『三文文士映像日記』日記帳bT5 2017年9月

 

1日(金) 晴夕曇一時雨18.6/29.4

 

 9月初日は、昨日の天気予報に反し、午前中は良く晴れて気温が上がり、最高気温は30℃に届かなかったものの、暑さを感じた。今朝は冷え込んで、最低気温は18℃台となり、晴れた割には気温が上がりきらなかった要因と思われる。午後からは涼やかな風が流れ込んで気温が下がり、夕方には大分涼しくなって、ジョギングでは長袖シャツを羽織る様だった。台風と、秋雨前線が影響しあい、前線の涼気が関東地方にも流れ込んできていると思われる。

 今日も女房殿の見舞いに行ってきたが、主治医から、近々に病状の経過について話があると言われたそうである。病気の原因が分かったとのことで、どんな話が聞けるか、非常に気になるところである。息子たちにも連絡を取り、主治医の話を聞きに来るか打診した。平日なので、無理をしなくともいいと付け足したが、息子たちも少なからず気になるようで、都合を付けてやってきそうである。

 

2日(土) /16.0/25.7

 

 昨夜の天気予報以上に晴天時間が長く、昼前後は快晴だった。太平洋を北上する台風は、当初の予想より東寄りのコースを取ったようで、熊谷では全く影響が感じられなかった。むしろ、秋雨前線の影響があったのか、台風に向かって涼風が流れ込んだようで、朝のうちは寒いくらいで、日中は日射しが強くて暑さを感じたものの、夕方には再び涼やかになり、秋が一気に押し寄せてきた感じである。明日は逆で、太平洋からの熱気が関東にも流れ込んでくる予想で、夏らしさが戻るかもしれない。

 女房殿に毎日面会に行っているが、大部屋の手前、長居がしづらくて、何分もしないで帰ってくるようである。一人暮らしが慣れてきたものの、女房殿を傍に感じながらの生活が恋しくなり、一刻も早い退院を願うものである。今度の月曜日に、主治医から話があるとのことで、どんな言葉が出てくるか、気になるところである。我輩の見立てでは、「誤嚥性肺炎」に間違いないと思っており、癌は関係ないはずである。何を言い出すか、気になるものの、開き直っている。

 

3日(日) /16.3/30.4

 

 朝のうちは大分涼しかったが、日中は日射しが強く、気温が上がって、熊谷の最高気温は30℃を越えた。空気は乾燥して風があり、日陰に入れば途端に涼やかになった。一日の温度差が大きく、今日は14℃の開きがあり、体調を維持するのが難しく、風邪をひきそうな感覚になることが何度かあった。

 「荒川昆虫記」花バチの更新作業を、既に半年近く手掛けているが、家庭の事情などもあって遅々と進まず、大きな区切りをつけたいと、今は少々焦っているところである。ハチの世界は、念入りに調べれば調べる程奥深く入り込んでしまい、底なし沼に足を踏み入れ、体がどっぷりと浸かっている様な感覚になる。自力で抜け出すには、諦めが肝心で、分相応の仕事をすればいいと言うことになる。ぬかるみから少し離れると、不思議と見えなかったものが見えてきて、けっこう面白いものができることがある。今がそんな感じで、とりあえず中座で席を立つような結果になりそうだが、上々なものができそうである。

 

4日(月) /19.2/24.5

 

 今日は晴天傾向にあったが、午前中を中心に大分涼やかで、熊谷の最高気温は25℃を下回った。暑さと引き換えに乾いた空気が流れ込んできたようで、唇が乾いたり、喉の渇きを何度も感じた。

 今日は、女房殿の病気で、主治医の話があり、癌の治療で、抗がん剤を使用するとのこと。今日は息子たち二人も同席し、長男は、主治医の話を盛んにメモしていた。抗がん剤は3週間ごとに6回続けるとのことで、通院も可能と言うことだが、自宅療養だと、何かあった時に救急処置が取れないとのことで、入院を続けた方がいいとのニュアンスだった。女房殿は、先生に言うことを鵜呑みにして、すっかり納得していたようだったが、我輩にはどうしてもしっくりこないと言うのが本音である。予定通り6回抗がん剤治療をするとなると、4カ月以上の入院と言うことになる。経済的な問題よりも、精神的な問題を感じ、女房殿は、我輩の負担を考えているようで、入院に少しも抵抗感が無かった。経済的には、女房殿の年金の範囲で入院費は賄える勘定になるので、少しも問題が無い。我輩の判断は、今も付かないところである。

 

5日(火) 20.2/29.1

 

 今朝は涼しかったが、一日日射しがたっぷりで、昼ごろには暑く感じられた。午前中は空気が乾燥している感じだったが、午後は幾らか湿度が高まってきたらしく、夜になっても暑苦しさが残った。

 女房殿を見舞うと、手術後三日目当たりの元気が失せ、腹部の一部が痛そうだった。できるだけ歩くようにしてきたようだが、今日あたりは、ほとんど歩かなかったとのこと。入院が長期戦になりそうで、本人も可哀そうだが、我輩自身、何とも辛いところである。

 「荒川昆虫記」のハチ目・花バチの更新作業を続けているが、ハキリバチで大分時間がかかってしまい、遅々として進まない状況になった。花バチ全部を更新するとなると、先が全く見えなくなり、更新が進まないまでも、体裁だけでも早めにできないか試みると、古い表紙の写真をそのまま使って、大きさをやや大きめにしたら、かなり体裁が良くなった。特に追加したいものだけを加える程度だと、全面更新に10分の1も時間がかからない。今日は、花バチだけは何とか体裁を繕うことができ、アップロードした。他のハチの表紙も若干手を加えれば、花バチ同様、近々に見た目だけはグレードアップできるのではと、少々楽観的なっている。

 

6日(水) 21.1/22.7

 

 午後は、僅かな時間だったが、霧雨が降り、一日どんよりと曇っていた。気温が上がらず、熊谷の最高気温は22℃台で、本格的な秋を迎えたようだった。2000年だったか、猛暑日・最高気温が35℃以上が話題になった時で、熊谷は日本一暑い町と知れ渡った年で、9月になっても猛暑日が続いていた。その時のことを考えると、今年は早々と涼しくなって、関東では明らかに気象が替わってきている。地球温暖化により、地球全体が気温が上がり、このままいったら地球規模で大きな災害が起きるとされている。地球温暖化は、ただ単に温度が高めと言うだけでなく、気象変動が激しいと考えた方がいい。ちっぽけな日本では、大気の流れや、海流の流れが、決まったコースを取ることがほとんどなくなり、一方で熱波に見舞われたかと思うと、一方で寒波に見舞われ、農作物や魚類の収穫に大きな影響が出て、風水害と合わせ、危機的な町が少なからず出てきている。日本でも安定した収穫が得られなくなり、年がら年中、物価が高くなったり、値下がりしたりしている。先進などと、人類は偉そうなことを言っているが、何の役に立たないものが高度化し、生活に直結しているものは、未だにお天気次第である。

 

7日(木) /20.3/25.1

 

 昨日と同様、一日日射しが無く、午後は小雨がパラついていた。それでも熊谷の最高気温は25℃を越え、むしむし感が強かった。秋の長雨シーズンに入ったとみていいのだろうか、今夜の天気予報では、明日は日射しが戻るとの予想で、気温も高め傾向とのこと。昨日の日記で書いたが、熊谷の高温が話題となり、猛暑日の名が出回った頃、9月に入っても何度か猛暑日となり、正に、地球温暖化の象徴だった。昨今はそこまで猛暑が続くことは無くなり、むしろ、冷夏と称される年もあった。異常気象だけは変りなく、確実に地球全体が、地球温暖化に脅かされている。

 今日は、女房殿の治療と言うことで、一日、病室から治療室に移っていた。面会に行くと、女房殿は苦しげで、自分で動くのが難しくなっていた。手術は大々的に行ってくれたが、手術後の何日かだけ、よくなった感じがあったが、この1週間、動け無くなる一方だった。今日の治療でよくなるか分からないが、退院の見込みが少しもたっていない。むしろ、保険の利か無い個室へ移ることを勧められ、治療の終わった夕方に、荷物を移した。女房殿と話したことは、抗がん剤使用、3週間ごとに6回の予定が組まれており、最初の3週間で退院する方向で進めることにした。我が家に戻って何ができるか分からないが、自力の回復を期待して、我輩が看護しようと思っている。

 

8日(金) 21.3/31.4

 

 久々の晴天で、熊谷の最高気温は30℃を越え、空気が乾燥していたので、気温の割にはそれほど暑く感じられなかった。溜まりがちだった洗濯物が良く乾き、すっかりかたづいた。秋の乾いた空気が流れ込んだらしく、夜は星空となった。この週末、晴天が続きそうで、行楽日和となりそうだ。

 通常であれば、秋の旅行を計画立てる時季なのだが、女房殿の入院騒ぎで、今年は、今のところ出かける予定は無い。むしろ、女房殿を、入院治療から通院治療へ変更するよう進めており、自宅でのリハビリに専念しようと思っている。女房殿は、我が輩の負担を気にしているが、むしろ、毎日見舞いに行くことを考えると、負担は軽くなると見ている。リハビリが遅れれば遅れる程再生能力が低下して、一つ間違えると廃人同様になってしまう。癌の問題もさることながら、現状を打開することの方が重要で、気長に、元の生活に戻れるよう手助けしようと思っている。最近は一人暮らしが板について、短時間で食事の支度ができるようになった。スーパーやコンビニで、一人暮らし用の食品を多数扱っており、同じものを食べて飽きてしまうと言うことが無い。おかずについては、成功と失敗を繰り返し、偏りがちになるものの、飽きずに食事を楽しんでいる。

 

9日(土) 18.8/30.6

 

 今朝は最低気温が20℃を切って、大分涼しかった。日中は良く晴れて、空気が乾燥しているものの暑く感じられ、日射しがよほど強かったようである。洗濯物も午前中で乾いてしまい、秋の長雨になる前の、貴重な日射しと言うことにならなければいいのだが。

 今朝、起きぬけに玄関を見てみると、息子たちの靴があって、夜中に帰宅したようだった。女房殿の容態が芳しくなく、早くリハビリを行わないと、寝たきりや、廃人になってしまうように思え、昨日、退院、通院で対処したいと、病院側に申し出た。その事を息子たちにも連絡し、逆に、我輩の判断に反対しにやってきたのだった。午前中、そのことで話し合って、我輩の切実な考えを無視することは無かったが、病院で、主治医と退院について話し合うことになり、今は、抗がん剤の影響で体調を崩しているとの話だった。すぐに退院は無理とのことで、2〜3日して、又話し合うことになった。こちらが強硬姿勢を示したので、一定の回答が出たもので、黙っていたら、何の説明もなかったかもしれない。今日はおとなしく引下がってきたが、我輩の気持ちととして、癌との診断は、未だに納得できず、今日は期限付きの話が出たので引下がったが、早期退院を求めていくつもりである。息子たちは、癌の前提で考えているようで、心配して夜中に帰ってくることを考えると、女房殿は幸せ者と言える。

 

10日(日) 20.5/31.9

 

 今朝は朝からよく晴れて、気温が上がり、熊谷の最高気温は31℃台の真夏日となった。そろそろ秋晴れとなってもおかしくないのだが、年によって若干異なるものの、9月も真夏並みの暑さになるのが通常となっている。この1週間、最低気温が20℃前後止まりで、寝苦しさが解消した感があったが、今日は夜になっても中々涼しくならず、夜も真夏に逆戻りしそうである。

 昨日は、女房殿の容体がかなり悪い状況だったが、今日は大分良くなって、昼過ぎに行った時は、顔色が幾らか赤みをまし、30分程の面会した後、夕方6時ごろに再度出向いて行くと、さらに顔色が良くなっていた。そこで言い出されたのが、足のマッサージだった。看護婦さんに言われたそうで、ふくらはぎや足首周辺を、30分程マッサージをすると、「気持ちがいい」と言って、喜んでくれた。これもリハビリの一環と考えれば、マッサージをするのが少しも苦にならなかった。足首周辺がむくんでいたいたのが、今日は大分細くなり、解消していく兆候と見て、ホットさせられる。息子たちも、心利いて、我輩が知らぬ間に、タオルケットを買ってきたり、ティシュペーパーを買ってきたりで、女房殿を喜ばせた。そもそも、息子たちは御母さん子で、我輩が、女房殿をすぐにでも退院させよとすると、猛反発にあい、「何かあったら」との不安を爆発させていた。息子たちの、母を思いやる心がもろにぶつかってきて、目を赤らめざるを得なかった。女坊殿を、家族全員が何よりも大切にし、平凡を旗頭にした姿は、存在感がどこまでも大きく広がっている。

 

11日(月) /22.1/30.6

 

 時々雲が広がることもあったが、一日を通してみると晴天がベースで、熊谷の最高気温は今日も30℃を越えた。9月に入って大分凌ぎやすくなったが、ここにきて夏の暑さが復活、暑さに対する抵抗力が弱っていて、何ともかったるい壱日だった。

 昨日、女房殿の足をマッサージしたら、気持ちがいいと、喜んでくれた。今日もできるだけマッサージをしようと、3回出かけていった。午後一番に訪れると、白血球が減少とのことで、新たな点滴が行われていた。入室には、防塵対策とのことで、帽子から履物まで指定された衣類を着用、マスクをしての面会となった。白血球の問題も、抗癌剤の副作用とされるのか分からないが、こちらで強く要求した退院を、先伸びさせようとする強い的な行為が行われたのではと、疑りたくなる。退院については、2〜3日様子を見てとの約束になっており、明日はどんな話が出るか、気になるところである。

 昨日、今日と女房殿の足をマッサージして、リハビリの必要性をさらに強く感じ、病院側の出方次第では、それなりの覚悟を持って対応しようと考えている。ストレスを持たず、適度な運動をすれば、病気を遠ざけるとの信念を持っている。病院側は、患者にストレスを与えることを本道とし、医療行為を正当化し様としている。いずれ、悪逆非道の医療を撲滅するのが、社会の目標になってくるのではなかろうか。

 

12日(火) 晴・曇22.3/26.6

 

 今日の天気はどう表現したらいいのか、晴れて暑かった気もするが、熊谷の最高気温は26℃台で、それほど高くもなく、だからと言って涼しいという印象もない。気ぜわしいので、天気を感受する能力がそがれていたのかもしれない。

 女房殿の退院は、約束の2〜3日たっても何の音沙汰もなく、ただ、退院は危険だと見せつけられた。女房殿の足のマッサージが目的で、今日も三度出向き、些細な事が気になって、右足首周辺が冷たくなっているのに気付き、足首側から膝側に押し上げるようにマッサージをしていたのを、今日は逆にしてみた。左足は今まで通り暖かく、血の巡りが良いと感じられた。右足も、多少はマッサージ効果があったのか、帰りがけには幾らか暖かくなっていた。女房殿を思うと、些細なことが気になり、我輩もそろそろしびれを切らし、一刻も早く退院できるように強く要求使用と思う。

 「愛妻が儲け医療に殺される」と題して、医療現状を糾弾する文章をしたため、レンタルサーバーにアップロードした。リンクをしていないので、ネット上ではアクセスできないが、いつでも世に訴えられるようにした。女房殿の加減によっていつリンクするか、相手の動き方次第である。いざとなれば、ネットで炎上させようと思っている。明日は主治医に文面と、いつでも動き出せることを告げようと思っている。

 

13日(水) 20.0/32.6

 

 昨夜、女房殿を見舞って、足のマッサージをしている時、右足だけが大分冷たく、看護婦にその旨を伝えると、何でもないかのように応えてきた。我輩は気になって、右足のマッサージを懸命に行い、少しは暖かくなった気がしたが、左足と明らかに違っていた。家に帰って、そのことが気になり、横になっても中々寝付かず、明け方に僅かに寝付いただけのようだった。胸騒ぎがしていたことは確かである。朝になって、長男から電話が入り、「お母さんが死にそう」との連絡が入った。我輩は、昨夜のうちに問題を指摘してありながら、何の処置もせず、死を招いていることを悟った。本来なら、病院側は我輩に連絡すべきところを、恐れて長男に連絡したのだった。急ぎ病院に向かうと、主治医が脈を見ていたが、既に死亡状態で、「時間の問題」と答えてきた。

 結局、最後に何も語れずに、亡骸になってしまった。予期していたとはいえ、あまりにも惨い結末に、泣くに泣けなかった。事前にしたためてあった、「愛妻が儲け医療に殺される」を手渡した。我輩が声を張り上げると、長男は「止めてよ」と制止してきた。妻は元より、長男も癌の名をかたる脅しに抗えず、母親を失った自らの責任も感じているようだった。次男が遅れて駆けつけてきて、亡骸にすがりつき、泣き崩れていた。あまりにも残酷な結末に、自分を抑止できなくなっていたようである。

 自分自身、妻の死による痛手は底知れず、何度も涙が込み上げてきた。あまりにも残酷な事態に、これからどう生きていけばいいのか、何の答えも見つからなった。いつまでも悲しみに暮れているわけにもいかず、亡骸を家に帰す算段となり、我輩は急ぎ家に帰って、受け入れ準備をすことにした。

 準備をしながら、「何故妻は死ななければいけないのだ」と、腹が煮えくり返っていた。母親の介護に疲れきり、父親の介護に疲れきり、どこまでも親孝行だった。父親は、妻をどこまでも信頼し、頼りきっていた。最愛の娘の死を聞いたら、どこまで落胆するものか、計り知れず、ことによると命を縮め兼ねないのではないか。全て、儲け医療の所為である。

 妻が家に戻って、結婚時に妻が持ってきた布団に寝かせた。葬儀屋と葬儀の準備で1時間ほど話し、妻とじっくり対面できるようになった。唇を水でしたし、顔に手を当てて、妻の冷たい肌を感じた。手を当てていれば体が温まって生き返ると、何度も自分に言い聞かせた。妻の顔は、あらゆる痛みと苦痛から解放されて、どこまでも穏やかな顔になっていた。こけていた頬に丸みが出て、棟方志向の描く観音様を見るようだった。唇を水に浸すのと、頬をなぜるのを何度も何度も繰り返したが、息を吹き返すことが無かった。どこまでも愛すべき、観音様の様な女性で、人生の伴侶として、存分に生活を楽しんできた。大きな楽しみを奪われた今、これからどうやって生きていばいいのか、考えても、考えても答えは出なかった。少なくとも、後20年は、妻と、とことん人生を楽しめると思っていた。この代償は必ず払わせる。

 

14日(水) 20.8/32.4

 

 今日は一日よく晴れて気温が上がり、熊谷の最高気温は、昨日に引き続いて30℃を越え、非常に暑い一日だった。9月14日は父の没した日で、その時も今年のように、9月に入っても暑い日が続いていたのを思い出す。葬儀は晴天の暑い中で行われた。妻との結婚前に父は亡くなっていて、ほとんど接点が無かった。別に、大した謂れがあるわけでは無いが、何故か、父の葬儀のことが思い出された。

 今日は葬儀の準備で、檀家になっているご住職を訪ね、葬儀の打ち合わせをした。奇しくも、父が亡くなった時の、葬儀を依頼した方の孫に当たり、時の流れを改めて実感した。葬儀の準備を進める一方で、妻が亡くなった顛末をプリントアウトして、市役所と警察へ、「愛妻が儲け医療に殺された」を持ち込んだ。市役所では受領できないの一点張りで、結局保険所へ持ち込むように言われた。保健所では、係員が既に待機していて、すぐに受け取ってくれた。どの様な扱いがされるか分からないが、手渡せればいいと考えた。

 警察へ持ち込むと、暫く検討して、最終的に受領した。こんなことをして何になるか分からないが、ネット上に状況をアップロードすればいいと、考えた。既に自分のホームページ内に「愛妻が儲け医療に殺された」のリンク口を設けてあり、今後はどれだけ窓口を多くできるか、取り組んでいくつもりである。

 葬式の準備で、礼服を引っ張り出すと、白ワイシャツがクリーニングして、一緒に置いてあった。あたかも、自分の死期を感じていたのか、妻の手回しに、涙と、悔しさが滲み出た。妻は争いごとを好まず、どこまでも寛容な人で、死期が近づいても、病院を恨むそぶりは一切見せなかった。妻のことを思うと涙が溢れ出て、自分の弱さを身にしみて感じた。持ちつ持たれつ、相思相愛が二人の根本で、死ぬ間際に、私が足を揉みほぐすと、気持ちがいいと何度も言った。妻を思えば思う程、息苦しくなり、涙が溢れて途方に暮れた。

 葬儀の準備については、長男が葬儀屋さんと対応し、滞りなく進めていた。次男は、母との、永久の別れの衝撃が大きかったようで、午前中はほとんど動けず、午後になって、葬儀準備に加わった。ちっぽけな家庭であるが、妻へ向かって愛情が滝のように降り注いでいる。

 「我が家のささやかな大冒険」が思い出された。妻は、子供たちが危険な場所に行くと、必ず傍に付き添い、手を添えている写真が何枚もある。北海道旅行をした時、摩周湖の展望台で、私が柵をくぐって前に出ると、妻は叫び声をあげるように、「前に出ないでよ」と言ってきた。66年の生涯は、常に周りのものを気遣い、家族は勿論、親兄弟に対しても、どこまでも気遣っていた。そんな妻の気遣いに、私が常により添えたことが、何よりも誇りである。妻の、観音様の様な姿を思えば思う程、失った痛手の大きさに、これから先の人生が、全く見通せなくなってしまった。

 

15日(金) 20.7/29.0

 

 今朝は早々と目が覚め、起き出してすぐに妻の死に顔を見た。見た目には、今までと変わらない気がしたが、頬に触れてみると、今までの柔らかさがほとんど感じられなくなり、人からマネキンへ移り変わっていくように思え、温もりを与えれば、間違って生き返るとの、微かな望みが立ち切られ、肉体から物質に替わってしまった様に思え、心を痛めた。いつまでも現実感が持てなかった死が、完全に私の心に沁みつき、悲しくて、悔しくて、涙が溢れてきた。同時に、今まで積み重ねてきた全てが、今日で凍結し、これ以上発展的に人生を作りあげるのは難しいと思った。68歳と言う年齢が何を意味するか想像がつかないが、無意味に生きながらえるだけになってしまいそうである。妻は、私がやることに対し、絶大な応援者であったことは確かで、家事の事は、私にはさせないとの姿勢を持っていた。結婚当初から、私が労働組合に係わり、大きな負担を負っていて、帰りが遅くなるのが当たり前の時も、一切愚痴をこぼさずに、帰りを待っていてくれた。

 組合から解放されてからは、休日を中心に、可能な限り家族と過ごし、旅行回数は年間10回下らなかった。「ささやかな我が家の大冒険」と銘打って、北海道から東北と、北から南下する形で旅をしてきた。膨大な枚数のアルバムとなり、宝物を作りあげた。妻にとっても自慢の宝物で、私が作りあげた人生に満足してくれた。子供たちの手が離れると、今度は夫婦で旅をするようになり、中部から近畿方面へ足を向けるようになった。

 2002年からは、インターネットに興味を持って、子供たちに教わりながらホームページを開設した。初めは、妻と散歩しながら撮影した草花が中心で、野鳥、昆虫とジャンルを広げ、旅サイトまで作りあげた。カメラは、ネガからデジタルへ、デジタル一眼レフカメラへと進化し、膨大な枚数の写真サイトが出来上がった。思い存分にできたのは、妻の理解と協力があったからこそで、どこまでも充実した人生を歩んできた。その妻が、いなくなった今、夫婦で蓄積してきた財産がどうなってしまうのか、考えても答えが出なかった。

 充実した人生は、夫婦の幸福の蓄積であり、妻もとことん満足していた。よく出た話が「優雅な生活」であり、「幸せ」だった。その全てが奪われてしまった。もし、私が先に死んだとしても、妻は絶望したと思う。妻を絶望させずに済んだと割り切りたいが、病院生活で、どもまでも苦しめられたことを考えると、「何故守ってやれなかったのだ」との後悔が、涙となって溢れ出る。妻は殺された。それは絶対に許せない。

 

16日(土) 曇18.9/21.8

 

 通夜の日となり、15時半の納棺で、それまでに、滞りなく進むように準備をした。自分が思うように動けない分、息子たちに任せた。横たわる妻の顔を見ると、私の心の荒れを見透かすように、やや怖い顔をしているように感じられた。妻はどこまでも寛容で、私が、相手の思惑を見抜いて批判すると、「そんなことを言わないで」と、不信を抱いていても、どこまでも寛容だった。私の心の荒れを見透かして、妻の顔は、「そんなことを言わないで」と言っていたのかもしれない。妻の寛容さをどこまでも愛する気持ちが、抗癌剤使用を阻止できなかった一因であったことは確かである。

 私は信仰心が有るわけではないが、「こんな素晴らしい女性を、神々は何で見捨てたのだ」と、何度も、何度も言葉が浮かんだ。妻は運命として、死期を悟っていたに違いなく、私が足をマッサージすると、「気持ちがいい」と言って、苦痛顔が幾らか緩んでいた。家の戻る時、妻は軽く手を振って、「ありがとう」と、永久の別れを告げる言葉となった。足を揉んでいる時、右足だけが冷たくなっていて、血行が悪いと感じられ、懸命にマッサージをした。幾らか暖かくなった気がしたが、看護婦に状況を話しても、普段と変わりがないとの言葉が返ってくるだけだった。私には、死期が迫っている様に思え、家に帰っても胸騒ぎがし、一睡もできなかった。

 妻と心が通じていると、自負し、99%理解し合っていると思いたかった。いつまでも、ままごと遊びをする少女の様な愛らしさがあり、少女の心を満たしてやりたく、妻が喜びそうな場所へ可能な限り出かけていた。妻は兎年で、旅行をすると、ウサギの置物など、ウサギグッズを集めるのを楽しみにしていて、兎グッズの棚を作ってあげ、そこには妻の愛らしさを模したような、兎の置物が並んでいる。兎を見ると、妻がよみがえり、涙が止まらなくなった。

 

17日(日) 17.3/19.2

 

 昨夜が通夜となり、ごく内輪で、しめやかに行われた。こちらが選んだ遺影写真は、妻がにこやかに語りかけてきそうな、コスモス畑で撮影したものだった。まだ、ふくよかな頬をしていて、いたずらっぽい眼差しを向けてきた。義母も連れ立っての花見で、私には、どこまでも可愛らしく感じられたが、あくまでも昔話で、棺桶に横たわった妻の顔は、防腐処理でこわばっていて、蝋人形のようだった。通夜が終わって、私一人が残り、8時過ぎから翌朝の8時過ぎまで、仮眠室から何度も安置場所まで通った。長めの線香が、終わらぬうちに行くようにしたが、一度だけ、寝付いてしまったようで、残っていなかった。あくまでも、長時間用の渦巻き型線香がたかれているので、煙は消えることなく、朝を迎えた。行くたびに頬に触れて、少しでも自分に引き付けようとしたが、遠ざかる感触だけだった。7時前には起き出して、喉を潤しながら、何度も安置場所まで通った。諦めの悪い心は、何度でも涙を誘い、まだ誰もいない時なので、声を出して泣くようだった。

 どうしても妻の死を受け入れられず、怒りが湧きでて、裁判員裁判で、裁判員に訴える姿を思い描いていた。医療機関の体質や、行政や警察の姿勢、社会全般に渡る腐敗を糾弾するものだった。腐敗社会を糾弾することは不可能で、正常な公的機関はゼロに等しく、むしろ、悪徳を容認、擁護するのが常ではないのか。医療機関の腐敗は特に激しく、何度も不正が暴かれていながら、全く作新されおらず、叩けばほこりの出る、不良医療機関が山とあるように思えてならなかった。

 昨夜降り出した雨は、台風の影響もあって、強弱を繰り返しながら降り続いた。今の葬儀施設は、雨が降ってもほとんど濡れずに移動でき、涙雨となっていた。火葬場へ入り、いよいよ妻が焼かれてしまうと思うと、どこまでも空しくなった。妻との、ままごと遊びのような人生が蘇り、自分も妻の後を追って、早くあの世に旅立ちたくなった。一刻も早く妻に追いついて、ままごと遊びの続きがしたくなった。刺客に狙われるような、不正を糾弾しなければと、一層意思が固くなった。

 火葬されると、小柄な妻の骨はどこまでも小さく、骨壷の3分の2にもならなかった。会葬者に、「妻の骨は小さくとも、心はどこまでも広かった」と訴えた。心広き、観音様の様な柔和な顔が思い浮かばれた。ご住職が選んだ戒名には、「観」の文字が入っていた。ご住職の説明では、心広いと思い描いたそうで、あまりにも有難い戒名に、深く頭を下げた。

 雨が降りしきる中、家に着いて、妻の証を祭壇に並べ、遺影を見ると、話しかけてくるように思えた。息子たちと祭壇の前に座って、妻の集めた、棺桶に収められなかった、瀬戸物のウサギを並べた。息子たちも、どこまでも優しなって、我が家が作りあげてきた、アットホームな空気が醸し出された。心安らいだのはつかの間で、妻がいない生活に、益々息苦しくなってきた。

 

18日(月) 18.9/33.3

 

 熊谷では台風の影響はほとんどなく、今朝は快晴で始まっていた。妻の遺影が飾られた、祭壇の前に座ると、遺影の眼差しは、人を責める影は少しもなかった。あまりにも慈悲深い顔に、涙が溢れて止まらなくなった。妻の守護神を自任し、片時も妻から離れないようにしてきた。妻も、望んでいて、笑顔を絶やさなかった。

 妻の笑顔が薄れてきたのは、6月に入ってからだっと記憶している。咳込むことは多くなり、日課の散歩に出るのも大変だったようで、歩速は大分遅くなっていた。5月には、義父が介護施設に入所となり、抵抗があるか懸念されたが、気持ちは進んで入所となったと思われる。人づきあいをあまり好まない父だったので、値段が高くても個室に入れてあげようと考えていた。入所時は個室に空きが無く、当座は二人部屋に入ることになった。

 施設側と、父の間で、個室に移す話をしたとかで、父は、そのまま二人部屋にいたいと希望したそうである。父の意識としては、できるだけ安く済ませたいと思っていたようである。今までの苦労が報われ、やっと肩の荷が下りたところだったが、妻の病は進行していた。

 夫婦で旅をすることが、二人の人生に花を添えていたが、妻には旅をする気力は失せていた。咳込みと、腹部の張りが酷くなり、我慢強い妻でも苦しいといい、病院を頼ることを選んだ。町医者に行くと、風邪と診断され、何日かしても症状が悪くなる一方で、再び町医者を頼ったら、総合病院の紹介状を手渡された。

 妻は急ぎ病院へ行きたいとの意思を示したので、車で送った。暫くして電話が入り、緊急入院となり、入院に必要なものを取り揃えて、急ぎ持っていった。

 殺人ゲームの始まりで、「咳込む、腹部が張っている」との病状は全く無視されて、癌患者に仕立て上げられた。こちらで訴えた症状を人質にとり、何でかんで癌手術をするように追い込まれた。現代医療の悪魔性を痛感した。

 退院して、何日かするとテレビで、喉の、空気と飲食物を、肺と食道に振り分ける機能が低下して、肺へ飲食物が流れ込む症状について取り上げられていた。咳込みの対処策として、唐辛子や黒胡椒が良いとされ、早速試してみると、見事に治った。しかし、腹部の張りは、点滴を3日3晩行われた所為で、酷くなる一方で、口には出さなかったが、そうとう苦しかったに違いない。

 何日かして、今度はテレビで誤嚥性肺炎についてやっていた。妻は、誤嚥性肺炎で、本来は肺にたまる水が、重症化して腹部にも溜まってしまったと思われ、MRIの画像が明らかにしていた。

 我慢強く、人を疑ることを嫌い、運命に身を委ねる、どこまでも慈悲深い、観音様の様な妻だった。そんな妻を、何としても守ろうと決意した。

 結局、癌患者として別の病院を頼ることになり、総合病院の癌が発見できなかったデータを元に、あくまでも癌手術として、腹部の張りの原因となった、バケツ一杯もある水を抜きと、肉の様な塊が剥ぎおとされた。こちらで願った、誤嚥性肺炎と思われる症状が快復したと信じ、医師に深く感謝した。

 医師の手術後の話で、ソファポートなる器具を残し、後の治療で使うからそのまま体に残しておくとのことだった。抗癌剤治療ありきで、結局、死亡しても、そのまま取り付けてあった。

 手術後、息絶え絶えの妻だったが、翌日には話せるようになり、三日目には歩けるようになっていた。腹部の張りもすっかりとれて、妻は希望を持ったようである。しかし、1週間ほどすると、あちこちが痛み、苦しげな表情に戻っていた。手術の失敗か、抗癌剤を使用するための演出家、いずれにしても、抗癌剤使用に追い込まれていった。このままだと、生きながらえても廃人になってしまうと感じた。退院を強く求めると、2,3日見守りたいとの答えが有り、それから三日間、一日3度面会に行って、妻の足をマッサージした。帰り際には、軽く手を振って、ありがとうとの言葉に見送られた。それから三日目になっても、退院の話が聞けず、明日には決着を付けるとの決意のもと、この四日間にしてきたのと同様、三回通って、マッサージを懸命に行った。夜六時過ぎの面会では、右足が冷たくなっていて、非常に気になった。懸命にマッサージをしたが、ほとんど改善せず、看護婦に状況を話すと、「問題ないです」と言って取り合ってもらえなかった。

 妻の、手を軽く降っての「ありがとう」に見送られ、帰宅した。その晩は、胸騒ぎがして中々寝付けずに朝を迎えた。電話が入り、出てみると、長男から「お母さんが死んでしまいそう」との連絡だった。急いで駆け付けると、既に息絶え絶えとなっていて、死亡は時間の問題だった。次男もすぐ後に駆けつけ、「ご臨終」が告げられる間際だった。

 妻の死はどうしても受け入れられなかった。怒りが爆発寸前となり、長男に抑えられた。何故私に、病院から直接連絡がなかったのか、怒りが、益々膨れ上がった。

 葬儀が終わって、息子たちは今日帰るはずだったが、帰らずに、夜遅くまで話し合い、妻の死の、不可解な対応について、自分たちの責任と話してきた。前々から、私が怒りに燃えていたことから、病院側からの連絡は息子たちを優先するよう話してあったとのこと。私が。退院を強行しようとした経緯もあったので、息子たちなりに配慮したとのことだった。退院話ならまだしも、死を目前にしている状況では、私に最初に連絡してくるのが筋ではないか。息子たちは、あくまでも、連絡者を擁護した。

 抗癌剤を、妻とともに、息子たちも容認し、あまりにも短い期間で、妻が返らぬ人となったことに少なからず責任を感じていたようで、息子たちなりに、今回の結果に苦しんでいたのが窺えた。妻のDNAを受け継ぎ、特に長男は寛容で、人を疑ったり、恨んだりできなかった。寛容であればある程損をする社会で、次男を含め、家族を大事にする習性があった。悲しみと、苦しみを背負っているのは、自分だけではないと、分かっていたはずなのだが、再認識させられた思いである。妻を、偉大なる平凡と称してエッセイを書いたことがあるが、今また、偉大と認めざるを得なかった。

 

19日(火) /19.5/29.2

 

 昨日に引き続いて、今日も良く晴れ、湿度が低い感じで、日射しが強かった割にはそれほど暑く感じられなかった。体調が少々おかしくなってきたので、今日は無理やり時間を取ってジョギングをしてきた。ジョギングそのもは何の問題を感じなかったのでほっとしたが、家に戻って妻の遺影と対坐すると、腹部に違和感があり、あまりいい症状では無いと、自己診断した。妻の顔は、「怒りなさんな」と言っているようだった。妻は他人を責めたことが一度もなく、諦めのいい人だった。寿命だったと、すっかり割り切っていたようにも見えた。むしろ、痛みから解放されて、ホッとしているのかもしれない。同時に「お父さんも早くいらっしゃいよ」と言っているようにも見え、腹部の違和感がその証のようにも思えた。何分もしないで、違和感はすぐに消えたが、無性に妻の所へ行きたくなった。二人は、「いつも一緒でないと駄目」と言うことかもしれない。妻と、「二人は優雅な生活をしてる」と、いつも満足していた。どこまでも満たされた生活だったことは確かで、贅沢にも、年2回は遠方へ旅をしてきた。膨大な写真を撮ってきて、写真集を作るのが私の勤めで、旅サイトも充実したものができている。妻が体調を崩す前までは、正に順風満帆だった。

 怒りを含んで妻の写真を見ると、必ず、「許してあげなさい」と言っているように感じられた。私には絶対に許せないが、妻の優しさに満足していた。49日までは、妻の供養に専念せざるを得ず、今日も市役所での処理と、石材屋さんとの打ち合わせや、住職との打ち合わせをして、一日過ごした。息子たちは昨日帰る予定だったが、私を心配して、今日も3時過ぎまでいた。おじいさんの見舞いにも行き、妻の優しさを受け継いで、多大な気遣いを見せた。妻が作りあげた楽園に他ならなかった。私だけが流浪しているような状態で、何をやっても集中できず、物忘れが酷かった。ノートを机に置いて、やった事は全てメモ書きをするようにして、忘れ物をしないようにした。今度息子たちがやって来た時には、妻に係わる引き継ぎだけでなく、私に係わる引き継ぎをすることにしている。

 

20日(水) 20.9/24.8

 

 今日は一日日射しが無く、大分涼しい一日だった。朝も低めで、今日一日だけを見ると、そろそろ秋支度を本格的にするようである。夕方のジョギングでも、長袖を着て走るようで、それでも汗はほとんだかかなかった。早9月も下旬となり、一気に秋めいてきても不思議ではない。同時に夏の名残のような暑い日も、まだまだやってくるのではなかろうか。

 妻の死亡に伴う市役所などの対応が一段落し、後は身の回りのものをどうするか考えるようである。遺影と対坐すると、妻はにこやかに話しかけてくるようで、他愛のない言葉がつい出てしまう。同時に涙が溢れ出て、堪えられないほど息苦しくなった。現実をどうしても受け止められず、恨みが増幅して、堪え切れずに、何度も涙するようだった。生前も有難味は分かっているつもりだったが、今にして思うと、限りなく甘えていたことが分かった。妻も甘えていて、心がどこまでも深く結ばれていた。まさに究極の人生を作りあげてきた。失ったものの大きさは、計り知れない。妻の事を忘れる時間を作ろうと、普段通りの生活をできるだけしようと思うが、認知症にでもかかったかのように、感じられ事が頻繁に起きる。片付けても脈絡が無いので、何度も何度も忘れ物を探しているようである。

 

21日(木) 19.0/29.6

 

 昨日と打って変ってよく晴れ、最高気温は30℃に達しなかったものの、暑さが戻ってきた感じである。空気が乾燥している所為か、気温が高くても暑苦しさは感じなかった。

 妻の死に伴う雑多な作業が、今日で一段落した。何をやってもすぐに忘れてしまい、その都度記録を残すようにした。特に意識から消えてしまうのは、日付で、今日は何日の何曜日か全く分からなくなってしまい、日付の付いた時計を見に行くようだった。妻が死んで、私の時間は止まってしまったようで、時間の隙間で行ったり来たりしているようだ。昨日は腹部に違和感が何度も起こったが、今日はそれほど感じなかった。ジョギングの効果か、それとも雑務が多忙で、神経を使わない所為かも知れない。妻の事を忘れる時間を作ることが、健康を維持していく、重要な鍵になりそうである。特に、夜は昆虫サイトの更新作業に打ち込み、妻の顔が消える時間が多くあり、神経を和らげる効果があったのかもしれない。49日までは、やるべきことは全て済ませ、心の叫びとともに、死に物狂いで進んでいこうと思う。遺影の妻の眼差しは、何のけれんみもなく、「何熱くなっているの」と揶揄されているようである。妻は、私の心の中でしっかりと息づいており、幸福な日々が走馬灯のように浮かび、涙が溢れてきた。「こんな幸せな男はいない」と自覚するしかなかった。

 

22日(金) 曇時々雨17.7/24.3

 

 今日は日射しがほとんどなく、最高気温は25℃を切って、涼しい一日となった。妻が亡くなって、そこで時間が止まってしまったかのように、何をやってもほとんど記憶に残らず、気が付いた時に必ずノートしておくようにしている。ホワイトボードにも書いておき、そこで今日は何をしなければいけないかをチェックして、記憶の穴埋めをしている。最も忘れやすいのが、今日は何日で何曜日か、電波時計の日付を見ないと全く分からなくなってしまう。仕方が無いので、文字盤の大きい日付付きの電波時計を2台買ってきた。机には今まで使っていた小さな時計を置いて、居間や食堂には大きな時計を置いている。ゴミ出しの問題があり、時計とホワイトボードを睨めっこをして、ゴミ出しを忘れないように心がけている。

 これらのことは、全て妻任せだったので、そのしわ寄せが、大きくのしかかってきている。妻が、日常生活の達人だったことを認めざるを得ず、自分は如何に生活能力が低かったか痛感する。妻に言われたことだけをしているだけで、自分から積極的にやった事はほんの僅かで、依存症の激しさに、嘆かわしくなる。先日、知人から蕎麦の差し入れがあったが、蕎麦を茹でるなど、全く経験が無かったので、戸惑うばかりだった。妻の四十九日が過ぎるまで、何をすべきか、何ができるか、一定の目安を早急に立てていくつもりである。

 

23日(土) /18.1/24.5

 

 時々薄日が射すこともあったが、曇りが中心で気温が上がらず、昨日に引き続いて、最高気温は25℃を切っり、半袖では寒いくらいで、一日長袖を着ているようだった。一気に秋が深まっていきそうな感じで、本格的な衣替えをするようである。

 妻の四九日が、大きな区切りと考えており、それまでにすべきこと、四九日以降すべきことを振り分けるようである。箪笥や物入れを見ると、妻の遺品が多く目について、そう簡単には処分できないと実感した。残しておいてもどうにもならず、処分すると、思い出も薄まってくる気がしてならない。ここでも時間が止まってしまった感覚になる。

 

24日(日) 18.2/28.5

 

 今日はよく晴れ、気温が28℃台まで上がったものの、空気が乾燥して、暑いと言う感じは無かった。夕方には大分涼しくなって、夏の名残りはなかった。ジョギングでは暑さを感じずに走れ、意識せずにペースが上がっていった。いつもより早目に出たが、帰り道では日が足早に落ちていった。

 妻に遺影を見て、亡くなる前日の面回で、右足が暖かくならないので、懸命にマッサージをしてやった事を思い出す。帰り際に、妻は軽く手を振って「ありがとう」と、どこまでも優しい表情を見せた。結局、最後に交わした会話となり、妻は死期を悟って、別れの挨拶をしてきたのかもしれなかった。胸騒ぎがして、中々寝付けず、明日は警察を同行して妻を退院させるつもりだった。翌朝、長男から「お母さんが死にそう」との電話連絡が入り、急ぎ駆けつけた時は、息を引き取る間際だった。「儲け医療に殺される寸前」であり、主治医に事前に記しておいたプリントを手渡した。

 全て予期していた通りになり、妻を助けられなかった悔しさが溢れた。妻の「ありがとう」を思い出すたびに涙が溢れて止まらなくなる。妻の守護神を任じ、常により添ってきた。それなのに、肝心な時に助けてやれなかったのは、あまりにも辛い。取り返しがきかぬ、現実を思へば思う程、生きる意味合いが見いだせなくなる。自分は強い人間と思いこんできたが、それは、妻が背後にいて成り立つことで、背後霊になってしまった今、自分の力で日々を切り開いていくのは、苦痛でしかない。時間に置いてきぼりを食っていれば、何も考えずに済み、物忘れがひどく、今何をしようとしていたのかも分からなくなってしまう。どんなに踏ん張っても、強さが蘇らず、根底から弱い人間だったと、自覚するしかない。何を語っても、取り返しがつかない事を思い出すと、徒労でしかなことを、身に沁みてくる。妻がどれだけ素晴らしい女性だったことも、身に沁みてくる。生と死の境を乗り越えて、涙とともに、愛情が溢れ出る。

 

25日(月) 晴時々曇20.1/28.7

 

 時々曇ることもあったが、晴天がベースで、熊谷の最高気温は28℃台後半で、日差しを浴びると暑く感じたが、空気が乾燥しているようで、暑苦しさまで無かった。夕方のジョギングでは、半袖姿だったが、寒さは感じずに、楽に走ってこれた。ジョギングが、通常サイクルでできるようになり、一時腹部に違和感が走ったが、幾らか落ち着いたようである。

 否応なしに、しなければならない事が出てきて、今日は一日動き回っているようだった。祭壇の前に立って、遺影に何度も声をかけたが、次の行動が決まっているので、感傷に浸っている暇は無かった。妻の遺留品が山ほどあり、衣類については、ショッピングへ行って、一緒に選んでやったものが大半で、薄らと覚えていた。今現在の事はすぐ忘れてしまい、何でもメモをして、チェックを怠らないようにしている。先日買ってきた、日付付き電波時計は、今の自分には必需品と言う感じで、生活の正常化に役立っている。妻の四九日までに、何とか片付を済ませたいと思っており、四九日以降、どんな気持ちでまい進できるのか、不安とともに、熱情をどれだけ燃え上がらせられるものか、楽しみでもある。

 

26日(火) 18.8/28.9

 

 昨日に引き続いて、比較的いい天気となり、気温も上がって、29℃近くとなった。晴天が四日続いて空気が乾燥し、唇が乾いて、喉の渇きも激しかった。

 妻が入院して、家の中の清掃が行き届かなかった所為で、あちこちがほこりだらけとなっていて、部屋の模様替えを兼ねて、一日動き回っていた。妻の顔が随時浮かんできて、もっと家事のことも手伝ってやればよかったと、反省しきりである。模様替えをしても、妻がいない現実を替えられるわけではないので、遺影を見るたびにこみあげてきた。作業をしている間は、余計な事を考えずに済み、今日一日、比較的気が安らいだ。妻なりに、生活の工夫をしており、片付けると色々なものが出てきて、捨ててしまえばよさそうなものも、妻の懸命さが感じられ、捨てきれなかった。家の作業は時間を忘れさせてくれるが、終わってしまえば元の黙阿弥で、どこまでも苦しい日々である。

 

27日(水) 晴後曇20.3/27.6

 

 午前中は晴れ間が覗く時間が長かったが、午後は曇りが勝って、夕方には大分涼しくなった。今までは夏が戻った様な天気が断続的にあったが、10月がすぐ傍に近づいてきて、これからは今までのような暑さは無く、一気に秋らしくなっていくのではなかろうか。

 時間がどんどん過ぎて、今何をすべきなのか、中々答えが出てこない。時間を忘れられることを見つけては専念し、今日は秋模様に衣替えする作業に勤しんだ。昆虫サイトにも手をかけ、一日があっという間に過ぎてしまった感じである。妻の遺影に対坐すると、つい拉致の無い言葉を発し、返事のない会話を楽しんだ。

 

28日(木) 午前時々晴後曇夕時々雨17.8/26.7℃時々中風

 

 午前中は時々日射しが出たが、曇りが中心で、夕方には小雨がぱらついた。昼過ぎまでは25℃以上を保っていたが、夕刻に近づくにつれ、気温がどんどん下がってきて、夜は大分涼しくなった。今日は、熊谷では天気が荒れるまでに至らなず、無難な一日だったが、太平洋沿岸に近い地域では、かなりの荒れ模様になった様だ。異常気象が普通になってしまった今、個人としてどんな予防策ができるのか考えてみたが、答えは出なかった。

 近頃は、毎日朝一番でノートに予定を書き、予定通りいかなかったことは翌日回しにして、思いついた予定は、無難にこなしている。

 今日も、昨日できなかった予定をこなした。我が家の北側は、ブロックとフェンスが合わさった塀で境界線をしきっている。フェンスの部分は当然風が吹き抜けて、冬場などは北風をもろに受けるので、かなり寒い。今の家を建てて間もなく、大工さんが残った木を置いて行ってくれたので、自力で、建物と塀まで庇を作り、なおかつ、塀の部分に、庇同様、塩ビの波板を張り付け、目隠しをした。なおかつ、フェンス部分には、冬になると塩ビの平らな板を組み込んで、北風よけにした。夏場には外して風通しを良くし、北側に面した食道は、真夏でも北風が流れ込んで、それほど暑くならない。私にもできる、可能な工夫をあちこちにしており、妻に大変喜ばれた。今日は、秋の気配が強まったので、フェンス部分に蓋をして、北風を遮断する態勢ができた。妻が死んでしまった今、喜んでくれる人はいないが、遺影に報告を怠らなかった。

 

29日(金) 13.9/25.7

 

 今日は比較的いい天気となったが、気温が上がりきらず、熊谷の最高気温は25℃台だった。夕方には一段と涼しくなって、秋めいてきた感じである。衣替えを意識して、片付けと兼ねて、夏モードから秋モードへ変更した。日常の衣類の他に、ジョギング用も衣替えするようで、けっこう時間がかかった。むしろ、時間を忘れようとしており、妻の顔が幾らか消えていた。自分の書いた作品を読み返してみると、妻の顔が目の当たりに出てきて、涙が出て止まらなくなった。妻への愛情は、結婚してから延々と続いてきた。なんと素晴らしい女性とともに歩めたことが、私の財産であり、財産を失った今、何をするか考えても、答えは出てこなかった。これから先、妻を殺した人間に挑んでいくつもりであるが、妻が死んでしまったからには、仇打ちと言っても、何の意味も感じられなくなっている。妻の遺影をもって旅をすることも考えたが、面白みを少しも見いだせず、我が人生は八方ふさがりになってしまった。いかに立ち直るかより、いかに時間を忘れるかが、毎日の課題となっている。

 

30日(土) 16.1/25.3

 

 昨日に引き続いてよく晴れ、朝一で干してあった洗濯物が、午前中には乾いていた。妻が亡くなって、洗濯が私の日課となり、今では慣れてきて、無駄なく動けるようになった。

 毎日が、妻の足跡を辿るような生活で、今日は衣類などを整理した。衣類やバックなどは、私も同伴して、妻は選ぶ時に、必ず私の意見を求めてきた。買うことに気兼ねがあり、私の勧めに乗った形で購入するのが通常だった。衣類を片付けながら、ほとんどが見覚えのあるものであり、妻の心が沁みついているように感じられ、一生捨てられないと、強く思った。八つの衣装―ケースに詰め込み、バック類を含め、何とか格好が付いたが、無理やり押し込んだことは確かで、衣装ケースの買い足しの必要を感じた。2階の、普段使っていない部屋を納戸替わりにして、私が死ぬまでとっておこうと思っている。