『三文文士映像日記』日記帳bT7 2019年9月

 

1日(日) 曇・晴24/31

 

 雲の多い一日だったが日射しも出て、洗濯物は良く乾いた。最高気温は30℃を越えて真夏日となったが、8月の夏真っ盛りと比べると楽に過ごせるようになった。

 9月だからと言って特別変わる事はないが、13日が妻の命日で、気分的に重くのしかかってくる。今後の展望が開けているなら規則的に供養をするだけであるが、展望が立っていないので気持ちが重くなり、何事も思うように進まず、焦りが出てくる。妻が恋しく、妻への依存度がいかに大きかったか実感する。

 この頃は、暑さの所為か、慢性疲労の感があり、気力が乏しくて、「愛妻記」に手が付かない。今の生活状況を何とか改変したいと思うが、一人の世界にこもっている限り、改善が難しい。支えが欲しくなり、何とか見つけだして、安寧な生活を送りたいものである。人間関係を頼るのはごく自然の成り行きだが、妻との二人暮らしに満足してきて、他人との接触を断ってきた。

 白紙の状態から人間関係を作りあげるのだから簡単な事では無く、1年ぐらい前から様々な試みをしてきたが、徒労に終わった。自分のしている事は特別であり、誰かを同列に置くのは無理があり、諦めるしかない。全然違った角度から生活の改善を図っていかなければ前へ少しも進まない。9月は様々な面で勝負をかけるようである。

 

2日(月) 晴・曇23/31

 

 最高気温は30℃を越えているのだから暑くて当たり前のはずなのだが、今迄の事を思うと全く苦にならない陽気だった。夕方のジョギングでは、河川敷グランドが、涼風が絶えず吹いていて、心地良く走れた。秋を感じさせられ、足も軽かった。

 妻と私の結婚の考え方が百パーセント一致し、結婚当初から一度も共働きはしなかった。時代背景は共働きが求められ、増え始めたところだった。現代の様に共働きが基本になったのは五年後ぐらいで、「育児は犠牲」と平然と言われるようになっていた。

 財界の思惑は見事的中し、専業主婦は極端に減って、同時に少子化に向かい始めた。企業が生産力を上げても消費が伸びねば破綻の憂き目にあい、バブル景気と言われた高度成長から一気に消費が低迷、破綻する企業が数多く出てきた。

 中国では、毛沢東主席の時代に「一人っ子政策」が打ち出され、景気が落ち込んでしまった。周恩来体制に替わって政策が見直され、共産主義経済から自由主義経済へ移行が成され、以降中国は一気に経済大国にのし上がっていった。

 日本経済は消費低迷の教訓が生かされずに、賃金の引き下げや、リストラで乗り切ろうとしたが、「白痴化教育」のあおりでイエスマンが主流となり、開発能力が極端に落ちて家電製品が売れない時代に入った。以降景気が浮上することなく、新たに主流となったIT企業の陰に隠れて、浮上のきっかけが得られずにいる。

 

3日(火) 曇・雨22/26

 

 秋の長雨ではないのだろうが、9月に入ってスッキリ晴れる日が無くなり、最高気温も30℃前後と、猛暑日から完全に脱皮した感じである。9月は本来の台風シーズンであり、日本列島南海の太平洋上には台風の卵が幾つも発生しており、気になるところである。

 どう言うわけか、気が散漫となり、何事も手が付かなくなっている。食生活は何とか維持し、旨味があまり感じられなくなったが、日々、滞りなく過ごす事が出来ている。妻が生きている時は100%一緒に食し、他愛ない会話を楽しんできた。会話には愛情が満ち溢れていて、至福の時だった。人生の基本は会話で、会話が失われると、生きた屍になってしまう。

 時々であるが会話が持て、僅かな時間でも気持ちが活性化する。会話が途切れる時間が長ければ長いほど、生きている意味合いが薄れてきて、ボケーとしてしまう。

 

4日(水) 21/26

 

 昨日と同様秋めいた陽気で、朝夕が一段と涼しく、エアコンと縁遠くなった。夕方のジョギングも走りやすく、楽しめるようになった。日が大分短くなり、秋の気配が一段としてきた。

 妻の事を思うとき、人間関係の複雑さを感じてしまう。妻と私の関係は、正に一心同体で、どこまでも心がかみ合っていた。妻の晩年は、いつも一緒で、些細な語らいながら、どこまでも楽しんでいた。親子関係は、精神面では一切の関係が無く、いてもいなくても何も変わらない。むしろ、足かせとなり、うっとうしい存在である。妻と二人で何の不足も感じられず、至極の時を満喫してきた。

 そんな妻を失うと、生きる意味合いが霧散し、時間が長く感じられるようになった。何をやっても無意味となり、時間の経過が浮かんでこない。ボケや痴呆が現実的になり、脈絡を持った事がらは手に負えなくなった。

 

5日(木) 22/28

 

 今日も日射しが乏しく、気温が上がりきらずに、最高気温は30℃を切った。太平洋上には台風や、台風の玉子が発生していて、日本列島にも上陸する可能性がある。元来9月は台風が多い月で、秋の長雨と連動して災害も多くなる傾向にある。

 仏壇に並べて妻の写真を飾っているのだが、少々汚れがあって手直しをした。今まで通り飾ったのだが、妻の顔が幾らか違ったように感じられる。そんな事は絶対にないのだが、心の持ちようで違って見えるのかもしれない。悪く見えるのではなく、私の心では綺麗になって映っており、不満は少しもない。

 写真の飾り方を変更したのは、写真を見ていてキスがしたくなり、少々汚れてしまったので拭き取ろうと思ったのである。他にも汚れがあり、本格的に手直しをすることになった。手直しをして改めて飾ってみると、写真の顔が今までと違って見えた。写真そのものは全く同じものだから違うはずが無いのだが、自らの心も持ちようで違って見えるのかもしれない。

 

6日(金) 曇・晴23/35

 

 夏も一段落したと思いきや、今日は一転、最高気温は35℃を越えて猛暑日となった。日中は確かに暑かったが、さすがに暗くなると気温が下がって、熱帯夜は免れそうである。

 昨夜から今朝にかけて、これからの事を色々考えて、ほとんど寝付かなかった。寝ずに考えた事なのだが、肝心な時には忘れてしまって、生かす事が出来なかった。要するにもうろくしてしまったと言うことであり、脈絡を持って物事を作りあげられなくなってしまったのである。

 もうろくしてどんな人生が作りあげられるのか考えると、何の期待も持てない。それでも粘り強くやっていけば、奇跡が起きるかもしれない。亡くなった妻はいつも見守ってくていると思いこんでおり、その日の出来事は随時報告している、返事が返ってこなくとも、私の思いは妻が受け止めてくれていると、いつも思っている。そんな時が一日で一番楽しい時である。

 

7日(土) 曇・晴25/35

 

 昨日に続いて猛暑日となったが、風があった所為か、それほど暑く感じられなかった。夕方のジョギングでも走りやすく、楽に走ってこられた。

 昨日に引き続いて、今朝も良く眠れなかった。年寄りに転換期など有るとは思えないのだが、今生活を変えようと足掻いている。妻の供養だけで、生きる目標が全く見当たらず足掻いてきて、ことによると生きる意味合いを感じられる時が出てくるかもしれない。

 妻を失って色々と試みたが、妻の三回忌を前にして、幾らか前向きな時間が作れそうである。自分が動けるうちは月々の墓参は続けるつもりであるが、墓参はいつも一人で、何とも寂しい限りである。家族とは一体何なのかしばし考えるが、結局は妻と二人きりである。二人きりだから一層愛情が強まって、お線香を手向けながら、一時を楽しんでいる。妻の供養を、一人でするのではなく、思いを共有できる人と一緒に墓参を楽しめればと願うものである。

 

8日(日) 晴・曇・雨25/33

 

 一日を通してスッキリ晴れる事はなく、それでも気温が上がって真夏日となった。夜になっても中々気温が下がらず、久々に寝苦しそうである。

 認知症と言うべきか、痴呆と言うべきか、記憶があいまいで、何でもすぐに忘れてしまう。できるだけ記録するようにして、忘れ物を少なくしているが、日常の事まで記録しきれず、ちゃんとできない事が多くなっている。今の生活では忘れても生活にほとんど支障が無いので、それほど気にしていない。備忘録効果も大きく、いつも手放せない。

 どんな病気も一人暮らしが一番悪く、会話を維持する事が特効薬である。暮らしに会話ができる相手を引き込んで、価値観が共有できる事が望まれる。妻が生きている時は完ぺきな生活ができていたので、パートナーを見つけるのも特効薬になるのかもしれない。

 

9日(月) 晴・曇25/36

 

 暑さがぶり返し、熊谷の最高気温は36℃と猛暑日となり、暑い一日となった。台風も接近してきて、各地で大雨になっているようである。熊谷ではほとんど降らず、洗濯ものが良く乾いた。

 日常のジョギングは1日置きで規則的なのだが、昨今、前日したかどうか全く思いだせない。走ったと決めて休むとえてして二日続けて休んでしまう事がある。一日おきぐらいなら覚えていてよさそうなのだが、記録見ないと結論が出ない。二日続けてやっても、休んでもそれほど影響が出るわけではないのだが、連続して走ると膝に違和感が生じる。そろそろやめ時なのかもしれないが、止めてしまったらどんな事になってしまうのか不安でならない。走れなくなったらやむを得ないが、規則的に走ってできるだけ長く続けたいと思っている。

 

10日(火) 晴・曇・雨25/36

 

 全国的にみると荒れ模様になっている地域があるようだが、熊谷では夕方雨が降ってきたものの、影響は小さかった。

 月日がどんどん過ぎていき、やり残しが一杯ある様な感覚となり、少々気になってきた。妻が亡くなって、後三日で丸二年となる。一人寂しく三回忌の法要を行う。どの様にしても妻を取り戻す事が出来ない現実に、無力さをただ噛みしめるだけである。妻と楽しく過ごしてきた写真集を見ながら、最高の女性と結婚できたことを幸運と思うしかない。抗癌剤治療で殺された事を考えると、不運と考えざるを得ない。

 どこまでも優しく過ごしてきた妻は、いつも慈愛に満ちていた。観音様の様な妻がいつも私に甘えてきて、頼りにされてきた。二人三脚のおしどり人生で、観音様を支えてこれた事が何よりも幸福で、妻を守りきれなかった事が、永遠に悔やまれる。人生とは何なのだろうと自問自答し、生きながらえることが息苦しくなる。妻恋しさが生きながらえる常套手段なのかもしれない。

 

11日(水) 曇・雨24/33

 

 台風の影響か、曇りや急な雨となった。昼の食事を兼ねた散歩では、幸いにも雨は免れ、夕方になると雨が強まり、何度か雷鳴がこだましてきた。夜になってもそれほど気温が下がらず、熱帯夜になりそうである。

 過去に書いた小説を読み返すと、我ながら面白く感じられた。妻と二人暮らしの中に、少女がやってきて、少女の母親も受け入れ、妻と二人で面倒をみる事になる。妻は頓着なく、私が二人を支援するよう後押しをしてくる。当然浮気になるのだが、実生活でも、仕事関係で多くの女性を支援してきたが、決して浮気はしなかった。

 妻は優しい人で、困っている人がいればすぐに手助けし、妻にできない時は私にさし向けてきた。私は実生活でも、仕事柄多くの女性を支援してきて、妻に随時報告した。妻は「お昼でも御馳走してあげたら」と言って、何度も小遣いをよこした。夫婦間には絶大な信頼関係ができていて、私は職場での出来事を毎日報告した。

 妻を亡くして、一時鬱となり、生きているのが辛かった時があったが、妻を書いた小説を何編か読むと苦しみが氷解して、楽しくなった。「愛妻記」が中断して、暫く手が付かなかったが、大分意欲が湧いてきた。

 

12日(木) 曇・晴22/31

 

 日中曇りが中心だったが、時々晴れ間も覗き、最高気温は30℃を越えた。風があったのでそれほど暑く感じられず、夕方の河川敷でのジョギングでは、涼風が絶えず吹いて、心地良く走れた。

 明日は妻の三回忌で、久々に家族揃って法要を行ってくる。私は家族を全く当てにしておらず、私一人で月命日は供養してきた。息子達は母親に対する思いがどんなものか分からず、こちらから墓参を催促した事が無い。妻は私にとっては全てで、私が生きていられる間は毎月墓参をするつもりである。墓参をして特別何かあると感じた事は無いが、気分的にスッキリする。むしろ、墓参に行くのが癒しになり、心の中で愛情交換をしている。

 生活の折々で妻の姿を見出すと、自然言葉を発して、会話を楽しんでいる。返事が無くとも安らいで、妻の魅力を再発見、再再発見し、生活を楽しんでいる。一時、鬱や痴呆と思われる症状が出ていたが、昔書いた本を読んだりしているうちに、妻がすっかり蘇った。

 

13日(金) 20/23

 

 今日は日射しがほとんどなく、涼やかな一日となった。夕方食事をしに出かけたが、半袖では寒いくらいで、秋らしさを実感した。

 今日は妻の三回忌で、家族三人が揃って法要を行ってきた。お寺さんでは色々とお気遣い頂き、気持ちよく供養ができた。一周忌は私一人で行い、寂しさがあって、これからは私一人で妻を供養していかなければならないと、強く意識していた。三人揃うと、気分的に和らぎ、私一人では無いと実感し、会話が弾んだ。

 今自分が置かれた状況を話したり、息子達の仕事ぶりなど、今までほとんど知らなかった生活が幾らか浮き上がってきた。今回、何でここまで密接な係わりができたのかさっぱり分からない。ただ、私の生活状況を話すことにもなり、特に長男には詳細に話し、理解が得られた感じである。次男については、今までは辛辣な扱いをしていたが、和む時間もあって、関係改善が幾らかなされた感じである。これからの自分の生き様についても、少しは方向性ができた感じで、息子達にも認知されつつある。

 

14日(土) 17/25

 

 今日は日射しが無く、気温が上がらずに涼やかな一日だった。夕方には半袖姿だと寒いくらいで、秋の深まりすら感じられた。

 ジョギングは1日置きで続けてきたが、この頃は二日休みの時が多くなって、規則性が崩れつつある。大きな要因は寝不足で、先の事を考えると眠れなくなり、頭がスッキリしない事が多い。不眠症では無いと思うが、過去に経験が無く、対処方法が分からない。

 寝不足だと判断力が鈍り、記憶力も落ちて、無駄をすることが多くなった。一時的なものであればいいのだが、慢性化するとなると、なんらかの対処策を講じる必要がある。

 

15日(日) 晴・曇20/31

 

 朝の気温が低く、大分楽になってきた。日中は30℃を越えたが、暑苦しさはなく、大分楽になってきた。夕方のジョギングでは大変走りやすく、楽しむ事が出来た。夏が一歩遠のいたと言ったところか。

 我がホームページ「三文文学館」は5年以上更新をしていない。5年前に「生活の詩」と題する小説を書いており、途中でとん挫して完成しておらず、「名ばかり文学館」に格下げとなっていた。

 「生活の詩」は、生活を失った母娘が現実空間でさ迷っていて、中年を過ぎた男が二人を救い出すと言う話である。現代は悪意に満ちた浪費政策の虜になった人々が多く散在し、家庭が失われ、家族生活が失われた漂流生活をする人が少なからずいる。「生活の詩」は正に漂流者が主人公で、漂流者を救おうとする50歳を過ぎたお節介焼きが二人を救うと言う設定である。

 ごくありふれた生活には幸福が満ち溢れているが、時間に追われた人々にはごくありふれた生活を作りあげることが困難である。心を安らげて、1歩後退して現実を直視すれば、幸福の道筋が見えてくるが、ゆとりを持たせまいとする、悪意に満ちた社会にあっては、極めて困難である。

 亡くなった妻とは、共に安らぎを見出すことが生きる目的となっていて、どこまでも安らいだ生活を続けてきた。些細な出来事も極上の幸福感が漂い、愛を感じる事が出来た。

 悪意に満ちた社会は、心の安らぎを奪い去る事が目的となっていて、多くの人が常に不足を感じている。不足を物で埋めさせても、人々の心には不足が残り、幸福とは縁遠い生活を強いられる。「生活の詩」は悪意を振り払うことを目的としており、「価値を見直す」事がテーマである。

 創作活動から長く離れ、少しも気に留めていなかったのが、何を間違えたのか、ホームページで発表していなかった作品を紐解いていた。そこで「生活の詩」を読みあさっていくと、「幸福の言及」の作品に辿りついたのである。

 

16日(月) 曇・晴22/29

 

 ボケが始まって、曜日の感覚や祝日の感覚が脱落して、散歩で出向いたショッピングモールやデパートの人の流れがちょっと違って、何かおかしいと思いながらも、祝日とは全く気付かなかった。完全なる認知症なのか、体感的に祝日の価値を感じていないのか、全く分からない。

 最近、唯一出版した「時の旅人」を読んで、亡くなった妻の素晴らしさを改めて実感した。「時の旅人」では妻の魅力を語り尽くしたと自負し、副題に「妻に捧げる詩」とした。

 現代社会では価値を認められていないが、間違って読んだ人は嫉妬すると思っている。実話でも夢物語であり、夫婦がかくも深く愛し合えるとは誰も信じない気がする。さらに言うなら、自らの人生を否定されたと自尊心が傷付き、真っ向から否定する者も出てくるのではなかろうか。

 自己満足に過ぎないのかもしれないが、妻を心底惚れられたことに、人生の勝利者を意識した。仏壇に並べて飾ってある妻の写真に言葉を投げかけ、愛を確かめている。

 

17日(火) 曇・晴23/32

 

 一日曇りがちであったが、時々日射しが出て気温が上がり、熊谷の最高気温は30℃を越えて真夏日となった。9月も半ばが過ぎ、本格的な秋模様になっても不思議ではない。夕方のジョギングでは大分涼しく、走るのが少しも苦にならなかった。

 妻が生きている時には、日々変化を付けて、生活を楽しんでいたが、妻が亡くなってからは、同じ事を繰り返すのが日課となっている。それはロボットの様で、義務的に食べ、義務的に歩き、義務的に走って、無事一日を過ごしている。

 無事と言っても記録表を確認しないと分からない時があり、最近は前日の事はほとんど記憶に残っていない。それでも、歩いたり走っている関係で健康は維持しており、脳をどう活性化していくかが課題である。脳の活性化は会話しか無いのかもしれない。

 

18日(水) 曇・雨19/26

 

 スッキリした天気では無かったが、気温的には大変過ごしやすく、一日大分楽に過ごす事が出来た。まだ暑い日が来るだろうが、8月の様な猛暑は遠のいたと見てよさそうである。

 この頃文章を書く機会が減って、日記がせいぜいである。昨日今日と久々に文章を書き、何とか書き上げた。今日書いたのは昭和40年台後半の社会の変遷で、時代が大きく動き出した時のことである。

 私が勤め始めて間もないころで、配属されたのは団塊の世代が仕事をしないので会社が持て余していた時だった。私は入社して3カ月もたっていないのに、ミーティングで「仕事もしなにのに文句を言うのはおかしい」と先輩にくってかかったのである。私より年下の同僚も同様に思っていて私の側に着き、先輩は反論できない状況となった。

 それは厄介な仕事人生の前触れで、厄介事をみな引き受けてしまう事になってしまった。特に労働組合の役員に押しやられ、長時間縛り付けられる人生となった。結婚して間もなくのことで、妻のいたわりで何とか凌いだ。妻は子育てに専念し、負担は尋常では無かったはずである。妻と寄り添う人生は、妻が亡くなるまで続き、至福の時を味わってきた。

 

19日(木) 晴・曇17/28

 

 日中幾らか日射しが出て、気温が上がったが、夕方には大分涼やかになっていて、ジョギングが楽にできた。日が落ちるのも早くなり、ジョギングから帰って来る頃には大分暗くなっていた。早く暗くなると時間が過ぎるのが早く感じられ、歳を取っていくのが早まった気がしてくる。

 価値観と言うのは人それぞれで、自分がどんなにいいと思っても、他人は必ずしもよしとしない事がある。人付き合いが希薄だと、価値観の相違で軋轢が生じる事が無いが、より密接な関係だと価値観が違うと大きな壁となって、壁を切り崩すのが難しい。

 我が人生でも価値観の相違で袂を分かった事が何度もあり、修復の必要性を感じずに縁が無くなった友人も何人かいる。逆に、何人もの仲間が価値観を同一にして、大変な作業も楽しんでやった事を記憶している。妻との二人の生活を重視したが、価値観を共にした仲間との付き合いは長く続き、存分に楽しむ事が出来た。

 仲間との付き合いは大事にしようと思っても、妻との関係が色濃くなり、自然縁遠くなっていた。昨今、高齢者に一歩足を踏み入れた気分で、昔の事がふと浮かんでくる。多くが楽しんだ思いでで、仲間と楽しんだ事は家族にも楽しませ、二重になった思い出がけっこうある。

 

20日(金) 曇・晴19/27

 

 曇りが多い天気で気温が上がりきらず、一日楽に過ごす事が出来た。今日で彼岸入りし、「暑さ寒さも彼岸まで」の理の様に秋らしくなってきた。薄着が祟ったのか、風の様な症状が出て、ちょっと気になるところである。

 一人暮らしは病気が心配で、そう簡単に身動きが取れなくなることもなかろうが、忘れ事や鬱の事を考えると、楽観できなくなる。ころごろは、小説など、昔書いた作品を見る機会が多くなって、我ながら面白いと思われる作品が幾つも出てきた。大半が実話をもとにして書いたもので、読み返すと昔の事が思い出されてけっこう楽しめる。

 今は「愛妻記」にほとんど手が付かず、昔書いた小説に呼応して、実体験に基づく小説を書きたくなってきた。人付き合いが薄くなってきた昨今、書く題材に乏しいのだが、数少ない人間関係の事を書きたいと思っている。題名は「いじける淑女」で、女性の複雑な心模様を描きたいと思っている。

 

21日(土) 19/23

 

 暑さ、涼しさを意識している積りなのだが、着こなしが気温に合っていないようで、どうも風邪をひいてしまったようである。熱があるかまで意識していないが、喉が少々おかしく、鼻づまり気味である。普段どうりの生活をしているのだが、気が散漫になり、集注して取り組む事が出来ない。それでも気長にやっており、何とか凌いでいる。

 私が通った高校は男女共学で、私は小柄で、人相もいいとは言えず、女性には持てるはずが無いのだが、高校2年の時、授業の一環で好きなタイプのアンケート調査があり、女性徒の好きなタイプは「思想を持っている人」で、私が該当していた。

 昭和24年生まれは、上の年代と全く違った環境で育ち、手堅く生きようとする者が多かった。上級生の我が儘を見聞きし、ほとんどの者が一線を画し、どちらかと言うと地味な感じの者が多かった。

 当時学生運動が盛んで、暴力沙汰が発生して、警察の出動が盛んになった。太平洋戦争の時、警察は軍部の配下に置かれ、戦争を反対する市民を拘束し、国民の敵になっていた。戦後は国民が警察アレルギーとなっていて、表立った動きはできなかった。

 学生運動の過激さに呼応して、警察の出動が正当化され、戦前の警察を取り戻そうとする目論みもあった。学生運動は22年生まれ以前の人が首謀者で、学生運動の当初は団塊の世代が少なからずいた。学生運動の収束の一つとなった「浅間山荘事件」で取り押さえられた者には昭和22年生まれは一人もなく、昭和24年以下の者がほとんどだった。昭和22年生まれの役割は事前に終わらせ、過激に走ったごく少数だけが残っただけで、学生運動は明らかに仕組まれた紛争と言える。

 昭和24年生まれは悪意に満ちた社会を察知していて、手堅く生きる者が多かった。クラス内でアンケートが実施され、同年代の者は社会の悪を察知する事は極めて重要としており、私の様に思想を「ひけらかす」学生の方が、女子の評価が高かった。

 私の入学した高校は男女共学で、当時、同クラスの友人と、休憩時間になると議論を交わし、教室内に響き渡って、私の主張は多くの女子生徒に聞かれていたと思われる。

 アンケート結果を聞いて、自分の事ではと、訝しく思った覚えがある。私は小柄で美男とも思えず、どうしてもアンケート結果が私に結びつくとは思えなかった。実際には、女子生徒に詩を渡された事があり、今考えて見ると、「持てたのかな」と、思えてくる。

 24年生まれは不器用な者が多く、時代に迎合できない者がほとんどだった。恋愛も不器用で、交際は遊び半分では成り立たず、結婚に結びつく事が多かった。私の妻は昭和26年の2月、私の1級下で、24年代の生き様に近かった。あらゆる面で価値観を同じくし、相思相愛の夫婦生活を送る事が出来た。24年生まれは、社会生活ではおちこぼれ組が多かったが、夫婦生活は勝利者が多かった。

 

22日(日) 曇・雨18/27

 

 日射しがほとんどない一日だったが、気温が思ったより上がり、熊谷の最高気温は25℃を越えた。真夏の暑さは影を潜め、大分過ごしやすくなった。妻が亡くなって丸2年が過ぎ、今までは何とか体調を大きく崩すことなく過ごしてきたが、どうも風邪をひいたらしく、頭が重くて咳が出るようになった。一人暮らしの辛さで、誰も頼れず、ただじっとして耐えるしかない。

 私の生きる辛さには、後継者がいないと言うことである。息子二人は40歳を過ぎても結婚しておらず、結婚する気も全く無い。妻が亡くなって、当初妻のDNAを残したいとの思いで、息子たちの結婚を模索したが、社会そのものが結婚を軽視しており、少子化によって社会全体が未来の展望が立たなくなった。

 それは首都圏が中心で、地方は経済を含めて活気を呈している市町村も少なくない。今の、自民党政権の元では地方も税金がむしり取られるだけで、全くいい事が無い。まだ市町村が独立するとの動きはキャッチしていないが、全く可能性が無いわけではない。

 年金制度は、年金の投資先(財界)がことごとく破綻して、これから年金を受ける人には払えない実情が出てきた。消費税など、税金を高くして財政の立て直しを図ろうとしているが、落ち武者の戯言で、地方では円から脱却してカード決済にすれば、中央の不始末の影響を受けずに済む。

 まだ市町村の独立の動きが無いが、このままの状態では否応なしに日本経済は破綻し、地方の連合でカード決済にすれば、中央の破綻のとばっちりを受けずに済む事は確かである。

 

23日 曇・晴20/28

 

 今日は曇りが中心で、日中外を歩いてもそれほど暑さは感じられなかった。散歩が順調に歩け、それほど負担を感じなかったが、家に帰って携帯電話の機能にある歩数計を確認したら7キロを越えていた。これからはウオーキングもジョギングも苦にならなくなるに違いない。

 20代で書いた小説を読んで見ると、思ったより面白く感じられた。20代の初めのころは作家を目指していたが、食える見込みは全く感じられず、片手間に書いた幾つかの作品を残すだけである。その中で、20才に経験した出来事を、架空と現実を織り交ぜた「花飾り」と言う作品がある。

 高校の時の仲間が集まって同人雑誌を作る事になり、昔の仲間の6人の他に、女子が3名加わっていた。女子は見覚えが無い者ばかりで、最初は打ち解けた話にはならなかった。

 会が解散の段になってそれぞれが帰路についたが、女子のうち1名が私の帰宅ルートに住んでいて送る事なった。彼女の顔は記憶に薄らと残っていて、同窓生と何となく分かったが、車での会話はぎこちなかった。以降、同人会の時は私が送り迎えする形になり、特別な付き合いができて行った。

 恋物語が始まり、彼女の家で、親御さんとも知り合い、夕飯を御馳走になる事も何度かあった。農家の古民家で、障子に夕日が射すとセピア色に変わり、時間が100年もタイムスリップした感覚となった。私は少なからず彼女に心を惹かれ、同人会と離れた付き合いとなっていた。

 ある日の事、彼女の家から帰路に着くと、出る時間も遅く、道路も混んでいて家に着いたのは10時を回っていた。同人会の仲間から家に連絡があって、私が家に帰っていない事が知られ、後日、彼女と私が一緒だった事が問題になってしまったのである。

 同人会に特に決まり事があったわけではないが、二人の関係が抜け駆けと捉えられ、叱責される事になってしまった。20歳の男女が好き合っても咎められる理由はないのだが、彼女は結末を求めてきたのである。高崎で待ち合わせて話をしたが、私には「結婚」の言葉を発する事が出来なかった。

 彼女は、結婚をしくじった姉の影響を受けていて、交際イコール結婚しか考えられず、私の「ごめん」を聞くとすぐに立ち去ってしまった。私がどこまで彼女の気持ちが分かっていたのか分からない。

 この話は20歳の頃の実体験で、妻と関係が途絶えていたが、私の心には妻がいつも内存していて、彼女を守ってやりたいとの思いがあったが、結婚の言葉が発せられなかったと思われる。

 時代が大きく動き出した時期で、昭和24年生まれは時代の流れに乗りきれずに、手堅い生活を目指す者が多かった。「花飾り」には時代背景も加えており、見ようによっては「歴史ロマン」かもしれない。

 

24日(火) 21/29

 

 本格的に風邪をひいてしまい、何をやってもスッキリせずに、午後はごろごろしているようだった。過去に本格的な風邪をひいたのがいつだったか全く記憶になく、かなり前だったと思われる。健康が唯一のとりえだったのが、70才になって(妻を失って)ひ弱になってしまったと考えるのが妥当なのかもしれない。

 最近、自分が書いた昔の小説を読み起こし、新たに書いて見たいと思うようになった。妻の死も書くつもりだが、今手掛けている「愛妻記」に包含され、別枠で書く必要はないのである。妻の死をひきつって生きる生活は解除できないだろうが、日々の生活に新たな息吹を吹き込むことが重要と考えるようになった。

 従来の書く事を主体とした生活に戻そうと、幾らか気概が起こり、構想が浮かび上がっている。過去の女性遍歴と言っても、妻以外の女性と手を握ったことなど一度もなく、極めて古臭い付き合いだった。妻以外の女性との接点は20年以上も前に途切れ、妻とのロマンスに明け暮れてきた。

 今の閉鎖的な生活に、女性の存在ができた。それは、鬱と認知症と思われる症状を感じて、知人の女性に見守りをお願いして、月に何度か顔を合わせるようになったのである。彼女は、私が過去に知り合った女性と全く違ったタイプと思われたが、よくよく考えて見ると、年齢も、タイプもかなり近い女性の姿か浮かび上がってきた。

 時代によって、財界が意図(悪意)した社会風潮が変ってきたが、最も悪しき影響を受けた世代の一つと考えられる。性格は二人ともどこまでも優しく、面倒見が良くて、酷似する部分が多く見受けられる。

 人生とは面白いもので、全く予期せぬ出来事が起こるものである。

 

25日(水) 21/30

 

 朝夕は大分涼しくなったが、日中は気温が上がり、30℃前後に達する日もある。日中の暑さより、朝夕の気温が生活に大きく影響し、快眠ができるのが一番である。

 体調を崩して何日かたち、昼の散歩は出かけるようにしてきたが、ジョギングは休んで、普段の生活と違っている。創作などに大きな影響が出て、書くのは日記だけで、いささかグータレた生活となっていた。今日も体調は同様なのだが、何日か前から過去に書いた小説を読んだりしていたら、失っていた創作の意欲が蘇ってきた。

 今日、試しに現代版の小説を手掛けて見ると、構想がどんどん浮かんできて、ペン(キーボード)が思うように動きだした。ストーリーは、男女二人の関係が、精神的な繋がりが深まっていくが、女性のプライドが邪魔をして、一定の所で留まる関係となってしまう。

 昭和後半から時代が大きく揺れ動き、財界支配のイエスマン教育が機能しだして、幸の薄い社会になって行った。現在の40歳後半から50歳後半までの世代が、時代の悪意を最も大きく被っており、家庭崩壊や少子化へと連なって行く。

 時代の悪意を受けても、何が本来の姿か知らない人々は、がむしゃらに現実に適応してきた。それは、ややもすると本来の生きる目的から逸脱し、時代の流れに沿う事が生き様になって来る。同時にプライドとなり、何か違っていると感じても、修正する事がなかなか出来ない。

 何が幸福なのか考えること自体忌避してしまい、プライドにしがみついている。そんな女性は、気持ちは純真で、少女の様な笑顔を持ち、少女の様にいじけてしまう。それはどこまでも可愛らしく、つい手を差し伸べたくなる。

 

26日(木) 晴・曇18/27

 

 この頃は気温が上がっても30℃を越える事が無く、生活が大分しやすくなった。しかし、1週間前に風邪をひいたらしく、特に痰が多く出て、咳をして吐き出す生活が続き、久々に苦しい思いをしてきた。今日も快調とは行かず、頭も重くて不快な一日となった。年齢が増すと共に、体調を崩すと直りが遅くなり、凌ぐのが大変である。

 消費税の値上げで騒がしくなっているが、政府自民党、阿部総理大臣は、体調を崩しているのがありありと見えて、テレビで見る形相は凄まじいものである。かつて阿部さんが総理になった事があるが、何ヶ月もしないで体調を崩し、総理を辞任した事がある。今の体調がその時と同じとまでは言えないが、八方塞の状態はすっかり同じように思える。現状は緊急事態の時であり、辞めたくとも辞められず、体調を崩すか、難局を乗り越えられるかの瀬戸際に見られる。私が今日本の健康診断をするなら、御臨終間近と見立てている。

 

27日(金) 17/30

 

 今日は意外と気温が上がって、熊谷の最高気温は30℃となった。空気が乾燥していたのか、気温の割にはそれほど暑く感じられなった。体調は中々戻らず、今日も夕方のジョギングを取り止めた。今日で6日連続でジョギングを休み、ここ10年で、そこまで休んだ記憶が無い。

 私の本来の生活は、「愛妻記」を書く事であり、3か月前までは「セピアカラーの世界」を含め、昔の生活を再現してきた。ところが、この3カ月「愛妻記」とはご無沙汰で、妻との接点が薄らいでしまった。しかし、仏壇と並べてある妻の写真に語りかけるのは今までよりも多くなって、私に起こっている出来事を事細かく報告している。写真は何も答えはしないが、何となく通じている様な気がして、妻がやきもちをやきそうな事まで語りかけている。

 妻が健在な時も、女性が絡む出来事も話してきたが、妻がやきもちを焼いた事は一度もない。すっかり信用しきっているのが分かると、自ずから浮気心は起きず、夫婦仲は一点の曇りもなかった。妻を失って2年が過ぎると人恋しくなり、一人暮らしが苦痛になっている。

 70歳を過ぎた死にそこないの爺に色良い話など起こるはずが無いのだが、他人の親切に心を動かすことがでてきた。結果がどうあれ、思いを寄せられれば、生きる息吹に替えられるのではなかろうか。

 

 28日(土) 19/27

 

 今日は曇りがちであったが思ったより気温が上がり、熊谷の最高気温は27℃となった。朝夕は気温が下がって、最低気温は20℃を切るようになり、寝苦しさは感じずに済んでいる。油断をしていると風邪をひくことになり、今正に風邪に悩まされている。

 風邪が中々抜けず、今日も一日不快な思いをした。気晴らしにテレビを見るが、体調に変化はなく、高齢者と実感する。記憶の問題や、段取りの悪さなど、脳を中心に著しく老化が進んでおり、今後どうするか、どんな事が出来るか考えざるをえなくなり、歳を取ることの難しさをつくづく感ずる。

 頭に浮かぶことは歳と共にどんな生き方をしたらいいのか、先の見えない不安ばかりである。どんな形になるにしても、他人の愛情を欠かす事は出来ず、偶然やチャンスに積極的に係わっていくことが肝要と思われる。

 

29日(日) 晴・曇20/30

 

 この頃は一段と記憶が薄れ、日記を書く時に、今日一日の天気がどうだったか、全く記憶にございません、となってしまう。洗濯物が良く乾いたので晴天時間があった事は確かで、天気の欄では晴・曇としてみた。

 昼の、昼食を兼ねた散歩では、久々に、帰り道に荒川河川敷を選んだ。夏の終わりを告げる虫達もいるのだが、今日散策した限りでは、ほとんど見られなかった。

 昆虫撮影をメインに生活をしていた時は、昆虫が溢れ出てくるような探索となったが、今日はほとんど目につかなかった。ものを見る目は意識によって大きく違ってきて、余計な事を考えていると見落としが出てくる。そろそろ昆虫撮影に戻ってもいいのかな、と考えるが、生活方式が決まっていない今、余計な事に集中するだけの余裕はできないと思われる。

 日常生活をいかに落ち着かせるかが肝要で、孤立した中に求めるなら簡単に答えを導き出す事が出来るだろうが、人間関係が大なり小なり絡んでくると、己の価値観だけで結論を出す事が出来ず、人それぞれの価値観があるのだから、価値観をいかに融合していくかが何よりも肝要である。

 

30日(月) 曇・晴21/31

 

 雲が多い天気だったが日射しも出て、気温が上がって熊谷の最高気温は30℃を越えた。10月になろうと言うのに秋めいた感じは薄く、そろそろ秋風は欲しくなる。2週間ほど前に風邪をひき、ごろごろする時間が長かったが中々本調子にならず、9日間もジョギングを休んでいる。

 早9月も終わりで、今年も残すところ3カ月。生活を大きく変えようと思っており、一人暮らしから脱却するつもりである。一人暮らしだと、ジョギングなど、運動をやっても精神的に孤立して、心身ともに衰弱していく事を実感した。

 高齢になると人間関係を作っていくのが難しくなり、特に我が家の様に夫婦だけで生活を楽しんできた者には、相方が欠けると途端に老化が進んで行く。老化を抑制するのはそう簡単なことではないと思うが、生活に張りを持つのが一番の若返り方である。

 右往左往して、今張りのある生活が出来上がりつつあり、生きる意欲を徐々に取り戻している。きざたらしい言い方になるが、愛する思いが蘇り、自分の役割を意識するようになった。己の存在価値が何よりも大事であり、己の幸福を願うのではなく、他人の幸福に貢献することが、何よりも大事と考えている。

 現実に、妻が生きている時は愛する妻を幸福にすることがが全てであった。愛されることも願っているが、基本は愛することで、心より愛せる人を追い求めていきたい。