さらに、藤田博士は『梁書』の狼牙脩に『其界東西三十日、南北二十日行』と書かれている点に注目される。この国が東西に長く南北に短いと書かれている意味について考察されている。すなわち、この国の境界がマレー半島東岸のパタニから西岸のケダにまで及んでいたのではないかというのである。

私もランカスカ(後の赤土国も)東岸から西岸までつながっていた国であるという視点には全面的に賛成である。しかし、私はここに若干の異論をさし挟まなければならない。

それはケダのジェライ山(標高1,217メートル)について藤田博士が強調されていることについてである。ジェライ山というのは確かに海から見える。しかし、それはケダの近いブジャン渓谷に連なる山で、マレー半島の西海岸からしか見えない。となるとそこは「狼牙須の山」として常駿が見たものではない。

ただし、赤土国の本拠の王城がジェライ山の麓にあったかもしれないという説には特に異論はない。さらに言うならば、私の考えでは、狼牙脩(梁時代)の東岸は北はナコン・シ・タマラート(単馬令)から南はパタニに及んでいたと見るのである。

インド方面から来た商船は西岸のケダもしくはクラビ、クロン・トム、トランといった港に停泊し、そこを起点として商品をいくつかのルートで東海岸に運んでいたということが考えられる。その最重要の港がナコン・シ・タマラートであり、ついでソンクラ、パタニという順であったろうと思われる。さらに南のケランタン(現在マレーシア領のコタバル港)にも運ばれていたであろう。

なお、赤土国についてはケダのブジャン渓谷付近のメルボク川河口付近(現在のスンゲイ・ペタニ市の近く)は赤土という地名を持っていたという確かな証拠がある。それは現在ブジャン渓谷博物館に陳列されている、一個の石碑に明らかに刻まれている。
その石碑はブッダグプタ(Buddhagupta)という船長(大乗仏教徒)が安全祈願のために奉納したものと推測されている。おそらく5世紀ごろ作られたものであろうとされている。問題はそこに地名が記されているのである。その地名とはサンスクリット語でRaktamrttikaすなわち「赤土国」なのである。


ということはケダのブジャン渓谷あたりはかつて「赤土国」といわれていたことを意味する。ここに赤土国の「本拠」があったとすれば「常駿」一行がマレー半島の東海岸のどこかの港(ソンクラかパタニか?)に上陸してから30日も旅をして連れてこられたのがこの場所だったという推定も成り立ちうる。

その後、元を経て明の時代になって、再び鄭和の航海図として『武備志』の地図の上に狼西加(ランシカ?)という地名で復活する。それがパタニ(Pattani)と考えられるというのが現代の定説である。パタニの内陸部ヤランでかなり規模が大きかったとみられる城壁の跡が発見されているのである。

建築史家で名高い千原大五郎氏は『東南アジアのヒンドゥー・仏教建築』(100頁)の中で次のように述べておられる。

『パタニを24キロメートルほど遡航した右岸に、小村ヤラン(Yarang)がある。それから5キロメートルほど離れた地点で、1962年、古代のこの国の首都であったと思われる遺蹟が発見された。そこには城壁の痕跡が認められ…略…、この遺構がきわめて古いものであることを示唆している。このヤラン遺跡は現在は1200~1400年頃のものではないかと推定されている。』

ただし、現代の定説は梁時代からランカスカはパタニであったということに一本化されてしまっている。これは藤田説からの後退である。学問が時代とともに進歩するものとは限らない。特に歴史学や経済学にその傾向が時たま見られる。

しかし、「ランカスカ」は梁の時代から宋の時代まで約700年、表舞台には登場していない。さらに15世紀の明の時代まで200年以上も「ランカスカ」はいわば消息不明だったのである。唐の義浄も自分の旅行の記録(南海寄帰内法伝や大唐西域求法高僧伝の本文)では直接は触れていない。

私は藤田説を部分的に支持するもので、隋の常駿が認識していた「狼牙須」と『武備志』の「狼西加」、あるいは『諸蕃志』の「凌牙斯加」とは内容が異なるのではないかと考えるのである。
それは地理学的根拠からである。武備志の狼西加をパタニとするのには異議はないが、そこには常駿が言うような海から目印になるような高い山は存在しないという致命的欠点がある。

しかし、常駿が認識していた狼牙須には高い山があったとわざわざ記録している。これはナコン・シ・タマラートの周辺の山々(カオ・ルアン山標高1835メートル)であると考えるべきである。そこから南には海上からそれと認識されるような高い山はパタニあたりまでは存在しない。

確かにランカスカはソンクラやパタニを支配下におさめていた時期があったであろう。すなわち、私のいうところの陸路の「Bルート」支配していた。

「Bルート」とは西海岸のケダ(ブジャン渓谷付近)を出発点とするマレー半島横断ルートであり、梁書時代は東岸の港としてはナコン・シ・タマラート、ソンクラ、パタニなどが主なものであった。

 しかし、それはやがて隋時代には赤土国に取って代わられ、赤土は唐時代にはさらに、室利仏逝に取って代わられというのが桑田六郎博士の説である。 桑田博士は赤土国をパレンバンに特定しておられるので、その点は私の考えとは大きな違いがある。なぜそうなったかといえば桑田博士も室利仏逝をパレンバンにおいているからに他ならない。

赤土国、その後の室利仏逝の時代も、さらに三仏斉の時代もケダを起点とするBルートそのものは通商路として変わらず機能し発展し続けたのである。 

隋時代におけるナコン・シ・タマラートの付近は狼牙須としてBルートのケダからやや北に外れたクラビ港とナコン・シ・タマラートを結ぶルート(これはAルートとBルートの中間ルートとでも云うべき通商路)に限定されていたものと思われる。ケダを起点とするBルートは赤土国に占有されてしまった。

隋、唐時代は扶南と室利仏逝とがAルートの実権を握っていた時代であり、盤盤は利用されたが、リゴール(ナコン・シ・タマラート)はさほど利用されなかった「不遇」の時代だったのではないだろうか?

いずれにせよ隋・唐時代を通じて狼牙須は中国への朝貢国としてのステイタスを失ったのである。

唐時代になると室利仏逝がバンドン湾のあたりから勢力を南に伸ばしてきて、ナコン・シ・タマラートを拠点とする狼牙須は吸収されてしまう。さらに、Bルート全体も室利仏逝に飲み込まれてしまう。室利仏逝が南に勢力を急拡大している様子は当時この地を訪れた義浄が『大唐西域求法高僧伝』の中で記録している。

冒頭にも述べたが、隋の常駿が記述している「狼牙須」や「狼牙脩」を明時代の「凌牙斯加」あるいは「狼西加」と同一視、それらは全て「パタニ」であったと理解し、「赤土国」はそこからさらに南の「パレンバン」だという仮説が立てられていることである(桑田六郎博士)。

その推論が「室利仏逝」はすなわち「パレンバン」であるという世紀の誤解にたどり着いてしまう。1つの事実認識の誤りが、次々に「間違いの連鎖」に繋がっていく。これが社会科学という学問の怖さである。それは歴史学でも経済学でも同じである。