『三文文士映像日記』日記帳bT7 2019年3月

 

1日(金) 曇・晴6/14

 

 午前中は曇りがちだったが、午後からは晴天傾向になって気温が上がり、熊谷の最高気温は14℃となった。昼の散歩では、帰り道で汗ばんできて、家に戻ると肌着を替えるようだった。夕方のジョギングでは、暮れるのが大分遅くなって、17時半過ぎに出かけても暗くなり切らずに、ゆとりを持って走れるようになった。日が暮れるのは益々遅くなってくるが、ジョギングをするには17時半出発が手ごろで、冬場を何とか乗り切れた。

 早3月となり、「愛妻記」の遅れが気になっていたが、昨日の時点でファイルの問題が発生していたのを何とか解決し、日記をアップロードした後、再度見直してアップロードするつもりである。

 「愛妻記」第14章は、職場の付き合いと、父との交流が増えて、気にとめていた事が実行できた章と言っていいかもしれない。同時に、次男が小学生となって、家族の活動領域が広がり、成長を感じさせる写真が多く出てきた。特に父との交流は、妻にとって深い意味があり、出かけた先で、笑顔で話す姿が何度も見られた。

 我が家は経済的に厳しい状況にあったが、子供達に色々と経験させたく、頻繁に旅行をし、出費は大目で、やり繰りは大変だったと思われる。そんな中、義父からは、頻繁に気遣いをしてくれたと推察している。妻はその点については口を閉ざしていたが、私の収入だけでは賄いきれるはずが無かった。

 義父は娘をこよなく愛していて、妻を大事にする私を、良く思っていてくれた事は確かである。結婚そのものが父の後押しで成り立ったと推察している。妻は二人娘の長女で、本来なら婿さんが望ましかったはずで、にもかかわらず、私との結婚は、父自ら申し出てくれたのである。長男の私からは結婚の申し入れなどできるはずが無く、婚約した当時から、非常に有難く思っていた。

 父を誘っての旅行は、私の言いだしっぺか、父の依頼だったのかハッキリ覚えていないが、私の後押しで妻が誘った可能性が高い気がする。子供達もお爺ちゃんとの交流を楽しんで、妻にとって非常に意義深い旅行となっていた。

 

2日(土) /4/15

 

 3月に入って春らしさが増したと言うべきか、朝の気温が高くなり、日中も15℃近くまで上がり、服装も春ものにしないと汗ばんでくる。しかし、場所によって寒気が吹きこんできて、一気に春めいた格好にするのは考えものである。若者の中には、見ているだけで寒くなってくる格好をしている。

 線路(高崎線)と国道(17号)に挟まれて、街中を流れる水路(星川)がある。最上部には「星渓園」と呼ばれる庭園があって、以前は池(伏流水)から星川へ流れ込んでいたようだが、今は荒川から引き込んでいるようである。星川には鯉を始めとして、川魚(モロコ・ヤマベ・クチボソ等?)が多く見られる。見られるのは時期が決まっていて、11〜2月は全く見られなくなり、冬場はどこに滞留しているのか分からない。

 散歩のコースが星川沿い(上流部)も含まれていて、毎日魚を見つけているのだが、今のところ確認ができていない。下流は2キロ程行った先で地下水路となり、さらに先がどうなっているのか分からない。魚達の冬の溜まり場がどこにあるのか何とも気にかかる。

 

3日(日) 雨・曇4/8

 

 僅かに曇りの時間帯もあったが、久々の長雨で、気温も上がらず、熊谷の最高気温は8℃で、真冬の寒さとなった。春を引き寄せる雨となってくれればいいが、どうなるのか予測が付かないのが、正にお天気である。天気予報を評価するなら、お天道様のご機嫌次第と言ったところだ。

 「愛妻記」が一区切りついて、次に何を取り組もうか考えると、あれも、これもと色々出てきて、次章に中々入れない。私は妻と婚約した時から、妻の事をできるだけ書き残そうと、日記に記してきた。2000年以降は息子達が成人しており、旅行は夫婦が基本となり、日帰りがほとんどだったが、少なからず出かけていた。

 2002年以降はネガ写真からデジタル写真に切り替わり、ほとんどが既に我がホームページ「日本全国名所巡り」に掲載してある。2002年以前に撮影したネガ写真も少なからず残しており、「愛妻記」と並行して名所巡り(セピア色の世界)に掲載しようと思っている。

 日々「愛妻記」と「セピア色」が脳裏に交錯して、どう進めて行くか悩んでいる。ネガ写真も膨大な量(28年分)であり、より分けてもかなりの枚数になることは必定である。全体を並行して進めるか、「愛妻記」を優先するか、さ迷っている状態で、近々に結論を出さなければならない。

 

4日(月) 5/11

 

 今回の雨は久々の長雨になって、丸二日間降りっぱなしだった。朝は気温がそれほど下がらなかったが、日中も気温が上がり切らず、春とは程遠い一日となった。明日は三日ぶりに天気が回復し、気温も上がって、春らしくなりそうだ。

 天気予報を見ていると「三寒四温」と言う言葉がほとんど出てこないが、以前はこの時期の天気をさして「三寒四温」と言った。三日寒くて四日暖かい事を言い、周期的に天気が替わることである。今日の週間予報を見ても「三寒四温」の傾向にあるが、気象予報士の解説で「三寒四温」の言葉が出てきたのは一人だけだった。

 歳をとって来ると忘れっぽくなるとよく言われるが、今の私が言い伝えに陥っている。通常は備忘録に書いておくので、ノートを見ればすぐ思い出せるのだが、記録する必要を感じないものは、ことごとく忘れてしまう。

 妻の供養で一日三回お線香を手向けるが、それに合わせた仏壇用の換気扇を使用するのだが、ほとんどが消し忘れてしまい、長時間つけっ放しになっている。こればかりは備忘録に書いておく気にならず、三回中2回は長時間つけっ放しにしている。小さな換気扇だから電気代はそれほどかからないと思うが、経費節減を重視している生活からすると、つけっ放しは非常に悔しい思いとなる。電灯などは可視化できるので、無駄な電気はほとんど使用していないので、騒ぐほどの事ではないが、老化対策として、日常的な事は、いかに忘れないようにするかが、重要になってくる。

 

5日(火) 曇・晴4/16

 

 久々の長雨から解放されて、今日は一日晴天傾向にあった。気温も上がって、熊ガの最気温はは15℃越え、春の陽気となった。昼の散歩では若干薄着で出かけたので、汗はほとんどかかなかった。夕方のジョギングでも一枚少ない服装で行ったが、寒さは感じなった。このらいの陽気になると大分楽である。

 夕方のジョギングは、日が伸びた夏場の出発時間が17時30分で、遅くとも17時35分に出ていたので、今月に入ってから夏時間になった事になる。返ってくるのは18時10分前後で、19時の夕飯までに、シャワーを浴びたりして、いたって効率的な生活となっている。

 高齢化した肉体は、規則性が重要となり、できるだけ同じような生活パターンを追及している。まだ寒さから完全に脱却できていないので、肉体に負担がかかり、持久戦は苦手となり、時間の有効利用率は低く、パソコン作業はいたって不効率である。

 今の生活は、見ようによっては暇つぶしと言うことになるが、牛歩の歩みで実績を確実にあげている。どんどん構想が湧きだしてきて、進みが完全に途絶える事は無く、「愛先記」は確実に膨れ上がっている。妻の事を語るのが目的であるが、妻の力添えで、私がしでかしてきた事は、妻を語る事になり、家族旅行のみならず、仲間との旅行も、底辺には妻の存在があると思っている。

 妻は、職場の仲間のみならず、地域のソフトボールクラブでも、私が加入した事で妻を引っ張り出す形になって、少なからず注目を集めていた。なんだかんだ言っても、我が人生は妻と二人三脚で、妻の内助の功があればこそ成り立っていたと言える。

 

6日(水) 曇・晴7/14

 

 昨日気温が上がって、今朝は曇り空となり、放射冷却現象が弱まったと見えて、それほど気温が下がらず、朝の気温としては大分暖かだった。雲が多めながら日射しもあって、日中も気温が上がって14℃となった。多少は薄着で散歩に出たが、汗ばんできた。

 「愛妻記」は昭和61年代に入り、家の建て替えなどで、生活が大きく変わった年だった。母が弟と同居していて、弟の結婚で、嫁さんと上手くいかず、母が我が家に泣きついてきたところから始まっている。

 母は自分が中心で無いと気が済まない性分で、自分自身の心の問題を嫁さんに向け、私に洗いざらい申し立ててきたのである。不満は私に向けるが、妻には「気の利いた嫁さん」と言って、妻と比較するかのように言い、妻は少なからず傷ついていた。母が弟の所にいると、妻の事を褒めちぎり、弟の嫁さんに嫌味を言っていた。

 母は自分が一番でなければ気が済まない性分で、息子夫婦の仲が良いと、謂れなき因縁を付け、居場所を失っていったのである。我が家にやってきて、自分の居場所を作るべく、母は家の建て替えを求めてきたのである。家を建てるのは2度目となり、前回の時は、まだ私が仕事について間もなくの事で、住宅ローンを組める状況では無く、それでも無理やり資金を借りさせられ、2万円に満たない給料から1万円以上返済に充てる事になり、生活費も出していたので、ぎりぎりの生活をしていた。

 その時の苦い経験から、家の建て替えは余裕を持ったローンで建てられる規模を望んだが、私の返済能力を遥かに超えた金額を借りる事になった。月々の収入では食べて行くのもままならず、母が支援する形で同居が始まったのである。

 母は初めから支援する事によって、自分の立場を確保しようとするもので、月日がたつに連れて、妻に対してえげつない言動が目立ってきた。私は腹にすえかねて母に怒鳴りつけた事がある。母が出ていけば我が家が食えなくなる事を承知していがら、母は出て行くと言いだした。当然、私が頭を下げてくると思っていたようだが、断固として母を無視した。

 母が家を出るのにあたり、ローンの返済はどうするのだと確認すると、約策を違えて、関係ないとの態度をとり、母が家を出て行くのを待った。母は、こちらが慰留すると踏んでいたようだが、私は母を全く無視し、母は思惑が完全に崩れ、家を出て行かざるを得なくなっていた。我が家は経済的な危機に陥ったが、職場で合理化が始まり、合理化のための作業が増えて、日々時間外労働が強いられ、飽くまでもぎりぎりだったが、何とか生活ができる収入となったのである。

 母の身勝手な思惑が外れ、別居となったが、母の行き先が無くなり、弟の家に近いアパート暮らしをする事になったのである。

 

7日(木) 雨・曇6/11

 

 午前中は小雨がパラついていて、昼前には止んだものの、一日を通してスッキリと晴れる事は無かった。この時季は「三寒四温」といって、寒い日が三日続き、暖かな日が四日続くと言う事で、陽気が安定しない事を言った。天気予報を見ていると、昨今は「三寒四温」の定説が無くなったようで、ほとんど出てこない。日記で見るなら、二寒二温の傾向があり、地球温暖化に伴って、天気の移ろいが変わってしまったのかもしれない。

 「愛妻記」に伴って、色々とチャレンジしているところであり、縦罫文章の画像化を、従来使っていたパワーポイントから、やや新しいパワーポイントを使って見ている。若干操作方法が違っていて、戸惑ったが、使っていくうちに古いパワーポイントとの違いが分かってきて、設定を幾つか替えたら、古いものと同等に使えるようになった。

 新規のパソコンを買うことも考えていたが、今後の進展次第で考えればいいとの結論を出した。新たな挑戦は重要な意味を持っていて、後進に教授するには必須条件である。古いパソコンにこだわっていたら齟齬を来す可能性があり、私のやってきた事が消滅してしまう。

 文言と画像の融合は卓越した表現力があり、空事とは疎遠になり、血が注がれて生き物になってくる。今までは写真しか考えていなかったが、絵画でも同じ事で、絵画を画像化して文言を加えても、生き物に転身させられるのではなかろうか。

 

8日(金) 3/11

 

 今日は冬に半歩逆戻りをしたような天気で、北西の風が吹いて、温度以上に寒く感じられた。夕方には風は弱まって、寒さが幾らか緩んだ感じだった。日が大分伸びて、17時半を回っても明るさが保たれ、18時を回っても、それほど暗くならなくなった。

 「愛妻記」に伴って使用したソフト、パワーポイントは、10年ほど前のものだったが、5年ほど前に購入したノートパソコンのパワーポイントを使ってみた。初めはバージョンアップされた仕様が良く分からず、使い勝手が悪いと使用して来なかった。

 最近になって、妻用の購入したノートパソコンも使いこなそうと試してみて、初めは使い勝手が悪いと敬遠気味となったが、それでも何度かチャレンジしていくうちに、古いパワーポイントとの違いが分かってきて、「愛妻記」の第15章から使うことにした。

 設定の違いがあっても、縦罫文章の画像化には、古いものと違いはほとんどなく、これからは新しいパワーポイントを使用する事にした。パワーポイントをコピーして古いパソコンで使用しても何の違和感も無く、2台のパソコンを使用してこれからは進めて行く事にした。

 ノートパソコンの使い勝手が悪く、新しいパソコンを購入する事も考えたが、当面は現用のパソコンで進めて行く事にした。進みが早ければ良いのだが、パソコンの問題より、老化した脳が思うように動かず、進捗が極端に遅くなっている。

 

9日(土) -1/16

 

 今朝は久々に冷え込んで、熊谷の最低気温は氷点下となった。良く晴れて、日中は気温が上がり、最高気温は16℃と、春の陽気になった。昼の散歩では、出かけは寒く、帰りは暖かで、汗ばむようだった。今朝の冷え込みは昨夜から察せられ、放射冷却現象と相俟っての冷え込みと思われる。

 「愛妻記」については、8年近く使いこなした現用のディスクトップパソコンがメインで進めているが、妻に買った4年程前のノートパソコンも有効利用しようと、「愛妻記」の一部を書き綴っている。

 初め、ワードやパワーポイントの使い勝手が異なり、中々馴染めなかったのだが、ここにきて、ノートのパワーポイントが、ディスクトップでもそのまま使用できて、両者で併用使用できるようになった。

 パワーポイントは、縦罫文章の画像化には必需品で、ノートパソコンも有効利用できるようになれば、ディスクトップパソコンが故障でもした時の予備にも使え、バックアップ体制ができた事になる。

 まだ5年や10年はパソコンが手放せないと思われ、そろそろ新機種を買っても無駄にはならないと考えている。私の培ってきたスキルを何とか普及させたいとの思いがあり、必要を感じている人と接触の場を作りたいと思っている。

 

10日(日) 晴・曇夜雨5/17

 

 午前中は冷たい風が吹いて寒かったが、午後からは気温が一気に上がって、最高気温は17℃となった。昼食を兼ねた散歩では幾らか薄着で行ったものの、午後からの暖かさに汗ばんできて、家に帰ると肌着を替えるようだった。

 冬場の洗濯は、毎日洗濯に出すのは肌着と靴下ぐらいで、他は何日か着ており、洗濯回数は三日起き程度で済ましている。量はそれほど多くないと思っているのだが、洗濯時は何でこんなに洗濯物が多いのだろうと、毎回のように首をひねっている。

 通常の衣類の他に、ジョギング用の運動着があり、それが多さの要因と考えてみたが、どう考えても量の多さに起因しているとは思えない。よくよく考えて見ると、冬場は重ね着をしており、汗とも関連して、同時に洗濯するものを多く出していると考えられる。洗濯はそれほど苦にならず、物干しでも洗濯物の方向を替えて乾きを早くし、替え着が無いと言う事は滅多にない。それでも着替えを早め早めにして洗濯物を出してしまうので、肌着が不足しそうな時が出てくる。

 「愛妻記」の進みが遅くなっていたが、ここ何日か、集注する時間が長くなり、一気に進みだした。思考力が低下して、文章系の作業になると途端に遅延し、眠気が射していたが、睡眠も良く取れているようで、睡魔に襲われなくなってきた。睡魔は解消したが、ウォーキングやジョギングの疲れが残り、ぐったりしてしまう事がある。いずれにしても、誤魔化しながらやっていかないと続かない年齢になったと言うことである。

 

11日(月) 雨・曇後晴8/17

 

 朝のうちは雨が残ったが、昼過ぎには天気が回復して青空が広がった。熊谷の最低気温は8℃で暖かな朝となり、午後からは気温がぐーと上がって、最高気温は15℃を越え、散歩をしていると汗ばんできた。本格的に春らしくなってきた証なら良いのだが、もう少し様子を見ないと何とも言えない。

 春めいて来たのなら、何日かに一度、カメラも持参して、帰りの散歩コースを替え、荒川河川敷を巡って見ようと思う。荒川堤のソメイヨシノは幾分遅咲きで、4月に入ってからも見ごろが続く事が多く、写真を残そうかと思っている。妻が生きている時は、毎年桜見学に行き、開花状況をネットに計上していたが、それも一昨年で取り止めになっていた。

 最近は写真撮影が億劫になってきて、この2年ほとんど撮影していない。気持ちに幾らかゆとりができればと思うのだが、現状ではまだその気にならない。散歩コースに花見を加えるようになれば少しは気が替わるかもしれない。

 

12日(火) 晴・曇7/18

 

 昨日に引き続いて、冬を感じさせる寒さは無く、昼食を兼ねた散歩ではすっかり汗ばんで、家に戻ったら肌着を替えるようだった。夕方のジョギングでも、羽織るものが薄手のものとなり、暖かさと相俟って、走るのが大分軽やかになった。日が大分伸びて、走り出しが、冬の16時半から17時半以降となり、1時間も遅くなっている。

 「愛妻記」に伴って、昭和61年の日記と写真を見ているが、家の建て替えで気持ちにゆとりの無い生活をしているはずなのだが、どう言うわけか付き合いが一段と盛んになり、魚釣りや、ソフトボール、飲酒など、少なからず出かけている。仲間内の旅行もしており、尋常ではない忙しさで、体調も崩していた。

 家族最優先を信条としながらも、付き合いを減らす事が出来ず、誘われた事にのめり込んで行く傾向にあった。30歳後半に入って、日常的にはどう生きるべきか悩んでいて、猶予など全く無いはずなのだが、現実に正面から打ち当たっていく道筋を選ばず、逃避生活と言う見方もできる。

 日記の展開から当時の真意をつかみ取る事が出来るか分からないが、妻への思いと共に探求するつもりである。

 

13日(水) 4/17

 

 昨日に比べて朝の気温は低かったが、晴天で気温が上がり、最高気温はこの四日間と同様15℃を越え、春らしさが増した感じである。昼食を兼ねた散歩では、試しに荒川河川敷のコースを歩いて見ると、野鳥や昆虫では見ものは無かった。荒川堤の桜も、開花にはまだ大分日がかかりそうである。

 「愛妻記」に伴って、昭和61年の日記と写真を紐解いているところであり、仲間と北海道旅行をした時に入っている。家の建て替えで何かと忙しい時期でありながら、8泊9日も家を空け、今思うに、妻に大変申し訳ない事をしたと、悔んでいる。

 北海道旅行は家族でも是非とも行きたいとの思いがあって、言わば「下見旅行」との言い訳を通そうとしていたのかもしれない。経済的にも厳しい時であり、控えるのが当然だった。それでも3年後に家族で北海道旅行を果たし、面目躍如となった。

 家族での北海道旅行は、長男が14歳、次男が11歳になった時で、若鳥が巣立ちを始める年齢に差し掛かった時でもあり、どこまでも充実した旅行となった。特に、知床半島にあるカムイワッカの湯の滝登りは、家族でできる最大限の冒険となり、急峻な登り口では、子供達が先行していて、母が登って来るのを心配そうに覗きこんでいる姿が浮かび上がり、正に「巣立ちの時」を告げていた。

 「結果良ければすべてよし」のことわり通り、仲間との北海道旅行が正統化された時でもある。人付き合いの大切さは感ずるものの、妻を失った今、人付き合いを閉ざして、二人だけの時間を作りあげればよかったと、後悔せざるを得ない。

 

14日(木) 1/13

 

 一日晴天だったが、北西の冷たい風が流れ込んで気温が上がらず、体感的には冬に戻った様な寒さだった。それでも、風の影響を受けない、日当たりのいい室内にいると、大変過ごしやすかった。

 「愛妻記」の次章(第14章)が何とか出来上がった。昭和61年の家の建て替えをした年で、経過を写真と共に加えて行くと、半年で目安の100ページを越えてしまった。昭和61年の7月以降は15章に回し、分冊する事にした。

 いずれにしても、私は日記と共に写真を多く撮ってきて、今にしてみると、莫大な財産を残してきた気分である。財産の中には妻の魅力を映し出すものが多くあり、何度も何度も惚れ直している。惚れ直している時は、妻を失った事を忘れる事が出来、「愛妻記」を綴っている間は、生き甲斐を持っていらそうである。

 

15日(金) 1/15

 

 昨日に引き続いて朝は冷え込み、熊谷の最低気温は1℃と、寒々としていた。一日よく晴れて気温が上がって、最高気温は15℃となり、昼の散歩では大分暖かく感じられた。

 桜の開花情報が毎日聞かれるようになり、熊谷荒川堤の桜は都心などに比べると1週間前後遅咲きで、通常だと3月下旬から4月上旬である。妻を失って、花見気分にはなれないのだが、昼の散歩で荒川堤に立ち寄るコースもあり、たまには様子を見に行って見ようかと考えている。桜の名所は各地にあり、熊谷が特別とは言えないが、見応えがあると感じている。

 「愛妻記」15章をアップロードしようと思ったら、HTMに変換したら見出しページにエラーが出てしまった。ワード上で行間隔の設定があるのだが、行間が詰まって文字が重なってしまう症状が出てきた。前にも同じような症状が出て、ワードを新しく立ち上げて作り替え、何とか改善する事が出来た。今回もすっかり同じ状態で、設定の問題があるのかもしれないが、一部分だけなので、全体設定とは異なるようである。

 仕方が無いので、パワーポイントで横罫文章も画像化し、何とか15章も作りあげる事が出来た。今日はアップロードを控え、明日再度確認してから、第15章を公開しようと思っている。

 

16日(土) /4/14

 

 午前中は北西の風が吹いて寒気が流れ込み、気温以上に寒く感じられた。最高気温は15℃を切ったが、日射しの温もりが感じられ、寒いと言う感じは無かった。

 昼の散歩を兼ねた食事では、パンが食べられる喫茶店に行くと、私が座ったすぐ前に、母子が昼食をとっていた。男の子は5〜6歳くらいと思われ、大変大人しく、サンドイッチを黙々と食べていた。お母さんの方も黙々と食事をとり、時々スマホに目をやっていた。お母さんはキャリアウーマンらしい雰囲気があり、男の子は一人でいる時間が長そうに見えた。

 子供はお喋りを楽しみにしている様に見え、せっかくの休日に、お母さんはほとんど言葉を発しないでいた。母親が投げ返る言葉に、子供はどれだけ喜びが感じられるか考えると、出くわした母と子の会話が乏しい事に憂いを持たざるを得なかった。

 時代が違うと言われればそれまでであるが、亡くなった妻は共働きを望まず、甲斐甲斐しく子供の面倒をみる事を本分としていた。妻を思うと、今日見かけた男の子に話しかけてやりたかったと、つくづく思った。余計なおせっかいと評するのが現代であり、見て見ぬふりをするのが時代の潮流である。

 日本は少子化となって衰退の一途をたどっている。時代の最先端を行っていた大手企業の多くが破綻し、悪行によって持ち堪えている企業も少なくない。現状を打開するには、未来を背負う子供達をどれだけのびのびと育てられるかが、大きな鍵を握っている。

 

17日(日) 晴・曇1/13

 

 今朝は冷え込んで、熊谷の最低気温は1℃と、真冬並みの冷え込みだった。日中晴れていたが、気温が上がり切らず、13℃止まりだった。もう15℃を切る事はあるまいと、楽観的に考えていたが、何度も誤算の憂き目にあっている。老齢化した肉体は寒さに弱く、体調を維持していくのが難しい。

 先週、地元のデパートの展示室で、絵画展をやっていた。受付をしていた男性と話があって、絵画論をぶってしまった。私はもともと油彩より水彩を好みで、受付をしていた方の絵画を、本人のものとは知らず、高い評価をし、喜ばれた。

 写真をネットで情報発信をするのが私の仕事で、絵画もネット発信出きないものか、試してみた。写真はワードで発信してきて、満足できるものを作りあげてきた。絵画のサイズでも、ワードの大きさ設定で何とかなる事が分かり、試しに写真を絵画サイズにして、パワーポイントで額縁風にあしらってみると、けっこういい感じになった。

 写真を公開するにも、展示場を借りるしかなかったが、今は写真のデジタル化によって、ネットで公開しやすくなり、多くの人が自慢の写真を公開している。絵画も同様にすれば、閲覧する人が多くなり、押入れに押し込んでおくより遥かに意味がある。機会があれば、ネット利用について教授してあげればと、思うようになった。

 

18日(月) /3/15

 

 午前中は北西の風が吹いて大分寒く感じられたが、午後には風が緩んで暖かくなり、熊谷の最高気温は15℃となった。今月の中ごろから暖かい傾向にあり、朝は冷え込んでも日中は15℃前後まで気温が上がる。季節の変わり目は、老体には顕著に表れ、眠りの深さが日々違ってくる。夜中に目が覚めて眠れなくなったり、眠気が時間を選ばずに襲ってきたりで、一日平常とはいかなくなっている。

 誕生日がくると70歳となり、免教更新には運転講習が必要となり、講習の予約をしてみると、免教更新の手続きと合わせ、一日縛られるようである。高齢者ドライバー事故多発によるもので、50年間無事故できた者からすると、とんだとばっちりである。免許の更新自体止めてしまおうかとも思ったが、妻の月命日の墓参を考えると、車の無い生活は考えづらいところである。

 警察の交通取り締まりに不満を感じており、交通法規に対しても疑念を感じていて、講習会において苦言を呈して見ようとも考えている。そもそも警察自体、無用の長物となっており、特に、市民を守るとの本分を全うしているとは言えない。行政総体に言える事で、市民生活を守るには、市民間で自警組織を作る必要がある。行政そのものを解体するとの考えで、日本が沈没する前に、自立社会を作りあげる必要がある。

 

19日(火) 曇・晴6/18

 

 午前中は雲が多かったが、午後からは良く晴れて気温が上がり、熊谷の最高気温は18℃と、春らしい陽気になった。暖かさが定着してきた感があるが、週間予報だと、まだ寒くなる日がやってきそうである。季節の変わり目は、体調に大きく影響し、出来るだけ同じ様な生活を続けようとしているが、変調をきたす日が多い。体力を消耗し、疲れやすかったり、眠くなったり、やるべき事が滞りがちでる。

 毎日散歩で立ち寄る、熊谷の名所「星渓園」と呼ばれる庭園がある。大きな池があって、周りを樹木が覆い、野鳥が多くやって来る。何日か前には、カワセミが池に張り出した枝に止まっていた。熊谷では荒川沿いで見られ、写真を何度も撮っている。しかし、「星渓園」で確認をしたのは今回が初めてで、出会って以降も同じ場所を訪れているが、確認できていない。

 カワセミは渓流の鳥と知られているが、昨今は町中に近い場所でも確認できている。松本城でもお堀端で見かけ、写真をとった事がある。決して珍しい鳥とは言えないが、青色と橙色が混ざった姿は宝石の輝きが感じられ、写真を撮ってみたい野鳥である。

 

20日(水) 6/22

 

 今日は朝から気温が高く、日中も良く晴れて気温が上がり、熊谷の最高気温は22℃となった。比較的薄着で散歩に出たものの、帰りには汗ばんできた。汗をかいたら着替えるが鉄則で、風邪をひかないための対策である。薄着のつもりでも、中には半袖姿の若者もおり、どうしても自分の衰えを実感してしまう。

 昭和61年に撮影した、那須ハイランド(遊園地)へ行った時の写真が残っている。那須ハイランドは次男が2歳の頃から行っており、61年は4回目となる。埼玉県民の日が11月14日で学校が休みとなり、県民の日に合わせて行くのが恒例となっていた。

 年齢制限の遊具を含め、子供達にはちょっとした冒険となる遊具が数多くあり、平日なので空いており、子供達は思い存分遊ぶ事が出来た。遊具の中に空を飛ぶような感覚となるものがあり、家族4人、別々の機体に乗った事がある。私は先頭で、妻と子供達(別々に乗っている)を撮影し、3人の表情が窺える写真を撮っていた。

 子供達は過去にも乗車した経験があり、余裕を持って乗っていたが、次男がママを心配そうに振り返って見ている写真が出てきた。スキーでリフトに乗っている時も同様な写真があり、子供なりに気遣いをしていたのである。残念ながら、社会人になってからは、してもらうという意識が強く、母親に対する気遣いは完全に消滅していた。

 

21日(木) 曇・晴10/23

 

 昨日が春の陽気となって、今朝は気温がそれほど下がらず、熊谷の最低気温は10℃と、寒さが完全に消滅した感じである。日中も気温が上がって、最高気温は23℃と、初夏に近い陽気となった。昼の散歩では春らしさを意識した服装だったが、それでも汗ばんできた。

 春の陽気の所為か、眠りに異変が生じ、中々眠れなかったり、夜中に目が覚めて、寝付けなくなったりで、一日中睡魔に襲われている感じである。今のところ何とか体調を維持しているが、体調不良から免れる自信は無い。一人暮らしの生活では、いざと言う時に頼れるものが無く、どんな事になってしまうのだろうと不安である。

 自ずから体調には気を使い、適度な運動を欠かさないようにしているが、眠りのリズムが壊れている事を考えると、不安となる。眠りさえ規則性を持てればそれほど心配する必要が無い気がするが、色々と試みても解決せず、気になるところである。

 昨日の日記で記した、昭和61年、家の建て替えをしている時の事であるが、私は付き合いが多く、休日でも家を空ける事が頻繁にあり、工事の事は妻に任せっきりになる事が多く、妻に大きな負担を負わせた事は確かである。そんな中で、家族全員で海水浴に行っている。海水浴の写真では、妻は元気そのもので、いかにも楽しそうに振舞っており、息抜きができていたと感じられ、今更ながらホッとする。

 妻はか弱そうに見えるが、けっこう度胸があり、どんな状況にあっても対等に話が出来、引きこもってしまう事は全く無かった。母に対しても控えめがちに振舞っていたが、母の理不尽に対しては、言うべき事は言って、一歩も引きさがらなかった。母は、嫁の口応えは絶対に許せない性分で、私は常に妻の側に立っていたので、母は後戻りできなくなり、断絶が生じてしまった。

 それは、人それぞれが持って生まれた気性に律せられたもので、人生を踏み外す事を抑止する事が出来ないのである。

 

22日(金) 7/21

 

 昨日に引き続いて気温が上がり、熊谷の最高気温は20℃を越えた。北西の風がやや強めで、寒さが紛れ込んだ陽気で、それでも、陽だまりに入ると、薄着でも汗をかかされた。夕方のジョギングでも寒さが緩んで走りやすくなり、風が強くても苦にならなかった。

 「愛妻記」は第16章を取り組んでいるところだが、家の建て替えで多忙の時に、夏休み恒例となった海水浴の写真を掲載しているところである。本来、私が中心に工事に係わっていくべきところだったが、私は付き合いが多く、休日は次から次へと予定が入り、家の事は妻に任せきりだった。そんな中で、家の工事の事は義母にお願いして、家族4人で海水浴に出かけている。

 熊谷から見ると、時間的に一番近い海水浴場は大洗であり、毎年のように行っていた。大洗に宿をとっても実際に海水浴をするのは、隣接した阿字ヶ浦で、海岸状況の危険度が少なく、波乗りを楽しめた。子供たちだけでなく、妻も一緒になって楽しんでおり、家族全員が満面の笑みを湛えていた。

 妻に大きな負担をかけさせてきて、心苦しかったのだが、妻の笑みを見て、私の心は幾らか安らいだ。結婚生活42年の大半が、妻の支えによって成り立っており、私にとって無くてはならない存在だったのである。妻を失った今、妻の供養で安らぎを求めようとするが、妻がいないという現実が、常に不足を感じさせ、安らぐ事が無い。

 

23日(土) 4/10

 

 昨日と打って変って、今日の天気は冬を思わす陽気となった。午前中は北よりの風が冷たく、散歩では陽だまりを選んで歩くようだった。日中も10℃止まりで、昨日と10℃以上気温が下がり、過ごし辛い一日だった。寝具も春を意識したものに替えたばかりで、今夜はどうしようか悩むようである。

 妻を失って、当初極端に寝つきが悪くなり、昔、寝酒として愛飲したブランデーを飲むようになり、いつも効果があるわけではないが、1年半続いている。寝酒効果がある事がほとんどだが、季節の変わり目などでは快眠ができなくなり、気だるい一日を過ごす事が何度もあった。大変辛い事もあり、体調管理が難しい。

 特に創作が難しくなり、何も成し得ないまま、時間がどんどん過ぎて行ってしまい、辛くなって来る。書く事によって妻との距離を縮めており、遠ざかると思うと、生きていくこと自体嫌になってくる。最近は、パソコンの背景を妻の写真に替えたら、立ち上げる度に生き生きとした妻と出会う感じで、気分的に大分救われている。

 「愛妻記」の各章の表紙写真は妻の魅力を伝えるものを選んでおり、背景写真と連動させる事も出来、妻が一層身近になって、張り合いが出てきた。

 

24日(日) 晴・曇-1/13

 

 今朝は放射冷却現象の所為か、気温が下がって、久々に氷点下となった。掛ける布団を春向きにしていた所為で、明け方は大分寒く感じられた。午前中は風があって暖かさは感じられなかったが、午後からは風が弱まって、日射しがたっぷりだったので暖かく感じられた。

 「愛妻記」に伴って、パソコン作業に力が入り、表現方法を、色々工夫をしている。パワーポイント利用で縦罫文章を画像化し、ワードで文章と画像を一体化が可能になった。画像が大量に残っているので、写真にものを言わせ、縦罫文章は多用するまでには至っていないが、日記から引用した文章も画像の意味合いを深め、自己満足の出来るファイルができ上がっている。

 写真がもの言うと、実感される写真も多く残っていて、1年分のファイルで100ページを越えている。年によっては半年で区切る事もあり、章数がどんどん増えそうである。第1章から15章までは12年分の記録で、残りは30年以上あり、最低でも残り30章は作りあげるようだ。単純計算で、50章、5000ページにはなると思われる。

 妻を愛する思いを語り尽くすには、少々不足であり、「時の旅人」を加えると、最低でも8000ページは越えると見込んでいる。

 

25日(月) 晴・曇1/15

 

 今朝は氷点下は免れたが、最低気温は1℃と、真冬に近い冷え込みだった。春の兆しが何度も感じられたが、同じ回数寒の戻りがあり、老体だと体調を維持していくのが難しい。この冬は何とか風邪をひかずにすんで、冬を乗り越えられそうである。

 「愛妻記」の第16章が本日完成し、アップロードした。舞台となった昭和61年は、家の建て替えで、家族が大変な思いをした時であり、疲れ顔が抜けない生活を、妻が孤軍奮闘、常に癒しを与えてくれた。どう考えても、妻抜きでは成しえない大事業で、生活が落ち着いて出かけた、那須への家族旅行で、妻が見せた笑顔と、子供達の成長ぶりに、私は生きる息吹を蘇らせたことは確かである。

 我が人生にとって、妻は生きる原動力であり、どんな困難な状況でも切り抜ける事が出来た。妻を守るのを使命として生きてきたが、全うできず、妻を抗癌剤治療で六日で死なせてしまった。その時点で生きる目的は失せてしまい、生きた屍となり下がったが、「愛妻記」を作りあげる事に生きる意味合いを見出し、妻を心に何度も蘇らせて、会話をして楽しんでいる。

 

26日(火) 曇・晴6/17

 

 朝の冷え込みが真冬並みの日が二日続いたが、今朝はやっと脱却して、熊谷の最低気温は6℃と、凌ぎやすい朝となった。日中も気温が上がって、熊谷の最高気温は17℃と、大分暖かかった。

 熊谷荒川堤の桜は、北西の冷たい風が吹き抜ける所為か、まだ開花しておらず、河川敷の早咲きの桜もまだであり、今後の天気にも影響されるだろうが、今迄の経験からすると、開花は月末になるかもしれない。

 「愛妻記」では、当初家族旅行のみ掲載するつもリだったのだが、組合の役員をしている時、一番苦難を背負っている時期に、私にとっては最高の仲間と結集する事が出来た。私が思い描いた通りに合理化対策を決着する事が出来、自分の能力を存分に破棄する事ができた。私個人の問題では無いのだが、未知数の問題が山積している時で、個人の発案が大きな意味を持った。それは、仲間の後押しがあったからこそできた事で、その時の仲間とは、私的に深いつながりが出来、役員を降りた後も深い交友が続いた。

 我が家に仲間を呼んで、麻雀をやり、妻の手料理で接待をした。仲間とは年1回を目安に旅行し、私にとっては家族旅行の下見とし、家族でも同じ地域を旅してきている。妻には言い訳がましく聞こえたかも知れないが、結果的に、ほとんど連れて行っている。

 「愛妻記」では、仲間との旅行を掲載する事で、仲間の存在と家族の存在を重複させる事によって、旅行の価値を高めようと考えている。

 

27日(水) 7/21

 

 朝の気温が高く、日中も気温が上がって、熊谷の最高気温は20℃を越え、春爛漫の陽気だった。荒川堤の桜は昨日の時点ではほとんど開花が確認できなかったが、今日の陽気でけっこう開花したかもしれない。朝の気温が高くなってくると大分楽になり、取りあえず冬は完全に乗り切った気分である。

 個人差はあるのだろうが、70歳を間近に迎えた老体にとっては、その日その日の事を覚えておくのが難しくなって、最近では一日おきのジョギングですら、前日走ったかどうか思い出せない。何でも記録するようにして、何をやるにしても記録を見てから始めるようにしている。

 「愛妻記」の進みが一時極端に遅くなって、どうなる事と思っていたが、この頃は比較的集中力が維持されて大分早くなった。写真の量も増えて、昔を振り返るのが楽しくなっている。特に、子供たちの生き生きした姿と、妻の慈愛に満ちた笑顔が、改めて私の心を惹きつけてやまない。次にどんな写真が出てくるか楽しみとなり、促進効果を果たしている。

 「愛妻記」に集中できると、仏壇に並べて飾ってある、妻の写真との会話も増して、妻の生きているころに戻った気分のなれる。それは、現実に戻った時の辛さを増すものであるが、会話をする事によって、生きている事を実感できる。

 

28日(木) 晴・曇6/17

 

 昨日ほどではなかったが、日中気温が上がり、熊谷の最高気温は17℃と、寒さを感じずに済んだ。この四日間、最高気温は何とか15℃以上の日が続いているが、まだ15℃以下の、春らしさには程遠い日もまだ出てきそうである。

 熊谷荒川堤の桜を、ジョギングのついでに観察してきたが、一部には1分咲きの木もあったが、大半は蕾みの状態で、開花していない方が多かった。河川敷の川岸近くに早咲きのソメイヨシノがあり、今日の時点でも5分咲き近くまで進んでいた。

 妻が亡くなる前は、荒川堤の桜開花情報をネットにアップロードしていたが、今はどうしてもその気になれず、撮影にも行っていない。今年もその気になれなかったが、アップロードするかは別にして、記録を残しておく意味合いがあるような気になっている。昼の散歩を兼ねて荒川堤を歩くようにすれば、簡単にできる事で、検討中である。

 身の回りの事を記録するのは、後になって大きな価値が出てくる事がほとんどだった。妻が無くなった今、これからの事を記録して意味があるか考えると、どうしても価値が感じられない。妻へのこだわりが抜けきらず、どこかへ出かける気にすらならない。妻が全てだったとの証なのかもしれない。

 

29日(金) /5/11

 

 晴れ間が覗く時間帯もあったが、雲が広がりやすく、気温が上がらず、熊谷の最高気温は10℃をやっと越えた程度で、寒さを感じる一日となった。いつまでたっても春本番とはならないようである。

 昼食を兼ねた散歩では、帰りがけに市内のデパートへ出向き、小規模な展示室の見学をしてきた。写真展をやっていて、生活感のある、中々面白い写真が揃い、見応えがあった。受付の方と話をし、ネット利用を勧めてみて、家に戻ってから、自分のやっているホームページの一部をノートパソコンを持参して見てもらった。

 高齢者の方がほとんどで、ネット利用は意識に乏しく、自分たちでやることに、現実感が持てないようだった。ネットで検索してみても、写真や絵画のグループで乗り出すのはごく僅かのようで、私の年代でホームページを持って本格的に写真を公開しているのはそれほど多く無い。

 昆虫関係ではホームページが大分増えてきたが、他は企業や行政の宣伝関係がほとんどで、ネットの本流となってもおかしくない写真関係が、意外と遅れをとっている。

「愛先記」を見直してみたら、各章によって表記の仕方が異なっていたので、修正をした。確認してきたつもりでも、けっこうちぐはぐになっており、時間が多くかかっているのが要因と思われる。

 

30日(土) /5/11

 

 ときどき日射しが出たか、一日曇りがベースで、温度も含め、昨日とすっかり同じような天気となった。この時期になると、最高気温が10℃近いと、風が冷たく感じられる。熊谷荒川堤の桜は開花があまり進まず、それでも花見客が多く出ていた。

 「愛妻記」を進めようと思ったが、昨日に引き続いて表記の違いがあるか確認すると、改めて不一致が幾つか出てきて、全て修正して、再度アップロードした。他の取り組みでも一貫性が崩れている事が多々あり、せっかちの性分の成せる業である。

 ほんの僅かな事なのだが、修正するとずいぶん見た目が違ってきて、時間がかかったものの、少しも惜しくないと実感した。新たなスタートラインに立った気分で、「愛妻記」に意欲が湧いてきた。

 

31日(日) 曇・晴6/17

 

 午前中は曇りがちで小雨がぱらつく事もあったが、昼前から日射しが出て気温が上がり、熊谷の最高気温は17℃と、春らしい陽気になった。薄手のジャンパーを着て出かけ、初めは少々寒かったが、午後はちょうどよく、汗をかく事もなかった。

 自惚れているのかもしれないが、HTMファイルの作成に、自分なりの工夫を凝らして、自己満足の出来るファイルを作成できるようになった。一つの技術を習得したと自惚れて、何とか後進に伝えていきたいと思って模索してきたが、そこまでを求めるグループを見つけるのは難しそうである。

 妻を失ってから、何もかも思うように進まず、限りなく孤立してしまったと実感する。自分は孤立した世界に生きるしか術が無いのかもしれない。ごく普通であるべきネット利用は、ごく限られた世界となり、物売りサイトが中心となっている。現状では独自のサイトを磨き上げて行くしか無いようである。