周星馳の生い立ち
おとなしい喜劇王の子供時代

1962年6月22日、周家の長男として香港に生まれた周星馳は両親にとって2人目の子供でした。廣州出身の母親・凌寶兒は生活のために18歳で嫁ぐも父親と上手く行かず、周星馳が7歳の頃に両親は離婚しています。その後、母親側に引き取られた周星馳は姉や妹など女性の中で過ごしたためか、おとなしい性格に育ちました。彼は非常に無口で、一日中、窓の外を眺めては外を歩く人や車を見る事が好きだったため、母親は「息子は自閉症ではないか?」と心配していたそうです。

周星馳は特に甘えん坊で、妹と託児所に預けられていた4歳の頃は母親が迎えに来るまで泣き叫んでいました。しかし、貧しさの中で母が1人で3人の子供たちを養う苦労を知っていたのか、5歳になって祖母に預けられた周星馳は、母親の負担を少しでも軽くしようと廟街で小物売りをしていた祖母の仕事を手伝い、街中で爪切りなどの日用雑貨を売っていたそうです。

文字が読める頃になると、彼が夢中になった物は漫画でした。入園した幼稚園にあった漫画本と母親が買ってくれた、黃鶯のSF漫画「地球先鋒號」が、きっかけだそうです。

王羽に父の面影を見た小学時代

1968年、誕生日を迎えて6歳になった周星馳は同年9月に太子道にある「協和小學」(東華三院と言う説も)へ入学しました。小学校に入ってからが特に漫画を読み始めた時期だと語っている周星馳は授業中に勉強をサボって、自分で漫画を描く事もあったそうです。漫画を読んで笑いの基礎やドラマ性などを学んだ以外、自らの考えを形として表現する事は、すでにこの頃からあったようです。

また、周星馳は当時、香港で「天皇巨星」と呼ばれた王羽の映画を見て、彼に父親のようなイメージを抱きました。それからは王羽の出演作を見る事で幼い頃に別れた父親に会ったような気分になっていたそうなのです。以前、一度は父親側に引き取られた事もあった周星馳でしたが、色々な問題などで母親側に引き取られた後は、どうしても父親には会う事ができなかったそうです。

映画が好きな周星馳は、ある日、アメリカから香港に戻って来た李小龍の「唐山大兄」を見ました。後に多くの面で最も心から尊敬する俳優との出会いは、この時が初めてだったのですが、彼は、この時の李小龍について「この人は変わった事をやっているな。」としか感じなかったそうです。

映画以外にも興味があった物は色々と多かったようですが、12歳の夏休みの時に戦車のプラモデルが欲しくて新聞配達や工場の作業、點心のワゴンを押す給仕のアルバイトなどをしたそうです。

武術と李小龍に狂った中学時代

1974年、周星馳は香港の「聖瑪利奧英文學校」に入学します。前年の1973年は李小龍が亡くなった年でしたが、中学入学後に改めて李小龍の映画を見直した所、急に李小龍の虜になってしまいました。あまりにも熱狂的なファンに変化したため、友人には自分を「小龍」と呼ばせ、「もう星仔と呼ぶな。」と言うほどだったそうです。

「李小龍のように外国で道場を開き、弟子に中国武術を広めるんだ。」と武術家になる行動を開始した周星馳が習った物は詠春拳、雙節棍(ヌンチャク)、鐵沙掌でした。特に研究したのは李小龍の創始した截拳道です。中でも詠春拳は予算の関係で3ヶ月のみでしたが、道場にも通うほどで、将来は「功夫を教える先生になりたい。」と考えていた事もあるようです。

武術に思い入れるばかり、ある時は、どこからか探して来た「鐵沙掌七日速成法」と言う武術本の内容を実行し、塩を入れた湯に地骨皮(クコの根皮)などを加えた物を煮て、自分の掌を強くするために、それに浸したりもしていました。また、この頃の周星馳は、いつも机を叩いたり、壁を打ったりし、李小龍のような声を出したため、母親は彼の行動を見て、「息子は狂ったのでは?」と思っていたそうです。

しかし、李小龍の「以無法為有法、以無限為有限」(無法をもって有法となし、無限をもって有限となす」と言う哲学的名言は周星馳に影響を及ぼし、李小龍からは「新しい物を追い続ける事」「戦う志、物を創り出す創志」を学んだそうです。

テレビ俳優に憧れを抱いた時代

香港の中学校は5年生まであり中高一貫教育なので、中学5年生は日本の高校2年生にあたります。大学受験に失敗した周星馳は中学卒業後の1年間、仕事をしていました。17歳で船会社の雑用係をしていましたが、他人に頼まれた物を代わりに買いに行ったり、書類を届けに行ったり、コップを洗ったりするなどの作業をしており、非常にストレスが溜まる仕事だったそうです。

この頃、香港の無綫電視(TVB)では連続ドラマが華やかになって来ており、周潤發が出た「綱中人」や「上海灘」、他の俳優のドラマを見て、周星馳は演技が面白い物だと感じ始めていたようです。中学校の卒業以前に李小龍の「精武門」を見た時から、俳優になりたいと思った事もあったそうですし、その後は、特に何もする事がなかったので、俳優になる事を決意したそうです。

そして、周星馳は麗的電視(RTV=現在のATV亞洲電視)のドラマにエキストラ参加もしました。俳優になれるチャンスを探す彼は1981年のある日、新聞でTVBの「第11期藝員訓練班」の募集告知を見つけます。周星馳は中学の頃、姉と一緒に遊んでいる時に知り合った友人の梁朝偉を誘い、一緒に試験を受けに行きました。

しかし、先に梁朝偉が面接に受かってしまい、周星馳は不合格となります。3段階ある試験のうち、2段階目までは、しっかりと合格できたのですが、惜しくも最後の試験でダメだったようです。彼は梁朝偉に先を越されてしまいました。がっかりした周星馳でしたが、その後、倉庫管理の仕事をしたり、他にも多くの職業を経験しながら、もう一度、試験を受ける機会を待ったそうです。彼は何としても俳優になりたかったため、落ちても何度でも受け続ける気でした。

そんな時、周星馳の隣の家に住んでいて、先に訓練班に入っていた戚美珍が周星馳に夜間訓練班に入るよう勧め、TVBに入れるように働きかけてくれました。…もう一度、試験を受けて、何とか夜間訓練班に回される事となった彼は1982年に、ついにTVBの藝員訓練班の第11期生となれました。同期には現在も活躍中の吳鎮宇や李子雄もいます。

テレビの出演・お兄さん時代

藝員訓練班は功夫や演技も勉強するのですが、実践として先輩たちのドラマに脇役で出る機会もあったそうです。周星馳は周潤發や黃日華のドラマにエキストラとして出演しました。しかし、まだまだ主演のチャンスは来ません…。

同期の中でも成績優秀であった梁朝偉の人気が高まり、連続ドラマに出始めると、それまで彼が司会をしていた子供番組に空きが出てしまったため、周星馳は1983年から「430穿梭機」の司会者を担当する事になりました。司会者なのに言う事を聞かない子供を邪険に扱ったらしく、子供にも容赦ない司会者として人気が出始めました。TVB俳優は優等生的発言が多いと言われていますが、彼はそんな中、珍しくも新しいタイプとして受けたようです。

脇役ばかりの出演で主演のない周星馳でしたが「430穿梭機」の中のドラマ「黑白殭屍」で初主演できました。周星馳が後に振り返ってみると、自由に演じれた事から「この時代が一番、良かった。」と言うような話もあります。

この頃は一週間のうち3日だけ仕事、残りは休みと言う仕事のない状況だったのですが、仕事後、家に帰ってからは自分で本を読んだり、色々な映画を見るなどして演技について研究をしていたそうです。そして、それが実ったのか、脇役以外のドラマ出演もできるようになり、演技も評価され始めましたが、周星馳は売れない自分に悩んでいました。身長180cmの周潤發のように、自分の背が低い事が原因だと思い、シークレット・シューズを買ったりもしましたし、少しきつい目付きも気になっており、軽い整形手術をして二重まぶたにまでしました。

「生命之旅」の撮影時、周星馳は共演者の鄭裕玲に「自分が梁朝偉のように人気が出るチャンスがあると思う?」と質問してみました。すると鄭裕玲は周星馳に対して、「無理でしょう。」と厳しい言葉をはっきりと言ったと聞きます。そんな時、以前から面倒を見てくれて、「お前には演技の才能がある。」と励ましてくれていた先輩俳優の萬梓良は「人にチャンスがないと言われたら、君は努力をしてチャンスがあるようにしなければいけない。」と教えたそうです。

そんな中、周星馳はバラエティ番組にも出ていたのですが、人気の「歡樂今宵」で見せた寸劇でのコメディ演技が好評だったようで、その彼の演技に目を付けた李修賢が自分の映画「霹靂先鋒」に周星馳を起用する事になります。初出演の映画で周星馳が演じた役は車泥棒の青年でした。しかし、その演技で見事に最佳男配角を受賞したのです。

流行語を生む「時の人」の時代

その後も映画やドラマに出演していた周星馳でしたが、1989年に時代劇ドラマ「蓋世豪俠」の主役に抜擢された時から、彼の人生は、ものすごく大きく変わり始めていました。「蓋世豪俠」では後にかかせない相棒的共演者・吳孟達とも息の合ったコミカルな演技をし、流行語「坐低!飲杯茶,食個包!!」(「まあ、座って!お茶でも飲んで、包子でも食べてよ!!」転じて「ゆっくりと話そう。」の意味)も生み出します。

さらに翌年、周潤發の名作「賭神」のパロディで、周星馳が主演した「賭聖」は本家を超えて、爆発的に大ヒットします。周星馳の人気によって、映画はシリーズどころか、「賭片」と言う香港映画の1つのジャンルにまでなってしまいました。

「賭聖」ヒット後、観客は周星馳に飢え、それに答えるかのように映画監督たちは周星馳のコメディ映画を作りました。また「蓋世豪俠」の再放送があったり、その人気だけにあやかって、「流氓差婆」の改編版「雌雄雙辣」が公開されたり、ナレーション作品の「非洲和尚」や、ほんの数分だけしか周星馳が出ない「賭聖廷續篇 賭霸」も公開されたりします。

「無厘頭」(意味がない、ナンセンスに近い意味)なギャグを激しく飛ばし、その場の真面目な雰囲気を壊す事によって笑いを取る事を続けていた周星馳は、ちょうど1990年から巻き起こった時代劇ブームの波に乗る事ができました。周潤發と鄭裕玲で製作する予定であった杜琪峰監督作「審死官」ではベラベラとマシンガンのように台詞をしゃべる狀師(訴訟代理人)の役を演じ、金庸原作の「鹿鼎記」ではお調子者で女好きでも、口八丁手八丁で何事も切り抜ける頭の回転が速い男・韋小寶を演じた彼は、台湾での人気もかなり上昇し、この時からメガトン・ヒットを連発し始めました。

新人育成の「監督」時代

メガトン・ヒット連発の周星馳は1993年から映画に専念し始めます。連続ドラマでは1991年の「孖仔孖心肝」、単発ドラマでは1992年の「羣星會」を最後にドラマ出演がなくなってしまい、出演する作品も選ぶようになって来ました。「量よりも質」を大切にし始めたのです。そして、1994年には「國產凌凌漆」で堂々と監督としてもクレジットを出します。

1995年には北京大学の学生を感動させた「西遊記」、1996年には漫画を下敷きにした「食神」で大ヒットを飛ばします。そして、「ゆうばりファンタスティック映画祭'96」などにも呼ばれ、ついに彼にとって念願であった来日も果たしています。なお、1996年には自らの会社「星輝海外有限公司 Star Overseas Ltd」を設立し、製作の方にも力を入れています。

…しかし、1997年。この時から周星馳の映画が「低調気味」と言われるようになって来ました。「審死官」の時と同じく、狀師を演じた「算死草」、ヒット作の続編的お正月映画「97家有囍事」にも出演し、興行収入もそれなりでしたが、「今の周星馳には以前のようなパワーが足りないのでは?」との評論家の評価を受けます。

1998年、周星馳は自ら「喜劇之王訓練班」を作り、新人育成に力を入れます。そんな「喜劇之王訓練班」から選ばれたメンバーで作った映画「喜劇之王」、準主役で出た「千王之王2000」以後、彼は2000年には映画を発表しませんでした。

そんな翌年、周星馳は迫力満点の強烈な新作映画を持って、ファンの前に帰って来ました。それは「少林足球」です。約2年ぶりの待ちに待った周星馳作品「少林足球」は香港映画の今までの歴代興行成績を破り、第1位に輝きます。この作品は周星馳の知名度が今ひとつであった日本に激しくも熱い衝撃を与え、当然の事ながら映画は大ヒットし、ファンは急増します。驚く事にインターナショナル版までもが日本で公開されたりもしました。

そして今後の周星馳の飛躍の時代

「少林足球」と同じく長い製作時間をかけ、極秘で「功夫」の撮影を進める2003年、香港を「重症急性呼吸器症候群」(SARS)が襲いました。多大な被害を受けた香港に対し、立ち上がった周星馳は撮影を一旦、中止して短編映画「香港必勝」を急遽、製作したのです。オムニバス映画の「1:99電影行動」の1つとして、他の香港映画上映時に流れた本作は香港の市民を元気付けました。

最近では邦画の「少林少女」、漫画が原作の「龍珠:全新進化」や「跳出去」、アニメ映画「長江7號愛地球」を製作するなど、周星馳は裏方にシフトしつつありますが、私は彼の今後の動きが楽しみで仕方がありません。日々、「今よりも上へ!」と言う強い向上心を持っている彼は、これからも活躍し、監督・俳優として、面白くて私たちを心から感動させる映画を作り出してくれる事でしょう。

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