我ながら名言録2002年版

 三文文士映像日記は2001年の10月に開設し、日記を毎日書き綴ってきました。日記の文面には、我ながら面白いことを言っていると、自己満足できるものもあり、『我ながら名言録』として整理することにしました。

2003年5月5日

 

12月29日(日)の日記より

 今年も残すところ2日となり、新年に向けてより良い生活ができるように、今まで手がつかなかった家の仕事を躍起になってこなしている。ただ単に大掃除をするのではなく、家の中をリニューアルするのである。先日も触れたが、食堂にCDラジカセを持ち込んで、食事時などCDをかけて、バックグランドミュージックとして楽しんでいる。会話も弾み、食堂の居心地がすこぶる良くなって、席を立つのが遅くなってしまう。

昔から食事時はラジオをかける習慣があり、昔はFM放送のメインが音楽で、聞くに堪えないDJなど聞く必要がなかったので、特にカセットやCDを頼らなくとも間に合っていた。最近の傾向からすると、反応のあるごくごく一部のファンを対象に番組を作るようで、ほんの一握りの人間しか楽しめない、私的としか言いようがない放送がほとんどである。我輩の知り合いで、FM放送のファンが多くいたが、全員が音楽中心の放送局を見つけており、低俗なDJにほとほと嫌気がさしているようだった。FMファンの大半が同様な感想を持っているのではないかと思われるが、どういうわけか、悪くなる一方である。公共の電波を利用しているのだから、もう少し何とかならないものかと、腹が立っていた。それもCDラジカセで解消し、100円ショップで音楽CDを買ってきて、100万円とも感じられる心豊かな生活をしている。

 

12月10日(火)の日記より

 ニュース番組で痴呆を予防する試みについて報道していたが、テーマになっているのは考えることであった。何も考えようとしない、現代日本の国民性が、余計に痴呆を促進していると、つい言いたくなる。『三文文士映像日記』の主たる目的の一つに、「日々人生を創造する」ということがある。身近な空間の素晴らしさを見出すには、日々の生活をより発展的に作り上げていくことが必要で、正に考えることが重要なのである。夫婦関係や親子関係、食事のことや住まいのことなど、家族みんなで考え、協力し合ってよりよいものにしていくことが、生活のベースを確立することになる。互いに存在感を感じえることが、何をするにしてもやりがいになってきて、大いに満足が得られるようになる。現代はむしろ何もしないことを目的にしており、何をしてもつまらない、時間つぶしが目的の生き方になっている。

 

12月5日(木)の日記より

 人質立てこもり事件や、ホームレス暴行殺人、ATM現金強奪、ひったくりや盗難、置き引きなど、連日マスコミを賑わせている。自分には無関係と、つい考えがちだが、わが身に起こらないという保証は全くない。危機意識が薄れた日本人には、目の前にナイフを突きつけられても痛さが分からず、刺されて初めて命に関わる問題だと認識する。経済危機は鋭く研ぎ澄まされた「おおなた」にも関わらず、今が食えれば怖さが分からない。食えなくなるぎりぎりになって、どうしようか考えたのでは犯罪に走るしかない。今起きている事件の多くは人間性喪失と飢えからくるもので、ナイフの痛さの知らぬ政治家や資本家が、どんなに理屈をこねても、経済危機を乗り越えることなど不可能だ。

 

11月30日(土)の日記より

「身近な空間の素晴らしさを見直す」ことは、人間が生きていく上で非常に重要な営みであり、人生の足元を照らすことに繋がってくる。多くの人間が遠くばかり見て、自分らしさを見失っており、本来の幸福とは程遠い人生を送っている。熊谷では先日、中学二年生3人が、ホームレス暴行殺人事件を起こしたところであり、青春の真っ只中、「いかにつまらぬ日々を過ごしているか」との証である。現代の子供たちで自然と親しむ生活をしている者がどれだけいようか。自然から学ぶことは限りなくあり、特に自然体で生きるということがどんなことなのか教授してくれる。塾通いよりも自然観察のほうが遥かに価値がある。何もかもが人工的になってしまい、人間様もうらんかなで提示された人工美に右へ習いをし、十人いれば十人ともすっかり同じ事をしてしまう。いつも思うのだが、それは「空き缶に過ぎない」ということである。飲み物を入れる缶は寸分たがわず大量生産され、大変魅惑的なプリントが施されており、消費者の欲求をそそる。だが、飲んでしまった空き缶は何の価値もなくなって、すぐに捨てられてしまう。中味のない人間、すなわち、自らを持たない者は空き缶同様で、人工美の最たるものであっても、何の価値もないのである。自分の存在が分からなければ生きている意味が見つからず、人生の足元を照らすには、身近な空間をじっくり見つめなおす必要がある。

 

11月13日(水)の日記より

 散策で荒川へ向かう途中、住宅街を歩いていると、通勤で駅へ向かう自転車乗りが、交差点を猛スピードで曲がってきた。事故を未然に防ぐとの観点から、女房殿との散策は必ず右側歩行するようにしている。自転車乗りは右側道路から左折してきたもので、全くスピードを緩めておらず、寸前のところで衝突しそうになった。今までにもその自転車乗りは同じように猛スピードで曲がってきており、その中でも今日が一番ぶつかる可能性が高かった。思わず、「おっかないな」と言葉を発すると、相手は謝るどころか、にらみ返してきてすぐに行ってしまった。年のころは50歳前後、ごくごく普通のサラリーマンのようであるが、50年の年季で培ってきたものは良識ではなく、通勤で急いでいることが判断の基準であり、自分の都合で世の中が成り立っているとの常識なのである。現代は同様なことが多く、他者の気持ちに立ってものごとを考えることなど不可能になり、自分の都合でいいように解釈する、ありふれた人間が多すぎる。誰と言わず、多くの者が似たか寄ったかで、先日の日記をぶりかえすようだが、問題を提起しても皆他人事として受け止め、言っても意味のない話しである。

 

9月23日(月)の日記より

 我が家のインターネットは64Kbの速度でやってきたが、息子の要望もあってADSLへ変更することになった。日々更新でホームページを作成しているのでインターネットとの関わりは大変深いが、それ以外ではほとんど利用していない。今までの速度では、確かに画像が開くまでに時間がかかったが、それほど不自由に感じていなかった。逆に言うと、インターネットの価値がどれだけあるのだろうか。

一時はインターネットが無ければ夜も日も明けない感があったが、IT産業の思惑が外れて不況に拍車をかける結果となった。現代人にとっては、インターネット利用は指先で事足りる、Iモードで充分なのかもしれない。パソコンそのものが日常生活に馴染んでおらず、科学の発展と人間との関係が、経済優先の生活様式とあいまって、一心同体とはいかなったのである。考えることを忘れてしまった人間にコンピューターは価値がないのである。

 

9月8日(日)の日記より

 女房殿と散歩がてらにショッピングをしてきた。今はどこの店でも安売りが当たり前になっており、100円ショップが花盛りで、何でも格安で手に入る。特に衣料品は、素材は疑問だが、そこそこしゃれた服でも大変安い。今までにも安売り目的で買い物をしてきており、衣類は必要以上に揃っている。それでも安いと聞くとつい手を出してしまい、タンスを見て反省仕切りが、夫婦の会話になっている。今日も安さに引かれて足を止め、ついつい品物を吟味してしまったが、女房殿の「あるんだよね」との言葉を皮切りにそっぽ向いて、本当に必要なものだけを買って返ってきた。これで何とか現代病から開放されたかと思った。

 

8月28日(水)の日記より

 「英知」という言葉がある。人間の持つ能力をより多く発揮させることを、「英知を結集する」と言う。日本の経済は人間がどこまで馬鹿になれるのかという壮大な実験室で、高度成長経済の基本をなしたのは、人間の持つ狂気であり、英知が結実したものと程遠い。経済の破綻をきたすと雪崩落ちるように多くの企業が経営不能となっている。人間の知恵を生かせない結果であり、目先のことしか考えられない無能経営者が浮き上がってくる。失われた人間の尊厳をいかに取り戻すかが、現代に課せられた最大の課題である。

 

8月20日(火)の日記より

 車で国道を走っていてパチンコ屋の前を通ると、広い駐車場が一杯だった。我輩はパチンコをやらないので、パチンコの面白みや、どんな世代が集うのか全く想像がつかない。お盆が終わった平日であり、失業者の増大を考えると中には職についていないものも少なからずいることであろう。日本人の多くが危機意識の欠乏で、どんな厳しい状況や、危険な状況に置かれても、「何とかなる」「せわないよ」との感覚は拭えないと思われる。パチンコで生計が立てられるのであればいいのだが、多くは出費となって生活を圧迫しているのではなかろうか。藤沢周平の小説ではないが、江戸時代、幕末の不況下にあって、貧しさゆえにさいころ賭博で身を滅ぼした人間が数多くいたようだ。パチンコは公然の遊びで、一度に大きな金が動かないが、毎日気軽に遊べるので積もり積もるととんでもないことになる。現代は明治維新前の混沌とした時代に類似し、パチンコのみならず、博打が多くの不幸を招くのではなかろうか。科学がどんなに発展しても、人間は少しも進歩がなく、何度でも同じ過ちを繰り返し、歴史が繰り返される。

 

7月27日(土)の日記より

我が家の近くに押しボタン式信号がある。ちょうど国道407号と140号の交差するすぐ手前で、しばし渋滞している。押しボタン式信号でも、あくまでも交差点で、停止線もちゃんと描かれている。ところが、渋滞で先に進めないのに老若男女関係なく、交差点に停止する車が後を立たない。朝の通学時間帯など特に混んでいて、信号が変わっても横断歩道は塞がれ、児童は車のすぐ傍をおっかなびっくりで迂回している。交差点を塞ぐのは、マナーの問題だけでなく、交通ルールに違反しているのである。10台に9台が同様で、ルール違反をしていても罪の意識がなく、悪化する一方である。相手の立場を少しでも考えられればけっして起こらない事態であり、言い方を変えると、10人に9人は思いやりが欠如していることになる。

 

7月6日(土)の日記より

人生を楽しむには、遊び心がないと叶わない。自らの意思で遊ぶのであり、型通りの遊びを義務的にこなしていくのと根本的に違う。遊び心は空想が伴うもので、結果のないドラマを作り上げることである。結果が分かっている遊びは、遊びでなく、ただ単に義務である。「遊び」と名前がついていれば遊びで、「仕事」として位置付けられると仕事と受け止めて、少しも疑問を抱かないものが多い。むしろ、仕事にも遊び心を持つ必要があり、遊び心が新しい発想を育むもので、能力を発揮するための秘訣でもある。仕事を楽しみながら実績をあげられれば最高ではないか。仕事であれ、遊びであれ、義務的に時間を過ごしていたのでは単なる拘束になってしまう。言い方を変えると、自分らしさがどれだけ発揮できるかが重要なのである。

 

7月4日(木)の日記より

人間の欲求は他の動物と異なり、本能に基づく欲求だけでなく、多種多様な欲求が付随している。自らの創造力で作り上げた欲求もあるが、周りの影響を受けて欲求を募らせることも少なからずある。状況によっては、本当に求めているわけではないのに、情報に振り回され、必要と感じてしまう。ややもすると、本当に求めているものがぼやかされて、欲求を満たしつもりでいても、いつまでも不足を感じてしまう。全く意味のない幻想を抱き続け、大事なものを失ってしまう。それは家族関係にも言えることで、親が子供にしてやることは、自らが作り上げてきた実績に基づいて教授するのではなく、経済力がベースとなって、画一的な知識を植え付けようとしている。逆に言うなら、親自体が教授するものを何も持たず、親子で意味のない欲求を駆り立てあっているのではなかろうか。

 

7月3日(水)の日記より

誰でもが人生を楽しんでいるのであればよいのだが、嫁姑の問題がなくならないように、互いに楽しく向き合うよりも、相手のあらを探しあった生き方をしていることがある。子供の時代から「いじめ」が大きな問題になっており、時には命をも絶ってしまうことがある。誰でもが日々楽しく生きていられれば、「いじめ」をする必要がないはずである。「いじめ」の問題は、大人でも子供でも同じで、生活に抑えがたい不満があるからで、不満の捌け口が「いじめ」に結びついているのではなかろうか。豊かな時代のはずが、多くの者が、本当に必要な欲求を満たせない、貧相な生活となっているのである。

 

7月2日(火)の日記より

はたして、「人間は人生を楽しむために生きている」などと、のたまった偉人がいるかどうか知らないが、「何のために生きているのか」と問われて、すぐに答えが出てくる人は少ないのではなかろうか。むしろ、何も考えずに、成り行き任せ人任せになってしまう人間のほうが多いのではなかろうか。

 自分の人生は自分で築くしかないのだから、自分のことがよく分かっていないと、自分に最も相応しい人生が築けない。又、生きていくための知識や知恵がなければ、宇宙に放り出されたようなもので、どちらに進めば良いのかさっぱり分からない。誰でもが当たり前、一人前の顔をしているが、本当のところは大人になりきれないのが実態で、人生を見つめることなく、時間を無為に浪費しているのではなかろうか。

 

6月20日(木)の日記より

 時代は、人工美の追求に終始し、自然体で生きることをおろそかにしてきた。身近な空間に、限りなく素晴らしい世界があるのに、多くの者は背伸びをして遠くばかり見ている。時には足元に目をやることが肝要で、生活の機軸を確立する必要がある。通常という目安がなければ、特別なものを見出すことができないのである。自分が本当に求めているのが何なのか分からない人間が少なからずいるのではなかろうか。