我ながら名言録2003年版

 名言と自惚れて編集しているが、どうしても前に書いたのと同じような事柄がでてくる。2003年の日記からも集めてみたら、前年にも記した内容が幾つもでてきた。名言と自任するのが、ちょっと気恥ずかしいが、2003年分も編集してみた。

2004年1月30日

 

1月18日(土)の日記より

 昨日の天気予報に反して暖かな陽気となり、過ごしやすかった。気象庁の発表した冬の長期予報が訂正され、当初、エルニーニョ現象との関係で「暖冬」を予想していたが、寒気の流れ込みが多くなると予測して、「平年並み」と訂正された。気象庁では地球規模のデータに基づき、スーパーコンピューターを駆使して天気を予想するのだろうが、人間やコンピューターのちっぽけな能力では、大自然を予測できるのはほんの微々たるものである。大自然の力を忘れた思い上がりの人間が、自然を無視して一人歩きをしようとしても、永劫の平和と幸福を手に入れることはできない。

 

2月15日(土)の日記より

日中も締め切りの生活から、窓を開け放つ陽気が2日続いた。今日は遅めに荒川を散策してみると、陽だまりの草花が、早朝には見られない、全開の凛々しい姿を見せていた。河川敷は北西の風が幾らか吹いていて、春仕度の背中に冷気が伝わってきた。春と冬とが混在し、「踊子草 慌てて見せる 艶姿」などと、何とも言えぬ風流を感じた。

 

3月15日(土)の日記より

時間は、何をしようと、何もしなくとも、刻々と過ぎていく。テレビで偶然、100歳のおばあさんを見たのだが、その元気振りには驚かされ、かくも有効に時間を使ってきたのかと、感心させられた。人生何十年生きられるか分からないが、100歳になっても、達者に絵をかいて、思い存分楽しめるのは、正に人生の手本である。老化というのは個人差が絶大で、早々と老け込んでしまう人もいる。それは、無論寿命もあるだろうが、自らが日々どのように作り上げて行くかの結果ではなかろうか。時間に流されて生きるのか、それとも時間を作り上げていくのか、選択は自由である。

 

3月31日(月)の日記より

朝夕、近所の押しボタン式交差点を渡る。朝は散策、夕はジョギングで、2往復、計4回渡ることになる。押しボタン式信号から70メートルほどのところに国道407号と140号が交差する大きな交差点があり、いつも渋滞する。押しボタン式交差点の状況は、車がいつも連なっている。今日の例を見ると、押しボタン信号が替わって渡るとき、4回とも横断歩道は車で塞がっていた。大きな交差点で進みようがなく、停止線で停止していても状況は全く変わらないのに、10台に9台までが交差点内、又は横断歩道で止まってしまう。押しボタン式交差点は、朝には小学生が多く渡るが、交差点が塞がれて、おっかなびっくりで迂回して渡る姿を見る。老若男女問わず、けっして悪人ではないのだろうが、他人に対する気遣いを全くできないのが実態である。それは、思いやりを忘れた姿であり、自分の都合だけで世の中が動いていると勘違いしている。今日本で一番欠けているのが思いやりで、豊かさが全く感じられない。生きていく知恵や思いやりは、親から引き継ぐれるもので、肝心のお年寄りが、人間にとって大切な知恵を持たず、次の世代、次の世代と、人間性の欠如が引き継がれている。このままだと日本は滅びるのではなかろうか。

 

4月19日(土)の日記より

夕方のジョギングで荒川へ出向くと、土手を越える階段のところで、若い女性4人がたむろをしていた。階段を通せんぼする形で物が置かれ、仕方が無いので隅を通った。20分程で戻っても、相も変わらず通せんぼは続いていた。4人いれば一人ぐらい気を利かせて荷物を除けてあるのではとの期待を持ったが、残念ながら、気遣いを見せる人はいなかった。顔も見る気にならなくて、どんな顔つきをした人なのか分からないが、気配りのできない女性が多いのは確かなことである。自分さえ良ければいいのだろうから、他人に対して気を使うこと自体無意味な時代になってしまったのだろう。若い人だけでなく老若男女関係無く、世の中ひとりで成り立っているようである。我輩の経験からするなら、人間関係が生きることそのものだと感じているのだが、古い知恵より、テレビで報じられる最新情報が、生きる指針になっている。

 

4月25日(金)の日記より

今朝駅方面で事故直後の現場を目撃した。車とバイクの事故で、バイクの人は動きが取れない状態だった。散策などの道々で、事故が起こってもおかしくない人々を多く見かける。車は元より、バイク、自転車、歩行者と、危険極まりない交通マナーである。特に目に付くのは自転車で、どんな条件の交差点でもかまわず飛び出してきて、ぶつかりそうになったことが何度もある。自分の身は自分で守るしかなく、充分に注意しながら歩行をしていてもぶつかりそうになるのだから、危機意識の無い人が多い現代、事故が起こって当然である。何度も言うようだが、他人のことなど一切気にしない民族であり、自分の都合で世の中が動いていると錯覚している以上、とにかく自分で身を守るしかないのである。

 

5月4日(日)の日記より

ここ20年、我が家のゴールデンウエークの過ごし方はほとんど変わらず、出かけることが無かった。家の作業や、夏休みの旅行計画を練るなど、やることが決まってしまった。夏休みや、冬、春休みは混雑を避ける術があっても、ゴールデンウイークだけはどうにもならず、すっかり諦めていたのである。子供がまだ小学校の頃、子供たちに学校を休むように言って、平日に出かけようと思ったが、子供の反対にあって、それもあえなく断念した。世の中には奇特な人が多く、混雑を承知で、相も変わらず大渋滞をこしらえている。目的が何なのか分からないが、移動時間に大半を取られて、肝心のレジャーはおまけ程度なってしまう。日本人の几帳面さにほとほと敬服してしまう。

 

5月12日(月)の日記より

冷蔵庫を開けたら、いつ入れたのか全く記憶に無い、奥に追いやられた缶ビールが目に入ってきた。おそらくは昨年の夏場前に入れたと思われる。そもそも晩酌の習慣が無く、酒は元より、焼酎、ワイン、そしてビールも滅多に口にすることが無い。サラリーマン時代は付き合いで飲むこともけっこうあったが、自分から進んで飲んだことは一度も無い。アルコールに弱いと言うべきだろうが、飲む習慣があるかないかで強弱が決まって、飲む気が無ければ適応性があっても強くなれないのではなかろうか。酒を飲んだ後の心地を快感と取るべきなのだろうが、我輩には不快感でしかない。飲んでいる時間だけでなく、飲んだ後までいつまでも不快感が続くのが堪らなく苦痛であった。時間がもったいないと言うのが本音で、時間を忘れるために飲むなど、もっての他である。日々人生を楽しんでいると、その時その時が大切であり、時間を忘れなければならない理由が全くないのである。憂さを晴らす必要もないし、自分のしていることをじっくりと味わっていることがストレス解消になる。世の中、自由で豊かなのだろうから、酒を飲んで自分を忘れる必要はないはずである。ところが、テレビに出てくる、何でも思いのままになりそうな人気者は酒豪が通常で、飲んだら記憶が無くなってしまうのを自慢にしている。我輩にはどうしても理解できないところである。

 

6月2日(水)の日記より

就職に伴って、人生の区切りとまでは感じていないのだが、生活環境の改善を意識し、机周りを手がけてみた。パソコンを使いやすくするのが目的で、風通しや窓明かりの加減、照明器具の位置、棚などの利用方法など、より使いやすくしてみた。わずか一坪(3.3平米)に満たない空間が、手のかけ方次第で大きく変化する。片付けを物の移動に過ぎないと嫌味を言った人がいるが、確かに有り余った物を処分しないかぎり、本当の整理とはならないのかもしれない。いつか使うかもしれないと保存してある、何年も触れていない物が数限りなくあり、資本主義経済の一端を担ってきたのを実感しながら、捨てきれずに物の移動で当座を凌いでみた。環境がどれだけ改善されたか分からないが、何となく気分転換になる。

 

6月4日(水)の日記より

電車通勤をするようになり、列車内で携帯電話とにらめっこをしている人がいかに多いか、実態を改めて知った。街中でも携帯電話を片手で操作しながら歩いている人を多く見かけていたが、現代人にとって携帯電話は生活に欠かせないものになっているのだろう。携帯電話はどこでも電話ができればそれでいいと考えている者にとっては、生活に及ぼす影響は大したことはないが、にらめっこしている者にとっては、悲喜こもごもが凝縮された、生きる糧になっているのかもしれない。携帯電話が中心の生活で、人生をどれだけ広げられるのか分からないが、どうしてもちっぽけに思えてならない。

 

6月5日(木)の日記より

 自らの半生を考えると正に「我が道を行く」と言うのが相応しいのかもしれない。他人の影響をほとんど受けずに、自らの判断で何事も決めてきている。思い通りの人生であり、悔いは無いに等しい。唯我独尊、独りよがりに他ならないが、判断を下すとき、他人の意見を聞かないからと言って、自分のことに固執しているわけではなく、常に家族のことや仲間のことを意識してきた。人生の基本は人間関係で、人間関係を抜きにして人生の面白みはあり得ないと思っており、仕事でも、毎日の生活でも、どんなことを手がけるにしても、人生の基本が確立できていればこそ成り立つのである。「人生の達人」になるには、人間関係の重要性を認識するところから始まる。

 

6月6日(金)の日記より

 人間は心の持ちようで、何事も感じ方が異なってくる。特に人間関係は、笑顔を向けた相手からは、自然と笑顔が返ってくるもので、自らが笑顔をいかに作れるかがポイントとなってくる。しかし、多くの人間は自分から笑顔を向ける術を心得ておらず、中には馬鹿笑いや作り笑いはできても、笑顔を持ち合わせていない人もいる。それは、家庭生活の中で笑顔を学ばずに育ってしまうからである。笑わない赤ん坊が話題になっているが、親から虐待や放置されて育つと、赤ん坊の特権である、泣いたり笑ったりできなくなってしまうそうである。逆に言い方をすると、人間は泣いたり笑ったりして生きていくものであり、現代は本性を失ってしまった人間が多く存在することになる。人間としての感性が失われ、喜怒哀楽が無くなり、何事も義務的な行為となって楽しむことができなくなってしまうのである。同時に考えることも停止して、人間というより、操り人形かロボットと言ったほうが近いのである。

 

6月27日(金)の日記より

 荒川を散策していたら、袋一杯のゴミを撒き散らしているお年寄りがいた。黙っていられなくなり、「ゴミを撒き散らしているのですか」と、問うてみた。すると、「荒川の散らかっているゴミを集めてきた」と言って、いかにも心外そうにした。「それはすいませんね」と謝ったが、誰が見てもゴミを散らかしているとしか見えなかった。悪い人ではないのだろうが、子供たちが見たら、おそらく我輩と同様に感じたのに違いない。せっかく善行を行っても、やりかたによっては悪く取られてしまい、ちょっとした工夫ができないものか、疑問となってくる。ゴミゼロ運動が何日か前にあったばかりで、今回見たお年寄りのように、ちょくちょくゴミを拾っていても、荒川の各所にゴミが散乱していた。中には、今回遭遇したお年寄りを真似て、ゴミを散らかした者もいるのではないかと、ついへそ曲がりの想像をしてしまった。

 

7月21日(月)の日記より

昆虫の図鑑を見つけに本屋へ行ってみた。そこそこ大きな本屋で見つけてみたが、全く置いておらず、大きい本屋で見つけたら、手持ちの子供向け図鑑と大差の無いものが、わずかに置いてあるだけだった。昆虫に対する関心がいかに低いかと言う証である。犯罪の低年齢化が世の中を騒がせているが、昆虫に関心が薄くなったのと、無縁でないと考えている。昆虫に関心を持てば、世の中が変わるとは言えないが、子供たちが夢を見られなくなったと言えば、何となく納得できるのではなかろうか。現代の子供たちは親の価値観で人生が決せられ、夢の価値を知らない大人たちが子供に示すものは、塾通いと浪費癖である。良い子になって受験勉強をすれば欲しいものが手に入ると言うのが、現代の典型的な家庭教育ではなかろうか。生きていくには、身近なものとの関わりを無視することができず、むしろ、身近な生活を知ることが生きる術を学ぶことである。身近な人間関係を初めとして、身近な自然との関わりなど、生活関連の重要な基礎データを蓄えることによって、かけ離れた世界を想像することが可能になってくる。答えが決まっている受験勉強では、肝心な創造力を培うことできず、受験勉強ばかりしていると、バカになるとの論理が成り立ってくる。想像し創造することが夢をみることであり、夢を持てない人間は、浪費にうつつを抜かすしかなく、欲しいものを手に入れるためなら、犯罪もいとわないとの筋書きが出来上がってくる。

 

7月28日(月)の日記より

 雨がちの天気で、アウトドアライフも意気消沈と言ったところだ。それでも、雨が上がると、荒川河川敷でバーベキューをやっている若者を多く目にする。川の流れの近くで宴会を催し、自然との対話も楽しんでいると想像したいが、宴会の後に残ったゴミの山を見ると、自然との共存は全く考えていないのがよく分かる。今までの我輩の経験からすると、一人でもゴミの片付けを率先して取り組めば、他の者も抵抗なく、片付けはじめるものである。多くの若者が集っていたが、誰一人として片付けを提唱しなかったと思われる。人間の分別は、親から学び受け継ぐものであり、集まった100パーセントの若者が、ゴミは自分で始末することを学ばなかったようである。現代に起こっている社会的問題は、ごく一部の人間の、ほんの些細な出来事として聞き流したいが、自分の始末をつけられない人間が数限りなくいると考えると、表立たない事件が少なからずあり、一部の問題ではなく、総体的な傾向と考えるべきである。

 

9月30日(火)の日記より

 9月も今日で終わりとなり、今年も残すところ3ヶ月となった。今までの9か月、何事も思惑通りに進まず、生活面での進展はなかった。色々と手がけてきて、日々の生活は極めて充実していたが、全て自己満足であり、他人からすると少しも価値の無いことである。時代が移り変わり、人間が人間らしくあるべきと、どんなに強調しても、人間らしからぬ言動が、現代の人間らしさに打って変わり、新人類が完成した。若者文化と、中高年の文化は大きく違っているようであるが、中高年が古臭いのではなく、今までの経験で時代に翻弄されてきた苦い経験から、人間性回帰を目指しているだけである。省みることを知らない中高年は、金を儲けることしか頭に無く、言わば病的になっていて、自分さえ良ければ他人に迷惑をかけても少しも苦にしない。不良中高年が数多く横行し、犯罪も犯罪と感じなくなって、人間性とは程遠い世界を作り上げ、とことんずるく生きている。若者は若者で、影で不良を演じるのではなく、目にあまる暴走行為を繰り返している。見てくれは老若男女で大きな違いがあるが、本質的には人間性を見失っているだけで、それが正に現代的なのである。本来の人間らしさには老若男女関係無く、誰でもが同一に価値を感ずる世界で、心の結びつきから醸し出される、穏やかな満足がベースとなっている。これからの時代は、心の結びつきが希薄となって、機械的に何事も動かされるのが最良と信じて生きるしかないのである。

 

10月15日(水)の日記より

 社会の仕組みを考えてみると、様々なことに資格が設けられ、国家試験をはじめとして、塾や講習会、専門学校など、資格認定の種類は多種多様である。本来資格など関係なしに、人間としての資格、いわゆる人格と経験、技量と知恵が重要な仕事まで規定を設けている。それは企業化する上で、個人の技量の価値が高いと不都合が生じ、技量よりも机上の知識に重きが置かれ、企業が儲かるように、個人を縛り付けようとするものである。最近見直されているのが主婦の仕事で、何の資格も関係ない作業、家事を委任されて料金をとると言うものである。ボランティアなど、無償の奉仕は経済的な余裕がなければ不可能なことで、内容的にはボランティアそのものであっても、給与が支払われる仕組みは、貴重な思いやりと労働力を有効に生かす最良の方法である。現代は家事を軽んずる傾向にあるが、家族の生活を快適にする最も重要な仕事であり、誰でもが必要としている仕事である。現代は無くても困らない浪費企業、仕事が脚光を浴びる、本末転倒の社会である。

 

10月24日(金)の日記より

荒川ではススキが群生しており、散策をしていると、風にたなびく姿が目に入ってきた。朝日に照らされ、キラキラと輝いて、中々美しかった。何年か前までは、ススキはあまり見られなかったが、悪名高きセイタカアワダチソウが激減し、ススキが勢いを盛り返している。セイタカアワダチソウは繁殖力が強く、多くの草花を侵して生息地を広げ、生態系を変えてしまうので問題になっていた。ところが、繁殖が進むと、今度は互いに侵しあい、共倒れの現象が出てきて、次第に数を減らしたようである。申し訳程度に咲く姿は、黄色が引き立つ綺麗な花である。

 

10月26日(日)の日記より

 昆虫を知れば知るほど点の世界へ足を踏み入れていく。肉眼で確認できる世界も素晴らしいが、点にしか見えない昆虫たちも大きな魂を持っていると思われる。体長5ミリぐらいまでは何とか形が分かるが、さらに小さくなるとただの点としか映らない。命があるかどうかも定かでなく、接近したり、外的な圧力を加えたりして動くのを確認し、生命体と判定するしかないのである。手持ちのデジタルカメラはマクロ機能が無く、デジタルズームが3倍まで可能である。点の世界も外形を浮き上がらせることができるが、不鮮明で、実態を確認するまでにいたらない。2倍ズームぐらいなら何とか鮮明に撮影できるが、小さな姿なので実態はハッキリしない。点は点でしか過ぎないので、どんな営みをして、どれほどの種類がいるのか分からないが、我輩が撮影した昆虫の種類はほんの一握りと考えたほうがよさそうである。

 

11月5日(水)に日記より

 現代は金になることは一生懸命考えるが、自らの生活を快適にすることは置き去りになっている。毎日の生活をいかに豊かにするかが、人間が一番求めているはずなのだが、多くの者が、できるだけ多く買い込むことが、豊かさと勘違いしている。浪費の自由が最高の幸福と考えており、浪費のための資金をいかに稼ぐかが重要であり、働く目的になっている。そこには本来の生活は意識から消え、欲しいものを手に入れることしか考えなくなってしまう。買っても買っても欲求が満たせないと分かると、新たな欲望を夢想して、今度は金をできるだけ多く稼ぐことが目的になり、儲けるためには手段を選ばなくなる。世の中、大金持ちが増えたが、資産を多く持っていることに満足しても、生活そのものに満足している者は少ないのではなかろうか。稼ぎにならなくとも、日常生活をどれだけ快適にできるものか、とことん追求してみるのも面白いのではなかろうか。

 

11月6日(木)に日記より

 生活をどれだけ快適にできるものか考えてみると、様々な工夫ができることが分かってくる。全く形の無いものを形作っていく、想像と創造を合体させた、知恵をめぐらす作業である。例を上げると、我が家では裏口の出入りが多く、目的によって履くものが異なるので置き場に窮し、靴が散乱しないように、すぐに取り出せる履物棚を作ってみた。洗面所に、歯ブラシとヘアーブラシ立てを作り、大工仕事などの作業台と、天上まで手が届く踏み台を兼用した箱を作成した。物置ドアを、天気に応じて網戸と密閉が簡単に変更できるようにした。その気になると切りが無い。金をかけないようにしているので、捨てずに置いてあった廃品を多く利用し、大変細かで安価な作業であるが、効果は大きく、生活が大きく改善された。金にならない仕事でも、生活の効率性がアップしたならば、長い目で見ると非常に価値がある。

 

12月24日(水)の日記より

 我が家はクリスチャンではないが、クリスマスを楽しみにしている。特に我輩が先頭に立ってクリスマスを楽しんでいる。だからと言って特別なことをするわけではなく、我輩が甘党で、昔からケーキに目がないのである。誕生日と言ってはバースデーケーキを注文し、クリスマスと言ってはクリスマスケーキを注文してきた。クリスマスは1回であるが、バースデーは子供のみならず、女房殿や義父母など、年に何回もケーキを注文してきた。それも、子供が成人してから次第に注文回数が減り、今ではデコレーションケーキは食べきれないので、ショートケーキに替わってしまった。ケーキを買う店は、中学生からの行きつけで、40年以上の付き合いである。ダイエットブームで、ケーキ屋さんも大分影響を受け、全盛期の3分の1以下の売上になってしまったようである。ショートケーキを買いに行くと、クリスマスイブというのに、お客の姿は見られなかった。ケーキの味は昔と変わらないが、すっかり寂れた感じで、長年の愛好者としては残念でならない。一方で、お客が絶えない、新しい店も出てきた。我が家でもたまに買ってみるが、それほど美味いとは思えなかった。ただ、形が色々で、昔ながらスポンジをベースにしたものは少なく、目新しいものが売り物のようである。好みの問題なのだろうが、味よりも見てくれで価値を決める人が多すぎると、つい現代人をバカにしてしまう。