旅雑記

 2005年の5月にデジタル一眼レフカメラを購入、それまで細々とやっていた昆虫撮影が一変、生活の主流となった。日記で、時間があると日々思うことを書いてきたが、昆虫の大量データに押しつぶされ、日記は日々の天気を記す「気象歳時記」と割り切るようになった。「三文文士映像日記」を開設した当初の目的は「文学館」の立ち上げで、三文文士の名を知らしめようと考えた。現実には、当初から「写真館」の役割が中心で、2005年以降「文学館」は成長せず、更新を全く果たせなかった。

 2014年の5月に「文学館」を気まぐれにひも解いて読み始めると、我ながら面白くなって読み耽ってしまった。パソコン上で読むと目が疲れ、プリントアウトすることになり、合わせてファイルの改定を行い、大幅に手を加えることになった。どうせなら、2005年以降に細々と書き綴った、日々思うことを洗い出しして、ファイルを追加すことになった。洗い出ししてみると、2008年の6月まで記されていなかった。

2014年6月3日

 

2010年

10月8日(金)の日記より

 体調が上向きになったところで、女房孝行でもするかとばかりに、先週に引き続いて観光をしてきた。先週、佐野ラーメンを佐野サービスエリアで購入、食してみると大変口にあって、実際に現地で食べてみようと出かけてみた。ついでに名所巡りも計画し、インターネットで情報を収集、情報に準じて幾つか見学してきた。

佐野ラーメン店は100以上あるようで、その中のたった1軒を食して評価するのは問題があるが、たまたま入った店では、喜多方ラーメン党の夫婦にはちょっと違和感があった。地元の人の話では、本来喜多方の味を模したラーメン店が多かったそうで、そのほとんどの料理人が老齢化して、昔ながらの味を残しているのは数少ないとのことだった。佐野ラーメンは新興ラーメン店が中心に売り出しているようである。サービスエリアで購入したものはラーメン店のものではなく、昔ながらの麺工場で製造されたもので、昔ながらの佐野ラーメンの味を出しているようだ。

観光については、インターネットで非常に明快な情報を発信しており、その気にさせられたが、女房殿が選んだ観光地は全て空振りで、情報が先行し、これから観光化していくようだった。佐野を諦め、栃木市の情報で、蔵出し雛人形展が本日から始まると承知していたので急ぎ出向いてみた。

栃木に着いた時には3時半を回っており、急ぎ足の探訪となった。商店街の店々で持っている雛人形を蔵から出して店内に展示すという行事で、10店舗ほど見学したが大変見応えがあった。展示店舗は五十を越え、余裕を持って再度訪れようと、女房殿と約束した。栃木の情報は少々地味であるが、中身は圧巻だった。

 

10月22日(金)の日記より

 雨は大丈夫だろうと、今日は栃木市に行ってきた。2週間前にも出かけ、蔵出し雛人形を見学したが、遅めだったので駆け足となり、ゆっくり見られなかったのと、見そびれたものもあったので再度計画した。各店店(50店舗以上)が個人で所有する雛人形を店内展示して見学させてくれる。中々立派なお雛様があって大いに楽しめたが、平日とあって見学する人は少なかった。景気浮揚策として観光事業の活性化を謳っているが、富裕層の気紛れを当て込んだ、一過性の流行に生活の基盤を求めるのはあまりにも愚策である。

 

2011年

10月19(土)〜22(土)日に日記より

 時間をかけて計画してきた、岡山県倉敷の旅が始まった。熊谷では朝から曇っていて気温が上がらず肌寒かった。自宅を15時に出発、関越道〜上信越道〜長野自動車道〜中央道〜東名・名神道〜中国道のルートを取った。埼玉、群馬は曇天だったが、長野から兵庫までは晴天だった。車の運転は曇っているぐらいのほうがしやすく、長野自動車道では、日が傾いて日射し差し込み、運転には最悪だった。晴天を期待していたので致し方が無い。中国道に入ったのは23時間近となり、渋滞など考えられなかったが、工事渋滞があり、10キロ、5分ほどで通過できるところを25分ほどかかってしまった。深夜の高速道は貨物トラックが多く、サービスエリア、パーキングエリアはどこも休憩や仮眠を取るトラックで一杯だった。

 サービスエリアで車中泊となった。朝5時頃に起きると満天の星空で、今日一日晴天を保証するような空だった。瀬戸内海を展望できる鷲羽山を最初の探訪地として、瀬戸大橋を中心に瀬戸内海を展望した。快晴で山側の空は青く澄んでいたが、海側の空は、水蒸気の関係なのだろう、白みを帯びていた。倉敷には10時半頃には到着、日射しが強くて、上着を着ていては暑く、長袖のポロシャツ姿でも汗ばむようだった。早く到着したのと、美観地区と呼ばれるエリアは思ったほど広くなく、二日で見る予定が一日で見切ってしまった。暑さと、車中泊で充分に睡眠がとれなかったこともあり、疲れが出て、4時半には宿に入ってゆっくりした。

 倉敷では朝から曇り空で、天気予報では、夕方には雨も降る予想となっていた。傘を離せない一日と覚悟し、今日の計画は、岡山市後楽園探訪と決めて、8時半過ぎに倉敷を出た。後楽園まで45分ほど、園内に入って、先ずは広さに驚かされた。天気は曇りでも時々晴れて、上着が無くとも汗ばむ陽気となった。隣接する岡山城も訪問、女房殿は武家用の御駕籠(据え置き)に乗ったり、御姫様の着物を着たりで、ちょっとした体験をして御姫様気分となり、大いにはしゃいでいた。臨時に計画した探訪だったが、期待以上の成果を得た。岡山まで、行きは高速利用で45分かかり、帰りは一般道で40分ほど、高速を利用して無駄となった。宿が決まっていたので15時には倉敷に戻り、買い物がてら、倉敷を改めて散策した。幸い、雨はぱらつく程度で、傘は必要なかった。

 夜中に時々雨がぱらついて、朝は降っていなかったが路面は濡れていた。今にも降りそうな空模様で、今日の計画に影響しそうだった。欲張った旅行となり、二日間ともウォーキングに換算すると10キロ近い距離を歩いたことになり、ハードスケジュールと相俟って、非常に疲れていることは確かである。今日も盛りだくさんの計画で、昨日行った喫茶店のコーヒーが気に入り、開店間もない8時半過ぎに立ち寄り、モーニングコーヒーと洒落込んで、倉敷を出たのは9時近くなっていた。高速を使って赤穂に飛び、順調に赤穂へ着いた。赤穂は曇っていても空は明るく、雨の心配はなかった。

 女房殿は赤穂浪士がお気に入りで、赤穂城跡に隣接する赤穂大石神社で、赤穂浪士にかかわる展示物を楽しんだ。昼少し前に赤穂を出発、一般道で姫路に向かう。姫路城は都会風の街中にあり、赤穂の長閑さなど少しもなく、どこまでも観光化されて、人の流れも赤穂に比べて格段に多かった。姫路城天守閣は補修工事中で天守閣の絵が描かれた垂れ幕で覆われて、全く姿は拝めない状態だった。雨が時々ぱらつき、昼食にも少々がっかりしていて、気乗りのがせず、それでも入館することになった。やたらと広い城を巡り、坂や階段の上り下りを何度も繰り返して、あまり面白みを感じずに、義務的に見学するようだった。疲れも加わり、がっかりしながら、最後に西の丸を見て回ると、千姫(豊臣秀忠正室、徳川秀忠・お江の娘)縁の展示物があり、女房殿はおおいに関心を示して、姫路城に来た甲斐を味わうことができた。

 姫路を立ったのは15時を少し回ったところで、出発が予定より遅く、無理があると思ったが、帰路、車中泊をしないで自宅に帰ることにした。

 

2013年

4月30日(火)の日記より

早朝熊谷〜栃木曇・午前福島〜秋田雨・昼角館曇・午後盛岡曇

 天気と混雑が心配される、東北3大桜名所を巡る旅が始まり、朝4時半出発、まだ薄暗かったが曇っているのが分かった。東北道に入って、栃木まで雨は免れたが、福島に入る頃から小雨となり、北に行くほど雨足が強くなった。サービスエリアの天気情報では東北三県(青森、秋田、岩手)は午後から曇りや晴れのマークが付いていたが、東北道から秋田道に入ると雨足が一段と強まり、角館は雨と諦めるしかなかった。秋田道はトンネルが多く、トンネルを抜けるたびに空模様が微妙に異なり、霧になったり、薄日が射したりして、回復の兆しも感じられた。高速を降りてから角館に近付くにつれて空の明るさを増し、もしかしたら晴れる、との期待を持たせた。

 時間的には計画通りとなり、天気も何とか持ちそうで、喜び勇んで角館に入っていくと、道々で見られるしだれ桜は少しも開花しておらず、衝撃が走った。何日か前に調べた、福島三春の滝桜は、花が散って葉桜になったとされ、三大桜も葉桜の心配こそあれ、早すぎるなどとは全く考えもしなかった。秋田は残雪が各所にあり、太平洋側より、日本海側は春が遅いと想像され、開花は予想以上に遅れているのかもしれなかった。

 角館中心地になると人の数ががぜん多くなり、駐車場探しに苦労する。川沿いの駐車場は大型バスが満杯状態で、小さ目な駐車場も満車の看板が立ち、にわか駐車場しか空いていないので駐車料倍額で駐車する。街中を走ってきた限りでは開花したしだれ桜はなく、川沿いのソメイヨシノは全く咲きだす気配がなかった。「完璧な計画」と言って、うぬぼれていたのがくじけ、「だめじゃない」との女房殿の叱責に、「すいません」と謝るしかなかった。

 気温は10℃前後の冬模様で厚着をし、晴れるまでには至らなかったが、薄日も射して雨の心配は無さそうで、我が家同様未開花に怪訝な顔をした人の波に加わった。連休狭間、開花状況、天気状況など、混雑を緩和する条件が揃い、それでも、日程を変えられない遠方の観光客で溢れていた。

 角館は家族旅行で25年程前に訪れ、小京都の名に相応しい町並みに感動したものである。再訪して、「何だか変わってしまったみたい」との言葉が、女房殿と一致した感想だった。目的としたしだれ桜の開花の遅れがそう感じさせたのか、それとも、見る側の心の持ちようが変わってしまったのか、より観光化されたのが原因か、定かでない。大気が不安定のようで、町並みを歩いていると、薄日が差していたのが、急に暗さを増して小雨がぱらつき始め、町並みは、色彩のない水墨の世界へと変貌、春爛漫の角館をイメージすることができなかった。人だかりがする一角に出ると、一本のしだれ桜がわずかに開花し、群がる人々が記念写真を撮っていた。満開を想像し難い彩りに、角館の証を求めるしかなかった。

 昼食を済ませ、早々に角館を立って、今夜の宿泊地、盛岡に向かった。盛岡は太平洋側なので、角館より開花が早いのではと、ささやかな期待を持つ。角館から盛岡に向けて走っていると、田沢湖近郊を過ぎた所で、田沢湖刺巻(サシマキ)湿原、「水芭蕉群生地」の看板が出てきた。水芭蕉と言えば尾瀬の名が出て、女房殿が「まだ咲いてないんじゃない」の声に、反論する識見を持っておらず、案内板を無視して通り過ぎると、入口にある駐車場に車が多く止まっていた。国道からも湿原の様子が窺え、白花が眼に入ってきた。

 「何が咲いてないだよ」と言って、大分進んだ先でUターン場所を見つけて引き返した。知名度の低い湿原のようで、訪れる客は少なく、それほど広くない駐車場にまだ空きがあった。駐車場は湿原のすぐ傍に有り、階段を下りると奥深く広がる湿原があった。木道が巡らされ、水芭蕉を間近に見ることができた。水芭蕉は湿原全体に咲き並び、満開時季を過ぎた感があるが、それでも純白の花が目を引き付けた。他にもザゼンソウやカタクリなどが咲いていた。尾瀬の水芭蕉は見たことが無く、手軽な水芭蕉三昧に得した気分となり、角館の不覚を補う、幸運を喜んだ。

 盛岡には3時過ぎについて、宿に車を置いて町に繰り出した。盛岡城跡公園へ上る前に傍の喫茶店で休憩、女店主に桜の話を向けると、公園の近くにある「石割桜が満開」との情報を得た。急な坂道を上った盛岡城跡の桜は、しだれ、ソメイヨシノともに、咲きだしたものが半分と言ったところで、中には三分咲きもあり、花見も楽しめた。続いて、急な坂を下りて数分のところに、大通りに面した、地方裁判所の前庭に、大岩を割って伸びあがる彼岸桜が満開の花を見せていた。

 石割桜は国の天然記念物になっていたが、観光客が押し寄せるには小さすぎる敷地にあった。近くには観光客向けの駐車場は見当たらず、宿泊ホテルの駐車場も有料と言う実態で、盛岡は観光化は進めない方針と見受けられた。それでも、観光バスでやってきた客が大挙押し寄せ、人垣が絶えることはなかった。角館、弘前の桜が例年になく遅れているので、臨時でやってくるバスツアーもあったのではないか。事情はどうあれ、石割桜は見事に咲き誇り、角館の空振りを、水芭蕉とともに少なからず補ってくれた。

 

5月1日(水)の日記より

盛岡曇〜時々雨〜弘前時々雨〜盛岡曇

 盛岡の朝はどんよりと曇っているものの雨は降らず、東北道に乗って弘前までの間は、時々雨がぱらついた。東北道を降りて何キロもしない場所に、弘前城見学用の臨時駐車場の看板があり、混んでいるときにはそこから送迎バスで弘前城を訪れるようだった。高速はもとより、弘前までの一般道も全く渋滞はなく、連休狭間も混雑緩和の要因と思われるが、開花の遅れも起因していると考えた方がよさそうだった。弘前城周辺に車を進め、当てもなく堀沿いの道を進んでいくと、何か所も駐車場の看板が出ていて、北門口近くの駐車場に車を置いた。

 雲が次から次へと足早に通り過ぎ、変わりやすい天気と見てとれ、動き出す時には雨が降っていなかったが折りたたみ傘を持参、この時季としては異例の寒さで、厚手の上着を羽織ることにした。弘前城公園の桜も例年になく開花が遅れ、堀端の桜は開花状況がまちまちで、三分咲きのものから未開花のものまであった。三分咲きでも、満開時の姿が想像でき、角館とは違って、彩りを楽しむことができた。見学途中で一時雨が降り出したが、わずかな時間で、後は傘をささずに園内散策ができた。

 天守閣へ足を進めると、石垣に垂れさがる大きなしだれ桜があって、滝桜と呼ばれていた。まだ一分咲きにも満たなかったが彩りがあって、滝のような流麗な姿を想像できた。他にも満開とはいかなくとも咲きだした木が幾つもあって、弘前城、東北三大桜の片りんを垣間見ることができた。広い園内と、堀端沿いをぐるりと回って、時間をたっぷりかけ、ささやかな花見を楽しんだ。

 

5月2日(木)の日記より

盛岡曇〜北上展勝地曇時々雨・岩手〜福島曇/雨・栃木曇・埼玉晴

 最終日は盛岡を八時半出発、北上展勝地までの90キロ程の区間でも曇りや雨、ときには晴れと目まぐるしく天気が変わり、寒気の流れ込みによって、大気が不安定なのが感じられた。北上展勝地まで渋滞は一切なく、展勝地専用の駐車場にすんなりと車を止める事が出来た。

 北上川沿いに、道端両側に桜の木が植わっていて、桜の回廊が2キロ近く続いていた。樹齢までは分からないが、ソメイヨシノの古木が立ち並び、角館、弘前と違って満開の時期が過ぎて、葉桜が進んだ木も見受けられた。人の数は少なくないが、2キロに渡って散策する人は少なく、時には無人の桜並木を撮影することができた。

 北上展勝地の桜は、熊谷荒川堤の桜と趣に大きな違いが感じられず、趣が全く異なった角館や弘前に比べて、見応えがなかった。寒さの影響か、花見をする人より、レストハウス周辺の出店に人が群がり、土産物売り場は人とすれ違うのも難しい状況だった。

 予定より早めに出発、駐車場を出る時には、入ってくる車で道は渋滞ができていた。休日、満開時の混雑を想像すると、いい時にやってきたと、つくづく思った。角館、弘前の満開時季に訪れるのは、車は無理であり、宿も取れないので、新幹線利用、日帰りしかないとの結論に達した。

 東北道、岩手から福島まで、曇りや雨、時には晴れと、天気が時々刻々変わった。栃木に入ると雨は上がって、埼玉に入ると晴天だった。

 2泊3日、東北三大桜名所の旅は、走行距離1445キロに及ぶ大旅行となり、花には恵まれなかったが、混雑を全く受けず、夫婦の会話が弾んで、大いに楽しむことができた。

 

5月10日(金)の日記より

 熊谷駅6時20分発の電車に乗って、角館に行ってきた。大宮で7時21分発の秋田新幹線に乗り換え、盛岡までは東北新幹線と連結、新幹線らしい速度で走ったが、盛岡〜角館はローカル線の線路を走行、ローカル線並みの速度となる。角館には10時05分に到着、薄雲がわずかに広がることもあったが晴天で、気温も上がって行楽日和だった。

 駅近くの喫茶店でお茶タイムを取り、徒歩で、桧木内川沿いの桜並木を目指した。桧木内川堤に2キロに渡ってソメイヨシノが回廊を作っており、多くの観光客が訪れていた。高台から桜並木を展望すると並木がS字を描いて見えるが、河原では一部の区間しか同時に撮影することができない。4月30日に訪れた時は全く開花していなかったが、今日は満開となり、川面とセットすると絶景で、遥々やってきた甲斐があった。

 河原から離れて、武家屋敷が立ち並ぶ町中へ行くと、今度は水の流れを思わせるしだれ桜が満開で迎えてくれた。人の波が途絶えることがなく、カメラを全自動にセットして撮影したら、手前の人にピントが合ってしまい、編集したら、失敗写真が半分以上あった。2005年購入のデジタル一眼レフカメラでは全自動で問題がなかったので、2010年購入のデジタル一眼レフカメラでも、しくじるとは思ってもみなかった。女房殿がコンパクトデジタルカメラで写したものには失敗が無く、少しは救われた。

 15時42分の秋田新幹線に乗り、途中遅れがあって、大宮18時42分着が、19時03分着となり、乗り換え時間の関係もあって、帰宅が予定より30分ほど遅くなってしまった。おそらく、最後の角館探訪であろう。

 

8月29日(木)の日記より

 朝のうちは雲が多めだったが、日が高くなるにつれて雲が取れ、日中はいい天気となった。

 今日は一番暑い時間帯の出発で、旅に出た。目的地は長野松代で、真田氏に縁の地と言うことで選んだ場所である。インターネットで情報を収集してみると、真田でも、最も興味を抱かせる幸村の名は出て来ず、若干、物足りなさがあったが、のんびりと、骨休めでもできればと、躊躇なく宿を予約していた。

上信越道の混雑は全く無く、途中、30分の休憩をはさみ、2時間半ほどで宿についていた。時間があるのと、腹減らしで町中を歩くことになり、宿でもらった地図を頼りに不慣れな道を歩いていくと、すぐ近くのはずの目的地にいつまでも着かず、道を引き返して、次の目的地に向かい、廃線になったばかりの松代駅に何とか辿り着いた。求めていたものはそこには無く、疲れもあって、より近い道を選んで宿に向かい、何とか宿に辿り着いた。実質、収穫ゼロで、骨折り損のくたびれ儲けとなった。

宿のカウンターで、情報を収集すると、松代駅から僅かな距離の場所に観光スポットが集まっており、帰路の途中にも、幾つもの名所があり、全て見逃すと言う、失態をやらかしたことを知った。女房殿の新規購入した携帯電話には歩数計が付いており、旅行以外も含め、一日の歩数が9500歩を越し、距離は7キロを越えていた。宿に着くと、旅行の目的である、のんびりと過ごし、元を取ったと、夫婦ともに負け惜しみを言った。

 

8月30日(金)の日記より

 午前中は良く晴れて気温が上がり、松代でも30℃を越えた。熊谷と違うのは、炎天下でも、時々涼やかな風が吹いてきて、暑さが和らぐと言うことである。

 今日はカーナビにセットしておいた松代城跡へ、車で向かい、近くの無料駐車場に車を置いて、松代城跡を皮切りに歴史探訪が始まった。門前に9時開園となっていたが自由に見学でき、天守閣のない城跡をじっくりと見学した。続いて真田家宝物館を訪れ、観光案内定番コースに従って歴史的建造物を見て歩いた。中心地から少し外れた象山記念館に向かうと、案内翔に載っていない、門や塀が武家屋敷風の佇まいが各所に見られ、散策するには見応えがあった。観光ポイントとなった名所はスタンプラリーの対象となっており、女房殿はラリー表を全部埋めてご満悦だった。宿に帰って、女房殿の携帯電話の歩数計を見ると17000歩を越え、距離は12キロを越えていた。距離については歩幅で違ってくるので、小柄な女房殿では記録された距離(GPS機能で距離を見ているとは思われない)の7〜8割と見るのが妥当であり、8〜9キロと思われる。それにしてもハードな探訪で、宿に帰ると疲れ切った感があるが、大いに楽しめたことは確かで、健康であることの幸福を満喫した。

 松代は、真田家でも信之が初代藩主で、親兄弟の、昌幸、幸村には全く縁が無い土地だった。信之の霊屋(仏間の役割を持った建物?)が、長國寺境内にあり、案内の方から霊屋の説明を聞いた。徳川の時代にあって、家康の天敵となった親兄弟を持ちながら、真田の名を残した信之の能力の高さを思い知らされた。松代の人々は、佐久間象山と真田信之を深く敬愛しており、両者の根底にある、強者に対する反骨精神を宿しているのを垣間見た思いである。

 松代には、太平洋戦争末期の、日本軍が敗退し始めた時、軍部が極秘のうちに、本土決戦最後の拠点として地下壕が作られていた。松代では、舞鶴山、皆神山、象山の3か所で、碁盤の目のように掘り抜かれ、総延長10キロに及んだ。地域住民や、朝鮮人、中国人が強制労働させられ、多くの人が犠牲になったようである。町中に近い象山地下壕を見学、その凄さに圧倒された。

 現在、戦時中の軍部や警察の横行に対する表現を教育から取り外す動きがある。戦争の歴史認識をねじ曲げようとするもので、地下壕の忌まわしき史実も消し去られてしまうかもしれない。反面、核問題を考えると、原発事故を含め、地球が侵される可能性が高く、地球温暖化に伴う異常気象対策と合わせ、地域で、地下壕をその退避地として積極的に活用する事も重要と感じた。全ての人々の幸せを目指す、理想社会創造の一翼となるのではなかろうか。利用せずに済むことが一番であるが、問題が起きてからでは間に合わないので、モグラ社会を築いておくことが、懸命な策である。

 

8月31日(土)の日記より

 今日は宿を出ると、すぐに上田に向かった。昨日は夜遅くまで断続的に雨が降っていたが、朝にはすっかりあがって、真夏が盛り返したかのような空となった。上田に着くと一層日射しが強くなり、真夏を思わせた。

 上田城跡の公園には駐車場があって、そこに車をおいて上田探訪を始めた。上田城には天守閣は無いが、城郭が再建されて記念館となっていた。軍備品は模造がほとんどだが、中には手に触れられるものもあり、火縄銃を構えて写真を撮ることができた。上田は松代と違って、真田幸村が中心となり、真田十勇士があちこちに出てくる。史実と言うより物語の世界で、幸村の本当の人物像は浮かび上がってこなかった。

 幸村は、敗戦が濃厚な豊臣方についたことを考えると、現代人と違って、打算的な人物とは思えず、義を重んじ、筋を通す、より人間的な魅力を持っていると断定した。徳川の野望は、人々の幸福には結びつかないと、確固たる信念を持って反駁(ハンバク)していたと推察した。現代の、損得勘定で人々の生活環境が決まってしまう、悪しき体制に準じないことが、英雄、幸村の遺志を継ぐことと、勝手に思い込んでいる。最後に池波正太郎記念館に赴き、真田太平記の、痛快時代劇に浸って、益々、反骨精神に磨きをかけた。

 上田を出たのは14時前後で、カーナビを自宅にセットして高速を一路熊谷へ向かったが、早く着き過ぎると、佐久ICで高速を降り、一般道で軽井沢に向かった。途中、軽井沢の交通規制の看板が出てきたので、中心地に向かわずに、国道18号バイパスを走り、バイパスから少し入った、交通量の少ない地域でお茶でも飲もうとしたが、道沿いのわずかな駐車スペースに、既に車が多く停車していた。結局、渋滞にはまって、やっとの思いで渋滞から抜け出して、急ぎ軽井沢ICに向かった。

 熊谷に到着すると、そこは正に猛暑の世界で、涼しさに慣れてきた体が拒否反応を示し、じっとしていてもぐったりとなった。長野の暑さと、これほどまでに違うのかと、深く認識した。

 今日の女房殿の歩数は8300を越え、距離は6.2キロとなっていた。以前、女房殿の歩数と距離を測ったことがあり、1キロ1300歩という数字を割り出した。これを目安に8300歩の距離を計算すると、6.38キロとなり、今回記録した6.2キロは妥当と言うことになる。3日間を合計すると、約、34800歩、25キロとなる。女房殿は弱音を吐かず、日常トレーニング(ウォーキング)がいかに功を奏すしているか実証された。