地獄図総覧 現代の日本は世界でも抜きん出た平和大国とのイメージがある。アフガニスタンやイラクなどの、戦争と隣り合わせの国々と比較して、確かに日本は平和そのものである。常に死の危機が身近に迫っていることを考えると、平和のありがたみを痛感する。一方で、平和とは裏腹で、日本の社会には、地獄と呼ぶに相応しい殺伐とした面が多くある。武器に代わって人間の心の内に蓄積された邪悪が、多くの地獄を作り上げている。ここでは現代日本に起こっている地獄図を、時間をかけて語り綴りたいと思っている。 2003年5月5日
2004年4月の日記より この世の地獄図を書き上げようと、パソコンに向かってみるが、どうしても投入が進まなかった。よくよく考えてみると、今までの我が人生に地獄と言えるものは何も無かったことに気付いた。幸運にも、54年間、大過なく過ごし、好きなようにやってきたので、幸福そのものだった。 そんな我輩が地獄図を書き上げるのは不可能であり、ペンの進まないのも無理からぬと言うもの。安易に書けば、他人の不幸をはやし立てることになり、不謹慎極まりない。だからと言って、「地獄図総覧」を削除するのも忍びない。想像の域を脱しないが、多くの人間と接し、不幸の道筋を歩む心模様を少なからず感じ取ってきた。時代が作り上げる不幸と、人間の持って生まれた性によって招く不幸が、悶々となって、地獄図を作り上げているのを、おぼろげながら理解したつもりである。果たして地獄図として映るか分からないが、心理描写を中心に書き上げてみようと思う。 人間には嫉妬心と虚栄心があり、人間関係がうまくいかない原因となっている。自分より優れた人間を見ると、嫉妬するのが常であり、心のどこかで価値を否定して、相手を蹴落とす算段をしてしまう。嫉妬心を巧くコントロールできれば、憧れへと変わり、相手の力を利用すべく、取り入る算段をする。 多くの人間は、自分を誰よりも良く見せようとする意識があり、自分を良く見せるために、他人の荒を探そうとする。虚栄心が強いと、自分を良く見せるためには手段を選ばず、他人を傷つけてしまうことがある。通常は、理性で虚栄心をコントロールして、人間関係の大きな障害にはならない。いつも同じ気持ちで状況判断ができればいいのだが、人間の特権である感情が、全ての面で大きく作用してくる。 利害関係の度合いも重要な要素であり、利害関係が薄く、対面する時間が短ければ感情の影響は少なくてすむが、親子や夫婦、嫁姑など、毎日顔を突合せ、利害によって大きく結びついた関係にあると、感情を無視することができなくなる。本来は幸福の原点になるべき関係であるが、嫉妬心や虚栄心で、地獄のような世界が作られてしまう。 いつでも同じ気持ちでいられればいいが、人間の心は、様々な要素で変化してしまう。個人差があるとしても、人間の気分は、躁(そう)と鬱(うつ)が、波が打ち寄せるようにやってきて、躁のときは、何事も気分良く感じられ、鬱のときはどんなことも不快に感じられてしまう。躁鬱の変化が激しいときや、鬱の状態が続くときなどは、精神疾患となり、正常な生活ができなくなってしまう。 体調によっても気分が大きく変わり、同じことをしても、愉快に感じられるときと、不快に感じられるときがある。様々な要素で気分が変わっても、安定した精神を維持することが、大人として非常に重要な努めである。現実には、気分によって、感情のおもむくままに、ものごとを感受する人間が多く、何事に対しても一定の評価ができないのが通常である。ものごとを評価する物差しが存在しないと言える。 気分で評価するのは、思い込みに他ならず、思い込みによって、真実とは程遠い評価をしてしまう。嫉妬が絡むと、さらに始末が悪く、相手がどんなに素晴らしいことをしても、とことん悪意が感じられてしまう。虚栄も相手を傷つけずにはいられなくなり、自分以外は皆悪人になってしまう。 嫁姑の争いは、正に相手を気分で評価する典型的な姿で、太古の昔から営々と続けられてきて、いまだに、意味の無い軋轢(あつれき)が存在する。核家族化の要因となり、家族が揃って生活するのが難しくなってきている。 生活の仕方は色々とあり、それぞれが生まれ育ったやり方が、一番いいと思っている。大きな差が無いとしても、結婚をして、異なった生活方式を合わせるとなると、大きな障害となってくる。 嫁姑の関係がかかわると一層大きな障害となり、姑は自分のやってきた生活が一番と信じているので、嫁が異なった生活様式を持ち込むのが我慢できないのである。嫁の粗探しをするのが日課となり、どこまでも駄目な嫁に思えてしまう。我慢比べしか成り立たなくなり、昔は嫁の立場が弱かったから、嫁が我慢をするしかなかったが、現代は、どんな立場のものも我慢をしない社会となり、嫁として婿の実家に入るケースが少なくなっても致し方がないことである。 そもそも、姑も嫁の時代に姑に対して大きな不満を感じたはずなのだが、不思議なもので、自分が姑になると、姑の問題点が分からなくなってしまう。自分が姑に受けた羞恥を、今度は嫁にしてしまうのである。相手の立場を考え、思いやることがどうしても疎かになってしまい、結局、家族が揃った生活ができなくなる。老人世帯や一人暮らしのお年寄りが激増し、老後を悶々と過ごしている人が多くなっているのではなかろうか。 物の価値を比較して、どちらがいいか決めることができても、親子や兄弟、夫婦など、家族を引き合いに出して、どちらがいいか決めることなどできるはずがない。それぞれが役割を持っており、かけがいの無い存在である。誰もが理屈では分かっていながら、往往にして、母親の心理というのは、息子にとって自分の存在が一番出なければ気がすまないのである。息子が嫁を大事にすればするほど不満となって、嫁を憎むようになってしまう。息子の幸福を誰よりも願っていながら、嫁に取られるという意識が強く、夫婦仲が悪くなることを願ってしまうのである。 息子夫婦の仲を壊して、得するものは誰もいないのだが、心の片隅に住み着く悪魔が、一切の理屈を排除して、地獄のような生活を作り上げることになる。ほんのわずかな思いやりが持てれば、簡単に解決できる問題だが、自分勝手が人間の本性かでもあるかのように、優しくなれない。優しさが失われ、相手を傷つけるだけでなく、自らの心も荒んできて、満たされることの無い日々となってしまう。 母子仲が良くて、中々結婚しない息子の話や、姑の嫁に対する不満の声をあちこちで耳にする。いずれにしても、嫁と姑が近しい関係にあると、互いに不幸になるだけで、核家族化が懸命な選択となる。 人間には正確な物差しがなく、気持ちの持ちようで評価が違ってくる。子供を甘やかすと増長し、わがままになってしまう。子供は基準を持っていないから、日々の経験から学んでいくものであり、親の影響で人格が形作られる。 大人になれば良識や常識を持つようになり、物事の基準となって、より良い判断が下せるはずである。しかし、今の大人たちが、成長過程で基準を学ばなかったとすると、どんな事になるのだろうか。長い年月をかけて作られた基準であれば、より客観的なものになるが、その場その場で基準を作ると、自分の都合のいいように判断し、わがままになってしまう。現代の大人たちはわがままな人間が多く、人間関係がかかわってくるときでも、自分さえよければと言う姿勢がありありとしている。 困っているときに助けられると、誰でもが大変ありがたいと思う。同じ親切でも、何度も繰り返すと、当たり前に感じられてしまう。逆に、親切が中断されると不満になってしまう。親切はどこまでいっても親切なのだが、増長すると自覚できなくなってしまうのである。 人間関係は、どんなに親しい関係にあっても、好意で親切にしていて、相手に当たり前の顔をされると嫌になってくる。自分の置かれた状況をわきまえない人間は、大切な近親者や友を失うことになる。自分の都合ばかり意識していると、得するつもりが大きな損をするということである。 人間、一人で何でもできるなら、自分勝手でもかまわないが、どうしても他人を頼らなければならなくなる。人間関係を円滑に進めるには、多くの人間が納得する判断基準を持つことが不可欠で、本来は大人になるための絶対条件である。 現代は大人になれない大人たちが多くなり、相手を思いやる気持ちが喪失している。そんな大人たちに育てられた子供たちは、物事の判断基準を持てるはずがない。現代の日本の抱える社会問題は、正常な判断を下すための、良識が無いことから起こっているのではなかろうか。 良識の喪失が、夫婦や親子関係にも大きな影響を及ぼし、多くの不幸を作り出している。離婚率の増大は歯止めが利かず、現代は長年連れ添うことのほうがまれになってきている。高齢者の離婚も増大し、結婚の意味合いが根底から違ってきているのかもしれない。 嫌な思いをしてまで夫婦でいる必要がないと、簡単に割り切れるのが現代人かたぎで、便宜上の結婚になりがちである。そこで問題になってくるのが子供の存在で、結婚が便宜的であれば、出産も便宜的となり、愛情そのものが希薄となっている。親から子へと、不幸のなすりあいが引き継がれ、生きることの価値が低くなっている。悪循環を断ち切れず、時代が良くなりようが無い。
疎外地獄 2002年2月6日 子供でいられることが一番楽しいはずなのに、早くから、全く意味の無い大人の真似をさせられるのが現代ではなかろうか。 「子供らしさ」と言う言葉が使われた時代が過去にはあったが、今は全く意味をなさず、死語となってしまったようだ。子供を子供らしくさせてやるのは親の勤めであるが、肝心の親たちが「子供らしさ」を知らない。ややもすると、テレビで脚光を浴びている、子供の人権を無視した見世物が手本となって、人前で恥ずかしがらずに歌や踊りが披露できるのが目標になっている。親の言い訳は、「子供が歌や踊りが好きなのです」と言うことになる。幼い子供が好き嫌いを選択できるはずがなく、親の悪影響によって好みが決められてしまっただけである。 子供は好奇心の塊である。人間に限らず、子供の既定概念にとらわれない発想が、新たな習性を作り上げることも少なくない。よく引き合いに出されるのが、水を嫌う猿が温泉に入るようになったという話で、子猿が入りはじめたのがきっかけだった。余計なことでがんじがらめになった、大人のちっぽけな発想ではとてもおっつかない、豊かな想像力を備えているのが子供なのである。 子供の可能性は無限と考えてやるべきだが、型どおりの人間に育て、可能性の芽を摘んでしまうのが親の仕事となっている。親のごくごく狭隘な価値観で子供の可能性を見出そうと躍起になるが、国家規模、世界規模、宇宙規模での可能性は完全に抹殺している。日本のように貧困の憂いが薄れた現代においては、子供に最低限のルールは見に付けさせても、後は何の制約もしないで、自由に発想させてやるべきである。できるだけ多くの経験を積ませ、空想の材料を提供するのが、本来の親の勤めである。 現代の子供たちは、親が勝手に作り上げたカリキュラムにがんじがらめにされている。幼稚園から受験がある時代で、特別を目指してレールが敷かれ、あたかも機械仕掛けの人形のごとく、決まったことを決まったとおりにこなしていく。親は親である前に、カリキュラムの番人であり、人間味を喪失した執行人である。そこには子供の自由な発想が入る余地は全くなく、それこそ、何も考えないでロボットに成りきることが最良とされる。 見るもの、聞くもの何でもが新鮮に感じられ、好きなように空想し、好きなだけ夢が見られるのが本当の子供らしさで、最も楽しい時である。子供にとっては、遊び、はしゃぐことが仕事であり、勉強である。その一つ一つが人生の知恵となり、感情が育まれ、情緒が見に付いていく。より雑多な経験をすればするほど判断力が養しなわれ、自分らしさが確立されて、先々の展望が見出していけるのである。 人間形成に最も重要な時期に子供らしさが疎外され、親の既定するちっぽけな世界に追いやられたら、まともな人間になれるわけがない。子供の特権をことごとく剥奪されてしまったら、当然ストレスがたまり、捌け口として「いじめ」を惹起させ、非行や不登校に結びついていく。学校にあっても子供らしさを発揮できる要素はなく、正に針のむしろである。 「いじめ」や「不登校」の問題を学校の責任にしたがるが、学校は学業を教授するところで、親の肩代わりをするところではない。親たちの意思に従い、特別を目指すスケジュールに荷担しているだけで、子供たちの競争心をどれだけ煽るかが評価に繋がるのだから、子供一人一人の心のケアなどできるはずがない。 家に帰っても、子供たちに待っているのは塾や習い事で、家でも学校でも疎外され続け、安らげる時がないのである。子供が一番欲しているのは、優しく迎え入れてくれる家族であり、心のこもった語らいである。子供にとって現代は、人心地を味わえない『疎外地獄』であり、人生で最も楽しく、最も有意義で、最も大切な時期を、暗黒で過ごすのである。 地獄に生きる子供たちが選択できるのは、何も考えずにロボットになりきることで、人間性を喪失する以外にないのである。ロボットになり損ねて本来の人間に戻ったら、何をしでかすかわからず、現実に、青少年犯罪が増える一方であり、残虐な事件が後を立たない。
炎熱地獄 2002年2月1日 人間にも本能があり、本能に基づいて様様な欲求が頭をもたげ、他の動物と同様、性欲と結婚、出産と母性など、子孫繁栄に繋がる欲求を無視できない。本能に準じ、人間らしく、ごくごく自然体で生きていければ何の問題もないのだが、それでは時代が許してくれない。資本主義経済を発展させていくには、誰もが精神生活を重んじて、ごく普通の生活をしていたのでは成り立たず、人間本来の欲求を押しのけて、少々狂った欲求を植え付けていかなければならない。 テレビの普及とともに地域間の情報格差が縮まり、売らんがための情報が全国隅々まで轟いている。情報の良否を判断する能力が培われていればいいが、多くの人間は、経済力の問題を意識しても、見てくれや雰囲気に誤魔化され、無抵抗に受け入れてしまう。経済力があればあるほど狂わされ、無目的に欲求を駆りたててしまう。 多くの動物が、生きていくのに必要な習性や業を親から学んでいく。原始に近い動物なら本能だけで活動していけるのだろうが、自然破壊が進む地球にあっては、生息環境が日ごとに変化をしている。環境に適応していくためには、経験から割り出される業が必要となってくる。知能が高い動物ほど生活の知恵が多く培われ、親から子へ受け継がれていく。自然界では、親離れするまでに一人前にならなければ生きていけず、一つでも多くの知恵を学ぶ必要がある。 人間は動物の中で最も知能が高く、それこそ多くの知恵が培われてきているはずである。極度に発達、多様化した文化にあっては、生きていくための知恵を一つでも多く学んでいかなければ適応できない。特に、本能に基づく営みを正常に果たしていくには、学習と体験が絶対条件となり、多産の時代は自然に学べたことが、少子化の時代にあっては意識的に体験を積んでいくしかない。出産を知り、幼児との接点を持って育児を知り、親子の情愛を実感することが、どんな勉強よりも重要である。 出産、子育てについて学ぶことは、人間にとって最も大切な情愛を育み、思いやりを持った、愛情豊かな人間が育っていくはずである。時代がどんなに変わろうとも、人間関係を無視することはできず、人を思いやる気持ちがなければ、まともに生きていけない。ところが、現代は物質文明の申し子を作り上げるが、肝心な、人を思いやることを身に付けさせることがないのである。 本来なら、親が生活の知恵を子供に受け継いでいくべきだが、大人自体が氾濫する情報に振りまわされ、生活の知恵を持ち合わせていない。親の親たちも知恵を持たず、知恵が培われることがなくってしまい、無責任な情報に生きる指針を求めざるをえない。知恵を学ばずに育った人間の、唯一の知恵は何も考えずに情報に踊らされることで、消費することが人生の全てになっている。当然ながら、親となっても子を思う気持ちは希薄で、愛情で子育てをするのではなく、金で何でも解決してしまう。子供の存在よりも、情報に煽られた欲求が優先されてしまう。 夏場になるとニュースになるのが、幼児を車に放置して、熱射病で死亡させるという事故である。その多くが、親がパチンコに夢中になっていたためで、正に現代の人間模様を象徴している。我が子を守ろうとする本能よりも、刺激や物への欲求が勝って、何の罪もない幼子を『炎熱地獄』に陥れたのである。 赤ん坊は無力であり、常に親の保護下に置いておかなければ命を保てない。生活の知恵を学んでいない人間は危険を察知する能力に乏しく、事故にならないだけで、子供を危険な状態にさらしてしまうのが、ごく普通のことになってきているのではなかろうか。事故を予見できないのは、知恵の無さもさることながら、痛みを知らず、人を思いやる心が薄れ、気配りの習慣が無くなり、愛情そのものが欠落してしまったためでもある。 赤ん坊が、炎暑にもだえ苦しんでいる姿を想像すると、あまりにもむごたらしい地獄図が浮かんでくる。貧困が引き金となった戦争の悲惨さを、誰もがもっともらしく悲嘆するが、豊かさが生んだ惨劇は、他人事の些細な事故としてすぐに忘れ去られてしまう。誰もが正常でいられない時代を考えると、『炎熱地獄』は他人事ではなく、これからも幼子をもだえ苦しませることであろう。 |