我ながら名言録2004年版

 このコーナーでは名言と自惚れて編集しているが、どうしても前に書いたのと同じような事柄がでてくる。2004年の日記から集めてみたが、前年にも記した内容が幾つもでてきた。名言と自任するのが、ちょっと気恥ずかしい。

 2004年の後半は生活が大きく変わり、公私共にすこぶる多忙となり、日記帳を書くのも片手間でやるしかなかった。ほとんどが日々の気象を記すだけで、名言に加えるような文章は書いていない。2004年分も名言録を編集したが、質量ともにお粗末でものになってしまった。

2005年2月2日

 

7月27日の日記より

警察の相次ぐ不祥事が表沙汰となり、治安の悪化を辿る現代社会を考えると、平和な生活を維持していくのが非常に難しいと想像される。自己防衛しかないと思われるが、悪漢撃退の凶器を準備して、立ち向かったとしたら、どこまでが正当防衛として認められるのだろうか。現代は悪人天国で、善人を見つけるのが難しく、多くの事件は、特別な人間が起こしているのではなく、ごくありふれた悪人である。青少年犯罪も、ごくありふれた現代っ子が起こしており、どこの家でも犯罪者が出る可能性を持っている。強盗が青少年だとして、自己防衛という前提で、徹底的に抗戦して傷つけたとしたら、どんな判定が下されるのだろうか。結局、防衛能力を高めることよりも、犯罪を少しでも減らす算段をしなければ、どうにもならないということである。

 

7月4日の日記より

先日の新聞報道で、日本は国民一人当たり550万円の借金を抱えているとのことだった。5年程前は300万円と言われ、さらに250万円増えたことになる。経済が高度成長なら返済見通しが立てられようが、一部大手企業が上向きなだけでは、一部の資本家が潤うだけである。底辺が落ち込んだ状況では、いつまでたっても国家が潤うはずもなく、返済の見通しどころか、借金が益々大きくなるだけである。前にも次代に引き継ぐものとして、国家の借金をあげておいたが、若者たちから夢をすっかり奪って、前代が残した借金を若者に負わせると考えたら、国家そのものの価値が無い。若者だけで新たな国家を作ることが、国家再生の唯一の道なのではあるまいか。

 

6月15日の日記より

出生率が1.29と発表されたが、率の低さはどう考えても異常である。年金制度改革は、出生率を1.39と想定して案が作られており、出生率が低いと、年金を納める人口が減って、原資が不足し、年金制度そのものが成り立たなくなってしまう。年金問題だけでなく、社会そのものが果たして成り立つのか疑問になってくる。結婚率の低下も出生率に大きな影響があり、結婚できなかったり、結婚したがらなかったりで、子孫繁栄に不可欠な営みが崩れてきていることも確かである。動物というより、ロボットのような人間が増えて、さらには、社会そのものがロボットによって営まれ、人間は不必要になってくるのではなかろうか。

 

6月12日の日記より

今、三菱のリコール隠しが問題となっているが、隠しても必ず分かってしまう事象なのに、経営者自らが安易に判断し、見て見ぬふりをしてきたのである。日本の経営者の本質を表しており、鳥ウイルスの感染にかかわる対応や、BSEに関係した偽装問題など、多種多様な業種に渡って、経営者自らが悪事を行っている。儲けている会社では脱税工作が行われ、不当労働行為を当然としている。政治家と企業の癒着はどこまでいっても浄化できず、顧客情報の漏洩は日常的で、詐欺まがいの商方が後を絶たない。日本の経済は仁義なき戦いで、儲けるためなら何でも許される体質が、今の日本を形作ったのである。悪い事をするのがごく当たり前の社会であり、善良でいることが、非常に難しいのである。

 

4月7日の日記より

元々字を書くのがへたくそで、性格がそのまま表れ、乱雑極まりない筆致である。ワープロを利用するようになって、手書きのものは少なくなり、字が下手でも何とかなってしまった。パソコンを利用するようになってからは、ほとんどのことがパソコンでできてしまうので、書く習慣が薄れてきて、余計に字が下手になり、最近、仕事でちょくちょくメモルことがあるが、後で何と書いてあるのか分からなくなることがある。字が下手になるだけでなく、漢字が書けなくなってきている。読むのは何とか読めても、書くときにはすっかり忘れて、ペンが動かなくなってしまい、仕方がないのでひらがなで間に合わせている。日本の文字文化や、手書きによる心理表現が失われ、情緒のない生活になってしまいそうである。大変危惧すべき事態であるが、益々パソコンの価値が感じられてきて、元に戻すのは不可能である。そのうち、書ける漢字は自分の名前だけになってしまうのではと、心配になってくる。

 

4月6日の日記より

最近、回転ドアや回転遊具の事故で世間が賑わっている。事故が起きるのだから問題であり、改善が求められて、当然である。今回の事故のみならず、過去にも公園の遊具で事故が置き、昔は当たり前として設置されていたものが撤去された経緯がある。身近にある危険なものを探すときりが無い。自動ドアやエスカレータ、自転車、三輪車、包丁、ナイフ、バット、ボール、乗り物のドアなど、ありとあらゆるものが危険を帯びている。危険ということで何でも遠ざけていたら何もできなくなってしまう。生活には危険がつきもので、一つ一つの危険を認知し、察知することによって、安全に使いこなしていくのが生活である。親から子へ伝えられるべき重要な教育であり、生活の知恵となって、成長に欠かせない糧となるのである。現代は教育熱心な親が多くいるが、ほとんどの子供が、生きるうえで最も重要な生活力の成長が止まって、目の離せない赤子のような若者が激増しているのではなかろうか。親が肝心なことを少しも教えないためであり、むしろ、大人たち自身が危機意識に薄れ、危険を察知する知恵を持ち合わせていないのである。日本は、本当にこのまま進んでいっていいのだろうか。

 

4月4日の日記より

日本の社会を維持していくには、高齢化に伴う新たな仕事の仕組みを考えていかねばならない。高齢化社会を作り上げたのは、浪費経済が大きな要因となっており、子供が多いと大量消費できないとの考えで、少子化が進んだのである。日本は、子孫繁栄という、生きものの最大の役割を無視して、目前の利益に終始してきた。高齢者を含む、大人たちが作り上げた不均衡な社会であり、その責任は自らが負わねばならないはずである。高齢化社会がさらに進むと、60歳定年などと悠長なことを言っていたら、総人口に対する労働者の割合が激減し、正常な社会運営ができなくなってしまう。生涯教育が叫ばれる昨今であるが、むしろ、生涯就労を考えなければならないのではなかろうか。年金受給年齢に達しても、収入があると、年金が減額されてしまい、全額もらわねば損をするような感覚があって、就労するのを控えてしまう者もいる。働けるうちは、年金を頼らずに生活していくぐらいの気概がなければ、将来展望が立たないのである。就労ができるということは、社会に役立つことであり、自らの存在価値が感じられることでもある。何の役にも立たない浪費者になるより、自分の力をいつまでも発揮できる人生のほうが、遥かに面白い。

 

4月3日の日記より

ゴミの問題が話題になり、深く考えざるを得なくなった。ゴミの処分問題は深刻で、様々な場所で不法投棄が行われ、土壌汚染や大気汚染へと繋がってきている。自治体では、リサイクル法を制定したり、ゴミ処分能力を高めたりしているが、溢れ出るゴミに対応しきれないのが現実である。資本主義経済は消費が美徳とばかりに、不要なものを際限なく製造、販売し、現代に、行き場の無いゴミとなって引き継がれた。高度成長を支えてきた人々の多くは現役を引退し、過去にしでかしてきた功罪に無関係を装っているが、子や孫に大きな重荷を押し付けていると言ったら、そっぽを向けないのではなかろうか。年金問題や高齢化社会、国家の抱える借金など、子孫にとんでもない負担を強いている。現実がガラス張りとなって、今後の展望が見えてきた現代においても、浪費経済のうねりを抑止することができず、若者たちを浪費経済の一歯車に仕立て上げ、夢や希望も奪い取っている。大人たちは、どこまで子孫を冒涜すれば気がすむのだろうか。人間の尊厳を意識したとき、年齢に関係なく、自分の責任について無視できなくなってくる。

 

3月12日の日記より

 仕事の関係でパソコンをフルに利用している。パソコンの導入はどこの企業でも進んでいるようだが、通常は決まった処理をするだけで、パソコンの持っている機能をフルに使っているわけではない。企業の上下関係で、上司がパソコンの機能を知らないと、会社として、パソコンの利用が、データ投入に制限されてしまうこともある。営業などは、外へ出ることが仕事とばかりに、会社でパソコンでもいじっていようものなら、サボっていると見られてしまう。高度成長期にあっては、下手な鉄砲も数打てば当るで、口先だけで商売ができたが、現代のように景気が低迷すると、お客さんは本当に必要なものしか購入しない。一方で、高度成長期の感覚しか持っていないので、何が必要なのか、見極めがつかず、買い控えをしてしまう。お客さんによって事情が異なり、お客さんの事情に合わせて営業をする、提案型営業が必要になってきている。お客さんが納得できる資料を作成するのは営業の重要な仕事であり、パソコンが非常に有効である。営業マンの創造性とパソコンの拡張性を融合させれば、非常に効率的な営業ができるはずである。

 

3月7日の日記より

我が家は100円ショップの愛好者で、利用が非常に多かった。日本経済のことを考えると、安いだけで価値を判断するのは問題だが、懐具合を考えると、どうしても100円ショップに足が向いていた。100円で買える、価値あるものは大方買い揃え、最近はほとんど出向くことが無かった。久々に出かけてみると、値段表示のある棚ができていて、150円や200円の商品が幾つもあった。ちょっと良さそうな物は高くなっており、中国経済の猛威に陰りが出てきたようだ。100円で買える、価値ある物は既に充足され、値段を上げても、新たな商品を提供せざるをえなくなったのである。中国元が高くなるとともに、人件費が高くなり、今までのように安価で生産、販売することが難しくなってきていると思われる。それでも、通常だと1000円はしそうな物でも200円で購入でき、格段に安いことは確かである。大いに価値を感じたが、本当に必要か考えてみたら、何も買わずに帰ってきた。

 

1月9日の日記より

半年ぐらい前に「ワンギリ」と言われる、連続発信電話が問題になった。複数の電話回線を使い、パソコンで自動発信し、携帯電話へ接続して、相手が出る前に切断してしまう電話のことである。何台ものパソコンで、数秒で何度も発信するので、電話回線が混み合い、地域の電話が使えなくなることもあった。一度の呼び出し音では、相手は電話に出ることが出来ず、料金がかからない。発信番号の履歴を携帯電話に残し、携帯から着信履歴に基づいて呼び返させようとしているのである。電話をすると高額な料金請求がされる仕組みになっていて、大きな問題になった。色々な処置や対策がとられたらしく、最近は話題にならなくなったが、今日、我輩の携帯電話に「ワンギリ」らしきコールがあった。無論呼び返さないので真意は分からないが、悪徳商法が後を絶たないのが、資本主義経済の究極的な姿なのではなかろうか。

 

1月2日の日記より

自転車がパンクしたので、自分で修理した。滅多にパンクなどしないので、久々の修理となり、時間が多くかかってしまった。自転車屋で修理してもらうのが手っ取り早く、一般的であり、自分で修理する人など、ほとんどいないのではなかろうか。昔、子供たちにもパンク修理をさせ、自分で必ずやるように命じた覚えがある。果たして実行しているか分からないが、物を大切にする人間に育ったことは確かである。散策で駅周辺も歩き、放置自転車の保管場所を通るが、常に100台以上置いてある。我が家の自転車より遥かに新しいものもあり、日本の豊かさと、物を粗末にする習性を痛感する。ニュースで、デパートの福袋を競って買う姿を報じていたが、必要かどうか全く関係なく、通常より安いと言うだけで血眼になって買いあさっており、おそらくは家に帰ると物が溢れかえっている人々ではなかろうか。自転車の放置は青少年が中心と思われるが、物を粗末にする習性は、親の姿を見て育まれたものである。